男たちが去っていった後、取り残されたギターの残骸をそのままにしておくわけにもいかず、少しずつ拾い集めていると、同じように木片を拾い集める細い手があった。
「別にいいですよ。気にしないで」
「そんなこと言わないで。手伝わせてください」
疲れ切った彼女――送橋さんの言葉は見た目に反して強く、それ以上のことを僕は言えなかった。
真っ二つに折れたネック、欠けたボディー、弾き飛ばされたペグ。
散らばった残骸の半分くらいを拾い集めたところでケースはパンパンになった。
ギターは、ギターという形をしていることによって美しく、機能的であることができる。
ギターであることをやめた木片群はただのごみでしかなく、嵩張るのだと知った。
詰め切れない木片を前に途方に暮れていると、送橋さんは鞄の中からオレンジ色のエコバッグを取り出した。
「使ってください」
「……ありがとうございます」
その時の僕は、訝しげな感情を顔に出してしまっていたのかもしれない。
人との関わりを軒並み避けて生きてきた僕は、代償の伴わない優しさを訝しむことしかできない。
残った木片を詰め終えた僕の「ありがとうございます」は、まるで不審者に対するそれだったと自分でも思う。
「もしよければ連絡先教えてくれませんか? 力になれることがあれば、何でもしますから」
「連絡先?」
「あの……ライン、とか?」
「……使ったことないです」
「じゃあ、電話番号で。番号教えますから」
彼女はすらすらと自分の番号を暗唱したが、その番号を聞いてどうすればいいのかわからなかった。
結局僕のスマホを渡し、連絡先の登録まで彼女にやってもらって、その場は終わった。
「また連絡します」
何度も頭を下げながら、地下鉄の方へと彼女は消えていった。
まるで、ギターを壊したのは彼女だったみたいだ。
彼女は何も悪くないのに。
ギターを弾こうにも、ギターは壊れてしまったので家に帰るほかなかった。
僕の住んでいるアパートは大曽根駅から徒歩十五分くらいの場所にあった。
背負ったギターケースの中で、壊れたギターの木片と千切れた弦が擦れて不快な音がしていた。
アパートに着いて、水道水をそのまま一杯飲み干して、改めてギターケースを開いた。
そこには、さっき駅で見たままの、無残な姿に成り果てたギターがあった。
母の死に様と重ねてしまったことを思い出し、さっき飲んだばかりの水を洗面台で吐き出した。
これは死体だ。
バラバラになったギターの死体。
どう手を施そうともこのギターは二度と元に戻らない。
二トントラックに轢かれて死んだ母が、もう二度と蘇りはしないのと同じだ。
父からもらった唯一の物は、なくなってしまった。
ここにあるのは、その残骸でしかない。
ぽとりと、自分の手に雫が落ちた。
頬を伝う何かに手を伸ばすと、指先が濡れた。
泣いてるのかと、自分で自分が不思議だった。
自分の内側に渦巻く感情が何なのかもわからないまま、僕は泣いた。
自分が泣いているという自覚が、さらに涙を生んだ。
彼女を助けようとしたこと自体に後悔はないし、あの男たちに対する恨みの気持ちもない。
ただ、そこにあったものがなくなってしまったという事実に、胸が潰れそうになっていた。
ベッドに顔を埋めて泣いていると、いつの間にか気を失っていた。
次に気が付いた時には、窓の外の日は既に高く昇っていた。
時計を見ると、十一時。
あと一時間でバイトに出かけなければならない時間だが、何もする気が起こらなかった。
ふと横を見ると、傍らに置いたスマホのインジケータがぴかぴかと緑色に光っているのに気付いた。
まるで見たことのない光だった。
めったに灯らないスマホの通知には、ショートメールの着信があったと書かれている。
発信元は、送橋由宇。
聞き覚えのない名前に記憶を探ると、昨日会った彼女だと思い至った。
メッセージには、端的にこう書かれていた。
『今日の夕方、お時間ください。六時に、大曽根駅北口のいつもの場所で待っています』
昼のバイトを終えて大曽根駅に着くと、時計はもう六時を回っていた。
誓って言うが、わざと遅れたわけではない。
今日に限って帰り際に余分な荷物の運搬を頼まれたのも不運だった。
けど、そのお願いを突っぱねなかったのも、あの人が本当に自分を待っているとは信じられなかったからだ。
二十五パーセントくらい期待しながら小走りでロータリーを駆け抜けると、いつもの場所に送橋さんは立っていた。
「来ないかと思いました」
「す、すみません。バイトで、遅れちゃって」
「全然いいですよ。呼び出したのはわたしの方ですし。むしろ、来てくださってありがとうございます」
相好を崩した彼女に、いつもの疲れた雰囲気はなかった。
むしろ、少し浮き立っているようにすら感じる。
いつものOL然とした服装ではなく、ジーンズに淡い水色のカーディガンを羽織っていて、まるで同い年くらいの女子みたいだった。
「なんか、いつもと雰囲気違いますね」
「あ、わかります?」
彼女のいたずらっぽい笑みに、失敗したことを気付かされた。
これでは、あなたのことをいつも見ていましたと白状したも同然だ。
