その日は仕事が早く終わり、俺――黒川奏多は久しぶりに学生時代の友達と何人かで一緒に飲んでいた。
こうして集まれるのは、どれくらいぶりだろう。
卒業後も連絡は取り合っているけど、仕事や家庭、他の予定と被っていたりして揃うことはあまりない。
だけど、今日はみんなが揃って酒を酌み交わし、近況報告や愚痴を言い合っている。
29歳という年齢にもなれば、既に結婚して家庭を持っているヤツも珍しくない。
彼女もいない自分にとってはまだまだ先の話。
結婚願望はないけど、家に帰ったらメシや風呂が用意されているのは羨ましく思わなくもない。
4年前、俺にも結婚を考えた時があった。
当時付き合っていた彼女と真剣に将来を見据えていて、少なくとも俺は結婚する気でいた。
でもそれは俺だけで彼女は違い、一社員に過ぎない俺との未来を信じてはくれなかった。
腹の中に新しい生命が芽生えていたというのに、彼女は俺にそのことを告げず、黙って堕胎の手術を受けた。
俺がそれを知ったのはあまりにも遅く、なにもかもすべてが終わった後だった。
『あなたのことは好きだけど、一緒にいる未来が想像できない、見えない』
なにが悪かったのか、なにが足りなかったのか、俺はなにもわからなかった。
それさえも言ってくれず、置き手紙のひとつもなく、彼女はある日突然俺の前から姿を消した。
あれ以来、俺は誰かを好きにはなれず、誰かとの未来も見れずにいた――。
時間が経つにつれて家庭のあるヤツは一人また一人と帰っていき、家庭もなく彼女もいないことに虚しさを覚える。
「いいよな、家庭があるヤツは」
すっかり赤い顔をしている宮内は、今し方帰っていった友人を見送りながら言った。
気付けば、独身者の寂しい男二人だけになった。
俺は悪友の言葉に耳を傾けながら、ひとつ枝豆をつまんで口に放り込む。
「どーせこれから帰って嫁さんと仲良くヤるんだろ。俺なんかいっつも右手が相手だ。虚しくなるな」
「……そうだな」
「あ、でもたまに左手でやったり、俺としてはいろいろ工夫してやってるわけよ」
「………」
「つか、知ってるか? あいつの嫁さん、すっげ巨乳なんだよ。一度でいいからパイズリしてほしい! やってくんねえかなー」
そんなこと言ったら殴られるぞ、とは思ったけど、敢えて言わず、笑ってその場をやり過ごした。
こういう時くらい気持ちよく飲みたいし、下手なことを言ってこの場の空気が変になるのは面倒だったから。
「あーあ、あいつの嫁さん酔わせて襲っちゃおうかな。酒のせいにして」
それは犯罪だろ。
さすがにいくら宮内でもそんな度胸はないだろうし酒の席での戯れ言に過ぎないけど、聞いてるほうはどう反応すればいいのか困る。
「まあそれは冗談だけど、でもこっそりオカズにするくらいはいいよな」
「え? してんの?」
「そりゃあするだろ! 妄想でくらい、自分のもんにしてもよくね?」
「………」
「あ、でもこれあいつには内緒な? 俺、まだ死にたくねえもん」
いや、言えないから!
ああ見えて彼は愛妻家で家族を第一に考える男で、そんな彼に、お前の嫁さんで抜いてます、なんて言えるか?
