その店は古い木の匂いに満ちていた。
地元から電車で約四十分。池袋の町中にあるとは思えない、静かな場所だった。
薄暗く、狭い店内に所狭しとピアノが並んでいる。艶めいた黒のピアノに、飴色になった木のピアノ、少しくすんでいるけど白いピアノもある。
曲線を持った蓋が開いているタイプと四角くて蓋が開いてないタイプは、一体何が違うのだろう。なんとなく前者の方が高価なイメージがあるが。
勝手知ったる足取りで先を行く御子柴に尋ねると、目の前の背中が振り返って、手近にある蓋の開いたピアノを指差した。
「こっちがグランドピアノ、音は広がるけどでかくて邪魔。蓋が閉まってるのがアップライトピアノ、音はこもるけどコンパクト」
「へえ……」
「分かってんの? つーか興味ある?」
からかうように苦笑する御子柴に、むっと口を尖らせる。
休日の御子柴を見るのは、今でも慣れなかった。ネイビーのステンカラーコートに白いセーター、グレーのチノパンに、足元は黒のスニーカーという出で立ちだ。正直、馬鹿みたいに似合っている。
大人っぽいスタイルの御子柴を前にすると、トレーナーとかダウンとかデニムを着ている自分がひどく子供に見えて、恥ずかしい。御子柴にもらったマフラーが浮いているのではないかと、そればかりが気になった。
古い木目の階段を降りて行くと、店の地下に辿り着いた。一階よりもっと狭い部屋の壁沿いに、天井まで高さのある本棚がずらりと並んでいる。書店とは違い、そのどれもが薄っぺらくて大きな本だった。
「涼馬くん、いらっしゃい」
カウンターの奥から老年の男性が出てきた。赤いチェックのネルシャツにグレーのベストを着て、頭にはハンチングを被っている。皮膚の皺は深く、眉毛も真っ白に染まっている。
御子柴は気安い仕草で手を挙げた。
「シマさん、ご無沙汰です。あ、こればーちゃんから」
高級和菓子店の紙袋を手渡されると、シマさんと呼ばれた老人はにこにこと微笑んだ。
「花枝ちゃん、元気かい?」
「はい。ほんとは来たがってたんですけど、ばーちゃんも歳なもんで」
「東京は人が多いからねえ。若い頃はよく久真くんと顔を出してくれたもんだけど」
「じーちゃんと仲良かったっすからね。あ、ソフィア・コチェンコヴァの新譜入りました?」
「取り置きしてあるよ。確かDGデビュー録音が入ってるんだっけ?」
「そうそう。あとショパコンで優勝した時のマズルカも」
御子柴とシマさんは楽しげに話し込んでいる。俺には訳の分からないことで。
なんとなく置いてけぼりを食らった気分になっていると、奥からCDを持ってきたシマさんが俺に視線を送った。
「こんにちは、涼馬くんのお友達かい?」
「あっえと」
「同じクラスの水無瀬っす。遊びに行くついでに付き合ってもらいました」
俺はぺこりと会釈する。シマさんはにこにこと相好を崩した。
「僕は島田、よろしくね。涼馬くんがお友達を連れてくるなんて初めてじゃないかい? よっぽど仲がいいんだねえ」
なんと言っていいか分からず、俺はしきりに頭を下げた。御子柴もまたシマさんの言葉に微笑むばかりで、何かを返すことはなかった。
「ついでにユニコンとクロスもください」
「いつものだね、はいはい」
血管の浮いた手が、紙袋にCDとそれからボトルに入った何かと大きい眼鏡拭きのような布を詰めた。御子柴は会計を済ませて、それを受け取る。
「じゃ、また来ます」
「いつでもおいで。ご家族にもよろしくね」
「っす」
一階に上がり、店を出る。
待ち構えていたように都会の喧噪が耳になだれ込んできた。絶え間ない川の流れのような人々の往来に溶け込むと、まるでシマさんの店が別世界だったのではと思えるほどだった。
「付き合ってくれてありがとな」
「いやいいよ、あれぐらい」
「二時半かー。これからどうする?」
御子柴が手元の腕時計を見やる。高価な物を身につけててもおかしくない格好なのに、ごつごつとした形のスポーツウォッチなのがこれまたにくい。
「水無瀬はなんか買い物とかねーの?」
「え? あー、そうだな、うーん……」
俺は眉を寄せて、慣れない池袋の街を見回した。いつもは横浜や桜木町でなんでも済ませてしまうため、東京まで出てくることが滅多にないのだ。
どうしようかと思い悩んで、ふと視線を足元に落とす。使い古したハイカットスニーカーが目に入った。元が白いだけあって汚れと傷が目立つ。
「そういや、新しい靴、欲しいかも」
「おっ、行く?」
御子柴の目がきらりと輝いた。こいつも大体スニーカーを履いているから、好きなのかもしれない。御子柴はちょっと身を屈めて、俺の足を覗き込んだ。
「同じとこのやつがいい?」
俺もまた御子柴の足元をちらりと見た。ブラックの革素材に、縦に二本、横に一本白い線の入ったデザイン。それが妙に格好良く見える。
「御子柴のはどこのやつ?」
「えっ、これ?」
「あ、いや、かっけーなーって思って。でも、俺に似合うか分かんないけど」
御子柴は一瞬考えるように黙りこんだ後、我に返ったように手を打った。
「ちょうどあそこに店入ってるけど行く?」
長い指が差し示したのは、背の高いビルが特徴のショッピングモールだった。池袋のランドマークだけあって、多くの人が今も中に吸い込まれていっている。
「うん、行く」
俺が大きく頷くと、御子柴は何故か途方に暮れたようにビルを見上げた。その憂えた表情に惹きつけられたのだろうか、すれ違った女性グループが御子柴を見て、きゃあきゃあとはしゃいだ声を上げた。
「え、そんな上にあんの?」
「んなわけねーじゃん。そうじゃなくて」
「あっ、もしかして真似されんの嫌とか?」
「じゃーなーくてー」
御子柴は水に濡れた犬のように首を左右に振ると、半ば睨み付けるように俺を見た。
「——あのさ、水無瀬。全然、話違うんだけど」
「え? お、おう」
「その、なんだ……ええと……」
こんなに口ごもる御子柴は珍しい。なんだか不安になり、固唾を呑んで見守っていると、不意に御子柴が脱力した。
「……ごめん、また後で言う」
「な、なんだよ、気になるだろ」
「まーまー、とりあえず靴見に行こうぜっ」
ぐいぐいと背中を押され、思わず蹈鞴を踏みそうになる。
なんだなんだ。もしかして服が後ろ前反対とか? 昼に食ったラーメンのノリが歯についてるとか?
俺はしきりに首を捻りながら、人の流れに乗ってショッピングモールへと足を踏み入れた。
もしここで置き去りにされたら、多分、遭難するな、と思った。
ショッピングモール内は、それぐらい広くて複雑だった。
エスカレーターで降りたかと思ったら、階段で上ったり。水族館や展望台へ行く方の入り口に間違って入りそうになったりした。
シマさんのお店に行くついでによく来るのだろうか、御子柴は地図も見ずにすいすいとモール内を歩いて行く。どこをどう行ったか俺にはさっぱりだったが、十分もしないうちに目的の店に辿り着いた。
名前だけは聞いたことがあるスニーカーブランドだった。
黒地に白の看板に、トラの置物が俺達を出迎える。ガラス棚に飾られたスニーカーを明るい照明が浮かび上がらせている。試着のために使う椅子は、革張りの立派なものだ。なんだか場違いなところに来てしまった予感がひしひしとしていた。
入り口付近で、手元の書類と商品とをチェックしていた女性店員が振り返る。
「あ、ピアノのお兄さんじゃないですか。お久しぶりでーす」
「お前、常連さんなの?」
「ちげーよ。ここは三回くらいしか来たことない。ただあの店員さんがめっちゃクセ強なだけ」
「聞こえてますよー? 人なつっこくて記憶力いいって言ってくれません?」
「な?」
「はぁ」
店員さんはポニーテールを揺らして、俺に笑顔を向けた。
「はじめまして、私、高遠です。サイズ出すんで、バンバン履いてってくださいね!」
「は、はい」
「じゃ、用があったら言ってくださーい」
そう言って高遠さんはまた仕事に戻っていった。押し売りされるかと思ったけど(そういう店員さんが俺はこの世で一番苦手だ)声をかけられない限りは放っておくスタンスのようでほっとした。
俺は人ん家に初めて来た時のように、そろそろと店内を歩き回った。
カラーものもあるけれど、わりと白とか黒とか落ち着いた色が多い。形も奇抜なデザインは少なかった。その代わり、よく見ると素材にこだわっている感じがする。レザーからスウェード、中には冬用のボア素材なんて変わったものもあった。
……どうしよう。どれがいいのかさっぱり分からない。
俺は助けを求めるように、御子柴を振り返る。
「なぁ、見立ててくんね?」
「えっ。あー、うん、いいけど」
「見立て? 高遠さんのこと呼びました?」
「呼んでませーん」
御子柴にしっしっと追い払われ、高遠さんは渋々仕事に戻っていった。
「サイズっていくつ?」
「二五・五センチ」
「りょーかい。ちょっとここ座っといて」
言われたとおり、椅子に腰掛ける。
御子柴は顎に手を当てて考えこみながら、店内をぐるりと回った。そして一足選んだ見本を手に、高遠さんへ何事かを相談する。
やがて高遠さんが持ってきた箱を、御子柴が受け取ってこっちに持ってくる。箱からスニーカーをがさごそ取り出しながら、御子柴が言った。
「ここのやつちょっと細身だから、ハーフサイズアップがいいって。だから二六な」
「へえ」
スニーカーの中から詰め物を抜くと、御子柴がその場に膝を着いた。俺が目を瞬かせているうちに、足首を掴まれた。
「えっ、いや、ちょっ? 何してんの?」
「何って試着」
「いやいやいや、自分でするし!」
「いいじゃん、一日店員してみてーの」
「ぶー、それどうみても私の仕事じゃありません?」
カウンターの奥から高遠さんがじとっと見てくるのを、御子柴は背中で完全に無視した。
大きな手が俺の踵を掴み、薄汚れたスニーカーを脱がせる。
「お前、これ可愛いけど、ちょっと似合いすぎなんだよな。こういうのどう?」
スウェード素材の真っ黒なスニーカーだった。ラバーだけが白く、モノトーンのシンプルだが洗練されたデザインである。
御子柴は俺にそれを履かせると、無言で黒い靴紐を結び始めた。
こちらから見下ろした表情は至って真剣だ。伏し目がちの瞼に長い睫が生えそろっているのが見えて、俺はうろうろと視線を彷徨わせた。
どうしても人目が気になり、カウンターを見やる。高遠さんはさっきの不機嫌をどこかに置いてきたように、鼻歌交じりで棚にはたきをかけている。俺はこの人が今日のシフトで良かったと心底思った。
「できた」
背中をぽんと叩かれて、立ち上がる。
鏡に映る自分の姿は、足元のみならず全身が引き締まって見えた。靴一つでこれだけ違うのか……
「どう?」
「うん、めちゃくちゃいい。これにする」
満足感と共にそう言うと、御子柴が目を丸くした。後ろで高遠さんがカウンターから身を乗り出す。
「他にもいっぱいありますよ?」
「ありがとうございます。でも、これすごい気に入ったんで」
隣で長い長い溜息が聞こえた。御子柴が額を抑えて、俯いている。
「なんだよ」
「……なんでもねーよ」
急になんだ、疲れたんだろうか。
レジに靴を持って行くと、高遠さんがほくほく顔で言った。
「最初ので決めちゃうとか、ちょろくて助かります〜。お買い上げ、ありがとうございま〜す」
ほんとこの人、好き勝手言うな……。まぁ、こっちも気を遣わなくていいけど。
「あ、このまま履いてってもいいですか」
「おおー、かしこまりです。値札切っときますね。うちの靴、気に入ってくださって嬉しいな。良かったですね、ピアノのお兄さん!」
俺が靴を履き替えると、高遠さんが古い方のスニーカーを紙袋に入れてくれた。何故か御子柴は振り向きもせず、ずっと項垂れていた。
俺は最後、高遠さんに「猫っぽいけど犬っぽい子」という謎の呼び名をつけられ、店を後にした。
歩く度に足元を見る。足がぴったり包み込まれている感覚が気持ちいい。ラバーが分厚いおかげか、かかとの負担も減った気がする。
「これ、ほんといいな。そうだ、服もお前に見立ててもらおっか」
そうしたら御子柴のようにはいかないにしろ、もう少しお洒落になれるかもしれない。いいアイディアだと思ったが、御子柴の顔は浮かない。
「それってさ……あのさ、もはや全身……」
「何だよ、面倒かよ」
「もー、そうじゃない……」
どことなく声に覇気がない。少し困ってるようにも見える。これ以上、御子柴に負担をかけるのは本意ではないので、俺はさっさと踵を返した。
「まぁ、また今度な」
来た道を戻ろうとすると、御子柴に呼び止められた。
「もう帰んの?」
「え、うん。だってお前、疲れてんだろ」
「疲れてねーよ、なんで?」
「だって、なんか……」
さっきから様子が変だから。そう言おうとしたものの、今の御子柴はけろっとしている。あれ……俺の勘違いか?
「まだ三時だし。せっかく来たのにさー」
と言われても、俺としては特に用事はない。あとは……映画とかカラオケとか? でもそれにはちょっと時間が足りない気もする。そもそもここでしかできないことじゃない。
どうしたものかと考え込んでいると、ふと壁にかかっている施設の案内板が目に入った。
フロアごとに案内が分かれている。どうやら俺達が今いるのは地下一階から地上一階に渡る専門店街だ。……何階にいるのかはちょっと分からない。
二階には屋内型テーマパーク、四階や五階には展示室やパスポートセンターなどが入っているらしい。
そして最上階にはさっき間違って行きそうになった水族館、そして——
「うわ」
フロアガイドの隣にあったポスターに思わず見入る。
どこかの離島の上に、満天の星空が輝いていた。
「——プラネタリウム?」
御子柴もまた俺の後ろからポスターを覗き込んだ。
「あー、そういや水族館の隣にあるな。昔、行ったことあるわー」
「へー……」
「何、行きてぇの?」
俺は肩越しに振り返ったものの、少し返答に困った。
行ったことがないから、観てみたくはある。けど、男二人でプラネタリウムってどうなのかな……。映画みたいなもんだからいいのか? 上映時間も四十分ぐらいって書いてあるし、ちょうどいい長さではあるけど。
などと悩んでいる間に、御子柴はスマホを素早く操作していた。かと思ったら、急に肩を強く揺すられる。
「やばいやばい、もうすぐ始まるやつある。急ごうぜ」
「えっ、マジで行くの?」
「他にやることないし、いいじゃん」
俺は半ば御子柴に引きずられるようにして、最上階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。その間にも御子柴は真剣な顔つきでスマホに向かっていた。
「よし、チケット取れた」
「早ッ」
御子柴が得意気に、オンラインチケットの画面を見せてくる。その手際の良さに、俺は思わず苦笑した。
最上階に着くと、ビルの上にある有名な水族館の入り口が出迎えた。
そちらに行く人達とは分かれ、長い通路を進んだ奥に、プラネタリウムの受付があった。御子柴がチケットを見せると「上映時間が迫っております」と急かされた。
映画館にあるような分厚い防音扉をくぐる。薄暗いドーム状の会場内に、それなりの人数が座っていた。御子柴が取ったのは入り口に一番近い端の席だったので、懸念していた客層はよくわからなかった。
リクライニングされた座席に腰を沈めるなり、背後の扉が閉じられる。照明も落とされて、周囲が完全に闇に包まれた。
携帯電話の電源を切ってくださいとか(忘れてたので慌てて切った)、上映中は会話禁止とか、そういった注意事項のアナウンスが流れる中、隣から不意に小声で耳打ちされた。
「……な、手繋いでいい?」
俺はぎょっとして振り返った。
鼻先が触れるほど近くに御子柴の顔がある。暗闇の中でも分かる端整な顔立ちと、じっと見つめてくる深い色の眼差しが、俺をじわじわと追い詰めていく。
最後列の一番端、隣の人からは五席ほど離れている。それにみんなきっと、今から映し出される星空に夢中になる。どうせ誰も見てない、見えない。どうしよう、と目を伏せる。どうしよう、どうしよう。だって、
どうしよう——俺も、そうしたいんだ。
「ん……」
小さく頷くと、御子柴の瞳がいっそう輝きを増した。
御子柴は席の間にある肘掛けをゆっくり上げると、静かにコートを脱いだ。そうして俺の左手を取り、その上からコートを被せる。
「完璧」
いたずらっぽく御子柴が笑うのに、俺も小さく肩を揺らす。共犯者同士、俺達は密かに手を結んだ。
ゆったりとした音楽と共に、無垢な星々が頭上に広がる。
耳触りのいいナレーションが星空の解説を始めた。冬は一年で一番、星が綺麗な季節です。明るい一等星がとても多く、また様々な色の星があります。一番有名なのはオリオン座です。南の空をご覧ください、同じ明るさの三つの星が見えますでしょうか——
繋いだ手から御子柴の体温が伝わってくる。ピアノの鍵盤の上を自由自在に泳ぐ長い五本の指、少し厚みのある皮膚。ああ——俺がすきなひとの、ぬくもり。
段々と自分の体が宙に浮いているような感覚になる。時間の流れを早めて、ゆっくりと回転する星空。柔らかい男性の声はどこか御子柴に似ている気がする。
長い瞬きをすると、体の力が抜け、ふと優しい香りが鼻腔をくすぐった。屋上に吹く風の匂い、自分の席の目の前にある匂い、すぐ隣の匂い。少し意地悪で、でもいつも優しい——そんな泣きたくなるような。
いつの間にか星空も声も遠くなり、そばにある存在だけが俺の全てになる。
宇宙のような途方もない暗闇に覆われていく空間。つめたくあたたかく凍りついた時間。
死んでしまった人はこんな風になるんだろうか。そうだとしても、何も怖くない。
このまま。
せかいがおわればいいのに——
「——せ、みなせ。おい、水無瀬ってば……」
ぱちっと目を開けると、星空がどこかに消えていた。
隣の席から御子柴が眉間に皺を寄せて、俺を覗き込んでいる。コートを着ていて、手は離れていて、肘掛けが元に戻っていた。
……え? もしかして、全部、夢? プラネタリウムは今から?
