第4節 かこ
1
生まれたとき、俺の周りにろくな大人は誰ひとりいなかった。
母親は俺を産んですぐに死んだ。出産時の大量出血が原因だって。父親はギャンブルに金をつぎ込んでは、失敗だらけで借金を繰り返していた。
そんな親だったから、こんな人間になってしまったのだろう。
中学生までは父親とふたりで暮らした。
父親は金を稼ぐどころか無駄遣いばかりしていたから、高校生だと年齢を偽ってバイトをした。年齢がばれそうになったらすぐにやめて、また新しいバイト先を探す。バイト先なんていくつあっても足りなかった。毎日のように借金を作ってくる男が家にいるのだから。
高校には行かなかった。というより行けない、の方が正しいのか。
本音を言うなら、そりゃ行きたかったよ。周りは高校受験とかを必死に考えてる中、俺だけが何にも考えてない。いや考えてるんだけど、その内容が違いすぎる。家にある大量の請求書をどうするかとか、今日のご飯は食べられるかとか、そんなことばかり。友達もろくにいなかったから、誰かに頼るようなこともできなかった。
高校も行けなくて、俺が持ち合わせていたものは大してなかったけれど、唯一持っていたのは自分の身体だ。なぜか顔を褒められることだけは多かった。だったら、使うしかないだろう。
昼は時給の悪くないバイトに入り、夜は水商売で稼ぐ。女の嬌声ばかりが飛び交う場所から家に帰り、気を失ったように眠る。バイト三昧の日々が苦痛だとは思わなかった。人生自体、苦痛のようなものだ。
ただ、水商売の仕事だけは、唯一何年も続いた。特に楽しいとも思っていなかったはずなのに。
たとえ嘘であろうと、己の欲のためであろうと、なんでもいいから誰かに必要とされたかった、からなんだろう。
そうした日々をどれだけ続けただろう。
あるとき、ひとりの客があるものを残していった。
客の服の間から滑るように落ちてきた、黒くてつやつやとした物体。どれだけ世間と切り離されていた俺でも、それが何の道具なのかは分かっていた。
そして、それは簡単に人を殺せるということも。
俺はその道具をお守りのように、ずっと大事に持っていた。服のポケットに入れて、たまにその感触を確かめる。
今思えばポケットに入れておくなんて考えられない。何かの弾みに安全装置が外れて、引き金が引かれたりでもしたらどうするんだ。なぜか銃には実弾が入っていて、落としていった客を怖く思うと同時に、これで俺は人を殺せるんだと高揚感が湧いた。もうこの頃から俺は狂いだしていたのかもしれない。
突っ立って次の客を待ちながら、ポケットに腕を突っ込む。
銃のひやりとした感覚が心地よかった。
*
初めて人を殺したのはいつの時だっただろう。確か――二十歳を過ぎた頃だった気がする。
「あいつ、死なねぇかな」
水商売の店で、仲がよかった奴が放った言葉だった。
上手く周りに馴染めない俺に話しかけてきてくれたいい奴で、だからこそそんな物騒な言葉が出てくるなんて驚きだった。
「あいつって、誰のこと?」
「俺のこと毎回指名してくるやつ。しつこく本番強要してきて、マジ気持ち悪い。勃たねえっつうの」
未だぐちぐちと俺の隣で文句を垂れている。
――役に立ちたい。
そう思うと同時に、ポケットに手を入れた。
いやだ、だめだ。人を殺すなんて犯罪だ。
でも、困っている人がいる。誰かがいなくなることで安心したり、嬉しく思う人がいる。その人が、俺の隣にいる。
「ほんっと、誰か殺してくんねえかな。金ならいくらでも出すのに」
銃を握る手が汗でべたつく。
「……その人、どんな人?見た目とか、名前とか」
「え?えっと、必ず毎週末に――」
名前と見た目、ある程度の情報を入手したところでスタッフから声がかかり、俺は部屋に入った。
心の奥底に生まれた、冷たい感情に身体が脅かされる。じわじわと、その感情に身体が浸食されているような気がする。
いくら人生を棒に振ったといえど、人を殺すなんてやってはいけない。でも、でも。
困ってるんだぞ、友達が。向こうは友達だと思ってくれてないかもしれないけど、俺からしたら大切な友達なんだ。一緒にご飯だって行ったこともある。お互いの家に行ったことだってある。こんな些細な悩みも共有してくれている。じゃあ立派な友達だろ。
友達が困っているというのに、俺は何もしないで、ただ見ているだけなのだろうか。そんなの嫌だ。
よく分からない言い訳ばかりが身体の内側に積もっていく。手が震える。力が入らなくなって、上手く物を握れない。
――もう、いいか。
ぎりぎりのところで持ちこたえていた何かが、途端に腐って溶けていくような気がした。
踏み外しに踏み外した道だ。もう、自分で終わりにしてしまおうか。他人に終わりにさせるより、自分の手で終わりにしたい。
俺はポケットに手を入れ、銃をするりと撫でた。
*
「あ、来た。あいつだよあいつ」
受付をしていた俺に、後ろから声をかけてくる。
視線の先に、この間写真で見た女がいた。女はただ椅子に座って携帯を見つめている。液晶画面に触れている指は慌ただしく動いている。
声をかけるなら今しかない。俺は後ろにいる彼に指名が入ったから部屋に行けと指示を出し、彼がいなくなったのを確認してから受付を出た。
「あの、すみません」
「はい」
女が顔を上げる。くりっとした目鼻立ちが特徴の、可愛らしい女性だった。どうしてこんな綺麗な人を殺したいとまで思うのか、俺にはよく分からない。
その通り人の心というのはよく分からないもので、誰かにしか分からない気持ちがいくつもある。喜び、悲しみ、怒り、恋、愛、そして憎悪。
俺を見上げる彼女の瞳は、美しい茶色だった。ゆらゆらと揺れるそれに、俺の思いも揺れる。
やっぱり、人殺しなんて。やってはいけないことだ。犯罪だ。だめだ。だめだ。そう強く自分を抑え込もうとする度、同時に甘い罠が俺を誘う。
いいじゃん、人殺しくらい。やったってばれないって。ばれなきゃ犯罪じゃないんだよ。大丈夫。大丈夫。
甘い罠というのは人間を誘い込むには容易すぎて――俺は、簡単にそれに搦め捕られてしまった。
「――少しお話があって。お時間宜しいでしょうか」
その一言を口にしたときから、俺の人生の歯車は狂いだした。
手を引いて路地裏に連れ込み、女に向き直る。
「何ですか、話って」
何も言わずに女の身体を引き寄せる。そのまま抱きしめ、温もりを感じたあと、俺はポケットに入れていた手を出した。
その手には、
――銃が握られている。
激しい銃声が響いたあと、女の身体は重力を失ったようにぐらりと傾く。俺は銃をポケットに戻した。
「おい、お前!!」
店の方向から声がする。誰かが走ってきた。誰かと思えば、たった今鼓動が止まった女を嫌って死んで欲しいとまで行っていた同僚だった。
「……まさか、これ、お前が?」
彼がだらりと力が抜けた腕を取る。そして俺を見つめる。俺は今、どんな顔をして立っているのだろうか。
「うん、そうだよ。俺がやった」
目の前の男はその言葉を聞くなり、がたがたと身体を震わせ、叫び声を上げるとどこかに走って行った。
どうしてだろう。喜びもせず、感謝もせず、あいつは去って行った。
あいつが死んで欲しいって言ったから、俺は人生を棒に振る覚悟でやったのに。