「……どうでもいいけど、ほどほどにしとけよ」
忠告するように言うと、宮内は親指をぐっと立ててドヤ顔を向けてきた。
こっちに飛び火するようなことはしないでほしいんだけど、わかってんのかこいつは。
「どっかにいねえかな。性欲を満たしてくれる子」
「……どんな子だよ」
「んー、おっぱいでシゴいてくれる可愛い子とか?」
「………」
「本城さん、しつこく頼めば1回くらいヤラせてくれっかな?」
本城さんというのは大学の時の先輩で、今は宮内と同じ会社で働いている。
スタイルが良くて綺麗で彼女が放つ色気はとにかく半端なくて、そのせいか彼氏が何人もいるとかすぐヤラせてくれるとか、いろんな噂が絶え間なくあった。
だけど、実際そういう関係になった人はいなかったし、少なくとも俺は知らない。
「お前、会社でも本城さんにそんなこと言ってんの?」
宮内ならやりかねない。
彼女の有無にかかわらず、彼は年中こういうことを言ってるような男だ。
「まさか。たまに冗談で言うくらいだって」
言ってんじゃねえか。
そんなことを言ってくる男が同じ会社にいるなんて、本城さんが可哀想だ。
セクハラで訴えられないようにしとけよ、と心の中で言っておく。
どうせ言ったところで今日言われたことなんて忘れてしまうんだ、この宮内という男は。
「なんて言ってんだよ、本城さんに」
「仕事頑張ったらヤラせて下さい、とか?」
「……よく言えるな」
「お前は一緒に働いてねえからわかんないだろうけど、同じ会社にいるとキツいんだって。色気ムンムンの女が側にいてみ? 我慢するほうも必死だっての」
「………」
「しかも、体のラインがわかるような服着てんの! 誘ってんだろあれは!」
そんなわけないだろ、エロいことばっかり考えてないで真面目に仕事しろよ。
学生時代から宮内はよく本城さんのことを話していたけど、その大半が恋愛感情なんてものじゃなく、性的なものばかりだ。
今言ったみたいに、ヤりたい、と。
他にも宮内のような男はいるかもしれないけど、そんな下心を持った男が一緒の職場だなんて大変だな、と同情してしまう。
「宮内、本城さんのこと好きなのか?」
とりあえず聞いておく。
俺には関係ないことだけど、宮内の本城さんへの気持ちが下心だけなのはあまり気持ちのいいものじゃない。
そう思うのはきっと、本城さんが学生時代に憧れていた女性だからだ。
「そりゃあ好きに決まってんだろ、あのカラダ自分のもんにしたい! 俺が毎日どんだけ本城さんで抜いてるか知らねえだろ」
宮内の口から直接聞いても、それが純粋な恋愛感情なのか判断しかねる。
仮にそこに気持ちがあっても、下心のほうが明らかに大きいような気がする。
本城さんが好きとか言いながら、宮内は店内を見回して女を物色している。
しかも大きな声で騒ぐもんだから、好奇の視線で見られて笑われてしまった。
「お、あの子、可愛い! おっぱい、でか!! めちゃくちゃ触りてえ!!」
可愛い子やスタイルのいい子に目が行くのはわからなくもないし、それは男の性のようなものかもしれない。
タイプと好きな人は別だから、俺だってタイプの子じゃなくてもついつい見てしまう時はある。
「……宮内、もっと落ち着けよ」
「ん? 俺はいつだって冷静だけど」
「……あ、そ」
話にならない。
なんだかんだ言ってこういう性格の宮内は嫌いじゃないし、一緒にいて楽だけど。
「つーかさ、もしかしてお前も本城さんのこと好きだったりすんの?」
いきなりそんなことを聞かれて噎せてしまい、それを見て、聞いた本人の宮内は目をパチクリとさせた。
「うっそ、マジで!?」
「…いや、ちが、違えよ?」
「そういう反応しといて否定されても、全っ然説得力ねえけど」
「………」
「それにお前、学生ん時、本城さんのこと好きだっただろ。バレバレ」
うわ、マジか。
うまく隠してるつもりだったけど、そう思っていたのは自分だけで本当は周りに知られていた?
ってことは、本城さんもか。
なにも言わなかったのは、気持ちに応えられないから気付いてないふりをしていた?
