一階から声が聞こえる。お母さんと、桜? どうしてここが分かったのかな。会いたい。本当は桜の笑顔が見たい。でも、私のこんな姿は見せられない。嫌われるのはもう嫌だ。桜は私が今まで生きてきた中で私を光の中へと連れ戻してくれた人。だから、絶対に傷つけない。迷惑をかけたくない。
「・・・莉桜? 私だけど」
 桜の声だ。久しぶりに耳にしたその声は少し震えていた。
「久しぶりだね」
 何か言わなきゃ。でも、なんて言えばいいの。
「ねぇ、どうしちゃったの。何も言わないで急に来なくなるんだもん。すごく、心配していたんだよ」
 ごめんね、桜。私、心配ばっかりかけて。
私は久々に聞こえた桜の声が聞きたくて部屋のドアに体重を預けた。
「・・・莉桜」
 桜は、私とは違う。桜にはこれからを普通に生きていける未来がある。だから、私がそばにいちゃいけない。私が桜みたいな人を私の人生に巻き込んじゃいけない。
 しばらく沈黙が続いたかと思うと扉の向こうで桜が動く気配があった。
「私ね、莉桜に言ってないことがあるの」
 桜は過去を話し始めた。両親も頼れる人もいなくて、親戚の元を転々としたこと。桜が話す過去は、今の桜からは想像のできないほど暗いものだった。
「ねぇ、莉桜。私、莉桜のこと何も知らない」
 ごめん。話せない。だって、桜が好きだから。大切だから。
「・・・莉桜。私、何か莉桜が嫌がることしたかな?」
 そんなわけない。桜に、悪いところなんて一つもない。一つもないからこそ、知られたくない。
「・・・桜」
 そうつぶやくと、私の名前を呼ぶ声がした。

『私、桜。莉桜ちゃんと私、お揃いのサクラだね』

 私が桜にかかわらなければ、一緒にいなければ桜が苦しむことは絶対にない。
「私、何かした?」
「桜は・・・何も悪くない」
 一つ一つの言葉を選んで、桜に伝える。もう、何日くらい窓の外を見ていないだろうか。スマホの画面が見やすいように電気も消して、カーテンも閉めて。そうやって今までずっと生きてきたんだ。
「じゃあ、どうして急に学校、来なくなっちゃったの?」
 何も言えなかった。あんなに何でも話せていたのに。真っ暗な世界で少し前の光景が目に浮かぶ。たった、一年とちょっとしかなかったその日々は私の中でかけがえのない時間だった。
「・・・きっと、莉桜のことだから。何か事情が、あったんだよね」
 桜の声が次第に小さくなっていくのが分かる。
「・・・桜」
「ん?」
 言ってしまいたかった。
もしかしたら、桜なら本当の私を受け入れてくれるのではないか。笑って、私を許してくれるのではないだろうか。真っ暗な部屋に落ちた私の声はその暗闇へと吸い込まれて消えていく。見えないはずの暗闇の中であの子や化け物が微笑んでいるような気がする。

