戸惑いの神嫁と花舞う約束 呪い子の幸せな嫁入り

 信じられない、と紗依は目を見張ったまま身動き一つできずにいた。
 紗依の手を握り真っ直ぐに熱の籠った眼差しを向ける男性が、かつて紗依の友であった小さな光と同一の存在であるなど。
 あの日、自分が何であったのかと思い出して夕星は消えた。
 矢斗と呼ばれたこの美しい男性が、小さな夕星の本来の姿であるというのか。
 それならば、夕星は、このひとは、一体。
 ぐるぐると裡を忙しなく巡る問いに、眩暈すら感じかけていた。そのまま力が抜けて、倒れ込んでしまいそうになる。
 言葉どころか声すら発せない紗依の様子を察したらしい時嗣が、一つ息を吐いた。

「矢斗。まずは説明が必要だろう。紗依殿が混乱している」

 時嗣が苦笑い共に告げた言葉で、夕星……矢斗は漸く、紗依が驚愕の表情のまま今にも倒れそうだと気付いたようだ。
 慌てた様子で紗依が倒れぬように注意しながら、握っていた手を離す。
 時嗣が視線で何かを示すと、千尋は静かに立ち上がり、その場から姿を消す。
 そっと手を添えて支えられながら改めてその場にて姿勢を正して座り、紗依は数度深く呼吸をする。
 まだ何が起きているか理解しきれず、座していても身体がふわふわとした不思議な心地のまま。
 気を抜いたらそのまま倒れ込みそうな感覚はあるものの、それでも紗依は力を振り絞り、静かに口を開いた。

「夕星……あなたは、一体……」

 紗依が震えながらも何とか紡いだ問いと揺れる眼差しを、矢斗は真っ直ぐに受け止めた。
 現かと疑うような状況であるというのに、何故か不思議と紗依の中には、この男性がかつて友と呼んだ小さな光であるという事実が馴染んでいく。
 小さな友の本来の姿が、この威厳ある美丈夫であるということが、少しずつ信じるに足るものだと思えていく。
 だが、それならば。
 紗依が夕星と呼んだ友は、一体何者であるのか。
 途切れ途切れに紡がれた問いは、少しばかり掠れてしまっていた。
 少しの間何かを思案していた様子だったが、やがて紗依へと居住まいを正して向き直る。

「私が、人ではないのは元より知っていただろうが……」

 紗依は、小さく頷いた。
 かつて知っていた友の姿は、人とは異なる姿だった。
 人ならざるものであると元より承知して時を重ねてきたのであれば、改めて告げられたとしてもそれは特に驚くことではない。
 けれど、そこから先が全く想像できない。
 友であった男性が、何を告げようとしているのか。
 息を飲んで続きを待つ紗依を見て、僅かな逡巡があった。
 だが、矢斗はやがて静かに口を開いた。

「私は、始まりの帝が有していた武具の一つ。破邪の弓の付喪神だ」

 矢斗が低く落ち着いた声で紡いだ言葉の内容に、紗依はまたしても目を見張ってしまう。
 偽りなど全く感じられない真摯な言葉に言葉を失う。
 夕星が……矢斗が、人ならざる付喪神であるということは、理解できた。
 真を射抜くような清冽な眼差しを持つひとは、邪を射抜く弓の化身と言われても確かにと思う。
 だが、その本体である武具は。
 始まりの帝の武具であったもの、それはすなわち。

「……北家が、長らく失ったままだった祭神だ」

 紗依の抱いた疑問に答えるように、時嗣が様々な感情が滲んだ複雑な声音で告げた。
 そう、北家を始めとする『四家』と呼ばれる家門が擁していた神威そのもの。四家が祭神として祀っていた存在、それが始まりの帝が有しておられたという力ある武具だ。
 存在そのものが永き年月を経た不可思議の象徴ともいえるものである。魂を有し、人のかたちをとっていたとしてもおかしいとは思わない。
 けれど紗依にとってはまだ現実味のない話で、現実から剥離したような感覚は拭えない。
 友である夕星は、矢斗という名の付喪神であり。長らく不在であった北家の祭神である。
 すぐに全て受け入れるには、あまりに衝撃的な事実でありすぎた。

