暮れなずむその一軒家を見て、俺はぽかんと口を開けていた。
鉄製のお洒落な装飾が施された門扉のそばに、御子柴という表札が掲げられている。
間違いない、ここだ。けど——
「……でかくね?」
自分にしか聞こえない小さな声で、ぽつりと呟く。
御子柴邸は住宅街の角地にあった。
周囲にも立派な家は多々あれど、ここは一線を画している。
煉瓦造りの塀、その外周には名前は分からないけど、冬でも色とりどりの綺麗な花を咲かせる生け垣がぐるりと囲む。庭も広く、枯れた色の芝生が生えていた。これが春や夏になると青々と芽吹くのだろう。
庭の奥にある家屋はこれまた立派だった。
珍しい薄緑色の屋根に、壁はベージュ、十は下らないであろう窓が外からの西日を浴びている。ポーチ付きの立派な玄関や円筒形のサンルームなんかも見える。
母屋とはまた別に離れがあって、こちらはこぢんまりとしているものの、それでもゆうに一家族は暮らせそうだ。
つまり、豪邸中の豪邸だった。御子柴は場所が分からなかったら連絡しろと言っていたが、ここを見落とすわけがない。全部で百坪はあるんじゃないだろうか……といっても、俺は具体的に百坪がどれぐらいか分かってないので、完全なるイメージだけど。
いつまでも立ち止まって口をあんぐり開けているわけにもいかないので、俺は恐る恐る門に歩み寄った。インターホンを発見し、まじまじと見つめる。こんなに押すのをためらうインターホンは初めてだ。
人差し指をうろうろと彷徨わせていると、傍にあった門ががしゃん、と鳴った。びくっと肩を竦めて振り返る。
そこには真っ白い大型犬がいた。ふわふわの毛並みを揺らして、わふわふと門に飛びついている。まさか番犬か? 俺は慌てふためいた。
「い、いや、不審者ではなくて……!」
はぁはぁと荒い息のまま、白い大きな犬は俺に向かってくるのをやめない。道でランニングをしていた男性がちらりとこちらを見やった。まずいまずい、早くインターホンを鳴らさないと——
「どうしたー? クロー?」
庭の向こうにある玄関ががちゃりと開いた。そこから見慣れた姿が顔を出し、俺はほっと息を吐いた。
「御子柴」
「おー、いらっしゃい」
のんびりと歩いてきた御子柴は、未だ門に飛びつく犬の首あたりを撫でて宥めた。
淡いインディゴのパッチワークデザインのセーターに、濃い色のデニムを履いている。
内側から門を開けられ、家人に迎え入れられると、俺はようやく人権を得た気分になった。
「場所、分かった?」
「こんなでかい家、分からないわけ——うわっ!」
俺が敷地に入るなり、犬が飛びついてくる。腿辺りに前足を乗せて、きらきらした黒い目で俺を見つめてくる。どことなく御子柴の瞳に似ているような気がした。
「こーら、クロ。ステイ」
「ええと、こちらは?」
「ああ、クロードっていうの。ごめんな、人なつっこくてさ」
なるほど、番犬として警戒されていたわけではなく、単に見慣れない人が珍しかったのか。そうと分かると可愛くなって、俺はしゃがみこみ、クロードと目線を合わせた。
「はじめまして。今日と明日、お世話になります」
わふっ! と吼えたクロードは俺の肩に手を置いた。重みを感じたのも束の間、ぺろぺろと頬を舐めてくる。ぎょっとする俺をもちろん意にも介さず、クロードは鼻や顎も一通り舐めていった。……あはは、くすぐったいよ、とか言った方がいいんだろうか?
——パシャ、と傍らから音がした。
「え?」
振り返ると、御子柴が無言でスマホをこちらに向けて、カメラを連写している。クロードはますます俺に寄りかかってきては、荒い息を耳に吹きかけていく。
「何してんの?」
「撮ってる」
「み、見りゃ分かる。勝手に撮るな」
「ここ、俺んちの敷地だし。何しても良し」
「治外法権かよ……」
御子柴の手がじっと動かなくなる。どうやらムービーに切り替えたらしい。俺はクロードをやんわり引き剥がすと、御子柴からスマホを奪い、録画を止めた。
「とりあえず、中へどーぞ」
にっこり笑いながら、御子柴はさっと俺からスマホを奪い返す。くそ、データ消せなかった……
「分かったよ、お邪魔します」
「はいはーい」
歩き出した俺達についてきたクロードはしかし、玄関の前でぴたりと止まった。お座りの格好をしているクロードを御子柴が撫でる。呼吸と共に白い毛を揺らしながら、クロードは円らな瞳で、玄関へ入っていく俺達をじっと見送っていた。
他人の家に入ると、嗅ぎ慣れない匂いがする。
玄関で脱いだ靴を揃えながら、全身が薄い膜の形をした緊張感に包まれるのを、俺は肌で感じた。御子柴やその家族が過ごしてきた時間が作り出した、独特の家の雰囲気。その中で俺は紛れもない異分子だ。
高校に入ってから、人の家に上がるなんてことなかったからだろうか。廊下のフローリングを踏み締めても、どことなく足元がふわふわと浮ついている感覚がした。
廊下の突き当たりにあるドアの向こうは、広いリビングダイニングだった。
毛足の長いグレーのラグが敷いてあるスペースがリビングだ。
革張りのキャメルブラウンのソファが、コの字型に置かれている。
ガラスのローテーブルを挟んで向かいには、大きなテレビが壁にかけられていた。でかい……でかすぎる。一体何インチなんだろう。七十、いや八十? 横にして床に置けば俺が余裕で寝そべれそうなほどの大きさだ。
ソファの背の向こう側はダイニングだった。
こちらは規格外に広いというほどではなく、よくある四人がけのテーブルだ。ただテーブルの真ん中に一輪挿しが飾られているのがおしゃれだ。あと上に何もない。うちのダイニングテーブルには何かしらハガキやプリントの類が置かれているもんだけど。
「お茶入れるから適当に座って」
そう言って御子柴はキッチンへ向かった。リビングダイニングと地続きのアイランドキッチンである。
御子柴は壁に備え付けられている冷蔵庫から麦茶を入った冷水筒を取り出して、コップに注いでいく。
俺はなんとか自分の居場所を確保しようときょろきょろと部屋を見回し、結局、ソファの隅っこに落ち着いた。
「なんでそんな端?」
苦笑と共に、麦茶が運ばれてくる。
御子柴はソファの真ん中らへんに座ると、ちょいちょいと俺を手招きした。俺は立ち上がって呼ばれるがままに御子柴の隣に腰を下ろす。
喉が渇いていた。麦茶を一息で半分飲み干す。その慣れた味だけが俺の拠り所であった。
「緊張してんの?」
「するだろ、こんな立派な家……。庭付き一戸建てに白い犬とか、どんだけだよ」
「どんだけって何が?」
ピンときてない様子の御子柴に、俺は内心溜息をついた。
それに家が立派すぎるからという理由だけで、緊張しているわけでもない。
天井から床まである大きな窓からは、茜色の光がカーテンに透けている。それは次第に傾きを増し、色濃く、暗くなっていく。夕方の街は静かだった。そして御子柴邸の中も、誰の足音も声もおろか、気配すら感じない。
……ほんとに、二人きり……
いやいやいや、何をいきなり意識してんだ、バカ。俺は麦茶のもう半分を一気に飲み下す。
「さぁーてと」
御子柴は急に立ち上がり、背筋を伸ばした。俺が目を瞬かせて見上げていると、申し訳なさそうに眉を下げる。
「俺、これからちょっと練習してくるわ。一応、夜も指動かしておきたいから」
「えっ、ああ、ピアノか……」
「うん。その後、クロードの散歩。悪いけど、六時ぐらいまで適当にしといて」
俺は思わずテレビの上の壁掛け時計を見た。現在時刻、四時半。……え、あと一時間半も?
