今から帰るところなのだろう、駅へと向かうにつれてサラリーマン風の男達の姿が目立つ。
 でも、俺とは違って家庭があって、家に帰ればメシや風呂が用意されているのかもしれない。

 ――結婚、か。

 そのことを考えると必然とついてくるのは4年前のこと、真剣に将来を考えていた彼女との破局。
 あの時から目に見えるものが色を変えて、人と深く関わることに躊躇いが生じていた。
 仕事は真剣に取り組むけど、それ以外のことは適当にこなす。
 それがいいのか悪いのかもわからず、ただ毎日同じことを繰り返すだけ。
 自分がやりたいことは本当にこんなことなのか、とたまにふと思ってしまう。
 この道を選んだのは自分のはずなのに、そのレールが不安定で外れたことをしたくなる時があるんだ。

「宮内のこと、言えねえな」

 落ち着け、とか他人に言っておいて、自分が一番落ち着きがない。
 表面上は普通だけど、心の奥底は整理できずにあちこちさ迷っている。
 どうすればいいのかもわからず、ただ退屈に日々を過ごしているだけ。

 このままでいいのかと悩みながらどうにもできなくて、結局今の環境から抜け出すことなんてできない臆病者だ。
 その点、宮内は頭の中はああいう下世話なことばっかり考えてるようなどうしようもないヤツだけど、きっと毎日を楽しんでる。
 その時の自分の気持ちに従順で、それが周りからすれば困ることもあるけど。
 調子に乗るから言わないけど、そんな彼が羨ましく思ったりするんだ。

 上に広がる星空はネオンの光で見えづらいけど、確かにそこにあった。
 この夜空と同じように、俺の未来も見えそうでなかなか見えない――。



「……ん?」

 家路に就く途中、駅から少し離れた場所で丸くなってる〝なにか〟を見つけた。
 いや、某高校の制服を着てるから女子高生であるのは間違いないけれど。
 膝を立てて座ってるからパンツが丸見えで、でも彼女は気にしないとばかりに顔を埋めたままだった。

 ――ナンパ待ち? それか、援助交際とか?

 今時の高校生がどういうものかはわからないけど、有り得ない話じゃない。
 こんな場所でそんな体勢で座っていれば変な輩が近づいてくるのは当然で、彼女に寄っていく男達の姿が何人か見受けられた。
 でも、彼女は相手にするどころか、顔すら上げようとしなかった。

「高校生が遅い時間にこんなところにいたら危ないよ」
「帰るとこがないなら、泊まれるとこにでも行く?」
「お小遣いあげるよ」

 彼女に近づく男の声が耳に届く。
 そのどれもがとても耳障りで不快で、聞いていたくないと思うほど俺の神経を逆撫でした。
 だけどそれだけで、まったく関係ないのに彼女に下心剥き出しで近づいていく男達を追い払う必要はない。
 そんなことをして、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。
 彼女がこの場所にこうしているのはきっとなにか事情があるからで、それを選んだのが彼女自身なら他人がとやかく言う筋合いはない。

 一瞬だけ、彼女が顔を上げた。
 その瞳が周りの男達を捕らえ、でもまたすぐになんでもないかのように伏せられた。
 関係ないのに彼女の瞳を見た瞬間、目を奪われた。
 それは一目惚れとかそういう浮わついたものじゃなくて、彼女が見せる瞳が他の子とはどこか違うからに他ならない。

 高校生なら、きっとなにをしても楽しい時期だ。
 無邪気に笑って、時にイタズラして、そうしていいことも悪いことも経験していく。
 子供と言うには成長しすぎて、大人と言うには未熟な年頃。
 体は大人に近づいても心はまだ少し大人になりきれてない、それが10代の高校生だと思っていた。
 なのに、この彼女はなんだ。
 社会の理不尽さや醜さを見てきたような、すべてを諦めてるような瞳は。
 底無し沼のようにどこまでも暗くて深くて、闇を抱えてるような。

 ――どうして、まだ高校生でしかない彼女がそんな瞳をするんだろう。


 しばらくその場に佇んでいた。
 なにかするわけでもなく彼女に話しかけるわけでもなく、少し離れた場所から彼女を見て、……いや、正確には見張っていた。
 危ない目に遭わないように、なにかあった時のためにすぐに助けられるように。
 そう思ってしまうほどに、その女子高生の彼女は危なっかしい様子だった。

 どれだけ経っても、彼女はほとんど微動だにしない。
 時折なにかを感じたようにピクッと体を小さく動かすくらいで、それ以外はなにも。
 よくできた人形だと見違うほどに、人間味すらあまり感じられなかった。
 こんな時間にいたら補導くらいされそうだけど、どれだけ経っても警察官がやってくることはなかった。


