俺はしゃがみ、空を見つめている女の瞳を見ていた。やっぱり綺麗だと思った。ヘーゼル系の、明るい茶色。
 その目にはもう、輝きが灯ることはない。輝きを奪ったのは他の誰でもない、俺自身だ。
 そのまま茶色の瞳に見惚れていたら、パトカーのサイレンが遠くから聞こえた。きっと大丈夫だ、俺じゃないと思ったけれど、その音はどんどん近づいてくる。
 いざ音が近づいてくると、俺は怖くなった。死にたくなかった。自分で終わりにしようとしたはずなのにな。笑える。
 だから逃げた。逃げた先でまた、人を殺した。
 どうせなら、ことごとくクズになって死んでやろう。そう思った。
 今俺と璃恋が暮らしているこの家も、人を殺して手に入れたものだ。表札は元々なかったし、隣人も誰ひとりとしていなかったから丁度よかった。こんなオンボロアパート、誰も住みたくないのだろう。
 いつしか、人を殺すことに躊躇がなくなった。適当に金を持っていそうな人を選んで殺すようになり、銃とナイフを振り回している最中にひとりの男にそれを見られた。
 にへらっと笑って俺に近づいてきたそいつは、後に俺の上司となる。
 その上司から依頼を受け、金を受け取って仕事にするようになった。最もこんなクソみたいな行為、仕事だなんて言えないが。
 愛とか恋とか、そんな綺麗なものとはまるっきり縁がない。自分でそれを手繰り寄せようとも思わないし、この薄汚い人生でも良いと思っていた。
――寂しい。
 これでいい。割り切ったはずなのに、どこか寂しかった。