「練習室、防音だから、何かあったら電話掛けて。んじゃ」
そう言ってすたすた去って行こうとする御子柴の背中に、俺は思わず声をかけた。
「あっ、あのさ」
「ん?」
「……いや、えっと。クロードの散歩って難しい?」
御子柴はこちらに向き直り、後ろ頭を掻いた。
「いつものコースはクロが知ってるし、難しくはないけど……。え、何、行くの?」
「あ、うん……。俺だけぼーっとしてるのもあれだし。何か手伝えればと思って」
瞬きを繰り返していた御子柴は、やがてすいっと目を細めた。
「ふーん。つまり水無瀬くんは、少しでも俺と一緒にいる時間を増やしたいと」
「ち、ちがっ——親切心、気遣い!」
「はいはい。じゃあ、お願いしようかな。これ、リード」
ぽいっと放られた太いベルト状のリードを受け取る。上機嫌な足取りでリビングを出て行く御子柴を、俺は半眼で睨み付けた。
門を出ると、クロードは勝手知ったる風にとことこと歩き始めた。俺は半ば引っ張られるようにして、クロードについていく。
住宅街にある背の高いマンションの影に隠れていた夕日が、再び顔を出す。数歩先にいるクロードの毛並みが茜色に染まって、きらきらと輝いていた。
いつもの散歩コースというのは俺の家の方角だった。俺としては来た道を戻っていく格好になる。二ブロック先の角を曲がって南へ進む。電車の高架下をくぐった先に、近所では割と大きめな川の下流が見えてきた。
クロードはたしたしと軽快な足音を響かせながら、川縁を歩いて行く。俺達の右側を流れる川面はゆったりと海へ向けて流れていく。小さな三角の波を描く水面が夕日を細かく弾いていた。
ぐいっとリードを引っ張られる感覚がした。クロードは急に方向を変えたかと思うと、土手へ続く階段を降りて行く。少し遅れて俺も続いた。
クロードはまるで川の行く末を見守るかのように、土手で座り込んだ。
「……いつもここで休憩するのか?」
もちろん返る言葉はない。俺はクロードの横に腰掛けた。むきだしの地面の冷たさがデニムを通して伝わってくる。とはいえ、今日は風もなく穏やかだ。
三月に入ってから温かくなったり寒くなったりを繰り返している気がする。それを表現する言葉があった気がしたが、頭の中の辞書をひっくり返しても見当たらなかった。
「御子柴に聞けば分かるかな……」
静かに川を眺めていたクロードがこちらを振り向いた。主人の名前に反応したのかもしれない。俺はさっき御子柴がそうしていたようにクロードの首元を撫でた。クロードは気持ちよさそうに瞳を細めていた。
「今日さ。お前のご主人様とずっと一緒にいられるんだ」
ぽろっと言葉が転がり落ちる。クロードが静かに聞いてくれているのをいいことに、俺は続けた。
「ちょっと照れくさいけど……。でも実はすごく嬉しい」
今の言葉が、ちょっとどころではなく恥ずかしいと思い当たる。俺はクロードに顔を近づけ、自分の唇にそっと人差し指を宛がった。
「これ、一応、内緒な」
わふっ、と返事がきたものだから、思わず笑ってしまった。俺は立ち上がると、可愛い共犯者を連れて、しばらく土手を歩いた。
「……問題発生」
クロードの散歩から帰ってくるなり、御子柴がこめかみを押さえてそう言った。
連れられて行ったのは、母屋と廊下で繋がっている離れだった。そこには御子柴のおばあちゃんが住んでいるらしい。いわゆる二世帯住宅ってやつだ。
曰く、おばあちゃんが夕飯を作り置きしてくれているということだったらしいが——
『ごめんなさい、涼馬。旅行の準備にばたばたしてたら、カレーを作りそびれてしまいました 花枝』
……という、分かりやすい書き置きがリビングのテーブルの上にあった。
母屋よりは幾分こぢんまりとしたリビングダイニングだった。俺の家よりも若干手狭なぐらいだろうか。物珍しげにきょろきょろしている俺の隣で、御子柴は深い溜息をついた。
「どーする? ピザでも頼む?」
「あー、えと」
俺はちらりとカウンターキッチンを見やった。ガスコンロの上に大きな鍋が置いてある。が、きっと中身は空だろう。でも作ろうとしていた、ということは。
「材料はあるんだよな?」
「うーん、まぁ、そりゃそうじゃね」
「——もし台所使って良かったら、俺、作るけど」
「えっ」
御子柴は目を丸くして固まった。あ、さては料理なんてできんのかって疑ってんな? 俺は腰に手を当てて、口を尖らせた。
「言っとくけど、うちで夕飯作ってんの俺だから」
「そうなの?」
「カレーなんて何百回も作ってるし。……で、使っていいのか、台所?」
「あ……うん、いいよ」
「分かった」
お邪魔します、と小さく呟いて、俺はカウンターキッチンの中へ入った。入り口に赤いギンガムチェックのエプロンがかけてあったので、拝借する。
冷蔵庫の中身を確認すると、カレーの材料はちゃんと揃っていた。俺はエプロンのヒモを締め直して、さっそく作業に取りかかった。
空っぽの鍋にオリーブオイルを引いて、角切り牛肉を焼く。その間ににんじん、たまねぎ、じゃがいもをそれぞれカットしていった。
にんじんは皮を剥いていちょう切り、たまねぎはボリュームが出るようにくし切り、じゃがいもは皮をよく洗って残すのが水無瀬家流である。もちろんじゃがいもの芽を取り除くのは忘れずに。
と、作業が一区切りついたところで、入り口から強烈な視線を感じ、俺は振り返った。そこには俺の一挙手一投足をじっと見守る御子柴がいた。
「な、何?」
「見てる」
「いや、なんで?」
「見なきゃ損じゃない?」
言っている意味がまったく分からない。御子柴は俺に歩み寄ってきて、ぴったりと隣につく。
「手際いいなー」
「だからいつもやってんだって。……危ないから向こう行ってろ。一応、包丁握ってんだぞ」
「じゃあ、手しまっておくから」
言って、御子柴は後ろで手を組む。俺は非常にやりにくさを感じながら、じゃがいもを輪切りにしていった。
十分、焦げ目のついた牛肉の上に、にんじんとたまねぎを入れて炒めていく。じゃがいもは煮崩れする可能性があるので、俺は煮込む直前に入れる。
鍋の中で肉と野菜が上に下に混ぜ合わさっていくのを、御子柴は興味津々とばかりに覗き込んでくる。……いや、近い近い。
「邪魔?」
「邪魔っていうか……邪魔」
じゃがいもを加えて軽く炒める終える。俺はシンクに向かい、メジャーに水を入れた。それをそのまま鍋に入れる。ちょうど具材がひたひたになる量だ。
そこでいつものように隠し味を入れようとして、はたと動きを止める。
「おばあちゃん、いつもどうやって作ってる? ……って分かんないか」
「うーん、見たことねーなぁ」
「そっか。俺、ここに砂糖入れるんだけど、しないほうがいいかな……」
「いや、水無瀬カレーでお願いします」
手を合わせて頭まで下げる御子柴に面食らう。
「あ、うん、いいけど……」
「やった」
何故か御子柴は満面の笑みを浮かべる。俺は首を捻りながら、御子柴がそう言うなら、といつも通りカレーを作った。
ぐつぐつ煮えた鍋の中の灰汁を取っている間も、御子柴は台所を離れようとしなかった。
「他はどんなもん作れんの?」
「別に普通だよ。ハンバーグとかオムライスとか筑前煮とか?」
「はいはい、俺、ハンバーグ好きでーす」