「……何故、あのような姿に……。それに……『神嫁』とは……」

 紗依が夕星を見つけ出した時、友は今にも消えそうな程か細い光だった。
 共に時間を過ごし、言葉を重ねるうちに、少しずつ確かなものとなってはいったけれど。
 それならば何故、北家において祭神とまで呼ばれる偉大な存在は、はあのような脆く頼りない姿だったのか。
 そして矢斗が、北家が祀る神であるならば。
 北家が玖瑶家に対して求めた『神嫁』とは一体どんな意味を持つものなのか。
 一つずつ事実は明かされていくのに、疑問はその都度増えていく堂々巡り。
 表情の硬さがとれないままの紗依を見て、矢斗は表情を曇らせ、時嗣は複雑な色の滲む苦笑を浮かべている。

「……矢斗が自分を失っていた経緯ついては、いずれ説明したい。今はただ、矢斗が神としての存在を失いかけていた、とだけ知っていて欲しい」

 紗依は、矢斗と時嗣の態度に何か含みがあるように感じる。
 けれど、それを問うのは憚られる空気を感じる。
 それに。
 頭の奥に小さいけれど形容しがたい痛みを感じる。
 まるで何かが蠢くようなおかしな感覚を覚える。
 誰かが、何かが、それに触れてはならない、と告げている気がする……。

「紗依……?」

 心配そうな矢斗の声を聞いて、紗依は自分が眉を寄せたまま俯いてしまっていたことに気付く。
 視線を向けると、気づかわしげに眉を寄せた矢斗がこちらを見つめている。
 横から控えめな声がしたと思えば、茶で満たされた白磁の椀がそっと紗依の元に差し出された。
 見れば、先程どこかへ消えた千尋が戻ってきていた。どうやら、紗依の為に茶を用意してくれたらしい。
 茶が漂わせる豊かな芳香には心を落ち着かせる作用があるようで、紗依の表情がわずかに緩む。
 更に勧めてくれた千尋に礼を述べてから口をつけて、知らずのうちにかなり喉が乾いていたらしいことに気付く。
 かつて味わったことがない上等な茶が通過していくにつれ、潤った喉からはひとつ、深い吐息が零れた。
 紗依の表情が少しでも落ち着いたことを察した矢斗は、安堵したように表情を綻ばせる。
 そして、二人の表情を確かめた時嗣は、紗依の問いに対する答えを更に続けた。

「神嫁、とは。言葉通り……神、すなわち、矢斗の嫁だ」

 最初こそ、神嫁とは……神に嫁ぐとは古の意味を踏まえて贄のことかとも思った。
 だが、恐らく矢斗は、紗依を贄として求めているわけではない。
 時嗣の言葉が真実であるならば、紗依はあくまで純粋に花嫁として……祭神たる者の伴侶として望まれてこの場にある。
 まるで見合いに臨むようだと感じた身支度は、まさしくその通りだったのかもしれない。
 矢斗は伴侶を求めた。
それに応じて、当主夫妻は矢斗に嫁ぐ者として紗依を整え、引き合わせた。
 そう感じれば、頬が俄かに熱を帯びた気がする。
 自分が誰かに嫁ぐ日など、もうとうの昔に諦めていた。誰かに伴侶として求められる日など、生涯来るまいと。
 矢斗が紗依の名を呼ぶ声に。紗依を見つめる眼差しに宿る焦がれるような熱が、紗依の鼓動を早くする。
 誰かにそんな風に名を呼ばれたことも、見つめられたこともないから。どのような顔をしていいか分からない。
 真っ直ぐに向けられる琥珀の眼差しが面映ゆく感じて、見つめ返すことができない。

