「本田さーん」
 顔を上げると、黄色いガーベラのあしらわれた浴衣を着た鈴が見える。その横にはリョウ。私は、〈じゃあ、先にまわっておくね〉と文字を打ち込んでスマホの電源を落とした。
「本田さん。莉桜さんはまだいらしてない様ですけど」
「あ、うん。なんか、少し遅れるから先にまわっててって連絡来てたよ」
 そうなんですか、と少し残念そうに鈴は下を向いた。やっぱり、鈴ちゃんは可愛いな。可愛らしい容貌と少し上品な浴衣がいつもとは違った雰囲気を醸し出していた。
「じゃあ、せっかくだし先にまわっておこうか」
 そう言って歩き出す。あれから、三人で色々な所に遊びに行った。莉桜のことは無理に連れ出すのは流石にしなかったがその事もあり、よく三人で行動するようになった。そして、鈴ちゃんのことを改めて知った。私がどれだけ劣っているかも。
二人とも楽しそうに屋台を見ている。多くの人が浴衣を着て、メイクアップをして歩いていた。なのに、私はTシャツにジーパン。どうして気分が乗らなかったんだろう。私も着て来ればよかったな。

「あら? 桜ちゃん。浴衣着ないの?」
 おばさんの手の中にはだいぶ昔に新しく買ってもらった浴衣が揺れていた。汚れてしまった浴衣を見ておじさんが買ってきてくれたものだけど、結局一度も着ていない。
「ん? うん」
 おばさんがせっかくだから着ていけばいいのに、と言ってくれたがなんだか着る気になれなかった。
「・・・ほら、美味しいものもいっぱい食べたいし」
「そう」
 一度も着られたことのないそれは、淡い紫の紫陽花が一面に描かれていた。

屋台の並ぶ大通りを三人で歩きながら横を見ると、鈴の隣にいるリョウも紺色の浴衣を着ていた。
「リョウ、浴衣持ってたんだね」
「あ? 母さんが着てけってうるさいからな」
「そっか」
 あの日から何にも変わっていないようで、でも、前みたいにリョウとの会話が続かない。いつまでも、なんでもない日々が続くなんて私が一番分かっているつもりだったけど、なんだか。気づくと、二人の後ろを歩いていた。いつだったか、私に合わせてくれていた歩調も今は私よりもずっと速くて、冗談を言い合って笑っていた笑顔も今は。
鈴が「浴衣どうですか?」とリョウに向かって笑う。
「なんか、新鮮だな」
 そう言って、リョウは恥ずかしそうに反対側を向く。紺色と黄色、どっちもなんだか優しくて温かい色、私は決して染まることのできない色。
笑いながら裾を揺らす二人は本当にお似合いの・・・。
「わ、私。ちょっと、お手洗いに行ってくるね」
「え? はい。分かりました。では、この辺りで」
「ううん、先にまわってて」
「・・・ですが」
「いいから!」
 思わず大きな声が出てしまった。私、なんでこんなにイラついているんだろう。なんだか、怖くて二人の顔が見られない。私が二人を誘ったのに、せっかくのお祭りなのに。鈴ちゃんもリョウも、莉桜だって私の大好きなみんなが来てくれたのに。
 視界には自らの手で握りしめたスマホのサクラが静かに揺れていた。
「おい、桜? 大丈夫か?」
 その時、分かった。あぁ、好きだって、この声が優しさが好きだって、幼馴染だからとか、昔、隣に住んでたからとか、そういうんじゃなくって。こいつが、こんな奴が私は。
「桜!」
 私は振り返らなかった。振り返れなかった。少しの灯りだけで照らされた道をただ必死に走った。ママ、あの時ママがこっちを振り返ってくれなかった気持ちが少し分かった気がするよ。
見たくなかったんだよね。
認めたくなかったんだよね。
決して変わることも変えることもできない。
現実を。

「お母さん」
 慣れ親しんだ家の階段を手すりを使って降り、カチャカチャと食器の当たる音のする方に向かて声をかけてみる。すると、水道の音が止まった。
「どうしたの?」
 その声があまりにも、丁寧で優しくて私は、思わず溢れそうになったものを瞼で隠す。そうだ。お母さんはいつも、私の味方だった。いつだって、そばにいてくれた。私が最後に見たお母さんの顔は、静かに泣いていた。私のために、私が泣けない分だけ流していたあの涙だった。
私は、ずっと一人なんかじゃなかった。
 あれだけの言葉をぶつけて、自分だけすっきりして、私ならこんな子供構うことすら嫌になる。なのに、私のためにいつも。
「莉桜、少し痩せたんじゃない?」
「え?」
「浴衣はね。少しくらい丸い方が似合うのよ」
 その声が私のそばを移動した。それから、そっと私を包んだ。桜とは少し違う、でも安心する温かさ。何年もの間、こうしていなかっただろう。懐かしいサルビアの香水が私を抱きしめる。
「行くんでしょ? 夏祭り」
「うん」