「手、上げるな。危ない。好きって言われても……作る機会がないっていうか」
「何、機会があれば作ってくれんの? 俺のために?」
「お、お前が言い出したんだろ」
「俺は好きとしか言ってないけど?」
いつもの減らず口に腹が立って、危うく熱い灰汁をかけそうになるところだった。落ち着け、俺は大人だ。もうすぐ選挙権を得る立派な大人なんだ。そう言い聞かせて自制する。
「ごめん、嘘だって。いつか食いたいな、水無瀬のハンバーグも」
一転、殊勝な様子でねだる御子柴に、俺はぎゅっと口を尖らせた。
くそ、綺麗な顔でにっこり笑えばなんでも通ると思って。分かっているのに、俺はカレールーのパッケージを確認するふりをしながら、もごもごと言った。
「じゃあ、今度、できたら……気が向いたら……弁当作ってくる」
「え、マジ!?」
「いらないならいい」
「いるいる、いります。てか、手作り弁当かー……うわー」
その反応はバレンタインに生チョコを作って来た時のことを彷彿とさせた。あの時は、まぁ、喜んでくれたから、今もきっとそうなんだろう。鍋にルーを割り入れながら、俺は密かに口元を緩めた。
かくして、無事に夕食が出来上がった。
御子柴のおばあちゃん家の食卓に並んだのは、カレーライスとサラダだ。
サラダも残っていた生野菜を拝借して、簡単に作った物だ。千切りキャベツにトマトに缶詰のコーン。彩りがあるとなかなか立派に見える。
『いただきます』
食卓を挟んで、向かい合って座った御子柴と手を合わせる。御子柴がスプーンでカレーを掬い、口に運ぶのを、俺はなんとはなしにじっと見守っていた。
「んっ、うまい」
一口食べてそう言った御子柴に、俺はほっと肩の力を抜いた。御子柴はいつものように早食いで、カレーを飲み物か何かのように平らげていく。
それを見て俺も思いだしたように、サラダのトマトをつまむ。
「おばあちゃんのと味違う?」
「違うけど、うまい」
御子柴の皿は瞬く間に空になってしまった。すぐさま立ち上がり、弾むような足取りでおかわりを取りに行く様子を見て、俺はそっと俯いた。
口の形が変になりそうなのを必死に堪える。顔が火照っているのを、辛さのせいにしたくて、ルーを多めにしてカレーを頬張った。
腹がいっぱいになったところで、時刻は夜の七時を回っていた。
一通りの片付けを終えた後、俺と御子柴は再び母屋の方に戻っていた。
ソファに座った御子柴にならって隣に腰掛ける。御子柴は首を左右に傾けて筋を伸ばしながら、思案げな口調で言った。
「んー、何する? つっても、うち、ゲームとかねーんだよなぁ」
手持ち無沙汰を誤魔化すように、御子柴はリモコンを手に取り、適当にテレビをつけた。ちょうど七時のニュースの時間帯だった。年度末らしく、各地で卒業式が行われている様子が映し出されている。
チャンネルを変えればバラエティなどもやっているだろうが、特にこれといって見たい番組はない。俺もまた困ったように首を捻っていると、御子柴が「あっ」と手を打った。
「そういや設楽からブルーレイ借りてたわ。一緒に観る?」
映画か。いいかもしれない。俺は二つ返事で頷いた。
「あぁ、見る見る。なんの?」
「ゾンビの」
「ゾン——」
予定が決まってわくわくしていた俺は、さっと表情を凍らせた。
それを見逃す御子柴ではない。目の前の顔は、一瞬で意地の悪い笑みに取って代わった。
「もしかして、苦手?」
「べ、別に……その。苦手ではないけど、あんまり見たことは……ない」
「じゃあ、観ようぜ。あ、せっかくだし明かり消す? 雰囲気でるじゃん?」
「え、あ……。お、おう」
ソファから離れると、御子柴は本当にリビングの明かりを全て消してしまった。
テレビだけが皓々とした光を放っている。
それを頼りに、御子柴はテレビに内蔵されているブルーレイプレーヤーに、設楽から借りたらしい映画のディスクを入れ始めた。
パッケージには血みどろのゾンビが群れを成して迫ってくるジャケットが描かれている。やがて起動したメニュー画面では、ゾンビが大写しになり、耳をつんざくような唸り声を上げた。
俺は思わず手近にあったクッションを引き寄せた。
はっとして顔を上げる。再び俺の隣に座った御子柴が、にやにやと口角を上げている。
「やめとく?」
「いけるし」
さもこれから映画を鑑賞する体勢ですよ、と言わんばかりにクッションを膝元に置く。御子柴は無慈悲にもあっさりとプレイボタンを押した。
——三十分後。
グロテスクとスプラッタとジャンプスケアの連続に、俺は恥も外聞もなくクッションを抱きしめていた。ソファの上で三角座りをして、身を縮こまらせている。
脇役の女性が廃墟を彷徨う静かなシーンに、鼓動は高まる一方だった。俺は極力目を細めて、視界を狭めていた。
「お前、観てなくね?」
足と腕を組んで、ソファの上でふんぞり返っている御子柴は、まるで食後の休憩のようなリラックスっぷりである。一方の俺はさっきのカレーが喉元からせり上がってきそうだった。
「分かってんだよ、こっちは……。もうすぐ来んだろ、分かってるし」
「来るってゾンビ?」
「見てろ、あの窓から来るぞ。絶対来る」
「えー、俺はむしろ——」
御子柴が言いかけた瞬間、廃墟の天井が派手に崩壊した。
「うわあああッ!」
突然の大音声に飛び上がりそうになる。女性の前に現れたのは、人が数人も無理矢理くっつけられたような、グロテスクな大型ゾンビだ。
女性は絶叫して逃げだそうとするが、鋭い爪が生えたゾンビの手に捕まり、そのまま半身を食いちぎられた……と思う。
思う、というのは、俺がすでにクッションに顔を埋めて、その後の展開を見守ることができなかったからだ。聞くに堪えない悲鳴と共に、女性が神への慈悲を請いながら、やがて喋らなくなる——それだけが耳から入ってくる。
「あれ、ドアからかと思ったのに」
などと呑気に言う隣の男には、人の心が備わっていないのだろうか。あの女性には優しい旦那さんも可愛い子供もいたのに……!
クッションから顔を上げられない俺を見て、御子柴が苦笑する。
「あんま無理すんなよ」
「してないし……」
「お前って、なんてーか、外さねえよなー」
「どういう意味だよ」
テレビの中が静かになったので、ようやくそろそろと顔を上げる。
すると御子柴がひょいっと俺の手からクッションを取り上げた。寄る辺をなくした俺は思わず「あっ」と声を上げて、手を伸ばす。が、御子柴はソファの裏側にクッションを隠してしまった。
意地を張っている手前、返せとも言えず、むすっと口を真一文字に結ぶ。そんな俺に御子柴はにこやかに両腕を広げてみせた。
「怖かったら俺に抱きついたらいいじゃん」
「怖いとか……じゃないし。ちょっとびっくりするだけで……」
「——あ、またゾンビ出てきそう」
つられて画面を見ると、カップルが逃げ込んだ先のあばら小屋に、すでに無数のゾンビが待ち構えている場面だった。
悲鳴と血飛沫と唸り声が、何重にも折り重なる。
「うわあああっ」
矢も楯もたまらず、反射的に御子柴の胴にしがみつく。御子柴は突撃してきた俺を抱き留めて、あははと上機嫌に笑っていた。あのカップルはもうすぐ結婚する予定だったのに——やっぱりこいつには人の心がない!
