鈴ちゃんはとってもいい子だ。成績優秀で可愛くて人の仕事まで黙って一人でしてしまうような優しい子。でも、今目の前で声を押し殺してなく彼女は、まるで転んでケガをしたのにそれを見せまいと気づかれまいと必死で痛いのを我慢する子供のようだった。
「鈴ちゃん。良かったら一緒に夏祭りに行かない?」
 ひとしきり泣いて目の周りほんのり赤くなった鈴ちゃんは、え? と首をかしげる。
「あ、いや、忙しかったらいいんだけど」
「いえ、それは構わないのですけど、どうして夏祭りなんですか?」
 ハンカチで丁寧に涙を拭う鈴ちゃんは、初めて会った時よりもずっと幼く見えた。
「えっと、私にとって夏祭りはね。特別なんだ」
「特別ですか?」
「うん、特別」
 水色の浴衣に赤い金魚。暗い神社の隅で泣いている女の子。少し離れたところでは、屋台の明かりが点々としている。
 目を閉じると、今でもはっきりと思い出せる。
「ちょっと、昔の話なんだけどいいかな」
 少し控えめに鈴ちゃんへと尋ねると、もちろんです、とこくりと頷いた。

「お嬢ちゃん、可愛いからこれサービスね」
「わぁ、ありがとう!」
 私は毎年、家の近所で開かれている夏祭りに来ていた。親戚の家にお世話になってから三年が過ぎようとしていた。親戚のおじちゃんとおばちゃんは子供のいない夫婦で静かにひっそりと暮らしていたが、私がたらいまわしにされていると聞き、私を引き取ることにしたそうだ。
そんなある日、夏祭りに行くと聞かなかった私におばちゃんは、嫌な顔を一切せずに可愛らしい水色の浴衣を着せてくれた。町へ出るといつもと違う風景に、着飾った綺麗な人たち。それら全てに、私は夢中だった。
「ねぇねぇ、おばちゃん! 私、かき氷食べたい」
「そうね。ちょっと待ってね」
 私は、さっきもらったばかりの金魚の袋を揺らしながら「うん!」と笑って答えた。私は、この生活が始まってからなるべく明るく振る舞うようにしていた。せっかく親切なおばちゃんたちに助けてもらったのに暗い顔なんてしていられなかった。
でも、この時ばかりは『夏祭り』という特別な時間に心の底から笑うことができた。いつも歩いている商店街は、さまざまなもので彩られ、色々な屋台や行きかう人々でいっぱいだった。キャラクターのお面やヨーヨー釣り、わたあめに林檎飴、焼きそばなんかもある。
「桜ちゃん、あんまり一人で行かないで。迷子になっちゃうよ」
「おばちゃん。私、ちょっとあっち見てくる!」
 桜ちゃん、と言うおばちゃんの声は、非日常である祭りに夢中の私には届いていなかった。道は多くの人で混んでいたが、私はすいすいと間を縫うようにして一つ一つの屋台を見て回った。
「輪投げに、射的にお面まである!」
 最後の屋台まで見終わったときには人もずいぶん空いているところまで来ていた。周りを見ても、いつも知っているはずの町が随分違う世界のように見えた。
「おばちゃん?」
 そう呼びかけてみたが、おばちゃんの姿は見当たらない。暗がりの中で必死におばちゃんを探してみたが、見つけることはできなかった。買ってもらった下駄が足に当たって痛かった。
 私は、疲れてしまってそばにあった神社の階段まで歩いて行くと小さく体操座りをした。寒かった。真夏の夜は随分と冷え込んで私の体温を奪っていく。その冷たさがいつかの日々と重なって、なんだか悲しくなっていた。
「・・・おばちゃん、どこ?」
 遠くではお祭りの陽気なBGMが聞こえてくる。
あんなにも楽しかった屋台も今は全然夢中になれなかった。独りぼっち。私には、誰もいない。おばちゃんもおじちゃんも、すごく優しくてよくしてくれる。でも、だからこそ二人の前で泣くことなんてできなかった。これ以上、誰にも心配も迷惑もかけたくなかった。
「・・・寒い」
 それでも、どうしても悲しくなって苦しくなった時は一人お風呂場で泣いていた。誰にも聞こえないようにシャワーを大きな音で流しながら声を抑えて泣いていた。
「ママ、あれ買って!」
「同じの持ってるでしょう?」
「嫌だー、あれが欲しい!」
 顔を上げると、小学校低学年くらいの男の子が母親におもちゃをせがんでいた。母親は、少し困った顔をしてから諦めたように、今日だけね、と男の子の頭を撫でた。
 胸の奥がぎゅぅっと絞られていくようだった。
急に苦しくなって、息がうまく吸えなくて、目を強くつぶった。
「おい、大丈夫か?」
 すぐそばで声が聞こえた。なんだか懐かしい声だった。
「おい、ゆっくり息、吸え」
 声が私の横へと移動した。私は、目を強くつぶったまま言われたとおりにする。そっと、背中を撫でてくれる手が温かかった。
「・・・落ち着いたか」
「うん」
 やっと体の力が抜けた。目を開けると、隣には紺色のジンベイを来た男の子が座っていた。近くでは老人会の人たちが植えたのであろうイベリスが、白い小さな花を揺らしている。
「リョウ」
 リョウは、おう、と軽く頷くと前を向いた。あの家を引っ越してからリョウの家へと遊びに行くことはいつの間にかなくなっていた。学校で会ってもそれぞれに友達がいて、昔みたいに隣に座ることすらもとても久しぶりに感じた。
「ねぇ・・・」
 私は、無意識のうちにそう呼びかけていた。リョウがこちらを振り向く。でも、何を言っていいのか途端に分からなくなって思わず下を向いてしまった。慣れない浴衣を着てせっかくおしゃれをしたのに土で汚れて、下駄もぼろぼろ。
「・・・せっかくおばちゃんに着せてもらったのになぁ」
おじちゃんにいつもより多くお小遣いをもらって、金魚すくいのおじさんに金魚をおまけしてもらって。私は、周りの人に恵まれている。きっと、幸せな女の子なんだ。それなのに、あぁ、なんでいつも私はこう上手くいかないんだろう。
「浴衣?」
「・・・うん」
 リョウは、私をまじまじ見たかと思うとまた前を向く。
「・・・似合ってる」
「え? 今なんて・・・」
 隣を見たが頭につけている何かのキャラクターのお面で顔は見えない。
「だから、いいんじゃね。そのほうがお前っぽい」
「・・・それ、どういうこと!?」
 勢いよく突っ込むとリョウと目が合った。屋台の淡い光でもわかるくらいに耳を真っ赤にしてこちらを見ていた。しばらくお互いに目が離せずに見つめあう。だが、リョウも私も思わず笑い出してしまった。
 ひとしきり笑うと、なんだかいろんなことがどうでもよくなってしまった。リョウが隣にいる。それだけで、家にいる時よりも学校で友達と遊んでいる時よりもずっと安心できた。
でも、いつかはリョウも私から離れていくのかな。
リョウは、涙が出るくらい笑っていた。
 この笑顔もこの時間も、いつかは無くなってまた一人になるのかな。ママもパパも、おばあちゃんだって、私から離れていった。いつまでもこの幸せが続くと思っていたのに、崩れるのはあっという間だった。
 苦しいな。
 一人は。
 気がつくと私の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。ほんの少し前まですごくおかしくて笑っていたのに、涙が止められなかった。ママがいなくなった時もおばあちゃんが死んじゃった時も色々な家をまわって顔も見たことのない人たちに嫌な顔をされた時も、本当は
「リョ、ウ・・・私、ひとり、ぼっ、ちになっちゃった」
 みんなのことを忘れたら、忘れることができたらもっと楽になれるのだろうか。苦しくならなくてもいいのだろうか。金魚の入った袋を握りしめながら、漏れ出る嗚咽を抑えることができない。
「みんなっ、わた、しを、おいて。どっかに、いっ、ちゃった」
 今までずっと笑って、全力で明るく振る舞って。そうやって自分のことも騙してきた。
「・・・っ。私は、疫病、神、なんだ」
 知らない親せきの人たちの顔が、近所の人たちの顔が浮かぶ。