言葉に詰まっていると、彼女は「うふふ」と含み笑いをした。
そんな表情を見たのは、これが初めてだった。
「今日はお休みいただいたんです。有休たまっちゃってたから」
そうですかと相槌を打ちながら、彼女をあそこまで疲れさせていたのは、彼女の仕事なのだろうか、と僕は考えた。
もしそうだとしたら仕事とは、あれほどまでに人の精神を摩耗させるものなのだろうか。
倉庫のバイトしかしたことのない僕には、よくわからなかった。
「じゃあ、行きましょ」
「どこへ行くんですか?」
「いいところ」
彼女はまた小さく笑って、地下鉄の駅の方へと歩き始めた。
どこへ連れて行かれるのかわからないまま、彼女の背中を追って歩いた。
帰路に就く群衆をかき分けながら、軽やかに改札を潜る。
「あ、」
「どうしたの?」
「僕、マナカ持ってないです」
「まじ?」
図鑑にも載っていない珍獣を見たような目で見られてしまった。
「あ、あの、僕、基本徒歩ですし、バイトも近くなので……待ってください。どこまで行くんですか? 切符買って――」
「ん」
彼女は躊躇わずに財布から千円札を出した。
「ほら、これで買ってきてください」
「え、でも、」
「いいから、早く!」
もう札を投げんばかりだった。
散々躊躇した後で仕方なく受け取ったお札は角が少しだけ曲がっていた。
「二百四十円ね。待ってますから」
券売機に向かう僕の目はきっと、点滅しているみたいに白黒していたと思う。
何度投入口に差し入れても、まるで入金を拒むかのように戻ってくる千円札。
改札の向こうで待たせていることや、僕の後ろにできている列に焦りながら、どうにか二百四十円の切符を買った。
手には、じっとりとした汗が滲んでいた。
「すみません」
「ほら、行きますよ!」
僕が追いつくと、送橋さんはすたすたと歩いて名城線左回りの地下鉄に乗った。
ちょうど二人分空いた席に並んで腰かける。
「枯野くんって、いくつなんです?」
「八月で十九になります」
「わっか! ちなみに、わたしはいくつに見えます?」
「えっと……」
年上の女性から自分の年齢クイズを出題された時は、見た目の直感よりも少し若めに言わなければならない。
人付き合いの苦手な僕だが、そのぐらいの常識は持っていた。
「二十……ですか?」
「ぷっ、ちょっと、気使いすぎ! 今年で二十五です。ひと昔前ならクリスマスケーキって言われてた年ですね」
「クリスマスケーキ?」
あまりにも脈絡のない単語に首を捻っていると、送橋さんは「ごめん、忘れて」と苦笑いした。
そんな会話を続けている間も地下鉄は走り続けていて、駅名が変わったばかりの名古屋城駅を出るところだった。
「どこまで行くんですか?」
「栄。次の次。栄はよく行きます?」
「一度だけ」
母が生きていた頃に、百貨店が立ち並ぶ大津通を二人で歩いたことはある。
ちょうど歩行者天国をやっていた時だったので、車道の真ん中を人が普通に歩いていたのにはびっくりした。
何かお祭りでもやっているのかと思ったものだ。
「栄に何をしに?」
「それは着いてのお楽しみ」
車輪とレールが擦れ合う音がして、地下鉄がホームに滑り込んだ。
さ、行くよと自然に手を引かれ、どぎまぎしながら混み合うホームを歩いた。
送橋さんの歩く速度は僕よりもかなり速くて、大人はこんなに速く歩くものなんだろうかと思った。
二十五才の女性なんて、話したことすらない。
ましてや手を繋ぐなんて。
名城線の長い階段を登り、少しだけ人がまばらになった地下街を縫うように歩き、地下街と直結しているビルのうちの一つに入った。
ひたすらエスカレーターで上に昇っていく。
僕の目の前には送橋さんのお尻があった。
ずっと彼女のお尻を眺め続けるのも悪い気がして、僕はずっと行きもしない売り場の方ばかり見ていた。
ダイソーを過ぎ、ブックオフを超え、どこまで登るのか不安になってきたところで彼女はフロアへと歩き出した。
その先にはエレキギターの群れが、朝礼で並ばされるバイトのように等間隔に並べられていた。
「教えてほしいことがあるんです」
「教えてほしいこと?」
僕が聞き返すのも構わず、送橋さんはギターの林の中に踏み込んでいく。
おっかなびっくり着いていくが、どこかに引っかけて、ドミノみたいに倒してしまわないかだけが不安だった。
「わたしはギターのことわからないから、教えてほしいんです。この中で一番いいギターがどれなのか」
「値段が高いギターなんじゃないんですか?」
「お金は、ただのお金でしかないです。わたしにはよくわからないけど、板が違えば音色も変わるんでしょ? それって個性じゃないですか。値段で良し悪しは決まらないって、それぐらいはわかります。値札見ればわかることが知りたいんじゃなく、枯野くんにとって一番のギターが知りたいんですよ」
「はあ」
よくわからないことを訊いてくる人だなと思った。
ともあれ、頼まれたからには選ばなくてはならない。
僕にとって一番いいギターとは一体何なのだろう。
僕は父にもらったギターに満足していたから、自分から進んで他のギターを探そうと思ったことはなかった。
