あの日。

人生の中で思い出の一ページとして輝くはずだったあの日。

 私がただ何もせずに、ただ立ち尽くしていたあの日。

私の大切な人がいなくなってしまった日。

あの場所で。

 あの子も。

 私を置いていってしまった。

「本田さん、今日もいらしていないのですね」
「俺もおばさんとこに行ってみたんだけど、会いたくないって言われちった」
 あの日。大きな音がした後にしばらくしてリョウ君のスマホに着信が入った。リョウ君は電話に出るとだいぶ驚いた表情をして、しばらく話した後に電話を切った。どうかしたのですか、と聞きそうになったがリョウ君のその顔を見て聞けるはずもなかった。

 俺がスマホを確認すると『莉桜ちゃん』だった。なぜそう思ったのかは分からないけど、ひどく胸騒ぎがした。電話に出ると、相手は大人の女性の声だった。
《もしもし、あなた、リョウ君?》
「はい」
《私、佐藤莉桜の母です》
「え?」
 電話の向こうはひどく騒がしくて、莉桜の母親の声も震えていた。
《莉桜は、あなたたちと一緒にいるのよね》
《リョウ君? 聞こえているの?》
「どうか、されたんですか?」
《そこに、莉桜はいるの?》
 あまりの勢いに少し圧倒された。莉桜のスマホから俺に掛けてくるなんて何かあったとしか考えられない。
「いえ、まだです」
《あの子、私の車にスマホを忘れていて。届けに戻ったらなんだか騒ぎになっていて》
《大きな照明が老朽化で落ちたって、何人かが下敷きになったって》
 聞きながら、不安は次第に大きくなっていく。大きな照明? 落ちた? そういえば、さっきの大きな音はその音?
《その騒ぎが起きているのが、あなたたちと約束した場所なの!》
 しばらくの間何も考えられなかった。それからやっと、すぐに桜に電話を掛けたが電源を切っているのか出ない。
「あのバカ。こんな時にどこに行きやがった」
 それから、しばらくしてその事故現場で目にしたのは、いつかに見た感情を置いてきたような表情で立ち尽くしている桜とそばに落ちていた鼻緒の切れた下駄を抱き締めながら泣く母親の姿だった。

 あの日から桜は、一度も外に出なくなった。莉桜の葬式にも来なかった。学校にも来なくなった。俺は、あいつの感情のない顔を見てからどうしてかあいつの笑った顔すら思い出せなくなっていた。
 莉桜の葬式には、多くの高校の奴らが訪れていた。ただその中で、見たことのない同い年くらいの男子高校生が会場の中を覗いたかと思うと、中には入らず入り口で静かに泣いていた。
 黒い着物に身を包んだ莉桜の母親を初めて見る父親らしき男がそっと支えていた。声を押し殺して涙を流すその姿を見て、声をかける気になれず俺は会場をあとにした。
 
