そして今、私は恭介兄さんとねぇさんのアパートの前に来ていた。恭介兄さんがあまりにも感情を見せていなかったことを心配していたお母さんに様子を見てくるよう言われて来たのだが・・・。
「私、二人のアパートに入ったことないんだけどな」
試しにインターホンを押してみる。でも、壊れているのか音は聞こえなかった。恐る恐るドアノブに手をかけ回してみると、なぜかドアが開いた。鍵かけてないの? そのまま部屋に足を踏み入れてみる。
「お、お邪魔しまーす」
 廊下にはいろんなものが散乱していて正直足の踏み場がなかった。
ねぇさんは綺麗好きだったのに。
「恭介兄さん? 鈴だけど、いる?」
 呼びかけてはみたものの返事がなかった。
もう帰ろうかと思ったとき奥の部屋からテレビのニュースみたいな音が聞こえてきた。
「恭介兄さん、いるの?」
部屋の中を覗いてみると机の上に突っ伏した恭介兄さんがいた。
机の上には結婚式で撮ったねぇさんの満面の笑顔の写真。そしてその前には、栄養ドリンクの茶色い瓶に黄色い水仙が飾ってあった。
「恭介兄さん、ねぇ起きて。こんなとこで寝たら風邪ひくよ」
 机の上や床に転がるお酒の缶。コンビニ弁当やカップラーメンのごみが散らかっていた。一向に起きない恭介兄さんは置いておいて私はとりあえずゴミ袋を片手に片付けを始めた。
そうこうしているうちに部屋一面のごみを片付け終わってしまった。恭介兄さん、まだ寝ているし、まだお昼の二時くらいなのにお仕事はいいのかな。そう思いながらも、最後に机の上のお酒の缶を片付けようとガチャガチャしていると恭介兄さんがゆっくりと起き上がった。
「あ、恭介兄さん。やっと起き」
「・・・香菜?」
 恭介兄さんは虚ろな目で私を見ながらそう言った。髪はぼさぼさだし髭はそのままで、お酒やらたばこやらいろんな匂いがする。
「香菜、帰ったなら起こせよ」
 恭介兄さんが私をねぇさんと間違っている。
もしここで私は鈴だと言ってしまったらどうなるだろうか、恭介兄さんは私に残るねぇさんの面影に勘違いをしている。私を見て欲しい。ねぇさんじゃなくて私を『鈴』を見て欲しい。
そう本気で思った。
「・・・お、起こしましたよ。ですが、何度呼びかけても起きなかったのは恭介にぃ・・・恭介じゃ、ないですか」
「そうか? すまん、すまん」
私はそう笑っていた。丁寧に座り直して、片づけを続行する。こんな私には、ねぇさんの恭介兄さんの幸せをもうこれ以上奪うことなんてできるはずもなかった。
「なぁ、香菜」
「ど、どうしました?」
「こんな奴のこと好きになってくれて、ありがとな」
 半分机にもたれかかりながらそうつぶやく恭介兄さんは、私の先にいるねぇさんを本当に愛していた。こんなにもぼろぼろになるくらい、お酒もあんまり強くないくせにいっぱい飲むくらい、それくらいねぇさんを『池井香菜』を愛していたのだ。
「・・・ばか」
 自然と零れ落ちたねぇさんが使う綺麗な言葉とはかけ離れたその二文字は、私の心から漏れ出た声なのか、ねぇさんの声なのか、私にもよく分からなかった。