「けれど、玖瑶家が長女としていたのは……」

 視線を少し逸らしながら、紗依は裡に抱えていた懸念を口にする。
 北家からの申し出は、長女を神嫁としてもらいうけたい、というものだった。
 だが、真に長女である紗依は死んだことにされており、対外的な長女は妹である苑香だった。それであれば、求められていたのは紗依ではないはずだ。

「私が望んでいたのは、間違いなく紗依だ。紗依以外、求めていない」

 疑問に惑う紗依に言い聞かせるように、揺るぎなく確かな言葉が響く。
 弾かれたように紗依が声の主を見たならば、矢斗の真摯な光を宿した琥珀の一対が紗依を捉えている。
 咄嗟に視線を逸らしたくても、魅入られてしまったように動けない。
 一途に紗依を求める焦がれた光に偽りはないと感じてしまったのなら。
 真っ直ぐに向けられた言の葉に籠った熱い心を感じ取ってしまったのなら、尚更。
 だって、矢斗の言葉は聞き様によっては、いやあまりにも真っ直ぐな。

「うちからの申し出で『長女』と指定すれば、必ずあの御仁は紗依殿を出してくると思ったからな」

 ただ見つめ合う侭になってしまった二人の耳に、苦笑気味の声音が聞こえる。
 戸惑いと高鳴る鼓動に言葉を紡げずにいる紗依が視線を向けた先で、時嗣が静かに語り始めた。

「他の三家ならともかく、うちは『神無し』北家だからな。自尊心の高い玖瑶の現当主が、対外的に長女としているご自慢の次女を出してくるとは元から思っていなかった」

 あなた、と窘めるような千尋の声にも北家の当主は肩を軽く竦めて見せるだけ。
 事実だからな、と呟く溜息交じりの声は少しばかり苦く、それを聞いた矢斗の表情が僅かに揺れる。
 それに気付かないのか。或いは、気付いていても知らぬ振りをしているのか。
 時嗣はそのまま、変わらぬ声音で説明を続けている。

「矢斗が戻ってきたことを今はまだ公にしていない。だから、うちが『神嫁』と言ったところで祭神の妻とは思わないだろう。大方、俺の妾か何かだと勘違いしたんじゃないか?」

 全くもってその通りなので、紗依は何とも言えない表情で沈黙するしかない。
 確かに、祭神のある家門から『神嫁』という求めがあったのであれば、祭神の妻を求められていると思ったかもしれない。
 だが、北家は神を失って久しく、祭神不在であるとされていた家門である。
 だからこそ、不在の神の妻など、何か不都合な存在を飾る建前に過ぎないと父達は判断したのだ。
 彼らが『神無し』と呼び蔑んでいた北家に祀る祭神が戻っているなど、想像することすら無かっただろう。
 返す言葉に困ってしまって複雑な表情になってしまっている紗依を見て、時嗣は笑って見せた。

「千尋がいるのに、他の女なんぞ要らんよ。まあ、予想通りに勘違いしてくれて助かった」

 あまりに躊躇いなく言い切られ、千尋が恥じらったように俯いた。
 人前で、と咎めるようにいう千尋の声は少し弱弱しい。
 照れた妻を見ながら、本当の事だからと言い切る夫の顔には満面の笑みがある。
 その様子に当主夫婦の揺るぎない絆を感じ取って、父達の邪推が恥ずかしくすら思う。

「矢斗は最初から紗依殿以外を求めていないし、うちが申し入れしたのも紗依殿目当てで間違いない。だから、不安に思わないでくれ」

 紗依がばつの悪そうな様子を見て色々と察したらしい時嗣が、笑いながらも確かな言葉で紗依の不安を拭おうとする。
 矢斗の様子を見れば、そして時嗣の言葉を聞けば。
 紗依がこの場に居ることが『人違い』だとはもう思えない。
 だからといって、紗依の中に渦巻いていた謎が消えたわけではない。
 それならば、何故北家に祀られる偉大なる存在は、そうまで紗依を望んでくれるのか。
 矢斗は知っているはずだ。
 紗依が異能を持たない『呪い子』であるが故に、玖瑶家で忌まれていたことを。
 こうして美しく装っていたとしても。持つべきものを持たずに生まれた、ただのみすぼらしい痩せこけた小娘でしかないことを知っているのに。
 その思いが拡がりゆくと共に、自然とまた俯きかけてしまう。
 だが、それを止めたのは、あまりに揺るぎない矢斗の言葉だった。