たっぷり二時間、そのホラー映画は続いた。
ストーリーは最初から最後まで救いがなかった。ゾンビによるパンデミックに見舞われたその街は、封鎖された上、軍に空爆された。生き残った人間は誰一人としておらず、地図から街が一個消えてなくなるというシーンで映画は終わった。
スタッフロールが流れる頃には、俺は干物のようになっていた。ソファの背もたれに頭ごと預け、ようやく照明が灯った天井を呆然と眺めている。
さすがの御子柴も心配になったようで、ソファから立ち上がり、背もたれ側から俺の顔を覗き込んでくる。
「だいじょぶ?」
「……俺、言ってなかったけど、ホラー苦手なんです……」
「うん、見れば分かる。よく分かる」
「変な汗がひどい……」
パーカーのしめった襟元をくつろげていると、御子柴は微苦笑を浮かべた。
「今、風呂入れてくるから」
そうしてすたすたとリビングを出て行ってしまう。正直、まだ一人にしてほしくなかったが、さすがにそんな情けないことは言えない。
俺は御子柴が放り捨ててしまったクッションを拾い上げ、極度の緊張で疲労した体を、ぽすんとソファに横たえた。
九十度傾いたリビングの景色が、ぼんやりと視界に映る。
時計の針は午後九時を回っていた。
閉じられたカーテンの外は静かだった。きっと窓の外には夜の帳が降りていて、空には月が浮かんでいるのだろう。
夜は長い。これから月が沈んで、朝日が昇るまで、ここで過ごすのかと思うとなんとも不思議な気分だった。そもそも友達の家に泊まるのなんて何年ぶりかな。下手したら小学生の頃以来かもしれない。
——いや、違う。
ここは……友達の家じゃない。
俺と、御子柴は。
「……っ!」
腕の中で四角いクッションがぎゅっとひしゃげる。
ホラー映画に与えられたものとはまた違う緊張感が、俺の心臓を痛いほど叩いた。
夜。これから、風呂に入って……。それから、ええと、多分。
二人で、寝——
「——ウガアアァッ」
「うわあああ!」
突然、聞こえた声に、俺は絶叫してソファから転げ落ちた。
いつの間にか戻ってきていた、御子柴が両手を広げて、舌を出し、ゾンビの真似事をしている。床にへたりこんでいる俺を見て、腹を抱えて笑っている。
「はは、びっくりした?」
「うるさいばか!」
クッションを投げつけるも、難なくキャッチされてしまう。くそっ、最後に死んだ主人公の代わりに、こいつがゾンビに襲われれば良かったのに!
「うちの風呂、すぐ沸くから準備してな」
歯をむき出しにして怒る俺を意にも介さず、御子柴は部屋の隅に目配せした。
そこには俺が持ってきたリュックが置いてある。泊まりの荷物だ。といっても、着替え一式と歯ブラシとパジャマぐらいしか持ってきてないけど。
俺は背後を警戒しながら、荷物を開ける。また驚かせにくるんじゃないかと、俺がちらちらと振り返る度に、御子柴は堪えきれないとばかりに肩を震わせていた。
ふん、と鼻を鳴らして、替えの下着を取り出す。と、そこで俺は自分の失策に気づいた。
「あれ……?」
用意しておいたはずのパジャマがなかった。リュックの中身をひっくり返しても、見当たらない。おかしい、忘れないように一番最初に用意しておいたのに。——いや、そういえばリュックの脇に置いたまま、入れてこなかった気もする。
「どした? 忘れ物?」
「ああ、うん……ごめん、パジャマなくて。取りに帰ろうかな」
こういう時は近所だと助かるな、などと思っていると、御子柴が言った。
「めんどくせーじゃん。俺のジャージで良かったら貸すけど」
「いいのか?」
「おう。ちゃんと洗ってありますよ」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
俺がそう言った時、ガス給湯器のパネルから音楽が鳴り響き、『お風呂が沸きました』とアナウンスが聞こえた。御子柴が踵を返す。
「脱衣所に置いとくから、入ってな」
背中越しにひらひらと手を振って、リビングを出て行く。
……ったく、なんなんだよ。
手酷くからかったかと思ったら、さらりと親切に気を遣う。
いつもこうだ。——総じて、ずるいんだ、あいつは。
俺は納得のいかないまま、一人、唇をぎゅっと窄めていた。
足を伸ばせる広い湯船から、白い蒸気が沸き上がっている。
熱いお湯に肩まで浸かった俺は、体の底から深い息を吐いた。
ホラー映画とその他諸々で掻いた変な汗をシャワーで流し、こうして湯船に身を沈めていると、緊張も疲労もお湯に溶けていってしまうようだった。
暖色系のライトが照らすバスルームは瀟洒な造りだった。
ダークブラウンの木目調の壁に、横に長い曇り一つない鏡。普通のシャワーとは別に天井にもシャワーが設置されていて、ここはホテルか何かかと疑いたくなる。置いてあるシャンプーやボディソープは、見たことのないパッケージでどこか高級感があった。
他人の家の風呂場はなんとなく居場所がなくて、俺は湯船の中で膝を抱えた。気まぐれに肩へお湯をかけてみる。ぱしゃぱしゃと水しぶきが、白い湯気の中で舞った。
いつまでもそうしているわけにもいかないので、湯船から出る。ざぱっと波が立った。髪と身体を洗おうと、椅子に腰掛ける。ふと目の前の鏡に映った自分の上半身を見つめる。
なんの変哲もない体だ。いや、ちょっと色が白くて、筋肉もそれほどついてなく、貧弱な印象がある。あんまり気にしたことはなかったけれど、まじまじと見てしまうと、なんだか落胆してしまう。
ぺたぺたと自分の手で、胸や腹を触ってみる。固くて、骨張っていて、手触りはよろしくない。それでも手の平の感触を肌で受けていると、不意にいつぞやの保健室での出来事が甦る。
——御子柴に触れられるのは、今とは全然違う感覚だった。
別になんてことはないはずなのに、どこか落ち着かなくて。自分とは違う誰かの、御子柴の体温が触れたところから伝わってきて、それこそ湯船に浸かっているような安心感と、火傷しそうなほどの熱が同居している、不思議な感覚を今も覚えている。指を立てられると神経がそこに集中して痛いほどだった。ましてや、濡れた唇を押し当てられると——
ぶわっと顔に血が集まるのが分かった。俺は巡る思考を振り切るように、ボディスポンジにソープを染みこませ、ごしごしと体を洗った。それはもう念入りに洗うつもりだった。
だって、そうじゃないと。この後……
「いやいやいやいや!」
ぶんぶんと首を振る。スポンジを強く押し当てて、親の仇のように自分の体を洗う。泡を流すと、ところどころ皮膚が赤くなっていたが、そんなことは気にしていられなかった。
暇が出来れば変なことを考えそうだったので、すぐさまシャンプーを手にとって、髪の毛を泡立てる。
こうなったら、全身、洗って洗って洗い尽くしてやる。頭の天辺からつま先まで。指の間だって、膝の裏だって、嫌というほど綺麗にしてやる。特に、別に、意味はないけど!
