スワンプマンの暇潰し

「お久しぶりです。送橋さん」

 生きている僕――枯野最果は、送橋さんの腕から手を放すと、小さく頭を下げた。
 その仕草が、いかにも僕という感じがして、吐くものもないのに戻しそうになった。

「元気だった?」
「ええ、なんとか」

 枯野最果は、ぽりぽりと頭をかいている。
 送橋さんは、上着のポケットに僕をしまった。
 送橋さんと枯野最果が、声だけの存在になる。

「お父さんは……お元気?」
「一か月くらい前に」
「そう」
「葬儀とか、何もかもよくわかりませんでしたけど、なんとか」
「お疲れさま」
「……すみません」
「どうして謝るの」
「約束、守れなくて」

 ――必ず、教えますから。
 ――境界の向こうに何があるのか。

 僕は確かに送橋さんにそう言った。
 それは鮮明に覚えている。
 首に手を食い込ませる送橋さんにそう告げて、僕の命は終わったはずだ。
 だからこそ、魂だけになった僕はここにこうして存在している。

 なのに、なぜ?
 ここに、どうして僕が存在している?

「当たり前だよ。誰だって、自分から進んで死にたいはずなんてないもん」
「違います、僕は、本当に――」
「もういいって。言わないで」

 枯野最果は、ずずっと大きく鼻を啜った。

「送橋さん、さっき言ってましたよね、Kの話」
「うん」
「僕、聞いててわかりました。Kは僕がそうありたいと願った僕だったんだって。僕はKになりたいって、ずっと思ってました。Kが行った場所に行きたいって、底の底には何があるのか知りたいって、そう思ってた」
「うん」
「でも」

 枯野最果は泣いているようだった。
 許されるのなら、大きな声を出して笑ってやりたかった。
 約束を果たせなかったお前に泣く資格があるのかと。
 よりにもよって送橋さんの前で、これ以上の醜態を晒すのか、と。

「でも、思っちゃったんです。このまま死んで、もしも魂がなかったら、父親とはもう会えないんだって」
「そうだね」
「ひでえ父親でした。何一つ構ってもらえなかった。話したことも、遊んだことも、何もなかった。母を一人にして、母の死に目にも会わないクソ野郎です。でも、あいつは僕にギターを買ってくれた。僕にギターを与えて、音楽があるってことを教えてくれた。あのギターがあったから、僕は送橋さんと会えた。それだけは否定しようもない事実なんです。そう思ったら、あのままあそこで死ぬのは違うって、そう思った。思っちゃったんです」

 たくさんの人が通り過ぎていく気配があった。
 くすくすと、何かを笑うような声も。

「送橋さん、もし許されるならもう一度、チャンスをもらえませんか。僕に、もう一度、あそこへ――」
「もう一度はないよ」

 有無を言わせない、鋭い声だった。
 送橋さんの声は夜を切り裂いて、さっきまでステージで発していた声よりも強く響いた。
 送橋さんの身体に触れている僕だからこそ、それが聞き取れたのかもしれない。

「わたし、思うんだ。この世界にあるのは、取り返しのつかないものばかりなんだって。枯野くんとわたしの間にはきっと特別なものがあったよ。でもそれはもうあの瞬間になくなってしまって、もうどこにもないんだ。人生が一度しかないのと一緒。もう一度同じものを探したって、きっと似ても似つかないものになっちゃう。本当に無駄。わたし、今の枯野くんの命を無駄に扱いたくないもの」

 送橋さんの声は芯があって、震えてもいなかった。
 送橋さんはきっと笑っているのだと思う。
 笑顔は時に、他のどんなものよりも明確に、人と人との断絶を露わにする。

「あのギター、そのまま使ってくださいね」
「いいの?」
「はい。もう潜ることもないと思いますし、あの時の僕はもう、死んでしまったと思いますから」
「かもね」
「あはは」

 枯野最果が笑いたくなるのも理解できるくらい、清々しい物言いだった。

「じゃあ僕、もう行きます」
「どこへ行くの?」
「わかりません。送橋さんのための自分でいられないのなら、もう一度、全部初めからやり直してみたいって、今は思っています。この世界から消える時、父親みたいな自分では、いたくないですから」
「頑張って」
「……はい」