「紗依は、私を救ってくれた」

 はっきりと耳を打つ言葉に、紗依は顔をあげる。
 紗依を見つめ、微かに微笑みながら矢斗は静かに今に至るまでを語り始めた。
 かつて、自分という存在がどういうものであったか、名も形も何もかも失いただ消えゆくばかりだった。
 誰の目にも留まることのないまま。
 何時からそこにいたのか、どうしてそこにいるのか。何故どのような経緯で自身がそうして在るのかも、既に考える事すらできぬ程に微かなものとなっていた。
消えるのも目前であったある日、彼は紗依と出会った。
 少女はか細い両の手で、確かに彼を救ってくれたのだ。
 小さな光だった矢斗は、少女が彼にとって世界そのものともいえる温かな光だと感じた。

「紗依だけが気付いてくれた。紗依だけが私をそこにあると認め、言葉を交わしてくれた」

 矢斗は、自らの想いを噛みしめるように微笑みながら言葉を紡いだ。
 紗依と共に在る日々が、彼という存在に力を与えていた。
 互いしか知らない名で呼び合い、語り合う日々を過ごすうちに、少しずつ自分という存在が確かになっていく。
 辛い日々に耐える紗依を守りたいという思いが強くなるのに応じるように、少しずつ自分が何であったのかが蘇ってくる。
 そして、彼はあの桜の舞う日に全てを思い出した。
 己が破邪の弓を本体する付喪神であること、北家の祭神であったことを。

「だから、あの日。貴方のもとを去った。……貴方を守るに足るものに、戻る為に」 

 一度とはいえ別れること、一人置いていくことを心から辛いと思ったけれど。
 自分が一体『何』であったのか取り戻した矢斗は、自分を祀っていた北家へと帰還した。
 これ以上紗依に辛い思いをさせたくないが為に、彼女を守りたいと願うが故に。
 そして、彼は紗依を自身の妻に……『神嫁』にと望んだ――。
 紗依は言葉に困った様子で、ただ矢斗を見つめるしか出来ずにいる。
 そんな中、紗依の言葉を待つように満ちかけた沈黙を破り、場を繋げようという風に口を開く者が居た。

「まあ、最初は『ふざけるな』としか思わなかった」

 時嗣は当時を振り返るように一度目を伏せると、苦笑しつつ説明する。
 人々が帰還した祭神を見て畏れひれ伏す中、彼だけは怒声をあげたという。
 お前が不在だったせいで、北家の祖がどれだけ苦汁をなめてきたと思う。
 勝手に放り出しておいて、今更戻ってきて、どの面を下げて祭神を名乗る気だ。
 皆が蒼褪める中、時嗣は矢斗に怒りをぶつけ続けた。
 蔑まれながらも家を必死に繋いできた父祖の思いを知ればこそ、戻り来た付喪神に対して抱いたのは畏敬ではなく怒りだった、と当主は語る。