——と、俺が勢いづいていたのは、ここまでだった。
ひりひりする肌とがさがさする頭皮を持て余しながら、再び湯船に身を沈めると、そこから一向に動けなくなった。俺はさっきと同様膝を抱えて、その間に口元を埋めた。
まるで自分の殻に閉じこもった貝のようだった。
ここを出た後のことを考えると、どうしてもバスルームを出る決意がつかない。
「ううう……」
壁に俺の小さな唸り声が反響する。
温度を保つように設定された湯が、じわじわと俺の体温を上げていった。
当然だが、結果、逆上せた。
頭がくらくらする。体が熱い。喉がからからだ。
俺はふらふらしながら、やっとの思いで御子柴が置いていってくれたジャージを着た。体格差をそのまま反映したように、ジャージはぶかぶかだった。特に気になったのは袖と裾の余りだ。捲って対処したが、なんだか女性が男性の服を無理矢理着ているようだった。
ドライヤーで髪を乾かす気力はなく、わしゃわしゃとタオルで拭くだけにする。タオルを肩に引っかけ、ほうほうの体で脱衣所を出ようとすると、ドアが突然ノックされた。
「水無瀬?」
くぐもった御子柴の声が聞こえてきた。鍵を開けてそろそろと戸を引くと、目を丸くした御子柴が立っていた。
「……いっつもこんな長風呂なの?」
「あ、いや、ちょっと疲れて寝かかってた……」
嘘がばれないよう、タオルで口元を覆う。御子柴はへらっと笑みを浮かべた。
「びっくりした。溺れてんのかと思った」
どうやらいつまで経っても上がってこないから、心配してくれたらしい。罪悪感から何と言っていいか分からず、うろうろと視線を彷徨わせていると、御子柴がちょいっと俺が着ているジャージの袖を摘まんだ。
「やっぱサイズ合わないな」
「……誰かさんは手足が長いもんな」
「あ、分かる? 丈がさ、Lじゃないとさー」
「はいはい、どうせ俺は合いませんよ」
ふいっと顔を背ける。俺の目の前に御子柴の腕が伸びてきた。
「んなことねーよ」
腕はあっという間に背中に回り、ぐいっと引き寄せられた。
「ぶかいの可愛い」
突き放せば逃げられる程度の力で、柔らかく抱きしめられる。
俺は御子柴の肩口に頬で触れ、鼻先を掠める御子柴の匂いに、目を見開いた。首からずれたタオルが、ぱたりと床に落ちる。俺が硬直したまま動けないうちに、御子柴は満足したのか一瞬の抱擁を終えた。
「じゃ、俺も入ろっかな」
「あ、ああ。お先でした……」
「そうだ、二階の突き当たりが俺の部屋だから、上がってて」
「うん。——え!?」
御子柴と入れ替わるように脱衣所を出た俺は、思わず体ごと振り返った。
……部屋? 御子柴の、部屋!?
「喉渇いたろ。麦茶置いといたから、勝手に飲んどいて」
「あー、そ、そっか。分かった」
「よろしくー」
からっと音を立てて、引き戸が閉められる。
廊下に一人取り残された俺は、それこそゾンビのように緩慢な足取りで、のろのろと廊下の奥にある階段を登っていく。そう、だよな。うん、お茶……お茶を飲みにいくんだ、うん。
二階に上がり、裸足でぺたぺたと板張りの床を歩く。
廊下はそれほど長くなく、俺は突き当たりの——御子柴の部屋のドアの前にすぐ辿り着いてしまった。
取っ手を押し下げて、そろそろとドアを開く。
まるで泥棒のように忍び足で部屋に入ると、俺は後ろ手に扉を閉めた。
手近にあった照明のスイッチを入れる。
ぱっと閃いたシーリングライトが部屋の全貌を照らし出した。
「お、ぉ……」
謎の感嘆を漏らす。部屋の主がいないことをいいことに、俺はまじまじと部屋を見回した。
俺の部屋よりも一回り広いように感じた。
清潔感のあるオフホワイトの壁紙に、部屋の左右に大小の窓が二つ。
小窓のそばには白と黒のモノトーンで統一されているデスクがあった。俺なんか未だに小学校入学と同時に買ってもらった学習机を使っているのに。
真っ白な天板の上には、ノートパソコンとタブレットが置いてあった。隅にはアルミのフォトフレームに入った幼いクロードの写真が飾ってある。
すぐ横に設えているスチールラックには、いくつかの教科書や参考書、それに棚の一段分を占拠しているたくさんの楽譜が差してある。それと楽譜と同じくらいたくさんのCD。J−POPやロック、映画のサントラなんかもあったが、背表紙を見るにそのほとんどがクラシックだった。
「あれ、一つ割れてる……」
好奇心で手が出てしまった。
それは女性ピアニストのCDで、しかも見覚えがあった。これ、この前、シマさんの店で買った新しいやつじゃ? とはいっても何があったかは知る由もないので、俺は御子柴が来ないうちにCDを棚に戻した。
部屋の中央には楕円型のラグが敷いてあり、折りたたみ式のローテーブルが広げられていた。その上に御子柴の言った通り麦茶のピッチャーが置いてある。俺は唐突に喉の乾きを思い出し、お言葉に甘えてお茶をいただくことにした。
ラグの上に座り、ガラスのコップに入れた麦茶を一気に飲み干す。
やっと喉が潤った俺の意識は、否が応でも背後に向いていた。
肩越しにちらっと見やる。大きい方の窓に沿うようにして、ベッドが置いてあった。グレー一色のカバーの掛け布団、真っ白いシーツ、大きめの枕。ホテルライクというのだろうか、とにかくこっちも洒落ている。俺のベッドより少し大きい気がした。多分、セミダブルサイズだ。
セミダブルという単語に良からぬ考えがよぎりそうになり、俺はぶんぶんと首を横に振る。それでも虚空に浮かんだ想像は消えてくれず、麦茶をおかわりして無理矢理喉に流し込んだ。
さっきから脈拍の速さがおかしい。体が熱いのは逆上せたせいだけではないと、自分自身が誰より分かっていた。
空になったグラスを両手でぎゅっと握り締める。透明なグラスの底を穴が開くほど見つめても、一向に落ち着かない。背中に目でもついているのかと思うぐらい、さっき見たベッドが網膜に焼き付いて離れない。
今日、ほんとに俺、ここにいるんだよな。
一晩中、御子柴と一緒の家にいるんだよな。
それって、だって、ほんとに、本当に——
「お待たせー」
「うわああっ」
なんの前触れもなく開いたドアと入り込んだ声に、俺は今日何度目かもしれない叫び声を上げた。手から零れたグラスがころりとテーブルの上に転がる。
スポーツタオルを肩からかけた、ジャージ姿の御子柴は、きょとんと目を瞬かせた。
「何、まだゾンビ引きずってんの?」
「いや、はは……そうかも……」
「だから言ったじゃん。やめとこうかって」
そう言う割りには顔ににやりとした笑みを貼り付けつつ、御子柴は俺の隣に座った。ピッチャーから麦茶をグラスに入れて、一息に飲んでいる。上向いた喉仏がごくりと上下するのに、なんとなく見入ってしまう。
ぷはぁ、と満足げに息を吐いた御子柴は、頬に伝う雫をタオルの端でぬぐった。濡れそぼった髪の先が肌に張り付いている。前髪が無造作に上げられていて、いつもと印象が大分違った。見たことのない日常の中の御子柴に、俺は落ち着きなく組んだ足をもぞもぞと動かした。
「あ、そうだ。お前、ちゃんと髪乾かせよ」
言って、御子柴はいつの間にか手に持っていたドライヤーを取り出した。多分、洗面所から持ってきたのだろう。俺は自分の生乾きの髪をつまんだ。
「ああ、そういえば……」