きょろきょろと左右を見渡すと、他の客は一人もいなかった。御子柴が急かすように俺の腕を引っ張る。緩慢な動作で立ち上がる俺に、呆れた声が降ってきた。
「お前、始まってすぐ爆睡したんだけど」
「え!」
視線を感じて、出入り口を見やると、係員の女性が凄みのある笑顔を浮かべていた。俺は御子柴に腕を引っ張られつつ、すみやかにその場を後にした。
「見たいって言ったのお前じゃん、もー」
手を離すなり、御子柴は腕を組んで文句を言った。返す言葉もなく、俺はしょんぼりと肩を落とした。
「ごめんって。でも起こしてくれれば良かったのに」
「あんだけ気持ちよさそうに寝られたら、起こせねーよ」
はぁ……。なんだかすごくもったいないことをした。初めてのプラネタリウムだったのに、星空もろくに見られなかった。それに、せっかく……手も繋いでたのに。本当にもったいない。
「あ、そうだ。チケット代、いくら?」
「いいよ、別に。お前、見てないんだし」
「い、いやいや、払うって」
「じゃ、今度また来た時に出して。んで、寝るな」
「う……はい」
エレベーターで地下まで降りて、そこからエスカレーターで地上に登る。池袋の街はすっかり茜色に染まっていた。
電車に乗って、横浜まで帰る。そこから私鉄に乗り換えれば、すぐ最寄り駅だった。
冬の日は短く、地元に着くとすっかり暗くなっていた。東京がそんなに遠いわけではないけど、見慣れた道を歩くと、帰ってきたという気分がしてほっとする。
「あのさ、来週……」
御子柴がぽつりと呟くのに、耳を傾ける。形のいい眉が困ったようにしかめられていた。
「って、もう三月だよなー」
「あぁ……うん、そうだな」
二月は少し短くて、あっという間だった。来週半ばからはもう三月。……二年生、最後の月だ。
来年も同じクラスメートがいい、と天野さんが言っていたのを思い出す。俺も賛成だった。それが叶ったら、どんなにいいことか。
長い道の向こうに俺ん家のマンションが見えてきた。なんとなく目を伏せると、御子柴が柔らかく苦笑した。
「何? 帰るの寂しい?」
うるさいばか、といつものように言ってやるつもりだった。
でも自分の意に反して、俺の足は立ち止まった。御子柴が数歩先でそれに気づき、振り返ってくる。
「水無瀬?」
「……寂しいよ」
手を伸ばし、御子柴のコートの袖を指で掴む。
「離れたくない」
——耳に痛いほどの静けさが訪れる。
俺は俯いたまま顔を上げられない。ばかだ、言わなきゃ良かった。こんなことしたって、御子柴が困るだけなのに。
そっと指を離す。なんて謝ろうか考えていると、御子柴が固い声音で言った。
「……キスしたい」
「えっ、い、いや、ここでは」
「だろうな。じゃあ、なんでそんなこと言うんだよ」
体の横で、御子柴の拳が震えるほど強く握られている。怒らせたのかと思い、ぎくりと背筋を強張らせる。御子柴は長い溜息と共に、続きを吐き出した。
「っていうか、今日ずっと思ってたよ、俺は。同じとこの靴欲しいとか言い出すし、それと服見立てろとかさ……。マフラーも靴も俺が選んだんだぞ。んなことしたら頭からつま先まで、ってなるけどいいのかよ」
……え。あれ。なんでこいつこんなに怒ってんだろう。あとそれの何が悪いのか、まったく分からない。
「妙に楽しそうだし、やけに素直だし。プラネタリウム見たいって。そんですぐ寝るって。可愛いのかよ、お前は」
「いや、可愛くはない……」
「手も繋いだし、暗いからワンチャンあると踏んでたわ。いやもう寝ててもいっそしてやろうかとも思ったし。でも肩に頭乗っけられたらできねえだろ、ふざけんな」
俺、そんなことしてたのか。つーかさっきから、一体何を聞かされてる? 頭がこんがらがってきたところで、御子柴はまた聞こえよがしに嘆息した。
「もういい。今日言いそびれてたこと、この勢いで言いますけど」
そういえば昼間、やけに口ごもっていた時のことを思い出す。俺が身構える間もなく、御子柴は強い語気で告げた。
「——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?」
ぽかん、と呆気に取られていたのは一瞬だった。
御子柴の言わんとしているところが全て分かった瞬間、ぶわっと全身の血が顔に集まる。夜の住宅街に俺の素っ頓狂な声が響き渡った。
「——へっ!?」
「涼馬はお土産なにがいい?」
「……んあ?」
いつものようにばーちゃんと二人で晩飯を食ってる時だった。唐突にそう尋ねられ、俺は煮物の大根を口に運び損ねる。
「箱根だからやっぱり黒たまご? かまぼこもいいわよね。あ、でもやっぱり若い子はスイーツがいいのかしら」
「え、待って、なんの話? ばーちゃん、箱根行くの?」
すると、向かい合っていた円らな瞳がぱちぱちと瞬いた。
「あら、葉子か操さんに聞いてない? 町内会の旅行に誘われてね、来週の土日に一泊二日で行ってくるのよ」
「へー。膝、大丈夫?」
「最近、鍼灸院に通っててね。結構良くなったのよ。明日も本当は涼馬と一緒に、島田さんのところへ行きたかったけれど……旅行があるから無理はしないでおくわ。よろしくお伝えしてね」
「はいはーい」
安請負しつつ、俺は今度こそ大根を食おうとする。
……が、あることに気づき、箸がまた止まった。
「あれ。来週って確か、かーちゃんと親父も出張じゃなかったっけ」
「そうなのよ。だから涼馬一人になっちゃうの。……あ、クロードはいるわね」
などと呑気に付け足すばーちゃんをよそに、俺は大根を取り落とした。
来週の土日——家に誰もいない、だと?
「まぁ、高校生だもの。大丈夫よね」
「あ、うん、それは……」
「カレー作っておくから。それ食べてね」
曖昧に頷きながら、再び大根を持ち上げて咀嚼する。ばーちゃんの煮物はいつも出汁が染みててうまい。けど、今はその味がよく分からない。
「……あー、あのさ。家に同じクラスの奴、呼んでもいい?」
「あら。あらあらあら、まさか」
「いやいや、違う。男子だから。水無瀬っての。……ほら、こいつ!」
スマホで水無瀬の写真を表示する。二枚もってるうちの一枚で、撮らせてとねだり、なんとか手に入れた。屋上で、引きつった不器用な笑みを浮かべている。俺のとっておきである。
ちなみにもう一枚は転た寝しているところを無許可で撮った。これはちょっと本人にも見せられない。
ばーちゃんはスマホを覗き込んで、ぽんと手を打った。
「ああ、これが噂の水無瀬くん。ふふ、涼馬ったら春頃、ずっとこの子の話してたわよねえ」
「そ……そうだっけ?」
「最近、聞かなくなったからどうしてるのかなって思ってたけど。でもちゃんと仲良しさんだったのね」
「ははは……」
ばーちゃんが嬉しそうに言うのに、後ろめたい俺は乾いた笑いで誤魔化した。ばーちゃん、ごめん。色々ごめん。
「私はいいけど、ちゃんと葉子と操さんにも言っておくのよ」
「うん、分かった」
俺は煮物のにんじんを二個いっぺんに頬張った。そうしないと顔がにやけそうだった。あの天野の一件以来、学校じゃ何もできなくなった。キスだって保健室の時が最後だ。それがうまくいけば二人きり、しかも泊まりで。
……いや、でも待てよ。
これ、どうやって言う?
今度の土日、家に誰もいないから泊まりに来いって……。露骨じゃね? めちゃくちゃ直接的じゃね?
いや、変に意識するな。いつものようにさらっと言えばいい。ちょっと冗談めかして、からかうように。そしたら水無瀬はきっと顔を真っ赤にして、でも予定が空いてれば頷いてくれる……はず……。くれるよな。え、つか、断られたら精神的に死ぬんだけど。
やば、難易度高いかも……。俺は弱気の虫を喉へ押し込むように、白飯をかきこんだ。何も知らないばーちゃんが「よく噛んで食べなきゃダメよ」と俺をたしなめた。
翌日の土曜日は久しぶりに水無瀬と出かけた。
シマさんのところへ顔を出し、これからどうしようか迷っている時に、水無瀬が「新しいスニーカーが欲しい」と言い出した。水無瀬はいつも同じブランドのスニーカーを履いている。星のマークが有名なシリーズで、今日は白のハイカットだった。
てっきりそこの店に行きたいのかと思いきや、水無瀬は不意に俺の足元を見やった。
「御子柴のはどこのやつ?」
聞けば、格好良くて気になるのだと言う。いいのかよ、もしここのやつ買ったらおそろいだけど? いや、別にスニーカーのブランドが被ることは変じゃない。それに俺はむしろ嬉しいし。
ちょうどすぐ近くに店があったので、買いに行くかと誘えば、水無瀬はこくんと頷いた。
「うん、行く」
自覚があるかどうかは分からないが、目は柔らかく細められ、口元には淡い笑みが浮かんでいた。その素直な言葉と仕草が、俺の胸を突き刺した。痛みをこらえるべく、目の前にそびえる大きなビルを見上げる。
……最近、水無瀬が無防備で困る。前はもっとつんけんしていて、それが可愛くもあったのだが。今では結構態度や言葉で好意を示してくれるし、あと気を許されているのがはっきり分かる。
今じゃないだろうか、と頭の中の計算高い部分が提案する。もちろん来週の土日のことだ。今言えば、同じ調子で「うん、行く」と言ってくれるんじゃ……?
「——あのさ、水無瀬。全然、話違うんだけど」
「え? お、おう」
「その、なんだ……ええと……」
まずい、変に口ごもってしまった。こうなると後が続かない。俺は戦略的撤退を余儀なくされた。
「……ごめん、また後で言う」
え、俺ってこんなにヘタレだっけか? 俺が密かにショックを受けていると気づきもせず、水無瀬はしきりに首を捻っていた。
店に行くと、またもやあの高遠さんとかいうクセの強い店員さんに会ってしまった。なんで俺が来るときに限って、この人に当たるんだろう。初めて来る水無瀬にもぐいぐい迫るので、それを適当にあしらいつつ、店内を見て回る。
いつものブランドと違うからか、水無瀬は少し戸惑っている様子だった。隣で新作を眺めていた俺をちらっと見上げる。
「なぁ、見立ててくんね?」
茶色がかった瞳が上目遣いで見つめてくる。そして俺の選んだ靴を、水無瀬は一も二もなく買うと決めた。「めちゃくちゃいい」とか「気に入った」を連呼する。新しいのに履き替えると言いだし、店を出ても靴を見てはうきうきしていた。
「そうだ、服もお前に見立ててもらおっか」
あまつさえそんなことを言い出した水無瀬に、最早ぐったりする。それって全身俺色に染まるってこと? 勘弁しろよ……
再び次の予定を考えていると、水無瀬が目を輝かせて、プラネタリウムのポスターを見ていることに気づいた。
は? 高二の男子がプラネタリウム行きたいのか? 可愛いすぎね? 俺は水無瀬を連れて躊躇なくエレベーターに乗り込み、スマホでチケットを取った。あまりにも手際が良かったからだろうか、水無瀬は屈託なく笑っていた。
こうなると俺もちょっと慣れてきた。いや、飽きたとかじゃなくて、耐性がついたというか。
それにプラネタリウムだって何も水無瀬可愛さに連れて行くだけではない。指定した座席は最後列の端だ。こうなれば、映画館よりも暗いプラネタリウムでやることは限られる。
……夜空? 星座? 知ったことか。まず手を繋ぐ、そんでキスする。絶対する。それからあとは申し訳程度に星を見て、多分いい雰囲気になる。そこで来週の土日のことを打ち明ければ完璧だ。
——それから十数分後、俺は死んだ魚のような目で、星を見上げていた。
手を繋いだはいいものの、それからすぐ水無瀬が爆睡し始めたのだ。
おい……水無瀬のくせに良い度胸じゃねーか。いいか、俺はな、やると決めたらやる男なんだよ。寝てても関係ねぇよ、絶対キスしてやる。
そうしてぎろっと隣を睨んだ瞬間だった。水無瀬の首が傾いだかと思うと、俺の肩にこてんと頭を預けてくる。……おま、お前、嘘だろ。動けないじゃん。なんにもできないじゃん、これ。
さして興味もない星空を眺めながら、白旗を振った。厄日って今日みたいな日を言うんだろうか。小一の頃、ジュニア・コンクールの本選でモタりまくった時のことを思い出す。あの日はマジで何をしても駄目だった。まさに今日と同じだ。
こうなると俺は切り替えが早かった。週明け、学校で言った方がいいかもしれない。いつものように屋上で、水無瀬が飲み物飲んでる時にでもさらっと。そしたらまたごほごほ咳き込んで、照れまくるんだろう。うん、それがいい、きっと——
「……み、こし、ば……」
耳元で小さな小さな声が聞こえた。すぐ傍にある水無瀬の唇が、もごもごと擦り合わされている。
——なんだか、気が抜けてしまった。
色々と考えていたのが馬鹿らしくなる。繋いだ手を一旦ほどいて、指を絡める。寝ているはずなのに水無瀬の手にぎゅっと力がこもった。
顔を傾けて、唇で水無瀬の髪に触れる。癖の付いた毛の少しくすぐったい感触から、逃げるように離れた。
……あのさ、最近、お前のことを想うとたまらなくなるよ。胸が詰まったみたいに苦しくて、息がうまくできなくなる。伝えていいものか分からないけれど、こんなんじゃ全然足りないんだ。
細く長く息を吐いて、なんとか心を落ち着けようとする。頭上に瞬く星の光は儚いのに眩しくて、俺はきつく目を瞑った。
夜の帳が降りた空の下で、水無瀬は俺の努力を全部水の泡にした。
「……寂しいよ」
小さくて、泣き出しそうな声。遠慮がちに掴んだコートの袖の端。
「離れたくない」
俺は奥歯を割れんばかりに噛み締めた。水無瀬が憎い。初めてそんなことを思った。どうしようもなく好きなのに、どうしようもなく憎い。そのどす黒くて凶暴な感情は、血の色のような双眸をぎらつかせた獣の姿をしている。
爪が食い込むまで拳を握った。胸の奥に棲み着いた獣を飼い慣らすべく、深い息を吐く。
俺は胸中の全てをぶちまけた。そして、最後に肝心の一言を告げる。
「——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?」
「——へっ!?」
水無瀬の顔が面白いように赤くなる。肩の荷が下りたのと、水無瀬の反応を見て、俺はほっと安堵した。素直なのも気を許してるのも可愛いけど、こいつはこうでなくては。
今、何想像してる? とからかってやろうとした瞬間、水無瀬はがばっと頭を下げた。
「い……一度、持ち帰って検討させていただきます! 今日はありがとうございました!」
驚きの声を上げる間もなかった。水無瀬は俺の脇をすり抜けて、全速力でマンションに入っていってしまう。為す術もなくその背中を見送った俺は、致命的に遅れてから叫ぶ。
「——はあ!?」
え……いや、ええ!? 何、さっきの。何が起きた!? つか、なんでサラリーマンみたいな口調!? っていうか、っていうか……
もしかして——遠回しに断られた?
「嘘だろ……」
呆然とする俺の手元から、紙袋が滑り落ちた。アスファルトに叩きつけられた中身から、ガシャンと嫌な音がする。
「うわっ!」
我に返り、慌ててしゃがみ込む。
恐る恐る紙袋を覗き込むと、ばっきばきに割れたCDケースが目に入る。肝心のCD自体は無事だったが、買ったばかりの新譜の変わり果てた姿に思わず項垂れる。
やっぱり厄日だ。俺はしばらくその場から動けなかった。通行人がいなかったのかせめてもの幸いか。
「もうやだ……」
外灯の下、人知れず呟く。俺の小さな声は夜闇に溶けて、消えていった。
——やってしまった。やってしまった、やってしまった!
俺は家の玄関を開けるなり、廊下を走って自室へ転がり込み、そのままベッドへ飛び込んだ。俯せになって枕に強く顔を押しつける。
息は切れ、肩は激しく上下し、肺は懸命に酸素を求めている。けれど、どうしても顔が上げられない。自分の心臓の音がうるさくて、両手で耳を塞ぐ。頬も耳殻も驚くほど熱かった。
いい加減、息が苦しくなって、ごろんと仰向けになる。電気のついていない天井は、カーテンから差し込む外の明かりにぼんやり光っている。月の光と、それからきっと道路にある街灯——さっき、御子柴と別れたところにあるものかもしれない。
——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?