「……矢斗の事情を知ったら、言い過ぎたとは思ったが」
「時嗣のそういう率直さはむしろ好ましい。それに、お前は事実を言っただけだ」

 溜息交じりに言う時嗣に、少しばかり苦い笑みを浮かべながら矢斗が言う。
 紗依は、そっと矢斗と時嗣に順繰りに視線を巡らせた。
 外見の年齢だけ見れば、二人は同年代に見える。
 言葉を交わす際に垣間見える様子は、友のようでもあり兄弟のようにも見える。
 話によれば戻った矢斗と時嗣の第一印象は、一方的にあまり良くなかったらしい。
 だが、今はどこか悪友のような気安さすら感じさせる、打ち解けたものを感じさせる。
 それを見つめる千尋も、微笑ましいと思っているようで顔には優しい笑みが浮かぶ。
 紗依は、三人の様子に『羨ましい』と思ってしまった。
 誰かに心を許し、打ち解けることができる。それが、羨ましいのだ。
 紗依にも心を預けることができる母がいる。けれど、母の前でも明かせぬ胸の裡というものはあった。
 かつては、それを気負う事無く明かせた友が居た。
そして、その友は今あまりに美しく偉大な存在として再び自分の前に姿を現した……。
 まだ目の前で起きている出来事が現とは思えず。自分がその渦中にあるとも実感できず。
 やや強張った表情のまま目を瞬き、すっかり言葉を失ってしまっている紗依を見て、時嗣は苦笑いを浮かべる。

「その辺りは、紗依殿がもう少し北家での暮らしに慣れてからおいおい、と言ったところだな」

 思わず戸惑いの声をあげてしまいそうになったのを、すんでのところで堪えた。
 確かに、求められていたのが紗依のことであったのなら、確かに紗依はこの場から去らなくても良い。
 北家の祭神たる矢斗の妻となるのであれば、このまま北家にて暮らすことになるだろう。
 雲の上の存在であった四家の一角である北家に望んで招かれ、その屋敷にて暮らす。そして、戻りきた祭神の妻となる……。
 ふわふわとした紗の向こう側の話のようで、自分の中では今少し現実味がない。
 今、紗依の中で確かなのは、自分を見つめる矢斗の眼差しが真摯であることだけ。

「紗依殿も心の整理がついていないだろうし。そんな状態に付け入るような真似をお前は好まないだろう?」
「ああ……」

 時嗣の言葉を受けて、矢斗の表情に気づかわしげな翳りが生じる。
 性急にことを進めすぎたか、と悔いているようでもあった。
 紗依は何か言葉を口にしなければと思うけれど、心の裡の必死の努力は一つとして実を結んでくれない。
 あんな表情をさせたくない。
 未だに、あの美しい男性が友であるとは実感が持てない。
けれど、彼に哀しい顔をしてほしくないという心だけは、裡から湧き出るようにして生じてくる。それがあまりにもどかしくてならない。

「祝言と披露目は、紗依殿の気持ちが落ち着いて納得できた後だ」

 矢斗と紗依、二人に交互に眼差しを向けていた時嗣が言い聞かせるように告げる。
 祝言と聞いて紗依は一瞬目を瞬き。次いで、思わず頬を染めて俯いてしまう。
 言葉を出されると、自分が何故この北家に招かれたのかが身に染みてくる。
 自分に祝言という言葉が縁づく日が来るなど思っていなかったし、ましてやその相手が人ならざる偉大な存在であるなど。
 俯いたまま密かに懊悩する紗依へ静かな眼差しを向けた後、矢斗は僅かに考え込むような表情で僅かに俯き沈黙した。

「披露目か……」
「お前のことも何れ外へ向けて明らかにしなければならないし。お前だって、美しい花嫁の自慢をしたかろう?」

 再び口を開き呟いた矢斗に向かって、時嗣は同意を求めるように首を傾げて問いかける。
 今は対外的に矢斗のことは……祭神が北家に戻ったという事実は伏せられている。
 だからこそ父達は、下衆な推測をした。察する域であっても祭神の帰還について知っていたとしたら、喜び勇んで苑香を差し出していたはずだ。
 けれど、何故に祭神の帰還を未だ伏せたままなのか。
 心に疑問を抱いても、紗依がそれを口にできないで居た時、それは起きた。
 紗依が衣擦れの音を間近に感じた次の瞬間、紗依の視界は大きく変化していた。
 矢斗は……紗依を己の懐に抱え込むようにして抱き締めていた。
 何を、と問いたくても。離して、と訴えたくても。戸惑いの声をあげる暇すら与えられずに、紗依の小さな体は矢斗の広い腕の中だ。
 鼓動があまりに大きく響いている。身体全体が早鐘を打つ心臓になってしまったようだ。
 温かで、何故かどこか懐かしい腕に閉じ込められ遮られてしまった先で、時嗣と千尋が狼狽えている気配を感じる。