「ま、まあ、学生ん時は好きっていうか憧れてたけど」
「出た! 憧れとか言うヤツ!」
「え?」
「恋と憧れは勘違いしやすいけど、お前の場合は憧れじゃねえだろ。傷つきたくないから体のいい言い訳に使ってるだけ」
「………」
「あーもう、これだからヘタレは…」
ひどい言われようだな。
っていうか、ヘタレって言われるほど情けなくないとは思うんだけど。
まあ確かに、本城さんには卒業までちゃんとしたことは言えなかった。
「ったく、童貞かお前は!」
大声で叫ぶように言われて、つい反射的に「違えよ!」と返してしまった。
おかげで思いきり注目を浴びちゃったじゃねえかよ。
これも全部、この悪友のせいだ。
「仮に本城さんへの気持ちが恋だったとして、あれから何年経ってると思ってんだよ」
卒業後も交流があったならまだしも就職先も違うからほとんど会うことはなく、たまに偶然顔を合わせても軽く挨拶をするくらいだ。
離れてしまえば、気持ちなんてもんはいとも簡単に薄れていく。
その後、気になる人や好きな人もできたし、結婚を考えるほどに真剣になった彼女だって。
「だよな、いくらお前でもねえか」
「…? どういう意味?」
「いや、お前ってまっすぐっていうか一途っていうか、突っ走るところがあるからさ」
それは否定できない。
一途と言えば聞こえはいいけど、時によっては重いって言われるほどだ。
「でもなぁ、本城さんがお前のこと気にしてるっぽいんだよな」
そんな気にされるようなことはなにもしてないと思うんだけど、なんで?
告白された相手とかならわからなくもないけど、俺はなにも言ってない。
卒業の時も、ありがとうございました、ってお礼を言っただけに過ぎない。
言おうと思っても、大事なことはなにひとつ言うことができなかった。
「今日も聞かれたし」
「なんて?」
「学生ん時の友達と飲むって言ったら、黒川くんも来るの、って」
「………」
「他の連中のことなんか名前も出さねえのにさ、お前だけ。意識してるってことかね?」
ほとんど会いもしないし、会ってもまともに話すこともないし、最後に会ったのがいつだったかもわからないのに?
卒業してから今まで、本城さんが俺を意識する理由がなにひとつ見当たらない。
「どんな理由にしろ、本城さんに気に掛けてもらえるなんていいなー」
「……はは」
「俺なんかまったく相手にしてもらえねえんだけど。いつもアピールしまくってんのに」
それは下心丸出しだからだよ。
二言目に必ずってくらいに、ヤラして、っていう男に靡く女がいると思うか?
懲りずに誘えば、そういう女もいるかもしれない。
噂の真相は知らないけど、本城さんは簡単に着いていく女じゃないと思う、……いや、そう思いたい。
「今日だって疲れてるみたいだったからさ、ホテルでマッサージしてあげます、って言って誘ったのにーっ!」
そりゃあ無理だろ、それで誘いに乗ってくるってどんだけ尻軽な女だよ。
「そしたら、なんて言ったと思う? いい加減セクハラで訴えるわよ、だってさ。ひどくね?」
普通だろ、逆に今まで訴えられなかったことのほうが不思議なくらいだ。
「俺じゃ、本城さん落とすの無理かなぁ」
っていうか、そもそも本気なのか?
とてもじゃないけどそう見えないし、ただの性欲処理とかならやめてあげてほしい。
「あ、じゃあさ、黒川!」
「なに」
「俺よりもお前のほうが本城さん落とせる可能性あると思うし、後は任せた!」
「なにがだよ」
「つまり本城さんとヤったら、どうだったか感想聞かせて! しょうがないから、俺それで抜くわ~」
この酔っ払いめ。
本気で相手にしても自分が疲れるだけだから、適当に流しとこう。
「はいはい。わかったよ」
そう受け流すと、宮内は「言ったな! 約束だからな!」としつこく言ってくる。
どうせ明日になったらほとんど覚えてないくせに、本当に酒癖の悪い男だ。
***
「……おえぇぇっ!!」
店を出た途端、宮内が排水溝で思いきり嘔吐する。
おつまみ程度に食べたポテトや枝豆が消化しきれずに吐き出されて見るのも気持ち悪く、アルコールの臭いまでも漂って俺まで吐いてしまいそうだ。
「あーもう、だからあれだけ飲みすぎだって言っただろうが。バカ宮内」
「……うぅ」
「毎回毎回なんで俺がお前を介抱しなきゃいけねえんだっての」
「……それが、友達に言う言葉か」
「うっせ! そんなんじゃタクシーも呼べねえんだから、しっかり歩け!」
そう吐き捨てるように言うと、宮内は甘えるような猫撫で声を出す。
「冷てえなぁ、黒川~」
いや、ここに置き去りにせずに付き合ってやってるだけ十分優しいと思うんだけど。
「なあなあ黒川」
次はなんだ、と問うように視線を向けると、宮内はニヤリと妖しい笑み。
うん、嫌な予感しかしない、今すぐ逃げたい。
「セックスしたい!」
「知らねーっ!」
「なんでだよ! いいじゃんかーっ!」
「ちょっと待て。その台詞、知らない人が聞いたら俺達がデキてるふうに聞こえるから! ほら、めっちゃ見られてる!」
「え? 俺、黒川ならアリだけど」
「ちょ、やめろ! 触んな!!」
宮内の酒癖の悪さはわかっていたから飲ませすぎないようにしていたつもりだけど、今日は特に悪い。
こんな男を家まで送っていったら、なにされるかわからない。
「くーろーかーわーっ!!」
マジでキモい!