うわああああああ、と心の中で叫ぶ。じっとしていられず、俺はベッドの上を右へ左へ転がった。何やってるんだ、馬鹿みたいだ。傍から見たら気でも触れたかと思われるに違いない。
でも、だって。泊まりに行くだなんて、それは、つまり——
「——ハルく〜ん?」
どんどん、と無遠慮にドアがノックされる。俺はびくっと全身を震わせ、無意味な体の動きを止めた。
「入るよ? ……あれ?」
風呂上がりだろう、パジャマに濡れ髪姿の美海が、きょとんと首を傾げる。
「電気もつけずになにやってんの?」
「い、いや……ちょっと疲れて」
「あ、そっか。今日、池袋行ったんだよね? お兄ちゃ〜ん、お土産は?」
甘えた声で言う美海に、俺はゆるゆると首を振った。
「何もないけど……」
「ハルくんのばかっ。かいしょなし!」
大きな音を立てて、ドアが閉められる。再び暗く閉ざされた部屋で、俺はぐったり四肢をベッドに投げ出す。
ああ、そうなんだよ、美海。お兄ちゃんには甲斐性がないんだ……。甲斐性が具体的に何かちょっとよく分かってないけど、でもそれぐらいは分かるんだ……
やってしまった。逃げ出してしまった。
持ち帰って検討させていただきます、なんて大人の方便みたいなことを言い残して、御子柴を置き去りにしてしまった。
言いそびれていたから勢いで言う、と啖呵を切っていた。確かに実際、何度か御子柴はそのことを言い出そうとしていた。今となっては心当たりがある。それにいつもの余裕のある顔じゃなかった。眉間に思いっきり皺を寄せて、頬を少し引きつらせて。でも真摯に俺を見つめていた。
それなのに、俺は。
寂しいとか、離れたくないとか言っておきながら。いざそんな風に手を伸ばされると、尻込みしてしまうなんて最悪だ。
でも、だって、突然そんなことを言われて——
「どうしたらいいんだよ……」
うずくまって頭を抱える。たまらず掻き抱いた枕の柔らかい感触だけが、俺の頼りだった。
月曜日が来なければいいのに、とこんなに強く願ったことはない。
だが時の流れは絶え間なく、俺は濁流に呑み込まれるようにして、気がつけばあっという間にいつもの登校路を歩いていた。
住宅街を抜けると、二車線の道路に面した歩道に出る。冬の冷たい空気をもろともせず、雀の群れが街路樹から街路樹へ渡っていった。
前後には同じ高校へ通う制服姿の生徒が増えてきた。俺は天敵に怯える小動物のように肩を竦め、視線だけでちらちらと道行く生徒の背格好を確認していく。
今のところ、見当たらない……かな。ほっと安堵の息をついてから、自分の身勝手さに気づき、自己嫌悪が胸を刺した。
「——よ。おはよ」
「うわあッ」
背後からぽんと肩を叩かれ、その慣れた声を聞いた瞬間、俺は文字通り飛び上がった。
足を止めて振り返ると、目を丸くした御子柴がいた。突然大声を上げた俺を、周囲にいた生徒達が横目で見てくる。いたたまれなくなって俺はそそくさと歩き出した。御子柴も当然のように隣に並ぶ。
「なんでそんな驚いた?」
「い、いや……ぼーっとしてて」
「ふーん。ところで兼藤ティーチャーの小論文やった?」
兼藤先生は英語を担当している、中年の男性教師だ。日本語と英語が半分ずつほど混じる独特な喋り方とその個性からか、生徒の間ではもっぱら『兼藤ティーチャー』の愛称で呼ばれている。
俺は足元にうろうろと視線を彷徨わせながら、返した。
「えっと、それ、今日だっけ?」
「いや、今日だよ。思いっきり今日だよ。みんなひーひー言ってたじゃん」
「マジか。してない……」
「一個も?」
「うん……」
「お前なー、もうちょっと焦ったら?」
「あ、焦ってるよ」
だが今の俺を追い立てるのは、決して英語の小論文ではなかった。
呆れ顔でこちらを見つめてくる御子柴に、俺は意を決して言った。
「この前の……」
「ん?」
「いや、その、土曜日のこと。——ごめん」
すると御子柴がふっと苦笑した。
「なんだそれか。何、思い詰めてんのかと思った。別に気にしてねーよ」
俺は今朝、初めて御子柴を見上げた。
「ほんとに?」
「まぁ、急に言い出した俺も悪かったし」
「怒ってない?」
「ない」
「そっか。ごめん、俺、傷つけたかと思って……」
「そんなにヤワじゃありません。ピアニストのメンタル舐めんなよ」
そう、なのかな。なら、どうして御子柴はあんな別れる間際になるまで、言い出さなかったのだろう。一抹の不安と共に御子柴の表情を伺うも、そこにはいつもと変わらない綺麗な微笑みがあるだけだ。
俺は御子柴の真意を測りかねたまま、慌てて付け足した。
「あの、土日、行くから……」
ふと御子柴の口元から笑みが消えた。
校門をくぐって昇降口に入る。御子柴はスニーカーを脱いで、上履きに履き替えながら、淡々と言った。
「別にそんな急がなくてもいいんじゃね」
「え?」
「返事。まだ一週間あるんだし、その間に何か予定が入るかもだろ」
「いや、でも……」
「それにこれが最初で最後ってわけでもなし。んな焦る必要ねーよ」
御子柴は戸惑う俺を置いて、さっさと昇降口を抜けていってしまう。そして肩越しに振り返った。
「職員室に用事あるから。また、後でな」
軽く手を挙げて、御子柴は廊下を曲がっていく。俺は突然親鳥に見放された雛のように、呆然とその背中を見送った。
英語の小論文が終わっていなかったのは、幸いなことに俺だけではなかった。予想はできたが高牧である。兼藤ティーチャーは俺と高牧に居残りを申しつけ、小論文を是が非でも完成させることを誓わせた。
そんな嵐の一時間目が過ぎ、今は二時間目の倫理の授業中である。主要教科でないのをいいことに、俺は真っ白なノートを見つめながら、悶々と考え込んでいた。
俺の頭を悩ませるのは、もちろん前の席に座る男である。黒板を見れば嫌でも目に入るため、こうして俯いているしかないのだった。
今朝の御子柴の言動が、脳裏で幾度も繰り返される。行く、と言ったのに。どうして御子柴は頷いてくれなかったんだろう。やっぱり怒っているとか? それとも一度逃げ出した俺に呆れ返っているのか。
……嫌われた、だろうか。
思考がぐるぐると螺旋を描いて、底の見えない暗がりに落ちていく。
そんな負のスパイラルを遮ったのは、鋭い声音だった。
「——水無瀬」
はっと顔を上げると、銀縁眼鏡の向こうから、厳しい視線が送られていた。教壇に立っている倫理の石田先生だ。細面に吊り上がった目、そして神経質な表情が俺を見ている。俺は慌てて立ち上がった。
「は、はい」
「質問は聞いていたな? 答えろ」
まるで記憶がない。石田先生はそれを見越しているようだった。一時間目のみならず、次の授業までもつるし上げられて、小心者の心臓は早鐘を打つしかない。答えに窮していると、石田先生は聞こえよがしな溜息をついた。やばい、これは相当怒ってる……
そこへ、とんとん、と軽い音がした。俺にしか聞こえないような小さな音だ。見ると、前の席から教科書の端が覗いていた。御子柴がシャーペンで哲学者の自画像と名前を差し示している。俺はとっさに答えた。
「ピコ・デラ・ミランドラ、です」
「なんだ、聞いてたんじゃないか」
石田先生は少し残念そうな声で言った。うう、絶対サディストだ、この人……
なにはともあれ許された俺は、すごすごと椅子に腰掛けた。
前の席をちらりと見やる。石田先生が板書に戻った隙に、お礼の意味を込めて御子柴の背中を突くと、返事の代わりにシャーペンが左右に振られた。
胸の真ん中がきゅっと引き絞られる。何故か泣きたくなるのを、俺は懸命に堪えた。
昼休みになるや否や、いつものように御子柴がくるりとこちらを向いた。その手にはすでに購買の袋が握られている。
「メシ行こうぜ」
「あ、うん」
「あと英語の辞書とノート」
「へ?」
「昼休み中に仕上げれば居残りしなくていいだろ。手伝ってやるから」
御子柴が白い歯を零す。その優しい声音が、俺の心を再び掻き乱した。伝えたいことが確かにあるのに、それがどうしても言葉になって出てこない。
もどかしげに唇を擦り合わせていると、突然、教室に大きな声が響き渡った。
「オイッ、御子柴! いんだろ、出てこい!」
やや高めだが、男子の声だった。御子柴は教室の出入り口を振り返り、ぎょっと顔を引きつらせた。
「げっ……!」
御子柴を呼んでいるのは、見慣れない生徒だった。背が低くて、童顔で、まるで中学生みたいだ。それなのに視線はぎろっと鋭く、教室内を見回している。そして御子柴の居場所に気づくが早いか、ずかずかとこちらに歩み寄ってくる。御子柴は引きつった笑みを浮かべた。
「春日井先輩……。何か用っすか?」
「何か用じゃねーよ。てめー、何呑気に昼飯食おうとしてんだ? あ?」
小さい体に似合わず、かなりガラが悪い。だがそれはどうみても年下が精一杯虚勢を張っているようにしか見えなかった。
「まさか、自分が選管委員なの忘れてねーよな?」
選挙管理委員会はクラスに一人割り当てられる、委員の一つだ。その名の通り、生徒会の選挙を管理する委員会で、御子柴は確かそれに立候補していた。というのも、中学からの知り合いの先輩がいて、スケジュールにかなり融通を利かせてくれるという話を聞いたことがある。
「いやいや、俺なんてただのしがない幽霊委員ですから……」
「そういうのいいんだよ。いいからツラ貸せや」
「はあ?」
「はあ、じゃねー。集計ぐらい手伝えってんだよ」
そういえば次期生徒会の選挙がこの前あった。といっても、全体朝礼の後に立候補者の短い演説を聴いて、あとは各自配られたプリントに名前を書くだけだ。俺は適当に一番最初の候補者に票を入れた。関係ない者にとってはその程度のことだが、選挙管理委員会は全校生徒の票を集計しなければならない。きっと今が一番忙しい時期なのだろう。
「今週は昼休みと放課後、委員会室に集合な」
「嘘でしょ?」
「てめー、いい加減ブン殴るぞ」
顔を引きつらせる御子柴と、俺はある意味同じ気持ちだった。今週はずっと昼休みも放課後も御子柴と話ができない? じゃあ、例の件はいつ話をしたらいい?
「今から昼飯食いながら票数えんぞ、さっさと立てオラ」
「えー……」
春日井先輩に追い立てられるようにして、御子柴は渋々腰を浮かせた。思わず縋るように御子柴を見つめると、手を立てられて謝られる。反射的に首を振ると、それきり御子柴は振り返ることなく教室を出て行く。
「にしても、先輩、また背ぇ縮みました?」
「縮んでねーよ、アホが! てめーが無駄にでけえだけだろ!」
「痛って。蹴ることないじゃん」
「じゃあ、次は顔に一発入れてやるよ」
「えー? 届くかなー?」
「マジ殴る!」
ぶんぶんと腕を振り回す春日井先輩の額を抑えながら、御子柴が楽しげに笑っている。二人の姿はやがて廊下の向こうに消えていった。
俺はしばらく目を瞬かせていたが、何故か自然と眉根が寄り、口を真一文字に結んだ。
……なんか、妙に、仲良さそうだな。
「あーらら、振られちゃったの、水無瀬きゅん?」
俺の肩に腕を回してきたのは、高牧だった。高牧は顔を寄せて、ウインクしてくる。
「一人だけ御子柴の力借りて小論文完成させようだなんて、ずるいぞう?」
「聞いてたのかよ」
「はい。いつ仲間に入れてもらおうか、ずっとスタンバってました」
どっちみち御子柴と二人にはなれなかったようだ。勝手に御子柴の席に座る高牧に、俺は観念したように言った。
「とりあえず、頑張る?」
「おう、よろしくだぜ、水無瀬先生」
「いや、俺、英語苦手だし……」
購買のビニール袋からサンドウィッチを取り出しつつ、俺は気の進まない手つきで英語のノートを広げた。
結果、俺と高牧は昼休み中に、なんとか小論文を完成させた。
全ては大天使・天野さんのおかげである。
外交官の父を持つ天野さんは英語の成績はトップクラス、かつ英検準一級を持つ強者だ。兼藤ティーチャーに怒られた俺達を心配して、昼飯が終わった後、残りの時間、つきっきりで教えてくれたのだ。
何かお礼をすると言うと、いつもの人好きのする笑顔で「いいよぉ」と慎ましく遠慮し、麗しい天使は福音だけを残して去って行った。
「俺、一生、天野ちゃん推す……」
涙ながらにそう語る高牧に、俺は魂の底から同意した。
そして予鈴ギリギリで帰ってきた御子柴は、疲れた様子で席に戻ってきた。しきりに首を左右に伸ばしていた御子柴だったが、椅子に座るなり眉を顰めた。
「なんか生暖かい……」
「高牧が座ってたから」
「はあ?」
思いっきり顔を顰めた御子柴に、俺はぱたぱたと手を振る。
「いや、その、小論文するためにさ」
「できたの?」
「うん、天野さんが手伝ってくれて」
「あ、そう……」
そこで本鈴が鳴り、次の国語の教師が入ってくる。御子柴はつまらなさそうに口を尖らせていた。
「御子柴ぁ! 帰ってねーだろーな!?」
放課後になると、昼休みと同じく春日井先輩の怒鳴り声が教室中に木霊した。御子柴は溜息を吐きつつも、春日井先輩にへらりと笑ってついていく。
ちなみに次の日の火曜日も、水曜日も、昼と放課後には同じ光景が繰り返された。お決まりのように、御子柴が春日井先輩の身長をいじっては、先輩がきーきー怒るという構図も一緒だ。
「なんかあの二人、漫才師みたいだよな。いんじゃん、今流行ってる凸凹コンビ。なんつったかなー」
当然のように御子柴の席を陣取って、高牧が弁当を広げながら言う。曰く、御子柴に捨てられた俺に同情してくれているらしい。大きなお世話だ。
そして俺の右隣には、たまには一緒に昼飯を食べようと誘ってくれた設楽がいる。今日はたまたま部活の昼練がないとか。
「ああ、俺も見たことあるよ。確か若い夫婦の漫才師だよな」
「ふ、ふうふ?」
BLTサンドをかじり損ねる。設楽はのんびりと頷いた。
「うん。蚤の夫婦って言うんだっけ、ああいうの。奥さんが背高くて、旦那さんが背低いんだよ」
「あ、そ、そうなんだ……」
胸の中に黒いもやが溜まっていくのを感じる。なんだこれ。なんか気持ち悪い。サンドウィッチを呑み込んでも、カフェオレを流し込んでも、それは一向に消化される気配はなかった。
そんなとりとめもない話をしているうちに、御子柴が帰ってきた。とりあえず高牧をどかして、どっかと席に座る。眉間に皺の寄った、仏頂面だ。高牧が慇懃に頭を下げた。
「殿、温めておきました」
「よし、打ち首」
「なんでだよ! お前がいない間、代わりに水無瀬を可愛がってやってたんだぜ?」
俺に抱きついて頬ずりしてくる高牧の脳天を、御子柴は無言で三回叩いた。しかも結構いい音がした。それを見た設楽が肩を小刻みに揺らして笑う。
今日も今日とて俺の周囲は平和そのもので大変結構だが、件のタイムリミットは刻一刻と迫っている。もう木曜日だ。いい加減、ちゃんと話をしなくては。
高牧と設楽が去った後、俺は小声で御子柴に言った。
「……今日、放課後待ってる」
「え? いや、別にいいよ。時間かかるし」
「でも、待ってる」
念押しすると、御子柴はふと思案顔を浮かべた。そこへ五時間目の化学の教師がやってきて、授業が始まってしまう。
返事はついぞ聞けず終いだった。
廊下の窓から差す茜色の西日を背負って、その小柄な人影は今日もやってきた。
「オラ、行くぞ、御子柴ぁ」
月曜日から数えて四日目ともなると、うちのクラスの連中も慣れたもので、春日井先輩に見向きもしない。呼ばれた御子柴だけが溜息とともに、重い腰を上げるだけだ。
俺はというと、不退転の覚悟で自席に根を下ろしていた。どれだけ時間がかかるかは聞けなかったが、関係ない。御子柴が戻ってくるまで座して待つのみだ。
御子柴はちらりと視線を動かし、俺と春日井先輩を見比べていた。
そして業を煮やした先輩がずかずかやってくるのを見計らって、唐突に俺を指差した。
「先輩、今日は助っ人呼びません?」
「は?」
「こいつ、水無瀬っていうんです。細かい作業とか得意だし、役に立つかと」
いきなり名指しされた俺は「え?」と思わず声を上げる。
春日井先輩の眼光が俺を過り、ついで御子柴を睨み付けた。
「てめー、最低か。関係ねえ奴、巻き込んでんじゃねーよ」
それはおそらく普通に聞くと、俺を気遣ってくれた言葉なのだろう。
けど、今の俺にとっては引っかかる単語があった。
……関係ねえ奴?
がたっと椅子が鳴る。気がつくと俺は立ち上がっていた。
「——関係なくないです」
地を這うような声色に、自分でも驚いた。もちろん御子柴と春日井先輩も目を丸くしている。
「水無瀬?」
「は? どういう意味?」
春日井先輩が首を傾げて、腕を組む。改めてそう問われると冷静になり、俺はさっきの自分の言動を取り繕い始めた。
「いや……えっと、今日、御子柴と放課後用事があって……。どうせ待ってようかなって思ってたんで。やることないし、俺に出来ることなら手伝います」
春日井先輩は俺を値踏みするように見ていたが、やがて首を横に振った。
「一応、学校の生徒会っつっても選挙は選挙だ。委員以外のやつを入れるわけにはいかねー」
い、意外と真面目だな、この先輩……。突っぱねられて俺が弱り果てていると、御子柴が横から援護した。
「集計以外の作業ならいいじゃないっすか。書類の整理とかまだ残ってるって言ってたし」
「まぁ、そりゃそうだが」
「ほら先輩、いっつも猫の手も借りてーって言ってんじゃん。あれ、ほんとに言う人初めて見たけど」
「お前はいちいちうっせーな!」
「痛いって」
春日井先輩は御子柴の脇腹にパンチを入れる。……なんでこの人、こんなに暴力的なんだ。御子柴が怒らないと高を括っているんだろうか?