「風邪引くぞ。あとハゲる」
「え!? マジ?」
「マジマジ。濡れたままだと頭皮に雑菌? が沸くんだって。んでハゲんだって」
何気なく恐ろしいことを言う。俺は忠告に従ってドライヤーを受け取ろうとした。しかし御子柴は何を思ったか、ひょいっとそれを持ち上げてしまう。俺はじとっと御子柴を睨んだ。
「なんだよ、金でも取んのか」
「ちげーよ。俺にやらせて」
「……何て?」
「水無瀬の髪、乾かしたい」
御子柴はさっさとドライヤーをコンセントに繋げてしまう。スイッチを入れると、ごうごうとドライヤーが温風を伴って唸り始めた。そして返事を聞きもせず、俺の後頭部を抱えると、ドライヤーを向け、くせっ毛をかき混ぜ始めた。
こうなると抵抗しても無駄であることは、俺もいい加減学習していた。仕方なしにおとなしくする。
それに……御子柴の指が髪を梳く感覚は、悪くなかった。長い五指が思いのほかゆっくりと慎重に、俺の頭を行き来する。ドライヤーの温風と優しい手つきに、さっきまでの緊張も忘れて、全身の力が抜けていくのを感じた。
「はい、終了。次、俺ね」
おもむろにドライヤーを手渡され、くるりと背を向けられる。ぼんやりしていた俺は、はっと我に返った。
「はぁ?」
「早くー」
あぐらをかいた御子柴が、左右にゆらゆらと揺れる。あからさまな催促に負け、俺は無言でドライヤーを目の前の後ろ頭に向けた。
さっき自分がされたように、根元をかきまぜながら、温風を当てていく。風呂に入ったばかりだからか、元々髪の密度が高いからか、俺と違ってなかなか乾かない。
それでも根気強くドライヤーを当てていると、水分が飛んで、軽くなってきた。同時に信じられないほどツヤが出てくる。指の間を通る感触は、シルクのようになめらかで、シャンプーのCMかなんかに出られるんじゃないかとすら思った。
「美容院とかでも思うけどさ、髪の毛乾かされてると、眠くならねえ?」
ごうごうという音の合間から、御子柴がのんびりと呟いた。ついさっき実体験した俺は頷いた。
「まぁ、確かに」
「あと水無瀬の指、きもちい」
俺も、と同意しそうになって、危うく口を噤む。
「それぐらいでいいよ、ありがと」
完全に乾ききる前に、御子柴にドライヤーを取られた。もう少ししていたかったような残念な気持ちを自覚していると、御子柴がそのまま後ろに倒れてきた。
「う、おっ」
御子柴が俺の胸に後頭部を傾けてくる。風呂上がりの体温やシャンプーの香りがこれ以上なく身近に迫って、俺の鼓動が再び早まった。
「あー、いいなこれ」
御子柴は無防備に俺に体重を預けている。
なんだ、これ……。え? 自分の家だから? リラックスしてるのか、いやそれ以上に、あの御子柴がふにゃふにゃで……。あとなんかすごい甘えられてる?
——こんなの、俺しか知らないんじゃ。
そう考えが行き着くと、どうしようもなくなった。
「このまま寝れたら幸せだなー」
俺ははっとして、御子柴の背中をぐいっと押し上げた。御子柴は特に抵抗することなく、起き上がる。
「なんだよ、いいじゃんケチ」
「うるさい、重いんだよ」
俺は怒った振りをして、口を固く結ぶ。本音を言うと、しばらくあのままでも別に良かった。
けど……寝られて放っておかれるのは、なんか嫌だ。
そんなこと思った自分が自分で、不思議だった。
ひた隠した俺の心情を知ってか知らずか、御子柴は自室をぐるりと見回した。
「俺の部屋、物色した?」
「——へっ!?」
突然、そう指摘され、俺はぎくりと肩を跳ね上げた。
な、なんで分かった!? ほとんど何にも触ってないのに!
「いや、俺が水無瀬の部屋に入ったら、色々見るし」
「み、見んな!」
「えー、普通そうしない? 何か見たいものある?」
開けっぴろげなのか、サービス精神旺盛なのか、そんなことを言い出す御子柴に、俺は気になるものが一つあったことを思い出した。
「そういえば、割れてるCDあったけど、あれ、シマさんの店で買ったやつ?」
「あ……。あれ、あの日の帰りにソッコー落とした」
「ええ? 大丈夫だったのかよ、中身」
「んー、なんとか」
御子柴は一拍遅れて、苦笑を浮かべた。なんだかその笑顔がいつもよりぎこちない気がした。
「そうだ。んなもんより、アルバム見ねえ? 小さい頃の俺、めちゃくちゃ可愛いから」
「自分で言うな」
とはいえ、大いに興味があった。御子柴は素早い手つきで棚からアルバムを取り出すと、ローテーブルの上に広げた。
アルバムの中には数々の写真が並べられていた。生まれたばかりの頃から、はいはい、よちよち歩き……と、時系列順に続いていく。
「う……確かに可愛い」
「だろ?」
さすがというかなんというか、御子柴は赤ん坊時代から、むかつくほど顔立ちが整っていた。
一歳頃にはもう髪の毛が生えそろっていて、目は大きくて黒々としていて、愛くるしいことこの上ない。フォトスタジオで撮ったと思しき写真なんかは、まるでキッズモデルである。
「幼稚園まではよく女の子に間違われてたらしいぜ」
とは言うものの、さすがに小学校に上がる頃には、顔立ちが男子のそれになっていた。当たり前のように端整な顔立ちだ。
あとこの頃からピアノの発表会だかコンクールだか分からないけど、正装している姿もちらほら見受けられて、ますます子役かなにかに見える。
「あんま背、高くないな」
「そーそー、中学から一気に伸び始めたんだよな」
写真の中の御子柴は制服姿に変わっていた。中学時代はブレザーだったようだ。紺色の上着とスラックス、臙脂色のネクタイ——そんな格好が新鮮に映る。
ここにあるのは俺の知らない御子柴ばかりだ。
知られた嬉しさと同時に、そのどれもが四角く切り取られた一部ばかりで、なんとなく寂寥感が胸を過る。
高校の入学式で、アルバムは終わっていた。
「なんか、すごいちゃんとしてんな」
小さい頃はともかく、俺のアルバムなんてここまで充実していないだろう。中学になればせいぜい一、二枚、高校の写真なんて一枚もないかもしれない。
「ばーちゃんがすげー綺麗に残してくれてんだよな。あとうちの親父、写真が趣味だから」
「そうなんだ」
「最近は忙しいから、あんまカメラにも触ってねーけど。でもたまの休みに庭とかクロードとか撮ってるぜ。俺も撮らしてくれって言われるけど、全力で拒否ってる」
まぁ、その気持ちは分からないでもない。十七にもなって親のカメラに収まるのは少し照れくさいだろう。
「……あ、でも」
写真が挟まっていない、アルバムの続きを指で撫でながら、御子柴が続けた。
「今度、水無瀬と写真撮ってもらおっかな」
「え? お、俺?」
突然の提案に、俺はおろおろと視線を彷徨わせる。
「いや、でも……俺、笑うのとか苦手で」
「いいんじゃね、別に笑ってなくても。親父もなんてーの、自然な被写体を撮るのが好き、とかなんとか言ってたし」
「そういうもん?」
「らしい」
アルバムから視線を外し、御子柴は俺に目を向けた。外に広がっているであろう、夜空のような色の瞳が、柔和に細められる。
「直近だとやっぱ終業式? あ、それから三年に上がった時も撮ってもらおうぜ。体育祭とか文化祭とか。そっからもずっと」
無邪気に笑う御子柴から、俺は目が離せなかった。
どうしてだろう、瞳の奥がじわっと熱くなるのは。
