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 拓海くんが仕事に出て行って少ししてから、リビングの机の上に置かれた携帯に気がついた。仕事に携帯は必要なのだろうか。まぁあるに越したことはないだろう。
 拓海くんの携帯を取り、着ていたパーカーのポケットに突っ込む。携帯を届けようと思った。拓海くんはいつも歩いて仕事場に向かっている。出て行って数分しか経っていないから、走れば間に合いそうだ。
 "仕事"とは、一体何なのだろう。ぼんやりとした煙に包まれたそれの真相を、わたしはまだ知れていない。
 一度だけどうも知りたくなって、家を出た拓海くんの後をつけたことがあった。その時拓海くんは路地裏を通り、スーパーに入っていった。スーパーで働いていたのかな、なら隠すことでもないじゃん、と思いながらその時は家に帰った。
 その時は何も違和感を持たなかったが――あとになって思い返すと、ひとつだけ不審な点があった。
 わたし達が出会った日。一緒にスーパーに行って、買い出しに行った。その時拓海くんは、スーパーに来るのが久しぶりだと言っていなかったか。
 働いているんだとしたら、久しぶりなんてことはないんじゃないか。毎日、とは言わないかもしれないけど、週に何回かは、あのスーパーに行っているんじゃないか。
 じゃあ拓海くんの仕事は何なのか。分からない。知りたい。もしかしたら今日、それを知れるかもしれない。
 飛び出してきてしまったものの、どこに行くかの見当はついていなかった。取りあえずスーパーにでも行ってみようかと思い、走り出す。まだ近くを歩いている可能性もあるから、走りながら彼の姿を探した。
 ふと視線をやった路地裏――影が、ゆらりと揺れる。なんだか、その影は拓海くんのものだという気がした。確証はない。用心しながらそっと近づくと、一目では見つけられないような場所に拓海くんはいた。
 家を出て行った格好と同じ。薄手のパーカーを羽織って、どこかおぼつかないような足取りで歩いている。ビールの缶を何本か開けていたからそのせいだろう。
 深すぎる闇に目が慣れない。目をこらして拓海くんを見ていると、誰かが拓海くんの前に立ちはだかるようにして立った。
 誰だ。よお、とまるでどこぞのヤンキーみたいなあいさつ。酔って拓海くんに絡みでもしたのだろうか。分からない。未だ目が慣れない。
 ポケットの中で、拓海くんの携帯が震えた。そうだ、わたしは携帯を渡しに来たんだった。こんなことをしている場合ではない。声をかけようと足を前に出した、その瞬間――
――何かが弾けるような音が、辺りに響いた。
 何だ、と思った瞬間、先程の場所に拓海くんの姿はなかった。数メートル離れた先、拓海くんは男に黒光りする何かを向けている。
 何?拓海くんは何を持ってる?黒くて、つやつやとしていて、手に握れるなにか。
 もう一度弾けるような音がして、拓海くんの目の前にいた男が倒れた。真っ赤な血をまき散らして、倒れていく。
 銃だ。やっと理解した。わたしにはなじみがなさ過ぎて分からなかった。拓海くんがその手に持っているのは、銃――
 気づいた瞬間、口を手で強く押さえた。そうでもしないと、何かが溢れてしまいそうだった。叫び声、どろどろとした気持ち、あとはせり上がってくる何か。
 どこからやってきたのだろう、男が拓海くんに飛びかかった。あぁ、と小さく声が漏れる。やめて、拓海くんに触らないで。そう思ったのも束の間、男が汚い叫び声を上げて拓海くんから離れた。
 男の胸元には、ナイフが突き刺さっていた。
 拓海くんは涼しい顔をしながら男の胸に刺さったナイフを抜き、また現れた男にそれを突き刺す。ナイフを持っていない方の手には銃が握られていて、その手からまた弾丸が放たれる。ナイフの刃先がぷつりと男の肌に埋まる。
 男の断末魔が何回も何回も響き渡って、紅い華がいくつも咲いては散っていく。
 手で押さえた口から、ひゅうひゅうという呼吸音と、がたがたと歯がぶつかる音が漏れる。銃とナイフを握る拓海くんを見つめたまま、わたしはその場から動くことができない。
 パーカーのポケットの中、携帯が震えた。同じように、いやそれ以上に震えている手で携帯を取り出し、電源を入れる。待ち受けは遊園地に行ったときに撮ったふたりの写真だった。
 どうして?彼は人殺しだった?どういうこと?
 ぐ、と胃から何かが上がってくる。飲み込もうにも飲み込めない。空気が上がってくる音がしたあと、地面に顔を向けて吐いた。
 何もできないまま、その場に蹲る。
 ぱんぱんと空気を裂くような銃声が、何度も聞こえてくる。わたしは耳を塞いだ。もう聞いていたくないと思った。すべてを遮断するように、目も閉じる。
 わたしの手のひらじゃすべてを塞ぎきれなくて、銃声は手を貫通して耳に入ってくる。誰かがもがき苦しむような声が聞こえてくる。
 いつの間にか溢れていた涙が一筋、頬を伝っていった。



 やっと銃声が止んだ。
 蹲って耳を塞いで、聞こえてくる音が止むのを待っていた。どれだけの時間が経ったのだろう。
 一瞬のような気もするし、永遠のように長い時間のような気もする。
 頭がクラクラする。ずっとふわふわと浮いているような感覚だ。生きている心地がしない。
 薄汚い壁に手をつき、立ち上がる。それと同時にまた胃から何かせり上がってきた。壁に手をつき、下を見ながら吐いた。吐瀉物が地面に落ちて跳ね上がる。
 拓海くんはどこだろう。吐いた影響なのか、胃がねじれるように痛い。喉の奥に何かがつっかえているように感じる。
 荒く息をしながら周りを見回し、拓海くんを探した。電池がないのか点滅しているライトの下――拓海くんはタバコを口にくわえていた。
 行こう。携帯を渡しに。話がしたい。何をしていたのか、拓海くんの口から聞きたい。でも、聞きたくない。
 そう思いながら重たい足を引きずり、少しずつ歩いた。タバコ、吸うって言ってたもんな。タバコ吸うのってなんかかっこいいな、とか思ってたから、いつか拓海くんが吸っているところ、見られたらいいなって思ってたのに。こんな形では、見たくなかった。
 何とか拓海くんの後ろまで来た。一度物陰に身を潜める。
 声をかけるべき?でも、なんて言ったら良いんだろう。わたしの足元には男の身体が転がっていて、地面はほんのりと赤みを帯びている。この状況を見て、しらばっくれることなんてできやしない。
 ポケットから携帯を出す。何か言おうとしても、何度も吐瀉物を吐き出した口はからからで動かない。
 半ば取り落とすような形で携帯をその場に落とし、逃げるように隠れた。音に気づいた拓海くんは空に銃を向け、汚いものを見るような目をしている。
 その視線に寒気がした。刺すような、ひどく冷たい視線。拓海くんがいつもわたしに向けてくれる視線とは違いすぎていて、温度差に風邪を引きそうだ。
 未だわたしの中に残る冷たさを振り切るように立ち上がり、家に向かって走り出す。息が荒くなって、瞳から大粒の涙がこぼれる。途中で何度も足がもつれて、転びそうになる。
 何とか家について、大きい足音を立てて階段を上って、寝室に入ってベッドに飛び込んだ。溢れる涙を拭って、必死に深呼吸をする。落ち着け、落ち着け。
 ふうふうと深呼吸を繰り返していたら、ガチャリと玄関の扉が開く音がした。いつもなら嬉しい拓海くんの帰りが、今日はどうにも恐ろしい。