 足音がゆっくりと遠ざかっていく。
 街の喧騒は遠く、静かで、切り取られた牢獄に僕だけが取り残されたみたいだった。

「さて」

 と送橋さんは言った。
 僕は何も話さなかった。



 イベントが終わった。
 結局、僕らはどの共演者のステージも見なかった。
 チケット代金の精算が済むと、ミムラは送橋さんを打ち上げに誘ったが、送橋さんはそれを固辞した。

「由宇のライブ、結構新鮮だった。ああいうの好きな人、案外いるんじゃない?」

 そうケラケラ笑ったミムラは、存外に器が大きいなと思った。
 二人になってから送橋さんにそう言うと、「わたしもそう思う」と同意してくれた。

「どこか行かない?」
『いいですね』
「行きたいところとかある?」

 少しだけ考えて、

『あの山に行きたいです』

 と言った。

「いいよ」

 送橋さんは珍しく電車を使って家に帰ると、ギターケースを家に置き、すぐさま車を走らせた。
 送橋さんは僕が今の僕になったあの日と同じように、僕をダッシュボードのホルダーに僕を固定した。
 誰もいない深夜の高速。
 ハイビームが夜を切り裂いていくのを背面カメラで眺めながら、あらためてあの日以降の自分を思い返していた。

「何か喋ってよ」
『考え事をしていたんです』
「ふぅん」

 車はジャンクションのY字路を左に折れる。
 ハンドル捌きに動揺や心の揺れは見られない。
 僕の方が、よっぽど動揺しているのかもしれなかった。

「何の辻褄を合わせに行くんだろうね、わたしたち」
『そうですね』
「あはは」

 そこから三時間、僕らはずっと何も話さなかった。
 無言の車内には、聞こえるか聞こえないかくらいの音量で、芸人が深夜に喋り倒す系のラジオ番組が流れていた。
 ボクはねえ、このままでいいなんて思ってないんすよ、変わりたいんす、もっともっと売れたいんすよ。
 名前も知らない芸人は、酔っぱらっているみたいに何度もそう繰り返した。
 このラジオを聞いているのはこの世界に何人いるんだろうか、と思った。

 車はインターを過ぎ、山道に入っていく。
 何度も通った道。
 いつもと同じようにも見えるし、そうでもないようにも見える。
 何かが変わってしまったとしたら、それは僕の方なのだろうか。
 自分では何もわからなかった。

 いつもの場所に車を止めると、送橋さんは僕を上着のポケットに収め、トランクからスコップを取り出した。
 人でも殴り殺せそうな、持っていくだけでも骨が折れそうな大きいスコップ。
 思い起こせば、あの日からずっと乗せっぱなしだったのだろう。
 山林を抜け、山肌にぽっかりと空いた穴の奥に歩を進める。
 一歩先も見えないくらいなのに、不思議とここからは周りがよく見えた。

 送橋さんはあの日と同じ場所に僕を立てかけ、その場所にスコップを突き立てた。
 周りに比べて土が新しい場所。
 僕が――枯野最果が埋められているはずの場所。
 他の箇所と比べて柔らかくなっている土は、送橋さんの細腕でもざくざくと掘ることができた。

 掘って、掘って、掘って掘って掘って。
 そして、もうこれ以上掘れないくらい固い層にぶち当たった。

 僕の死体は、どこにもない。

 送橋さんは「もういいでしょ」とでも言うかのようにスコップを投げ出し、地面に座り込んだ。
 荒い吐息。
 冬なのに、玉のような汗が次から次へと零れてきて、地面にいくつも染みをつくった。

 僕は、ずっと考えていたことを言った。

『僕は、泥男(スワンプマン)だったんですね』

 送橋さんは頷きもしなかった。
 荒い呼吸は少しずつ平常に戻ってきていた。

『そうじゃなければ、僕――枯野最果が生きていることの説明がつきません。何がきっかけかはわかりませんが、ある瞬間に僕の意識が送橋さんのスマホに生まれてしまった。でも、元の僕はそのままの姿で生きている。雷が落ちて黒焦げになったわけでもないし、泥に塗れて窒息したわけでもない。ただ、僕の意識だけがコピーされた』