自分の目が再び据わり始めたのを感じていたその時、春日井先輩は後ろ頭を掻きながら俺に言った。
「あーまぁ、そういうことだから。手伝うってんなら入れてやってもいいぜ。ただし茶と菓子ぐらいしか出ねーぞ」
「分かりました」
三人で連れ立って教室を出る。大股でのしのしと先を歩く春日井先輩から離れ、御子柴は俺にそっと耳打ちしてきた。
「勝手に言ってごめんな」
「いいよ、暇つぶしになるし」
これで御子柴の仕事が早く終わるなら、俺にとっても僥倖だ。しかも御子柴と一緒にいられる。と、そこまで考えて、俺はとっさに俯いた。いやいや、何恥ずいこと言ってんだ、バカ。
「オイ、御子柴、てめーはこっちだ。逃げられたら困るからな!」
「はいはい」
春日井先輩に呼ばれ、御子柴は小走りに駆け寄ってその隣に並んだ。
「今更逃げねっすよ。ただ先輩を気づかずに、通り越しちゃうことはあるかもだけど」
「俺が小さくて見えねえって言いたいのか? あ?」
「自分で言っちゃってんじゃん」
「てめー、マジで一回シメる」
高牧と設楽が言っていた、背が凸凹の夫婦漫才師のことを思い出す。委員会室に着くまでの間、なんのかんのと言葉の応酬を繰り広げている二人の背中を、俺はじいっと眺めていた。
選挙管理委員会の部屋は教室の半分ほどの広さだった。いつもは生徒会室で、そこを選挙の間だけ間借りするというシステムらしい。壁一面にキャビネットが置かれていて、中には本や書類やファイルが敷き詰められている。
長机をいくつも並べて作った広い作業スペースに、クラスから一人選出された委員が張り付いて作業をしている。今は集計した投票結果をもう一度チェックしている段階らしく、ところどころから溜息が聞こえてきた。
「副会長候補の東条さんの結果、また合いません〜」
「書記ってもうダントツだし、数えなくてもよくないっすか?」
「あー、もうやだー、この紙見飽きた〜」
「——うるせえ、つべこべ言わず作業しろ!」
文句だらだらの委員の面々を、春日井先輩が一喝する。この先輩、やけに責任感に溢れていると思ったら、委員長らしい。
「相変わらず暑苦しい男だよねえ」
一人離れた座席に座っている俺に声をかけてきたのは、副委員長の嶋村瞳子先輩だった。肩より少し長いセミロングの黒髪に、細い赤縁眼鏡がよく映えている。
嶋村先輩は俺の向かいに座ると、一緒に書類のファイリングを手伝ってくれた。
「君、春日井が連れてきたんだって? 悪いね、委員でもないのに」
「あ、いえ。御子柴を待ってるついでなので……」
「あぁ、みこっしーのクラスメートなんだっけ」
どこかのゆるキャラみたいな呼ばれ方をしているのに、思わず苦笑する。嶋村先輩は眼鏡の奥からちらりと作業スペースを見やった。つられて俺も首を巡らせると、隣り合った席でやいのやいのと言い合っている御子柴と春日井先輩がいた。
「オイ、御子柴、カッター取れ」
「いいっすよ、俺、手足長いんで」
「届かねえんじゃねえよ!」
「えー、じゃあ自分で取ったらいいじゃん」
「てめえに頼んだ俺が馬鹿だったよ。……っ、——っっ!」
「はい、どーぞ」
「にやにやすんな、ぶっ飛ばすぞ!」
俺は軽く後悔を覚えながら、書類を綴じる作業に戻った。一方の嶋村先輩は肩をくつくつと震わせている。
「あの二人、見てて飽きないんだよねえ」
「……確か、中学の先輩後輩なんでしたっけ」
「そうそう。前からあんな調子だったのかなぁ」
中学時代——それは俺が知らない、そしてこれからも知りようがない御子柴だ。詮無い思考から逃れるように、俺は作業に集中する。
そこへガタガタと音が聞こえてきた。見れば、春日井先輩が脚立を物置のロッカーから引っ張り出してくるところだった。お目当てはキャビネットの上にある段ボールらしい。
脚立は年代物で、遠目から見ても足場が安定しておらず、いかにも危なっかしい。それに目聡く気づいた御子柴が立ち上がった。
「取りましょうか?」
「もうてめえには頼らねえよ」
「俺なら脚立なしでも届くのに」
「うるっせえな、いいからちょっと押さえてろ」
渋い顔をして脚立に登る春日井先輩を、俺は白い目で見つめた。
どうせ脚立を押さえさせるなら、御子柴に取って貰った方が早いし確実だ。そんなこと分かりきっているのに、苦笑しながら春日井先輩の言いつけ通りにする御子柴も御子柴である。
「なんか面白いことにならないかな」
嶋村先輩の期待は現実のものとなった。
脚立の上で精一杯背伸びして、ようやく段ボールに手が届いた春日井先輩が、ふいにバランスを崩したのだ。
「——うおっ!?」
段ボールとその中身が宙に舞う。ファイリングされていない書類の雨の中、春日井先輩がゆっくりと後ろに倒れ込んでいく。
その場にいた全員が息を呑んだ。
しかし、
「っ、と」
ぽすっと軽い音を立てて、春日井先輩が収まったのは、御子柴の腕の中だった。天井に向けて腕を伸ばした状態で、横抱きにされている春日井先輩。その図に委員の女子達がきゃあきゃあと歓声を上げた。
「すっごーい、少女マンガみたい!」
「お姫様抱っこって初めて見た〜」
「プリンセスじゃん、春日井。あっはっは!」
「——うるせえええッ!」
春日井先輩は御子柴から飛び降り、顔を真っ赤にして地団駄を踏んでいる。
——不意に、手元でバリッという音がした。
はっと我に返ると、ファイルに綴じたはずの書類が穴から破けていた。紙の端に強く握りしめたような皺が寄っている。
腹を抱えて笑っていた嶋村先輩が、涙を拭いながら言う。
「あはは、驚いて力入っちゃった?」
「い、いえその、はい。すみません……」
「大丈夫、穴を補強するシールあるから。取ってくんね」
嶋村先輩が椅子を引いて立ち上がる。作業スペースでは未だ歓声や笑い声が響いている。俺は破ってしまった書類を、親の仇のようにじっと睨んでいた。
すっかり夜の帳が落ちた道を、御子柴と並んで帰る。等間隔に立てられた外灯が、歩道のアスファルトに水たまりのような光を落としていた。
「ありがとな、こんな時間まで手伝ってくれて。おかげで明日にはちゃんと終わりそうだって」
「そっか……」
柔和な笑みを向けてくる御子柴に、しかし俺は気のない返事しかできなかった。慣れない人達に囲まれて疲れたのだろうか、うまく思考がまとまらない。それを知ってか知らずか、御子柴は明るい口調で続けた。
「春日井先輩、お前のこと褒めてたしな。あの人、滅多にあんなこと言わねーよ?」
俺と嶋村先輩で書類整理を終えたと報告した時のことを思い出す。春日井先輩は満足げな表情で俺に言っていた。
「見上げた根性だな、誰かさんと違って」
「先輩、いっつも見上げてますもんね」
「てめー、今にガチでボコるかんな」
付属的に思い出されるのは、春日井先輩と御子柴の会話だ。俺はぎゅっと鞄の持ち手を握りしめる。
「……褒められても、嬉しくない」
「え? 何て?」
「いや、なんでも」
軽く首を振って、とっさに出た小さな呟きを振り払う。外灯が一瞬だけ頭上を照らす。俺は今、どんな表情をしているのだろうか。それが暴かれていないことだけを祈った。
「うまくいけば水無瀬と一緒に作業できると思ったんだけどな。先輩、全然放してくんねーから」
「あの先輩、付き合い長いの?」
「中学の頃、おんなじようなことしてただけ。幽霊部員にしてもらったり。ま、面倒見はいい人なんだよな。ちょっと口うるさいけど」
「ふうん」
「でもからかいがいがあって楽しいぜ? きゃんきゃん吼えてるの、子犬みてーじゃね? うちの犬、大型犬だからそういうのなくってさ。なんか新鮮っていうか可愛いっていうか」
「ふううううん」
「……どした?」
「別に」
そっけなく返した俺に、御子柴は微苦笑を返した。
「水無瀬はああいう人、あんま得意じゃなさそうだもんな」
「そういうわけじゃないけど。ちょっと……御子柴に甘えすぎなんじゃって思っただけ」
「それはねえよ、逆はあるけど」
なんで、春日井先輩の肩持つんだよ。そんな風に文句を言いそうになったのを、すんでのところで呑み込む。
それにどの口が言うんだ。
いつだって——今日だって授業で当てられた時、散々甘えておいて。
あの日、逃げ出したくせに、ずっと許されておいて。
「……ごめん」
「何が?」
いつもの別れ道に差し掛かる。
俺は立ち止まって俯いた。土日の件について話さなければならない。でも感情が散り散りに乱れていて、どうしたらいいか分からない。
「その……」
何か言わなければ。そう思うのに、もごもごと口ごもってばかりの俺の肩を、御子柴が軽く叩いた。
「送ってくわ、手伝ってくれたお礼」
「え、でも」
「いいからいいから」
さっさと歩き出す御子柴の背を小走りに追いかける。
俺にとっては気まずい沈黙がしばらく続く。ただ御子柴はその限りではないようで、不意に肩を揺らして小さく吹き出した。俺は思わず首を傾げる。
「なんだよ?」
「いや、勘違いだったら恥ずいんだけど。——もしかして妬いてる?」
「んなっ」
脳天に雷が落ちたように俺は動けなくなった。ぎくりと歩みを止めてしまった俺に、御子柴は堪えきれないとばかりに笑い始めた。
「ぶっ——あははは、ごめんごめん。お前がそんな風に考えるなんて思わなくて。先輩のこと可愛いとか言っちゃったわ」
「べ、べつに、別にっ……!」
「あー、あとあれ、お姫様抱っこはまずかったよな。とっさに手が出ちゃったっていうか。怒ってる? ごめんな?」
「うるさいばかっ!」
やけに弾んだ声で形式的に謝ってくる御子柴を振り払うように、俺は大股で住宅街を先へと進んだ。それなりの早足だったのだが、リーチの差なのか、御子柴は悠々と追いついてくる。
いよいよ俺の家のマンションが近づいてきたところで、御子柴は苦笑交じりに言った。
「んな心配しなくても、俺はお前のもんだよ」
マンションの入り口の前で立ち止まる。俺は耳まで赤いのを自覚しながら、表情を隠すように俯いた。
視線だけでちらりと御子柴を見やると、柔らかく細められた目と目が合う。
俺は一度強く拳を握ると、ほどいたその手で御子柴の腕を掴んだ。
「何?」
「こっち」
エントランスの脇を通り過ぎ、地下駐車場への入り口を目指す。洞窟のように暗い駐車場には幸いなことに人影は見当たらなかった。
コンクリートで塗り固められた太い柱の陰まで、御子柴を連れて行く。
きょとんとしている御子柴を正面から見つめ、俺は言った。
「——土日、行く」
形の良い眉が少し困ったように下がる。
「勢いで言ってね?」
「お前だって勢いで言ってたろ」
「そうだけど。でも、俺は言うのを迷ってただけで」
「もう決めたんだ」
……どうして、俺なんだろう。
俺はお前のもんだよ、そう言われた時——いや、きっとそれよりもずっと前からそう思っていた。
具体的に聞いたことはない。俺がそうであるように、さしもの御子柴にだってきっと簡単に言葉で表せるものではないと思ったからだ。
それなのにどうしてなんだろう、こんなにも心が揺らぐのは。足元がいつも覚束ないのは。そう易々と形にできないと分かっているのに、いや、だからこそ少しでもその輪郭が知りたい。
「今の関係は居心地がいいよ。でもずっとそれじゃ嫌だ」
恐る恐る、御子柴の手を握る。けどそれじゃ遠すぎる気がして、俺は自然と自分の心臓の上にその手の平を導いた。
「——お前が俺のもんだっていうなら、俺もちゃんとお前のもんにして欲しい」
暗がりの中、非常用扉の光にうっすらと照らされた御子柴の表情から色が抜け落ちる。
大きく見開かれた瞳に、一瞬きらりと光が過る。
それはまるで暗い夜空に輝く、一条の白い流れ星のようだった。
不意に、胸の上から手が離れた。かと思うと、御子柴はずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。
「いや……マジ、どこでそんな言葉覚えてくんの、お前……」
「じ、自分で考えたよ、ちゃんと」
「なお悪いわ」
御子柴は心底疲れたように深々と溜息を吐いた。そうして諸々を吹っ切るように勢いよく立ち上がると、ずいっと俺に顔を近づけた。
「言っとくけど、こればっかりは取り消したら泣くからな」
「と、取り消さねーよ」
「……ん、分かった」
ようやく俺から身を離すと、御子柴は柔らかく微笑んだ。
ふわりと漂ってくるような、紛れもない幸福の匂いがする。こっちが恥ずかしくなってきて、俺は反射的に俯いた。
「しゃーねーから、明日も集計頑張るか。これもあのチビ先輩のおかげだしな」
ここでその名前を出すか。じとっと御子柴を睨むと、全て見透かしたように頭を撫でられた。
「嘘だって、怒るなって。水無瀬が一番可愛いよ」
「嬉しくない」
ぺしっと頭の上の手を払う。俺のつっけんどんな態度を一向に意に介さず、御子柴はへらへらと口元を緩めっぱなしだった。
駐車場を出て、エントランスの前まで戻り、御子柴を見送る。
「じゃ、また明日。んで、週末な」
「うん」
小さく手を振り返す。住宅街の角を曲がっていく背を見送っていると、御子柴がちらりと肩越しにもう一度、手を振ってきた。
改めて一人きりになり、俺はゆっくりと頭上を仰いだ。住宅街の明かりと電線越しに見上げた夜空に、さっき御子柴の瞳の中にあったような、白い彗星を探すように。
暮れなずむその一軒家を見て、俺はぽかんと口を開けていた。
鉄製のお洒落な装飾が施された門扉のそばに、御子柴という表札が掲げられている。
間違いない、ここだ。けど——
「……でかくね?」
自分にしか聞こえない小さな声で、ぽつりと呟く。
御子柴邸は住宅街の角地にあった。
周囲にも立派な家は多々あれど、ここは一線を画している。
煉瓦造りの塀、その外周には名前は分からないけど、冬でも色とりどりの綺麗な花を咲かせる生け垣がぐるりと囲む。庭も広く、枯れた色の芝生が生えていた。これが春や夏になると青々と芽吹くのだろう。
庭の奥にある家屋はこれまた立派だった。
珍しい薄緑色の屋根に、壁はベージュ、十は下らないであろう窓が外からの西日を浴びている。ポーチ付きの立派な玄関や円筒形のサンルームなんかも見える。
母屋とはまた別に離れがあって、こちらはこぢんまりとしているものの、それでもゆうに一家族は暮らせそうだ。
つまり、豪邸中の豪邸だった。御子柴は場所が分からなかったら連絡しろと言っていたが、ここを見落とすわけがない。全部で百坪はあるんじゃないだろうか……といっても、俺は具体的に百坪がどれぐらいか分かってないので、完全なるイメージだけど。
いつまでも立ち止まって口をあんぐり開けているわけにもいかないので、俺は恐る恐る門に歩み寄った。インターホンを発見し、まじまじと見つめる。こんなに押すのをためらうインターホンは初めてだ。
人差し指をうろうろと彷徨わせていると、傍にあった門ががしゃん、と鳴った。びくっと肩を竦めて振り返る。
そこには真っ白い大型犬がいた。ふわふわの毛並みを揺らして、わふわふと門に飛びついている。まさか番犬か? 俺は慌てふためいた。
「い、いや、不審者ではなくて……!」
はぁはぁと荒い息のまま、白い大きな犬は俺に向かってくるのをやめない。道でランニングをしていた男性がちらりとこちらを見やった。まずいまずい、早くインターホンを鳴らさないと——
「どうしたー? クロー?」
庭の向こうにある玄関ががちゃりと開いた。そこから見慣れた姿が顔を出し、俺はほっと息を吐いた。
「御子柴」
「おー、いらっしゃい」
のんびりと歩いてきた御子柴は、未だ門に飛びつく犬の首あたりを撫でて宥めた。
淡いインディゴのパッチワークデザインのセーターに、濃い色のデニムを履いている。
内側から門を開けられ、家人に迎え入れられると、俺はようやく人権を得た気分になった。
「場所、分かった?」
「こんなでかい家、分からないわけ——うわっ!」
俺が敷地に入るなり、犬が飛びついてくる。腿辺りに前足を乗せて、きらきらした黒い目で俺を見つめてくる。どことなく御子柴の瞳に似ているような気がした。
「こーら、クロ。ステイ」
「ええと、こちらは?」
「ああ、クロードっていうの。ごめんな、人なつっこくてさ」
なるほど、番犬として警戒されていたわけではなく、単に見慣れない人が珍しかったのか。そうと分かると可愛くなって、俺はしゃがみこみ、クロードと目線を合わせた。
「はじめまして。今日と明日、お世話になります」
わふっ! と吼えたクロードは俺の肩に手を置いた。重みを感じたのも束の間、ぺろぺろと頬を舐めてくる。ぎょっとする俺をもちろん意にも介さず、クロードは鼻や顎も一通り舐めていった。……あはは、くすぐったいよ、とか言った方がいいんだろうか?