*

 仕事を始めて数年が経った頃、ひとつの依頼を受けた。
[とある男を殺せ。借金を返さず、それどころか借金を増やしている男だ。とことんやってくれて構わない]
 毎回依頼と一緒に標的のデータも送られてきているのだけれど、そんなものを見たことはない。別にどうだっていい。どこの誰だろうが、俺は殺すだけだ。
 いつもと同じ、薄汚い夜の路地裏。そこで標的と出会ったとき、俺は息をのんだ。
「あれ、たくみぃ?」
 ふわふわとした喋り方と足取り。酔っているのだろう、顔が赤いし酒臭い。特別近い距離にいるわけでもないのに、感じる酒の匂い。俺と過ごしていたときと変わらず、常に酒を煽っているのだろう。
「おぉい、忘れたのかぁ?父さんだぞ、父さん」
 忘れるわけがない。忘れたくても、忘れられない。
 気持ち悪い喋り方、ヤニが着いた黄色い歯。女に囲まれ、デレデレしながら鼻の下を伸ばす仕草。
 父親のすべてが気持ち悪く見えて仕方なかった。まぁ、俺も人のことをとやかく言える分際ではないけれど。
「忘れてないよ、父さん」
 隠した銃から手を離し、父親の隣に並ぶ。決して油断したわけではない。その気になればいつでも殺せる。酔っている上にもう年が行っているから大して素早い動きでもできないだろう。
 ただ少しくらい、話してみようかと思っただけだ。
「どうだぁ、最近は。仕事は何してるんだぁ?」
 必ずと言っても良いほど伸びる語尾が気持ち悪い。昔からこんな喋り方だったっけな。一緒に住んでいた頃は何にも思わなかったはずなのに、今になってどうして不快感を覚えるのだろう。
――お前を殺すことが仕事だよ。
 なんて。口が裂けても言えないし言えない。
「それなりにやってるよ。まぁまぁ楽しいし」
「そうかぁ。あれだ、彼女とかはどうなんだよ」
 出会って数分、挨拶もそこそこに、急にそんな話を切り出してくるもんだから笑える。親だろ。もう十年近く会っていない自分の息子だろ。普通、女の話なんて聞くか?
 女に関するワードが出てくると、すぐに媚びへつらうような口調になる。いい女をお膳立てしてもらおうとでも思っているのだろうか。
「……今はいいかな、彼女とか。仕事が楽しいし」
 半分嘘で半分本当。彼女がいらない、というのは本当。もうひとつは、嘘。
 この仕事が楽しいかと聞かれれば、俺は返答を迷う。楽しくないわけではないが、かといって常に楽しいわけでもない。恨みを買って追われることだってあるし、毎日死と隣り合わせだ。やりがいも楽しさも喜びもクソもない。
 ただ唯一、己の手で誰かの命を奪ったときだけ――その一瞬だけ、心が満たされるような感覚がする。楽しいのはその一瞬だけなのだ。それ以外の時間は、生きているような心地がしない。
 正直、もうやめたいと思ったこともあった。もういっそ殺してくれと願ったこともあった。しかし誰も俺を殺してはくれない。もう少しで死ねると思った瞬間にその道は砕け、儚く散っていく。
 生きていたくないよ、もう。苦しいよずっと。どうしたらいいかわからなくて、ずっとひとりで、寂しくて、毎日が長くて、苦しくて、苦しくて――
 それでも世界は俺を生かし続ける。死にたいと願う人間を。生きたいなんてこれぽっちも思ったことがない人間を。
 ただ、一瞬だけ、からっぽの俺の心が満たされる瞬間があるなら。その一瞬のためだけに、生きる。
 だから俺が生きていくには――この"仕事"を、続けていくしかない。
「……そろそろ終わりにしようか」
 俺の隣で父親はぺらぺら喋り続けているが、会話がつまらなくなってきた。パチンコで今日も負けただとか、最近通い始めたキャバクラに良い子がいるんだとか、くだらない話ばっかり。それに、さっきからずっと眠気がする。早く帰って寝たい。
「……ごめん、そろそろ帰るわ。父さんだって忙しいでしょ?」
「え?あぁ、まぁな。じゃあまたな、拓海」
 そう言って歩き出した父親の腕を掴み、何も言わずに引き留める。俺は同時に、腕を服の中に突っ込んだ。
「なんだぁ?たく――」
 名前を最後まで呼ばれる前に、素早く手を出し、顔面に向けて何発か撃った。至近距離で撃ったから顔の肉が崩れ、もう誰だか分からなくなっている。
 心臓に銃を突きつけ、引き金を引いた。身体がどくんと跳ね、すぐにずるずると崩れ落ちる。狙いを外した感覚はなかったから、おそらく即死だろう。
 顔から噴き出した返り血を胸の方に浴びてしまった。それは俺の服を赤く染めている。また洗わなきゃだな。最近何度も洗ってやっと綺麗にしたのに。
 服を汚した紅を見つめているうち、少しでも父親の血に触れてしまったことが気持ち悪くて仕方なくなった。
――俺も、その父親の血が流れているというのに。
 どしゃりと投げ捨てるようにそれを地面に置いた。もう既に形がほぼなかった顔がより潰れ、もう何も分からなくなった。
 これで父親と母親、どちらも亡くした。
 片方に至っては、俺がこの手で手にかけた。
 悲しくもない。罪悪感なんて微塵もない。むしろ、機会があれば殺したいとすら思っていた。あんな人たち、いやあんな人か、どうでもいい。


 生きる希望なんて、とうに捨てた。
 あの日、路地裏であの女を殺した日から、俺の人生は狂いだした。いやもうずっと、狂っていたのかもしれない。ただ狂うスピードが遅かっただけでそれに気づいていなくて、あの日俺は俺の手で、速度を操作するゼンマイを巻いたのだ。もう一生分早く動くよう、巻いた。
 生まれたときから俺は、こうなる運命だったように思う。
 人生なんてどうにもならない。生まれた瞬間から俺は影の中にいて、明るい道を歩けたことなんてなかった。明るい道を歩きたいとも思わなかった。
 俺はもう、暗い場所にいすぎたから。今更日の光の下には戻れないのだ。深夜の薄汚い路地裏が、俺に一番似合う。