きみがいる、この世界で。


その後私たちはウインドーショッピングをすることにした。
小説を読むという共通の趣味で盛り上がり、本屋さんでお互いがおすすめする小説を買い合って交換した。
高橋くんがプレゼントしてくれたのは、離島に住む高校生の恋愛を描いた爽やかな青春小説だった。

【あんまり恋愛がメインになった小説は読まないんだけど、これは本当によかった】というほどだから、余程好きな物語なのだろう。
家に帰ったら早速読んでみよう。

私は挫折を機に音楽から遠ざかっていたバイオリニストが、ある少女と出会い、もう一度音楽と向き合っていく恋愛小説をプレゼントした。

本屋さんを出ると、隣に楽器専門店があった。
高橋くんはお店と私を交互に見た後、【泉本さんの演奏、聴いてみたい】と電子ピアノを指差した。

【いやいや、私、下手だもん。もうずっと弾いていないし】

【でも音楽祭でピアノ伴奏を担当するほどだったんでしょ? お願い、聴いてみたい】

あまりにも真剣に頼み込まれるものだから、強く【嫌だ】とは言えず、私はピアノの椅子に座った。
ペダルを足に乗せ【何がいい?】と聞くと【ノクターン 変ホ長調、弾ける?】とすぐに返事がきた。
以前、私が好きだと話したことを覚えていてくれたのだろうか。
【ずっと弾いていないから間違えたらごめんね】と前置きをしてから、手を握ったり開いたりして軽く指の準備運動をする。

ピアノを弾くのをやめたあの日、もう自分は誰かのために演奏することはないと思っていた。
でも今、もう一度誰かのために弾きたいと思う気持ちが心の奥底から湧き出てきているのに不思議な感じがした。

ピアノの鍵盤の上に指を躍らせるのは2ヶ月以上ぶりだったからか、自分の演奏がとても下手になったように感じた。
頭の中にあるイメージに指が追いつかない。
本当はもっと曲に気持ちを込めたかったのに、ただ譜面をなぞるだけの機械的な演奏になってしまった。

いつの間にかチラホラ集まってきたちびっ子たちの「すげー!」「じょうず!」という言葉に「ありがとう」と返してから高橋くんを見る。

【どうでしたか?】

彼は私の演奏をどう解釈したのだろう。早く彼の気持ちを聞きたいと早まる気持ちを抑えたくて、無意味に店内をぐるりと見渡した。

【泉本さんらしい演奏だった気がする】

高橋くんはチラッと私を見てからもう一度、指を動かした。

【指の動きで、一音一音、すごく丁寧に奏でているのがわかった。ちょっとゆっくりめのテンポで弾いたでしょ。それが泉本さんらしかった、上手だった】

彼の褒め言葉に、【久しぶりに弾くから暗譜できているか不安だった】と正直に答える。

【本当に素敵だったよ。音で聞きたかったな、って思っちゃうぐらい】

そうだ。当たり前のことにようやく気づく。

高橋くんは私の演奏を”耳で”聴いていない。
指の動きだけで演奏がわかるとは、彼は幼少期、相当の時間をピアノに費やしたのだろうか。
もしそうだとしたら、ピアノの音が聞けなくなってしまって、どれだけ辛かっただろう。
一緒にいる時間は確実に積み重ねているけれど、彼が味わってきた本当の苦しみや辛さを、私はきっとまだ何もわかっていない。