——パシャ、と傍らから音がした。
「え?」
振り返ると、御子柴が無言でスマホをこちらに向けて、カメラを連写している。クロードはますます俺に寄りかかってきては、荒い息を耳に吹きかけていく。
「何してんの?」
「撮ってる」
「み、見りゃ分かる。勝手に撮るな」
「ここ、俺んちの敷地だし。何しても良し」
「治外法権かよ……」
御子柴の手がじっと動かなくなる。どうやらムービーに切り替えたらしい。俺はクロードをやんわり引き剥がすと、御子柴からスマホを奪い、録画を止めた。
「とりあえず、中へどーぞ」
にっこり笑いながら、御子柴はさっと俺からスマホを奪い返す。くそ、データ消せなかった……
「分かったよ、お邪魔します」
「はいはーい」
歩き出した俺達についてきたクロードはしかし、玄関の前でぴたりと止まった。お座りの格好をしているクロードを御子柴が撫でる。呼吸と共に白い毛を揺らしながら、クロードは円らな瞳で、玄関へ入っていく俺達をじっと見送っていた。
他人の家に入ると、嗅ぎ慣れない匂いがする。
玄関で脱いだ靴を揃えながら、全身が薄い膜の形をした緊張感に包まれるのを、俺は肌で感じた。御子柴やその家族が過ごしてきた時間が作り出した、独特の家の雰囲気。その中で俺は紛れもない異分子だ。
高校に入ってから、人の家に上がるなんてことなかったからだろうか。廊下のフローリングを踏み締めても、どことなく足元がふわふわと浮ついている感覚がした。
廊下の突き当たりにあるドアの向こうは、広いリビングダイニングだった。
毛足の長いグレーのラグが敷いてあるスペースがリビングだ。
革張りのキャメルブラウンのソファが、コの字型に置かれている。
ガラスのローテーブルを挟んで向かいには、大きなテレビが壁にかけられていた。でかい……でかすぎる。一体何インチなんだろう。七十、いや八十? 横にして床に置けば俺が余裕で寝そべれそうなほどの大きさだ。
ソファの背の向こう側はダイニングだった。
こちらは規格外に広いというほどではなく、よくある四人がけのテーブルだ。ただテーブルの真ん中に一輪挿しが飾られているのがおしゃれだ。あと上に何もない。うちのダイニングテーブルには何かしらハガキやプリントの類が置かれているもんだけど。
「お茶入れるから適当に座って」
そう言って御子柴はキッチンへ向かった。リビングダイニングと地続きのアイランドキッチンである。
御子柴は壁に備え付けられている冷蔵庫から麦茶を入った冷水筒を取り出して、コップに注いでいく。
俺はなんとか自分の居場所を確保しようときょろきょろと部屋を見回し、結局、ソファの隅っこに落ち着いた。
「なんでそんな端?」
苦笑と共に、麦茶が運ばれてくる。
御子柴はソファの真ん中らへんに座ると、ちょいちょいと俺を手招きした。俺は立ち上がって呼ばれるがままに御子柴の隣に腰を下ろす。
喉が渇いていた。麦茶を一息で半分飲み干す。その慣れた味だけが俺の拠り所であった。
「緊張してんの?」
「するだろ、こんな立派な家……。庭付き一戸建てに白い犬とか、どんだけだよ」
「どんだけって何が?」
ピンときてない様子の御子柴に、俺は内心溜息をついた。
それに家が立派すぎるからという理由だけで、緊張しているわけでもない。
天井から床まである大きな窓からは、茜色の光がカーテンに透けている。それは次第に傾きを増し、色濃く、暗くなっていく。夕方の街は静かだった。そして御子柴邸の中も、誰の足音も声もおろか、気配すら感じない。
……ほんとに、二人きり……
いやいやいや、何をいきなり意識してんだ、バカ。俺は麦茶のもう半分を一気に飲み下す。
「さぁーてと」
御子柴は急に立ち上がり、背筋を伸ばした。俺が目を瞬かせて見上げていると、申し訳なさそうに眉を下げる。
「俺、これからちょっと練習してくるわ。一応、夜も指動かしておきたいから」
「えっ、ああ、ピアノか……」
「うん。その後、クロードの散歩。悪いけど、六時ぐらいまで適当にしといて」
俺は思わずテレビの上の壁掛け時計を見た。現在時刻、四時半。……え、あと一時間半も?
「練習室、防音だから、何かあったら電話掛けて。んじゃ」
そう言ってすたすた去って行こうとする御子柴の背中に、俺は思わず声をかけた。
「あっ、あのさ」
「ん?」
「……いや、えっと。クロードの散歩って難しい?」
御子柴はこちらに向き直り、後ろ頭を掻いた。
「いつものコースはクロが知ってるし、難しくはないけど……。え、何、行くの?」
「あ、うん……。俺だけぼーっとしてるのもあれだし。何か手伝えればと思って」
瞬きを繰り返していた御子柴は、やがてすいっと目を細めた。
「ふーん。つまり水無瀬くんは、少しでも俺と一緒にいる時間を増やしたいと」
「ち、ちがっ——親切心、気遣い!」
「はいはい。じゃあ、お願いしようかな。これ、リード」
ぽいっと放られた太いベルト状のリードを受け取る。上機嫌な足取りでリビングを出て行く御子柴を、俺は半眼で睨み付けた。
門を出ると、クロードは勝手知ったる風にとことこと歩き始めた。俺は半ば引っ張られるようにして、クロードについていく。
住宅街にある背の高いマンションの影に隠れていた夕日が、再び顔を出す。数歩先にいるクロードの毛並みが茜色に染まって、きらきらと輝いていた。
いつもの散歩コースというのは俺の家の方角だった。俺としては来た道を戻っていく格好になる。二ブロック先の角を曲がって南へ進む。電車の高架下をくぐった先に、近所では割と大きめな川の下流が見えてきた。
クロードはたしたしと軽快な足音を響かせながら、川縁を歩いて行く。俺達の右側を流れる川面はゆったりと海へ向けて流れていく。小さな三角の波を描く水面が夕日を細かく弾いていた。
ぐいっとリードを引っ張られる感覚がした。クロードは急に方向を変えたかと思うと、土手へ続く階段を降りて行く。少し遅れて俺も続いた。
クロードはまるで川の行く末を見守るかのように、土手で座り込んだ。
「……いつもここで休憩するのか?」
もちろん返る言葉はない。俺はクロードの横に腰掛けた。むきだしの地面の冷たさがデニムを通して伝わってくる。とはいえ、今日は風もなく穏やかだ。
三月に入ってから温かくなったり寒くなったりを繰り返している気がする。それを表現する言葉があった気がしたが、頭の中の辞書をひっくり返しても見当たらなかった。
「御子柴に聞けば分かるかな……」
静かに川を眺めていたクロードがこちらを振り向いた。主人の名前に反応したのかもしれない。俺はさっき御子柴がそうしていたようにクロードの首元を撫でた。クロードは気持ちよさそうに瞳を細めていた。
「今日さ。お前のご主人様とずっと一緒にいられるんだ」
ぽろっと言葉が転がり落ちる。クロードが静かに聞いてくれているのをいいことに、俺は続けた。
「ちょっと照れくさいけど……。でも実はすごく嬉しい」
今の言葉が、ちょっとどころではなく恥ずかしいと思い当たる。俺はクロードに顔を近づけ、自分の唇にそっと人差し指を宛がった。
「これ、一応、内緒な」
わふっ、と返事がきたものだから、思わず笑ってしまった。俺は立ち上がると、可愛い共犯者を連れて、しばらく土手を歩いた。
「……問題発生」
クロードの散歩から帰ってくるなり、御子柴がこめかみを押さえてそう言った。
連れられて行ったのは、母屋と廊下で繋がっている離れだった。そこには御子柴のおばあちゃんが住んでいるらしい。いわゆる二世帯住宅ってやつだ。
曰く、おばあちゃんが夕飯を作り置きしてくれているということだったらしいが——
『ごめんなさい、涼馬。旅行の準備にばたばたしてたら、カレーを作りそびれてしまいました 花枝』
……という、分かりやすい書き置きがリビングのテーブルの上にあった。
母屋よりは幾分こぢんまりとしたリビングダイニングだった。俺の家よりも若干手狭なぐらいだろうか。物珍しげにきょろきょろしている俺の隣で、御子柴は深い溜息をついた。
「どーする? ピザでも頼む?」
「あー、えと」
俺はちらりとカウンターキッチンを見やった。ガスコンロの上に大きな鍋が置いてある。が、きっと中身は空だろう。でも作ろうとしていた、ということは。
「材料はあるんだよな?」
「うーん、まぁ、そりゃそうじゃね」
「——もし台所使って良かったら、俺、作るけど」
「えっ」
御子柴は目を丸くして固まった。あ、さては料理なんてできんのかって疑ってんな? 俺は腰に手を当てて、口を尖らせた。
「言っとくけど、うちで夕飯作ってんの俺だから」
「そうなの?」
「カレーなんて何百回も作ってるし。……で、使っていいのか、台所?」
「あ……うん、いいよ」
「分かった」
お邪魔します、と小さく呟いて、俺はカウンターキッチンの中へ入った。入り口に赤いギンガムチェックのエプロンがかけてあったので、拝借する。
冷蔵庫の中身を確認すると、カレーの材料はちゃんと揃っていた。俺はエプロンのヒモを締め直して、さっそく作業に取りかかった。
空っぽの鍋にオリーブオイルを引いて、角切り牛肉を焼く。その間ににんじん、たまねぎ、じゃがいもをそれぞれカットしていった。
にんじんは皮を剥いていちょう切り、たまねぎはボリュームが出るようにくし切り、じゃがいもは皮をよく洗って残すのが水無瀬家流である。もちろんじゃがいもの芽を取り除くのは忘れずに。
と、作業が一区切りついたところで、入り口から強烈な視線を感じ、俺は振り返った。そこには俺の一挙手一投足をじっと見守る御子柴がいた。
「な、何?」
「見てる」
「いや、なんで?」
「見なきゃ損じゃない?」
言っている意味がまったく分からない。御子柴は俺に歩み寄ってきて、ぴったりと隣につく。
「手際いいなー」
「だからいつもやってんだって。……危ないから向こう行ってろ。一応、包丁握ってんだぞ」
「じゃあ、手しまっておくから」
言って、御子柴は後ろで手を組む。俺は非常にやりにくさを感じながら、じゃがいもを輪切りにしていった。
十分、焦げ目のついた牛肉の上に、にんじんとたまねぎを入れて炒めていく。じゃがいもは煮崩れする可能性があるので、俺は煮込む直前に入れる。
鍋の中で肉と野菜が上に下に混ぜ合わさっていくのを、御子柴は興味津々とばかりに覗き込んでくる。……いや、近い近い。
「邪魔?」
「邪魔っていうか……邪魔」
じゃがいもを加えて軽く炒める終える。俺はシンクに向かい、メジャーに水を入れた。それをそのまま鍋に入れる。ちょうど具材がひたひたになる量だ。
そこでいつものように隠し味を入れようとして、はたと動きを止める。
「おばあちゃん、いつもどうやって作ってる? ……って分かんないか」
「うーん、見たことねーなぁ」
「そっか。俺、ここに砂糖入れるんだけど、しないほうがいいかな……」
「いや、水無瀬カレーでお願いします」
手を合わせて頭まで下げる御子柴に面食らう。
「あ、うん、いいけど……」
「やった」
何故か御子柴は満面の笑みを浮かべる。俺は首を捻りながら、御子柴がそう言うなら、といつも通りカレーを作った。
ぐつぐつ煮えた鍋の中の灰汁を取っている間も、御子柴は台所を離れようとしなかった。
「他はどんなもん作れんの?」
「別に普通だよ。ハンバーグとかオムライスとか筑前煮とか?」
「はいはい、俺、ハンバーグ好きでーす」
「手、上げるな。危ない。好きって言われても……作る機会がないっていうか」
「何、機会があれば作ってくれんの? 俺のために?」
「お、お前が言い出したんだろ」
「俺は好きとしか言ってないけど?」
いつもの減らず口に腹が立って、危うく熱い灰汁をかけそうになるところだった。落ち着け、俺は大人だ。もうすぐ選挙権を得る立派な大人なんだ。そう言い聞かせて自制する。
「ごめん、嘘だって。いつか食いたいな、水無瀬のハンバーグも」
一転、殊勝な様子でねだる御子柴に、俺はぎゅっと口を尖らせた。
くそ、綺麗な顔でにっこり笑えばなんでも通ると思って。分かっているのに、俺はカレールーのパッケージを確認するふりをしながら、もごもごと言った。
「じゃあ、今度、できたら……気が向いたら……弁当作ってくる」
「え、マジ!?」
「いらないならいい」
「いるいる、いります。てか、手作り弁当かー……うわー」
その反応はバレンタインに生チョコを作って来た時のことを彷彿とさせた。あの時は、まぁ、喜んでくれたから、今もきっとそうなんだろう。鍋にルーを割り入れながら、俺は密かに口元を緩めた。
かくして、無事に夕食が出来上がった。
御子柴のおばあちゃん家の食卓に並んだのは、カレーライスとサラダだ。
サラダも残っていた生野菜を拝借して、簡単に作った物だ。千切りキャベツにトマトに缶詰のコーン。彩りがあるとなかなか立派に見える。
『いただきます』
食卓を挟んで、向かい合って座った御子柴と手を合わせる。御子柴がスプーンでカレーを掬い、口に運ぶのを、俺はなんとはなしにじっと見守っていた。
「んっ、うまい」
一口食べてそう言った御子柴に、俺はほっと肩の力を抜いた。御子柴はいつものように早食いで、カレーを飲み物か何かのように平らげていく。
それを見て俺も思いだしたように、サラダのトマトをつまむ。
「おばあちゃんのと味違う?」
「違うけど、うまい」
御子柴の皿は瞬く間に空になってしまった。すぐさま立ち上がり、弾むような足取りでおかわりを取りに行く様子を見て、俺はそっと俯いた。
口の形が変になりそうなのを必死に堪える。顔が火照っているのを、辛さのせいにしたくて、ルーを多めにしてカレーを頬張った。
腹がいっぱいになったところで、時刻は夜の七時を回っていた。
一通りの片付けを終えた後、俺と御子柴は再び母屋の方に戻っていた。
ソファに座った御子柴にならって隣に腰掛ける。御子柴は首を左右に傾けて筋を伸ばしながら、思案げな口調で言った。
「んー、何する? つっても、うち、ゲームとかねーんだよなぁ」
手持ち無沙汰を誤魔化すように、御子柴はリモコンを手に取り、適当にテレビをつけた。ちょうど七時のニュースの時間帯だった。年度末らしく、各地で卒業式が行われている様子が映し出されている。
チャンネルを変えればバラエティなどもやっているだろうが、特にこれといって見たい番組はない。俺もまた困ったように首を捻っていると、御子柴が「あっ」と手を打った。
「そういや設楽からブルーレイ借りてたわ。一緒に観る?」
映画か。いいかもしれない。俺は二つ返事で頷いた。
「あぁ、見る見る。なんの?」
「ゾンビの」
「ゾン——」
予定が決まってわくわくしていた俺は、さっと表情を凍らせた。
それを見逃す御子柴ではない。目の前の顔は、一瞬で意地の悪い笑みに取って代わった。
「もしかして、苦手?」
「べ、別に……その。苦手ではないけど、あんまり見たことは……ない」
「じゃあ、観ようぜ。あ、せっかくだし明かり消す? 雰囲気でるじゃん?」
「え、あ……。お、おう」
ソファから離れると、御子柴は本当にリビングの明かりを全て消してしまった。
テレビだけが皓々とした光を放っている。
それを頼りに、御子柴はテレビに内蔵されているブルーレイプレーヤーに、設楽から借りたらしい映画のディスクを入れ始めた。
パッケージには血みどろのゾンビが群れを成して迫ってくるジャケットが描かれている。やがて起動したメニュー画面では、ゾンビが大写しになり、耳をつんざくような唸り声を上げた。
俺は思わず手近にあったクッションを引き寄せた。
はっとして顔を上げる。再び俺の隣に座った御子柴が、にやにやと口角を上げている。
「やめとく?」
「いけるし」
さもこれから映画を鑑賞する体勢ですよ、と言わんばかりにクッションを膝元に置く。御子柴は無慈悲にもあっさりとプレイボタンを押した。
——三十分後。
グロテスクとスプラッタとジャンプスケアの連続に、俺は恥も外聞もなくクッションを抱きしめていた。ソファの上で三角座りをして、身を縮こまらせている。
脇役の女性が廃墟を彷徨う静かなシーンに、鼓動は高まる一方だった。俺は極力目を細めて、視界を狭めていた。
「お前、観てなくね?」
足と腕を組んで、ソファの上でふんぞり返っている御子柴は、まるで食後の休憩のようなリラックスっぷりである。一方の俺はさっきのカレーが喉元からせり上がってきそうだった。
「分かってんだよ、こっちは……。もうすぐ来んだろ、分かってるし」
「来るってゾンビ?」
「見てろ、あの窓から来るぞ。絶対来る」
「えー、俺はむしろ——」
御子柴が言いかけた瞬間、廃墟の天井が派手に崩壊した。
「うわあああッ!」
突然の大音声に飛び上がりそうになる。女性の前に現れたのは、人が数人も無理矢理くっつけられたような、グロテスクな大型ゾンビだ。
女性は絶叫して逃げだそうとするが、鋭い爪が生えたゾンビの手に捕まり、そのまま半身を食いちぎられた……と思う。
思う、というのは、俺がすでにクッションに顔を埋めて、その後の展開を見守ることができなかったからだ。聞くに堪えない悲鳴と共に、女性が神への慈悲を請いながら、やがて喋らなくなる——それだけが耳から入ってくる。
「あれ、ドアからかと思ったのに」
などと呑気に言う隣の男には、人の心が備わっていないのだろうか。あの女性には優しい旦那さんも可愛い子供もいたのに……!