その言葉に胸の中がどうしようもなく満たされるのは。
「……うん」
俺は端から滲む視界の中、かろうじて頷いた。
御子柴の表情から笑みが消える。
やばい、泣きそうになっているのがバレたかな、引かれたかも。なんとか感情を平坦に保ち、慌てて言い訳をしようとしたところで、御子柴の指がそっと頬に触れてきた。
髪の間をすり抜けて、大きな手が片頬を包み込む。そのぬくもりは途方もない感情を俺にもたらした。
それは多分——愛しさ、という名前なのだろう。
どちらからともなく身を寄せ合う。瞼をゆっくり閉じると同時に、柔らかい感覚が唇に触れた。角度を変えて、軽いキスを繰り返す。その度に鼻先が触れて、羽で撫でられるようなくすぐったさを覚えた。
数えられる程度の回数そうしているうちに、いつの間にか腰に回っていた御子柴の腕にぐっと力が入った。熱い舌が差し込まれる。痛いほど脈打つ心臓の高鳴りも置き去りにして、俺はその動きに必死に応じた。
両手は縋り付くように御子柴の背中に回り、知らず知らずのうちに俺達は体を密着させ、深く抱き合っていた。
御子柴は無言で額を寄せた。至近距離から見る御子柴の瞳はあまりにも美しかった。きっと俺がこの前見損ねたプラネタリウムはこんな光景を映し出すのだろう、と思った。
「好きだよ」
なんの飾り気もない言葉が、俺の胸の底まで深く根ざす。荒い呼吸の間からなんとか返したくて、でも真っ直ぐ見るにはあまりにも恥ずかしくて、俺はそっと目を伏せた。
「……俺も」
やっと返した小さな言葉ごと、苦しいほど抱きしめられた。
身動きできないからだけじゃない、もっと本質的なもどかしさに俺はか細い息を吐く。こんなに近くにいるのに、御子柴の存在が遠い気がした。世界中の誰よりも、手が届かない場所にいるような。
いや、違う。
足りないんだ。
こんな距離じゃ、何もかも足りない。
もっとずっと近くにいたい。
この世界の、他の何もかもが見えないぐらい——そばに。
「水無瀬……」
深みのある声が耳朶を打つ。抱きしめる力が緩んだかと思うと、御子柴は唐突に俺の首の後ろと膝の裏に腕を差し入れた。
「よっ、と」
「うわっ」
そのまま突然、持ち上げられた。俺は思わず御子柴の首っ玉にかじりつく。いつぞやの春日井先輩のように横抱きにされた俺は、すぐさま傍のベッドにぼすっと落とされた。
反射的に目を瞑る。マットレスが背中を受け止めたので痛みはなかったが。
「お前、なにす——」
細く目を開けて、文句を言おうとした俺の両側で、ぎしっとスプリングが鳴った。
体の上に、影が落ちる。
天井から照明を受けて、薄く逆光になった御子柴が、俺に覆い被さっている。
「……俺、お前のこと、こうしたいんだけど」
らしくなく強張った表情で、切羽詰まった声で、ぽつりと言われる。
俺はしばらく呆気に取られて御子柴を見上げていたが、言わんとしていることにじわじわと理解が及ぶと、一挙に熱が顔に集まってきた。
じっと俺を半ば睨み付けている御子柴の瞳は、至って真剣だった。痛いぐらいに真摯だった。黒曜石のような輝きの中に、ちらちらと燻る炎が見えた途端、俺の心臓がどくどくと大きく脈打ち始める。
詰めていた息を、細く長く吐く。言うべき言葉は分かっていたが、このまま視線を合わせていたら、どうにかなってしまいそうだった。
だから、
「いちいち聞くな、そんなこと……」
俺は自分を情けなく思いながら、少しだけ顔を背け、手の甲で口元を覆った。
「……御子柴になら、何されてもいいよ、俺——」
視線を背けた先のシーツがぎゅうっと握り絞められた。深い皺の寄ったシーツ。御子柴の指は力が入りすぎて真っ白になっている。
見ると、御子柴はがっくりと項垂れていた。
「お前は、また、そういうことを……。俺がとんでもない性癖持ってるド変態だったらどうするわけ?」
「そうなのかよ」
「違うけど」
「ならいいだろ」
「いいのかよ……」
心底疲れたように御子柴は溜息を吐いた。
そしてそのまま呆れ果てたような表情で、俺の頬を撫でた。親指が耳の輪郭を確かめるようになぞり、人差し指が首筋を辿った。皮膚が粟立つ感覚が羞恥心を煽る。御子柴の手が、俺の喉元にあるファスナーにかかったのに気づき、焦って言った。
「で、電気は消せって」
「あ、バレた。なるべく色々見たいんだけどな」
こいつ……やっぱりちょっと変な性癖が入っているのでは?
「いいじゃん、この前は明るかったし」
保健室でのことだ。あの時はほんとどうかしていたとしか思えない。真っ赤な顔をしていては迫力も何もないが、とにかく俺が睨み付けると、御子柴は渋々ベッドサイドのリモコンに手を伸ばした。
ピッ、という電子音がして、部屋の照明が落ちる。
全てが薄い暗闇に沈んだ。それでも視界が完全に閉ざされなかったのは、カーテンから外の光がぼんやりと漏れてくるからだ。月光なのか外灯なのか、あるいはその両方なのか、暗い部屋に青白い明かりが差し込んでいる。
さながら、御子柴と二人、海中に落ちていくような光景だった。海面から与えられる陽光がどんどん少なくなって、青くて暗くて静かな海の底に沈み込んでいくような——
「水無瀬」
名前を呼ばれると同時に、手と手が重なった。応じるように指を絡めると、唇を塞がれた。
意識がぷかりと浮かび上がった。夜の海の底から海面へと浮上するように。
薄く目を開けると、そこは見慣れない部屋だった。
モノトーンのデスクの傍にある小窓から、薄く朝日が差し込んでいる。横を向いていた体を緩慢な動作で仰向けに転がすと、これまた見慣れない天井があった。シーリングライトは消灯したままだった。
「あ、起きた」
さらに顔を右に向けると、同じベッドに御子柴が半身を起こして座っていた。
すぐ横の窓によりかかってスマホを触っている。ちらりと見えたのはメッセージアプリの画面で、誰かとやりとりしているようだった。
それも一区切りついたのか、御子柴はベッドサイドにスマホを置いて、カーテンを勢いよく開けた。
しゃっという音と共に、待ち構えていたように日の光がなだれ込んでくる。
「まぶしっ」
俺はとっさに頭まで布団をかぶった。
「はい、もう起きる」
「んー……!」
布団を剥ぎ取られそうになるのに、なんとか抵抗する。御子柴は意外と諦めが早かった。「はぁ、もう」などと溜息を吐いている。
しばらくダンゴムシのように丸まっていた俺は、布団からちらりと目だけを覗かせた。御子柴は可笑しそうに肩を振るわせていた。
「前から思ってたけど、水無瀬ってよく寝るよな」
「悪いかよ」
「いや、いいんじゃん。ぐーすか寝てるの可愛いし。三歳の甥っ子に似てる」
「子供扱いすんな……」
「誤解だって。——俺、ガキにはあんなことしねーよ?」
にやりと吊り上げられた唇を見て、呆気に取られていたのは一瞬だった。
こいつの思惑通りだということは分かっているのに、顔がぼんっと沸騰した。一拍遅れて、昨夜のあれやこれやが津波のように襲ってくる。
俺はがばっと上半身を起こすと、手近にあった枕で何度も御子柴を叩いた。
「うるさいばかっ、お前はっ、朝からっ、何言ってんだ!」
「痛いって。暴れるな、ステイステイ」
俺はクロードじゃない! 大きく振りかぶった枕を掴まれ、強引に引き寄せられる。