「こら矢斗! いきなり何を……」

 沈黙を破ったのは、我に返ったと思しき時嗣の咎めるような声だった。
 彼もまた、矢斗の突然の振舞いの理由が分からず困惑している様子である。
 紗依を腕の中に収めたまま、矢斗は自分に対して向けられた責めの言葉に対しても動じる気配はない。
 それどころか、揺らぐことのない声音で言い放ったのだ。

「紗依が減る」
「は?」

 紗依を抱き締めて隠してしまったまま、矢斗は真面目な声で告げた。
 その姿こそ見えないものの、聞こえた呆然とした声から、彼が更に困惑した様子が伝わってくる。
 おそらく、その隣にいる千尋も同じなのではなかろうか。
 香のような香りを感じたまま、頬が更に熱を帯び体中が燃えているような気がしてきた紗依を他所に、矢斗は続ける。

「これだけ美しいのだから、他の男の目に触れたら、惹きつける」
「そりゃあまあ、そうだろうが……」

 目を奪う程に美しい容貌を持つ矢斗の言葉に、自分など、と思うけれど反論する声すらあげられない。
 身体から湯気を吹きそうな心地がする紗依は、ただ黙したまま、矢斗の腕の中で続くやりとりを聞くしかできない。
 困惑だらけの時嗣の声に対する矢斗の声音に、冗談の気配は欠片も感じられない。

「他の男の目に触れたら、私の紗依が減る。だから、嫌だ」

 少しの揺らぎも迷いもない確かな声音で、矢斗は一言一句はっきりと告げた。
 矢斗の顔は見えないけれど、多分大真面目な表情である気がする。
 咄嗟に返る言葉はなく、複雑な雰囲気を帯びた痛いほどの沈黙がその場に満ちる。
 抱き締める腕に籠る力はけして緩むことなく、紗依の激しい鼓動が緩むこともなく。
 ややあって、非常に深く盛大な溜息が紗依の耳に届いた。

「なあ、千尋。この駄々っ子、どうしたらいい?」
「私に言われましても……」

 時嗣が傍らの妻へ、更なる溜息交じりに問いかけている。
 問われた千尋も歯切れが悪い。戸惑いながら、どう応えてよいものか言葉を選んでいるようだ。
 紗依は自らの鼓動に身体が悲鳴をあげているのを感じながら、困惑に次ぐ困惑にもうどうしたらよいか。
 小さな友は美しい青年であって。
 その青年は、四家の一つの祭神である尊き存在で。
 威厳ある佇まいで自らを迎えたかと思えば、子供のような駄々をこねて。
 何がどうして、どうなっているのか。私は、どうしたら。
 もはや何か言葉を紡ぐこともできず、抗うこともできず。紗依は、ただただ力が抜けて崩れ落ちそうだった。



「矢斗様」

 千尋が、そっと矢斗へ声をかける。
 その声音は柔らかではあったけれど、非常に真摯な響きを帯びていた。

「差し出がましいとは存じておりますが。……紗依様を、離してさしあげて下さいませ」

 矢斗と時嗣の注意が千尋へ向いたのを感じたと同時に、紗依を抱き寄せていた腕の力が緩んだ。
 かろうじて動かせた頭だけそちらを向けると、開けた視界にて千尋が指をついて伏しているのが見える。

「女性は、慎ましく貞淑にあれと教えられております。男女七つにして席を同じくせず、とも」

 顔をあげぬまま、千尋は静かに続けた。
 頬の赤みは未だ取れ切らないままだが、穏やかな物言いに少しずつ紗依の心に落ち着きが戻って来る。
 時嗣は伏した妻を見ていたが、やがて軽く咎めるような眼差しを矢斗に向け。矢斗もまた、時嗣の眼差しを受けて徐々にばつ悪げな表情になっていく。 