クッションから顔を上げられない俺を見て、御子柴が苦笑する。
「あんま無理すんなよ」
「してないし……」
「お前って、なんてーか、外さねえよなー」
「どういう意味だよ」
テレビの中が静かになったので、ようやくそろそろと顔を上げる。
すると御子柴がひょいっと俺の手からクッションを取り上げた。寄る辺をなくした俺は思わず「あっ」と声を上げて、手を伸ばす。が、御子柴はソファの裏側にクッションを隠してしまった。
意地を張っている手前、返せとも言えず、むすっと口を真一文字に結ぶ。そんな俺に御子柴はにこやかに両腕を広げてみせた。
「怖かったら俺に抱きついたらいいじゃん」
「怖いとか……じゃないし。ちょっとびっくりするだけで……」
「——あ、またゾンビ出てきそう」
つられて画面を見ると、カップルが逃げ込んだ先のあばら小屋に、すでに無数のゾンビが待ち構えている場面だった。
悲鳴と血飛沫と唸り声が、何重にも折り重なる。
「うわあああっ」
矢も楯もたまらず、反射的に御子柴の胴にしがみつく。御子柴は突撃してきた俺を抱き留めて、あははと上機嫌に笑っていた。あのカップルはもうすぐ結婚する予定だったのに——やっぱりこいつには人の心がない!
たっぷり二時間、そのホラー映画は続いた。
ストーリーは最初から最後まで救いがなかった。ゾンビによるパンデミックに見舞われたその街は、封鎖された上、軍に空爆された。生き残った人間は誰一人としておらず、地図から街が一個消えてなくなるというシーンで映画は終わった。
スタッフロールが流れる頃には、俺は干物のようになっていた。ソファの背もたれに頭ごと預け、ようやく照明が灯った天井を呆然と眺めている。
さすがの御子柴も心配になったようで、ソファから立ち上がり、背もたれ側から俺の顔を覗き込んでくる。
「だいじょぶ?」
「……俺、言ってなかったけど、ホラー苦手なんです……」
「うん、見れば分かる。よく分かる」
「変な汗がひどい……」
パーカーのしめった襟元をくつろげていると、御子柴は微苦笑を浮かべた。
「今、風呂入れてくるから」
そうしてすたすたとリビングを出て行ってしまう。正直、まだ一人にしてほしくなかったが、さすがにそんな情けないことは言えない。
俺は御子柴が放り捨ててしまったクッションを拾い上げ、極度の緊張で疲労した体を、ぽすんとソファに横たえた。
九十度傾いたリビングの景色が、ぼんやりと視界に映る。
時計の針は午後九時を回っていた。
閉じられたカーテンの外は静かだった。きっと窓の外には夜の帳が降りていて、空には月が浮かんでいるのだろう。
夜は長い。これから月が沈んで、朝日が昇るまで、ここで過ごすのかと思うとなんとも不思議な気分だった。そもそも友達の家に泊まるのなんて何年ぶりかな。下手したら小学生の頃以来かもしれない。
——いや、違う。
ここは……友達の家じゃない。
俺と、御子柴は。
「……っ!」
腕の中で四角いクッションがぎゅっとひしゃげる。
ホラー映画に与えられたものとはまた違う緊張感が、俺の心臓を痛いほど叩いた。
夜。これから、風呂に入って……。それから、ええと、多分。
二人で、寝——
「——ウガアアァッ」
「うわあああ!」
突然、聞こえた声に、俺は絶叫してソファから転げ落ちた。
いつの間にか戻ってきていた、御子柴が両手を広げて、舌を出し、ゾンビの真似事をしている。床にへたりこんでいる俺を見て、腹を抱えて笑っている。
「はは、びっくりした?」
「うるさいばか!」
クッションを投げつけるも、難なくキャッチされてしまう。くそっ、最後に死んだ主人公の代わりに、こいつがゾンビに襲われれば良かったのに!
「うちの風呂、すぐ沸くから準備してな」
歯をむき出しにして怒る俺を意にも介さず、御子柴は部屋の隅に目配せした。
そこには俺が持ってきたリュックが置いてある。泊まりの荷物だ。といっても、着替え一式と歯ブラシとパジャマぐらいしか持ってきてないけど。
俺は背後を警戒しながら、荷物を開ける。また驚かせにくるんじゃないかと、俺がちらちらと振り返る度に、御子柴は堪えきれないとばかりに肩を震わせていた。
ふん、と鼻を鳴らして、替えの下着を取り出す。と、そこで俺は自分の失策に気づいた。
「あれ……?」
用意しておいたはずのパジャマがなかった。リュックの中身をひっくり返しても、見当たらない。おかしい、忘れないように一番最初に用意しておいたのに。——いや、そういえばリュックの脇に置いたまま、入れてこなかった気もする。
「どした? 忘れ物?」
「ああ、うん……ごめん、パジャマなくて。取りに帰ろうかな」
こういう時は近所だと助かるな、などと思っていると、御子柴が言った。
「めんどくせーじゃん。俺のジャージで良かったら貸すけど」
「いいのか?」
「おう。ちゃんと洗ってありますよ」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
俺がそう言った時、ガス給湯器のパネルから音楽が鳴り響き、『お風呂が沸きました』とアナウンスが聞こえた。御子柴が踵を返す。
「脱衣所に置いとくから、入ってな」
背中越しにひらひらと手を振って、リビングを出て行く。
……ったく、なんなんだよ。
手酷くからかったかと思ったら、さらりと親切に気を遣う。
いつもこうだ。——総じて、ずるいんだ、あいつは。
俺は納得のいかないまま、一人、唇をぎゅっと窄めていた。
足を伸ばせる広い湯船から、白い蒸気が沸き上がっている。
熱いお湯に肩まで浸かった俺は、体の底から深い息を吐いた。
ホラー映画とその他諸々で掻いた変な汗をシャワーで流し、こうして湯船に身を沈めていると、緊張も疲労もお湯に溶けていってしまうようだった。
暖色系のライトが照らすバスルームは瀟洒な造りだった。
ダークブラウンの木目調の壁に、横に長い曇り一つない鏡。普通のシャワーとは別に天井にもシャワーが設置されていて、ここはホテルか何かかと疑いたくなる。置いてあるシャンプーやボディソープは、見たことのないパッケージでどこか高級感があった。
他人の家の風呂場はなんとなく居場所がなくて、俺は湯船の中で膝を抱えた。気まぐれに肩へお湯をかけてみる。ぱしゃぱしゃと水しぶきが、白い湯気の中で舞った。
いつまでもそうしているわけにもいかないので、湯船から出る。ざぱっと波が立った。髪と身体を洗おうと、椅子に腰掛ける。ふと目の前の鏡に映った自分の上半身を見つめる。
なんの変哲もない体だ。いや、ちょっと色が白くて、筋肉もそれほどついてなく、貧弱な印象がある。あんまり気にしたことはなかったけれど、まじまじと見てしまうと、なんだか落胆してしまう。
ぺたぺたと自分の手で、胸や腹を触ってみる。固くて、骨張っていて、手触りはよろしくない。それでも手の平の感触を肌で受けていると、不意にいつぞやの保健室での出来事が甦る。
——御子柴に触れられるのは、今とは全然違う感覚だった。
別になんてことはないはずなのに、どこか落ち着かなくて。自分とは違う誰かの、御子柴の体温が触れたところから伝わってきて、それこそ湯船に浸かっているような安心感と、火傷しそうなほどの熱が同居している、不思議な感覚を今も覚えている。指を立てられると神経がそこに集中して痛いほどだった。ましてや、濡れた唇を押し当てられると——
ぶわっと顔に血が集まるのが分かった。俺は巡る思考を振り切るように、ボディスポンジにソープを染みこませ、ごしごしと体を洗った。それはもう念入りに洗うつもりだった。
だって、そうじゃないと。この後……
「いやいやいやいや!」
ぶんぶんと首を振る。スポンジを強く押し当てて、親の仇のように自分の体を洗う。泡を流すと、ところどころ皮膚が赤くなっていたが、そんなことは気にしていられなかった。
暇が出来れば変なことを考えそうだったので、すぐさまシャンプーを手にとって、髪の毛を泡立てる。
こうなったら、全身、洗って洗って洗い尽くしてやる。頭の天辺からつま先まで。指の間だって、膝の裏だって、嫌というほど綺麗にしてやる。特に、別に、意味はないけど!
——と、俺が勢いづいていたのは、ここまでだった。
ひりひりする肌とがさがさする頭皮を持て余しながら、再び湯船に身を沈めると、そこから一向に動けなくなった。俺はさっきと同様膝を抱えて、その間に口元を埋めた。
まるで自分の殻に閉じこもった貝のようだった。
ここを出た後のことを考えると、どうしてもバスルームを出る決意がつかない。
「ううう……」
壁に俺の小さな唸り声が反響する。
温度を保つように設定された湯が、じわじわと俺の体温を上げていった。
当然だが、結果、逆上せた。
頭がくらくらする。体が熱い。喉がからからだ。
俺はふらふらしながら、やっとの思いで御子柴が置いていってくれたジャージを着た。体格差をそのまま反映したように、ジャージはぶかぶかだった。特に気になったのは袖と裾の余りだ。捲って対処したが、なんだか女性が男性の服を無理矢理着ているようだった。
ドライヤーで髪を乾かす気力はなく、わしゃわしゃとタオルで拭くだけにする。タオルを肩に引っかけ、ほうほうの体で脱衣所を出ようとすると、ドアが突然ノックされた。
「水無瀬?」
くぐもった御子柴の声が聞こえてきた。鍵を開けてそろそろと戸を引くと、目を丸くした御子柴が立っていた。
「……いっつもこんな長風呂なの?」
「あ、いや、ちょっと疲れて寝かかってた……」
嘘がばれないよう、タオルで口元を覆う。御子柴はへらっと笑みを浮かべた。
「びっくりした。溺れてんのかと思った」
どうやらいつまで経っても上がってこないから、心配してくれたらしい。罪悪感から何と言っていいか分からず、うろうろと視線を彷徨わせていると、御子柴がちょいっと俺が着ているジャージの袖を摘まんだ。
「やっぱサイズ合わないな」
「……誰かさんは手足が長いもんな」
「あ、分かる? 丈がさ、Lじゃないとさー」
「はいはい、どうせ俺は合いませんよ」
ふいっと顔を背ける。俺の目の前に御子柴の腕が伸びてきた。
「んなことねーよ」
腕はあっという間に背中に回り、ぐいっと引き寄せられた。
「ぶかいの可愛い」
突き放せば逃げられる程度の力で、柔らかく抱きしめられる。
俺は御子柴の肩口に頬で触れ、鼻先を掠める御子柴の匂いに、目を見開いた。首からずれたタオルが、ぱたりと床に落ちる。俺が硬直したまま動けないうちに、御子柴は満足したのか一瞬の抱擁を終えた。
「じゃ、俺も入ろっかな」
「あ、ああ。お先でした……」
「そうだ、二階の突き当たりが俺の部屋だから、上がってて」
「うん。——え!?」
御子柴と入れ替わるように脱衣所を出た俺は、思わず体ごと振り返った。
……部屋? 御子柴の、部屋!?
「喉渇いたろ。麦茶置いといたから、勝手に飲んどいて」
「あー、そ、そっか。分かった」
「よろしくー」
からっと音を立てて、引き戸が閉められる。
廊下に一人取り残された俺は、それこそゾンビのように緩慢な足取りで、のろのろと廊下の奥にある階段を登っていく。そう、だよな。うん、お茶……お茶を飲みにいくんだ、うん。
二階に上がり、裸足でぺたぺたと板張りの床を歩く。
廊下はそれほど長くなく、俺は突き当たりの——御子柴の部屋のドアの前にすぐ辿り着いてしまった。
取っ手を押し下げて、そろそろとドアを開く。
まるで泥棒のように忍び足で部屋に入ると、俺は後ろ手に扉を閉めた。
手近にあった照明のスイッチを入れる。
ぱっと閃いたシーリングライトが部屋の全貌を照らし出した。
「お、ぉ……」
謎の感嘆を漏らす。部屋の主がいないことをいいことに、俺はまじまじと部屋を見回した。
俺の部屋よりも一回り広いように感じた。
清潔感のあるオフホワイトの壁紙に、部屋の左右に大小の窓が二つ。
小窓のそばには白と黒のモノトーンで統一されているデスクがあった。俺なんか未だに小学校入学と同時に買ってもらった学習机を使っているのに。
真っ白な天板の上には、ノートパソコンとタブレットが置いてあった。隅にはアルミのフォトフレームに入った幼いクロードの写真が飾ってある。
すぐ横に設えているスチールラックには、いくつかの教科書や参考書、それに棚の一段分を占拠しているたくさんの楽譜が差してある。それと楽譜と同じくらいたくさんのCD。J−POPやロック、映画のサントラなんかもあったが、背表紙を見るにそのほとんどがクラシックだった。
「あれ、一つ割れてる……」
好奇心で手が出てしまった。
それは女性ピアニストのCDで、しかも見覚えがあった。これ、この前、シマさんの店で買った新しいやつじゃ? とはいっても何があったかは知る由もないので、俺は御子柴が来ないうちにCDを棚に戻した。
部屋の中央には楕円型のラグが敷いてあり、折りたたみ式のローテーブルが広げられていた。その上に御子柴の言った通り麦茶のピッチャーが置いてある。俺は唐突に喉の乾きを思い出し、お言葉に甘えてお茶をいただくことにした。
ラグの上に座り、ガラスのコップに入れた麦茶を一気に飲み干す。
やっと喉が潤った俺の意識は、否が応でも背後に向いていた。
肩越しにちらっと見やる。大きい方の窓に沿うようにして、ベッドが置いてあった。グレー一色のカバーの掛け布団、真っ白いシーツ、大きめの枕。ホテルライクというのだろうか、とにかくこっちも洒落ている。俺のベッドより少し大きい気がした。多分、セミダブルサイズだ。
セミダブルという単語に良からぬ考えがよぎりそうになり、俺はぶんぶんと首を横に振る。それでも虚空に浮かんだ想像は消えてくれず、麦茶をおかわりして無理矢理喉に流し込んだ。
さっきから脈拍の速さがおかしい。体が熱いのは逆上せたせいだけではないと、自分自身が誰より分かっていた。
空になったグラスを両手でぎゅっと握り締める。透明なグラスの底を穴が開くほど見つめても、一向に落ち着かない。背中に目でもついているのかと思うぐらい、さっき見たベッドが網膜に焼き付いて離れない。
今日、ほんとに俺、ここにいるんだよな。
一晩中、御子柴と一緒の家にいるんだよな。
それって、だって、ほんとに、本当に——
「お待たせー」
「うわああっ」
なんの前触れもなく開いたドアと入り込んだ声に、俺は今日何度目かもしれない叫び声を上げた。手から零れたグラスがころりとテーブルの上に転がる。
スポーツタオルを肩からかけた、ジャージ姿の御子柴は、きょとんと目を瞬かせた。
「何、まだゾンビ引きずってんの?」
「いや、はは……そうかも……」
「だから言ったじゃん。やめとこうかって」
そう言う割りには顔ににやりとした笑みを貼り付けつつ、御子柴は俺の隣に座った。ピッチャーから麦茶をグラスに入れて、一息に飲んでいる。上向いた喉仏がごくりと上下するのに、なんとなく見入ってしまう。
ぷはぁ、と満足げに息を吐いた御子柴は、頬に伝う雫をタオルの端でぬぐった。濡れそぼった髪の先が肌に張り付いている。前髪が無造作に上げられていて、いつもと印象が大分違った。見たことのない日常の中の御子柴に、俺は落ち着きなく組んだ足をもぞもぞと動かした。
「あ、そうだ。お前、ちゃんと髪乾かせよ」
言って、御子柴はいつの間にか手に持っていたドライヤーを取り出した。多分、洗面所から持ってきたのだろう。俺は自分の生乾きの髪をつまんだ。
「ああ、そういえば……」
「風邪引くぞ。あとハゲる」
「え!? マジ?」
「マジマジ。濡れたままだと頭皮に雑菌? が沸くんだって。んでハゲんだって」
何気なく恐ろしいことを言う。俺は忠告に従ってドライヤーを受け取ろうとした。しかし御子柴は何を思ったか、ひょいっとそれを持ち上げてしまう。俺はじとっと御子柴を睨んだ。
「なんだよ、金でも取んのか」
「ちげーよ。俺にやらせて」
「……何て?」
「水無瀬の髪、乾かしたい」
御子柴はさっさとドライヤーをコンセントに繋げてしまう。スイッチを入れると、ごうごうとドライヤーが温風を伴って唸り始めた。そして返事を聞きもせず、俺の後頭部を抱えると、ドライヤーを向け、くせっ毛をかき混ぜ始めた。
こうなると抵抗しても無駄であることは、俺もいい加減学習していた。仕方なしにおとなしくする。
それに……御子柴の指が髪を梳く感覚は、悪くなかった。長い五指が思いのほかゆっくりと慎重に、俺の頭を行き来する。ドライヤーの温風と優しい手つきに、さっきまでの緊張も忘れて、全身の力が抜けていくのを感じた。
「はい、終了。次、俺ね」
おもむろにドライヤーを手渡され、くるりと背を向けられる。ぼんやりしていた俺は、はっと我に返った。
「はぁ?」
「早くー」
あぐらをかいた御子柴が、左右にゆらゆらと揺れる。あからさまな催促に負け、俺は無言でドライヤーを目の前の後ろ頭に向けた。
さっき自分がされたように、根元をかきまぜながら、温風を当てていく。風呂に入ったばかりだからか、元々髪の密度が高いからか、俺と違ってなかなか乾かない。
それでも根気強くドライヤーを当てていると、水分が飛んで、軽くなってきた。同時に信じられないほどツヤが出てくる。指の間を通る感触は、シルクのようになめらかで、シャンプーのCMかなんかに出られるんじゃないかとすら思った。
「美容院とかでも思うけどさ、髪の毛乾かされてると、眠くならねえ?」
ごうごうという音の合間から、御子柴がのんびりと呟いた。ついさっき実体験した俺は頷いた。
「まぁ、確かに」
「あと水無瀬の指、きもちい」
俺も、と同意しそうになって、危うく口を噤む。
「それぐらいでいいよ、ありがと」
完全に乾ききる前に、御子柴にドライヤーを取られた。もう少ししていたかったような残念な気持ちを自覚していると、御子柴がそのまま後ろに倒れてきた。
「う、おっ」
御子柴が俺の胸に後頭部を傾けてくる。風呂上がりの体温やシャンプーの香りがこれ以上なく身近に迫って、俺の鼓動が再び早まった。
「あー、いいなこれ」
御子柴は無防備に俺に体重を預けている。
なんだ、これ……。え? 自分の家だから? リラックスしてるのか、いやそれ以上に、あの御子柴がふにゃふにゃで……。あとなんかすごい甘えられてる?