体勢を崩した俺を難なく受け止めて、御子柴は音もなく口づけてきた。
「——おはよう、水無瀬」
鼻先が触れるほど近くで、にっこりと微笑まれる。
俺はぐっと言葉に詰まって、枕に顔を埋めた。
……完っ全に分かっててやってる、こいつ。自分の顔がいいって知ってるし、それに弱い俺のことも分かってる。それを俺も分かってる。なのに逆らえない。
「汗かいたろ、シャワー浴びてきたら?」
「ん……」
穏やかにそう促され、俺はもぞもぞと枕から身を離した。御子柴のことを睨んだままベッドを降りて、部屋のドアに向かう。
「あ、一緒に入る?」
言うと思った、このばか。
「入らないっ」
俺はわざと音を立てて、ドアを開閉した。
一人、廊下に出ると、途端に朝の静寂が身に染みこんでくる。
俺はまずリビングに向かって着替えを取ると、昨日も使わせてもらった洗面所兼脱衣所に向かった。
その間中、頭を過るのはもちろん昨夜のことだった。いちいち具体的に思い出しては、その度に立ち止まって頭を抱えた。
何を……なんてことをしてしまったんだ。下手に思考に囚われると叫び出しそうになる。
脱衣所に入った俺はさっさと熱いシャワーで諸々を流してしまおうと、服を脱いだ。洗面台の鏡に自分の姿が映る。
保健室でのことを思い出し、はっとして肌をくまなくチェックした。首に、肩に、胸、それから背中——
「あれ……」
鏡に映る自分の上半身は綺麗なものだった。いや、綺麗ではないけれど……少なくとも、あの時のような鬱血の跡はなかった。
そういえば、昨夜は強く吸い上げられるようなことはされなかったような気がする。必死すぎて細かいことまでは覚えてないけれど、この跡のない体が証拠だろう。
「そっか……」
俯いて呟いた自分の声が、思った以上にか細いのに驚く。
い、いやいやいや。別に残念なんて思ってないし。大体、あの感覚ちょっと苦手なんだよ。痛いとかそういうんじゃないけど、なんかこういてもたってもいられなくなるっていうか。
でも……一回ぐらいは。一個ぐらいは……
「——あーもう!」
俺はぶんぶんと大きく首を振った。そして今度こそ服を綺麗さっぱり脱ぎ捨てて、頭からシャワーを浴びた。最初は冷たい水が出ることを失念していて、悲鳴を上げたけれど。
俺と入れ替わるように、御子柴もシャワーを浴びに来た。
冷水と温水に翻弄された俺は、すでにちょっと疲れていた。パーカーとジーンズに着替えた俺がよろよろしていると、御子柴が小首を傾げた。
「だいじょぶ?」
「おう……。あ、そうだ。朝飯どうする?」
「んー、なんも考えてなかった」
「キッチン使ってもいいなら、またなんか作るよ」
「え? ほんと?」
御子柴の瞳が輝く。それを見て少し元気を取り戻した俺は俺で、現金なものだった。
俺は早速リビングに向かった。
キッチンを見ると、食パンが一斤置いてあった。
誰もいなかったけど、一応「失礼します」と断って冷蔵庫を開ける。ジャムにバター、卵にベーコン、野菜室にはレタスとトマトがあった。うん、それなりの朝食が作れそうだ。
まずはサラダを作る。トマトを切って、レタスをちぎっていると、御子柴がリビングに現れた。リネンシャツにネイビーのニットカーディガンを着ている。カラスの行水もいいところだ、と俺は苦笑した。
トーストを焼いて、ベーコンエッグを作る。御子柴は昨日と同じように、俺の作業を見守っていた。正直言って、ちょっとやりにくい。困ったように見やると、無邪気な笑みを返された。……くそ、やっぱりずるい。
「水無瀬は、いつも朝なに飲むの?」
電気ケトルで湯を沸かしながら、御子柴が尋ねてくる。
「紅茶かな」
「おっけー」
御子柴は上の戸棚からティーパックを取り出している。背伸びすらせずに届いてしまうのはさすがだ。春日井先輩が見たら怒るだろうな、と思った。
すぐにお湯が沸く。ティーパックを入れたマグカップにお湯を注ぐ手つきを、俺ははらはらと見やった。
「指、火傷するなよ」
「お前って結構、過保護だよな……」
朝食を用意し終え、向かい合ってテーブルにつく。
俺はマグカップに口をつけた。トーストを頬張っている御子柴をちらりと見やる。
朝から早食いは健在で、すでにトーストは半分以下に減っている。いつも思うけど、特にがっつくような動作ではないのに、魔法のように食べ物がなくなっていくのは、どういう仕組みになっているのだろう。
「あ……あのさ」
「うん?」
指についたジャムを舐め取りながら、御子柴が言う。俺は瑪瑙色の紅茶に視線を落とし、口ごもった。
「昨日は、あの、なんていうか……ごめん」
「え、何が?」
「いや、だって。俺、その——」
紅茶の水面に映った自分の顔に、朱が差している気がする。俺はしばらく言い淀んでいたが、やがてぼそぼそと続けた。
「ああいうこと、えっと……は、初めてというか。色々、迷惑かけたし、やっぱ、あんま、うまくできなかったかな、って……。それに、中途半端だったかも、だし——」
今気づいたけど、これ、食事中にする話か? やっぱやめよう、と提案しようとしたが、御子柴は一向に気にすることなく、ベーコンエッグを箸で突いていた。
俺も紅茶を飲んで落ち着こうと、再びカップを持ち上げたところで、御子柴は何気なく言った。
「中途半端って、入れなかったから?」
「ぶッ——」
熱っ、熱い! 淹れ立ての紅茶を飲んでる時にぶっこむな! 涙目になる俺を意にも介さず、御子柴は続けた。
「別にいいんじゃね。俺だって初めてだし、あんなもんだろ」
俺は一瞬、唇がひりひりするのも忘れて、御子柴を見つめた。
御子柴はベーコンエッグを一口で食べ、もぐもぐと咀嚼している。そしてのんびり「んー、うまい」などと呟いていた。
ぽかんとしていた俺は、我に返る。
「あ……ああ、その、男と——ってこと?」
「いや、人生通して」
「嘘じゃん」
俺は即座に真顔で返した。
「嘘すぎんだろ。え、気ぃ使ってる?」
「なんでだよ、嘘ついてどうすんだよ」
「彼女、いたことあるだろ」
「それは、まぁ」
「じゃあやっぱ嘘じゃねーか」
「誰ともそこまでいかなかったんだよ」
「嘘だ」
「俺、告られるのにすぐフラれるタイプだから」
「嘘つき」
「それにそういう気分にもなれなかったんだよな。淡泊なのかなーってちょっと悩んだり」
「ホラ吹き」
「なので、水無瀬くんと同じ身綺麗な童貞だから、安心してください」
「大嘘つきッ!」
思わず立ち上がると、御子柴もまた応じるようにゆっくりと腰を上げた。
その表情には凄みのある笑みが張り付いている。
「しつけーな、お前も。ほんとだって言ってんだろ」
言うなり、パーカーの襟元をぐいっと引っ張られた。
御子柴がテーブルの上に身を乗り出して、俺の首筋に唇を当てがう。あっ、と思う間もなく、皮膚を強く吸われる。
血が吸い上げられる感覚に、ぞわっと全身が粟立つ。慌てて椅子に腰を下ろした俺を見下ろしながら、御子柴は口端を吊り上げた。
「そう焦んなよ。——俺はお前のもんだし、お前は俺のもんなんだから」
俺はへなへなとテーブルに突っ伏し、首をさすった。
「さ、ご飯はお行儀良く食べましょーね」
何事もなかったかのように椅子に座り、優雅な仕草で紅茶を飲む御子柴に、俺は小さな声で「はい……」と返した。