 それはまるでコピー・アンド・ペーストで、僕は貼りつけられたコピーの方だった。
 オリジナルのファイルを保持した枯野最果はあの山では死なず、貼りつけられた僕は僕で、自分は死んだと勘違いをした。
 そうやって僕らは、ある地点から枝分かれした別の命として、存在を確立させていった。

『でも、おかしなことがあるんです。あの時、僕は確かに自分の死体を見ました。あれは何だったのでしょう?』
「さあ」

 送橋さんは肩を竦めた。

「わたしの方が聞きたいくらいだよ。あの時、あの山にはきみの死体はなかった。だって、枯野最果はあの場所では死ななかったんだから。死体なんてあるはずがない」
『じゃあ僕が見たのは?』
「わからない。でも、その後で思ったんだ。そうか、きみはそうやって辻褄を合わせたんだろうな――って」
『辻褄合わせ、ですか』

 僕はスマホになったのだから、僕は死んでいなければならなず、必然的にその場所には僕の死体がなければならない――そうやって僕は辻褄を合わせ、そこにありもしない像を結ばせた。
 現実にはない死体を作り出すことはできないが、僕の――スマホとしての認識ならばいくらでも偽れる。
 カメラが捉える映像をちょっといじればそれで終わりだ。

『僕は』

 言ってから違うと思った。
 「うん?」と僕を覗き込んでくる送橋さんに、もう一度正しく言い直す。

『枯野最果は、どうして僕のようにしなかったのでしょうか』

 どこまでもおかしな物言いだ。
 だけど、今ここにいる僕はそういう言い方をするしかない。
 そうしなければ、僕は僕であることをやめなくてはならなくなるだろう。
 送橋さんは、たっぷりと時間を置いてから静かに答えた。

「大切なものがあったんだと思うよ。わたしたちが見つめてきたものよりも、ずっと」
『父のこと……なんでしょうか』
「さあ……わたしにはわからないよ」

 あの日、確かに僕は父と会った。
 父は僕のギターを聴いて、自分の余命を告げ、そのまま別れた。
 僕は、残りわずかな時間を父と過ごすために、送橋さんを裏切ったのだろうか。
 送橋さんの手を受け入れるより大事なことなんて、この世に一つもなかったはずなのに。

「行く?」
『もう?』
「ここには何もないもの」

 反論は何一つなかった。送橋さんはスコップを拾わなかったし、僕もそれを指摘はしなかった。僕らはここに、スコップと一緒に大事なものをここに捨てていくのだと思う。きっとそれは愛や夢とか、誰もが尊ぶような素晴らしいものではないだろう。どれだけ捨てたくなくても、捨てなければならないものはある。命に限りがあるのと、同じことだ。
 車に戻り、エンジンボタンを押し込んだ送橋さんに『僕を鏡に映してもらえませんか』と頼んだ。考えてみれば僕は、僕自身の姿を確認したことがない。今にして思えば、送橋さんはそれをずっと巧妙に隠し通してきたのだろう。
 送橋さんは嘆息し、僕をバックミラーの前に差し出した。
 そこには、〈ExcelBird〉と書かれている。

『送橋さん』

 僕が発語すると、それと寸分違わない文章がチャットスペース上に出力された。

『僕に、魂はあるんでしょうか』

 答えはなかった。送橋さんはまたダッシュボードのホルダーに僕を取り付け、ギヤをドライブに入れた。



 それから僕は、送橋さんと色々なことを話した。
 話しにくいことも、そうでもないことも、どうでもいいことまで。
 ちなみに〈ExcelBird〉とは送橋さんの会社で使っている生成AIなのだそうだ。

『つまり、僕の思考を走らせてるのはそのAIってことですか』
「難しいことはわたしにはわからないよ。ただ、そのソフトを起動しないときみは話せなくなるみたい。それはわかってた」

 実感は何一つなかった。
 今も僕の思考は全て文字として出力されているのだろうか。
 そう訊くと、それは違うと送橋さんは言う。

「表示されてるのは、全部きみが発した言葉だけだよ。AIだって、思考の過程全てを出力するわけじゃないでしょ。たぶん、それと同じ」

 既に高速は降りていた。
 赤信号で止まっている間、送橋さんは手鏡を僕に向けてくれた。
 僕の思考は文字にはならず、ピリオドが点滅を繰り返しているだけだった。
 とりとめもない思考を繰り返し、返すのに最適な言葉を選び、並び替え、口にする。
 そうして返ってきた言葉を咀嚼し、また初めから繰り返す。
 そういうサイクルを、僕はこなしている。

