スワンプマンの暇潰し

 僕はある〈部屋〉の中にいた。

 その〈部屋〉には一切の明かりがない。
 身体を縛られているわけでもないのに、まるで身動きを取れる気がしない。
 肌の感触はもちろん、骨や神経、筋繊維だとかの軋みなど、本来あるべき身体的な感覚が、何一つ存在しない。

 これは、俗に言う金縛りというやつなのだろうか。

 僕は金縛りに遭ったことがなかったので、少しだけ気持ちが高揚した。
 身体的な感覚は何一つなかったけど、身体の内側にほのかな熱が灯ったようだ。
 なるほど、金縛りとはこういうものなのか。
 自分の身体が何一つ自由にならない――そんな現実に直面するのはなぜか心躍るものがあった。
 わくわくしていると言い換えてもいいかもしれない。
 こんな気分になるのは本当に久しぶりのことだった。



 僕がまだ小学生だった頃のことだ。

 小学校からの帰り道、ここではない遠い世界に意識を飛ばして歩いていた僕は、誤って赤信号の横断歩道に足を踏み出した。

 結果は大事故だった。

 まさかこんなに堂々と信号無視する小学生もいるまいと油断していたドライバーは、僕の飛び出しにまるでブレーキを踏むことができなかった。
 跳ね飛ばされた僕の身体は優に十メートルほどは飛んだのだと、事故現場を目撃した通行人のおばさんは興奮気味にテレビに向かって話していたらしい。
 病院に運ばれた僕は三日三晩生死の境を彷徨った。
 「今夜が峠です」という医師の言葉を聞いたのは生まれて初めてだと、母親は鼻水を盛大に啜った。
 僕も聞いてみたかったと言ったら、母親は僕の頭を叩く代わりにベッドに顔を埋めて号泣したので、僕は病院のベッドに倒れ込み、染みだらけの天井を見上げるしかなかった。

 一か月の入院を経て学校に復帰すると、数少ない級友は口々に天国はどうだった、三途の川は綺麗だったかと訊いてきた。
 僕が一言「覚えていない」と答えると、彼らはつまらなそうに去っていき、僕はまた一人きりになった。

 覚えていないというのは本当だった。

 僕は気を失っている間のことを何一つ覚えていなかった。
 事故現場の横断歩道どころか、小学校を出る時、用務員さんに「さようなら」と大きな声をかけたところまでしか記憶がない。
 まるで途中で停電を起こした録画番組のように、肝心な部分の記憶がさっぱりと抜け落ちていた。

 それは、僕が生涯で『死』に最も接近した瞬間だったはずなのに。

 人間がいつかは死ぬ生き物であることを、僕は知識として知っていた。
 その知識が知識でなくなったのは、僕自身が生死の境を彷徨ってからおよそ一年後、駅からすぐの交差点で、僕の母親が二トントラックに踏み潰された時のことだ。
 死の淵から戻ることができた僕とは違い、母はついに此岸に戻ることはなかった。
 連絡を受けた僕と父が見たのは、もはや原型をとどめていないくらいに損壊した母だったものの残骸だった。

 母が死んでから、僕は何度もあの失われた瞬間を思い出そうとした。
 母に与えられた『死』というものが何なのかが知りたかったからだ。
 だが、どんなに望んでもその瞬間が蘇ることはなかった。

 人は、いつか必ず死ぬ。
 焦る意味などない。

 理屈ではわかっているのに、あの空白を思うとその間隙を埋めたいと感じる自分を止めようがなかった。
 恐ろしさはある。
 しかし、それを上回る強烈な好奇心があった。
 まるで、人類未踏の地に挑む探検家の血の滾りのような。
 獣じみた好奇心は強い高揚を伴い、何度もこの身を苛んだ。

 だからなのかもしれない。
 僕が彼女の両手を受け入れたのは――。



 誰かの呻き声がしていた。

 身体の感覚は全く戻らないし、戻る兆しもない。
 永遠に戻らないのかもしれないとすら思い始めていた。
 感覚はないのに、その〈部屋〉が定期的に揺さぶられていることだけはわかった。
 これも不思議な感覚だった。

 少しずつ、今の自分にできることがわかってくる。

 まず、見ることはできる。
 瞼を開く感覚はないが、見ようと思えば周りの景色を感じ取ることはできた。
 というのも、この光のない〈部屋〉の周囲に、時折どこかからか光が差すのを感じ取ることができたからだ。
 だからといって、光の方を向くことなどできない。
 できるのは、漏れてくる光が差すのを感じることだけだった。

 聞くこともできた。
 その呻き声を聞き取れているのだから当然だ。意識を集中すれば、より大きく、はっきりと聴くこともできるようだっだ。
 理由はわからないが、僕にはそれができると、理屈ではない部分が理解していた。
 それもまた不可解なことだった。

 僕は意識を集中し、この呻き声の主が誰なのかを突き止めようと思った。
 動けず、見ることすら覚束ない今、この不可解な世界を理解するには、聴覚に頼るしかなかった。
 その声に関する記憶を探り続け、ようやく気づいた。

 送橋由宇(おくりはしゆう)だ。

 彼女の声を認識した瞬間、稲妻に打たれた巨木のように、僕の記憶を覆う薄皮がばりばりと剥がれ、奥から逃れ得ぬ真実がどろりと滲み出てきた。

 そうだ。
 僕は彼女と車に乗って、山奥の、あの洞穴に来た。

 そこで何をしたのか、何をしようとしたのかも全て思い出した。

 しかし、そこで僕の身に何が起こったのかだけはどうしても思い出せなかった。
 あの事故の時と同じだ。
 記憶の途絶によって生じた空白。
 何が起きたのかがどうしてもわからない。
 知っている可能性があるのは、送橋さんしかいない。
 だから、話しかけてみることにした。

『送橋さん』

 それは僕の声ではなかった。
 けれど確かに僕の声だった。

 呼気で声帯を振動させた感触がないのだから、理屈で考えれば僕の声であるはずがない。
 しかし、この世界に音として発生したのは確かに僕の声だった。
 相反する現実に戸惑いながら、もう一度発語した。

『送橋さん。枯野です。聞こえますか』

 定期的な振動が、その声をきっかけに止まった。

「……枯野くん?」

 その声は、やはり送橋さんだった。

 送橋さんの声はやけに大きくて、〈部屋〉そのものを揺らすような振動を伴っていた。
 まるで送橋さんが巨人になったかのようだったが、それを不思議に思う間もなく、僕の〈部屋〉を激震が襲った。

『うわあっ!?』

 僕の〈部屋〉は、何者かの手によって持ち上げられた。
 暗闇からほの明るい世界へ。

 最初に見えたのは星空だった。
 どこかの林の中なのか、星空を遮る枝葉の隙間から真ん丸な月が顔をのぞかせていた。
 ああ、ここは確かに地球だったのだとほっとする間もなく、月が巨大な影に遮られた。

「枯野くんっ、どうしたの!? 何かあった!?」

 遮ったのは、送橋さんだった。

 送橋さんは、泣きそうな顔をしていた。
 月の明かりを頼りに目を凝らす――僕には瞼の感覚もないので、まるで今の僕に目があるかのような表現もおかしいのだが――と、彼女の頬には涙が伝ったと見られる筋が幾重にも連なっていた。

 送橋さんは人前で泣くような人ではない。
 何があったのだろう。

 少し距離をおいて改めて見ると、僕の〈部屋〉を手にしているのはやはり送橋さんで間違いないようだ。
 目に涙を溜めながら、僕の〈部屋〉を手に持って、山林の中、一人佇んでいたのだ。

 記憶の扉が少しずつ開いていく。

 チリチリという音を立て、熱を発しながら回り続ける思考回路とともに、僕は〈部屋〉の背面の方を見た。

 振り返るような感覚もないのに、僕はスムーズに視点を背面に写すことができた。

 そこには、小さな洞穴があって、月の光が差し込んでいる。
 その奥には、人が一人横になれるくらいの大きさの穴が掘られていた。
 周辺には、掻き出された土や掘るのに使ったと見られるスコップが乱雑に放置されていて、穴底には闇だけがあった。
 その闇の底にあるものを、僕は見なくてはならない。そんな気がした。

『僕を、その穴の方に向けてもらえませんか』
「僕……って?」
『僕は、僕です。その手の中にあるのが、僕』
「えぇ……?」

 位置関係から察するに、僕の〈部屋〉が送橋さんの手中にあるのは明白だった。
 穴の奥を見ようとするなら、送橋さんに向けてもらうより方法がない。

 送橋さんはあからさまに困惑していたし、それは僕も同じだ。
 こんな状況に陥ってしまったのに、取り乱さず沈着な対応ができているのが不思議だった。

 送橋さんは、おずおずと僕の〈部屋〉を穴へと向ける。
 月の光で、奥の闇が徐々に露わになっていく。

 最初に見えたのは人間の足だった。
 見覚えのある穿き古しのジーンズに、あちこち傷のついた白と黒のスニーカー。
 身体を下からなめていくように、送橋さんの手が持ち上げられていく。
 よれた白のTシャツに、裾のほつれた紺のパーカー。
 まるで整髪料をつけたことのない髪は、土埃に塗れている。
 その顔は、毎朝毎晩、他でもない僕自身が、鏡の向こうに見続けてきた顔だ。

『僕……ですね』
「え?」
『僕がいます。その穴の中に。僕の死体が』

 その瞬間、僕は全てを理解した。

 なぜ僕がこの穴の中で死体になっているのか。
 なぜ送橋さんが泣いていたのか。
 そして、なぜ僕が送橋さんの手の中にある〈部屋〉に納まっているのか。

 ここで起こったことも推測がついた。
 つまり、僕の死体はその結果なのだ。

 ならば、なすべきことも明白だ。

『埋めてください』
「え?」

 さっきから、送橋さんは「え?」しか言っていない。
 これから埋められるのは自分自身なのに、無性におかしくなってしまう。

『埋めてください。そのままそこに。埋め終わったら、帰りましょう』
「え、でも」
『それはただの抜け殻です。僕じゃない』

 送橋さんは、しばらく固まっていた。
 まるで、フリーズした電子機器のようだった。
 森の木々がざわめいた。
 風が強く吹いているらしい。
 送橋さんの背後の空を、分厚い雲が物凄い勢いで流れていき、眩い月の光を覆い隠してしまう。
 じきに強い雨が降ってくるかもしれない。
 どちらにせよ、ここで死体と佇んでいても、いいことなんて何一つない。

 ずずっと鼻を啜るような音がした。
 僕の〈部屋〉を握っている腕が激しく動かされた後、打ち捨てられたスコップが迫った。
 僕の〈部屋〉を手に持ちながら、スコップを持ち上げたのだと気づく。

『できれば、僕をその穴が見えるところに置いてもらえませんか? 自分が埋められるところなんて、そうそう拝めるものじゃないですし』
「……うん」

 送橋さんは、カバンの中から台のようなものを取り出して、穴の縁に置き、その上に僕の〈部屋〉を立て掛けた。

「これでいい?」
『いい感じです。ありがとうございます』

 送橋さんは、穴にせっせと土を被せていった。僕の身体が少しずつ見えなくなっていく。
 大病を患ったこともなく、大きな怪我だってしたことがない。
 思い返せば、それなりに過ごしやすい優秀な身体だったのかもしれない。
 まさしく、今生の別れ。
 感慨のような気持ちもなくはなかったが、生憎今の僕には涙を流すための瞳もない。

『魂って、あったんですね』
「魂?」
『僕の身体は死んだけど、僕の魂は今ここにあります。人は死んでも、魂が残る。それがわかって、証明することができて、よかった。そう思います』

 送橋さんは答えなかった。
 僕の身体を埋めるのは結構な重労働のように見えた。
 あまり無駄口を叩いて作業の邪魔をするのも本意ではなかったが、一つだけ確認しなければならないことがあった。

『訊いてもいいですか?』
「……何?」

 送橋さんはスコップを地面に突き刺し、僕に向き直った。

『今の僕って、一体何なんですか?』
「何って……、わたしから見て、きみがどう見えるか……ってこと?」
『そうです』

 吹き来る風の音はどこまでも無慈悲で、肉体との別れの感慨すら吹き飛ばされてしまいそうだ。
 穴はほとんど埋められてしまっていて、僕の身体はもう土の中だ。
 自分がどんな顔をしていたのかすら、早くも忘却の海に沈みつつあった。
 長い逡巡の後、送橋さんは答えた。

「わたしが去年買ったスマホ」
『へ?』

 それは、十九年という、短くも長くもない僕の人生の中で、一番間抜けな声だった。
 僕が初めてギターを手に入れたのは中学二年の冬だった。

 母がいなくなってから、家の中から音という音が消え去った。
 まるで、再生した動画をミュートするみたいに。
 この家に話題と明るさを提供していたのは専ら母親で、僕と父はそれに安住していただけだったんだなと、子どもながらに思い知らされた三年間だった。

 父は、全国紙の編集記者をしていた。
 毎日毎晩、この人はいつ眠っているんだろうと不思議になるくらい働いていて、家では父の姿を見ること自体が稀だった。
 小学生の頃、僕は心の中で父のことを密かに〈レアキャラ〉と呼んでいた。
 父に比べたら、ロールプレイングゲームでエンカウントするレアモンスターの方が幾分出会う確率が高いぐらいだった。

 十二月のある日、珍しく早い時間に帰ってきた父親は、僕の顔を見るなり「クリスマスプレゼント、何が欲しい」とだけ言い、ソファーを壊そうとしているのかと疑いたくなる勢いで座り、手に持った新聞を開いた。
 正直、面食らっていた。
 何が欲しいかなんて今まで一度も訊かれたことのなかった僕は、脳みそから煙が出るくらい考えた後、こう言った。

「ギターがほしい」

 父の目がこちらを向いた。
 どきりとした僕は、父が手にした新聞に隠れるように、反射的に身を竦ませた。

「どうしてギターなんだ」

 父の言葉に、また脳みそをぷすぷす言わせながら、どうにか「……なんとなく」とだけ返した。
 前日に見たギター演奏の動画が頭にこびりついていただけで、それ以上でも以下でもなかった。
 父は「わかった」とだけ言って、新聞を乱雑に畳んで鞄に押し込み、また仕事に出かけた。

 それから三日後、僕が学校から帰ってくると、玄関に大きなアコースティックギターが鎮座していた。
 その日は、クリスマスイブですらない、普通の日だった。

「うわあ」

 思わず声が出た。
 そのアコースティックギターはケースにも納められてもおらず、そのままの状態で玄関にぽーんと放り出されていた。

 僕は頭のいい人間ではないが、アコースティックギターはケースに入れて持ち運ぶものだということぐらいは知っていたし、何より僕が欲しいと思っていたのは、アコースティックギターではなくエレキギターだった。

「まあ、ギターには違いないしな」

 確かに僕は、父にギターの種類を言わなかった。
 ならば仕方あるまいと、自分で自分を納得させた。
 あの多忙な父に、ほしかったギターはこれじゃないよと指摘する勇気など、どこを探してもありはしなかった。

 ともあれギターを手に入れてしまった僕は、膨大な可処分時間を残らずギターに注ぎ込むことになった。
 動画やインターネットのサイトを参考にして、見様見真似で弾きまくった。
 僕の演奏技術は普通の人が見れば鼻で笑われて終わりのレベルだっただろうし、それは基本的に今も変わらない。
 だけど、弾けば弾くほど上達するという感覚はとても甘美で、僕は何もかもを放り出してギターに熱中した。
 ブロンズ弦を弾いた時の、ギターボディーの深い振動をお腹に感じるのが好きだった。

 ギターを弾いていると、自分の意識が深層へ潜っていく感覚があった。
 車に轢かれた時に近づいた生と死の境目がその辺りにあるんじゃないかと思った。
 それに気づいて以来、僕にとってギターは、その辺縁へと歩み寄る手段となった。
 僕が追い返され、母がひらりと跨いだ境界線。
 弾いているうちに、夜が朝になっていることも少なくなかった。

「まだ起きてるのか」

 振り返ると、暗い玄関に父がいた。リビングの時計は四時を指していた。
 父が帰ってくるのは大抵この時間で、そのまま昼ごろまで眠り、また会社へ出掛けてしまう。

「人間って、死んだらどうなるんだろう?」

 なぜそんなことを訊いたのか、今でもよくわからない。
 睡眠不足が脳の細胞を腐らせてしまったせいなのかもしれない。
 父はピクリと眉を顰めた。

「何もない。骨と灰になって、それで終わりだ」
「そう」

 父はきっとそう言うだろうな、と思っていた。
 僕らの身体のどこかに、魂とでも呼ばれるものが納まっているとして、それは決して目には見えない。
 僕らが骨と灰になったとしても、そこにあるはずの魂がどこへ飛んで行ったのかを確かめることはできない。
 僕が知りたいのは、それらがどこに飛んで行って、その後どうなるのか、ということだった。

 話は終わりとばかりに、父は寝室に引っ込んだ。
 半年分くらい父と話したかな、僕は思った。



 高校卒業が迫った頃、父が突然この家を引き払うと言い出した。
 母が死んで以来、父はずっとこの地方の支社で働いていたが、ついに東京本社への転勤が決まったのだそうだ。

「お前は一人で好きなようにしろ。いいな」

 いいも悪いもない。
 父が家にいない以上、生活に関する一通りのことは、全て僕がこなしていた。
 一人暮らしをしろと言われたところで、今までだって一人暮らしをしていたようなものだ。
 実質的には何も変わらない。

 アパート選びも、家を手放すための面倒な手続きも、全て父が一人でやった。
 それはまるで、家族という粗大ごみをばらばらに解体して、四十五リットルの燃えるごみ袋に詰め込んでいるかのようだった。
 きっと、父はずっと前からそうしたかったのだろうと僕は思った。

「じゃあな」

 何かあったら連絡しろよとか、しっかりやれよの言葉もなく、父というレアキャラは僕の人生から姿を消した。

 その背中を見送りながら、父と暮らすことはもう二度とないのだろうと思っていた。
 残ったのは母の思い出と、中二の冬に父からもらったアコースティックギターだけだった。
 最低限の家具を設置し終えた僕は、自分で買ったケースからギターを取り出し、ぽろんと弾いた。
 隣の部屋との壁は、ギターを弾くのには不適当なほどに薄く、頼りない。
 窓を開けると、真正面には廃品処理工場が見えた。
 工場からは、打ち捨てられた場所だけが持つ侘しさのような空気が醸し出されていて、父に捨てられた僕が住むには似合いの場所だと、自分で自分を笑いたくなった。



 一人暮らしを始めてから一番困ったのが、ギターを弾く場所の確保だった。
 これまでの家と違って、思い切りギターをかき鳴らせるほど、アパートの壁は分厚くない。
 布団を被って弾くのもいいが、暗いのと狭いのと息苦しいのとで長くはもたない。
 リハーサルスタジオも何度か使ったが、費用もかかるし、どこか落ち着かなかった。

 紆余曲折を経て、行き着いたのが駅だった。
 JR大曽根駅の北口で、ゆとりーとラインの改札へと続く階段の脇の奥まった場所。
 そこはいつも周りにギターを弾く人間が多く、僕はその中にうまく埋没することができた。
 電車が線路を軋ませる音や車の排気音、歌声や雑踏のざわめきが混じり合って混沌としていたが、深層に潜りさえすれば、それらは逆に、自分がこの世界から隔絶された一つの個であることを、より際立たせる効果を持っていた。
 華やかな繁華街から距離をおいているところもいい。
 僕はJR大曽根駅の北口をとても気に入った。

 毎日通いたい気持ちもあったが、暮らしていくためにはそこそこの時間をバイトに充てる必要もある。
 大曽根駅に行くのは、とりあえず週に二回、火曜日と金曜日にしよう。
 そう決めた。

 しばらくの間、一人きりの快適な時間を過ごしていた。
 この大曽根駅の片隅は僕ととても相性がいいらしく、実家のリビングで弾いていた頃よりもずっと深いところまで潜ることができた。
 近くにいる歌うたいたちの周りには大小さまざまな輪ができていたが、僕はいつまでも一人だった。
 それは、誰かと関わるのではなくただ潜航したいだけの僕にとってはとても好都合なことだった。
 特別上手くもなく、容姿も優れず、愛想もよくない人間に寄ってくる物好きなんているはずもない。
 このままずっと一人の時間が続くのだと思うと、想像するだけで身震いするほどに幸せだった。

 僕に関わろうとする人間なんて現れやしない。
 そう思っていた。



 一人暮らしを始めてから二か月ほどが経った、五月の半ば頃だった。
 大曽根駅北口の定位置でギターを弾き始めると、改札付近から粘りつくような視線を感じた。
 演奏が終わってからそちらに視線をやると、気配はぱったり消えてしまう。同じ現象は何度も続いた。注意深く気配を探り続け、ようやくその視線の主が誰なのかが見えてきた。

 それは、女性だった。
 年齢はおそらく僕よりも少し上だろう。
 彼女は、ひどく疲れているように見えた。
 まるで、彼女の周囲だけ倍の重力がのしかかっていて、少し動くだけで周りの何倍もの労力を費やしているような。
 社会の歯車として規則正しく回り続けるのには、僕が想像するよりもずっと強い負荷がかかるものなのかもしれない。
 そう思うと、ただの異物としか思えなかった彼女の視線も、どこか親しみをもって受け止められるような気がした。
 他人だとしても、同志であるならば、視線程度を厭うのは違うんじゃないかと思ったのだ。

 僕の気持ちが変わると、彼女の方も少し変わった。
 少しずつ、互いの視線を避け合うのをやめ、目が合えば軽く会釈を返したりもするようになった。
 不思議な感覚だった。
 こんなこと、学校の同級生にだってしたことがない。
 一度も話したことがないのに、これまでに出会った誰よりも心の距離は近づいていた。
 誰かに親しみを覚えるのに、時間も、触れ合いも、会話すらも必要としない場合があるのだと、僕は初めて知った。
 彼女もそれは同じだったんじゃないかと僕は思っている。