そう思いつつも、放っておけないこの性格がつくづく嫌になる。
「あれ? 宮内?」
不意にその声が聞こえたと思ったら、見たこともない知らない女がいた。
緩く巻いた髪がふわりと揺れて、香水の匂いが鼻先を微かにくすぐる。
「おー、偶然ー♪」
ちょうどいいところに、とでも言うように宮内は彼女に近づいていき、その距離は明らかに近い。
「なあ、俺セックスしたいんだけど」
「なんの報告?」
「いいだろ。いつも気持ちよくさせてんじゃんかー」
…ん? 彼女、か?
そういう人がいるなんて聞いたことないし、本城さんにちょっかいを出している時点で違う気がする。
「あ、こいつ、俺のセフレ」
あたかも当然のように、その彼女を紹介する。
その彼女もニコリと柔らかく笑って否定のひとつもせず、その様子を見る限りどうやら本当のことのようだ。
でも、すぐに理解できなくて、「は?」とマヌケな声が出てしまった。
「セフレっていうのは、セックスする友達のことで――」
「いやいや、わかってるから! そういうこと聞いてんじゃなくて!」
「んー?」
「お前、んなんいるのかよ」
「え、普通っしょ。じゃなきゃどこで性欲発散すんの? 右手だけで無理だって。女とヤりたいしさ」
わかるけど、そういうのを作ろうなんて思ったこと一度もないんだけど俺は。
「なあ、セックスしよ~」
宮内は誘うように言って、セフレだという女の体を馴れ馴れしく撫で回す。
女も特に嫌がる素振りはせず、小さく笑うだけ。
もう帰ろうかな。
セフレが相手してくれるんなら、俺がわざわざ介抱する必要もない。
宮内はいいヤツだとは思うけど、できるならこれ以上は勘弁してほしい。
今ここに自分がいる意味もないように思えて、今すぐ帰りたくなった。
「もう、しょうがないなー」
「やったーっ! んじゃ、今すぐ行こ! 早く行こ! ホテル!!」
「どんだけヤりたいのよ、あんたは」
女とホテルに行くのが決まった途端、宮内は「またなー」と手をひらひらさせて行ってしまった。
せっかく人が親切に介抱してやったっていうのに、なんてヤツだ。
別にいいけど、また誘われても付き合わねえからな。
今日は宮内に振り回されたような気がする。
いつものことと言えばそうだけど、いつにも増して疲労感が襲う。
アルコールが入ってるからっていうのもあると思うけど、なんだか頭が痛い。
こんなことになるなら宮内なんか放っておいて帰ればよかった、なんて今さらか。
「帰るか」
明日も仕事だ。
早く帰って、風呂に入って、とりあえず布団でゆっくり寝たい。
俺は途中で水と煙草を買い、コンビニの前の喫煙スペースで一服してから水を一口含む。
さっきまであった頭痛はほんの少し収まったけど、体は少しだるい。
それでも、なんとか足を踏み出し、駅方面へとゆっくり歩き出した。
こうして集まれるのは、どれくらいぶりだろう。