「女子というものは殿方からの接触には慣れていないのです。ましてや、何の前触れもなく突然であれば尚の事。おわかり頂けましょうか?」
「……承知した」

 上気しながらも強張ってしまっていた紗依の顔を恐る恐る覗きこむ矢斗へと、更に千尋は諭すように言う。
 優しく穏やかな声音で紡がれるからこそ、尚の事その言葉は重い。
 矢斗ややがて頷きながら呟くと、漸く紗依を両の腕から解放する。
 申し訳なさげに肩を落している様子が、何処か尾をたらす大きな犬のようにも見える……気がした。
 千尋がそっと差し出してくれた茶を、紗依はその場に崩れ落ちそうな身体を全力で支えながら受け取る。 
 紗依が茶を口にして緩やかに息を整えるのを待って、矢斗は再び口を開いた。

「済まない、紗依……。会えたのが、あまりに嬉しくて……」
「いえ……。だい、じょうぶ……」

 今度は触れることすら恐れているように、伸ばそうとした手を躊躇いの後に下ろして、矢斗は悲しげな表情で詫びてくる。
 大丈夫と歯切れよく返したかったけれど、まだ動揺の名残が残っているらしく声が少し震え気味になってしまった。
 お互いに相手に対して申し訳なさげな様子で視線を合わせられなくなって俯いてしまっていると、空気を変えようとするように時嗣が口を開いた。

「普段はきちんと祭神らしく相応の振舞いをするくせに、紗依殿が絡むと螺子が飛ぶからなあ……」

 少しだけ冗談を含んだ言葉は、優しい苦笑いと共に語られた。
 紗依と矢斗が揃って視線を向けると、二人へ笑って見せながら時嗣はなおも続ける。

「北家に帰ってきて、俺が祭神と認めた途端。そのまま紗依殿を迎えに飛んで行きかけたからな」

 過日を思い出した様子で、肩を竦めながら苦笑する時嗣。
 矢斗は痛いところを突かれたというような複雑な表情になり、紗依は思わず目を瞬いてしまう。
 脳裏を過ぎるのは、かつて矢斗が自分から去って行ったあの花舞う日のこと。
 あの別れの後に北家で起きたであろう出来事に触れる時嗣が浮かべる苦笑いは、からかうような口ぶりでありながら矢斗への情に満ちている気がする。

「姿を維持することすら侭ならない有様で行ってどうする! って叱りつけて、養生させるのは本当に大変だった」

 そうだ。
 紗依は、友であった夕星……かつての矢斗の姿を思い出す。
 出会った始めの頃の友は、あまりにか弱くか細い存在だった。紗依の両の手におさまるほどの、儚い光の玉の姿だった。
 恐らく人の姿など想像することすらできない状態から、養生を重ねて今のように本来の姿でいられるようになったのだろう。
 けれど、北家が祭神の帰還を明らかにしていないということは……。

「未だ矢斗は元通りとは言えない状態だ。それまでは、祭神の帰還を公にはできない」

 紗依の裡に生じた懸念にも似た疑問に対する答えは、それを読んだかのように直後時嗣からもたらされた。
 それを聞いた紗依は、思わず矢斗を見てしまう。
 まだ本来の状態と言えないのであれば、もしかして無理をしているのではないかと不安を抱いた紗依へと、時嗣は更に言葉を重ねた。

「完全に復調するまでもう少しかかる。今暫く、矢斗の守りを頼めるだろうか」
「私などが、そのような……」

 言われて、俯きながら消え入りそうな声で呟いてしまう。
 自分は、異能を持たない呪い子である。それ故に、元は玖瑶家の嫡子であっても、今では存在すら無きものにされていて。
 本来であれば北家に足を踏み入れることも、ましてやその祀る神の前に姿を現すことも出来ないような存在である。
けして、そのような頼み事をされるような立場ではないはずなのだ。
 震える声で続きを紡ぎかけた紗依を遮ったのは、他ならぬ祭神そのひとだった。

