『申し訳ありません』
 聞こえる母の声。
『謝ってもうちの子は帰ってこないのよ!』
 泣き叫ぶあの子の母親。
『おい、お前。落ち着けって』
『あなたはなんでそんなに落ち着いていられるの!』
 なだめる夫らしき声に、怒声が重なる。
『返してよ。うちの子を私に返して!』
 降り注ぐ言葉に謝罪する母。
『お母、さん?』
私は、そっと玄関を覗いた。
手前で頭を下げる母。扉のところで怒鳴り声を上げる女の人とそれを横で止める男の人。何かあったのかな、お母さん、大丈夫? と声をかけようとした時、奥の方で男の人の慌てた声がした。
『ちょっと、奥さん。そんな、やめてください』
後にも先にも、母の土下座を見たのはこの時だけだ。
 
 私は、真っ暗なところにいた。
そこが自分の部屋だと気づくまでしばらくかかった。久しぶりに夢を見た。夢なんて長い間見ていなかったのに、よりによってこの夢を見るなんて。
「・・・最悪」
 ベッドに投げてあるスマホを手に取る。桜からのラインの通知、連絡の跡がずらっと並んでいた。それを残したまま画面の日付を見る。六月三日。いつの間にか、六月になっていたんだ。
私は、高校に行けなくなっていた。
今まで何があっても、学校には必ず行っていたのにその一歩さえも踏み出せなくなってしまっていた。何度も行こうとした。桜に会いたかった。
でも、制服に袖を通してコンタクトを入れるために鏡を見る。すると、目の前に化け物が映るのだ。視力が落ちて全然見えないはずなのに、はっきりとそこには化け物が映っている。
《よう、学校に行くのか》
《お前も諦めわりぃな》
 まただ。また声がする。
《いいんじゃねぇの。学校で見てもらえよ、お前の本性》
 うるさい。
『・・・化け物。莉桜ちゃんが気持ち悪い』
 どうしても蘇るあの時の記憶。仲の良かった子達の遠くで聞こえる笑い声。その声と瞼の裏に張り付いて離れないあの子の笑顔。それが高校の友達の顔と重なる。
「・・・うっ」
 それを数日繰り返す。
朝起きて準備もしっかりして制服を着る。なのに、コンタクトを入れることがどうしてもできない。いつもなら何も考えずにできたのに、鏡に映る自分に吐き気がする。そんな毎日。もう、限界だった。自分で思っているよりもずっと、苦しかった。
学校では、クラスの子達と同じように生きていかないといけない。見た目は、ぎりぎり隠し通せても視力の衰えだけはどうしようもなかった。
 どこにいても、今の時代で視力が悪い人なんていない。だからか、新しい教育方針として子供が学ぶ場には多くのタブレット端末や電子機器が使われるのが当たり前になった。
私は幼い頃に病気にかかったため普通よりも病気の進行速度が速かった。でも、学校でタブレットを使わない人はいないし、スマホを持っていない人もいない。私は、病気がばれることと視力が落ちることを天秤にかけて、視力が落ちる方を選んだ。
「どうして、私なんだろうな」
 私じゃなくてもいいじゃん。なんで、私ばっかりこんなにも生きづらいの。ちっちゃい頃はみんなと同じように外で走り回って、ドッヂボールして、たくさんしゃべって、遊んで。なのに、いつの間にか一人になっちゃったよ。
 ベッドの上で目を閉じて開けてみた。何も見えなかった。もう最近では、自分でも目を開けているのか開けていないのかも分からなくなった。
私は、スマホの電源をそっと押す。そこには、桜と一緒に並んで笑う自分の写真があった。画面の中の私は、きらきらと輝いて見えた。そのまま、検索画面を開く。そこに〈綺麗 画像〉と打ち込む。そうすれば、私の小さなスマホには画面いっぱいの美しい画像が現れる。無数の星が揺れる海辺に紫色に輝く夜空や色とりどりのチグリジアなどが表示された。
 学校を休みがちになっていた私は、スマホに依存するようになった。今まで、視力のことを考え連絡手段でしか使わなかったスマホは、私に多くの美しい景色を見せてくれた。
どうせ見えなくなるのなら、今のうちに見ておきたい。そう、ずっと思っていた。それをこのスマホはいとも簡単に見せてくれる。