私が初めて自分の過去を、自分の最低な部分を話した彼女は私の話に時折頷いて、静かに最後まで聞いてくれた。気づいた時には窓の外は暗くなっていてカフェの閉店時間も近づいてきていた。
「私は、ねぇさんの生きた道を追うようになりました。恭介兄さんには、もう最近は会っていません。でも、入学当初、初めてリョウ君を見た時に思ってしまったんです、恭介兄さんに似ていると。初めは何かの勘違いだと思いました。でも、本田さんにリョウ君のことを聞いて、リョウ君の人柄を知って。私、リョウ君のことを好きになれたら二人のことを忘れられるんじゃないかって、本当は恭介兄さんを忘れるためにリョウ君のことを本田さんに頼んだんです。本当にごめんなさい」
 今まで、自分のことをこんなにも話した人はいない。
必死だった。
少しでも早く恭介兄さんのことを忘れたくて、もういないねぇさんに謝りたくて、リョウ君を見た時も本当にかっこいいと思った。でもそれ以上に恭介兄さんに似た何かを感じてしまった。見た目は全然似ていないのに、どこか惹かれるような優しい笑顔に二人を重ねていたのかもしれない。
忘れるために誰かに恋をしようとしていたのに、どこか似ている人に惹かれてしまう。でも、リョウ君のことを見聞きするたびいつの間にか、目で追ってしまっている自分に気づいた。なるべく私の知っているねぇさんに近づきたくて、夢を追いかけて目を輝かせていた私の大好きなねぇさんになりたくて。
ある時、ふとした瞬間に恭介兄さんへ聞いてみたことがある。
『・・・恭介兄さん』
『どうした?』
 あれ以来、恭介兄さんは少しずつではあったがねぇさんの死から立ち直り始めていた。二人の幸せで溢れるはずだったアパートを引っ越して、ねぇさんがずっと思い描いていた夢に近づくために勉強をし直して小学校のALTを目指し始めた。
『この前のことなんですけど』
『ん? 何かあったっけ』
恭介兄さんはあの日のことを覚えていなかった。安心したのと同時に少し落胆してしまう。
私は、一体何を期待していたんだ。
『あ、いや。覚えていないのならいいんです』
『お、おう・・・てか、鈴』
『はい?』
『どうして敬語?』
『それは・・・』
 答えに戸惑っていると、恭介兄さんは落ち着いた表情で私の頬をぐいっと押す。いつかの輝いていたあの日のように。
『香菜も鈴も。お前らは本当に姉妹そろって綺麗だな』
恭介兄さんはそう言って昔と変わらない顔で笑う。ねぇさん。私、やっぱりねぇさんには敵わないや。でも、それでも私は、私の大好きだったねぇさんみたいに生きたい。ねぇさんがおくれなかった輝く生涯を私がねぇさんの代わりに進みたい。
それから私はまるで取りつかれたように敬語を使うようになり、ねぇさんの好きだったフランス語を学ぶためにこの学校へときた。ショートだった髪もねぇさんみたいに長く伸ばして、少しでもねぇさんに近づけたらそうしたら私の犯してしまった罪は。
「そのことを謝るために今日、本田さんをお呼びしました。本当にごめんなさい」
「鈴ちゃん」
「・・・はい」
「リョウのこと好き?」
 本田さんは、おそらく冷め切ってしまったであろうカプチーノをひとくち口に含むと私を見た。
「・・・え?」
「鈴ちゃんの事情はよく分かった。鈴ちゃんがずっと苦しんできたであろうことも。そのうえで、今、鈴ちゃんはあいつのこと好き?」
 そんなこと聞かれるとは思っていなかった。私は、てっきり自分の過去を話せば軽蔑されるだろうと怒鳴られるだろうと覚悟していた。
本田さんやリョウ君にたとえ嫌われようとも、こんなにも優しい人達の関係を私の身勝手な私情でめちゃくちゃにしてしまうことが耐えられなかった。例え、自分の心に蓋をしたとしても。なのに、この人はそれでもまっすぐに私に問いかける。
「私は・・・」
 私は、どうしたいんだろう。
大丈夫だよって、そう言って肩を並べて座って欲しかったのだろうか。あなたは悪くないよって、頭を撫でて欲しかったのだろうか。
いや、きっと、優しくて温かい二人に見放してほしかった。お前は最低だと、お前のせいで姉は死んだのだと、そう突き放してほしかった。
みんな、優しすぎるのだ。
周りの優しさに触れるたび、自分の汚さに絶望する。

『かわいそうにねぇ、池井さんのお宅。妹さんだけ残されておねぇさんが・・・』

『あら、そうなの? まだ若かったのに』

『鈴、母さんは香菜も鈴も大好きよ』

『鈴、お前はお前がやりたいことをしなさい。お前は香菜に似て優秀なのだから、父さんも母さんも応援しているからな』

『香菜も鈴も。お前らは本当に姉妹そろって綺麗だな』

 色々な優しさが目の前に現れては通り過ぎてゆく。茶色いレトロなテーブルにつけられた傷を見つめながら、顔を上げることができなかった。
「私は・・・」
 テーブルがぐにゃりと歪んだ。傷もはっきり見えなくなった。
「・・・あれ、どうしてでしょう。私」
 なんで。嫌われることを覚悟していたのに、ここ数日の日々が歪んだスクリーンにゆっくりと映し出される。本田さんの笑顔、リョウ君の少し困った顔、三人での帰り道、ちょっと特別な休日。それら全てが私の人生の中での数少ない思い出を塗り替えていた。私は、こんなにもあの時間が好きだったのか。それらは本当にたった数日のことなのに。二人に軽蔑されることを選んだのに、私は
「鈴ちゃん」
 顔を上げると、今目の前にいる彼女は静かに微笑んでいた。
「笑って」
 その優しさが、表情が心の中に無断で入って来る。目の前の彼女は私の知っている誰かにとてもよく似ていた。
 ひとしきり泣くと、心がすっきりしていてテーブルの傷も茶色いテーブルに馴染んでいるように感じられた。彼女は、見放すわけでも突き放すわけでもなく、私を見てくれた。私の中にあるものでも私を取り巻く環境でもなく、私を『池井鈴』を見てくれる。
「本田さん・・・」
「うん」
 私がこんなことを思ってしまってもいいのだろうか。こんなにも最低で汚れている私でもいいのだろうか。本田さんは、きっと優しすぎるのだ。
私の大好きだったあの人みたいに。
そんな本田さんの心に甘えてしまってもいいのだろうか。色々なことが頭をよぎる。本当の自分を隠して、無意識のうちにねぇさんのまねをして、気がついた時にはもう本当の自分なんて忘れてしまっていた。
輝いていた表情で夢を語っていたねぇさんみたいに、誰にでも優しかった私の自慢のねぇさんみたいに振る舞ってきた。それがいつの間にか私になっていた。でも、もうあの時みたいに何も言えずに終わるなんてそんな後悔はしたくない。
「・・・私、リョウ君が好きです。それ以上に自分のことが大嫌いです。でも、もう後悔はしたくない」
 テーブルの上にしずくが落ちる。
怖くて本田さんのことを見ることができない。
「私は・・・二人の、リョウ君と本田さんの友達でいたい」
 カフェには私達以外誰ももう残っていない。本田さんに嫌われるつもりで自分のことを話したのに私はいまさら何を言っているんだ。どれだけわがままを言えば気が済むんだ。
「いいよ」
「・・・え?」
「だから、いいって。鈴ちゃんは私の友達だもん」
 そんなの当たり前じゃん、本田さんはそう笑った。