 思っていたよりも着付けに時間がかかってしまい、家を出るのが遅くなってしまった。約束の場所までお母さんの車で向かう。
 その間に〈ごめん。少し遅れるから先にまわって〉と桜にラインをした。浴衣で登場したら桜は、びっくりするだろうか。桜には、話したことがたくさんある。すぐにでも話したい。でも、リョウ君や池井さんもいるみたいだからあんまり話題を逸らしたくはないな。
 私は、運転になるとより慎重になるお母さんの車に揺られながら、文字を打ち込むと少しの間だけ眠ってしまった。

 もう少しで着くことを連絡しようとスマホを開くと、遅れることを伝えた後の文章に既読がついていなかった。
「あれ? 屋台に夢中になってるのかな」
 多くの屋台に夢中になっている桜が簡単に想像できて、少し微笑ましく思った。夏祭りの会場に着くと、そこは多くの人で賑わっていた。コンタクト無しで外に出るのは初めてだし、人前なんて少し前なら言語道断だった。でも、実際に目の前にしてみると意外と落ち着いていた。
「莉桜、大丈夫?」
「うん。思ってたよりもずっと平気」
「そう、良かった。お母さん、待ち合わせ場所まで一緒に行くわ」
「分かった」
 お母さんに支えられながら歩く。外に出てみて改めて自分の視力がここまで落ちていたことを感じさせられた。その分、耳が敏感になった気がするが、夏祭りに来ている人たちの囁き声もあまり気にならなかった。それだけ屋台の明かりや少し離れたところで行われているショーのライトの光が美しかった。
「大きな照明のところでいいのよね」
「うん」
「じゃあ、お母さん。先に帰るわね。帰るときは連絡するのよ」
「うん」
 じゃあね、とお母さんの声が離れていく。照明の近くは人も少なくてとても静かだった。
「お母さん! ありがとう」
 上手く笑えていたが分からないけど、お母さんは楽しんでらっしゃいと笑っていた気がした。お母さんと別れてから桜を探そうかとも思ったが、あまり動き回るのはよくないと思ってそこにとどまることにした。大きな照明の下にあるベンチに腰掛けると、久しぶりに出した下駄の鼻緒が切れた。
「どうしよう。せっかく出したのに」
 足元の鼻緒に手を伸ばすと、どこか遠くで低いギィっという音が聞こえた気がした。
「お嬢さん、危ない!」
「え」
 気がつくと目の前には真っ白な世界が広がっていて、その世界にはなぜか静かに涙しながら笑う桜がいた。

 しばらく走ると、少し頭が冷えたのか意識が鮮明になってきた。私は、あいつのこと。あれだけ一緒にいて、自分から突き放しておいて、今更私は。
 鈴ちゃんにも申し訳ないことをした。何が友達だ。鈴ちゃんは、自分のことをさらけだして、正々堂々と勝負するって言ってくれたのに、私はあれだけ上から物事を言っておきながら自分の気持ちから逃げて。
「・・・最低だ」
 莉桜はなんて言うだろう。私のことをなんて思うだろう。
 楽しそうな周りの声を無視しながら、大通りを抜けた。ただひたすらに歩くと、いつの間にか見知った神社に来ていた。もう、くたくただった。石の階段に座ると、ひんやりとした表面が少し寂しかった。
 莉桜にも、何でも分かっているみたいに接した。莉桜から離れられないのは、私だ。置いていかれるのが嫌だった。いつも私が大切に思うとみんな消えてしまう。どこかに行ってしまう。あれだけのことを言っておきながら、過去に憑りつかれているのは私だ。
 忘れてしまおうと、そう決めたのに過去にすがっているのは、思い出に夢を見ているのは私だ。
 私は、スマホから切れないように結びつけてあるサクラのキーホルダーを無造作に引き千切った。しばらくそこで何も考えずに座っていると、少し離れたところで大きな音がした。何か大きなものが落ちたような音だった。握り締めていたキーホルダーをどこかへ放り投げると、音のした方へと向かった。

 そこには多くの人だかりができていた。あちらこちらから聞こえてくる声で、状況は何となく理解できた。
「女の子が下敷きになってるぞ! 誰か救急車!」
「誰か手伝ってくれ!」
 様々な声が、言葉が、渦巻いていた。私のところからは人が多すぎてあまり見えなかったが、ここら辺りが混乱でいっぱいなのは今の私でも分かった。私には、もう何も残っていなかった。
いつの間にか過去を理解出来るくらいに時間がたった。あの時の、何も知らされず何も分からず、きっと振り返ってくれると、きっとまた笑えるとそう、夢見ていた子供じゃなくなっていた。
私の周りの時間だけが動いている。みんな、変わっていく。進んでいく。そうやって、私を置いていく。しばらくすると、どこからかサイレンの音が聞こえてきた。巻き込まれた人と一緒にいた人、必死になって照明を動かそうとする人、泣きながらそれを見ている子供。
 その中でただ私は立って見ていることしかできない。
 そんな光景をどこかで見たことがあるように感じた。