 その時、ふっと側を通りかかった大学生くらいの男二人が彼女のほうを見てなにやら話している。

「あ、またいる!」
「ん? 知り合い?」
「違うって。いつもあそこでああやってうずくまってんの、あの子」
「ナンパ待ちとか?」
「いや、それが誰が声かけても反応しないんだよな」

 どうやら彼女は有名なようで、毎日のようにここにいて、ああしてうずくまっているのか。
 ナンパ待ちでもなく援助交際をするでもなく、なにかを我慢するかのように。

「ほんと、なにしてんだろーな」

 無性に気になった。
 彼女がなにを求めてああしているのか、なにを望んでいるのか――わからないからこそ、それが知りたくて仕方なかった。

 声をかけようか。
 だけど、俺はただのサラリーマンで、彼女からすれば知らないオジサンだ。
 声をかけたところで返事があるとは思えないし、ナンパや援助交際だと思われるのも不愉快だ。
 ただ一言でもいいから、帰れ、と言えばいいのかもしれない。
 だけど、この年の差が歯止めを掛けて、近づくことさえできなくさせる。

 遠目から見ても、普通の女子高生だ。
 一瞬だけ見えた顔は可愛らしくてまだ幼さを持っていたのに、年相応の女の子なのにどこかそう見えないのはやっぱりあの瞳だ。
 醸し出ている暗い闇――それがまるで彼女を覆い尽くすようで、とにかく放っておけなかった。


 不意に彼女が小さく動いたと思うとポケットからスマートフォンを出し、数分ほど見つめた後それをまた仕舞って立ち上がった。
 思ったよりも小さいのに、そのくせ体は立派に成長していてラインが制服越しでもはっきりとわかる。
 だからといって、女子高生相手に欲情はしない。
 いくら可愛くても体が成長していても彼女はまだ子供で、周りにいる大人が守ってあげないといけない、危なっかしい子。

「――」

 彼女が小さくなにか言った。
 でも、その言葉は俺には届かなくて、声さえほとんど聞こえなかった。
 そして、彼女はスカートを翻して行ってしまった。
 ふわりと柔らかな風に髪が靡いて、整った横顔がはっきりと見えた。
 その表情はやっぱり暗くて、彼女の素顔をひっそりと隠していた。



 どれくらい経っただろう。
 彼女が既にいなくなった場所で、俺はまだ立ち尽くしたままだった。
 もう姿はなく面影も気配も消えているのに、なぜかまだそこにいるように感じて身動きできなかった。

 ――なんだろう、あの子は。

 女子高生なんて違う世界にいるような存在なのに、気になって仕方ない。
 今までこんなふうに感じたことなんてなかった。
 どの女に対しても、もしかしたら今まで付き合っていた彼女に対しても。


 じっと考えてみる。
 いくらあの子が普通の子とは違う雰囲気を持った子だからといって、どうしてそこまで……。
 正直いって自分でもそれがどうしてもわからなくて、ただ狼狽している。

「……どうでもいいだろ」

 まるで自分に言い聞かせるような言葉。
 あの子がなにをしようと、なにを抱えていようと俺にはまったく関係ない。
 これからだって関わるようなことはきっとないし、それなら気にする理由なんてこれっぽっちもない。

 ――そのはず、だった。


 俺はなかなか動かない足をなんとか動かして、その場からゆっくり離れた。
 彼女がいなくなったのに、なぜか離れがたい。
 それでも、これ以上ここにいると明日の仕事に支障を来すかもしれないし、それだけは避けたい。

 俺はゆっくりと家路へと就く。
 途中、なぜか意味もなく振り返ったりしながらも。
 ちゃんと帰ったのかと心配になったけれど、そんなことをしても意味がない。
 それに気付き、俺はひとつ嘆息してから自分のアパートへと向かった。
 そして今度は振り向くことはなかった。




***


 その翌日、アラームが鳴る前に目が覚めてしまった。
 俺はインスタントコーヒーを飲んでからシャワーを浴び、時間はまだ早かったけどアパートを出た。

「はー…」

 ため息が溢れた。
 頭の中にはまだ昨日の女子高生のことが根づいていて離れてくれない。
 あの表情が気になって仕方なくて、なんとも言えない気持ちになる。

 あの子は、昨日あの場所でなにをしていたのか。
 いったいなにを求めて、なにを望んで、あんなところに一人でいたのか。
 もしなにか理由があるなら、俺になにかできることがあるなら力になってあげたいと思った。
 野良猫みたいな、小動物のような彼女がとにかく放っておけない。