——こんなの、俺しか知らないんじゃ。
そう考えが行き着くと、どうしようもなくなった。
「このまま寝れたら幸せだなー」
俺ははっとして、御子柴の背中をぐいっと押し上げた。御子柴は特に抵抗することなく、起き上がる。
「なんだよ、いいじゃんケチ」
「うるさい、重いんだよ」
俺は怒った振りをして、口を固く結ぶ。本音を言うと、しばらくあのままでも別に良かった。
けど……寝られて放っておかれるのは、なんか嫌だ。
そんなこと思った自分が自分で、不思議だった。
ひた隠した俺の心情を知ってか知らずか、御子柴は自室をぐるりと見回した。
「俺の部屋、物色した?」
「——へっ!?」
突然、そう指摘され、俺はぎくりと肩を跳ね上げた。
な、なんで分かった!? ほとんど何にも触ってないのに!
「いや、俺が水無瀬の部屋に入ったら、色々見るし」
「み、見んな!」
「えー、普通そうしない? 何か見たいものある?」
開けっぴろげなのか、サービス精神旺盛なのか、そんなことを言い出す御子柴に、俺は気になるものが一つあったことを思い出した。
「そういえば、割れてるCDあったけど、あれ、シマさんの店で買ったやつ?」
「あ……。あれ、あの日の帰りにソッコー落とした」
「ええ? 大丈夫だったのかよ、中身」
「んー、なんとか」
御子柴は一拍遅れて、苦笑を浮かべた。なんだかその笑顔がいつもよりぎこちない気がした。
「そうだ。んなもんより、アルバム見ねえ? 小さい頃の俺、めちゃくちゃ可愛いから」
「自分で言うな」
とはいえ、大いに興味があった。御子柴は素早い手つきで棚からアルバムを取り出すと、ローテーブルの上に広げた。
アルバムの中には数々の写真が並べられていた。生まれたばかりの頃から、はいはい、よちよち歩き……と、時系列順に続いていく。
「う……確かに可愛い」
「だろ?」
さすがというかなんというか、御子柴は赤ん坊時代から、むかつくほど顔立ちが整っていた。
一歳頃にはもう髪の毛が生えそろっていて、目は大きくて黒々としていて、愛くるしいことこの上ない。フォトスタジオで撮ったと思しき写真なんかは、まるでキッズモデルである。
「幼稚園まではよく女の子に間違われてたらしいぜ」
とは言うものの、さすがに小学校に上がる頃には、顔立ちが男子のそれになっていた。当たり前のように端整な顔立ちだ。
あとこの頃からピアノの発表会だかコンクールだか分からないけど、正装している姿もちらほら見受けられて、ますます子役かなにかに見える。
「あんま背、高くないな」
「そーそー、中学から一気に伸び始めたんだよな」
写真の中の御子柴は制服姿に変わっていた。中学時代はブレザーだったようだ。紺色の上着とスラックス、臙脂色のネクタイ——そんな格好が新鮮に映る。
ここにあるのは俺の知らない御子柴ばかりだ。
知られた嬉しさと同時に、そのどれもが四角く切り取られた一部ばかりで、なんとなく寂寥感が胸を過る。
高校の入学式で、アルバムは終わっていた。
「なんか、すごいちゃんとしてんな」
小さい頃はともかく、俺のアルバムなんてここまで充実していないだろう。中学になればせいぜい一、二枚、高校の写真なんて一枚もないかもしれない。
「ばーちゃんがすげー綺麗に残してくれてんだよな。あとうちの親父、写真が趣味だから」
「そうなんだ」
「最近は忙しいから、あんまカメラにも触ってねーけど。でもたまの休みに庭とかクロードとか撮ってるぜ。俺も撮らしてくれって言われるけど、全力で拒否ってる」
まぁ、その気持ちは分からないでもない。十七にもなって親のカメラに収まるのは少し照れくさいだろう。
「……あ、でも」
写真が挟まっていない、アルバムの続きを指で撫でながら、御子柴が続けた。
「今度、水無瀬と写真撮ってもらおっかな」
「え? お、俺?」
突然の提案に、俺はおろおろと視線を彷徨わせる。
「いや、でも……俺、笑うのとか苦手で」
「いいんじゃね、別に笑ってなくても。親父もなんてーの、自然な被写体を撮るのが好き、とかなんとか言ってたし」
「そういうもん?」
「らしい」
アルバムから視線を外し、御子柴は俺に目を向けた。外に広がっているであろう、夜空のような色の瞳が、柔和に細められる。
「直近だとやっぱ終業式? あ、それから三年に上がった時も撮ってもらおうぜ。体育祭とか文化祭とか。そっからもずっと」
無邪気に笑う御子柴から、俺は目が離せなかった。
どうしてだろう、瞳の奥がじわっと熱くなるのは。
その言葉に胸の中がどうしようもなく満たされるのは。
「……うん」
俺は端から滲む視界の中、かろうじて頷いた。
御子柴の表情から笑みが消える。
やばい、泣きそうになっているのがバレたかな、引かれたかも。なんとか感情を平坦に保ち、慌てて言い訳をしようとしたところで、御子柴の指がそっと頬に触れてきた。
髪の間をすり抜けて、大きな手が片頬を包み込む。そのぬくもりは途方もない感情を俺にもたらした。
それは多分——愛しさ、という名前なのだろう。
どちらからともなく身を寄せ合う。瞼をゆっくり閉じると同時に、柔らかい感覚が唇に触れた。角度を変えて、軽いキスを繰り返す。その度に鼻先が触れて、羽で撫でられるようなくすぐったさを覚えた。
数えられる程度の回数そうしているうちに、いつの間にか腰に回っていた御子柴の腕にぐっと力が入った。熱い舌が差し込まれる。痛いほど脈打つ心臓の高鳴りも置き去りにして、俺はその動きに必死に応じた。
両手は縋り付くように御子柴の背中に回り、知らず知らずのうちに俺達は体を密着させ、深く抱き合っていた。
御子柴は無言で額を寄せた。至近距離から見る御子柴の瞳はあまりにも美しかった。きっと俺がこの前見損ねたプラネタリウムはこんな光景を映し出すのだろう、と思った。
「好きだよ」
なんの飾り気もない言葉が、俺の胸の底まで深く根ざす。荒い呼吸の間からなんとか返したくて、でも真っ直ぐ見るにはあまりにも恥ずかしくて、俺はそっと目を伏せた。
「……俺も」
やっと返した小さな言葉ごと、苦しいほど抱きしめられた。
身動きできないからだけじゃない、もっと本質的なもどかしさに俺はか細い息を吐く。こんなに近くにいるのに、御子柴の存在が遠い気がした。世界中の誰よりも、手が届かない場所にいるような。
いや、違う。
足りないんだ。
こんな距離じゃ、何もかも足りない。
もっとずっと近くにいたい。
この世界の、他の何もかもが見えないぐらい——そばに。
「水無瀬……」
深みのある声が耳朶を打つ。抱きしめる力が緩んだかと思うと、御子柴は唐突に俺の首の後ろと膝の裏に腕を差し入れた。
「よっ、と」
「うわっ」
そのまま突然、持ち上げられた。俺は思わず御子柴の首っ玉にかじりつく。いつぞやの春日井先輩のように横抱きにされた俺は、すぐさま傍のベッドにぼすっと落とされた。
反射的に目を瞑る。マットレスが背中を受け止めたので痛みはなかったが。
「お前、なにす——」
細く目を開けて、文句を言おうとした俺の両側で、ぎしっとスプリングが鳴った。
体の上に、影が落ちる。
天井から照明を受けて、薄く逆光になった御子柴が、俺に覆い被さっている。
「……俺、お前のこと、こうしたいんだけど」
らしくなく強張った表情で、切羽詰まった声で、ぽつりと言われる。
俺はしばらく呆気に取られて御子柴を見上げていたが、言わんとしていることにじわじわと理解が及ぶと、一挙に熱が顔に集まってきた。
じっと俺を半ば睨み付けている御子柴の瞳は、至って真剣だった。痛いぐらいに真摯だった。黒曜石のような輝きの中に、ちらちらと燻る炎が見えた途端、俺の心臓がどくどくと大きく脈打ち始める。
詰めていた息を、細く長く吐く。言うべき言葉は分かっていたが、このまま視線を合わせていたら、どうにかなってしまいそうだった。
だから、
「いちいち聞くな、そんなこと……」
俺は自分を情けなく思いながら、少しだけ顔を背け、手の甲で口元を覆った。
「……御子柴になら、何されてもいいよ、俺——」
視線を背けた先のシーツがぎゅうっと握り絞められた。深い皺の寄ったシーツ。御子柴の指は力が入りすぎて真っ白になっている。
見ると、御子柴はがっくりと項垂れていた。
「お前は、また、そういうことを……。俺がとんでもない性癖持ってるド変態だったらどうするわけ?」
「そうなのかよ」
「違うけど」
「ならいいだろ」
「いいのかよ……」
心底疲れたように御子柴は溜息を吐いた。
そしてそのまま呆れ果てたような表情で、俺の頬を撫でた。親指が耳の輪郭を確かめるようになぞり、人差し指が首筋を辿った。皮膚が粟立つ感覚が羞恥心を煽る。御子柴の手が、俺の喉元にあるファスナーにかかったのに気づき、焦って言った。
「で、電気は消せって」
「あ、バレた。なるべく色々見たいんだけどな」
こいつ……やっぱりちょっと変な性癖が入っているのでは?
「いいじゃん、この前は明るかったし」
保健室でのことだ。あの時はほんとどうかしていたとしか思えない。真っ赤な顔をしていては迫力も何もないが、とにかく俺が睨み付けると、御子柴は渋々ベッドサイドのリモコンに手を伸ばした。
ピッ、という電子音がして、部屋の照明が落ちる。
全てが薄い暗闇に沈んだ。それでも視界が完全に閉ざされなかったのは、カーテンから外の光がぼんやりと漏れてくるからだ。月光なのか外灯なのか、あるいはその両方なのか、暗い部屋に青白い明かりが差し込んでいる。
さながら、御子柴と二人、海中に落ちていくような光景だった。海面から与えられる陽光がどんどん少なくなって、青くて暗くて静かな海の底に沈み込んでいくような——
「水無瀬」
名前を呼ばれると同時に、手と手が重なった。応じるように指を絡めると、唇を塞がれた。
意識がぷかりと浮かび上がった。夜の海の底から海面へと浮上するように。
薄く目を開けると、そこは見慣れない部屋だった。
モノトーンのデスクの傍にある小窓から、薄く朝日が差し込んでいる。横を向いていた体を緩慢な動作で仰向けに転がすと、これまた見慣れない天井があった。シーリングライトは消灯したままだった。
「あ、起きた」
さらに顔を右に向けると、同じベッドに御子柴が半身を起こして座っていた。
すぐ横の窓によりかかってスマホを触っている。ちらりと見えたのはメッセージアプリの画面で、誰かとやりとりしているようだった。
それも一区切りついたのか、御子柴はベッドサイドにスマホを置いて、カーテンを勢いよく開けた。
しゃっという音と共に、待ち構えていたように日の光がなだれ込んでくる。
「まぶしっ」
俺はとっさに頭まで布団をかぶった。
「はい、もう起きる」
「んー……!」
布団を剥ぎ取られそうになるのに、なんとか抵抗する。御子柴は意外と諦めが早かった。「はぁ、もう」などと溜息を吐いている。
しばらくダンゴムシのように丸まっていた俺は、布団からちらりと目だけを覗かせた。御子柴は可笑しそうに肩を振るわせていた。
「前から思ってたけど、水無瀬ってよく寝るよな」
「悪いかよ」
「いや、いいんじゃん。ぐーすか寝てるの可愛いし。三歳の甥っ子に似てる」
「子供扱いすんな……」
「誤解だって。——俺、ガキにはあんなことしねーよ?」
にやりと吊り上げられた唇を見て、呆気に取られていたのは一瞬だった。
こいつの思惑通りだということは分かっているのに、顔がぼんっと沸騰した。一拍遅れて、昨夜のあれやこれやが津波のように襲ってくる。
俺はがばっと上半身を起こすと、手近にあった枕で何度も御子柴を叩いた。
「うるさいばかっ、お前はっ、朝からっ、何言ってんだ!」
「痛いって。暴れるな、ステイステイ」
俺はクロードじゃない! 大きく振りかぶった枕を掴まれ、強引に引き寄せられる。
体勢を崩した俺を難なく受け止めて、御子柴は音もなく口づけてきた。
「——おはよう、水無瀬」
鼻先が触れるほど近くで、にっこりと微笑まれる。
俺はぐっと言葉に詰まって、枕に顔を埋めた。
……完っ全に分かっててやってる、こいつ。自分の顔がいいって知ってるし、それに弱い俺のことも分かってる。それを俺も分かってる。なのに逆らえない。
「汗かいたろ、シャワー浴びてきたら?」
「ん……」
穏やかにそう促され、俺はもぞもぞと枕から身を離した。御子柴のことを睨んだままベッドを降りて、部屋のドアに向かう。
「あ、一緒に入る?」
言うと思った、このばか。
「入らないっ」
俺はわざと音を立てて、ドアを開閉した。
一人、廊下に出ると、途端に朝の静寂が身に染みこんでくる。
俺はまずリビングに向かって着替えを取ると、昨日も使わせてもらった洗面所兼脱衣所に向かった。
その間中、頭を過るのはもちろん昨夜のことだった。いちいち具体的に思い出しては、その度に立ち止まって頭を抱えた。
何を……なんてことをしてしまったんだ。下手に思考に囚われると叫び出しそうになる。
脱衣所に入った俺はさっさと熱いシャワーで諸々を流してしまおうと、服を脱いだ。洗面台の鏡に自分の姿が映る。
保健室でのことを思い出し、はっとして肌をくまなくチェックした。首に、肩に、胸、それから背中——
「あれ……」
鏡に映る自分の上半身は綺麗なものだった。いや、綺麗ではないけれど……少なくとも、あの時のような鬱血の跡はなかった。
そういえば、昨夜は強く吸い上げられるようなことはされなかったような気がする。必死すぎて細かいことまでは覚えてないけれど、この跡のない体が証拠だろう。
「そっか……」
俯いて呟いた自分の声が、思った以上にか細いのに驚く。
い、いやいやいや。別に残念なんて思ってないし。大体、あの感覚ちょっと苦手なんだよ。痛いとかそういうんじゃないけど、なんかこういてもたってもいられなくなるっていうか。
でも……一回ぐらいは。一個ぐらいは……
「——あーもう!」
俺はぶんぶんと大きく首を振った。そして今度こそ服を綺麗さっぱり脱ぎ捨てて、頭からシャワーを浴びた。最初は冷たい水が出ることを失念していて、悲鳴を上げたけれど。
俺と入れ替わるように、御子柴もシャワーを浴びに来た。
冷水と温水に翻弄された俺は、すでにちょっと疲れていた。パーカーとジーンズに着替えた俺がよろよろしていると、御子柴が小首を傾げた。
「だいじょぶ?」
「おう……。あ、そうだ。朝飯どうする?」
「んー、なんも考えてなかった」
「キッチン使ってもいいなら、またなんか作るよ」
「え? ほんと?」
御子柴の瞳が輝く。それを見て少し元気を取り戻した俺は俺で、現金なものだった。
俺は早速リビングに向かった。
キッチンを見ると、食パンが一斤置いてあった。
誰もいなかったけど、一応「失礼します」と断って冷蔵庫を開ける。ジャムにバター、卵にベーコン、野菜室にはレタスとトマトがあった。うん、それなりの朝食が作れそうだ。
まずはサラダを作る。トマトを切って、レタスをちぎっていると、御子柴がリビングに現れた。リネンシャツにネイビーのニットカーディガンを着ている。カラスの行水もいいところだ、と俺は苦笑した。
トーストを焼いて、ベーコンエッグを作る。御子柴は昨日と同じように、俺の作業を見守っていた。正直言って、ちょっとやりにくい。困ったように見やると、無邪気な笑みを返された。……くそ、やっぱりずるい。
「水無瀬は、いつも朝なに飲むの?」
電気ケトルで湯を沸かしながら、御子柴が尋ねてくる。
「紅茶かな」
「おっけー」
御子柴は上の戸棚からティーパックを取り出している。背伸びすらせずに届いてしまうのはさすがだ。春日井先輩が見たら怒るだろうな、と思った。
すぐにお湯が沸く。ティーパックを入れたマグカップにお湯を注ぐ手つきを、俺ははらはらと見やった。
「指、火傷するなよ」
「お前って結構、過保護だよな……」
朝食を用意し終え、向かい合ってテーブルにつく。
俺はマグカップに口をつけた。トーストを頬張っている御子柴をちらりと見やる。