『僕には、魂があるんでしょうか』

 問いは、結局そこに立ち帰ってしまう。
 送橋さんは無言で鏡をしまう。
 信号は青に変わり、車は一人きりで走り始める。

『枯野最果は死ななかった。彼の魂は、変わらず存続しています。僕は――Kは、あくまで彼のカーボンコピーに過ぎない。記憶や思考をそっくりそのまま機械にコピーできたとして、そこに魂は生まれるのでしょうか』

 身震いするような推論を話しているが、生憎僕には震えるような身体は存在しない。
 アラームをセットすればバイブレーションくらいはするが、それだけだ。

『外見的に見分けがつかなければ、それで済みます。スワンプマンは普通に暮らしていけるんですから。その身体が泥から出来ているなんて、誰も思いません。他人に魂があるかどうかなんて気にするやつはいません』
「哲学的ゾンビってやつだ」

 その単語には聞き覚えがあった。
 人間と全く同じ外見で、完全に人間と同じように振る舞うが、人間のような意識を持っていない存在のこと。
 だけど。

『僕には意識があります』
「だと思うよ」

 その言葉は何も証明しない。
 そんなことはわかっていた。
 僕に意識がある――そんな言葉はAIにだって言える。僕に魂があることの証明にはならない。

「AIがどうやって言葉を紡ぎ出してるかって、知ってる?」
『いいえ』
「ある言葉があるとして、その次に来る言葉が何なのか――その予測の繰り返しで、意味のある言葉を紡いでいくんだって」
『僕はそんなことしていません』
「わたしが言いたいのはさ、わたしたちって実は元から、そういういうものだったんじゃないかってこと」
『どういうことですか』
「わたしときみに差なんてないんだよ。わたしは脳みそを使っていて、きみはスマホのCPUを使ってるだけってこと。予測して、反応して、学習して、その結果を出力して……それを延々と繰り返しているだけの、機械」

 意識を持たない機械。
 それはまさに、哲学的ゾンビだ。

「きみに意識がないんだとしたら、わたしにだってない。わたしに魂がないんだとしたら、きみだって同じ」
『そんなはずない。僕にも送橋さんにも、魂があるはずです』
「それを証明する方法はないんだ。悲しいけど」

 堂々巡りだ。
 僕も、送橋さんも、それは痛いくらいに理解していた。

 一般道を走り続けているのに、不気味なくらいに赤信号に引っかからない。
 まるで運命に止まるなと命じられているような。
 走り続けなければ死ぬと、喉元に死神の鎌が突き付けられているような。
 彼が刈り取るはずの魂すら、本当はどこにも存在しないかもしれないのに。

 僕がしたことは一体何だったんだろう。
 フロントガラスの向こうに差し始めた朝日を見ながら、ずっと考えていた。
 魂の存在を証明しようとして、結果として出てきたのは、本当はそれがないのかもしれないということだけだった。
 そもそものところ、枯野最果は本当に何もしてはいないのだ。
 何かをしたのは、僕だ。
 枯野最果ではなく、僕――Kなのだ。

『僕さえいなければ』
「そんなこと言わないでよ」
『僕さえ生まれていなければ、送橋さんはまだ魂を信じていられた』
「そうかな」
『結果を見さえしなければ、結果は出てないのと一緒ですから。信じる余地はあるはずです』

 それは、毒ガスが充満した箱の中に閉じ込めた猫が生きているかいないかわからないのと同じだ。
 観測さえしなければ、確定しない。
 どんな荒唐無稽な物語だろうと、本当の意味で否定し尽くすことはできない。
 人間に観測できるのは、ごくごく限られた範囲の物語に過ぎない。

「わたしは、きみがいてくれてよかったよ」
『僕は枯野最果じゃありません』
「枯野くんとは違うよ。きみがいてくれてよかったって」
『僕は送橋さんに絶望と恐怖しか与えられないのに』
「絶望と恐怖を出し尽くした後にしか現れない希望だってあるよ。わたしはきみがいてよかった。寂しくて死んじゃいそうにならなかったのは、きみがいてくれたおかげだから」