 ――あの子は、今日の夜もまたあの場所に来るんだろうか。



「あら、黒川くん?」

 いきなり誰かに声をかけられたと思ったら、それは聞き覚えのあるもので、そのほうに顔を向けてみれば本城さんがいた。
 大学時代の憧れの人で、相変わらず綺麗だった。
 なによりも目を引いたのは強調されるほどに大きな胸で、見るつもりはなくても意識は自然とそっちのほうへと行ってしまう。

「久しぶりね」
「……あ、はい。そ、ですね」
「今から出勤? 途中まで一緒に行かない?」
「……はい」

 ふわりと漂うのは、大人の香り。
 もう特別な感情なんてものはなくなったはずなのに、本城さんを見ると、あの頃の想いが蘇ってくるようでドキドキする。


「ねえ、昨日、宮内くんとか大学時代の友達と飲んでたんですって?」

 不意に話しかけられて、なんとか返事をする。
 本城さんの前だと大学時代と変わらずに奥手な自分のままで、もういい大人なのに情けなくて、自分に自信がなくなってしまう。

「宮内くん、私のこと、なにか言ってなかった?」
「……え、なにか、とは…」
「その、エロいこととか」

 言ってましたよ、思いきり。
 何回も抜いてるとかヤリたいとか、そういう性的なことばかりだけど。
 だからといって、そんなことは本人を前にして言えるわけがない。

「……えーと、はは…」

 嘘が下手な自分は笑って誤魔化すしかできない。
 宮内のように、適当な嘘もつけたほうが社会人としては生きやすいのかもしれない。

「やっぱり、なんか言ってたのね」

 宮内があんな下世話なことばかり言うのは、今に始まったことじゃない。
 学生の時からずっとそうで、そういうことばかり考えてるようなどうしようもない男だ。

「会社にいる時も真面目に仕事してるかと思えば、そういうこと言ったりするのよね」
「………」
「後輩としてはいいんだけどね、軽いけどそれなりに仕事できるし」
「……はあ、そうなんですか」
「黒川くん、ちょっと宮内くんに言ってあげてよ。セクハラ発言しないように」

 …いや、それは無理。
 言ってやめるような男ならいいけど宮内はそうじゃなく、本能だけで動いて、思いのままに言葉にしてるような男だから。
 仮に俺がなにか言ったところで、きっとまったく気にも留めないだろう。

「黒川くんも思ったりするの?」

 その意味がわからずに首を傾げると、本城さんは一瞬だけ俺のほうを見て恥ずかしそうに顔を逸らした。

「……その、私と、」
「本城さんと?」
「……し、シたい、とか」

 まさか本城さんがそう言うなんて思ってなくて、動揺を隠せない。

「だ、だって、宮内くんはいつも言ってくるし、他の男の人もやたらと私の体見てくるもの」

 それは無理ない話で、誘ってるつもりはないかもしれないけど、彼女が醸し出す雰囲気は性的な興奮を引き起こさせる。
 彼女とそうなりたいとは思ってないけど、今だってほら、その視線だけで変な気持ちになりそうになる。

「だから、黒川くんも私の体を妄想して、その、そういうことしたのかと思って」

 学生時代は本城さんに憧れていてまだ若かったこともあって、ないとは言い切れない。
 かといって本人に言えるわけなくて、そんな目で見ていたんだと思われるのがなんだかとても嫌だった。

「……なんで、そういうこと聞くんですか」

 本城さんの質問に敢えて答えず、心の奥を見透かされないようになんでもないような態度で聞き返した。
 すると彼女は、小さく声を上げてパッチリとした瞳で俺を見つめた。

 ――だから、そういうところが男に錯覚を起こさせ、勘違いさせたりするんだ。

「……気になるんですか」

 本城さんに口元を緩めて、妖艶に笑った。
 ぷっくりとした唇がやけに色っぽくて、気持ちはないのに思わず手を出してしまいたくなる。

「気になるって言ったら、黒川くんはどうするの?」
「え」
「もし私が、黒川くんに気があるって言ったら?」
「………」

 ズルい人だ。
 自分の気持ちはなにも見せようとしないくせに、人の気持ちを透かし見ようとするなんて。
 こういうところが彼女の魅力のひとつと言えば、それまでなんだけど。

「そしたら、私のこと意識しちゃったりする?」

 彼女に対しての気持ちが今はもうわからないけど、きっと最初から特別だ。
 過去のことだとしても、一度でも心が動いたのは事実としてあるから。 

「ね、どうなの?」

 腰を少し屈めて覗き込むように見つめてくる瞳は、まるでからかうように楽しげに揺れていた。
 なんて答えればいいのか迷って、言葉に詰まる。
 もう終わったはずの恋心なのに、まだ心の奥底に未練が残ってるようで。
 もしそれが少しでもあるとしたら、あの頃の想いが清算しきれていないからかもしれない。