朝から早食いは健在で、すでにトーストは半分以下に減っている。いつも思うけど、特にがっつくような動作ではないのに、魔法のように食べ物がなくなっていくのは、どういう仕組みになっているのだろう。
「あ……あのさ」
「うん?」
指についたジャムを舐め取りながら、御子柴が言う。俺は瑪瑙色の紅茶に視線を落とし、口ごもった。
「昨日は、あの、なんていうか……ごめん」
「え、何が?」
「いや、だって。俺、その——」
紅茶の水面に映った自分の顔に、朱が差している気がする。俺はしばらく言い淀んでいたが、やがてぼそぼそと続けた。
「ああいうこと、えっと……は、初めてというか。色々、迷惑かけたし、やっぱ、あんま、うまくできなかったかな、って……。それに、中途半端だったかも、だし——」
今気づいたけど、これ、食事中にする話か? やっぱやめよう、と提案しようとしたが、御子柴は一向に気にすることなく、ベーコンエッグを箸で突いていた。
俺も紅茶を飲んで落ち着こうと、再びカップを持ち上げたところで、御子柴は何気なく言った。
「中途半端って、入れなかったから?」
「ぶッ——」
熱っ、熱い! 淹れ立ての紅茶を飲んでる時にぶっこむな! 涙目になる俺を意にも介さず、御子柴は続けた。
「別にいいんじゃね。俺だって初めてだし、あんなもんだろ」
俺は一瞬、唇がひりひりするのも忘れて、御子柴を見つめた。
御子柴はベーコンエッグを一口で食べ、もぐもぐと咀嚼している。そしてのんびり「んー、うまい」などと呟いていた。
ぽかんとしていた俺は、我に返る。
「あ……ああ、その、男と——ってこと?」
「いや、人生通して」
「嘘じゃん」
俺は即座に真顔で返した。
「嘘すぎんだろ。え、気ぃ使ってる?」
「なんでだよ、嘘ついてどうすんだよ」
「彼女、いたことあるだろ」
「それは、まぁ」
「じゃあやっぱ嘘じゃねーか」
「誰ともそこまでいかなかったんだよ」
「嘘だ」
「俺、告られるのにすぐフラれるタイプだから」
「嘘つき」
「それにそういう気分にもなれなかったんだよな。淡泊なのかなーってちょっと悩んだり」
「ホラ吹き」
「なので、水無瀬くんと同じ身綺麗な童貞だから、安心してください」
「大嘘つきッ!」
思わず立ち上がると、御子柴もまた応じるようにゆっくりと腰を上げた。
その表情には凄みのある笑みが張り付いている。
「しつけーな、お前も。ほんとだって言ってんだろ」
言うなり、パーカーの襟元をぐいっと引っ張られた。
御子柴がテーブルの上に身を乗り出して、俺の首筋に唇を当てがう。あっ、と思う間もなく、皮膚を強く吸われる。
血が吸い上げられる感覚に、ぞわっと全身が粟立つ。慌てて椅子に腰を下ろした俺を見下ろしながら、御子柴は口端を吊り上げた。
「そう焦んなよ。——俺はお前のもんだし、お前は俺のもんなんだから」
俺はへなへなとテーブルに突っ伏し、首をさすった。
「さ、ご飯はお行儀良く食べましょーね」
何事もなかったかのように椅子に座り、優雅な仕草で紅茶を飲む御子柴に、俺は小さな声で「はい……」と返した。
——春が、やってくる。
授業中だった。換気のために教室の窓が薄く開けられている。そこから暖かい風が入り込み、季節の変わり目の揺らぐような匂いを残して、廊下へと通り抜けた。
俺はつい窓の外に目をやった。
空は青く澄み渡り、雲一つなかった。正午前の太陽は随分と高くなっていて、燦々とした光が街に降り注いでいる。砂っぽい校庭も、正門から真っ直ぐ伸びる通学路も、見慣れた街並みも、全てが輝いている。
長く寒い冬が終わって、ようやく訪れた芽吹きの春を、目一杯享受している。そんな風に見えた。
「……というわけで、今年度の私の授業を終わります」
数学の一条先生が言った。
同時に、四時間目の終了を報せるチャイムが鳴り響いたので、慌てて教壇に視線を戻すと、なんと一条先生はずびずびと鼻を鳴らして泣いていた。
「み、みなさん、ありがとうございましたっ……。これでっ、私はっ、産休に入ります。みんなのこと忘れないからねっ——!」
「えっ、一条ちゃん辞めちゃうの?」
クラスの女子が声を上げる。一条先生は目元を拭いながら言った。
「辞めないけど。でも寂しいよおお」
「先生……うちらのクラスが初めてなんだね。最後の授業するの」
「ううん、これで五回目……」
「——嘘でしょ、いい加減慣れない!?」
「だって何度やっても寂しいんだもん。う゛おおおおおん!」
教壇に突っ伏して、おっさんのような野太い声で泣き始めた一条先生を、どんな感情で見ればいいのか俺は完全に見失った。
授業は一応終わったので、女子数人が困惑しながら慰めに行く。一条先生はいつまで経っても帰らない。寂しいのは分かる、生徒思いの先生なのも。
ただちょっともう出てってくれないかな、飯食いづらいな、という雰囲気が教室中を包み始めた。
「屋上行こうぜ」
くるっとこちらを振り向いたのは御子柴だ。その手に購買のビニール袋はない。
代わりに俺が大きめのランチトートを持ってきていた。なんだか女子っぽくて恥ずかしいが、母さんに借りたものだからしょうがない。
「おう」
と、何気ない風を装って立ち上がる。
連れ立って廊下を歩く御子柴の足取りは軽かった。反面、俺はランチトートの持ち手を固く握って、その一歩後ろをついていく。
御子柴が屋上への扉を開けると、ぶわりと風が押し寄せた。教室に流れ込んできていた風とは、強さも濃度も全然違う。匂いや、温度が。
外に出るとそれがもっと顕著になる。頭上には青空が広がっていて、太陽が惜しみなく輝いていた。
真っ白な屋上の床に影を落としながら、俺達はフェンス際まで進む。何故か、足元がふわふわと浮ついておぼつかない。まるで雲の上にいるようだった。
「早く早く」
御子柴に手首を掴まれ、フェンスを背に座る。子供のような顔をして、期待を隠そうともしない御子柴に根負けし、俺はランチトートの中身を取り出した。
弁当箱が二つ、入っていた。その片方を御子柴に手渡すと、仰々しく頭を下げられた。
「ごちになります!」
その仕草がおかしくて、俺は思わず苦笑した。
二人同時に弁当箱の蓋をぱかっと開ける。
中身はまったく同じだ。
しゃけのふりかけが乗った白飯が半分を占めている。もう半分はおかずだ。ひじきと豆の煮物に、甘い卵焼き、ポテトサラダ、彩りにプチトマトが二つ。
それから——御子柴のリクエストであるハンバーグ。弁当用に小ぶりな作りだ。
「いただきます」
俺は箸を箱から取り出して、ひじきの煮物をぱくりとつまんだ。
しかしどうしても隣が気になって視線を動かすと、御子柴は未だ手も着けず、じっと弁当を見つめていた。
「え……なんか、苦手なもの入ってた?」
一応、事前に聞いておいたんだけど……。こいつ、別に嫌いな食べ物ないって言ってなかったっけ?
俺が眉を曇らせていると、御子柴ははっと目を瞬かせた。
「ああ、いや、だいじょぶだけど」
珍しく歯切れが悪い。もしかしてもっと豪勢なものを想像されていたんだろうか。運動会でお母さんが張り切って作る重箱のような。
俺は不安ごと白米を口に押し込んだ。
「言っとくけど、俺が作れるのなんてそんなもんだぞ」
「違うって。感動してんの」
「え?」
御子柴は弁当を持ち上げたり、違う角度から見たりして、矯めつ眇めつしている。
「これが水無瀬が俺のために作った弁当かー」
「お、俺のためってなんだよ」
「違うの?」
「ち……がわないけど。つーか、早く食べろよ」
「えー、もったいない」
どうやら本気でそう思っているらしく、御子柴は弁当の中身を眺めて、上機嫌に目を細めていた。
俺はもう見ていられなくて、御子柴の手から弁当を奪い取ると、箸でハンバーグを持ち上げ、御子柴の口に突っ込んだ。
「もがっ」
と、呻きつつも、御子柴はもぐもぐとハンバーグを咀嚼する。いつもは早食いのくせに、まるで見せ付けるかのようによく噛んで食べていた。
ようやくごくんと喉元が上下する。
「めちゃくちゃうまい」
「……そりゃどーも」
俺は御子柴の手に弁当箱を押しつけると、自分の分を再び食べ始めた。御子柴も観念したか、箸を動かし始める。
「あー、卵焼き甘いの好き」
「良かったな」
「ポテサラのじゃがいも具合ちょうどいい」
「じゃがいも具合ってなんだよ」
「ひじきもおいしい」
「……そう」
「飯、冷えてもうまいなー。ふりかけいいねー」
「いや、その……」
「うーん、プチトマト」
「——うるさいな、もう黙って食えよっ」
俺は箸を折れんばかりに握り締めた。プチトマトのへたを指で摘まんだまま、御子柴はにっこりと微笑んだ。
「ありがとな、水無瀬」
慌てて、顔を背けた。だが隠しきれなかったらしく、御子柴の指が俺の耳殻に触れる。
「耳、真っ赤」
「触るな、ばか」
払いのける前に、御子柴の手は逃げるように離れていく。
俺は誤魔化すように弁当をかきこんだ。結果、いつもとは反対に俺の方が早く食べ終えてしまった。
「ごちそーさまでした」
俺に遅れること少し、隣の弁当もようやく空になる。昼飯を食うだけなのになんでこんなに疲れるのだろう。俺は溜息交じりに呟いた。
「……おそまつさまでした」
御子柴から空の弁当箱を受け取り、さっさとランチトートにしまう。御子柴はペットボトルのミネラルウォーターを飲みながら、残念そうに言った。
「あーあ、食べ終わっちゃったな」
終わる。
その言葉に俺はふと動きを止めた。御子柴はフェンスに背中を預けながら、空を見上げた。
「つーか、一条ちゃん、泣きすぎだったよな。悪いけど、途中からちょっと笑いそうになったわ」
「だって……産休前の最後の授業だろ。しょうがないってか……」
「でも俺ら別に卒業生ってわけじゃないのに。三年なら分かるけど」
俺はぎゅっと目を眇めた。何も返さない俺に、御子柴が首を傾げた。
「水無瀬?」
膝の上で強く拳を握る。唇を固く結んでいないと、余計なことを言ってしまいそうだった。
俺の顔を覗き込んだ御子柴が目を丸くする。
「え……お前、泣いてる? そんな一条ちゃんのこと好きだったの?」
「違う」
「いや、即否定してやんなよ……」
戸惑ったように御子柴が言う。俺はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「今日、最後なんだぞ。二年の、最後……」
明日は終業式だった。つまり通常の授業は今日で終わりだ。
——御子柴と同じ教室で過ごすのも。
目の前を見れば、背中がすぐそこにあって。
くるりとこちらを振り向いてくれれば、いつでも顔が見られて。
一緒に廊下に出て、屋上に上がって、昼飯を食べて。
全部、終わるかもしれない。
「一条先生じゃないけどさ、俺……俺は……」
声の震えを意地で押しとどめる。
それ以上、何も言えなくなった。
俯く俺の頭を、御子柴の手がぽんぽんと叩いた。端からじわじわと滲んでいく視界に、御子柴の微笑みが映る。
「まだ分かんねーじゃん。また同じクラスになれるかもだし」
「七クラスあるんだぞ、無理だ」
「でもそのうち文理が五つだろ。つまり五分の一」
そんな分の悪いくじ、当たるわけない。離ればなれになる確率の方が断然高いじゃないか。御子柴の言うとおり可能性がないわけではないけど、俺はそれほど楽観的にはなれない。
「それに別々になっても、会えなくなるわけじゃないだろ。大げさだってば。んな、明日、世界が終わるんじゃあるまいし——」
「分かってるよ!」
思わず大声を出してしまい、俺ははっと自分の口を手で塞いだ。御子柴は呆気に取られたように口を噤んでいる。
どうしよう、こんなつもりじゃなかったのに。
これが、二年生の最後なのに。
このままじゃ、まるで喧嘩別れみたいになってしまう。
謝らなければ。そう思うが、喉が震えてうまく言葉が出てこない。
俺は彫像のように固まってしまう。少しでも動いてしまえば、感情を押しとどめている堤防が決壊しそうだった。
「……俺と別のクラスになるの、そんなに嫌?」
穏やかな口調で御子柴がそう問いかけた。俺は小刻みに震えるばかりで、答えられない。
「俺と離れるの、寂しい?」
優しい声音が胸に染みる。とうとう堪えきれなくなって、ぼろりと涙が溢れた。
「寂しいよ」
ぼやけた視界が一瞬クリアになって、御子柴の穏やかな笑みが映る。
「離れたくない……」
情けなくも濡れた頬を、御子柴の指がぐいっと拭う。弱ったように寄せられた眉から、俺はとっさに目を逸らした。
「ごめ——」
「なんで? 嬉しいよ」
親指の腹が、生まれたての雫を掬う。
「前も言ってたよな、寂しいって。離れたくないって。これのことだったんだ」
そういえば池袋に行った帰りに、思わず言ってしまった気もする。あの時も確か御子柴が「もうすぐ三月だな」と何気なく呟いたのに、感傷的になってしまったんだっけ。
俺はぐすっと鼻を鳴らした。
「引いたよな、悪い……」
「だから、んなことないって。ただ……俺、お前の涙に弱いんだよ。なんてーの、刷り込み?」
意味が分からず、首を傾げる。御子柴は言いにくそうにこめかみを掻いていた。
「とにかくお前が泣いてると、一瞬、どうしていいか分かんなくなんの。でも俺のために泣いてくれたら嬉しいし、それに……潤んだ目と涙が結構好きっていうか、そそる」
「は……?」
「正直、興奮します」
「え——」
「いや、引くなよ。俺、引かなかったんだから、引いてくれるなよ」
突然暴露された性癖に、涙が止まった。最後の最後に何言ってんだ、こいつ……?
「まぁ、それは置いといて」
濡れたままの俺の顔を、御子柴は制服の袖でぐいぐいと拭いた。
それから真っ赤になった俺の瞳を、至近距離で覗いた。
「クラスが別になっても、一緒に飯食えばいいし、一緒に帰ればいいじゃん。たまに休み時間、喋ったりしてさ。放課後もあの公園とかで待ち合わせして会えば良いし、休みの日は遊びにいけばいいし。あとできるだけ毎日電話するから」
再び大きな手が頬に触れ、そっと撫でる。
「心配しなくても、俺はお前の傍にいたいし、傍にいるよ」
満面の笑みが、目の前に広がる。
「明日、世界が終わるんだとしても——俺はそうするよ」
ああ、ここが学校じゃなければ。
深く口づけて、強く抱きしめて、ずっと離れないのに。
もどかしさを持て余しながら、俺は小さく頷くことしかできなかった。
◇
——春が、やってきた。
俺の脳裏に、一年前の桜が舞う。
新しいクラスに緊張しながら、教室に入って。あんまり顔見知りはいなくて。それほど社交的ではない性格を自覚していたから、どうしようかと密かに思い悩んでいたら、そいつは少し遅れてやってきた。
背が高くて、顔が整っていて、控えめに言っても目立っていた。そうでなくても学年の中ではちょっとした有名人だったので、俺でも名前は知っていた。
俺とは違って顔が広いらしく、すれ違うクラスメートにいちいち挨拶をしながら、やっと俺の前の席に座った。
机の横に鞄をかけて、適当に筆記用具やノートを机の中に入れている。ちょうどその作業が終わったところで、俺は勇気を振り絞って、その背中をちょいっと突いた。
「——ん?」
そいつはくるりとこちらを振り返った。
目の前で見ると本当に顔が美形だった。黒目がちの瞳に、筋が通った鼻梁。大きめの口には男らしさがあって、でも唇は形が綺麗で血色が良い。
唐突に呼ばれたにもかかわらず、口元には淡い笑みが浮かんでいた。俺は少しほっとしながら、尋ねた。
「ピアノの人だよな?」
「ピアノの人って。ピアニストな」
可笑しそうに苦笑する姿すら様になっていた。マジで俳優かモデルみたいだ。本当のイケメンってこういうのを言うんだな、と感心しながら、俺は尋ねた。
「ええっと。御子柴、だっけ?」
「そう、御子柴。前後同士、よろしくな」
御子柴は俺の名札をちらりと見やった。
「——水無瀬」
差し出された手を握り返す。分厚い皮の感触と伝わる体温が、いつまでも手の平に残っていた。