ギターのメーカーも知らないし、触ったこともない。
「店員さんに訊いては?」
「だめ」
にべもなかった。
さっきまで僕を先導した背中は、完全に背後へ回った。
僕の動きの一つ一つを油断なく観察している。
奇妙な緊張感に、ごくりと生唾を飲み込む。
僕はこの人に何かを試されているらしいが、何を試されているのかはわからない。
僕にとって、一番いいもの。
僕は父からあのギターをもらってから、ずっとアコースティックギターを弾いてきた。
アコースティックギターの音色にこそ、あの深層へと繋がる道を見いだせていたと思うのだ。
ならばエレキギターは選択肢から外してしまうべきだろう。
アコースティックギターに絞り、それぞれのギターを見比べていく。
ギブソンにマーチン、ヤマハ、ギルド、エピフォン。
アコースティックギターという枠は同じなのに、こんなにもたくさんのメーカーがあるんだと初めて知った。
気になったものは弾かせてもらったりもした。
どのギターもそれぞれの音色があった。
きらびやかなものもあれば、枯れて落ち着いたものも。
どれも言葉では言い表せないほど深い響きを持っていて、元々僕が持っていたあのギターとは比べ物にならないほどだ。
だけど僕は、どうしても昨日壊れたギターを忘れることはできなかった。
「見つからない?」
別に構わないよ、という声だった。
閉店時間は八時とあった。
残り時間は少ない。
元々わけの分からないお願いなのだから、適当に選んでもいいし、なんなら反故にしてしまったって良かった。
だけど、なぜかこの人のお願いはちゃんと聞かなければならないと感じていた。
思えば初めて見かけたあの日から、僕はこの人の魂が自分と似通っているということを、無意識の内に感じ取っていたのかもしれない。
もちろん、その時にはそんなこと考えもしなかったのだけれど。
時間に追い立てられながら、通りすがった一角に置かれたギターに目が吸い寄せられた。
ギターの方から僕を求めているような、吸引力のようなものを感じたのは初めてだった。
「これ、弾いてみたいです」
指差すと、送橋さんはすぐさま店員さんに声をかけた。
店員さんがチューニングする音を聴いて、自分の直感が間違っていなかったことを確信した。
店員さんから受け取り、いつも弾いているメロディーをなぞると、たったそれだけで目の前の景色がふっと暗くなった。
あのギターを弾いた時にあった、日の光の届かない深みへと落ちていく感覚。
ぱっと目を上げ、送橋さんの方を見ると、彼女は小さく二度、首を縦に振った。
「すみません! これ、買います!」
送橋さんは、フロア中に響き渡りそうな大声で店員の背中に呼びかけた。
「ごめんなさい、持ってもらっちゃって」
「全然大丈夫です」
買ったギターを持ったまま、大曽根まで戻ってきた。
時刻は夜の九時を回ったところだが、駅周辺の賑わいはまだ続いている。
片手持ちでハードケースを運んでくるのは大変だった。
値段がいくらだったのかは見せてもらえなかったが、店員さんの反応から、かなり高価な代物なのだろうということは察せられた。
「どこまで運べばいいですか?」
「いつもの場所まででいいですよ」
ちょうど地下鉄出入口から上がってきたところで、僕の定位置までは残り百メートルくらいあった。
到着すると、送橋さんは「開けてくれますか?」と促した。
僕はいつもの場所に座り、ケースを地べたに置いて開封した。
見たこともないほど豪華なケースに収まっているのはマーチンのギターだ。
ドレッドノートのボディーには、縦に大きな傷がついていた。
アウトレットだがいいか、ということは店員が何度も説明していたので理解はしていた。
僕が生まれるより五十年も前に作られたギターで、今ではもう手に入らない木材が使われているらしい。
「弾いてみてくれます?」
「いいんですか?」
「だってわたし、弾けないもの」
彼女は僕の目の前にしゃがんだ。
まるで、早く弾けと催促しているように。
何か釈然としないものを感じながらギターを構えるが、Gコードをたった一度鳴らしただけで、あっという間に僕は深海の底深くまで潜ることができた。
このギターは、すごい。
高価なギターもいくつか触ったが、ここまでの深みを持った音を鳴らせるギターは一本たりともなかった。
僕より五十年も早くこの世に生まれて、それからずっと弾き込まれて来たのだろう。
このギターを弾き続けてきた人の顔を、否応なしに想像してしまう。
もうこの世にはいないのかもしれない。
でもその人は、この世を去るまでずっと、このギターを弾き続けていたはずだ。
雨の日も、風の日も。
僕が、あの壊れてしまったギターでそうしていたように。
見てもいないのに、音に刻まれた記憶に触れるように感じた。
どこまででも深く潜ってきた、その経験値が木目一つ一つに刻み込まれているみたいだった。
一曲弾き終わると、送橋さんはぱちぱちぱちと手を叩いた。
考えてみれば、自分の演奏に対して他人から拍手をもらうのはこれが初めての経験だった。
「お願い、聞いてくれないかな」
「何ですか?」
「このギター、きみにもらってほしいの」