卒業後も連絡は取り合っているけど、仕事や家庭、他の予定と被っていたりして揃うことはあまりない。
だけど、今日はみんなが揃って酒を酌み交わし、近況報告や愚痴を言い合っている。
29歳という年齢にもなれば、既に結婚して家庭を持っているヤツも珍しくない。
彼女もいない自分にとってはまだまだ先の話。
結婚願望はないけど、家に帰ったらメシや風呂が用意されているのは羨ましく思わなくもない。
4年前、俺にも結婚を考えた時があった。
当時付き合っていた彼女と真剣に将来を見据えていて、少なくとも俺は結婚する気でいた。
でもそれは俺だけで彼女は違い、一社員に過ぎない俺との未来を信じてはくれなかった。
腹の中に新しい生命が芽生えていたというのに、彼女は俺にそのことを告げず、黙って堕胎の手術を受けた。
俺がそれを知ったのはあまりにも遅く、なにもかもすべてが終わった後だった。
『あなたのことは好きだけど、一緒にいる未来が想像できない、見えない』
なにが悪かったのか、なにが足りなかったのか、俺はなにもわからなかった。
それさえも言ってくれず、置き手紙のひとつもなく、彼女はある日突然俺の前から姿を消した。
あれ以来、俺は誰かを好きにはなれず、誰かとの未来も見れずにいた――。
時間が経つにつれて家庭のあるヤツは一人また一人と帰っていき、家庭もなく彼女もいないことに虚しさを覚える。
「いいよな、家庭があるヤツは」
すっかり赤い顔をしている宮内は、今し方帰っていった友人を見送りながら言った。
気付けば、独身者の寂しい男二人だけになった。
俺は悪友の言葉に耳を傾けながら、ひとつ枝豆をつまんで口に放り込む。
「どーせこれから帰って嫁さんと仲良くヤるんだろ。俺なんかいっつも右手が相手だ。虚しくなるな」
「……そうだな」
「あ、でもたまに左手でやったり、俺としてはいろいろ工夫してやってるわけよ」
「………」
「つか、知ってるか? あいつの嫁さん、すっげ巨乳なんだよ。一度でいいからパイズリしてほしい! やってくんねえかなー」
そんなこと言ったら殴られるぞ、とは思ったけど、敢えて言わず、笑ってその場をやり過ごした。
こういう時くらい気持ちよく飲みたいし、下手なことを言ってこの場の空気が変になるのは面倒だったから。
「あーあ、あいつの嫁さん酔わせて襲っちゃおうかな。酒のせいにして」
それは犯罪だろ。
さすがにいくら宮内でもそんな度胸はないだろうし酒の席での戯れ言に過ぎないけど、聞いてるほうはどう反応すればいいのか困る。
「まあそれは冗談だけど、でもこっそりオカズにするくらいはいいよな」
「え? してんの?」
「そりゃあするだろ! 妄想でくらい、自分のもんにしてもよくね?」
「………」
「あ、でもこれあいつには内緒な? 俺、まだ死にたくねえもん」
いや、言えないから!
ああ見えて彼は愛妻家で家族を第一に考える男で、そんな彼に、お前の嫁さんで抜いてます、なんて言えるか?