『あの子、両親とも亡くしたらしいぞ』

『嫌よ、面倒ごとはごめんだわ。疫病神よ、あの子は』

 私には、聞こえないように声を潜めてそういろんな人が言う。私のせいで、私がいるとみんな苦しむんだ。
「私が、いる、と・・・みんなに、迷惑、かけちゃ、うんだ」
「・・・桜」
 涙で前が良く見えなかった。遠くで響くお祭りの音。小さい子のはしゃぐ声。それら全てが明日には綺麗に無くなってしまう。目をこすっても、こすっても、涙は止まらない。すると、目の前が急に暗くなった。
「俺は絶対にいなくなったりしねぇから」
 何とか顔を上げると、頭にお面が置いてあった。
「だから、もう泣くなって」
 それでも、涙は止まってはくれなかった。リョウがそばにいてくれるそう言ってくれたことが嬉しかった。なのに、それなのに視界は歪んだままだ。
「お前らしくねぇぞ」
 リョウは優しい。その言葉だけでまとめるには、足りないくらいに。
 そのまま私は、神社の片隅で声を上げて泣いた。いつもは声を抑えて、殺して、誰にも聞こえないように泣いていたのに。私は、土で所々茶色くなった水色の浴衣にまるいシミをいくつも作った。
しばらくして、おばさんが私を見つけてからリョウはどこかに行ってしまった。
「約束だからね!」
 おばさんに手を引かれながら、私はリョウの背中に叫んだ。リョウは、いつもみたいに「おう!」と手を振った。

「・・・ってことがあったんだけどってなんで、そんなにうれしそうなの!?」
 鈴ちゃんには、私の過去は伏せて夏祭りの出来事だけを話した。
「だって、とても甘酸っぱい青春ではないですか」
「いや、仮にも鈴ちゃんの好きな人の過去なんだけど・・・」
 鈴ちゃんは、頬を赤くして恋バナでも聞いているみたいな表情をしていた。
「いいんです。私、もうずるはしません! 正々堂々と本田さんと仲良く勝負です」
「鈴ちゃん。すごいことをさらっと言うね」
 鈴ちゃんはにこにこと微笑むとカフェの時計を見た。
「あ、そろそろ出ましょうか」
 なんだか久しぶりに思い出したな。カフェを出た帰り道、駅に向かいながらふとそんなことを思った。
「・・・でも、あいつのことだから覚えてないと思うよ」
「そうですかね。リョウ君、しっかりと覚えていたりして」
「いやいや、ないない。というか、こんな話莉桜にもしたことないよ」
「そうなのですか! てっきりもう、話されているのかとばかり」
 いつの間にか、ゲームをしなくなって身だしなみを気にするようになって、今ではバイト代から少しずつおばちゃんたちにお金を返している。私は、成長したのだ。いつまでも頼ってばかりではいられない。
 だから、莉桜。私は、莉桜と夏祭りに行きたい。私にとっての特別な日を私の大切な人たちと過ごしたい。その中には莉桜が必要なんだよ。