「えっ、それはだめですよ」
「どうして?」
「だって、このギターは、ものすごく高い」
値段をはっきりと見たわけではない。
だけど、普通のギターとは違い、温度や湿度が厳重に管理されたケースの中に置いてあった。
下手したら車を一台買えるくらいの値札が掛けられていたものもあった。
そんなものをもらう謂れは、僕にはない。
「わたし、言ったよね。お金はただのお金でしかないって」
「それでもお金はお金でしょ。無駄にしていいものじゃなくないですか」
「お金のこと神聖視しすぎだよ。お金なんて、時間は買えないし、人の気持ちだって買えない。命だって。所詮その程度のものなんだよ。きみが畏まらなきゃならないようなものじゃない」
「でも」
「わたし、あなたのギターが好きなの。あんな連中のせいであなたのギターが聴けなくなるなんてイヤだし、それにどうせ聴くなら最高の条件で聴きたいもの。これは、わたしにとってメリットのある投資。わたしはそう思ってるよ」
まくしたてるような口調に、何も言えなくなる。
圧力で押し込まれるなんて、初めての経験だ。
しかも、こんなに細くて小さい、年上の女性に。
「きみがそんなに申し訳ないって思うなら、条件をつけてあげるよ。きみは必ず、今までと同じようにここに来て、わたしのためにギターを弾くこと。それでどう?」
「……僕には得しかありません」
「わたしにも、だよ。こういうの、ウィンウィンって言うんでしょ。知ってる?」
「言葉くらいは」
「じゃあいいじゃない。決まり。よろしくね」
送橋さんは、いつもの疲れた様子が嘘みたいな強気で、僕に手を差し出した。
こんなに高価なものをもらえないという遠慮と、どうして彼女がそんなことをする必要があるのだろうかという不信感が、彼女の手を握り返すことを躊躇わせていた。
「……信じられないんです」
「何が?」
「僕は決して上手くない。ここで弾いているのだって、誰かに聴いてほしいからじゃなく、単に弾く場所がなかっただけです。聴かせようとすら思っていない僕が、そんな約束、できないです」
「わたしがいいって言ってるんだから、いいじゃん」
「わからないんですよ。送橋さんは、僕のギターの何がいいんですか?」
その瞬間、送橋さんの意識がここじゃないどこかへと沈んだ。
少なくとも、僕にはそう見えた。
僕は、自分の意識をその静かな場所へと運ぶために、ギターを弾いている。
だけど彼女は、そんなものすら必要としないのかもしれない。
ふっと小さく息を吐いた後、送橋さんはこう言った。
「きみの演奏にはね、どこか死の匂いがするの」
どくんと、胸の奥で心臓が呻いた。
「初めて聴いた時から思ってた。きみは生きているもののために弾いていないって。誰かに聴いてほしいとも思っていないし、自分が気持ちよくなるためでもない。下手すれば、生きたいとすら思っていないような。でも、何かを探してるんだって思った。だとすれば、それは何なんだろうって思ったの」
送橋さんの言葉は、ギターを手に入れてからの僕がやってきたことを言い当てられたように思えた。
ギターを弾くことは、僕が踏み越えられず、母があっさりと踏み越えたその線に迫るための営為で、誰かに理解されるとも、されたいとも思っていなかった。
だけど、こうして言い当てられてみると、これまでに感じたことのない感情が湧き上がってきた。
恥ずかしさなのかもしれないし、喜びなのかもしれない。
悲しみや怒り、恐ろしさでもあり、そのどれでもない。
ただ一つ、僕の魂だけが、身体の奥底にある闇の中で、静かにその身を震わせていた。
「僕、中学の時に母親が死んで。僕も同じように事故に遭ったのに、母は呆気なく死んで、僕だけがなぜか生き残って。親父にも捨てられて」
僕は何を話そうとしているのだろう。
自分で自分の言葉が制御できない。
支離滅裂で、自分でも何を言っているのかがわからない。
「知りたいんです、死ぬってなんなのか。どういうことなのかって。母はどこに行ったのか、僕はどこに行くはずだったのかって。僕にとってギターはその手段なんです。それ以上でもそれ以下でもないんです」
目の前の景色が滲んできた。
僕はこの人の前で泣いてしまうのだろうか。
そんなこと、嫌で嫌でたまらないのに。
だけど、涙も、口も、自分の意思では止められそうになかった。
「ごめんなさい、よくわからないこと言ってますよね」
「ううん」
ふわっと覆われた。
送橋さんに頭を丸ごと抱き締められたのだと気づいたのは、数秒経ってからだった。
「わかるよ。わかる」
出まかせなんかじゃない。そう思った。
「こういうのはどう?」
僕を抱え込んだまま、送橋さんは言った。
「あのギターはきみに貸してあげる」
「いつまで、ですか?」
「きみが死ぬまで」
「え?」
送橋さんは僕から身体をそろりと離し、柔らかく微笑んだ。
「きみが死んだら――死ぬってことがどういうことなのか、理解できたら返して。それで、どう?」
「……はい」
僕は一度だけ頷いた。
「よろしくね、末永く」
もう一度、差し出された手。
今度は、ちゃんと握ることができた。
これは――契約だ。