 またしばらく経ったある日。
 その日は生憎の曇り空で、僕が定位置としている高架柱の下にもぽつぽつと小雨が降り込み始めていた。
 今日は早めに切り上げようかと立ち上がったところで、異変に気づいた。

 男が三人ほど、ぐるりと彼女を取り囲んでいた。
 男たちはそれぞれに派手で軽薄な雰囲気をまとっていて、ここではない別の場所に彼女を連れ出そうと躍起になっていた。
 彼女はその誘いを好意的に受け止めていないようで、俯き加減に視線を落とし、下腹部の辺りで両手をぎゅっと握り締めていた。
 よく見ると、彼女の足はかすかに震えているようにも見えた。

 それを見た後の僕の行動は、実に自動的だった。
 冷静さを欠いてもいた。
 衝動的だった、と言ってもいいかもしれない。
 僕はギターをたすき掛けのように背中に背負ったまま、彼らの輪に近づいていった。

「やめてもらえませんか」

 男たちは瞬時に剣呑な空気をまとった。

「僕の大切な、お客さんなんです」

 男たちの後ろで、彼女が大きく目を見開いた。
 こういう人種に関わることの愚はそれなりに理解しているつもりではいた。
 にも関わらずこんな暴挙に出てしまったのは、自分で思う以上に、彼女を親しく感じてしまっていたせいなのだろう。

「ああ? うぜーよ、お前」

 男のうちの一人が、僕の胸を平手でどんと突いた。
 彼にとっては軽く小突いた程度かもしれないが、慢性的に食が細い僕は、まるで紙細工のように容易く後ろに倒れた。
 背負っていたギターが僕の自重でメキメキと音を立てて割れた。
 その音は広場中に響き渡り、行き交う人たちの視線が一斉に僕らに集まった。

「……ちっ」

 面倒な空気を感じ取った彼らはそそくさと退散した。
 雑踏の視線も次の瞬間には霧消して、後には口元に手を当てて立ち尽くす彼女と、倒れたままの僕と、もう二度と元には戻らない壊れたギターだけが残された。

 僕はどうにか身体を起こし、背後の惨状を確認した。
 そこにあったのは、もう既にギターではなく、ギターだったものの成れの果てだった。

 その壊れたギターと、トラックに轢かれた母の姿が重なって、胃の奥底から熱いものが込み上げてきた。
 這いずるようにして側溝まで行き、胃の内容物を残らず吐き出した。
 しばらく吐いていると、不意に背中を擦る手を感じた。
 その手は、生命らしさを感じないほど冷たく凍りついていた。

「ごめん、なさい」

 あなたが謝る必要はないと思ったが、それを口に出せるような余裕はなかった。
 僕がえづいている間、彼女はずっと僕の背中を擦ってくれた。

「大丈夫? 名前、言える?」
「……枯野(かれの)最果(さいはて)、です」

 胃液で焼けた喉で、どうにか自分の名前を言うと、彼女は口の中で「かれの、さいはて」と小さく呟いた。

送橋由宇(おくりはしゆう)、です。埋め合わせ、させてください」

 その声は、疲れ切った彼女の空気からは想像できないほどの強さを含んでいた。
 それが僕と、送橋由宇との出会いだった。
 僕――そう表現していいものかは若干の躊躇いもあるが――は、ダッシュボードの、スマホ固定用のホルダーに取り付けられていた。
 ここからなら、助手席に置かれるよりもはっきりと送橋さんの表情を見ることができる。

 送橋さんは僕――それはもはや僕ではないのだが――枯野最果の死体を埋め終えると、僕を持って車に戻り、その場から逃げるように山道を走り始めた。
 深夜の山道に人の気配はない。
 蛇の背中のようにうねる道を、送橋さんの軽ワゴンは時折左右にふられながら不器用になぞり続ける。
 普段よりも荒れ気味だった彼女の運転も、時間が経つにつれて少しずつ落ち着きを取り戻していった。

「何か喋ってよ」

 送橋さんの声で、ふと我に返った。

『ぼうっとしてました』
「あんま黙んないでよね。不安になる。わたしの頭がおかしくなったんじゃないかって」
『じゃあ、なるべく黙らないようにします』
「まあ、無理することないけど」

 ふっと小さく息を吐く。
 送橋さんは唇の端だけでかすかに笑んで見せたが、それはやはり引きつっていた。

 送橋さんは肩ぐらいまでの髪を一つにまとめていた。
 運転する時、彼女はいつもそうする。
 運転にそこまでの力は不要なんじゃないかと思うくらいにハンドルをぎゅっと握り、肩をいからせている。
 初めて彼女を目にした時の、何倍もの重力に疲れ果てたような空気は薄らいでいて、今は幾ばくかの柔らかさがあった。
 僕がこんな風になってしまっても、僕と送橋さんが過ごしてきた時間の意味が変質してしまわないのだとしたら、こんなに幸せなことはないのかもしれない。
 たとえ、僕らが志向していたものが何だったとしても。

「ねえ、少し止まっていい?」
『僕に断る必要はないと思います』
「……止まるね」

 山道の待避所に停車し、送橋さんは僕をホルダーから外した。
 送橋さんの親指が二回、表面を叩くと、送橋さんの顔が闇の中にぼうっと浮かび上がった。

「どんな感じ? 触られるの」
『何も感じません。なんていうか、〈部屋〉の壁をノックされてる感じ。ノックされてることはわかりますけど、その振動が僕に直接伝わるわけじゃないんです』

 言いながら、この場合の僕とは何を指しているのだろう、と考えた。
 送橋さんのスマホという〈部屋〉のことなのか、その中に納められた枯野最果の魂のことなのか。
 『僕』とは、果たしてどちらのことを指すのだろうか。

 送橋さんは「そっか」とだけ言い、僕を右手から左手に持ち替えた。
 僕の表面で、送橋さんの人差し指が踊っている。
 しばらくそうしていた後、送橋さんはほうっと小さく息を吐いた。

「とりあえず、何か通話アプリみたいなものが動いてるわけじゃないみたい」
『そうなんですか?』
「だってそうでしょ? 枯野くんの魂がスマホに乗り移ったなんて与太話よりは、ライン通話の向こうで誰かがわたしをからかおうとしてる、って話の方がよっぽど信じられる」
『僕は、枯野最果を装う詐欺師ってわけですね』
「そういうこと」

 送橋さんが笑うので、つられて僕も笑った。
 だけど、僕は彼女をからかおうとしている第三者ではないし、僕の身体はつい先ほど山奥に埋められたばかりだ。
 生きていた時には必ず内側にあった鼓動だってもうどこにも感じない。

「せっかくスマホになったんならさ、何かできたりしないの?」
『何かって?』
「たとえば、Bluetoothで音楽流したりとか、動画流したり、わたしの代わりにライン返してくれたりとか」
『どうすればいいかわかりませんが、ちょっとやってみます』

 とりあえず、Bluetoothでカーステレオから音楽を流そうと、意識を集中する。流れろ、流れろ、流れろと念じてみる。念じるだけなら、身体がなくても可能だ。

『どうですか?』
「だめみたい。Spotifyも立ち上がらなかったよ」

 その後も色々やろうとしてみたが、動画を立ち上げることも、ライン上でメッセージを送信することもできそうになかった。

「まとめると、こういうことだね。きみはわたしのスマホに乗り移ってしまったけど、スマホを中から操作したりすることはできない。できるのは周りの景色を見ること、音を聞くこと、話すこと」
『役立たずですね』
「そんなことないよ。たとえば……」
『たとえば?』

 送橋さんは窓の外を見やって、「んー」と低く唸った。

「話し相手になることができる、わたしの」
『それじゃあ、前とあまり変わらない気がします』
「そうかも。ちなみに、これは見えてる?」

 送橋さんは僕をフリック、タップした。見える景色は何も変わらない。

『見えないです』
「ちなみに今表示してるのは、最近わたしが読んでる漫画」
『へえ、何読んでるんです?』
「秘密。ちょっとえっちなの」
『なるほど。でも、よかったです』
「どうして?」
『だって、何を見ても全部僕に筒抜けだったら、送橋さんだっていい気分はしないでしょう? プライバシーは大切です』
「確かに。でも、結局そういうの読んでる時の顔は、全部見られちゃうんだよね」
『そういう時は空気を読んで、なるべく見ないようにしますから大丈夫です』
「よく言うよ。読めないものを、さも読めるみたいに言わない」

 送橋さんはまた小さく肩を揺すった。
 僕を左手で持ったまま、右手の薬指でそっと目元を拭う。
 その指にほんの少しの雫が乗っていたのを、僕は見てしまう。
 笑った拍子に出てしまったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 魂だけの存在になっても、送橋さんのことは結局わからない。

『僕は……枯野最果は死んでしまった。でも僕は、僕の意識は、確かにここにある』

 魂がスマホに乗り移った――奇しくも、送橋さんがさっきそう言った通りだ。
 僕の身体は確かにその機能を停止した。
 しかし、僕の意識とも呼べるものはこうして、送橋さんのスマホの中に、確かに存在している。
 今ここにある、この僕の思考や意識は、魂と呼んでも差し支えないものなのではないだろうか。

『魂って、本当にあったんですね』

 さっきと同じことを言った。
 魂は、目には見えないから、その存在を証明することはできない。
 けど、だからこそ空想や妄想はどこまでも膨らんでいく。
 思えば僕はこれまで、送橋さんとそういう話ばかりをしてきたような気がする。
 いい大人が熱中していい話題とは言い難い。
 でも、僕は彼女とそういう益体もない話をしながら眠れない夜を明かすのが何より大好きだった。

「きみは、魂だけの存在なのかな」
『どうなんでしょう。自分ではよくわからないです』
「気分はどう?」
『悪くはないですが、良くもないです。この〈部屋〉が振動したりするのはわかりますが、それだけです。痛くもないし、苦しくもない。暑かったり、寒かったりも』
「楽そうだね」
『確かに、わずらわしさはありません』

 代わりに、気持ちいいこともなさそうに思えた。
 例えば、この道には月の光が降り注いでいるが、その光を浴びたら気持ちよさそうだなあなどとは思わない。
 昼間よりも少し肌寒い風に吹かれたいとも思えない。
 それらは、僕が生きていた時に感じた情報を元にしているからそう思うだけで、スマホのカメラを通して見る景色は、どこまで行ってもただの景色でしかなかった。
 それが命を失うということなのだと言われたら、思わず納得してしまいそうになるほど、味気のない視界だった。

 ふと気づくと、じっとりとした視線が向けられていることに気づいた。
 どうやらまた僕は、黙り込んでしまったらしい。

『……すみません』
「いいよ。そういう、周りを気にせず考え込むところは今まで通りだから、安心する」
『ありがたいです』

 彼女の優しさにはいつも救われている。それが本当に優しさなのかは、よくわからなかったけど。

「本当に、今のきみみたいになれるのなら、一回くらい死んでみてもいいのかもね」

 そろそろ行こうかと、送橋さんはエンジンスタートのボタンに触れた。
 ぶぶんと音を立て、車がかすかに振動を始める。

「さっきと同じ場所にいる? それとも助手席?」
『ダッシュボードの方がいいです。安定してますし、外もよく見えます』
「きみがいいなら、じゃあそこで」

 僕をばねで締める型のホルダーに納める送橋さんは、なぜか少し寂しそうだった。
 もし助手席にいてほしいならそう言ってくれればいいのにと思ったけど、今さら外してもらうのも悪くて、僕はそのままスマホの居場所にいることにする。

 送橋さんの人差し指がすいすいすいと僕の表面を撫で、『一般道を通るルートです』とナビアプリが喋り出した。

「あ、枯野くんがナビってくれるならそれでもいいけど」
『無理なので、ナビアプリ使ってください』

 何度も通った道なので、道順はそこそこ覚えていたが、ナビアプリのようにこなれたナビを提供するのは到底無理だ。
 大人しくホルダーに収まっていることにする。

 送橋さんは音楽もラジオもかけなかった。
 何もない山道を走り続ける。
 木々の隙間から時折顔をのぞかせる月が、車内にさあっと光を零してまた隠れる。
 送橋さんは何も喋らないから、必然的に僕も黙ってしまう。
 送橋さんは喋れと僕に言ったけど、僕らは元より沈黙があまり気にならないタイプの人間だった。
 互いの間に流れる沈黙が気にならなかったからこそ、僕らは一緒にいられたのだ。
 送橋さんの肩はまだ強張っていた。その表情は、注ぎ込んで数日が経過したコンクリートのように既に固まってしまっている。



 送橋さんの家に着いた時にはもう四時近かった。
 夜明け前の階段を、足音を殺して歩き、部屋に滑り込むと、送橋さんはようやく深く息をついた。

「ようやく着いたね」
『お疲れさまでした』
「ほんとだよ。疲れた。身体もバッキバキ。とりあえず寝るね」
『明日、仕事ですよね。何時に起きるんですか?』
「休みにする。今決めた。ライン、送っとく」
『明日っていうか、もう今日ですけど』

 送橋さんは僕をぐりぐり操作すると、枕の横に置いた。
 重力に負けたその身体はベッドに倒れ込む。
 ぜんまいの切れた人形のように、ぴくりとも動く様子がない。

「起きたら、ちょっと付き合ってくれない?」
『どこに行くんですか?』
「きみの部屋」

 その言葉だけで、彼女が何を言わんとしているのかはすぐにわかった。
 こうなった今、あれが僕の部屋にある意味は一つもない。

『了解です』
「……構わない?」
『もちろん』
「……ごめんね」
『何がです?』
「殺しちゃって」

 何と答えればいいのかわからなくて、しばらく黙り込んでしまった。
 息を飲むことも、頬をぽりぽり掻いてごまかすことも、もう僕にはできない。

『いつかはこうなるって、思ってましたから』

 長い時間をかけて答えた時にはもう、送橋さんは眠りに落ちてしまっていた。
 眠りとは、いずれ訪れる死を受け入れるための予行練習だとどこかで聞いたことがある。
 もう死んでしまっている僕にも、眠りは訪れるのだろうか。
 僕にはわからなかった。

 ――いつかはこうなるかもって、思ってましたから。

 その言葉通りだ。
 いずれこうなるだろうと思っていた。
 その瞬間が訪れるのが早いか、それとも遅いか。
 少なくとも僕はそう思っていたし、送橋さんもそれは同じだったと思う。

 部屋の外ですずめが鳴き始めていた。
 レースのカーテン越しの朝日が部屋に差す。
 今日は暖かくなるだろうか。
 少しずつ高くなっていく太陽をベットから眺めながら、僕はまた送橋さんのことを思い出していた。
 男たちが去っていった後、取り残されたギターの残骸をそのままにしておくわけにもいかず、少しずつ拾い集めていると、同じように木片を拾い集める細い手があった。

「別にいいですよ。気にしないで」
「そんなこと言わないで。手伝わせてください」

 疲れ切った彼女――送橋さんの言葉は見た目に反して強く、それ以上のことを僕は言えなかった。
 真っ二つに折れたネック、欠けたボディー、弾き飛ばされたペグ。
 散らばった残骸の半分くらいを拾い集めたところでケースはパンパンになった。
 ギターは、ギターという形をしていることによって美しく、機能的であることができる。
 ギターであることをやめた木片群はただのごみでしかなく、嵩張るのだと知った。
 詰め切れない木片を前に途方に暮れていると、送橋さんは鞄の中からオレンジ色のエコバッグを取り出した。

「使ってください」
「……ありがとうございます」

 その時の僕は、訝しげな感情を顔に出してしまっていたのかもしれない。
 人との関わりを軒並み避けて生きてきた僕は、代償の伴わない優しさを訝しむことしかできない。
 残った木片を詰め終えた僕の「ありがとうございます」は、まるで不審者に対するそれだったと自分でも思う。

「もしよければ連絡先教えてくれませんか? 力になれることがあれば、何でもしますから」
「連絡先?」
「あの……ライン、とか?」
「……使ったことないです」
「じゃあ、電話番号で。番号教えますから」

 彼女はすらすらと自分の番号を暗唱したが、その番号を聞いてどうすればいいのかわからなかった。
 結局僕のスマホを渡し、連絡先の登録まで彼女にやってもらって、その場は終わった。

「また連絡します」

 何度も頭を下げながら、地下鉄の方へと彼女は消えていった。
 まるで、ギターを壊したのは彼女だったみたいだ。
 彼女は何も悪くないのに。

 ギターを弾こうにも、ギターは壊れてしまったので家に帰るほかなかった。
 僕の住んでいるアパートは大曽根駅から徒歩十五分くらいの場所にあった。
 背負ったギターケースの中で、壊れたギターの木片と千切れた弦が擦れて不快な音がしていた。
 アパートに着いて、水道水をそのまま一杯飲み干して、改めてギターケースを開いた。
 そこには、さっき駅で見たままの、無残な姿に成り果てたギターがあった。
 母の死に様と重ねてしまったことを思い出し、さっき飲んだばかりの水を洗面台で吐き出した。

 これは死体だ。
 バラバラになったギターの死体。
 どう手を施そうともこのギターは二度と元に戻らない。
 二トントラックに轢かれて死んだ母が、もう二度と蘇りはしないのと同じだ。
 父からもらった唯一の物は、なくなってしまった。
 ここにあるのは、その残骸でしかない。

 ぽとりと、自分の手に雫が落ちた。
 頬を伝う何かに手を伸ばすと、指先が濡れた。
 泣いてるのかと、自分で自分が不思議だった。

 自分の内側に渦巻く感情が何なのかもわからないまま、僕は泣いた。
 自分が泣いているという自覚が、さらに涙を生んだ。
 彼女を助けようとしたこと自体に後悔はないし、あの男たちに対する恨みの気持ちもない。
 ただ、そこにあったものがなくなってしまったという事実に、胸が潰れそうになっていた。

 ベッドに顔を埋めて泣いていると、いつの間にか気を失っていた。
 次に気が付いた時には、窓の外の日は既に高く昇っていた。
 時計を見ると、十一時。
 あと一時間でバイトに出かけなければならない時間だが、何もする気が起こらなかった。
 ふと横を見ると、傍らに置いたスマホのインジケータがぴかぴかと緑色に光っているのに気付いた。
 まるで見たことのない光だった。

 めったに灯らないスマホの通知には、ショートメールの着信があったと書かれている。
 発信元は、送橋由宇。
 聞き覚えのない名前に記憶を探ると、昨日会った彼女だと思い至った。

 メッセージには、端的にこう書かれていた。

『今日の夕方、お時間ください。六時に、大曽根駅北口のいつもの場所で待っています』



 昼のバイトを終えて大曽根駅に着くと、時計はもう六時を回っていた。
 誓って言うが、わざと遅れたわけではない。
 今日に限って帰り際に余分な荷物の運搬を頼まれたのも不運だった。
 けど、そのお願いを突っぱねなかったのも、あの人が本当に自分を待っているとは信じられなかったからだ。
 二十五パーセントくらい期待しながら小走りでロータリーを駆け抜けると、いつもの場所に送橋さんは立っていた。

「来ないかと思いました」
「す、すみません。バイトで、遅れちゃって」
「全然いいですよ。呼び出したのはわたしの方ですし。むしろ、来てくださってありがとうございます」

 相好を崩した彼女に、いつもの疲れた雰囲気はなかった。
 むしろ、少し浮き立っているようにすら感じる。
 いつものOL然とした服装ではなく、ジーンズに淡い水色のカーディガンを羽織っていて、まるで同い年くらいの女子みたいだった。

「なんか、いつもと雰囲気違いますね」
「あ、わかります?」

 彼女のいたずらっぽい笑みに、失敗したことを気付かされた。
 これでは、あなたのことをいつも見ていましたと白状したも同然だ。
 言葉に詰まっていると、彼女は「うふふ」と含み笑いをした。
 そんな表情を見たのは、これが初めてだった。

「今日はお休みいただいたんです。有休たまっちゃってたから」

 そうですかと相槌を打ちながら、彼女をあそこまで疲れさせていたのは、彼女の仕事なのだろうか、と僕は考えた。
 もしそうだとしたら仕事とは、あれほどまでに人の精神を摩耗させるものなのだろうか。
 倉庫のバイトしかしたことのない僕には、よくわからなかった。

「じゃあ、行きましょ」
「どこへ行くんですか?」
「いいところ」

 彼女はまた小さく笑って、地下鉄の駅の方へと歩き始めた。
 どこへ連れて行かれるのかわからないまま、彼女の背中を追って歩いた。
 帰路に就く群衆をかき分けながら、軽やかに改札を潜る。

「あ、」
「どうしたの?」
「僕、マナカ持ってないです」
「まじ?」

 図鑑にも載っていない珍獣を見たような目で見られてしまった。

「あ、あの、僕、基本徒歩ですし、バイトも近くなので……待ってください。どこまで行くんですか? 切符買って――」
「ん」

 彼女は躊躇わずに財布から千円札を出した。

「ほら、これで買ってきてください」
「え、でも、」
「いいから、早く!」

 もう札を投げんばかりだった。
 散々躊躇した後で仕方なく受け取ったお札は角が少しだけ曲がっていた。

「二百四十円ね。待ってますから」

 券売機に向かう僕の目はきっと、点滅しているみたいに白黒していたと思う。
 何度投入口に差し入れても、まるで入金を拒むかのように戻ってくる千円札。
 改札の向こうで待たせていることや、僕の後ろにできている列に焦りながら、どうにか二百四十円の切符を買った。
 手には、じっとりとした汗が滲んでいた。