「……どうでもいいけど、ほどほどにしとけよ」
忠告するように言うと、宮内は親指をぐっと立ててドヤ顔を向けてきた。
こっちに飛び火するようなことはしないでほしいんだけど、わかってんのかこいつは。
「どっかにいねえかな。性欲を満たしてくれる子」
「……どんな子だよ」
「んー、おっぱいでシゴいてくれる可愛い子とか?」
「………」
「本城さん、しつこく頼めば1回くらいヤラせてくれっかな?」
本城さんというのは大学の時の先輩で、今は宮内と同じ会社で働いている。
スタイルが良くて綺麗で彼女が放つ色気はとにかく半端なくて、そのせいか彼氏が何人もいるとかすぐヤラせてくれるとか、いろんな噂が絶え間なくあった。
だけど、実際そういう関係になった人はいなかったし、少なくとも俺は知らない。
「お前、会社でも本城さんにそんなこと言ってんの?」
宮内ならやりかねない。
彼女の有無にかかわらず、彼は年中こういうことを言ってるような男だ。
「まさか。たまに冗談で言うくらいだって」
言ってんじゃねえか。
そんなことを言ってくる男が同じ会社にいるなんて、本城さんが可哀想だ。
セクハラで訴えられないようにしとけよ、と心の中で言っておく。
どうせ言ったところで今日言われたことなんて忘れてしまうんだ、この宮内という男は。
「なんて言ってんだよ、本城さんに」
「仕事頑張ったらヤラせて下さい、とか?」
「……よく言えるな」
「お前は一緒に働いてねえからわかんないだろうけど、同じ会社にいるとキツいんだって。色気ムンムンの女が側にいてみ? 我慢するほうも必死だっての」
「………」
「しかも、体のラインがわかるような服着てんの! 誘ってんだろあれは!」
そんなわけないだろ、エロいことばっかり考えてないで真面目に仕事しろよ。
学生時代から宮内はよく本城さんのことを話していたけど、その大半が恋愛感情なんてものじゃなく、性的なものばかりだ。
今言ったみたいに、ヤりたい、と。
他にも宮内のような男はいるかもしれないけど、そんな下心を持った男が一緒の職場だなんて大変だな、と同情してしまう。
「宮内、本城さんのこと好きなのか?」
とりあえず聞いておく。
俺には関係ないことだけど、宮内の本城さんへの気持ちが下心だけなのはあまり気持ちのいいものじゃない。
そう思うのはきっと、本城さんが学生時代に憧れていた女性だからだ。
「そりゃあ好きに決まってんだろ、あのカラダ自分のもんにしたい! 俺が毎日どんだけ本城さんで抜いてるか知らねえだろ」
宮内の口から直接聞いても、それが純粋な恋愛感情なのか判断しかねる。
仮にそこに気持ちがあっても、下心のほうが明らかに大きいような気がする。
本城さんが好きとか言いながら、宮内は店内を見回して女を物色している。
しかも大きな声で騒ぐもんだから、好奇の視線で見られて笑われてしまった。
「お、あの子、可愛い! おっぱい、でか!! めちゃくちゃ触りてえ!!」
可愛い子やスタイルのいい子に目が行くのはわからなくもないし、それは男の性のようなものかもしれない。
タイプと好きな人は別だから、俺だってタイプの子じゃなくてもついつい見てしまう時はある。
「……宮内、もっと落ち着けよ」
「ん? 俺はいつだって冷静だけど」
「……あ、そ」
話にならない。
なんだかんだ言ってこういう性格の宮内は嫌いじゃないし、一緒にいて楽だけど。
「つーかさ、もしかしてお前も本城さんのこと好きだったりすんの?」
いきなりそんなことを聞かれて噎せてしまい、それを見て、聞いた本人の宮内は目をパチクリとさせた。
「うっそ、マジで!?」
「…いや、ちが、違えよ?」
「そういう反応しといて否定されても、全っ然説得力ねえけど」
「………」
「それにお前、学生ん時、本城さんのこと好きだっただろ。バレバレ」
うわ、マジか。
うまく隠してるつもりだったけど、そう思っていたのは自分だけで本当は周りに知られていた?
ってことは、本城さんもか。
なにも言わなかったのは、気持ちに応えられないから気付いてないふりをしていた?