送橋さんと、僕との。
この世で誰も見たことのない暗闇の世界を見に行くための。
「別にいいですよ。気にしないで」
「そんなこと言わないで。手伝わせてください」
疲れ切った彼女――送橋さんの言葉は見た目に反して強く、それ以上のことを僕は言えなかった。
真っ二つに折れたネック、欠けたボディー、弾き飛ばされたペグ。
散らばった残骸の半分くらいを拾い集めたところでケースはパンパンになった。
ギターは、ギターという形をしていることによって美しく、機能的であることができる。
ギターであることをやめた木片群はただのごみでしかなく、嵩張るのだと知った。
詰め切れない木片を前に途方に暮れていると、送橋さんは鞄の中からオレンジ色のエコバッグを取り出した。
「使ってください」
「……ありがとうございます」
その時の僕は、訝しげな感情を顔に出してしまっていたのかもしれない。
人との関わりを軒並み避けて生きてきた僕は、代償の伴わない優しさを訝しむことしかできない。
残った木片を詰め終えた僕の「ありがとうございます」は、まるで不審者に対するそれだったと自分でも思う。
「もしよければ連絡先教えてくれませんか? 力になれることがあれば、何でもしますから」
「連絡先?」
「あの……ライン、とか?」
「……使ったことないです」
「じゃあ、電話番号で。番号教えますから」
彼女はすらすらと自分の番号を暗唱したが、その番号を聞いてどうすればいいのかわからなかった。
結局僕のスマホを渡し、連絡先の登録まで彼女にやってもらって、その場は終わった。
「また連絡します」
何度も頭を下げながら、地下鉄の方へと彼女は消えていった。
まるで、ギターを壊したのは彼女だったみたいだ。
彼女は何も悪くないのに。
ギターを弾こうにも、ギターは壊れてしまったので家に帰るほかなかった。
僕の住んでいるアパートは大曽根駅から徒歩十五分くらいの場所にあった。
背負ったギターケースの中で、壊れたギターの木片と千切れた弦が擦れて不快な音がしていた。
アパートに着いて、水道水をそのまま一杯飲み干して、改めてギターケースを開いた。
そこには、さっき駅で見たままの、無残な姿に成り果てたギターがあった。
母の死に様と重ねてしまったことを思い出し、さっき飲んだばかりの水を洗面台で吐き出した。
これは死体だ。
バラバラになったギターの死体。
どう手を施そうともこのギターは二度と元に戻らない。
二トントラックに轢かれて死んだ母が、もう二度と蘇りはしないのと同じだ。
父からもらった唯一の物は、なくなってしまった。
ここにあるのは、その残骸でしかない。
ぽとりと、自分の手に雫が落ちた。
頬を伝う何かに手を伸ばすと、指先が濡れた。
泣いてるのかと、自分で自分が不思議だった。
自分の内側に渦巻く感情が何なのかもわからないまま、僕は泣いた。
自分が泣いているという自覚が、さらに涙を生んだ。
彼女を助けようとしたこと自体に後悔はないし、あの男たちに対する恨みの気持ちもない。
ただ、そこにあったものがなくなってしまったという事実に、胸が潰れそうになっていた。
ベッドに顔を埋めて泣いていると、いつの間にか気を失っていた。
次に気が付いた時には、窓の外の日は既に高く昇っていた。
時計を見ると、十一時。
あと一時間でバイトに出かけなければならない時間だが、何もする気が起こらなかった。
ふと横を見ると、傍らに置いたスマホのインジケータがぴかぴかと緑色に光っているのに気付いた。
まるで見たことのない光だった。
めったに灯らないスマホの通知には、ショートメールの着信があったと書かれている。
発信元は、送橋由宇。
聞き覚えのない名前に記憶を探ると、昨日会った彼女だと思い至った。
メッセージには、端的にこう書かれていた。
『今日の夕方、お時間ください。六時に、大曽根駅北口のいつもの場所で待っています』
昼のバイトを終えて大曽根駅に着くと、時計はもう六時を回っていた。
誓って言うが、わざと遅れたわけではない。
今日に限って帰り際に余分な荷物の運搬を頼まれたのも不運だった。
けど、そのお願いを突っぱねなかったのも、あの人が本当に自分を待っているとは信じられなかったからだ。
二十五パーセントくらい期待しながら小走りでロータリーを駆け抜けると、いつもの場所に送橋さんは立っていた。
「来ないかと思いました」
「す、すみません。バイトで、遅れちゃって」
「全然いいですよ。呼び出したのはわたしの方ですし。むしろ、来てくださってありがとうございます」
相好を崩した彼女に、いつもの疲れた雰囲気はなかった。
むしろ、少し浮き立っているようにすら感じる。
いつものOL然とした服装ではなく、ジーンズに淡い水色のカーディガンを羽織っていて、まるで同い年くらいの女子みたいだった。
「なんか、いつもと雰囲気違いますね」
「あ、わかります?」
彼女のいたずらっぽい笑みに、失敗したことを気付かされた。
これでは、あなたのことをいつも見ていましたと白状したも同然だ。
言葉に詰まっていると、彼女は「うふふ」と含み笑いをした。