 本城さんはふにゃっと頬を緩めて、色っぽい唇から小さく声を漏らす。
 ふふっ、という笑い声さえも妖艶で、心が持って行かれそうになる。

「なんてね、冗談よ」
「……え?」
「黒川くんにとって、私は大学時代の先輩でしかないでしょ。私にとっても黒川くんは大事な後輩」
「………」
「仮に、仮によ? 私が黒川くんを好きだったとしても、迷惑でしかないでしょ。黒川くんにも彼女がいるだろうし」

 迷惑なんてことはない。
 本城さんに想われるなんてことはもしもの話であって、この先もないと思うけど。

「…いや、彼女なんてもう何年もいないんですけど」

 それだけを言うと、本城さんは「ふうん。そうなの」と意味ありげに微笑んで見せた。
 その表情の意味が俺にわかるはずもない。

「もうひとつだけ、聞いてもいい?」

 改まったように聞かれて「なんですか」と問いかけると、目の前にある透明な瞳が揺れて、そこに自分の姿が映っているのが見えた。

「彼女がいないってことは、何年もそういうことしてないの?」

 ……はい?
 なんだ、今のは空耳か?

 本城さんがそんなことを聞いてくるなんてあるはずがないし、毎日のように宮内と一緒に仕事をしているから毒されてしまったのか。
 もしそうなら、なんて哀れなことか。

「…だから、その、……エ、エッチとか」

 思った以上の衝撃が走り、それに驚いて、またそのことが少しだけショックだった。

「宮内の影響ですか、それ」
「え?」
「…あ、いや、だって朝から本城さんがそんなこと聞くなんて」

 学生時代からは考えられなくて、高嶺の花のような人がそんな単語を言うことさえ信じられない。
 ……いや、ただそうあってほしくなかった、だけかもしれない。

「違うわ。ただの好奇心」

 彼女はなんの迷いもなく見つめてきて、たった視線ひとつで体にじっとり汗が流れてしまいそうだ。

「黒川くんのような健康的な男性が何年もしないで平気なのか、すごく興味ある」
「………」
「私もいい大人だから。好きよ、そういうエロいこと」
「っ…」

 本城さんのような色気たっぷりの女がそう言うと、興奮を煽られる。
 もし宮内が聞いたら、きっとそれこそセクハラ発言を連発するだろう。

「……本城さんて、魔性ですね」

 たとえ『好き』の気持ちがなくても本城さんほどの女性なら簡単にその気になるし、誘われたらイチコロに決まってる。
 もしかしたら単にからかっているだけで、俺の反応を見て楽しんでるだけかもしれない。

「嫌ね。黒川くんだからよ」
「え?」
「さて、ここで問題です。今のはいったいどういう意味でしょうか?」
「………」
「次会うまでの宿題ね。――じゃあまたね、黒川くん」

 本城さんは言いたいことを言うと、あっさりとした様子で先に行ってしまった。
 挨拶を返す間もなく、そんな余裕もなく、彼女の後ろ姿はもう遥か遠くにあった。


 もう見えなくなってしまった彼女の背中を見つめながら、俺は考えた。
 彼女が言っていたこと、その言葉の意味を。

 ――黒川くんだから。

 本城さんは確かにそう言った。
 俺のことは大事な後輩だと言っておきながらも、それ以上であるかのような口ぶりをする。
 そんなことを言うから、過去になったはずの想いをまた思い出して気持ちが揺らぐんだ。

「…あーもうっ」

 なんなんだよ。
 久しぶりに会ったと思ったらこんなふうに俺の心を乱して、また俺の恋心に火をつけようとするような言動をするんだ。
 大学の時も、彼女の何気ない行動に一喜一憂してその気になって、結局なにもできなかったというのに。



 ふっと昨日の場所を通る。
 そこには当然ながらもう女子高生の姿はなくて、酔っ払いが散らかしたであろうゴミが散乱していた。
 昨夜とはまったく雰囲気が違っていて、同じ場所なのかと疑いたくなる。

 そう、この場所。
 あの片隅に、制服を着たあの女子高生は静かにうずくまっていた。
 年相応のあどけなさを顔に残しながら、表情の作り方は高校生とはかけ離れていた。
 なにか抱えているような、そんな深い闇のような。
 女子高生らしさのカケラもない彼女だから、こんなにも気になるんだ。

 今日の夜もあの表情をして、彼女はまたここで一人うずくまるのだろうか。
 下心満載の男達の誘いを受けながら、危ない橋を渡るかのように。

「………」

 俺はまた余計なことを考えて、関係ねえな、と一蹴してまた歩き出した。