「ま、まあ、学生ん時は好きっていうか憧れてたけど」
「出た! 憧れとか言うヤツ!」
「え?」
「恋と憧れは勘違いしやすいけど、お前の場合は憧れじゃねえだろ。傷つきたくないから体のいい言い訳に使ってるだけ」
「………」
「あーもう、これだからヘタレは…」
ひどい言われようだな。
っていうか、ヘタレって言われるほど情けなくないとは思うんだけど。
まあ確かに、本城さんには卒業までちゃんとしたことは言えなかった。
「ったく、童貞かお前は!」
大声で叫ぶように言われて、つい反射的に「違えよ!」と返してしまった。
おかげで思いきり注目を浴びちゃったじゃねえかよ。
これも全部、この悪友のせいだ。
「仮に本城さんへの気持ちが恋だったとして、あれから何年経ってると思ってんだよ」
卒業後も交流があったならまだしも就職先も違うからほとんど会うことはなく、たまに偶然顔を合わせても軽く挨拶をするくらいだ。
離れてしまえば、気持ちなんてもんはいとも簡単に薄れていく。
その後、気になる人や好きな人もできたし、結婚を考えるほどに真剣になった彼女だって。
「だよな、いくらお前でもねえか」
「…? どういう意味?」
「いや、お前ってまっすぐっていうか一途っていうか、突っ走るところがあるからさ」
それは否定できない。
一途と言えば聞こえはいいけど、時によっては重いって言われるほどだ。
「でもなぁ、本城さんがお前のこと気にしてるっぽいんだよな」
そんな気にされるようなことはなにもしてないと思うんだけど、なんで?
告白された相手とかならわからなくもないけど、俺はなにも言ってない。
卒業の時も、ありがとうございました、ってお礼を言っただけに過ぎない。
言おうと思っても、大事なことはなにひとつ言うことができなかった。
「今日も聞かれたし」
「なんて?」
「学生ん時の友達と飲むって言ったら、黒川くんも来るの、って」
「………」
「他の連中のことなんか名前も出さねえのにさ、お前だけ。意識してるってことかね?」
ほとんど会いもしないし、会ってもまともに話すこともないし、最後に会ったのがいつだったかもわからないのに?
卒業してから今まで、本城さんが俺を意識する理由がなにひとつ見当たらない。
「どんな理由にしろ、本城さんに気に掛けてもらえるなんていいなー」
「……はは」
「俺なんかまったく相手にしてもらえねえんだけど。いつもアピールしまくってんのに」
それは下心丸出しだからだよ。
二言目に必ずってくらいに、ヤラして、っていう男に靡く女がいると思うか?
懲りずに誘えば、そういう女もいるかもしれない。
噂の真相は知らないけど、本城さんは簡単に着いていく女じゃないと思う、……いや、そう思いたい。
「今日だって疲れてるみたいだったからさ、ホテルでマッサージしてあげます、って言って誘ったのにーっ!」
そりゃあ無理だろ、それで誘いに乗ってくるってどんだけ尻軽な女だよ。
「そしたら、なんて言ったと思う? いい加減セクハラで訴えるわよ、だってさ。ひどくね?」
普通だろ、逆に今まで訴えられなかったことのほうが不思議なくらいだ。
「俺じゃ、本城さん落とすの無理かなぁ」
っていうか、そもそも本気なのか?
とてもじゃないけどそう見えないし、ただの性欲処理とかならやめてあげてほしい。
「あ、じゃあさ、黒川!」
「なに」
「俺よりもお前のほうが本城さん落とせる可能性あると思うし、後は任せた!」
「なにがだよ」
「つまり本城さんとヤったら、どうだったか感想聞かせて! しょうがないから、俺それで抜くわ~」
この酔っ払いめ。
本気で相手にしても自分が疲れるだけだから、適当に流しとこう。
「はいはい。わかったよ」
そう受け流すと、宮内は「言ったな! 約束だからな!」としつこく言ってくる。
どうせ明日になったらほとんど覚えてないくせに、本当に酒癖の悪い男だ。
***
「……おえぇぇっ!!」
店を出た途端、宮内が排水溝で思いきり嘔吐する。
おつまみ程度に食べたポテトや枝豆が消化しきれずに吐き出されて見るのも気持ち悪く、アルコールの臭いまでも漂って俺まで吐いてしまいそうだ。
「あーもう、だからあれだけ飲みすぎだって言っただろうが。バカ宮内」
「……うぅ」
「毎回毎回なんで俺がお前を介抱しなきゃいけねえんだっての」
「……それが、友達に言う言葉か」
「うっせ! そんなんじゃタクシーも呼べねえんだから、しっかり歩け!」
そう吐き捨てるように言うと、宮内は甘えるような猫撫で声を出す。
「冷てえなぁ、黒川~」
いや、ここに置き去りにせずに付き合ってやってるだけ十分優しいと思うんだけど。
「なあなあ黒川」
次はなんだ、と問うように視線を向けると、宮内はニヤリと妖しい笑み。
うん、嫌な予感しかしない、今すぐ逃げたい。
「セックスしたい!」
「知らねーっ!」
「なんでだよ! いいじゃんかーっ!」
「ちょっと待て。その台詞、知らない人が聞いたら俺達がデキてるふうに聞こえるから! ほら、めっちゃ見られてる!」
「え? 俺、黒川ならアリだけど」
「ちょ、やめろ! 触んな!!」
宮内の酒癖の悪さはわかっていたから飲ませすぎないようにしていたつもりだけど、今日は特に悪い。
こんな男を家まで送っていったら、なにされるかわからない。
「くーろーかーわーっ!!」
マジでキモい!