そんな表情を見たのは、これが初めてだった。
「今日はお休みいただいたんです。有休たまっちゃってたから」
そうですかと相槌を打ちながら、彼女をあそこまで疲れさせていたのは、彼女の仕事なのだろうか、と僕は考えた。
もしそうだとしたら仕事とは、あれほどまでに人の精神を摩耗させるものなのだろうか。
倉庫のバイトしかしたことのない僕には、よくわからなかった。
「じゃあ、行きましょ」
「どこへ行くんですか?」
「いいところ」
彼女はまた小さく笑って、地下鉄の駅の方へと歩き始めた。
どこへ連れて行かれるのかわからないまま、彼女の背中を追って歩いた。
帰路に就く群衆をかき分けながら、軽やかに改札を潜る。
「あ、」
「どうしたの?」
「僕、マナカ持ってないです」
「まじ?」
図鑑にも載っていない珍獣を見たような目で見られてしまった。
「あ、あの、僕、基本徒歩ですし、バイトも近くなので……待ってください。どこまで行くんですか? 切符買って――」
「ん」
彼女は躊躇わずに財布から千円札を出した。
「ほら、これで買ってきてください」
「え、でも、」
「いいから、早く!」
もう札を投げんばかりだった。
散々躊躇した後で仕方なく受け取ったお札は角が少しだけ曲がっていた。
「二百四十円ね。待ってますから」
券売機に向かう僕の目はきっと、点滅しているみたいに白黒していたと思う。
何度投入口に差し入れても、まるで入金を拒むかのように戻ってくる千円札。
改札の向こうで待たせていることや、僕の後ろにできている列に焦りながら、どうにか二百四十円の切符を買った。
手には、じっとりとした汗が滲んでいた。
「すみません」
「ほら、行きますよ!」
僕が追いつくと、送橋さんはすたすたと歩いて名城線左回りの地下鉄に乗った。
ちょうど二人分空いた席に並んで腰かける。
「枯野くんって、いくつなんです?」
「八月で十九になります」
「わっか! ちなみに、わたしはいくつに見えます?」
「えっと……」
年上の女性から自分の年齢クイズを出題された時は、見た目の直感よりも少し若めに言わなければならない。
人付き合いの苦手な僕だが、そのぐらいの常識は持っていた。
「二十……ですか?」
「ぷっ、ちょっと、気使いすぎ! 今年で二十五です。ひと昔前ならクリスマスケーキって言われてた年ですね」
「クリスマスケーキ?」
あまりにも脈絡のない単語に首を捻っていると、送橋さんは「ごめん、忘れて」と苦笑いした。
そんな会話を続けている間も地下鉄は走り続けていて、駅名が変わったばかりの名古屋城駅を出るところだった。
「どこまで行くんですか?」
「栄。次の次。栄はよく行きます?」
「一度だけ」
母が生きていた頃に、百貨店が立ち並ぶ大津通を二人で歩いたことはある。
ちょうど歩行者天国をやっていた時だったので、車道の真ん中を人が普通に歩いていたのにはびっくりした。
何かお祭りでもやっているのかと思ったものだ。
「栄に何をしに?」
「それは着いてのお楽しみ」
車輪とレールが擦れ合う音がして、地下鉄がホームに滑り込んだ。
さ、行くよと自然に手を引かれ、どぎまぎしながら混み合うホームを歩いた。
送橋さんの歩く速度は僕よりもかなり速くて、大人はこんなに速く歩くものなんだろうかと思った。
二十五才の女性なんて、話したことすらない。
ましてや手を繋ぐなんて。
名城線の長い階段を登り、少しだけ人がまばらになった地下街を縫うように歩き、地下街と直結しているビルのうちの一つに入った。
ひたすらエスカレーターで上に昇っていく。
僕の目の前には送橋さんのお尻があった。
ずっと彼女のお尻を眺め続けるのも悪い気がして、僕はずっと行きもしない売り場の方ばかり見ていた。
ダイソーを過ぎ、ブックオフを超え、どこまで登るのか不安になってきたところで彼女はフロアへと歩き出した。
その先にはエレキギターの群れが、朝礼で並ばされるバイトのように等間隔に並べられていた。
「教えてほしいことがあるんです」
「教えてほしいこと?」
僕が聞き返すのも構わず、送橋さんはギターの林の中に踏み込んでいく。
おっかなびっくり着いていくが、どこかに引っかけて、ドミノみたいに倒してしまわないかだけが不安だった。
「わたしはギターのことわからないから、教えてほしいんです。この中で一番いいギターがどれなのか」
「値段が高いギターなんじゃないんですか?」
「お金は、ただのお金でしかないです。わたしにはよくわからないけど、板が違えば音色も変わるんでしょ? それって個性じゃないですか。値段で良し悪しは決まらないって、それぐらいはわかります。値札見ればわかることが知りたいんじゃなく、枯野くんにとって一番のギターが知りたいんですよ」
「はあ」
よくわからないことを訊いてくる人だなと思った。
ともあれ、頼まれたからには選ばなくてはならない。
僕にとって一番いいギターとは一体何なのだろう。
僕は父にもらったギターに満足していたから、自分から進んで他のギターを探そうと思ったことはなかった。
ギターのメーカーも知らないし、触ったこともない。
「店員さんに訊いては?」
「だめ」