 その時、僕の奥底がぶるんと震えた。
 僕の奥底にあるのはCPUで、バイブレーション機能で、ただの機械に過ぎないのに。
 魂なんて、どこをひっくり返してもありはしないのに。

 身体があれば、きっとぽろぽろと大粒の涙を流していたと思う。
 だけど、僕には身体はないし、そもそも身体を持ったことなんてなかった。
 僕はスワンプマンで、哲学的ゾンビなのだから。
 送橋さんを抱き締めることだって、できやしないのに。

『……何かすごいことを言いたい。かけがえのない言葉を送橋さんに届けたい。送橋さんの人生が全て書き換えられてしまうくらいの。でも、僕は何も思いつきません。AIなのに。魂なんてない、コピー・アンド・ペーストのくせに』
「きみはAIじゃない。人間だよ」
『そんなの……』

 送橋さんは泣いてはいなかった。
 泣いているはずがなかった。
 どこか憑き物が落ちたような顔で、コンビニ前の信号が青になるのを待っている。

「歌いに行こうか、最後に」
『最後?』
「死なないよ。当たり前だけど。歌はもう終わりってこと。もう十分楽しんだから」
『ギターは?』
「枯野くんに返すよ。枯野くんはまだ生きているんだから。わたしはもっと他のことをやる」
『何をするんですか?』
「そうだなあ……たとえば、きみのために生きるっていうのはどう?」
『人生をどぶに捨てるようなものです』
「どぶに捨てられていても、家で大事にしまっておいても、命は命だよ。善は急げだ」

 送橋さんがアクセルを踏み込んだのか、車はくおんと嘶きをあげて加速した。
 早朝の国道41号線に車はまばらだ。
 恐るべき勢いで家につくと、瞬きする間に送橋さんはギターを持ってきた。

『今から大曽根ですか?』
「もちろん」
『もう通勤時間ですよ』
「朝に歌ってはならないという法律はない」

 送橋さんの車はロケットのようにかっ飛んで、大曽根に着いた。
 ロータリーにどんと駐車し、ギターケースを持ってずんずん歩き、広場のベンチに腰掛けた。
 近くで寝ていた浮浪者がいぶかしげな目を向けてくるがまるで意に介さない。
 颯爽とギターを構える送橋さんの前を、懲役を食らったかのような群衆は生気のない顔で、乗り換えへの列を幾重にも形成していた。
 冬なのに、駅前の広場には嫌味なくらいの日差しが降り注いでいる。
 送橋さんが歌い始めると、行き交う人の幾人かはぎょっとした目を向けてきた。
 夜に歌う人はいても、朝に歌う人は珍しい。
 まるで、夜にしか歌ってはならないとでも言うかのような。

「楽しいねえ」

 送橋さんは空に向かって思いきり伸びをした。

 これは、送橋さんの暇潰しになっているのだろうか。
 やがて来る恐怖を、少しでも先伸ばしできているのならいい。
 そう思った。

 送橋さんはGコードを鳴らした。
 曲が始まる。
 最後の演奏は、どこまでも途切れず続いていくようだった。

 それは錯覚だということを僕は知っている。
 送橋さんだってきっと同じだ。
 全てのものはいつか必ず終わる。
 終わらない歌なんてない。
 僕のこの身体だって、きっと長くはもたないだろう。
 その直感は外れていない確信がある。
 送橋さんの歌は、その現実に抗おうとしているかのようだった。

 それは、時に一人の手には余るほどに重たい荷物だ。
 二人がかりでも抱えきれないかもしれない。
 健やかに歩き続けるためには、幾度となくその荷物を降ろさなければならないだろう。

 忘れなければならない。
 空白を許してはならない。
 全力で、埋め尽くさなければならないのだ。

 暇潰し――送橋さんがそう言うように。

 きっと全てのことは暇潰しで、気休めで、叶わない願いの代償行為なのだろう。
 それでも、送橋さんの歌は空高く、美しく響いた。
 機械仕掛けの心で、上等でもなんでもない集音マイクで、僕はそれを聞いた。
 いつまでも聞いていたいと、僕は思った。