「すみません」
「ほら、行きますよ!」

 僕が追いつくと、送橋さんはすたすたと歩いて名城線左回りの地下鉄に乗った。
 ちょうど二人分空いた席に並んで腰かける。

「枯野くんって、いくつなんです?」
「八月で十九になります」
「わっか! ちなみに、わたしはいくつに見えます?」
「えっと……」

 年上の女性から自分の年齢クイズを出題された時は、見た目の直感よりも少し若めに言わなければならない。
 人付き合いの苦手な僕だが、そのぐらいの常識は持っていた。

「二十……ですか?」
「ぷっ、ちょっと、気使いすぎ! 今年で二十五です。ひと昔前ならクリスマスケーキって言われてた年ですね」
「クリスマスケーキ?」

 あまりにも脈絡のない単語に首を捻っていると、送橋さんは「ごめん、忘れて」と苦笑いした。
 そんな会話を続けている間も地下鉄は走り続けていて、駅名が変わったばかりの名古屋城駅を出るところだった。

「どこまで行くんですか?」
「栄。次の次。栄はよく行きます?」
「一度だけ」

 母が生きていた頃に、百貨店が立ち並ぶ大津通を二人で歩いたことはある。
 ちょうど歩行者天国をやっていた時だったので、車道の真ん中を人が普通に歩いていたのにはびっくりした。
 何かお祭りでもやっているのかと思ったものだ。

「栄に何をしに?」
「それは着いてのお楽しみ」

 車輪とレールが擦れ合う音がして、地下鉄がホームに滑り込んだ。
 さ、行くよと自然に手を引かれ、どぎまぎしながら混み合うホームを歩いた。
 送橋さんの歩く速度は僕よりもかなり速くて、大人はこんなに速く歩くものなんだろうかと思った。
 二十五才の女性なんて、話したことすらない。
 ましてや手を繋ぐなんて。

 名城線の長い階段を登り、少しだけ人がまばらになった地下街を縫うように歩き、地下街と直結しているビルのうちの一つに入った。
 ひたすらエスカレーターで上に昇っていく。
 僕の目の前には送橋さんのお尻があった。
 ずっと彼女のお尻を眺め続けるのも悪い気がして、僕はずっと行きもしない売り場の方ばかり見ていた。
 ダイソーを過ぎ、ブックオフを超え、どこまで登るのか不安になってきたところで彼女はフロアへと歩き出した。
 その先にはエレキギターの群れが、朝礼で並ばされるバイトのように等間隔に並べられていた。

「教えてほしいことがあるんです」
「教えてほしいこと?」

 僕が聞き返すのも構わず、送橋さんはギターの林の中に踏み込んでいく。
 おっかなびっくり着いていくが、どこかに引っかけて、ドミノみたいに倒してしまわないかだけが不安だった。

「わたしはギターのことわからないから、教えてほしいんです。この中で一番いいギターがどれなのか」
「値段が高いギターなんじゃないんですか?」
「お金は、ただのお金でしかないです。わたしにはよくわからないけど、板が違えば音色も変わるんでしょ? それって個性じゃないですか。値段で良し悪しは決まらないって、それぐらいはわかります。値札見ればわかることが知りたいんじゃなく、枯野くんにとって一番のギターが知りたいんですよ」
「はあ」

 よくわからないことを訊いてくる人だなと思った。

 ともあれ、頼まれたからには選ばなくてはならない。
 僕にとって一番いいギターとは一体何なのだろう。
 僕は父にもらったギターに満足していたから、自分から進んで他のギターを探そうと思ったことはなかった。
 ギターのメーカーも知らないし、触ったこともない。

「店員さんに訊いては?」
「だめ」

 にべもなかった。

 さっきまで僕を先導した背中は、完全に背後へ回った。
 僕の動きの一つ一つを油断なく観察している。
 奇妙な緊張感に、ごくりと生唾を飲み込む。
 僕はこの人に何かを試されているらしいが、何を試されているのかはわからない。

 僕にとって、一番いいもの。

 僕は父からあのギターをもらってから、ずっとアコースティックギターを弾いてきた。
 アコースティックギターの音色にこそ、あの深層へと繋がる道を見いだせていたと思うのだ。

 ならばエレキギターは選択肢から外してしまうべきだろう。
 アコースティックギターに絞り、それぞれのギターを見比べていく。
 ギブソンにマーチン、ヤマハ、ギルド、エピフォン。

 アコースティックギターという枠は同じなのに、こんなにもたくさんのメーカーがあるんだと初めて知った。
 気になったものは弾かせてもらったりもした。
 どのギターもそれぞれの音色があった。
 きらびやかなものもあれば、枯れて落ち着いたものも。
 どれも言葉では言い表せないほど深い響きを持っていて、元々僕が持っていたあのギターとは比べ物にならないほどだ。
 だけど僕は、どうしても昨日壊れたギターを忘れることはできなかった。

「見つからない?」

 別に構わないよ、という声だった。
 閉店時間は八時とあった。
 残り時間は少ない。
 元々わけの分からないお願いなのだから、適当に選んでもいいし、なんなら反故にしてしまったって良かった。
 だけど、なぜかこの人のお願いはちゃんと聞かなければならないと感じていた。
 思えば初めて見かけたあの日から、僕はこの人の魂が自分と似通っているということを、無意識の内に感じ取っていたのかもしれない。
 もちろん、その時にはそんなこと考えもしなかったのだけれど。

 時間に追い立てられながら、通りすがった一角に置かれたギターに目が吸い寄せられた。
 ギターの方から僕を求めているような、吸引力のようなものを感じたのは初めてだった。

「これ、弾いてみたいです」

 指差すと、送橋さんはすぐさま店員さんに声をかけた。
 店員さんがチューニングする音を聴いて、自分の直感が間違っていなかったことを確信した。

 店員さんから受け取り、いつも弾いているメロディーをなぞると、たったそれだけで目の前の景色がふっと暗くなった。
 あのギターを弾いた時にあった、日の光の届かない深みへと落ちていく感覚。
 ぱっと目を上げ、送橋さんの方を見ると、彼女は小さく二度、首を縦に振った。

「すみません! これ、買います!」

 送橋さんは、フロア中に響き渡りそうな大声で店員の背中に呼びかけた。



「ごめんなさい、持ってもらっちゃって」
「全然大丈夫です」

 買ったギターを持ったまま、大曽根まで戻ってきた。
 時刻は夜の九時を回ったところだが、駅周辺の賑わいはまだ続いている。
 片手持ちでハードケースを運んでくるのは大変だった。
 値段がいくらだったのかは見せてもらえなかったが、店員さんの反応から、かなり高価な代物なのだろうということは察せられた。

「どこまで運べばいいですか?」
「いつもの場所まででいいですよ」

 ちょうど地下鉄出入口から上がってきたところで、僕の定位置までは残り百メートルくらいあった。
 到着すると、送橋さんは「開けてくれますか?」と促した。

 僕はいつもの場所に座り、ケースを地べたに置いて開封した。

 見たこともないほど豪華なケースに収まっているのはマーチンのギターだ。
 ドレッドノートのボディーには、縦に大きな傷がついていた。
 アウトレットだがいいか、ということは店員が何度も説明していたので理解はしていた。
 僕が生まれるより五十年も前に作られたギターで、今ではもう手に入らない木材が使われているらしい。

「弾いてみてくれます?」
「いいんですか?」
「だってわたし、弾けないもの」

 彼女は僕の目の前にしゃがんだ。
 まるで、早く弾けと催促しているように。
 何か釈然としないものを感じながらギターを構えるが、Gコードをたった一度鳴らしただけで、あっという間に僕は深海の底深くまで潜ることができた。

 このギターは、すごい。

 高価なギターもいくつか触ったが、ここまでの深みを持った音を鳴らせるギターは一本たりともなかった。
 僕より五十年も早くこの世に生まれて、それからずっと弾き込まれて来たのだろう。
 このギターを弾き続けてきた人の顔を、否応なしに想像してしまう。
 もうこの世にはいないのかもしれない。
 でもその人は、この世を去るまでずっと、このギターを弾き続けていたはずだ。
 雨の日も、風の日も。
 僕が、あの壊れてしまったギターでそうしていたように。
 見てもいないのに、音に刻まれた記憶に触れるように感じた。
 どこまででも深く潜ってきた、その経験値が木目一つ一つに刻み込まれているみたいだった。

 一曲弾き終わると、送橋さんはぱちぱちぱちと手を叩いた。
 考えてみれば、自分の演奏に対して他人から拍手をもらうのはこれが初めての経験だった。

「お願い、聞いてくれないかな」
「何ですか?」
「このギター、きみにもらってほしいの」
「えっ、それはだめですよ」
「どうして?」
「だって、このギターは、ものすごく高い」

 値段をはっきりと見たわけではない。
 だけど、普通のギターとは違い、温度や湿度が厳重に管理されたケースの中に置いてあった。
 下手したら車を一台買えるくらいの値札が掛けられていたものもあった。
 そんなものをもらう謂れは、僕にはない。

「わたし、言ったよね。お金はただのお金でしかないって」
「それでもお金はお金でしょ。無駄にしていいものじゃなくないですか」
「お金のこと神聖視しすぎだよ。お金なんて、時間は買えないし、人の気持ちだって買えない。命だって。所詮その程度のものなんだよ。きみが畏まらなきゃならないようなものじゃない」
「でも」
「わたし、あなたのギターが好きなの。あんな連中のせいであなたのギターが聴けなくなるなんてイヤだし、それにどうせ聴くなら最高の条件で聴きたいもの。これは、わたしにとってメリットのある投資。わたしはそう思ってるよ」

 まくしたてるような口調に、何も言えなくなる。
 圧力で押し込まれるなんて、初めての経験だ。
 しかも、こんなに細くて小さい、年上の女性に。

「きみがそんなに申し訳ないって思うなら、条件をつけてあげるよ。きみは必ず、今までと同じようにここに来て、わたしのためにギターを弾くこと。それでどう?」
「……僕には得しかありません」
「わたしにも、だよ。こういうの、ウィンウィンって言うんでしょ。知ってる?」
「言葉くらいは」
「じゃあいいじゃない。決まり。よろしくね」

 送橋さんは、いつもの疲れた様子が嘘みたいな強気で、僕に手を差し出した。
 こんなに高価なものをもらえないという遠慮と、どうして彼女がそんなことをする必要があるのだろうかという不信感が、彼女の手を握り返すことを躊躇わせていた。

「……信じられないんです」
「何が?」
「僕は決して上手くない。ここで弾いているのだって、誰かに聴いてほしいからじゃなく、単に弾く場所がなかっただけです。聴かせようとすら思っていない僕が、そんな約束、できないです」
「わたしがいいって言ってるんだから、いいじゃん」
「わからないんですよ。送橋さんは、僕のギターの何がいいんですか?」

 その瞬間、送橋さんの意識がここじゃないどこかへと沈んだ。
 少なくとも、僕にはそう見えた。
 僕は、自分の意識をその静かな場所へと運ぶために、ギターを弾いている。
 だけど彼女は、そんなものすら必要としないのかもしれない。

 ふっと小さく息を吐いた後、送橋さんはこう言った。

「きみの演奏にはね、どこか死の匂いがするの」

 どくんと、胸の奥で心臓が呻いた。

「初めて聴いた時から思ってた。きみは生きているもののために弾いていないって。誰かに聴いてほしいとも思っていないし、自分が気持ちよくなるためでもない。下手すれば、生きたいとすら思っていないような。でも、何かを探してるんだって思った。だとすれば、それは何なんだろうって思ったの」

 送橋さんの言葉は、ギターを手に入れてからの僕がやってきたことを言い当てられたように思えた。
 ギターを弾くことは、僕が踏み越えられず、母があっさりと踏み越えたその線に迫るための営為で、誰かに理解されるとも、されたいとも思っていなかった。
 だけど、こうして言い当てられてみると、これまでに感じたことのない感情が湧き上がってきた。
 恥ずかしさなのかもしれないし、喜びなのかもしれない。
 悲しみや怒り、恐ろしさでもあり、そのどれでもない。
 ただ一つ、僕の魂だけが、身体の奥底にある闇の中で、静かにその身を震わせていた。

「僕、中学の時に母親が死んで。僕も同じように事故に遭ったのに、母は呆気なく死んで、僕だけがなぜか生き残って。親父にも捨てられて」

 僕は何を話そうとしているのだろう。
 自分で自分の言葉が制御できない。
 支離滅裂で、自分でも何を言っているのかがわからない。

「知りたいんです、死ぬってなんなのか。どういうことなのかって。母はどこに行ったのか、僕はどこに行くはずだったのかって。僕にとってギターはその手段なんです。それ以上でもそれ以下でもないんです」

 目の前の景色が滲んできた。
 僕はこの人の前で泣いてしまうのだろうか。
 そんなこと、嫌で嫌でたまらないのに。
 だけど、涙も、口も、自分の意思では止められそうになかった。

「ごめんなさい、よくわからないこと言ってますよね」
「ううん」

 ふわっと覆われた。
 送橋さんに頭を丸ごと抱き締められたのだと気づいたのは、数秒経ってからだった。

「わかるよ。わかる」

 出まかせなんかじゃない。そう思った。

「こういうのはどう?」

 僕を抱え込んだまま、送橋さんは言った。

「あのギターはきみに貸してあげる」
「いつまで、ですか?」
「きみが死ぬまで」
「え?」

 送橋さんは僕から身体をそろりと離し、柔らかく微笑んだ。

「きみが死んだら――死ぬってことがどういうことなのか、理解できたら返して。それで、どう?」
「……はい」

 僕は一度だけ頷いた。

「よろしくね、末永く」

 もう一度、差し出された手。
 今度は、ちゃんと握ることができた。

 これは――契約だ。

 送橋さんと、僕との。

 この世で誰も見たことのない暗闇の世界を見に行くための。
 ふと場面が切り替わった。

 そこまでの世界がどこで途切れたのかもわからない。
 切れ目すらわからないくらい、シームレスに。

 その瞬間、僕が思い浮かべたのは、〈死〉と〈無〉の類似性だった。
 僕が思い描く〈死〉のイメージは、〈無〉と限りなく似通っている。

 何もないこと。
 酸素も、オゾンも、ダークマターすら存在しない本当の〈無〉。
 フィルムとフィルムをただつなぎ合わせたような無造作な手付きにこそ、〈無〉の本当の姿がある。

 〈無〉とは、そこにあったことすら気づけないものなのだ。
 『無い』ものを『有る』ことにはできない。
 なぜならそれは『無い』からだ。
 一秒ごとのその隙間にどれだけの〈無〉があったとしても、『有る』側の存在である僕らは、それを決して認識することはできない。
 認識できてしまっては、それはもう既に〈無〉ではない。
 〈無〉と〈有〉の間には、容易には踏み越えられない境目がある。
 そしてそれは、僕が探し求めている境界線とひどく似通っている。
 まるで、双子の兄弟のように。

 いずれにしても、その境目で揺蕩っているような存在の僕が言うことでもないのかもしれないけど。



 僕にはもう目なんてないのに、窓の外は目が潰れてしまいそうなほど明るかった。
 僕は四角い〈部屋〉の前面と背面につけられたカメラから世界を覗き込んでいた。
 眼前には、瞳に涙を溜めた送橋さんがいる。

『送橋さん?』

 呼びかけると、僕を抱えたまま、枕に顔を埋めてわんわん泣いた。
 落ち着いてから話を聞くと、どうやら僕の魂が天に召されてしまったと思ったのだそうだ。

「急にいなくならないで」
『すみません』

 昨夜というか今朝この家に戻ってきてから、即座に眠りに落ちた送橋さんの隣で、しばらくの間は家の周りにいる小鳥の囀りを聞いていた。
 しかし、次の瞬間には意識が丸ごと削り取られ、気づいた時には目の前に泣き顔の送橋さんがいた。

『でも、どうして意識が途切れたんだろう』
「充電切れだと思う。昨日、ほとんど充電切れかけてたから」

 送橋さんは僕を持ち上げて、鏡の前に差し出した。
 鏡に映った僕の表面には、電池マークの隣に『2%』と表示されている。

『つまり、僕は充電がないと意識を保てないってことですか』
「……怖いね」
『別に。眠るのとほとんど一緒ですし』

 事実、そうだ。
 生きていた頃だって、限界まで疲れ切った時にはまるで電源を落とすかのように意識が途切れて、次の瞬間にはもう朝になっているものだ。
 そんな経験は枚挙に暇がない。

「でも、わたしが電源を切って二度と起動しなかったら、きみはもう永遠に意識が戻らないってことでしょ。怖くないの」

 言葉とは裏腹に、送橋さんの表情に余裕はなかった。
 その言葉は脅しどころか、いつか訪れる親の死に怯える子どものようだった。

『怖くないですよ。眠るのと同じです。眠りに就く時、翌朝目覚める保証があるわけでもない。でも、眠らないわけにはいかない。眠らなければそれこそ死んでしまう。だから人間は眠ることを恐怖しない。その恐怖を感知しないのは、生き物に備え付けられた安全装置のようなものなんじゃないかって。だから――』
「でも、わたしはきみを殺したんだよ」
『それは――』

 言いかけて、やめた。
 昨夜、送橋さんは同じことを言っていた。
 僕自身、いつそうなってもおかしくないと思って日々を過ごしてきたのは間違いない。
 しかし、僕には肝心の記憶が欠けていた。
 つまりは、送橋さんに殺された瞬間の記憶が。
 記憶の欠落――あるいは〈無〉。

 思い出すのは、あの小学校の帰り道だ。
 車に轢かれて何日間か生死の境を彷徨った日もそうだった。
 その瞬間の、数時間前ぐらいからの記憶がすっぽりと抜け落ちた。
 気づいたら病院のベッドの上にいて、最も死に近づいた瞬間の記憶は、綺麗に網の目から零れ落ちてしまった。

 あの時と同じだとしたら、僕はまた死に最接近した瞬間を取り逃してしまったことになる。
 口惜しいとは思えど、怖いという気持ちは浮かんでこなかった。
 ともすれば、何かを恐ろしいと感じる器官は、身体のどこかにあるのかもしれない。
 魂だけの存在になってしまった僕に恐怖がないとしたら、恐怖を感じる機能は魂に備え付けられたものではないからなのかもしれない――と。

「……ねえ」

 不安そうな声。僕はまた黙り込んでしまったらしい。

『すみません。また余計なことを考えてました』
「余計なことって?」
『……大したことじゃないですよ』

 何を話せば、僕の言葉は送橋さんの涙を拭うハンカチの代わりになれるのだろう。
 僕にはもう手はないし、ギターを弾くこともできない。
 僕が送橋さんの涙を拭うには、言葉を使う他ない。

『怖くはないですよ。僕は、何も変わりはしません。それに、送橋さんの手にかかるなら、本望ですから』

 送橋さんの表情は読めない。何かを言おうとして、やめて、彼女は僕をベッドの脇にある非接触式の充電台の上に置いた。

「ご飯、準備してくるね。食べたら出かけよう」
『わかりました』

 彼女はすぐ僕に背中を向けてしまった。
 僕の言葉が少しでも彼女の慰めになっていればいいなとは思うけれど、僕はそこまで言葉がうまい方でもないし、本当のところ、彼女がどんな言葉を必要としているのかもわからない。



 家を出る直前、送橋さんは「ちょっと試してみていい?」と言って、がさがさと棚の中を漁って小さなケースを持ってきた。

「音楽とか聞かないし、あんま使ってなかったんだけどさ」

 かぱっと開けると中にはワイヤレスイヤホンが入っていた。
 送橋さんはそれを耳にねじ込むと、あーでもないこーでもないと僕をごちゃごちゃいじり始めた。

「これがあれば、電車の中でもきみの声を聞けるかなって」

 なるほど。
 僕の声はスマホのスピーカーから音声出力されているのだと、送橋さんは言っていた。
 これを接続すれば、僕の声はイヤホンから流れることになるだろう。

「何か喋ってみて」
『あー、あー、マイクテス、マイクテス』
「……だめじゃん」

 送橋さんはがっくりと肩を落とす。

『接続ができてないってことですか?』
「わかんない。わたし、そういうの弱いんよ……」
『ちょっと、僕を鏡に映してくれます?』

 のそりと立ち上がって姿見に突きつけられる。
 やはりインジケータにはBluetoothのマークは灯っていなかった。

『これ、Bluetooth起動できてないですよ。設定開いてもらえます?』
「設定って?」
『アプリ一覧の中にある、ぎざぎざの歯車みたいなやつです』

 いくつかの操作の指示をして、ようやく接続ができた。
 僕の声がこの〈部屋〉から発せられなくなる。
 スマホのマイクが僕の声を拾わなくなる。
 代わりに、Bluetoothイヤホンを通じて僕の声と、送橋さんの呼吸音が聞こえてきた。

「うん、いい感じ。きみは?」
『大丈夫です。でも、なんかすごく、さっきよりも送橋さんが近い感じがしますね』
「……馬鹿言ってないで、行くよ」

 送橋さんは上着のポケットに僕を収めた。
 ポケットは二重になっていて、その小さい方に入ると、スマホのカメラがポケットから頭を出す形になる。

「周り、見えた方がいいでしょ」
『ありがとうございます』

 僕のカメラをちょこんと出したまま、送橋さんは部屋を出た。
 送橋さんの家は、上前津から徒歩五分くらいのところにある築四十年くらいの古びたアパートだ。
 何度も来たので、駅からのルートはもう覚えてしまっている。
 この身体になってもまだ忘れていない。名城線右回りに乗り、大曽根へ。