にべもなかった。
さっきまで僕を先導した背中は、完全に背後へ回った。
僕の動きの一つ一つを油断なく観察している。
奇妙な緊張感に、ごくりと生唾を飲み込む。
僕はこの人に何かを試されているらしいが、何を試されているのかはわからない。
僕にとって、一番いいもの。
僕は父からあのギターをもらってから、ずっとアコースティックギターを弾いてきた。
アコースティックギターの音色にこそ、あの深層へと繋がる道を見いだせていたと思うのだ。
ならばエレキギターは選択肢から外してしまうべきだろう。
アコースティックギターに絞り、それぞれのギターを見比べていく。
ギブソンにマーチン、ヤマハ、ギルド、エピフォン。
アコースティックギターという枠は同じなのに、こんなにもたくさんのメーカーがあるんだと初めて知った。
気になったものは弾かせてもらったりもした。
どのギターもそれぞれの音色があった。
きらびやかなものもあれば、枯れて落ち着いたものも。
どれも言葉では言い表せないほど深い響きを持っていて、元々僕が持っていたあのギターとは比べ物にならないほどだ。
だけど僕は、どうしても昨日壊れたギターを忘れることはできなかった。
「見つからない?」
別に構わないよ、という声だった。
閉店時間は八時とあった。
残り時間は少ない。
元々わけの分からないお願いなのだから、適当に選んでもいいし、なんなら反故にしてしまったって良かった。
だけど、なぜかこの人のお願いはちゃんと聞かなければならないと感じていた。
思えば初めて見かけたあの日から、僕はこの人の魂が自分と似通っているということを、無意識の内に感じ取っていたのかもしれない。
もちろん、その時にはそんなこと考えもしなかったのだけれど。
時間に追い立てられながら、通りすがった一角に置かれたギターに目が吸い寄せられた。
ギターの方から僕を求めているような、吸引力のようなものを感じたのは初めてだった。
「これ、弾いてみたいです」
指差すと、送橋さんはすぐさま店員さんに声をかけた。
店員さんがチューニングする音を聴いて、自分の直感が間違っていなかったことを確信した。
店員さんから受け取り、いつも弾いているメロディーをなぞると、たったそれだけで目の前の景色がふっと暗くなった。
あのギターを弾いた時にあった、日の光の届かない深みへと落ちていく感覚。
ぱっと目を上げ、送橋さんの方を見ると、彼女は小さく二度、首を縦に振った。
「すみません! これ、買います!」
送橋さんは、フロア中に響き渡りそうな大声で店員の背中に呼びかけた。
「ごめんなさい、持ってもらっちゃって」
「全然大丈夫です」
買ったギターを持ったまま、大曽根まで戻ってきた。
時刻は夜の九時を回ったところだが、駅周辺の賑わいはまだ続いている。
片手持ちでハードケースを運んでくるのは大変だった。
値段がいくらだったのかは見せてもらえなかったが、店員さんの反応から、かなり高価な代物なのだろうということは察せられた。
「どこまで運べばいいですか?」
「いつもの場所まででいいですよ」
ちょうど地下鉄出入口から上がってきたところで、僕の定位置までは残り百メートルくらいあった。
到着すると、送橋さんは「開けてくれますか?」と促した。
僕はいつもの場所に座り、ケースを地べたに置いて開封した。
見たこともないほど豪華なケースに収まっているのはマーチンのギターだ。
ドレッドノートのボディーには、縦に大きな傷がついていた。
アウトレットだがいいか、ということは店員が何度も説明していたので理解はしていた。
僕が生まれるより五十年も前に作られたギターで、今ではもう手に入らない木材が使われているらしい。
「弾いてみてくれます?」
「いいんですか?」
「だってわたし、弾けないもの」
彼女は僕の目の前にしゃがんだ。
まるで、早く弾けと催促しているように。
何か釈然としないものを感じながらギターを構えるが、Gコードをたった一度鳴らしただけで、あっという間に僕は深海の底深くまで潜ることができた。
このギターは、すごい。
高価なギターもいくつか触ったが、ここまでの深みを持った音を鳴らせるギターは一本たりともなかった。
僕より五十年も早くこの世に生まれて、それからずっと弾き込まれて来たのだろう。
このギターを弾き続けてきた人の顔を、否応なしに想像してしまう。
もうこの世にはいないのかもしれない。
でもその人は、この世を去るまでずっと、このギターを弾き続けていたはずだ。
雨の日も、風の日も。
僕が、あの壊れてしまったギターでそうしていたように。
見てもいないのに、音に刻まれた記憶に触れるように感じた。
どこまででも深く潜ってきた、その経験値が木目一つ一つに刻み込まれているみたいだった。
一曲弾き終わると、送橋さんはぱちぱちぱちと手を叩いた。
考えてみれば、自分の演奏に対して他人から拍手をもらうのはこれが初めての経験だった。
「お願い、聞いてくれないかな」
「何ですか?」
「このギター、きみにもらってほしいの」
「えっ、それはだめですよ」
「どうして?」
「だって、このギターは、ものすごく高い」
