「わたし、お風呂入ってきます。ごちそうさまでした」
 お皿をまとめて流しにおき、近くに置いておいたパジャマ類を手に取る。
 リビングを出て洗面所まで歩いた。リビングから洗面所まではそれ程遠くない。なのに、今日はいつもの何倍もある気がした。
 洗面所に入り、扉を閉め、パジャマ類を床に投げる。そのままやけくそのように服を脱いだ。音を立てて風呂場の扉を開ける。
 八月だというのに、風呂場はなんだか寒い。
 早くこの寒さを消し去りたくて、チャプンと大きな音を立てて湯船につかった。
 ゆらゆらと水面は揺れている。
 わたしの心も同じように揺れ動いている。好きです。たったその四文字。何度も言うシミュレーションはしていたのに、いざ好きな人本人を目の前にすると上手くいかない。
 手でお湯をすくって、顔に勢いよくかけた。
 顔からぽたぽたとお湯が落ちていく。
 水面は変わらず、ゆらゆらと揺れている。


2


「……嫌じゃない、って言ったら、どうしますか」
 思いがけない言葉に、思わずプルタブにかけた指が止まった。
「何、お世辞?笑わせようとしてくれてんの」
「本気ですよ」
 俺を真正面から見つめる璃恋の瞳は、いつになく真剣だった。璃恋の口がゆっくりと動き、言葉をなぞる。
 璃恋の口から発される言葉が何なのか、分かっているようで分かっていなかった。会話の流れからすると、予想はできる。でも、そのような想いを璃恋が俺に抱いてくれているとは到底思えない。
「……拓海くん」
 璃恋の声を追いかけるように、部屋に機械音が響いた。
 璃恋は何かを諦めたように下を向き、唇を噛んでから顔を上げた。
「わたし、お風呂入ってきます。ごちそうさまでした」
 ドアが開く音がして、璃恋が部屋から消える。内心安堵した。
 璃恋が言おうとしていたことは、俺たちの関係を変えてしまう大きなものだ。
 何を言おうとしていたのか分かるのだから、璃恋の気持ちもなんとなく分かる。きっと俺と一緒だ。
 お互いに言えたら、幸せになれるのだろう。手を繋ぐことも、ハグも、キスも、それ以上のことだって、楽にできるのだろう。
 それでも、今のこの関係を変えたくない。付き合っているわけでもなくて、だからと言って仲が悪いわけでもなくて。
 お互いがお互いに寄りかかることもなく、ただ一緒にいるだけ。
 自分でも何を考えているのか分からない。俺は何がしたいんだろう。璃恋とどうなりたいのだろう。唯一分かっているのは璃恋が好き、ただそれだけだ。
 いっそのこと好きだと言ってしまおうか。いや、でも、それはなんか違う気がする。何をそんなに躊躇っているのだろうと思うだろう。俺だって思ってる。なんでそんな躊躇ってんだよ、踏みとどまってんだよって。
 うまく言語化出来ないけれど、大きく関係が変わってしまうような気がするのだ。璃恋は本当の俺を知らない。だからこそ、俺を好きになってくれたのかもしれない。
 もし、俺の本質を知ったら?クソみたいな人殺しだって知ったら?
 きっと璃恋のことだ、なにも変わっていないように接してくれるだろう。ただ、表面上では変わっていないように思えても、些細な傷がきっとどこかに入る。そして少しでも傷が入れば、俺たちの関係はすぐに壊れる――
 それくらい、脆いものなのだ。
 ゆっくりとした動作でプルタブを起こし、戻す。ぷしゅっという爽やかな音がした。
 ひやりとした缶を口に当て、ぐいっとビールを口に流し入れる。
 ビール特有の苦みとシュワシュワとした炭酸が、喉を通っていった。