 栄を通り過ぎるところで、送橋さんとギターを買いに行った日のことを思い出してしまう。
 僕たち二人が始まった日。
 あるいは、二人が終わり始めた日。

「懐かしいね」

 ぼそりと送橋さんが呟いた。
 平日昼間の名城線の人口密度はそこまで高くない。
 僕らの周りに、送橋さんの呟きを聞き咎める人はいない。

『僕もちょうど、その日のことを思い出していました』

 あれから幾度となく、送橋さんと名城線に乗った。
 だけど、栄を通り過ぎる時に思い出すのは、決まってギターを買ったあの日だ。
 あの日の僕は、買ったばかりの高価なギターをわけもわからず運ぶことしかできなかった。

「わたし、きみを誘わなければよかったのかもね」

 消え入りそうな呟きを、無駄に高性能なマイクがいともたやすく集音する。
 聞かなかったふりはできそうにもない。

 あの時、僕が送橋さんの誘いに乗っていなければどうなっていただろう。
 そんな、どうしようもないことを考える。
 無為な思考を繋いでいけば、僕にとっての分岐点はまだ他にもありそうだった。

 僕が送橋さんを助けに行かなければ。
 そもそも、大曽根などでギターを弾かなければ。
 父にギターがほしいなどと言わなければ。
 あの小学生の日に、轢かれてそのまま死ねていたら。

 僕の魂は、どうなっていたのだろうか。

『よかったと思ってますよ。あの日、送橋さんの誘いにちゃんと乗ることができて』
「どうして?」
『送橋さんのおかげで、僕はちゃんと生きることができた。僕はきっと、一人だったら、ちゃんとは生きられなかった』
「ちゃんと生きるって何?」
『ちゃんとは、ちゃんとです』

 命にとって重要な要素は、きっと長さではないと思う。
 密度でもない。
 言うなれば、巡り合わせだ。
 僕はきっと、巡り合うべき時に、巡り合うべき人に出会った。
 ちゃんと生きるとは、たぶんそういうことだ。

「子どもみたい」
『僕は大人です』

 少なくとも、ちゃんと生きた僕は送橋さんよりは大人なんじゃないかと密かに思っている。
 しっかりした大人のように見えるけど、本当の送橋さんは案外子どもっぽくて、寂しがりやなのだ。



 大曽根から十五分ほど、国道19号線を春日井方面へと歩いていくと、僕のアパートが見えてくる。
 父はなぜこのアパートを選んだのだろうか。
 僕の意見は一切求められなかったし、特別便利なわけでもない。
 厳格なように見えて、実はいい加減なところがある父なので、きっと適当に選んだのだろう。
 いいところと言えば、少し歩けばアピタがあるので買い物には困らないことと、名古屋ドームまで歩いて行けることぐらいだ。
 僕は野球に興味がないので、後者は僕の生活向上に全く寄与しないのだけれど。

 送橋さんが錆びた鉄骨階段を登ると、一足ごとに怖くなるような軋みが僕にも聞こえてくる。
 セキュリティーのようなものは当然のように備えられてはいない。

「鍵っていつものとこ?」
『はい』

 送橋さんは玄関の郵便受けの中に手を入れてごそごそ探ると、まるで手品のように鍵が出てくる。
 郵便受けの内側の、死角になるところにマグネットを取り付けて、容易に貼りつけられるようにしたのだ。
 鍵を失くしがちな僕の、生活改善のための知恵だ。
 セキュリティー性が落ちるのは、やむを得ない代償だと思う。

 鍵を開けて中に入る。
 北向きの窓しかない、ギター以外は何もない部屋だ。

「ちょっと生ごみの匂いがする」
『あ、そういえば捨て忘れてました』
「相変わらずだね」

 勝手知ったるという感じで、送橋さんはカーテンを開け、窓を思いきり開いた。
 鞄を布団の脇に置き、流しの三角コーナーに置き去りにされた生ごみをビニール袋に入れて、きゅっと口を縛る。

「もう出しちゃっていいよね」
『構わないと思います』

 手慣れた様子で家の中のごみを集めていく。
 指定のごみ袋にまとめて、アパートのごみ捨て場に出した。
 ごみを出せる日は決まっているが、そんなものを律儀に守っている住人なんていない。

 この部屋は解約した方がいいのだろうかと一瞬考えて、どうでもいいかと思い直した。
 どうせもう使うことのない僕の口座からお金が引き落とされていくだけだし、その口座には父からの手切れ金のような金が入っている。
 放置してもしばらく問題になることはないだろう。
 それに、切れたら保証人の父に連絡がいくだけのことだ。

 父、か。
 一緒に住んでいる時もほとんど話したことのない父。何の気の迷いか、僕にギターをくれた父。手切れ金のような金と下宿のアパートを用意して僕の人生から姿を消した父。
 そして。
 そして――、何だっただろう?

「また黙ってる」
『あ、いえ』
「考え事が多いね」
『もう考えることしかできませんからね』
「それは確かに、そうだね」

 言ってから、今の物言いは良くなかったんじゃないかと思ったが、送橋さんは特に気にする様子もない。
 部屋の中に戻り、居室の真ん中に仁王立ちして、「さて」と大きく息を吐き出した。

「クローゼットだっけ」
『そうです』
「約束だもんね」

 自分に言い聞かせるような口調だった。
 部屋の入口にある折れ戸を開き、その隅に立てかけてあるギターケースを取り出した。
 敷いたままの布団の上にケースを置き、一つずつ止め具を外していく。
 ケースの中には、送橋さんから借り受けたギターが収められている。
 買ったばかりの時はピカピカしていたのに、今ではあちこちに指紋汚れが付着していて、輝きもかなりくすんでしまっている。

『あまりきれいにしてなくて、すみません』
「いいよ。確か、磨き布みたいなのあったよね」
『クロスならケースの収納に入れてあります』
「おっけー」

 ケースの内側の、赤色にけば立った収納を開けると、真っ赤なギタークロスが買った時のまま入っていた。

「これで磨けばいいんだよね」
『ちゃんと磨くなら、ポリッシャーを使うみたいです。確か、クローゼットに入れっぱなしだったと思います』
「買ったなら磨けばよかったのに」
『すみません』

 そこは、自分がずぼらだったことを認めなくてはならない。
 だけど、僕はギターを弾きたかったのであって、ギターを綺麗なままにしておきたかったわけではない。
 送橋さんはクローゼットからポリッシャーのスプレー缶を取り出してクロスに吹きつけ、丁寧にギターを磨き始めた。

「ここはどうすればいいの?」
『指板は弦外しちゃった方が磨きやすいですよ。外し方わかります?』
「わかんない」

 スマホスタンドに立てかけてもらって、口で頑張って説明してはみたものの、あまり伝わらない。
 途中で面倒くさくなって、

『もうYouTubeで調べればいいのでは?』

 僕を使って『アコースティックギター 弦交換』と検索してもらうと、そこそこ色んな動画があったようだ。
 僕が言葉で教えるよりもスムーズで、少し複雑な気持ちになる。
 ポリッシャーを使って指板やヘッドを磨き、買い置きしてあった交換用の弦を張っていく。
 ほとんど頼られなくなったのは少し寂しかったが、動画が流れている途中で僕が喋ると、動画の音声が途切れてしまうことがわかったので、弦交換が終わるまでおとなしく待つことにした。

「ねえ、このチューナーってやつは?」
『それもクローゼットの中に。黒くて四角いやつです』

 また折れ戸を開け、その中に四つん這いで入っていった。
 最近はずっと耳でチューニングしていたので、チューナーは押し入れで埃を被っている。
 ひょっとしたら電源がつかないかもと思ったが、一応ついたみたいでほっとした。
 慣れない手つきでチューニングする送橋さんを見ていると、ギターを始めたばかりの自分を見るようで、どこか微笑ましい。

「できた」
『おめでとうございます』

 送橋さんは、何も押さえずにしゃらん、しゃらん。
 まるで初めてギターに触った子どものように、開放弦を何度も鳴らした。
 スマホのマイクが集音した音を聞く限りでは、ちゃんとチューニングもできたんじゃないかと思う。
 だけど、自分で弾く時の音と、送橋さんが弾く音はどこか違っている気がした。
 同じギターでも弾く人間が変われば音も変わるし、そもそも僕の耳自体が昔とは違うものになってしまっているから、本当のところはよくわからない。

『約束が果たせてよかったです』
「何言ってんの。これからだよ」

 不穏なことを言う。送橋さんはニヤッと口元を歪め、僕を取り上げてまた元通り上着のポケットに納めた。
 ギターをケースにしまい、チューナーやポリッシャーはなど、ギターに関係しそうなものは残らず鞄にしまいこんだ。

「とりあえず、行こっか」

 鍵は元の場所に戻して、僕らは部屋を出た。
 色々やっているうちに日はもう暮れかけていた。
 大曽根まで片道十五分の道を、ギターを片手にゆっくり歩いていく。
 相当重たいようで、何度も道端に置いては右手をぷらぷらと振っていた。

「手が千切れちゃいそうだよ」
『リュックみたいに背負うタイプのギターケースもありますよ』
「それ、今度買いに行こう」

 普通に歩けば十五分だが、休み休み歩いたら三十分もかかった。
 駅の周辺ではもう何人かのストリートミュージシャンが歌い始めている。
 彼らの歌に足を止める人もちらほらといる。
 僕とは違って、正しい路上ミュージシャンの姿だ。

 送橋さんは、いつも僕が座っている場所にギターケースを置いて座った。
 ギターを取り出して、まるでこれから演奏するかのようにギターを抱える。

『弾くんですか』
「弾けないけどね」
『弾けますよ』
「それはこれからかな」

 僕の部屋でそうしたように、開放弦をしゃらんと鳴らした。
 その音に足を止める人は、今のところ一人もいない。

「これが、枯野くんが見てた風景なんだね」

 送橋さんは開放弦を鳴らし続けている。
 そのせいで、その言葉がまるで歌っているように聞こえた。

『大したものじゃないでしょう?』
「そんなことないよ。あっちとこっちじゃ、全然違う」
『そうですか?』
「誰もこっち見ないね」
『そりゃそうですよ』

 この駅には嫌というほどミュージシャンがいる。
 男性ばかりじゃなく、女性も。
 ただギターを抱えているだけの僕を見てくれる人なんていない。

『幽霊になったみたい』

 そうですねと、本当に幽霊みたいなものになった僕が言うのも変だったので、しばらく黙ったままでいた。
 無関心に流れる群衆に何かを訴えかけようとするかのように、開放弦の響きは徐々に強くなる。
 誰一人として、こちらに注意を向ける人はいない。
 幽霊、あるいは透明人間。
 僕はそういうものになりたかったのかもしれないと、今さらながらに思う。
 開放弦が鳴る。
 何度も、何度も、何度も――

「あああああぁぁぁあぁあぁあぁ―――――っ!!」

 家路を急ぐ人々の目が、一斉に集まった。
 幾人かの足が止まる。
 送橋さんがどんな顔をしているのかは、ポケットの中にいる僕には見えない。

「あー、おかしい」
『どうしたんですか、急に』
「幽霊だって、たまには叫ぶんだぞって」
『送橋さんは幽霊じゃないですよね』
「たぶんね」

 送橋さんが置いた留保の意味について、僕は考えを巡らせた。
 幽霊と幽霊でないものの間には、とてつもなく深い溝がある。
 幽霊でないものは幽霊になれるかもしれない。
 でも幽霊は、幽霊でないものになるわけにはいかない。

「……教えてよ」
『え?』
「もう、やっぱり聞いてなかった」

 視界が揺れる。送橋さんの眼の前に持ち上げられた。
 からかうような口調とともに頬を膨らませた送橋さんがそこにはいる。

「だから、教えてくれない? きみが弾いてた曲。わたし、弾いてみたい。ここで」
『でも……』

 僕が弾いていたのは全て手癖のようなオリジナルで、曲と言えるような展開もない。
 メロディーだってその場で変わるし、歌詞だってない。
 そんなものに価値があるだなんて、到底思えない。

「それ、きみが教えてくれるしかないやつだからね。きみの演奏は、YouTubeにはあがってないんだから」
『それは、そうですけど。でも、結構大変だと思いますよ』

 それは技術的に難しいというよりは、僕が言葉だけで曲のイメージを伝えるのが難しいという意味だった。
 弦交換だって僕が話すよりもYouTubeで検索する方が早い。
 口でメロディーや奏法を説明していたら、一体どれほどの時間がかかるだろうか。

「いいよ、頑張る。どうせ暇潰しだもん」
『暇潰し?』
「そう。わたしが幽霊になっちゃうまでの」

 有無を言わせぬ調子に、僕は口をつぐむしかなかった。
 それこそ、先に幽霊になってしまった僕が彼女に言えることなど何もない。

 送橋さんはまた僕をポケットにしまい、開放弦を鳴らすだけの簡単な作業に戻った。
 彼女の叫びの余波はもうすっかり消え、ゾンビみたいに無関心な群衆は、それぞれの乗降場へと流れていく。
 その流れの先にあるものを思い、僕はまた暗い淵の底を幻視した。
 まるで死神が命を灯した蝋燭を吹き消すように、駅の照明がふっと落ちた。
 隣の送橋さんは「わっ」とその身を微かに竦ませる。

 ギターはもうケースに収納した後だった。
 前のギターのようなことになってもつまらないので、弾き終わったらすぐに片づけるように心がけていた。
 だけど、もしも本当にそう思っているなら、弾き終わったらすぐにこの場を立ち去ればいい。
 そうしないのは、僕の隣に送橋さんが座っているからだ。

 彼女は、僕が集中している間は決して近づいてこない。
 駅の柱に身体を預けて、遠巻きにこちらを眺めている。
 今日はもうこれ以上潜れないと思い始めた頃にそろそろと近づいてきて、僕の隣にちょこんと座る。
 そのタイミングの完璧さは、まるで僕の気持ちを全て読み取っているかのようだった。
 ギターをケースにしまい、片付けが完了したところで「お疲れ様」と、ブラック無糖の缶コーヒーを僕に差し出してくる。
 送橋さんが飲むのは決まってミルク入りの微糖だ。
 そこからずっと、僕らは話し続ける。
 駅の照明が消え、乗降客の流れも徐々に少なくなって、周囲に飲んだくれか半グレくらいしかいなくなっても、まだ居座り続ける。
 それが、僕と送橋さんの路上だった。

「大丈夫なんですか?」
「何が?」
「だって今日、平日だし」
「いつものことじゃない」
「それはそうですけど」

 この人はまともに社会の中で生きていられるのだろうかと、僕は常々不思議に思っていた。
 僕以外の誰かと話しているのなんて一度も見たことがないし、友達から連絡があるような様子もない。
 こんなに高価なギターをポンとくれるのだから、お金には困っていないのだろう。
 でも、お金に困っていないからといって仕事をしているとは限らない。
 親の資産などで、働かなくても死ぬまで食うに困らない人生を送る人間もいる。
 そう疑いたくなるほど、送橋さんの雰囲気は浮世離れしていた。

 僕は送橋さんと色々なことを話したが、彼女は自分のことを一切話さなかった。
 自分の生い立ちとか、出自について話すのはいつも僕で、どれだけ訊ねても、送橋さんははぐらかすばかりだった。
 話す内容だって、実にくだらないことだ。

「人間ってさ、死んだらどうなると思う?」
「その話、もう十回はしてません?」
「いいじゃない。こういう話は何回してもいいんだよ」

 僕がため息をつくと、送橋さんは決まって微笑む。
 いつも夜遅くまで話しているのに、出会ったばかりの頃の疲れた様子はもう見えない。
 まるで絵画にでも描かれそうなほどの完璧な微笑みを浮かべる。

「死とは、無の言い換えなんじゃないかと思うことがあります」

 何度か繰り返した台詞だ。
 それが聞きたかったとばかりに、送橋さんは「うん、うん」と何度も頷き、その度に送橋さんの肩ぐらいまで伸ばした髪が前後に揺れる。

「僕らは生まれてくる前のことを知りません。なぜなら、生まれてくる前、僕らは無かったからです」
「わたしたちは何も無いところから生まれたの?」
「そうです。何も無いところから生まれて、命を使い切ったら無になる。元いたところに戻るんです」
「ふぅん」

 ちっとも納得していない笑顔で、送橋さんは頷く。
 同意する気はこれっぽっちもないからこそ、軽く頷けるのだろう。
 だけど、不思議と虚しさは感じない。

「魂ってあると思う?」
「そもそも、魂が何なのかがわかりません」
「思考っていうのかな、あとは意識?」
「それが魂なんですか?」
「さあ」

 送橋さんはぴょこんと首を傾げた。
 魂も、思考も、意識も、全て人間が勝手に作った言葉だ。
 言葉はただの言葉でしかなく、真実とはかけ離れている可能性もある。

「僕らの思考も行動も、全ては脳みその働きによるものなんじゃないでしょうか。言葉も、感情も、魂も、僕らが『有る』と錯覚してるだけなんじゃないかって。プログラムされた計算機みたいに、そう出力するよう予め決められていたとしたら、僕らに意識や魂なんて、存在するんでしょうか」
「有ると錯覚しているだけで、本当は初めから何もなかった」
「そういうことです」
「じゃあさ、枯野くんはどうしてお母さんの行った先の場所が知りたいの?」

 僕は答えられない。
 死についての問答はいつも、最終的にはそこに辿り着いた。
 理屈で考えれば、魂や霊魂なんて存在しない。
 ただ決められた法則に従って動くロボット――それが人間の本質なんだとは思う。
 それでも僕らは死んでしまった人の行く先を考えずにはいられないし、死んだ人のために祈りを捧げるのをやめられない。
 それは、自分たちの命が特別なものだと信じたい――そんな、悲鳴のような祈りだ。

 ふふっと、送橋さんは小さく息を吹き出した。
 いわば彼女の勝利宣言のようなものだ。
 ただ負けてしまうのが嫌で、半ば凌辱されたような気持ちで、言葉を続ける。

「……嫌なんですよ。母が先に行ったのが、そんな風に何も無い、寂しいところだなんて」
「じゃあ、やっぱり魂はあの世はある?」
「わかりません。理屈で考えれば信じる理由はありません。でも僕の心は全てが理屈でできてるわけじゃない」
「そういうところなのかな。わたしが枯野くんのギターに惹かれるの」

 送橋さんは前に置いたギターケースの上に、人差し指をつつつと滑らせた。

「なんか、きみのギターは引き裂かれてる感じがするんだよね。どっちつかずっていうか。絶賛迷子中っていうか」
「……すみません」
「いや、駄目出しじゃなくて。だから、好きなんだよ。わたしもそうだもん。一人で勝手に答え出してる人なんてさ、怖くて近づきたくないじゃん。迷ってる人だからこそ、一緒にいたいって思う。一緒にどこまでも迷ってくれそうだから」
「迷ってるんですか?」
「わたしの人生には迷ってる時しかないよ」

 思わず笑ってしまった。
 こんな風に、同じ目線で笑い合える人なんて、僕の人生には一人もいなかった。
 迷っている自覚もなかったが、送橋さんが一緒なら、迷うのも悪くはないように思えた。

 頭上のJRが轟音とともに通り過ぎていく。
 終電はもうすぐ終わってしまう。
 大曽根から十五分のところに住んでいる僕は歩けばいいが、送橋さんはいつもどこへともなく消えていく。
 まさか毎回タクシー使ってるわけでもないだろうが、たまには終電がなくなる前に帰った方がいいんじゃないだろうか。

「そろそろ帰った方がいいんじゃないですか。終電まだ残ってるみたいですし」
「えええ、まだ話そうよ」
「明日も仕事ですよね?」
「気の持ちようだよ」

 大人になると、仕事は気の持ちようでなんとかなるのだろうか。
 父のことを思い返すと信じられないが、父のような生き方がこの世の中の主流とも思えない。
 父と送橋さんのどちらがより普通に近いのか、僕にはわからない。

「ねえ、これからヒマ?」
「この後、家で眠るだけという意味では、ヒマですけど」

 路上以外では唯一の予定である倉庫バイトも、明日は休みだ。

「きみも一緒に来てくれるなら帰ってあげる」
「送れってことですか?」
「そう言われるとなんか照れるね」
「まあ……別に構いません」

 送橋さんの家がどこにあるのかは知らないが、送るのは別に吝かではない。
 僕も一応男なのだし、女性の送橋さんを守る義務が、男の僕にはあるだろう。

「じゃあ、行きましょう。地下鉄ですか?」
「乗らないよ?」
「え?」

 送橋さんはニヤリと笑って、駅の向こう側を指さした。

「きみもまだまだ若いんだから、歩かなきゃ」

 今さら『やっぱりやめます』とは言えそうにもなかった。



 送橋さんの家は、上前津あたりにあるらしい。
 国道十九号線と四十一号線がぶつかる高岳交差点辺りで教えてもらった。
 最初に教えてもらっていたら、送ることに同意はしなかっただろう。

「あと半分くらいかな。ファイト!」

 無責任な励ましの声。
 鞄を肩にたすき掛けした送橋さんは身軽だが、僕は片手に重たいギターケースを抱えている。
 何度も持ち替えた両手は、攣りそうなくらいに痛い。
 どうして家に置いてから来なかったのだろうと何度も悔やんだ。

「重そうだね」
「持ちます?」
「それはまだ枯野くんの物だしねえ」

 このギターは借り物で、僕が死んだら送橋さんに返す――そういう約束をしていたことを思い出した。
 忘れていたわけではないが、延滞料の発生しないレンタルなんて、もらったのとほとんど変わらない。

「返しましょうか」
「きみが死んだらね。それ以外は受け付けません」

 人間、いつ死ぬかなんてわからないが、とりあえず今のところは死ぬ予定はない。
 大きなため息をつくと、送橋さんはさもおかしそうにケラケラと笑った。

「実はね、大曽根からはいつも歩いて帰ってるんだよ。すごくない?」
「すごいです」

 素直に感心した。
 運動は好きじゃないので、必要な移動以外の散歩なんてしたことがない。
 しかも、大曽根から上前津までだなんて。
 こんな距離を歩く根気が人間に備わっていることすら信じがたかった。