『莉桜、ちゃんが、気持ち悪い』

 いつも笑っていたあの子。私を親友だと、いつも一緒にいて遊んでいたあの子。そんなあの子のいつかの笑顔が桜の無邪気な笑顔と重なる。
「・・・莉桜? 大丈夫?」
 心配そうな桜の声。あぁ、本当にこの子は優しい。今まで生きてきた中でこの子と一緒に笑った時間が一番長い。でも、やっぱり怖いや。ごめん桜。大好きだよ。私が今まで生きてきたそこら十数年の人生の中で一番に。だから
「・・・えって」
 私は暗闇の中でドアに向き合った。なるべく冷たく、そして自分の感情を消して言葉を繋ぐ。雨が降り始めたのか少し離れたところからざぁ、と低い音が響いてくる。
「帰って」
「莉桜。突然、どうしちゃったの?」
 桜の困惑した声が一枚の分厚い木の板を通して聞こえてくる。最後に見たのはいつも笑っていた桜のままでいてほしいから。
「・・・もう会えない」
「どうして?」
「ごめん」
「何か理由があるんでしょ?」
「ごめん」
「ごめんだけじゃ、分かんないよ!」
 桜の大きな声。今までお互いにぶつかり合ったことなんて一度もなかったから少し怯んでしまう。
桜には、桜にだけは笑っていてほしい。
「なんで。何も説明なしに急にいなくなって、私のことはどうでもいいの?」
「そんなわけ・・・」
「莉桜にとっての私っていったい何。学校で平和に過ごすためのカモフラージュ? それとも、莉桜にとっての私はそれくらいの存在だったの?」
 桜はまくしたてるようにそう叫んだ。私にとっての桜? そんなの分かり切っていて考えもしなかった。私は、もう間違えない。もう誰も傷つけない。
いつかの授業で聞いた『ヤマアラシのジレンマ』お互いに大好きだから寄り添い合いたいのに自らの棘で仲間を傷つけてしまう。私は、そんなヤマアラシの中でも毒付きだ。周りを傷つけるだけでなく、みんなを傷つけまいと存在を消してもみんなにはもう毒がまわっていて誰も助からない。
それなのに私は、ずっと生き続ける。周りは私のことなんて見なくなる。それがいいと、そうするのが正解なのだと自分に言い聞かせてきた。
でも、そんなの理不尽過ぎる。私だって本当はみんなと一緒にいたい。隣で一緒に話していたい。
「桜には・・・桜には分かんないよ!」
 本当はそばにいたいのに。こんなこと言いたくないのに。でも、もう誰も傷つけたくないから。
 方向感覚もめちゃくちゃなまま、瞼を開いているのか閉じているのかも、わからないまま叫ぶ。
「私には、桜みたいな優しさも強さも人に好かれるところも幸せそうな笑顔も。全部が苦しいの! だから、もう私にかかわらないで!」
「何を言って・・・」
「桜は優しすぎるの。バカみたいに! そんな人を私のせいで傷つけたくない。私のことは忘れて、みんなと今までみたいに過ごして。そうしたら、誰も傷つかない、傷つけないですむの!」
 生温かいものが頬を伝っていくのが分かる。もしあの時、桜に会わなければ、話さなければ、こんなことを言わなくてもよかったのに・・・私は、必死に声を荒げた。
きっとそこにいるのであろう桜に向かって。
「私は、桜に会いたくない。もう二度と、もう誰も・・・。桜なら私なんかがいなくても大丈夫だから。だって、桜は私と違って明るくて、みんなにも好かれてていつも隣にいてくれる人がいて心配してくれる人がいて、そんな桜なら私なんて必要ない。だから、私のことは忘れて」
 無理やりにでも明るく声を張る。
これでいいんだ。これが正解なんだ。外から聞こえていたであろう雨の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
失うのは怖い。そんなことは誰だって知っている。でも、人は自分で思っているよりもバカだからその何かを失ってからその存在に気づく。私は、この数日でほとんど見えなくなってしまった目でドアを見つめた。
「・・・莉桜は、何をそんなに怯えているの?」
 てっきり、言い返してくると思っていたのに。まるで迷子の子供に尋ねるように言葉が帰ってきた。私が怯えている? 桜の言葉が私の胸に溶けるように入って来る。
「怯えて、なんて」
「莉桜は怖がってる」
「そんなの、桜に分かるわけ」
「分かんないよ」
 桜はさっきとはまるで違った口調で話す。
小さな子を静かに諭すようなそんな声で。
思わず口をつぐむと自分の呼吸が大きく聞こえた。耳の奥で波打つ心臓の音がうるさい。
「分かるわけないよ。私は、莉桜じゃないから」
「じゃあ!」
「莉桜は」
 桜の声がすぐそこで聞こえる。
「私のこと、嫌い?」
 そんなわけない。桜は、私の中では友達で、親友で、まるで太陽みたいなそんな存在。暖かくて私のことも照らしてくれて、周りだって桜を頼りにしている。太陽を中心にいろんな惑星が助け合っている。私もその中に少しの間だけでも混ざりたかった。
初めのうちは、私でもその中に入ることができるんだって、そう本気で思った。でも、違ったんだよ。私は、太陽系の仲間にはなれない。その美しさに魅せられ、太陽に近づきすぎて自分の小ささにぬくもりの差に絶望したから。
 太陽には私じゃなくてみんなを照らす太陽で居続けてもらうために。
「・・・嫌い。桜が嫌い!」
「好き」
 桜は私の言葉にかぶせるようにして言う。
「私は、莉桜のことが好き」
「・・・私は」
 好き。私も大好き。ほんの少しの時間でも人はこんなにも誰かのことを好きになれるのかと不思議に思ったくらいに。私は、桜のことが大好き。
「嫌いだって・・・言ってるじゃん」
 次第に語尾が小さくなっていく。心に決めたはずなのに。桜に嫌われても、桜のためにそれがいいとそう決心したのに。
「きら、い」
 私は、桜のことが嫌いなんだ。そう何度も自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「嫌い、桜なんて嫌い。大嫌い」
「好き」
「・・・やめて」
「大好き。莉桜のことが大好き」
「やめてって!」
 桜、お願いだから私の言うことを聞いて。お願いだから。
「何度でも言うよ。莉桜のふと見せる笑顔が好き。私とリョウの間に挟まれても、文句ひとつ言わない莉桜が好き。私のことをしっかり見てくれる莉桜が好き」
「・・・」
「私の隣にいてくれる莉桜が好き。私のおごりだって私が無理やり連れて行っているのにいつも少し申し訳なさそうにする莉桜が好き、絵を描いている莉桜が好き」
「もうやめて・・・」
「本を読んでいるところも私が終わらない課題を持ち込んでも、仕方なさそうに最後まで教えてくれるところも、全部ひっくるめて大好き」
 暗い部屋の中に何にも見えない空間に、桜の声が反響する。
「・・・嘘だよ」
「嘘じゃない」
 そんなの。信じられないよ。信じられるわけないよ。