 どうしてこうなる。どうして、あいつの周りはいつもこうなるんだ。莉桜ちゃんもすごくいい子で、夏祭りだって莉桜ちゃんが言ってくれたから俺はあいつと一緒にいられたのに。小さい時からそうだった。俺が団地に引っ越した時はすごく仲のいい家族がいると思った。
でも、事故を境にあいつの人生が狂い始めた。父親も母親も、ばあさんもみんなあいつを置いてどこかに行く。今、お世話になっているおばさんの家に住むようになってから、信じられないくらい明るくなってよく笑うようになった。学校でだって、あいつは人当たりが良くていつも周りに気を配っていて、でも、ちっちゃい時のあいつとはなんだか違う気がした。
友達も多くて先生たちにも頼られて、どこにいても笑って優しくして何でもないふりして。自分の本当の想いも感情も全部忘れようとして。
俺は、そんなあいつのことを分かっていて、知っていて、でも、
「何にもしてやれない・・・」
「リョウ君?」
「ん?・・・あ、いや。何でもない」
「・・・それにしても、寒くなってきましたね」
 そうだな、窓の外を見ると少しだけ白い小さなしずくが散っていた。あれから、もう半年近くがたっていた。クラスのほとんどの奴らが莉桜ちゃんのことを忘れていく。完璧に忘れていなくても、少しずつ確実に記憶から薄れていく。
 あいつだってそうだ。最初はみんな心配している。でも、そうのうちいないのが日常になって、いなくても何ら問題のない生活に切り替わっていく。あいつの家にもいつの間にか行かなくなって、考えないようにして、でも忘れられなくて。
「・・・どうしたらいいのか、もう分かんねぇ」
 あいつからみんな離れていく。それをあいつはなかった事にして、心のどこかに鍵をして笑っている。俺は気づいているのに何もしてやれない。
助けても、変わってもやれない。
「隣にいてあげればいいんですよ」
 目の前には少しだけ髪が伸びた鈴がそう笑いかけていた。
「だって、俺は昔っからあいつに何にも」
 そう言いながら下を向くと、頬に強い衝撃が走った。ざわざわとしていた教室が一瞬で静かになった。
「バカ!」
 いつも微笑んでいる鈴が涙をいっぱいに浮かべながら、そう叫ぶ。
「いつまで迷ってんの! リョウ君が行かないとダメなの、他の人じゃなくて。本田さんは、何かして欲しいんじゃない、ただ誰かにあなたにそばにいて欲しいの!」
 俺にそばにいて欲しい? あいつが? そんなはずない。
だって、俺はあいつに。
この状況に頭が追い付かず、口を開けたまま言葉が出てこない。
「まだ分からないんですか?」
 冷静で物事いつも把握していて、そんな鈴が顔を真っ赤にして言う。休み時間を満喫していたクラスのみんなも見たことのない鈴の姿に、あっけにとられる。
「本田さんは、あなたが好きなの!」
「リョウ君を待ってるの!」
 俺は、気がつくと教室から出ていた。全速力で走った。途中で先生の止める声がした気がした。冷たい空気は肌が痛いくらいだったし、急に飛び出したからシューズのままだ。薄暗い何度通ったかもわからない道を駆け抜ける。俺にも平日の学校、飛び出すくらいの度胸があったんだな。
「俺、だっせぇ」
 華奢な女の子に怒鳴られて、喝入れられないと動けないとか。我ながら、もう笑うしかない。見慣れてしまったインターホンを押すと、おばさんが出てきた。
「リョウ君!? どうしてここに? 学校はどうしたの?」
「おばさん。桜に用があります」
 桜の名前を口にすると、おばさんの表情が明らかに曇った。
「桜ちゃんは・・・」
「おばさん。いいんですか? このままで、あいつが心から笑えるようになると思いますか」
 二階の方へ目をやると、明かりがついていた。
「おばさん!」
 明らかにおばさんの瞳が揺らいでいるのが分かった。あれだけのことを女の子に言わせておいて、ここで引き下がるほどのヘタレじゃねぇ。
「・・・リョウ君。桜ちゃんのことお願いしますね」
 そう言っておばさんは部屋に通してくれた。
その時のおばさんの表情は、母親そのものだったような気がした。

 行ってしまった。言ってしまった。本当はこのまま、もう少しだけでも自分のそばにいて欲しかった。
でも、あの時。
『おい、桜? 大丈夫か?』
 ほんの少しだけでも。
『桜!』
 行かないで欲しいと思ってしまった。
でも、本田さんが走り去った後を迷いも躊躇もなしに追いかけていくのを見て分かってしまった。慣れない浴衣で走りにくいのに、多くの人の中に私を置いてあなたは行ってしまった。しばらくして、「桜が戻ってこなかったか」と息を切らしながら戻ってきた時から。
もう、本当は分かっていた。自分でも嫌な奴だってことは分かっている。でも、こんなことになってしまって、少しでもそばにいたくて今まで何も言えなかった。それなのにあんな姿見たら、もう認めるしかないじゃない。私は本田さんのことを思っているリョウ君が好きだった。ねぇさんを愛していた恭介兄さんが好きだった。こんなんじゃ、一生誰もお嫁にもらってくれませんね。
行ってしまった後も、溢れ出る涙は止まってはくれなかった。小さかったあの頃ならこんなにも気持ちを吐き出すなんてできなかったでしょう。ねぇさん。私、少しは大きくなれたでしょうか。ねぇさんにはなれなかったけど、少しでも憧れの大好きなねぇさんに近づけたでしょうか。
「私の負けです。本田さん」
 今度は、本田さんの番です。