「一時間半くらいかな。きみと別れてから、いつもこうやってぶらぶら歩いて帰るの」
「歩くの、好きなんですか?」
「夜はね。昼の街は嫌い。ごみごみしてうるさいもん」

 国道を行く車の数も減り、建物の灯りもまばらで、僕らのように歩いている人すらほとんど見ない。
 確かに、昼の街と比べたら静かなのは間違いない。

「でも、静か過ぎるのもだめなんだ。余計なこと考えちゃうから」
「余計なことって?」
「考える必要のないこと」

 具体的なことは言わないと、端から決めている口ぶりだった。
 僕も、わざわざ突っ込んで訊こうとは思わない。

「いつもこのぐらい静かだったらいいのに。真っ暗闇でもなくて、目を凝らさなくても周りが見えるくらいの暗さがいい。そう思わない?」
「どっちつかずがいい――ってことですか?」
「そうそう! そういうこと!」

 送橋さんはバンバンと僕の背中を叩いてくるので、思わずギターを取り落としそうになった。
 ケホケホと咳き込みながら非難がましい目で見ると、「ごめんごめん」と笑った。

「小さい頃ね、わたし、空の上には天国があるって信じてたんだ」

 手を後ろに組み、大きく背を反らせるようにして星を見上げた。
 送橋さんに倣って空を仰ぐと、高架とビルの隙間に星が光っている。
 広い国道の向こう側には光の消えたパチンコ屋と風俗店の看板がある。

「天国では、みんな幸せに暮らしてる。空からこっちを眺めて、自分の子どもや孫が元気にやってるかなー、なんて。そんな風にいつまでも幸せに暮らしてるの」

 それは、誰もが一度は思い描くような天国じゃないだろうか。
 僕もそういうものを想像したことがある。

「天国には苦しいことや悲しいことはないんでしょうか」
「ないよ。そういうくだらないものは全部、下界にしかないの。誰かと自分を比べて悲しくなったりもしない。だって、一生懸命に生きた命だってことは誰もが同じなんだもん。みんな平等で、幸せな世界」
「行きたくなっちゃいますね」

 ほんの軽口のつもりだったのに、送橋さんは口が利けなくなってしまったかのように黙り込んだ。
 ざっ、ざっ、という互いの足音と、車のエンジン音。
 間の抜けた信号の歩行音楽。
 ギターケースが軋む音まで、やけに大きく聞こえる。

「宇宙にも終わりがあるって知ってる?」

 長い横断歩道を駆け足で渡り終え、若宮大通を右に折れた辺りで、送橋さんは口を開いた。

「考えたこともないです」
「地球や太陽にだって寿命があるんだよ。少しずつ太陽は大きくなって、やがては地球を飲み込んでしまう。それが地球の終わり。そして、太陽もいつかは死ぬ。途方もない時間をかけてね。宇宙も、それと同じなんだって」

 送橋さんは空を見上げ続けている。
 その目には宇宙の終わりが見えていると言われたら信じてしまいそうだ。

「宇宙って、どんな風に終わるんですか?」
「わかんない。仮説はあるみたいだけどね。宇宙が持ってるエネルギーが全て尽きてしまうとか、誰にも見えないくらいちっちゃくなっちゃうとか、バラバラになっちゃうとか。宇宙だって終わっちゃうんだから、天国だってきっとそうなんだろうなって思ったの。後には、きっと何も残らない。無だけが残るんだ」

 それは、僕の直感と似通っている。
 『無い』ものは認識しようがない。だってそれは『無い』のだから。

「最終的には何もなくなっちゃうんだから、わたしたちが生きてる意味だって、きっとないんだろうね」
「そういうのって、中学くらいで卒業するって言いません?」
「それ、きみが言う?」

 乾いた笑いぐらいしか返すものがなかった。

「全部、なくなるの。人の歴史も、生きた証も、偉大な作品も、くだらない記録も、全部。最後は太陽にのまれて燃えるし、宇宙の終わりと一緒に消えてなくなる。後には何も残らない。時間さえも流れなくなった世界だけが残る。〈無〉だけが、〈有〉るの」
「無いものが有るって、変な物言いですね」
「そう? きみならわかってくれるかもって、思ってるんだけど」

 ごうっ――と、歩道にいるのも怖くなるようなスピードで車が走り抜けていく。
 後には何も音のない国道だけが残る。
 無音の国道を歩きながら、僕は小学生の頃に見たものを思い浮かべていた。
 ふっと途切れた記憶と、気づいたら何日も時間が過ぎていたこと。
 そこには〈無〉が横たわっていたんだと思い知らされた。
 あの時、僕の意識はこの世界から消えていた。世界に本当のものがたった一つあるとしたら、あの日に触れた冷たい感触なのだろうと思った。

 〈無〉だけが、〈有〉る。

 その矛盾に満ちた言葉が、すっと胸に溶けていく。
 溶け残ったその手触りに、きっとこれは僕がずっと探しているものなんだろうと思った。
 生涯触り得ないもの。
 触れた瞬間、僕らは〈無〉そのものになってしまう。

「怖い?」
「わからないです」

 あまりにも途方もなくて、想像することすら許されないような気がした。
 本当の闇を、僕はきっと知らないのだろう。

「けど、触ってみたいとは思います。僕がギターを弾くのも、たぶんそのためなので」
「そう」

 目の前には広い道路と横断歩道があった。
 久屋大通に差し掛かっている。
 右手の奥には百貨店が軒を連ねる大津通がある。
 その向こうには、このギターを手に入れた楽器店があったのを僕はよく覚えている。

「それっ」

 軽い合図とともに、僕らは走り出した。
 ケースの中でギターが揺れている。
 信号は赤のままだ。
 でも、百メートルはある道路に、車は一台も走っていない。
 まるで、この一瞬のうちに人が全て死に絶えてしまったみたいだ。
 赤い一つ目玉のような歩行者用信号が、ぱっと青に変わる。
 その、赤が消える瞬間を、僕は見逃してしまう。

 しばらく行くと、送橋さんは細い道に折れていった。
 何もわからないままついていくと、あるオートロックのマンションの前で、彼女は立ち止まった。

「ここですか?」
「うん」
「じゃあ、また明日」

 何もなく背中を向けようとした瞬間、ギターを持っていない左手をぎゅっと掴まれた。

「上がっていきなよ」
「でも」
「もう遅いしさ」

 女性の部屋に簡単に上がり込んではいけない。
 世間知らずの僕だったが、そのぐらいの常識は持ち合わせていた。
 積極的に上がり込みたいとも思っていなかったし、ほんの少しの期待もなかった。
 一般的には、あまり信じてもらえないかもしれないけど。

「取って食いやしないから」
「美味しそうに見えますか?」
「ちょっとはね」

 目尻を擦りながら泣き笑いする送橋さんになら、本当に食べられたとしても後悔はないのかもしれない。



 何もない部屋だな、と思った。
 女性の部屋に対する感想としては失礼にあたるのかもしれないけど。

「ゆっくりしてね」

 とりあえず邪魔にならないところにギターケースを置き、ローテーブルの両脇に置かれたクッションのうち一つに座った。
 送橋さんは、すぐにキッチンの方に引っ込んでしまって、僕は所在なく座っていることしかできなかった。
 その奥に鎮座しているベッドを見てはいけないような気がして目を逸らしていたが、注意を向けざるを得ないほどの吸引力を、そのベッドは有していた。
 シーツも枕も、とても綺麗に整えられていて、まるでベッドメイキングが入った後のホテル客室みたいだった。
 ホテルなんて、母が生きていた時に一度泊まっただけなのだけれど。

 送橋さんは、茶色い液体が入った瓶と氷、空のグラスを二つ載せたトレイを持ってリビングに戻ってきた。
 着替えも済んでいた。
 柔らかい毛皮のような、ふわふわした薄ピンクの部屋着はまるで毛を刈られる前の羊のようだった。
 ボトムは短くて、白い太ももが惜しげもなく目の前に放り出されている。
 あまり凝視しないようにしながら、トレイの上の液体を指差した。

「なんですか、それ」
「ウィスキー。飲んだことある?」
「アルコール自体、初めてです」
「じゃあ、これが初体験だ」

 送橋さんは手際よく二つのグラスに氷を入れて、ウィスキーを注ぎ、シルバーの棒でさっとかき回して、一つを僕の方に差し出した。

「乾杯」

 送橋さんが小さくグラスを掲げたので、それに倣う。
 かちん、とグラスが鳴った。
 アルコールなんて口にしたこともなかったので、恐る恐る一口だけ含むと、舌が焼けるように熱くなった。

「おいしい?」
「ひりひりします」

 ちびりちびりと飲んでいくうちに、徐々に刺激にも慣れていった。
 グラスが半分以下にまで減ると、送橋さんは嬉しそうにまた茶色の液体を注いできた。

「いけるクチだ」
「ふわふわしてきました」

 身体が火照ってきた。
 頬が熱い。
 さっきまで歩いてきたせいもあって、ジーンズの尻が湿っている。
 少しだけ腰を持ち上げて、下着と肌の間に空気を入れていると、

「なんか、もじもじしてる」

 と笑われた。

「お酒、好き?」
「わかりません。初めて飲んだので。でも、今のところそこまで悪くないです」
「よかった」

 送橋さんの目がとろんとしてきた。
 そのままグラスを傾けるので、僕もそれに倣う。

 不意に父のことを思い出した。
 父は酒飲みだったが、家では決して飲まなかった。
 「私が付き合わないから」と母は言っていたが、僕にはその意味があまりよくわからなかった。
 飲みたいなら、一人で飲めばいいじゃないか。
 家では飲まず、わざわざ外で飲んで、アルコールの匂いをぷんぷんさせながら帰ってくる父の背中に、心の中ではいつもそんな言葉を投げつけていた。
 だけど、こうして送橋さんと一緒に飲んでみると、母の言葉の意味が少しだけわかった気がした。

「どうしたの?」
「いえ、なんでも」
「言いなよ」

 ずいっと前に出て、またグラスにウィスキーを注いだ。
 なみなみとしていて、飲み切れるか不安な量だった。
 言うかどうか迷ったが、結局言うことにした。
 言うか言わないかの判断が曖昧になっている。

「僕の父親、家では酒を飲まなくて、それがどうしてなのか、わからなかったんですけど、今日、送橋さんと一緒に飲んで、なんとなくわかった気がして」
「どうしてなの?」

 丸いローテーブルの外周を伝うようにして、送橋さんが徐々に近づいてくる。

「一人でお酒を飲むのって、寂しいんじゃないかって。僕の母はお酒が飲めない人でしたから。父は、一人だけで酔っ払うのが寂しかったから、家ではお酒を飲まなかったんじゃないかって、そう思ったんです」

 自分で口にして、少しだけ笑いそうになった。
 寂しい?
 あの父が?
 僕を捨てた人間が、寂しいなんて人並みの感情を持っているなど、考えるだけでおかしかった。

「笑ってるの?」
「なんか、おかしくて」

 送橋さんとの距離はさらに縮まっていた。
 路上で隣に座っている時よりも、さらに。
 送橋さんの太ももと、僕のそれとの距離はほとんどなかった。
 見ないようにして、グラスに残ったウィスキーを一気に飲み干した。
 熱の塊が、胃の底からせり上がってくるようだった。

「おかしくないよ」
「何が」
「寂しいんだよ、一人でお酒を飲むのは」
「送橋さんも?」
「わたしだって、そう」

 送橋さんの顔が、目が、唇が僕に近づいてきた。
 アルコールに残らずやられた僕の脳細胞は、送橋さんの唇が僕のと重なるまで、目の前で起きていることを何一つ理解しようとはしなかった。
 アルコールを含んだ呼気が鼻腔をくすぐる。
 こつんと額と額が当たる。
 微かな熱が頬をかすめた。

「枯野くんは、寂しくないの?」
「わからないです」
「わたしは、寂しいよ。寂しくて、寂しくて、おかしくなりそうなくらい」

 送橋さんの圧に押され、もつれあうように後ろに倒れた。
 ふかふかのラグマットのおかげか、後頭部は少しも痛まなかった。
 送橋さんの唇が、ついばむように、僕の唇の上を跳ね回る。

 それは、小学生の頃に連れて行ってもらった水族館にいた、掃除好きな小魚たちを思わせた。
 水槽に手を付けると大量に群がってきて、水中に差し入れた手をついばんでくる。「肌のかすが好物なんだよ。この子達は、私たちの肌をきれいにしてくれるんだ」と母は教えてくれた。 近くに掲示されていた看板によると、その魚はドクターフィッシュというのだそうだ。
 取って食いはしないよ、と送橋さんは言っていた。
 だけど僕の唇をついばむ送橋さんは、まるであの日のドクターフィッシュだった。
 送橋さんは、僕の表面にある古くなった肌を食べて、僕を綺麗にしようとしているのかもしれない。
 そしてそれは、送橋さんのためにもなることなのだ。

 唇とは独立した動きとして、送橋さんの手がするするとシャツのボタンに降りてきた。
 見もせずに、ボタンを一つずつ、器用に外していく。
 あっという間にシャツがはだけ、ズボンが降ろされる。
 見惚れてしまうほどに流麗な手つきだった。
 彼女の右手が僕のトランクスを撫でる。

「あはっ」

 送橋さんは玩具を与えられた子どものように笑った。

 そこから先のことはあまりよく覚えていない。
 互いの身体が混ざり合って、スライムになったらこんな風なんじゃないかと思ったことは覚えている。
 送橋さんは周辺の家に聞こえてしまいそうなくらい大きな声を出した。
 僕は何もわからないまま、人間がこういう形をしている意味に任せるしかなかった。

 気がついたら、僕らは二人並んでベッドの上に寝ていた。
 送橋さんは僕の右腕を枕にして、安らかな寝息を立てていた。
 その顔は、僕よりも六歳も年上とは思えないほどにあどけなかった。
 自由になっている左腕で、その柔らかな髪を撫でたくなってしまうほど。
 本当にそうしようかと心の中で迷っていたその時。

(……え?)

 送橋さんは突然すうっと起き上がった。
 まるで重力を感じない動作。
 僕はなぜか寝たふりをしてしまう。
 薄く開けた目の向こうで、送橋さんはゆっくりと僕に跨った。
 部屋の照明は消えている。
 送橋さんがどんな表情をしているのかもわからない。

 なんだろう。
 また続きをするのだろうか。
 彼女は闇に静止したまま動かない。
 まるで時が止まってしまったかのように。
 雲に隠れた月が顔を出したのか、窓からの光が少しだけ増した。
 その光の中にある彼女の表情を見て、僕は身体中が凍りついた。

 何も――なかった。

 空っぽでもなく、真空でもない。
 本当の〈無〉。

 温度すらないその表情に、僕の探していたものはこれだったのだろうかと恐れおののいていたその時、彼女の両手が静かに僕の首に添えられた。
 ほとんど夏だというのに、その手はひどくひんやりとしていて、添えられた首元から凍りついてしまいそうなほどだった。

 送橋さんはゆっくりとその手に体重をかけていった。
 僕の気道が塞がれ、酸素が肺へと送られなくなる。
 手の力もさらに加わった。

 送橋さんはなぜ僕の首を締めているのだろう。
 僕が意識できなかっただけで、何か彼女の気に障ることをしてしまったのだろうか。
 冷静に考えれば、他人の気分を害したからといって、他人の首を締めていいとはならないのだけど、その時の僕は、送橋さんの行動の原因は自分にあるとしか思えなかった。
 その手を受け入れることが自分の義務であり、運命なんじゃないか。

 その瞬間はなかなか訪れなかった。
 僕の意識が途切れなかったところを見ると、送橋さんの手は僕の頸動脈を塞ぐには至っていなかったのだろう。
 息を止めたままでいることぐらいはできる。
 それも限界が近づいた頃、僕の喉は自分の意志に反して、

「う、う」

 とくぐもった声を出した。

 その瞬間、がらんどうだった送橋さんの目に色が戻った。
 魂が戻ってきた――そんな感じだった。
 パッと手を離し、二、三度首を横に振り、顔を覆ってしくしくと泣き始めた。
 急に開いた気道。
 僕は何度か咳き込んだ。

「泣かないでください」
「……だって」

 ぐすぐすと鼻を鳴らす送橋さんは、まるで小学生の女の子のようだった。
 守らなければならないという本能が、僕に送橋さんを抱き締めさせた。
 以前送橋さんがそうしたように、僕の腕と胸で、送橋さんの頭をすっぽりと包み込む。

「どうして首を締めたんですか」

 送橋さんは答えなかった。
 ずっと泣きっぱなしだったから、僕の言葉が届かなかったんじゃないかと思った。
 だけど、もう一度それを口にするのはなぜか嫌だった。
 僕は、首を締めた理由は知りたかったけど、彼女を責めたいとは思っていなかった。

 送橋さんの呼吸が幾分落ち着いてきた頃を見計らって、僕は身体を離そうとした。
 送橋さんはまるでUFOキャッチャーのはさみのように腕を使い、腕の下から胴をぐっと掴んで離そうとしなかった。

「どうしたんですか」
「うまく、話せそうにないから」
「聞きます」
「うまくなくても?」

 頷くと、僕の顎が送橋さんの頭にコツンと当たった。

「うまくなければ聞いてもらえないなら、僕のギターだって聞いてもらえなかったはずです」

 僕と送橋さんの間にあるのはきっと、美しいとか、優れているとか、そういうものではないのだと思う。
 送橋さんが僕のギターを聴くのはそういうことではないし、僕が送橋さんの話を聞くのはそういうことではない。
 送橋さんは何回か鼻をすすった後、寿命を迎える寸前の羽虫のような声を出した。

「落ち着くから」
「首を締めるのが……ですか?」

 送橋さんは頷いた。今度は、送橋さんの頭が僕の顎にごつんとぶつかった。 僕は「なぜ?」と、当然の問いを口にした。腕の中にいる送橋さんが、やけに小さくなる。

「わたしの代わりに、見に行ってくれるんじゃないかって、気がするから」

 僕は「何を?」と口にしかけて、その問いが何の意味もないことに気づき、慌てて飲み込んでいた。

「宇宙すらいつかなくなっちゃうって話、したでしょ」
「はい」

 腕の中の送橋さんは震えていた。
 寒くて震えているというよりは、どこか病的な痙攣を思わせるような震え。

「わたしもね、小学校の高学年くらいの時に父が死んだの。焼き場で焼かれて、骨になったお父さんを見て、そう思ったんだ。怖くて、夜も眠れなくなって、それ以来ずっとそれが怖いの。『無い』のが怖い。命も、意識も、何もなくなってしまうことが怖い。宇宙だって、いつか必ずなくなってしまうんだから」

 その震えを止めたくて、より力を入れて送橋さんを抱き締めた。
 そうしていると、少しずつ震えは小さくなっていったが、それは彼女の恐怖が小さくなったことを意味してはいないのだろうとも思う。
 考えすぎだとか、すぐに忘れてしまうとか、そういう慰めの言葉を彼女は必要としてはいないのだろう。
 彼女を救うのはどんな言葉だろうか。

「天国は、信じられませんか?」
「信じてるし、信じようとしてるよ。だけど、ある時にふっと思うのよ。わたしの心は、この脳みそが潰れたら終わるんだろうって。理屈じゃないものは、理屈に勝てない瞬間がある。そんなもの、本当はないんだって、心のどこかでは思っちゃう。だから――」

 そこで彼女は黙り込んだ。
 その続きは、聞くまでもなかった。
 だけど、送橋さんは続きを口にする。

「だから、きみならって思ったの。きみは、自分から進んでそれを見に行こうとしてるから。きみなら、わたしの代わりに、見に行ってくれるかもって」

 ようやく彼女の震えが止まった。
 そして、考えた。

 僕は、送橋さんの代わりにそれを見に行けるだろうか。
 僕がギターでしていた潜航などとは比べ物にならない。
 崖の辺縁からおっかなびっくり覗き込むだけではだめだ。その淵に身を躍らせたものにしか、それを知る権利は与えられない。
 原液の海の底の底を見に行く覚悟が僕にはあるか。

 僕は、考えた。
 この世に生まれ落ちてから、おそらく一番頭を使って考えたと思う。
 それでも、答えは出せなかった。
 このままでいてはいけないということだけはわかっていた。

「手を」
「……え?」
「いいから」

 僕は送橋さんの両手を取って、僕の首に添え、そのまま後ろに倒れ込んだ。
 さっきまでと同じように、送橋さんが僕を押し倒し、僕の首に体重をかけるような体勢になる。

「本当に見に行けるのか、自信はありません。だけど、たまにこうするぐらいなら」

 送橋さんの目に理解が灯る。

「い、いいの?」
「僕にできることなんて、このくらいですから」

 僕は目を閉じた。
 送橋さんがやりやすいように。

 送橋さんがゆっくりと僕の首に体重をかけていく。
 さっきと同じように、僕の首を通る気道がじわじわと塞がれていく。
 酸素の欠乏。
 深い闇が横たわる谷底への淵に、ほんの少しだけにじり寄ったような感覚があった。

 送橋さんの体勢が少しだけ後ろに傾ぎ、気道が開いていく。
 酸素を求める僕の肺が獣のように咳き込む。
 送橋さんが不安そうな顔で僕の方を見ている。

「送橋さんの役に立てるなら、嬉しいですから」

 大丈夫だと言葉じゃない方法で伝わるように、今までしたことのない笑みを顔中に貼りつけた。
 うまくはできていないだろうけど、僕らの間に必要なものはきっとそういう不純物じゃない。
「来月にはこの部署もなくなってるかもなあ」