そう思いつつも、放っておけないこの性格がつくづく嫌になる。
「あれ? 宮内?」
不意にその声が聞こえたと思ったら、見たこともない知らない女がいた。
緩く巻いた髪がふわりと揺れて、香水の匂いが鼻先を微かにくすぐる。
「おー、偶然ー♪」
ちょうどいいところに、とでも言うように宮内は彼女に近づいていき、その距離は明らかに近い。
「なあ、俺セックスしたいんだけど」
「なんの報告?」
「いいだろ。いつも気持ちよくさせてんじゃんかー」
…ん? 彼女、か?
そういう人がいるなんて聞いたことないし、本城さんにちょっかいを出している時点で違う気がする。
「あ、こいつ、俺のセフレ」
あたかも当然のように、その彼女を紹介する。
その彼女もニコリと柔らかく笑って否定のひとつもせず、その様子を見る限りどうやら本当のことのようだ。
でも、すぐに理解できなくて、「は?」とマヌケな声が出てしまった。
「セフレっていうのは、セックスする友達のことで――」
「いやいや、わかってるから! そういうこと聞いてんじゃなくて!」
「んー?」
「お前、んなんいるのかよ」
「え、普通っしょ。じゃなきゃどこで性欲発散すんの? 右手だけで無理だって。女とヤりたいしさ」
わかるけど、そういうのを作ろうなんて思ったこと一度もないんだけど俺は。
「なあ、セックスしよ~」
宮内は誘うように言って、セフレだという女の体を馴れ馴れしく撫で回す。
女も特に嫌がる素振りはせず、小さく笑うだけ。
もう帰ろうかな。
セフレが相手してくれるんなら、俺がわざわざ介抱する必要もない。
宮内はいいヤツだとは思うけど、できるならこれ以上は勘弁してほしい。
今ここに自分がいる意味もないように思えて、今すぐ帰りたくなった。
「もう、しょうがないなー」
「やったーっ! んじゃ、今すぐ行こ! 早く行こ! ホテル!!」
「どんだけヤりたいのよ、あんたは」
女とホテルに行くのが決まった途端、宮内は「またなー」と手をひらひらさせて行ってしまった。
せっかく人が親切に介抱してやったっていうのに、なんてヤツだ。
別にいいけど、また誘われても付き合わねえからな。
今日は宮内に振り回されたような気がする。
いつものことと言えばそうだけど、いつにも増して疲労感が襲う。
アルコールが入ってるからっていうのもあると思うけど、なんだか頭が痛い。
こんなことになるなら宮内なんか放っておいて帰ればよかった、なんて今さらか。
「帰るか」
明日も仕事だ。
早く帰って、風呂に入って、とりあえず布団でゆっくり寝たい。
俺は途中で水と煙草を買い、コンビニの前の喫煙スペースで一服してから水を一口含む。
さっきまであった頭痛はほんの少し収まったけど、体は少しだるい。
それでも、なんとか足を踏み出し、駅方面へとゆっくり歩き出した。