値段をはっきりと見たわけではない。
だけど、普通のギターとは違い、温度や湿度が厳重に管理されたケースの中に置いてあった。
下手したら車を一台買えるくらいの値札が掛けられていたものもあった。
そんなものをもらう謂れは、僕にはない。
「わたし、言ったよね。お金はただのお金でしかないって」
「それでもお金はお金でしょ。無駄にしていいものじゃなくないですか」
「お金のこと神聖視しすぎだよ。お金なんて、時間は買えないし、人の気持ちだって買えない。命だって。所詮その程度のものなんだよ。きみが畏まらなきゃならないようなものじゃない」
「でも」
「わたし、あなたのギターが好きなの。あんな連中のせいであなたのギターが聴けなくなるなんてイヤだし、それにどうせ聴くなら最高の条件で聴きたいもの。これは、わたしにとってメリットのある投資。わたしはそう思ってるよ」
まくしたてるような口調に、何も言えなくなる。
圧力で押し込まれるなんて、初めての経験だ。
しかも、こんなに細くて小さい、年上の女性に。
「きみがそんなに申し訳ないって思うなら、条件をつけてあげるよ。きみは必ず、今までと同じようにここに来て、わたしのためにギターを弾くこと。それでどう?」
「……僕には得しかありません」
「わたしにも、だよ。こういうの、ウィンウィンって言うんでしょ。知ってる?」
「言葉くらいは」
「じゃあいいじゃない。決まり。よろしくね」
送橋さんは、いつもの疲れた様子が嘘みたいな強気で、僕に手を差し出した。
こんなに高価なものをもらえないという遠慮と、どうして彼女がそんなことをする必要があるのだろうかという不信感が、彼女の手を握り返すことを躊躇わせていた。
「……信じられないんです」
「何が?」
「僕は決して上手くない。ここで弾いているのだって、誰かに聴いてほしいからじゃなく、単に弾く場所がなかっただけです。聴かせようとすら思っていない僕が、そんな約束、できないです」
「わたしがいいって言ってるんだから、いいじゃん」
「わからないんですよ。送橋さんは、僕のギターの何がいいんですか?」
その瞬間、送橋さんの意識がここじゃないどこかへと沈んだ。
少なくとも、僕にはそう見えた。
僕は、自分の意識をその静かな場所へと運ぶために、ギターを弾いている。
だけど彼女は、そんなものすら必要としないのかもしれない。
ふっと小さく息を吐いた後、送橋さんはこう言った。
「きみの演奏にはね、どこか死の匂いがするの」
どくんと、胸の奥で心臓が呻いた。
「初めて聴いた時から思ってた。きみは生きているもののために弾いていないって。誰かに聴いてほしいとも思っていないし、自分が気持ちよくなるためでもない。下手すれば、生きたいとすら思っていないような。でも、何かを探してるんだって思った。だとすれば、それは何なんだろうって思ったの」
送橋さんの言葉は、ギターを手に入れてからの僕がやってきたことを言い当てられたように思えた。
ギターを弾くことは、僕が踏み越えられず、母があっさりと踏み越えたその線に迫るための営為で、誰かに理解されるとも、されたいとも思っていなかった。
だけど、こうして言い当てられてみると、これまでに感じたことのない感情が湧き上がってきた。
恥ずかしさなのかもしれないし、喜びなのかもしれない。
悲しみや怒り、恐ろしさでもあり、そのどれでもない。
ただ一つ、僕の魂だけが、身体の奥底にある闇の中で、静かにその身を震わせていた。
「僕、中学の時に母親が死んで。僕も同じように事故に遭ったのに、母は呆気なく死んで、僕だけがなぜか生き残って。親父にも捨てられて」
僕は何を話そうとしているのだろう。
自分で自分の言葉が制御できない。
支離滅裂で、自分でも何を言っているのかがわからない。
「知りたいんです、死ぬってなんなのか。どういうことなのかって。母はどこに行ったのか、僕はどこに行くはずだったのかって。僕にとってギターはその手段なんです。それ以上でもそれ以下でもないんです」
目の前の景色が滲んできた。
僕はこの人の前で泣いてしまうのだろうか。
そんなこと、嫌で嫌でたまらないのに。
だけど、涙も、口も、自分の意思では止められそうになかった。
「ごめんなさい、よくわからないこと言ってますよね」
「ううん」
ふわっと覆われた。
送橋さんに頭を丸ごと抱き締められたのだと気づいたのは、数秒経ってからだった。
「わかるよ。わかる」
出まかせなんかじゃない。そう思った。
「こういうのはどう?」
僕を抱え込んだまま、送橋さんは言った。
「あのギターはきみに貸してあげる」
「いつまで、ですか?」
「きみが死ぬまで」
「え?」
送橋さんは僕から身体をそろりと離し、柔らかく微笑んだ。
「きみが死んだら――死ぬってことがどういうことなのか、理解できたら返して。それで、どう?」
「……はい」
僕は一度だけ頷いた。
「よろしくね、末永く」
もう一度、差し出された手。
今度は、ちゃんと握ることができた。
これは――契約だ。
送橋さんと、僕との。
この世で誰も見たことのない暗闇の世界を見に行くための。