 マグカップを片手に、送橋さんの背後を通り過ぎようとした男はため息交じりにそう言った。
 いかにも嘆き節なのに、言葉の端にどこか楽しそうな調子が混ざっているのが不思議だった。
 送橋さんはやりかけた作業を中断し、いかにも面倒くさそうに振り向いた。
 デスクに置かれたままの僕は、その様子を視界の端に捉えている。

「何か用?」
「来月の提案、進んでる?」
「見ての通り」

 男はふむふむと送橋さんのディスプレイを覗き込んだ。
 男は訳知り顔で「半分くらいってとこか」と呟いた。
 僕はいつもデスクの上から送橋さんの作業を眺めているのだが、真っ白なキャンパスの上をカーソルや図形、文字がせわしくなく行き交っているばかりで、進捗状況なんて把握しようもなかった。

「全部〈ExcelBird〉ちゃんが考えてくれるなら、俺らがやってきた仕事って一体なんだったんだろうな」

 男の言葉に構わず、送橋さんは作業に戻った。
 彼の嘆きに、送橋さんは全く興味がないようだった。



 僕が送橋さんのスマホに宿ってから、三か月が過ぎようとしていた。
 ろくに休暇も取らなかった八月が終わり、仕事に追われるばかりの九月が台風に吹き飛ばされて消え、気づけば紅葉の十月が到来していた。

 送橋さんの仕事を一言で言えば、企業が作る商品やキャンペーンを一般に広く伝えるために、キャッチーなイメージや宣伝文句を考えて提案する仕事だ。
 こういうクリエイティブな仕事をしたことのない僕には、仕事の内容が全く想像できなくて、今している作業はこの仕事においてどんな役割を担った工程なのかなど、疑問に思ったことを送橋さんに訊いてしまったりもした。
 送橋さんは「やる気あるね。部下に欲しいくらい」と褒めてくれたけど、結局僕には半分も理解できなかった。

 送橋さんの仕事は、ただ黙々と作業するだけではない。
 同僚と会議をしたり、客先に出向いて会議に出たり……素朴な感想としては、送橋さんの仕事はとにかく会議ばかりだった。
 こういう仕事をしたことのない僕は、何をそんなに話すことがあるのだろうと思ってしまったほどだった。
 そういうことを部屋に戻ってから話すと、送橋さんは何が面白かったのか、手りゅう弾が炸裂するみたいに笑った。

「実はね、あの会議の半分くらいは無駄」
『無駄なんですか』
「そう。仕事をしてない人たちが、仕事をした気になるための会議。だってわたしの作ってるプレゼンシートに、あの人とか、あの人とか、あの人の仕事、入ってる?」
『入ってないように見えます』
「適当だよね」
『そんなことでいいんでしょうか』

 人生のすべてを仕事に注ぎ込んでいたような父を基準に考えると、送橋さんの職場にいる人たちはあまりに適当すぎるように感じた。
 仕事がそんな片手間で済むようなものだったら、僕がここまで放っておかれることもなかったんじゃないか。
 送橋さんはからからと笑い、「いいんだよ」と言った。

「仕事なんてさ、所詮は逃避なんだよ。お金がもらえること以外はテレビゲームと何も変わらない。結局は死ぬまでの暇潰しでしかないんだからさ」



 送橋さんのデスクに寄ってきた男は一方的に話し続け、話し終えると満足したかのように去っていった。
 送橋さんが耳にさしたイヤホンはついに気づかれることはなかった。

『送橋さんの部署って、なくなるんですか?』

 返答はない。
 送橋さんの目はディスプレイから剥がれない。

 僕の声は、送橋さんのイヤホンから流れているはずだ。
 生きていた時は、僕は自分が発した声を自分自身で聞くことができていた。
 だけど、スマホとなった僕は自分の身体を振動させて声を出すわけではない。
 内臓されたマイクは自分自身の声を拾ってはくれない。
 自分の声がどう響いているのかわからないというのは、こんなにも不安になるものなのだと僕は知った。

 話しかけてはいけないのかと黙っていると、送橋さんは後ろに身体を反らせて大きく伸びをした。

「ごめんごめん、話しても大丈夫だよ」
『でも、一人で話してる可哀相な人と思われませんか?』
「聞かれても電話してるんだって思われるだけだし。それに、周りには誰もいないから」

 確かに、僕のカメラが写す範囲においては、送橋さんの周りに人はいない。
 この会社のような、決まった席がないオフィスをフリーアドレスというらしい。
 少し前に送橋さんから聞いた。
 送橋さんのような、席に座っている時はただ黙々と作業する人の周りにはあまり人は寄って来ず、気さくにコミュニケーションをとっていそうな人は、いつも人に囲まれている。
 そんな残酷な二極化は、どこか休み時間の教室を思わせた。
 あからさまに孤立している送橋さんに寄ってくるのは、さっきのひょろっとした顎髭の男くらいだ。

「寂しいやつだって、思ったでしょ」
『いえ、そんなことは』
「顔に出てた」
『今の僕に顔はありません』
「あはは」

 送橋さんは少しだけ笑った。
 家にいても、会社にいても、送橋さんはほとんど笑わない。
 彼女が笑っていると、少しだけ安心する。

「確かに、話すのってヤナくらいだからね」
『さっきの男の人ですか?』
「そ。柳沢っていうの。同期入社でね、お節介焼きなんだ」
『いい人なんですね』
「たまに面倒くさいけどね」

 いい人であるのは否定しなかったが、送橋さんが彼に特別な感情を抱くことはなさそうに思えた。
 そのぐらい、彼女が築いている防壁は高く、強固だ。

「あいつ、この仕事好きだからさ。わたしとは違う」
『何かあったんですか?』

 ――全部〈ExcelBird〉ちゃんが考えてくれるなら、俺らがやってきた仕事って一体なんだったんだろうな。

 嘆き節を漏らした時の彼は、寂しそうな顔をしていた。

『さっきの人が〈ExcelBird〉って言ってたんですけど』
「それはAIのこと」

 AI。
 送橋さんと見たテレビのニュースで、その単語が登場していたことを思い出す。

「わたしたちの仕事って、突き詰めれば誰かの心に届く言葉を捻り出すことだから。でも、そういう言葉を瞬時に、勝手に考えてくれる存在が出てきちゃった。わたしたちには給料を払う必要があるけど、AIに給料を払う必要はない。わたしたちは時間かけてウンウン悩むけど、そいつは瞬時にポンって成果物を出しちゃう。だったら、給料を支払う偉い人はどう考えるかって話」
『AIって言うんですか、それ』
「そう、だね」

 なぜか送橋さんは言葉を濁した。

『AIって、機械なんですか?』
「たぶん」
『機械に、人間の心がわかるんですか?』
「どうなんだろうね。でも、あいつらが一瞬で出力した言葉に、何週間も悩み尽くした人間のアイデアが負けることなんてザラだし。もしかしたら、あいつらはわたしたち以上に人間の心がわかってるのかもって、思っちゃうこと、あるよ」

 送橋さんの言葉には、さっきの彼と同種の虚しさが宿っているような気がした。
 仕事なんて、と送橋さんは言うけど、機械に一瞬で取って代わられるのは内心忸怩たるものがあるのだろう。
 僕は、倉庫で僕の何倍もの荷物を運ぶ機械を見ても悔しくはならないが、それは仕事に掛ける僕の気持ちが足らないからなのかもしれない。

『でも、機械に僕らの気持ちがわかるなんて、変な気がしますね』
「どうして?」
『だって、機械は死なないじゃないですか。死なない存在に、いつか死ぬ存在の気持ちがわかるなんて、嘘っぱちな感じがします』

 送橋さんは目を丸くした後、

「それは確かに、そうかもね」

 と何度か頷いた。

『本当は人間の気持ちなんてわからなくて、わかったふりをしているだけなんじゃないかって』
「もしも彼らが人間を擬態しているだけだとしてもさ、その擬態が本当に見事で、誰にも見破れないくらいだったとしたら、それって人間と何が違うんだろうって思わない?」

 反射的に反論しようとして、よくよく考えると、その問いに答えるのは相当難しいことに気づいた。
 見破る方法がない偽物は、本物と何も変わらない。
 見破ることができないからだ。

「スワンプマンって聞いたことある?」
『ないです』

 身体があれば首を振っているところだった。
 生憎僕に身体はない。

「ある人がハイキングに行って、運悪く雷に打たれてしまった。彼は黒焦げになって死んでしまうんだけど、そこで奇跡が起こる。彼の足元にあった泥と雷が化学反応を起こして、黒焦げになった彼と全く同じ身体と、同じ記憶を持つ存在が生まれてしまうの。それが泥男(スワンプマン)。泥から生まれたから、そう名付けられた」
『荒唐無稽ですね』
「思考実験だからね」

 送橋さんは大きく身体を反らせた。

「彼は、黒焦げになった自分を自分とは認識しない。『雷に打たれたけど、俺は運よく助かったんだ』って考えて、そのまま家に帰ってしまう。でも、家族は誰も気づかない。彼は記憶も同じで、身体も同じ。彼自身ですら、自分自身を疑っていないんだから。そこで問題です。スワンプマンは、黒焦げになる前の彼と同一人物だと言えるでしょうか」

 送橋さんは顔の前で手を組んでいて、デスクの上に置かれた僕からは、彼女がどんな顔をしているのかが見えない。
 しばらく考えた後、僕は答える。

『同一人物とは言えないと思います』
「なぜ?」
『だって、彼は雷によって死んでいます。スワンプマンは、あくまで精巧な偽物に過ぎません』

 そこそこ自信のある意見だった。
 送橋さんはすかさず反論してくる。

「でも、誰も彼が偽物だって認識できないんだよ? スワンプマン自身ですら。指紋を調べても、DNA検査をしても、彼が偽物であることは証明できないの。それでも彼が同一人物じゃないって言い切れる?」
『それは……』

 確かに、そこまでしても違いを証明できないのなら、スワンプマンは少なくとも物質的には元の人物と同一であることは認めなければならない。
 だけど、僕らは物質だけでできているわけではない。
 血と骨と肉があれば人間だは言えない。

『……魂があるとしたら、それでいいのかもしれません』
「どういうこと?」
『死んだ彼の魂が泥に宿って、その結果がスワンプマンなんだとしたら、スワンプマンが彼自身だと言っていいと思います。ちょうど、僕のように』

 送橋さんの喉仏が動いて、ごくりと生唾を飲み込む音がした。

『僕が死んで、魂がこのスマホに宿ったのと同じです。僕は僕の身体を失いましたけど、僕は僕です。僕の魂はここにあるんですから』

 送橋さんは大きく息を吐き出して、「それは確かに、そうだね」と言った。

『AIだって同じです。どれだけ精巧に人間を擬態したとしても、彼らは人間とは違います。彼らには、僕ら人間と違って、魂がないんだから』
「わたしたちには、魂があるんだもんね」
『そうです。だから――』

 言葉を続けようとした瞬間、楽しそうにリフレッシュスペースへと向かう女性の集団が送橋さんの後ろを通りがかったのが見えたので、僕は思わず口をつぐんだ。
 彼女らは送橋さんを一瞥もしなかったし、送橋さんもほとんど反応しなかった。
 彼女らが通り過ぎた後にもう一度同じ話をする気にもならず、黙って仕事をする送橋さんを見ていた。



 定時になると、送橋さんは手際よく片づけをしてオフィスを後にした。
 僕が一緒に過ごし始めた当初は毎日残業続きだったのに、よほど外せない会議でもない限りは、残業することはなくなった。

『最近は、仕事忙しくないんですか』
「え? 別に、そんなことないけど」

 ビルのエントランスからエスカレーターで降りていく。
 送橋さんの職場は名古屋駅の真ん前にある。
 巨大な迷路みたいな地下街には、いつも嫌になるほど人が多い。
 耳にイヤホンを差して喋っている人が少なくないので、僕と送橋さんがイヤホンを介して話していても、そこまで目立つことはない。

「なんでそんなこと訊くの」
『だって、最近全然残業しないので』
「なんかね、馬鹿らしくなっちゃって」
『AIのせいですか』
「それもある」

 地下鉄の改札をくぐりかけたところで、送橋さんはぴたりと止まった。
 後方から舌打ちされたのを僕のマイクが集音するが、送橋さんはまるで意に介さない。

「今日は歩いて帰ろっか」
『結構遠くないですか?』
「でもほら、いい天気じゃん」

 ビルの脇にある出口から外に出ると、まだ高い日にレンズを焼かれた。
 最近は少しずつ日が短くなってきたが、まだまだ暑い日が続いている。

『水分補給はした方がいいんじゃないですか?』
「心配してくれてる?」
『だって、暑そうだから』

 この身体になって、暑さを感じなくなったのはいいことだが、僕の外殻が熱くなってしまうのは避けようがない。
 僕はいつも送橋さんの胸ポケットにいるので、僕の外殻と接している部分に汗をかいてしまっているのは、レンズ越しながら察していた。

「じゃあ、そこで水を買っていこう」

 出てすぐの道を折れたところにあった自販機の前で、僕をこちょこちょと操作すると、自販機がピッと鳴って、水のペットボトルがごろんと転がり出してきた。

『便利な世の中ですね』
「使ったことない?」
『残念ながら』

 僕は、小銭入れの中にあるなけなしの硬貨を数えて買ったことしかない。
 その便利さをもう体感することはできないのだと思うと、少しもったいないような気持ちになる。

 送橋さんは右手に僕を持ち、左手にペットボトルを持って、ずんずんと上前津に向かって歩いていく。
 時折何かを思いついたように立ち止まっては何かをスマホに入力している。
 誰かとラインをしたり、ツイッターをしたりしているのではないと、僕は知っている。

『順調みたいですね』
「うん。もう一曲分書けそう」
『すごい』
「すごいのはきみでしょ。これだけの曲を書き溜めたんだから」
『僕は適当にギターを弾いてただけですし。送橋さんみたいに、歌詞を書いたりはできません』
「や、や! こんなん適当だって」

 恥ずかしそうにぱたぱたと僕を振り回すが、歌詞を書いている時の送橋さんの目は、仕事をしている時よりもよほど真剣な光を宿している。

 送橋さんがギターを弾くにあたり、さしあたっての目標は、僕の弾いていた曲を弾くことだった。
 僕はギター一本で伴奏からメロディーまで弾くソロギター方式だったが、送橋さんはギターを弾きながら歌を歌う弾き語りをしたいと言った。
 弾き語りならば、伴奏は最低限の和音をなぞればいいだけなので、そこまで難しくはない。
 問題は、歌の方だ。

『曲はあっても歌詞がないんですけど』
「ないなら、作ればいいじゃない」

 試しに書いたと言っていた歌詞を読ませてもらった限り、僕から見れば、とても素人の書いたものとは思えなかった。

 それ以来、送橋さんは寝ても覚めても歌詞を書き続けた。
 アイデアが浮かべば僕のメモアプリを起動して書き留め、家に帰ってからはギターを抱えて白紙と向き合い、アイデアを練って削って形を作っていった。
 そうして書き溜めた曲は、もう五つ目を数えていた。

『送橋さんの歌詞は、AIには書けないと思います』
「や、そんなことはないよ。ちゃんと指示を出せば書ける。提案書のキャッチだって書いちゃうくらいなんだから」
『AIは歩けないけど、送橋さんは歩ける。送橋さんは、歩いた分だけ歌詞が生まれるじゃないですか』
「確かに、連中は歩けないよね」

 部屋のちゃぶ台に向かって唸っている時よりも、こうして歩いている時の方が生産力が高まるのを、僕はよく知っていた。
 僕をいじる頻度が、歩いている時は段違いになるのだ。

「歩くと血流が良くなって、脳みそへの血のめぐりが良くなるんだって」
『言葉は、血が運んでくるんですか』
「あはは、そうかも」

 横断歩道で止まりながら、歩きスマホであっちこっちに揺れながら、送橋さんはどんどんと歌詞を書き溜めていった。
 歌詞を書いている時の送橋さんの顔は格別で、こんな身体になってしまった僕でも、何度も見惚れた。
 名古屋駅から上前津までは歩けば結構距離があるはずなのに、そうして過ごす時間はあっという間に過ぎた。
 いつの間にか背後のビル群に夕陽が沈んでいったのにも気づかなかったくらいだった。
 送橋さんは近くのコンビニでパスタを買って部屋に戻った。

『たまにはサラダも食べてください』
「きみってさ、たまにお母さんみたいなことを言うよね」

 左手に握ったプラスチックのフォークでパスタを器用に巻きつけながら、右手のペンでがりがり書いていく。
 パスタが消えてからしばらくすると、「できた」と小さな声がした。

「ちょっと聞いてくれる?」

 送橋さんは机の上のスタンドに僕を立てかけ、ギターを構えた。
 ピックも握らず親指で、撫でるようにして弦を柔らかく弾く。
 コードチェンジはまだまだたどたどしいが、ちゃんと曲として聴けるくらいにはなっていた。
 弾き終わると、「……どう?」と不安そうな顔で聞いてくる。

『いいと思います』
「適当に言ってない?」
『僕は、嘘は言いません』

 本当のことを言えば、送橋さんのことを全く知らない第三者が聞いて感動するかと問われると、難しいかもしれない。
 だけど、僕のギターを元にした曲に送橋さんの声と言葉が載っているだけで、泣いてしまいそうになるくらいに感動的だった。
 今の僕に涙を流す器官がないのを悔しく思うくらいには。

「じゃあ、行こっか」
『今日も?』

 大曽根には昨日行ったばかりだ。
 送橋さんはこのところ毎日大曽根に通っている。
 歯を磨いたり、シャワーを浴びたりするみたいに。
 僕に身体があった頃でも、そんな毎日通ったことはない。

「わたしね、ちょっとずつわかってきたんだよ」
『何がですか?』
「毎日歌わないと、下手になるって」

 その言葉には反論の余地がまるでなかった。

 送橋さんは手際よく荷物をまとめると、ギターケースを背負って颯爽と家を出た。
 少しでも早く歌いに行きたいのか、「歩いていこう」とは言わない。
 上前津から名城線に乗って大曽根まで。
 地上に出ると、辺りはすっかり夜だ。
 バスロータリーから少し離れたところに座り、ギターを抱え、譜面台にファイルと僕を乗せた。

「じゃあ、今日もよろしく」

 そう宣言すると、歌い始めた。
 歌うのは専ら、僕が原案を作って、送橋さんが歌詞を書いたあの五曲だけだ。
 たまに酔っ払いが寄ってきて自分勝手にリクエストを告げてくることもあるが、送橋さんはまるで応えない。
 リクエストに応えられるほど色んな曲を知らないというのもあるが、どちらかと言えば、自分の時間を邪魔されたくないと思っているように見えた。

「なんかね、ちょっとずつ上手くなってきてる気がする」
『そう思います』

 それは、お世辞ではなかった。
 固い弦を押さえ続けた左手の指先は鋼鉄のように固くなっていて、僕の表面を鋭く擦った。
 チューニングの狂いにも敏感になってきたし、ただ曲をなぞるだけではなく、そこに表現を込めるという領域に踏み込みつつあるようだった。
 送橋さんの歌は、上手くはないが独特だった。
 一聴してハッと人の足を止めるような力はない。
 だけど、何気なく聴き続けているとほんのりと染みてくるような味がある。
 力や美しさはなくとも、ともすれば、それなしでは生きられなくなってしまうような中毒性が宿っている。
 その底しれない魅力に気づきかけている人も、それなりにはいるように見えた。

『ちょっといいですか?』
「うん?」

 曲と曲の合間、持ってきたペットボトルで喉を潤している送橋さんに話し掛けた。
 歌っている時も、彼女はイヤホンを外さない。
 きっとそれは、僕のためなのだろうけど。

『後ろにいる女子高生の三人組が、送橋さんの歌を聴いてるみたいです』
「へえ」

 送橋さんはあまり興味がなさそうな声を出した。
 僕が知る限り、彼女らは昨日もいた。
 昨日はほとんどこちらに目も向けなかったのに、今日は送橋さんをちらちらと見て、何やらひそひそ話をしているように見える。

「なんかちょっとむずがゆいよね。知らない人に聴かれてるって思うとさ」
『誰にも聞かれたくないなら、リハーサルスタジオに行くという手もありますよ』

 僕もほとんど使ったことはないけど、録音をしたり、マイクやアンプを通して音を出すために二、三度くらいは行った。
 お金はかかるが、あそこならば酔っ払いから酒臭い息で話し掛けられることもないし、誰かに聞かれるのにやきもきすることもない。

「でも、きみはずっとここで弾き続けてたじゃない。誰にも聴かれたくなさそうだったのに」
『それは確かにそうです』
「どうしてきみはここで弾いてたのかな」

 思わぬ方向から水を向けられた。
 僕は送橋さんのスマホという立ち位置に安住しすぎて、自分の身体を持ち歩いていた時のことを思い出しにくくなっていた。
 自分の身体の有無は、思考の在り様にも浅からぬ影響があるのかもしれない。

『あまり自信はないんですけど』
「うん」
『静かなところに一人でいるよりも、騒がしい街の音に包まれている方が、より一人であることを感じられたから、かもしれません』
「一人でいたくなかったってこと?」
『一人になりたいんですけど、本当に一人になりたいわけではないんです』
「でも、干渉はされたくない」
『そうです』
「我儘じゃない?」
「送橋さんも、他人のことは言えないと思います」
「確かにね」

 送橋さんはペットボトルの蓋をきゅっと締めると、小さく肩を揺らした。

「ちょっと、わかる」
『わかってもらえて、嬉しいです』
「でも、わたしはちょっと違うな。なんていうか、一人でいたくないけど、やっぱり一人でいたいんだよ」
『それって同じじゃないですか?』
「微妙に違うと思うよ」

