「ただいま……」
 拓海くんが階段を上ってくる音がする。
 起きているのがばれないように、拓海くんの"仕事"を見てしまったことがばれないように、わたしは目を閉じた。
 すうすうと寝ているふりをする。拓海くんはわたしの頬に触れ、頭をさらりと撫でた後に部屋から出て行った。
 今までなら、こうやって頭を撫でられることも嬉しかったはずなのに。嬉しくてたまらなくて、些細なことでも大事な思い出になったはずなのに。
 布団をぎゅっと握りながら、すべてから逃げたくて目を閉じた。
――なんだか、息が苦しい。
 その夜は、ひどく長く思えた。

*

 翌日の朝は、何事もなかったかのように普通だった。
 いつもと全く変わらなくて、逆にそれに怖気付いてしまうくらい。
 拓海くんもなにも変わっていなかった。いつもと同じ笑顔で、いつもと同じような台詞。
 変わらない日常の中で、わたしだけがどこか違う。
 油が差されていないロボットのように、わたしだけかくついている。何かフィルターでもかかっているのか、世界の色が褪せているような気がする。
 わたし達は何度も何度も、同じ日常を繰り返していくのだろうか。
 昼は拓海くんと一緒にどこかに行ったり、家でゲームをしたり。夜は、わたしは家にいる。
 拓海くんは、人を――
「璃恋?」
 隣で味噌汁を啜る拓海くんが言う。今まで気にならなかった、些細なことが気になってしまう。
 何なのか分からない、拓海くんの匂い。持っているハンカチについた、茶色っぽくなって取れないシミ。
 それらが何なのか、今ならすべて見当がつく。
「……拓海くん」
 もしここで、わたしがすべてを言ってしまったらどうなるのだろう。
 あの男達と同じように、わたしも殺されるのだろうか。
 それとも、拓海くんはわたしにすべてを打ち明けてくれるのだろうか。
「昨日の夜、何してたんですか?」


4

「昨日の夜、何してたんですか?」
 恐る恐る、璃恋が聞いてきた。
 やっぱりか。
 薄々気づいてはいた。
 昨日の夜、後ろから聞こえてきた、子猫の足音。それは璃恋のものではないかと、携帯を拾ってポケットにしまった直後に思った。毎日一緒にいるんだ、お互いのことなんて分かってきている。
 璃恋はいつも楽しいことがあると飛び跳ねるように歩いた。走るときもそうだ。軽やかに、リズムよく走る。だから、子猫のように聞こえた。
 だとしたら、俺が仕事をしているところも見られている。
「……なんで?」
 味噌汁のお椀と箸を置きながら言った。こんなことを言ってもどうにもならない。ただすべてを言うまでの時間を引き延ばしているだけだ。
「見たんです、わたし。拓海くんが、人を……」
 璃恋が口ごもる。言いにくいよな、そりゃ。人を殺してる、だなんて。
 さぁ、俺はどこから話そう。昨日の夜のことから?それとも、俺の人生の最初から?
「そうだよ。俺、人殺しなんだ」
 そう言って、コップの中に入った深い茶色の液体を飲み干す。苦みが喉に引っかかる。
「なんで、人を殺すんですか。それに昨日は、仕事だって」
「人を殺すのが仕事だよ。俺の」
 自慢気に言った。俺はこれしか能がない。俺からこの仕事を奪ったら、きっとなにも残らない。
「どうして、人を殺すんですか。教えてくれませんか」
 璃恋の目が潤む。俺の過去を、璃恋に背負わせて良いのだろうか。
 いや、だめだ。俺の過去は、高校生の璃恋が背負うには重すぎる。重くて、醜くて、穢れたものだ。そんなものを、璃恋に背負わせてはいけない。
「……そんな、話せるものじゃないよ。俺の過去なんて」
「いいです」
 手が重なる。伝わってくる温度は、俺には温かすぎる。こんな温かいものに触れて良い人間じゃないんだよ、俺は。汚いものに触れて、塗れて、離れられないくらいが丁度良い。
 俺は璃恋と出会うまで、どん底にいた。澱んで澱んで、もうどうしようもないくらい、どん底に。
 ドブに塗れた、汚い捨て猫みたいなものだ。
「……長くなるよ、話すと」
「いいですよ、どれだけ長くなっても。ぜんぶ聞きます」
 その声に感化されるように、俺は、ぽつりぽつりと過去を話し始めた。