『・・・化け物。莉桜ちゃん、気持ち悪い』

 だって、私は桜が言うような人間じゃないから。
「・・・帰って」
「いや」
「帰って!」
 こんなにも何かに必死になったのはいつぶりだろうか。何かにすがることなんてできるわけない。私は、もっと強くならないといけない。でないと、誰かを傷つける。
「いや、絶対に帰らない」
「桜、お願いだから。私のことは忘れて!」
「絶対にいや」
「どうして? どうしてそんなに私にこだわるの?」
「莉桜が好きだから。大切だから」
「理由に、なってない!」
「莉桜。私は莉桜が思い描くような人じゃない。莉桜が言うような何でもできるやつにはなれない。でも、一緒にいたい。莉桜と笑っていたい」
「・・・嘘だ」
「嘘じゃない。何があっても、私は莉桜を置いて行ったりなんかしない。一人になんかしない! 莉桜に何があったのかは分からない。でも、それでも、私は莉桜を信じていたい!」
「・・・無理だよ」
 桜、私にはそんな力も勇気も残ってないんだ。何を信じればいいのか、誰に助けを求めたらいいのかも、もうわからないんだよ。
「もう、何もかも手遅れなんだよ」
「どうしてそんなことを言うの? まだ、これから」
「もう、遅いの!」
 もう、何もかもがダメになってしまった。
寝室で泣くお母さんの声。友達の遠くで聞こえる笑い声。先生からの期待の声。視界がぼやけていけばいくほど、聞きたくもない音がすぐそこにあった。
見えなくなっていく。
あらがっても、苦しんでも、どうにもならない。誰を憎んでいいのかもわからない。
「それでも、私は莉桜が好き。大好き。誰が何を言おうと高校でのあの楽しかった時間は、私にとっての宝物なの! どんなことがあっても私が莉桜のことを大切に思うことに変わりはない!」
「それならっ!」
 私は、ドアノブに手をかけていた。
その先はとても明るくて私には、まぶしくて見えなかった。
「こんな、私を見ても。何とも思わない?」
 私の目に映る彼女は、一瞬驚いたような顔になると静かに私を見つめた。大きな瞳から透明なしずくを流しながら、音もたてずに私を見ている。その表情は恐怖ではなかった。色々な感情の絡み合ったそんな顔だった。見えないはずなのになぁ。どうしてこんな時に限って、はっきり見えるのだろう。
私は、彼女にこんな顔をさせたかったんじゃない。
私は、ただ彼女の桜の笑顔を失いたくなかった。
ただ、それだけだったのに。
「・・・どうして。気持ち、悪いでしょ? 怖いでしょ? だか、ら、私のこと、は忘れてほしかった」
 その場に座り込む。
下を向くとぽた、ぽた、と何かが床へと落ちる音がした。
桜にだけは知られたくなかった。そのために酷いことも言った。なのに、どうしてドアを開けてしまったのだろう。もう、何も失いたくないのに。
「・・・莉桜」
 顔を上げると、桜が目の前にいた。私は、反射的にすぐに下を向く。
「莉桜は莉桜だよ」
「私は・・・化け、物なんだよ。桜とは、一緒にいられない。私のせいで誰、かが苦しむなんてもう、嫌だ・・・」
 先ほどから流れ続ける生温かいものは、一向に止まる気配がない。すると、何かがそっと私を抱きしめた。そのぬくもりは私をそっと包む。
「私は、莉桜に会いに来たんだよ。私は、莉桜にはなれないし変わってもあげられない」
 耳元でゆっくりと言葉が流れてくる。
「莉桜にどんな過去があったのか、どんなに苦しいことがあったのかも、私には、分からない。でもね、それでも」
 もう、誰にも嫌われたくなかった。大好きな人に、信じていた人に拒絶されたくなかった。私のせいで、桜が苦しむとこなんて見たくない。何かをやってもやらなくても、私にはこの世の中は生き辛い。だから、誰かに助けを求めて失うよりか、自分が犠牲になった方がいいと思ってきた。
可愛い服を着ることも、顔が目立つメイクも私にはできない。髪を振り乱して体を動かすことも行事で思いっきり笑うことも。
気持ち悪いって、怖いって言ってよ。そんなことは、私が一番分かっているんだから。そうしたら、諦めもつく。
「私は、初めて会った時も今も」
 もう、いいの。何度も、何度も何度も失ってきた。だから、桜も本当のことを言って。でないと、希望を抱くには辛すぎるから。
頬をつたう生温かいそれは、少し鉄の匂いがした。
 桜は私の目をまっすぐに見つめて偽りのない笑顔で言う。
「莉桜の瞳が綺麗だと、そう思うよ」