 それは確かにそうかもしれない。
 一人でいたいのに一人でいたくない僕と、一人でいたくないのに一人でいたい送橋さんと。

 出発点は違うのに、結局僕らは同じようなところにたどり着いている。
 それはどこか人間の業のようなものを感じさせて、少しだけおかしかった。
 送橋さんの後方にいた女子高生たちもいつの間にかいなくなっている。
 雑踏の中にいる送橋さんは、川の流れの中にぽつんと置かれた飛び石のように一人だった。

「帰ろっか」

 自己完結のように頷くと、パタンと勢いよくファイルを閉じた。
 ファイルをギターケースのポケットに押し込み、僕を定位置の胸ポケットに入れ、譜面台を畳み掛けたところで、

「終わるの?」

 男の声だった。
 送橋さんは振り返らなかったので、彼の外見はまだ見えないが、年齢は僕どころか送橋さんよりも少し上なんじゃないかと感じた。
 その声にはナンパ目的特有の嫌らしさはなく、本当に残念に思っているような声色だった。

「ちえっ、せっかく早めに切り上げて来たんだけどなあ。遅かったかぁ……」

 送橋さんの手は止まらない。
 完全無視。
 存在自体をシャットアウトしている。
 男は男で、それを咎めるような色を声に出さない。
 譜面台を収納し、ギターケースを背負った送橋さんは、男にまったく構わず歩き出そうとした。

「ちょちょちょ!」

 さすがに焦ったのか、軽い足音とともに男が送橋さんの前に出た。

 ホストっぽい、が彼の第一印象だった。
 明るい髪色、白のTシャツに七分袖のジャケットを羽織って、ボトムスは当然のようにくるぶし丈。
 顎に生えている髭だって無精ではない。
 送橋さんと同じようにギターケースを背負っているが、どこか背負わされている感のある送橋さんと違って、その佇まいが板についている。
 立ち姿だけで、彼の音楽キャリアが浅くないことが感じられる。
 「急いでるので」と避けて去ろうとする送橋さん。

「音源ありますか!?」

 送橋さんが足を止めた。

「音源?」
「いや、もし配信とかしてたら、URL教えてもらえたらなって……あります?」

 送橋さんは男に向き直って首を横に振った。
 メモ程度に、簡単な鼻歌をスマホの録音機能で残したことはあるが、ちゃんとしたレコーディングなんて、僕だってしたことはない。
 送橋さんなら尚更だ。

「ないけど、どうして?」
「いや、お姉さんの曲、結構好きだから。オリジナルでしょ?」
「そうだけど」
「歌詞がすげえいいなって思って。昨日だったかな、たまたま通りがかった時にお姉さんが歌ってるの聴いてたんだ。ほら、あの『旅に出ない理由』ってやつ」

 送橋さんが「あ……」と、男に聞こえないくらいの小さな声を漏らした。

『旅に出ない理由』は、昨日歌詞をまとめたばかりの、まさにできたばかりの曲だった。
 昨日も、まるで身体に馴染ませようとしているかのように、何度も何度も繰り返し歌っていた。

「俺、思ったんですよ。旅ってつまり、命とか、残り時間の言い換えなんじゃないかって。いつか終わりが来るってわかってるからこそ、自分に残された時間がすげえ輝いて見えるって、そういう瞬間のことを歌った曲なんですよね。俺、めちゃくちゃ響いちまって。だから、また会えたら絶対音源教えてもらおうって、思ってたんです」
「ど、どうも」

 送橋さんの声は、嘘みたいにひっくり返っていた。
 今まで見たこともないほどに動揺しているのが、声だけでわかった。
 だが、それも無理からぬことかもしれない。
 彼が話した曲の解釈は、かなりの部分、送橋さんが僕に話したことと重なっていた。
 すれ違っただけの人に、通りすがりに聞こえただけの曲を、ここまで深く理解してもらえるなんて想像すらしなかった。

「俺、ミムラって言って、この辺でよく歌ってます。新栄のクローバーゼットっていうライブハウスでたまにイベントとかやったりしてて……お姉さん、名前、なんていうんすか?」
「あ……おく、送橋、由宇っていいます」
「ユウさん。いい名前っすね!」

 夜が嘘のように、ミムラの笑顔はまぶしかった。
 どことなく、見られることに慣れた人間の笑顔――そんな気がした。

「よかったら場所変えて、ちょっと話しません? せっかく知り合えたんだし、俺、ユウさんともっと仲良くなりたいんで!」

 半ば強引に取られた手だったが、送橋さんは拒まなかった。

 後から思えば、僕はこの時すでに、この後に何が起こるのかを予見していたような気がする。
 もしもその予見を危惧するなら、送橋さんに囁きかけることだって、しようと思えばできたはずだ。

 だけど、僕はそうしなかった。
 その理由は、自分でもよくわからない。

 結局のところ、どこまで行っても僕は人間として生きているわけではなく、送橋さんのスマホに間借りをさせてもらっているだけの存在だ。
 実際に人間として生きている送橋さんの行動に介入する権利なんて、僕にはなかった。

 手を握られた送橋さんがどんな顔をしていたのかを僕は知らないし、特別に知りたいとも思わなかった。
 どちらにせよ僕にはもう、ミムラのように送橋さんの手を握ることは不可能だからだ。

 ただ一つ、送橋さんが彼の首を絞めるのかどうかは気になった。
 今の僕に首はないが、生きている彼には首がある。
 送橋さんが彼の首を絞めた時、すでに終わってしまっている僕は何を思うのだろうか。
 あの日から、路上の後は送橋さんの家まで歩き、そのまま泊まっていくのが通例となった。
 それを見越してあらかじめ次の日の準備をしていけば何も問題なかったし、なんならわざわざ自分の部屋に帰る必要があるのかと思ってしまうくらいだった。

「別に、ずっといたっていいんだよ」

 少なくともその言葉は、リップサービスで言っているわけではないように聞こえた。
 その言葉通り、僕は次第に送橋さんの家に入り浸るようになった。
 逆に、ギターだけは必ず僕の家に置きに帰るようにした。
 別に持って来たって構わないと送橋さんは言ったが、ギターを持って大曽根と上前津の間を往復するのは骨が折れたし、あまり甘えてしまうと、自分の部屋を引き払ってしまいたくなる衝動に駆られるのも怖かった。
 あの部屋をどうやって解約するのかはわからないが、保証人になっている父親に連絡がいくのは気が重いのもまた事実だった。

 送橋さんの家にスペアの寝具はなかったので、僕らは一つのベッドで眠っていた。
 初めは遠慮して「床で寝ます」などと言っていたのだが、送橋さんの強い希望により、その申し出は却下された。

 ベッドに入ると、すぐに送橋さんは手や足を絡めてきた。
 ベッドの中の送橋さんはまるで年上とは思えなかった。
 まるで小学生の妹のように甘えんぼになり、僕にありとあらゆることをねだった。
 まあ僕に妹はいないので全て想像だが、そんなに的外れでもないと思う。

 僕らを隔てる衣服はどちらからともなく剥ぎ取られ、肌と肌の境界線がひどく曖昧になる。
 そういうことについて僕はひどく不慣れだったが、何回となく肌を重ねているうちに、段々とうまいやり方がわかるようになってきていた。
 ただ、送橋さんにとって満足のいく動きができていたかどうかはわからない。

 終わった後、送橋さんは必ず馬乗りになって僕の首を絞めた。
 長い間息を止めていられたら、みっともなく咳き込むこともないのだろうけど、苦しそうな僕を見るのが好きなんじゃないかとも思ったので、あえて思いきり咳き込んでみることもあった。
 僕は、できるだけ送橋さんに喜んでほしかった。

「ごめんね、枯野くん。ごめんね」

 首を絞めた後、送橋さんはいつも泣きながら僕に謝った。
 謝る必要はないと何度言っても、送橋さんは謝ることをやめなかった。
 まるで、許そうとしない親に延々と謝り続ける子どものようだった。
 自分が親の目に映っていないのを知っていながら、謝る以外の方法を知らないのだ。

 僕の首を絞める理由を、送橋さんは「落ち着くから」と言った。
 送橋さんの気持ちを落ち着かせることができるなら、僕の首なんかどれだけ絞められたっていい。

 ある日のことだった。
 バイトが終わってから送橋さんの部屋に戻ってきた僕は、ベッドを背もたれにしてうつらうつらしていた。
 毎日夜が遅く、慢性的な睡眠不足になっていた僕は、ほんの短時間でも睡眠を必要としていた。

 突然、僕の首に細くて熱い手がかかった。
 まどろみの縁にいた僕の意識は一瞬で覚醒した。
 何が何だかわからないまま、僕はその人の顔を見た。
 送橋さんだった。
 きれいな化粧を涙でボロボロに崩しながら、髪の毛を振り乱していた。
 昔話に出てくる羅刹とか山姥は、きっとこんな風なんじゃないかと思った。
 心の準備も何もできなかった僕は、送橋さんの握力をまともに食らってしまう。
 目の前の景色がブラックアウトしかけた時、ようやくその戒めは解き放たれた。
 壮絶な咳をして蹲る僕の横にカタカタと振動する送橋さんの足があった。
 僕はどうにか身体を起こして送橋さんを抱き締めると、彼女は胸の中でわんわんと声を上げて泣いた。
 僕はずっと「大丈夫、大丈夫ですから」と、壊れたテープレコーダーのように繰り返し続けるしかなかった。

「何があったんですか?」

 目を真っ直ぐに覗き込んで訊くと、ポツリポツリと言葉が漏れた。

 珍しく仕事が早く終わって帰ってくると、ベッドにもたれ掛かって寝息を立てる僕がいた。
 僕は頭を完全にベッドに預けていて、呼吸のたびに上下する喉仏がなまめかしく蠢いていて、まるで火に誘われる蛾のように僕の首に手を掛けたのだという。

「わたし、枯野くんから離れた方がいいのかもしれない」

 子どもみたいにしゃくりあげながら、どうにか聞き取れるようになった声で、そう言った。
 送橋さんから首を絞められることを、僕が容認しているせいで、送橋さんの中にある衝動の歯止めが利かなくなっているのかもしれない。
 それが完全に失われてしまった時に起こるのは、避けようもなく僕自身の死だ。
 離れた方がいいという送橋さんの主張は、まったくもって正論だ。
 死にたくなければ、離れる以外の選択肢はない。
 だけど僕の口は、そんな一般的な正しさとはかけ離れた意見を紡ぎ出した。

「僕は、嫌です。送橋さんから離れたくありません」

 その言葉に一番驚いたのは、きっと僕自身だったと思う。
 だけど、口に出してみると、自分の気持ちが言葉に沿って形作られていくようだった。

 僕は送橋さんの傍にいたかった。
 そのためなら、他のどんなものを犠牲にしても構わないとすら思った。

「なぜ?」

 溢れ続ける涙をぬぐい続けて、腫れぼったくなってきた目で送橋さんは問い掛けた。「わかりません」と答えたいのは山々だった。
 しかし、どうにかしてこの胸の中にあるわけのわからない気持ちを言語化しなければならない。
 僕は煙が出そうなくらい、酸素の足りていない脳みそをフル回転させた。

「母親が死んで以来、ずっと僕は一人でした。父親には見捨てられたも同然です。送橋さんほど、僕の傍にいてくれた人はいません」
「でも、殺されるのはイヤでしょ」
「積極的に殺されたいとは思いません。でも、この地球上で、僕が殺されても構わない人がいるとしたら、それは送橋さんだと思います」

 話しながら僕は、自分の中にある欲望に気がついてしまう。
 もしも僕が死ぬとしたら、それは送橋さんの手によるものであってほしい――という願いだ。
 母と同じように車に轢かれるのではなく、音楽表現による疑似的な潜航でもなく、送橋さんの手によって死にたい。

「わたし、枯野くんが死ぬの、イヤだよ」
「でも、どうしようもないんでしょう?」

 送橋さんは答えなかった。
 またしくしくと泣き始めた送橋さんを、横から包み込むようにして抱き締めた。
 ちょうど送橋さんの右耳が僕の左胸に当たっていて、うるさいくらいの鼓動が聞こえてしまっているのかもしれない。
 だけど、恥ずかしいとは思わなかった。
 僕は全てを送橋さんに開示した。
 今さら知られて困るようなことは、何一つありはしなかった。

 その日から、大曽根でギターを弾く頻度は極端に少なくなった。
 そもそも、僕がギターを弾いていたのは、母が越えた境界線を見に行くためだった。
 ギターを弾くより原液に近い死を体感できるなら、ギターを弾く理由なんてもうどこにもなかった。

 大曽根に行く代わりに、ドライブする機会が増えた。
 送橋さんの仕事が終わってから、車に乗って高速を飛ばす。
 行き先は決めない。
 送橋さんが適当にハンドルを切るのに任せるだけ。
 三時間くらい走って、山道の途中で車を止め、暗い山林を歩く。
 外界から隔絶された静かなところで、送橋さんは僕の首を絞める。
 もはや、セックスすら必要なかった。
 僕らが求めているのはあくまで死への漸近であり、生殖に伴う快楽など副次的なものだと気づいてしまったからだ。

 首を絞められブラックアウトして、次に気づいた時には泣き腫らした送橋さんの腕の中にいる――そんなことが幾度となくあった。
 また送橋さんのところに戻って来れたという気持ちと、また戻ってきてしまったという気持ち。
 その両方が、僕の中には分かちがたく存在していた。
 生と死は表裏の関係などではなく、まるで双子のように、常に隣り合わせで存在していた。
 その間にある境界線が、いかに薄く曖昧なものかを、僕は実感していた。

 次はもう戻って来れないかもしれない。
 いつしか僕はそう思うようになっていた。
 行く当てのないドライブは、まるで僕の死に場所を探しているようだった。
 静かな川べりもあったし、森の天窓みたいな月光の差す山林の隙間もあった。
 そのどれもが、戻ってきたことを後悔したくなるほど美しい場所だった。

 今日行ったのは、山奥の洞穴のような場所だった。
 山道に車を止めて歩いていると、岩肌に人が入れるくらいの穴を見つけた。
 今日はここだろうと見た瞬間にわかった。
 送橋さんは穴の中に入り、僕を手招きした。
 まるで、美しい死神に招かれているようだった。
 送橋さんは壁にもたれかかるようにして座り、僕はその隣に。
 上半身を送橋さんに預け、その時が来るのを待つ。
 もう、僕らの間に言葉は必要なかった。

 深い闇の中に落ちていく。
 そこに横たわるのは何なのか。もはや僕ではない僕はそれを感覚で理解しようとしていた。
 何もないこと。
 光もなく、音もなく、匂いもしない。
 時間も空間もなく、一瞬で、永遠の世界。

 そして、僕に感覚と時間が戻ってくる。

「おかえり」

 送橋さんの頬に光の筋が輝いていた。
 見ると、洞穴の外に遮るものは何もなく、まん丸い月の光に、僕らは濡れていた。
 首の後ろの温もり。
 僕は、送橋さんの膝を枕にしていた。

「綺麗ですね」
「月が?」
「ええ」

 夏目漱石の有名な翻訳くらいは知っていた。
 もう僕には隠さなければならないものや、恥じなきゃいけないものなどない。
 ただ心に浮かぶものを言葉にすればそれでよかった。

「枯野くんには何が見えてるの?」
「何も」

 何度かに一度、送橋さんはそういうことを訊いてきた。
 正直に答えると、いつも少し寂しそうな顔をする。

「送橋さんにとって都合のいいのはどっちなんでしょうか」
「どっちって?」
「天国があった方がいいのか、ない方がいいのか」
「わかんない」

 笑ってみせるが、その笑顔はひどく弱々しい。

「天国があればいいなって思う。でも、この世になくなってしまわないものなんてないんだろうな、とも思う」
「心の底から信じられる何かがあればいいのかもしれませんね」
「そういうのってもうないじゃない? どこまで行っても脳みそが壊れちゃえばおしまいだって思う。昔の人ってすごいよね。来世で幸せになれるとか、天国に行けるとか、根拠もないのに本気で信じられるんだから」
「根拠がないからこそなのかもしれません」
「それある。今わたしたちが信じてる常識だって、十年後には科学的に否定されてるかもしれない。昔は太陽が地球の周りを回ってるんだって、そう信じない人は非常識とか陰謀論扱いされてたんでしょ?」
「天国とか、永遠だって、いつかは証明されるかも」
「そうかもね」

 けど、その証明だっていつかは覆されるかもしれないのだ。
 そのぐらいのことはわかっているし、わかっているからこそ送橋さんの笑顔はこんなにも弱々しい。
 どこまで行っても、この世界には確かなものなんてない。
 この世界で正しいのは〈無〉だけで、それ以外は全て作り事の嘘っぱちなのかもしれないのに。

 きっと送橋さんの目に映る世界はひどく脆弱なのだと思う。
 全てが壊れやすくて、ふと触れた瞬間ぼろぼろと崩れ落ちてしまうもの。
 ビルの屋上の縁でやじろべえをしている子どもを見ているようなものだ。
 危うくて、恐ろしくて、いっそ壊れてしまった方が安心できるんじゃないかと思う。
 送橋さんが首を絞めるのは、きっとそのせいだ。
 安定させたいのだ。
 やじろべえの揺らぎを止めたい。
 そして、やじろべえを止めるには、その足ごとへし折るしかないのだ。

「送橋さん」
「うん?」
「僕が先に見に行きますよ。闇の向こうに何があるのか」
「でも、行っちゃったら戻って来れないじゃない」
「そうかもしれません」
「でしょ」
「でも、なんとかします」
「なんとかって?」
「化けて出るとか」
「怖いよ」

 送橋さんは僕の頭をずっと撫でてくれていた。
 さっきまで僕の首を万力のように絞めていた、その手で。

「わたしさ、幽霊に会ってみたいんだよ。幽霊がいるなら、人の命が死んで終わりのものじゃないって、少しは信じられるじゃない? でも、わたしは一度も幽霊にあったことない」
「僕がその第一号になります」
「だから怖いって」
「化けて出ると驚かせてしまうなら、何か信号を送るとか、手紙を出すとか」
「ツイッターにリプしてよ」
「それもアリです。でも、僕はツイッターのアカウントを持ってません」
「作ってあげようか?」
「死んでからでいいです」

 〈死〉。
 その単語をきっかけに、僕らの間には長い沈黙が流れた。
 失敗したと思ったが、吐いた言葉はもう一度飲み込むことはできない。
 僕の頭を撫でていた手もいつの間にか止まってしまっている。
 空の月にも、薄い雲がたなびき始めていた。

「僕が向こうに行ってしまったら、約束通りギターはお返しします」
「どうして」
「だってすごく高いでしょ。まかり間違って燃やされたりしたら嫌じゃないですか」
「わたし、ギター弾けないよ」
「僕が教えますよ」
「でも」

 一瞬だけ口ごもる。

「……うん。期待してる」
「どっちみち、大したこと教えられないですけど」
「うん」

 その後、送橋さんはずっと静かに泣いて、泣き疲れて少し眠り、朝日が差し始めたところで二人して車に戻った。
 何も言わない僕らの空気を読まずに、朝からハイテンションなラジオDJがこの世全ての光を集めてこしらえたかのような曲を流す。
 その光は僕らを救いはしないということも知っている。
 そんなまやかしに目を眩ませたまま生きて、そのまま死んでいけるならよかったのかもしれない。
 だけど、幸か不幸か、僕らはこんな風に生まれついてしまった。
 ならば、その落とし前をつけなければならないのだと思う。

 家に着くと、送橋さんはふらふらと仕事に出かけて行った。
 僕は送橋さんのベッドで泥のように眠った。
 夢も何もない、ただ闇に落ちただけの眠り。
 起きたらもう夕方だった。
 僕は顔を洗い、備え付けの鍵で施錠してから送橋さんの家を出た。
 なんとなく、次に送橋さんと顔を合わせた時がその時になると思った。この世で最後にしたいことがあるとしたら、それはなんだろうか――そんなことを考えながら歩いていると、大曽根を通り過ぎた。
 大曽根に来るには、僕の手には得物が足りない。

 最後に一度、送橋さんと出会ったあの場所でギターを弾くのも悪くないだろう。
 そう思った。

 大曽根からの帰り道は、いつもと同じように雑多だった。
 最後だからって、世界は都合よく輝いてはくれない。
 そもそも僕は光っているものや美しいもの、綺麗なものを探しているわけではない。

 目の前にあるものが信じられなかった。
 全てが嘘に見えて、一瞬だけ触れた闇の中の何かだけが真実だと思った。
 その通りに、僕の人生には誰もいなかった。母親は早々に闇の中へと消えて行った。
 父親は僕に触れようとしなかった。
 ただ一人だけ、送橋さんだけが僕に触れてくれた。
 僕の人生にいたのは、送橋さんだけだった。

 大曽根からドームの方へ向かう道を歩き、いかがわしい店があるあたりを左に折れる。
 正面にはニトリやサイゼリヤが入った商業施設がある。

 細い道を行く。
 どこからか鳥の鳴き声が聞こえている。
 ふと気づけばもう秋は深まっていた。

 道に積もった枯葉のように、僕を構成する物質も世界へと還元されていくんだろう。
 僕を形作った細胞や原子、分子は水や空気になり、循環し、また誰かの命を作る。
 ただ、そこにきっと僕の魂はないのだ。
 それでも何か残るものがあるのなら、どうにかして信号を送らなければならない。
 それが、僕に課されたミッションなのだから。

 アパートの門をくぐり、コンクリートの階段を登ると、外廊下の部屋のドアの前に蹲る人影があった。
 その姿を見て、僕は息を飲んだ。

「遅かったな、最果」

 別人のようにやつれた父が、ドアに身体をもたせかけ、自嘲するような笑みを作った。
 そういえば父の笑顔を見たのはこれが初めてかもしれないと、他人事のように僕は思った。
 送橋さんとの行為が終わると、ミムラは決まって煙草に手を伸ばす。