 夜といえど、八月になると暑い。
 だからと言って半袖でいるのは嫌なので、薄手のパーカーを羽織って家をあとにした。
 先程飲んだビールの酔いが来ている。ぐらぐらして不快になるような酔いではなく、身体がふわふわとして浮いているような、そんな酔い。
 今日も仕事だ。今日の相手はかなり数が多いらしい。まぁお前には余裕だよ、と"上司"に押し付けられた。
 本当は断りたかったけれど、報酬は弾むから、と言われ、俺からしてみれば攻めた値段交渉をし、何とか許容範囲に収めて依頼を受けた。
「よお」
 喧嘩でやったのか他でやったのか知らないが、潰れてしゃがれた声が俺を呼ぶ。今晩は向こうからお迎えスタイルのようだ。ひとりでも仲間を呼ばれる前に片付けたい。
 息を入れ、素早く動く。男の髪の毛を鷲づかみにし、身体ごと引き寄せて銃口を当てる。銃声が鳴り響いたと共に男の身体から力が抜けていく。
 その銃声が始まりのゴングのように、うじゃうじゃと蛆のように男が湧き出てくる。
――始めよう。
 左の口角だけを微かに上げて、俺はまた走り出した。
 銃を片手で持ち、空いている手でナイフを握る。感覚を研ぎ澄まし、足音や呼吸音がする方に銃を向ける。
 片手で打つと上手く焦点が定まらないだろって?そんなのもう知らない。適当に打ちゃ当たる。焦点がどうのこうの言うほど銃の扱いが下手なわけじゃない。
 追ってくる男の声、まだ潜んでいる気配――無駄撃ちしている余裕はなさそうだ。一発で仕留められなくても、動けない程度の傷を負わせられればいい。
 そう思いながら、また引き金を引く。
 虚空に、美しい紅色が舞った。


 もう誰も立ち上がらなくなった。
 最初に弾丸を放ったときからどれだけの時間が経っただろう。五分か十分――案外早く片せた。
 頬についた血を手の甲で拭った。誰の血かは分からない。怪我をしているような感覚はしないから、きっと誰かの返り血を浴びたんだろう。垂れたものが口の中に入り込んで、腥い血の味がする。
 それにしても、今日はとことん派手にやった。こんなに暴れたのは久しぶりかもしれない。長く続く薄汚い路地裏には、大量の男が倒れている。
 こんな日は祝杯でも挙げたい気分だが、もう飲んでいるので大した面白みは得られないだろう。せめて一服を、と思い、ズボンの後ろポケットからタバコとライターを取り出した。
 タバコをくわえ、先に火をつける。ゆっくりと息を吸い、味わう。この間コンビニで適当に買った銘柄だが、なかなか悪くない味だ。重ったるい程の甘さ。
 吸いきった一本を地面に捨て、もう一本取り出す。璃恋がいるから控えなきゃだな、とは思いつつも、今の高揚感には抗えなかった。
 火をつけたもう一本を口にくわえて吸いながら、連絡をしていなかったことを思い出す。携帯が入っている後ろポケットを探る。いくら手を動かしても指先は携帯には触れず、ジーンズの質感だけがそこにある。
 家に忘れたのか、どこかで落としたのか――まぁ、どっちだっていい。電話くらい少し遅れたって大丈夫だ。
 ゆっくりとタバコを吹かしていると、後ろから足音が聞こえた。ぱたぱたと軽やかな足音。俺に刃向かってくる男の足音が醜い獣なら、この足音は子猫と言ったところか。
 子猫とはいえ、俺の仕事を見られてしまったら生かしておく理由はない。銃を構えながら振り向く。後ろには誰もおらず、俺の携帯だけが落ちていた。
 なんだ、やっぱり今落としてたんじゃん。そう言えばタバコを出したときも携帯はなかった。その時でも落としたのだろうか。俺としたことが気づかなかったなんて。
 今落としたのだとしたら、聞こえた足音はなんだろう。誰だ。
 まぁ、いいか。どうせ死に損ないかなんかだ
 俺は吸いかけのタバコを投げ捨て、銃をホルスターにしまうと、ケースがほんのりと紅く染まった携帯を拾った。