 桜はそのまま私を静かに抱きしめた。
私はあれほどまでに忘れ去っていた涙を流しながら、恥ずかしげもなく桜にしがみついた。あの時から溜まっていた涙は、簡単に空っぽにはならなかった。誰にも頼らず、今まで生きてきた。そうしないと、周りを傷つけるから。
「さく、ら。私、桜のこと大好きだよ」
いつも気配を消して誰にも見つからないようにして、笑顔を顔に張り付けて、そうすればいつかは報われると、みんなが幸せになれると思ってきた。
「私、本当は、桜ともっと、一緒にいたい。話したい」
 桜には知られたくなかったのにその場の感情で見せてしまった。気持ち悪がられることを、怖がられることを覚悟したのに。桜は、綺麗だって言った。お世辞にも綺麗なんて思えないのに、見ただけで目をそらしたくなるのに、私の目を見てそうはっきりと言った。
「いろんなものも、行事、も、ほんとは」
 信じてもいいのだろうか。このまますがってしまってもいいのだろうか。あの子をお母さんを苦しませた私が、このおぞましい瞳で赤い涙で誰かに助けを求めても。
「・・・莉桜」
 桜は、私に優しく呼びかける。
「友達でいてくれますか?」
 ぼやける世界で、光の中に桜のシルエットが見える。もう少しでこんなに輝く光すらも感じられなくなる日が来るかもしれない。
「・・・いいの? 私、こんな見た目で」
「バカ、見た目なんて関係ない。私は莉桜と一緒にいたいんだから」
桜のその言葉は、荒んだ私の心をそっと包んだ。こんな私でも、誰かを信じてもいい? 一緒に笑って過ごしてもいい? 雨上がりの廊下は、少し暖かくてそれでいてとても澄んでいた。私は、桜に出会って生きていきたいと思えた。桜と一緒に生きていきたいと。
だから、これからはずっと笑って過ごそう。
『見た目なんて関係ない』その言葉が私を導いてくれたから。
これからも、ずっと。