 二人が肌を重ねるのはいつも送橋さんの自室だった。
 「嫌じゃない?」と、最初は紳士に断ってから火を点けていた彼も、二回目からはまるで慣れた喫煙所にいるみたいだった。
 灰皿代わりのコーヒー缶も、灰を溜め込みすぎてくたびれているように見える。

 送橋さんは流れてくる煙に眉を顰め、身体ごとミムラに背を向けて僕の方に手を伸ばした。
 だけどその手は、ミムラによって遮られる。
 手を引かれ、くるりと回転した送橋さんの身体はミムラにしなだれかかる体勢になる。

「そんな嫌な顔しなくてもいいのに」

 苦笑するミムラ。
 僕からは、送橋さんがどんな顔をしているかは見えない。
 少しだけ湿った音がして、けほけほと咳き込むような音が続いて聞こえる。

「煙草、嫌いだっけ?」
「好きではないよね」
「そりゃ、悪かった」

 ぎゅぎゅぎゅと、缶コーヒーの灰皿に灰が押し付けられる音がする。

「イベントの準備、進んでる?」
「練習はしてるよ」
「見てあげよっか」
「別にいい」
「つれないねえ」

 ミムラに対して、送橋さんはずっとこの調子だ。
 こんなに冷たいと、好かれていないのかと自分から距離を取ってしまいそうなものなのに、それでもぐいぐい距離を詰めていくのがこのミムラの偉いところだと僕は思う。
 少なくとも、僕はそんなキャラには何度生まれ変わってもなれないだろう。

「路上でやんのとステージは全然違うんだぜ。緊張で頭真っ白になっても知らねーぞ?」
「大丈夫。緊張なんてしないから」
「言うじゃん」

 ミムラは経験者ぶって鼻で笑うが、自分で言う通り、送橋さんは人前でもまったく緊張しないのだ。
 僕だってステージに立った事があるわけじゃないから、ミムラの言うようなステージの緊張感はわからない。
 だけど、ステージに立ったぐらいで送橋さんが変わってしまう方が、どちらかと言えば信じられなかった。

 ミムラと親しくなった送橋さんは、彼が主催するイベントに出演することになった。
 ミムラのイベントがどれほどのものかはわからないが、彼がホームにしている新栄クローバーゼットは、僕ですらその存在を知っていることからも、この辺りではそこそこの位置にあるライブハウスであることも間違いなかった。

 ミムラと付き合いのあるバンドやユニットが出演するらしく、送橋さんも〈由宇〉という名前でエントリーさせられていた。
 ミムラの言うことをどこまで信用していいかはわからないが、単なる頭数合わせでもないらしい。
 「由宇はやれると思ってるから、誘ってるんだぜ」とうミムラはるさいくらいに繰り返すように、 確かに送橋さんはめきめきと腕を上げていた。
 ミムラと出会ってから二か月ほどだが、その頃と比べても違う。
 今の送橋さんなら、きっといいライブができるだろう。
 僕だってそう思う。
 だけど、ミムラの盛り上がりほどに、送橋さん自身に火がついていないのもまた事実だった。

「お、」

 抱き寄せようとするミムラの腕をすり抜けて、送橋さんはバスルームの方へと歩いていった。
 言葉少なな送橋さんの、今日はもうおしまいの合図だ。
 ミムラはため息をつき、二本目の煙草に手を伸ばす。
 僕の視界の隅で、白煙がくゆり続けている。
 やがてバスルームからは艶めかしい水音が響き始めた。

 見えているし、聞こえてはいるのに、口は出せない。
 そういう状況はわかっていてもストレスが溜まった。
 僕にはもう送橋さんを抱き締めるのに必要な様々なものを失くしているから、どうこう言う資格なんてない。
 生命の残り滓みたいな意識を、ミムラが溜めた吸い殻の山みたいに燻らせ続けるしかない。
 汚れ以上のものを流し落とそうとしているかのように、バスルームの水音は執拗なまでに続いている。

 ミムラは不意に大きなため息をついて、吸い殻を乱雑にもみ消すと、ひったくるような勢いで僕に手を伸ばした。
 驚きはしたが、声をあげるような間抜けはしなかった。
 驚いたところで、飛び上がるような心臓など、僕はもう持っていない。

 ミムラはまるでコの字を描くように僕の表面に指を滑らせる。
 それは、送橋さんが設定したロック解除のパターンだ。
 きっと、何かの機会に送橋さんの手元を見ていたのだろう。
 ミムラは今、送橋さんのスマホを覗き見している。

「んん……?」

 しばらくスクロールを続けていたミムラが首を傾げるのと、バスルームから送橋さんが戻ってくるのはほとんど同時だった。

「――っ!」

 送橋さんはすぐさま駆け寄ってきた。
 背面カメラから見る送橋さんはバスタオルすら身に着けていなかった。
 無言で僕にとりつき、ミムラの手からむしり取るようにして僕を奪い返した。

「いや、ごめんて。ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
「こんなことするなら、二度と来ないで」

 送橋さんは落としたバスタオルを拾うと、僕を掴んだままバスルームの方へ戻り、洗面所のドアに鍵をかけた。
 ミムラの表情は僕の位置からはほとんど見えなかった。
 送橋さんは僕を洗面台の脇に置くと、項垂れて深いため息をついた。
 リビングの方からは、カチャカチャとベルトを締めるような音が聞こえている。
 送橋さんは身体も拭かず、前髪からはまだ雫が垂れていた。

「それってさ、流行りのAIってやつ?」
「アンタには関係ない」

 何がおかしいのか、洗面台の扉の向こうからは「はは」と乾いた笑いが聞こえた。
 送橋さんは洗面台に項垂れたまま、まるで動こうとはしない。
 しばらくの沈黙の後、「じゃあ俺、帰るから」と、玄関の扉が開いて閉まる無機質な音がした。

『よかったんですか?』

 ワイヤレスイヤホンの接続は切れていた。
 僕の声がスマホスピーカーで鳴る。

「いいよ、別に」
『せっかく親しくしてくれてるのに』

 言ってから、あまりに皮肉っぽ過ぎただろうかと少しだけ後悔した。
 送橋さんは項垂れたまま、口を開こうとしてはやめてを何度か繰り返して、結局黙ったままだった。
 僕は僕で、何を言っても失言になりそうな気がして、黙り込むしかない。
 送橋さんは蛇口を全開にして、顔を乱雑に洗い、皮膚が傷ついてしまいそうな強さで拭き、僕を掴み、裸のままでベッドに転がった。
 送橋さんの腕を雫が伝って、ベッドにいくつも染みが広がっていく。

「軽蔑、してるよね」
『しません』
「嘘」
『セックスはセックスです。それ以上でも以下でもない』

 それはおためごかしでも、強がりでもなかった。
 心からそう思っているし、たぶん今、僕に身体があったとしても同じことを考えるはずだ。

『セックスは何も証明しませんよ。愛も、恋も、将来も。あるのは、身体をもった人間がそこに二人いるってこと。それだけです』

 僕が送橋さんに惹かれたのは、セックスをしたからじゃない。
 送橋さんが僕と同じものを見ていて、同じものを見ようとしてくれていたからだ。
 僕がギターに求めていたものを、違う形で提示してくれたからだ。

『だって、送橋さんはあいつの首を絞めようとはしないじゃないですか』

 もし送橋さんがそうしていたら、僕は彼に嫉妬していたかもしれない。
 送橋さんは、僕が僕だったからこそ、僕の首を絞めたのだから。
 闇の淵を見ようとしていた僕だからこそ、送橋さんは僕の首を絞めた。
 送橋さんが僕の首を絞めたのは、僕を信じてくれていたからだ。

 僕以外の誰が、闇の向こう側にあるものを証明しようとするだろうか。
 できるはずがない。
 僕にしかできない。
 送橋さんの両手を受け入れられる僕にしか。
 両手を受け入れ、その闇の向こう側から戻って来ることができた僕しか。

 送橋さんはずっと裸のままでいた。
 身体を伝う雫が流れ尽くそうかという頃に『風邪ひきますよ』と声をかけると、ようやくもぞもぞと起き上がった。
 僕に背を向けるようにして立ち上がったので、僕からは送橋さんの顔を見ることはできなかった。
 送橋さんはまたふらふらとバスルームに向かった。
 さっきのリピート再生を見ているみたいに、バスルームから勢いの良い水音が聞こえてくる。
 ベッドに置き去りにされた僕は、それを聞いていることしかできない。
 今度のシャワーも、特別長くなりそうだった。



 送橋さんの精力的な路上活動は続いていた。
 ミムラが主催するライブイベントにはノルマが存在している。
 一枚二千円を十枚。
 普段は適当にへらへら笑っているミムラも、集客に関しては本気だった。
 だけど、送橋さんの路上ライブに集まる人数はどんどん増えていて、十枚程度のノルマの心配はしなくても済みそうだった。

 送橋さんはいつも定時で仕事を上がり、家に帰って曲を仕上げ、大曽根に来て歌を歌った。
 職場にいる同僚たちは、当たり前みたいな顔をして定時上がりする送橋さんを、あまりよく思っていないようだった。
 ただ淡々と仕事をこなす送橋さんには、まるで響いていなかったけど。

 頻繁なライブも、歌への真摯さも、熱心な曲作りも、以前の送橋さんじゃないみたいだった。
 まるでデビューを目指すシンガーソングライターのようだ。
 ミムラ以外にも、ライブの話を持ってくる人間が複数人現れるくらいだった。

『送橋さんは、デビューを目指してるんですか』

 と冗談交じりに訊くと、半笑いで「まさか」と返ってきた。

「暇潰しだよ。暇で暇で、仕方がないからさ」
『仕事、あるじゃないですか』
「仕事なんて、頭を使わなくたって出来るよ。頭を使わないとさ、頭が暇になるんだ。そうなると、ろくなこと考えないから。だから、歌ってるの」
『ろくなことって、なんですか?』
「なんだろうね。年金もらえるかな、とか」

 もちろん、送橋さんは年金の心配をするタイプではない。

『歌うと頭が暇じゃなくなるんですか?』
「うん。慣れないことだから。ギター弾きながら歌うって、もう何か必死だよね」

 必死なんて言葉では、送橋さんの歌は到底言い表せない。
 それくらい、送橋さんの歌は鬼気迫る迫力があった。
 その歌に誰かの生命がかかっていると言われたら信じてしまいそうになるほど。
 ただ自分の中の深淵に潜ろうとしていただけの僕とは違う。
 通行人が足を止めるのも当然のことだと思えた。

 路上ライブが終わると、送橋さんはいつも言葉少なに去ろうとした。
 それでも追いすがってくる人にはライブのチケットを買ってもらっていた。
 ギターを担いで、一時間かけて歩いて帰り、ミムラが訪ねてくればセックスをする。

 暇潰しだよ――と送橋さんは言った。

 その言葉通り、何もせずにただぼうっとしている時間を、ひたすら何かで埋め尽くそうとしているみたいだった。
 画用紙に白い部分があってはいけないと思い込んでいる幼稚園児のような必死さで、空白の時間をただひたすら埋めていく。
 僕との会話すら、その一つのピースに過ぎないようだった。

 何か、とてつもない怪物から逃げようとしているんじゃないかと思った。
 その怪物は、少しの空白を与えたら最後、あっという間に宿主ごと食らい尽くしてしまうのだ――そう言わんばかりに、送橋さんは力の限りに逃げ続けていた。

 僕には、送橋さんが恐れている怪物が何なのかがわからない。

 だって、僕は魂の存在を証明したんだ。
 僕の身体が死に、魂だけの存在となって送橋さんのスマホに住みついた。
 僕の意識が存在していることそのものが、魂の存在の証明となっている。
 それを証明した僕らにとって、もはや死など、恐れる対象足り得ない。
 その線引きの向こう側にだって、地平は存在しているのだから。



 ライブまであと一週間となった日曜日の昼、送橋さんは「リハーサルスタジオなる場所に行こうと思う」と言った。

『いいですけど、大曽根はいいんですか?』
「ライブまで一週間だから。わたし機材とか使ったことないし、きみに色々教えてもらおうと思ってさ」
『なるほど』

 僕をPCのディスプレイに向けてもらいながら、よさそうなスタジオをピックアップした。
 混んでいなさそうで、安くて、行きやすいところ。
 結論的には守山の方にあるスタジオに行くことにした。
 電話すると、空いているとのことだったので、とりあえず三時間押さえてもらった。
 駅からは少し距離があったが、髭面長髪のマスターは寡黙な雰囲気で、女一人の送橋さんに対しても余計なことを言わずに準備してくれた。

「何すればいいの?」
『とりあえずスタンド立てましょうか』

 このギターにピックアップは搭載されていない。
 ピックアップとは、ギターの音を拾い上げて電気的な処理をし、ケーブルを繋いだ先のアンプに出力するための装置だ。
 それを搭載していないギターの場合、ギターの前にマイクを設置して、直接音を拾わなければならない。

「スタンドって?」

 送橋さんはきょろきょろとスタジオ内を見渡して、スタンドはスタンドでもまったく見当違いの種類のものを持ち上げては首を傾げている。

『ちょっと僕をそのアンプ……黒い箱の上に立ててもらっていいですか?』
「あいよ」

 いつものスマホスタンドに立たせてもらう。
 これでこの部屋全体が見やすくなった。

『そのミキサー……色々つまみのある機材の隣にある、そうそれです。その折れたところにあるハンドルを回してもらって……あ、それじゃなくて』

 どうにか音が出せるというところまで行き着くのにおよそ一時間を費やした。
 僕にはもう身体はないのに、なぜかぐったりしてしまった。
 送橋さんはと言えば、アンプから出した音に「わあ! わあ!」と、初めておもちゃを与えられた子どものようだ。

「すごいねこの……リバーブ、だっけ? なんか、コンサートホールにいるみたい」
『そういう機能ですからね』

 目を輝かせている送橋さんに、あのミムラとの夜の暗さは見当たらない。
 暇潰し――その単語が、思考の海の中を幾重にも浮遊している。

 送橋さんは何曲か歌った。
 その曲のどれも、僕の弾いていた曲とも呼べない曲の断片が組み込まれている。
 既に死んでしまっている僕から生まれたものが、形を変えて今、送橋さんの歌の中に確かに息づいている。
 全てのものには必ず終わりがあって、例外はない。
 それでも、次の一瞬を生きる者のどこかに何かを残せるのだとしたら、理不尽で、無慈悲な終焉からも、逃れることができるんじゃないだろうか。
 送橋さんの歌を聴きながら、僕はそんなことを考えていた。

「ねえ」
『はい』

 不意に剣呑な声が聞こえた

「さっきから話し掛けてたんだけど」
『本当ですか?』
「聞いてなかったの」
『考え事をしていました』
「何を?」
『死から逃れる方法です』

 僕はさっきまで考えていたことを話した。
 送橋さんは笑わずに、ちゃんと耳を傾けてくれていた。

「でもそれって、綺麗事じゃない?」
『そうかもしれません』
「もしもわたしの歌が誰かの心に残ったとしても、わたしの意思をそこに残せるわけじゃない。スワンプマンの方がまだまし」
『否定はしません』
「宇宙だって終わるんだよ。そうやって、必死こいて繋いだものだって、いつかは途切れる時がくる」
『それでも、何かが残るとしたら』

 熱くなっているな、と思った。
 送橋さんの言葉は全て正しい。
 僕は極めて観念的な話をしている。
 自分でもわかっていた。

 ふう、と送橋さんは大きなため息をついた。
 もうこの話は終わり――のサインだった。

「相談したいなって思ってさ」
『なんですか?』
「歌う曲の順番……そういうの、セットリストって言うんだっけ? 最後の曲をどれにしようかって悩んでるんだけど、きみはどれがいいと思う?」

 送橋さんの歌は甲乙つけがたいほど、どれも好きだった。
 ライブの最後を飾るのは、どれが相応しいのか。
 考えた末、僕は答えを出した。

『〈旅に出ない理由〉がいいんじゃないかと思います』

 ミムラと初めて会った頃にできた曲だった。
 ミムラが好きだと言っていた曲でもある。

「もしかして、あいつに気を使ってる?」
『そうじゃないですけど……でも僕もあの曲、好きなんです』
「でも、あれはきみの曲じゃないでしょ」
『送橋さんの曲、いいですよ』

 あの曲は、僕のギターを下敷きにせず、送橋さんが一から作った曲だった。
 そういう曲は、送橋さんが歌っている十曲のうち、わずか二曲しかない。
 その内の一曲がこの〈旅に出ない理由〉だった。
 送橋さんの内側から自然と生まれたメロディーだからこそ、僕のギターに引っ張られず、気持ちが素直に表れている気がするのだ。
 ミムラが好きだと言ったのも頷ける。

 送橋さんは僕のギターの魅力を『揺らぎ』だと言うが、僕からすれば送橋さんの歌こそ闇と光の間で揺らいでいるように見える。
 その揺らぎこそが、送橋さんの魅力なんじゃないかと僕は思う。

「わたしはきみのギターの方が好きなんだけど」
『僕は送橋さんの曲が好きです』
「……まあ、きみがそう言うなら」

 送橋さんは親指で柔らかく六弦を鳴らした。
 重たい弦が振動し、ボディーを揺らしてアンプから淡い音が漏れてきた。
 ここは静か過ぎて、ギターの響きが暴力のように襲いかかってくる。
 大曽根の雑踏にあるぐらいがちょうどいい具合に紛れるような気がしていた。

「さっきさ、死から逃れる方法って言ったじゃん」
『はい』
「たかがセットリストの話ではあるけどさ。きみが生きた証を残すには、きみの作ったメロディーを選ぶのが一番合理的だとわたしは思うんだけど、そうじゃないの?」
『僕はもう、選んでもらってますから』
「綺麗事はいいよ」
『綺麗事じゃなくて、本当にそう思ってるんです』

 送橋さんは、まるで腑に落ちていない、という顔をしている。
 僕自身まとまらないまま話しているのだから当たり前なのかもしれない。

『つまり、こういうことです。僕は既に送橋さんから選ばれているんです。送橋さんは僕の曲を聴いて、僕の曲を好きになってくれた。僕の曲は、送橋さんの血肉になって溶け込んで、回り回って、全く違う何かとして、送橋さんのオリジナルとして出力されることになります。送橋さんの中には、もう僕がいるんです。僕が選ばれたのと同じです』
「でも、それはきみの魂とは違うものだと思う」
『違うものです。でも、ある意味では同じなんです』
「……わかんない」

 送橋さんはどこか拗ねているようにも見えた。
 目を逸らして、抱えたギターに顎をつくようにして。
 その仕草が妙に子どもっぽくて、おかしかった。
 僕には身体がないので、噴き出すような間抜けな真似はせずに済んだのだけれど。

「わたしは、わたし自身を残したいよ」
『僕も同じです。ただ、こうなったからかもしれませんけど、送橋さんの中にほんの少しでも僕が残っているなら、それでもいいんじゃないか、とも思うんです。〈旅に出ない理由〉には、それがあるんじゃないかと思います』

 僕の模倣から始まった送橋さんの音楽の中には、色濃く僕が残っている。
 僕の曲を使わなかった〈旅に出ない理由〉だからこそ、それがより鮮明になっているように思う。

 僕が散って、溶けて、送橋さんの底に沈殿して。
 そして、送橋さんもまた誰かの中に色濃く残って。
 そうやって繋がっていくものがあるとしたら、僕は母を飲み込んだあの闇を肯定できるのかもしれない。
 この世界を循環する魂の一欠片として。

「……まあ、きみがいいなら、それでいいよ」

 まだ何か言いたそうな顔をしながら、送橋さんはもう一度ギターを抱え直し、ナイロンピックをスチールの六弦に当てた。
 僅かな金属音はマイクを通してアンプを鳴らし、この部屋全体を微かに揺らした。


  旅に出ない理由をいつも探してる
  探さなければ見つからないから


 歌い始めた頃と比べて、送橋さんの歌は優しくなったように思う。
 雨に濡れて柔らかくなった棘のように。
 人が人と接する時、必要以上に温かくすることはできなくても、逆に冷たく突き放すこともできないんじゃないかと思う。
 生の心を歌った歌を聴いて、足を止めた人に対してなら尚更だ。

『ぱちぱちぱち』
「何?」
『拍手できませんから』
「馬鹿にされてるのかと思った」
『一つ聞いてもいいですか』
「どうぞ」
『送橋さんにとって、旅って何なんでしょうか』
「音楽レポーターなの?」
『送橋さんは僕の推しですから。推しのことなら何でも知りたいんです』
「何それ」

 子どもの可愛いいたずらを見た母親のように、送橋さんは肩を揺すった。
 僕はこれでも大真面目だ。

「ぶっちゃけさ、出たくないんだよね。旅になんて。だから、いつまでも出なくて済むように、言い訳をずっと並べてるんだ。でも、言い訳の種もいつか尽きるんじゃないかって。わたしはそれがすごく怖いの」
『だから、送橋さんは歌うんですか?』
「そう。暇潰しだからね、全ては」
『暇潰し』
「そう。全力でやらないとさ、いつか暇に追いつかれて、飲み込まれちゃうの。そこからはきっと誰も逃れられないし、みんな見て見ぬふりをしてる。知らないふりをしてる。でもわたしはそれがよく見えてる。いっそ、何も見えなければよかったのにって思う」

 送橋さんはギターをスタンドに立てかけた。
 壁掛けのアナログ時計は残り時間がもうわずかになっていることを主張していた。

「帰ろっか。片付け方、教えてくれる?」

 送橋さんは口元だけで微かに笑い、天を貫くように大きく大きく伸びをした。