「紗依でなければできない。どうか、私の側にいて欲しい」

 清冽なまでに迷いも躊躇いもない真摯な言葉に、紗依は弾かれたように顔をあげる。
 そこには、真っ直ぐに紗依を見つめる琥珀の眼差しがあった。
 飾ることのない、曇りなくただ一途な言葉に、落ちつきを取り戻したはずの紗依の頬に赤みが生じる。
 胸が再び高らかに鼓動を打ち始めて苦しくて、咄嗟に両手で胸元を抑えてしまう。
 けれど、紗依にとって不思議でならないのは……それを、不快だと思わない自分がいることだった。
 現かと思うほどに戸惑うことだらけだけれど、未だに全てを受け入れきれたわけではないけれど。
 矢斗の傍に身を置いていいのだということが、自分でも分からないほどに心の中に小さいけれど温かな明かりとなって灯ったのだ。
 だからこそ、身に余ると思うのに、拒絶の言葉が紡げなかった。
 ただ、戸惑いと恥じらいと、ひとひらの喜びを含んだ眼差しで矢斗を見つけるしかできなかった。

「紗依殿は、矢斗が妻に望んだ女性であり、同時に祭神を返してくれた恩人だ。当家においては、貴人として遇させてもらいたい」

 見つめ合う紗依と矢斗へ優しい眼差しを向けていた時嗣は、紗依へ改めて向き直ると居住まいを正して告げた。
 傍らの千尋もそれに倣い、丁重な仕草で頭を垂れている。
 北家当主とその妻である千尋にそこまで礼を尽くされるなど、と恐縮して言葉を紡ごうとしたけれど、二人のあまりに真剣な様子に飲まれてしまいそれもできず。
 向けられる真っ直ぐな感情と、自分の中にある感情に揺れながら、戸惑いながら。
 大きく変わっていく自らを取り巻く環境と明らかになった事実を、必死に言葉を紡ごうとしていた。
 身に過ぎたことと思う気持ちは消えることはない。
 それでも――。
 自分があずかり知ることのできない大きな流れが、自らの運命に生じた事を感じながら。
 矢斗の自分を切ないまでの願いのこもった眼差しを一身にうけているのを感じながら。
 やがて紗依はかつて母に教えられた通りの見事な所作を以て、居並ぶ者達に対して申し出を受け入れる旨を静かに伝えたのだった……。

 紗依は一部の者以外には事情を伏せたまま、表向きは客人である貴人として北家の屋敷に迎えられることとなった。
 矢斗について知ることを許されている北家の家人は、その日以来紗依を尊き神嫁と呼びならわすようになる――。
 紗依が北家の門を叩いてから、日々は駆けるように過ぎて行った。
 心を揺らすかつての『友』との再会を機に、紗依の暮らしはそれまでとは天と地ほども違うものとなった。
 紗依は、まず矢斗の暮らす北家の最奥に居室を与えられた。
 しかし、北家の屋敷の中枢といえる場所であり、祭神が暮らす域にある部屋である。
 どう見ても貴い女性が住むであろう、思わず目が眩んでしまいそうなほど見事な部屋に、紗依は震えながら身に余ると訴えようとした。
 けれど、時嗣は貴人には相応の扱いをさせて欲しいと頭を下げて頼んでくるし、矢斗は近い場所にて暮らして欲しいと訴える。
 千尋が、いずれ慣れますよ、と安心させるように優しく言ってくれたのだが……。
 つい先日まで、捨て置かれた物置にて暮らしていた身である。
 隙間風の心配をしない場所にて、柔らかな布団で寝られるようになっただけでもありがたいのに。
 調度一つとっても触れることすら躊躇うような、随所に名のある職人が手掛けたと思われるものがごく自然に置かれているような場所など、分不相応に思えるのだ。
 それでもいつか慣れる日がくるだろうかと思うのだが、慣れない、というより戸惑いが消えないままのことはあった。
 他ならぬ小さな友だった存在……矢斗のことである。
 北家で暮らすうちに、小さな友が力ある存在であったことへの衝撃は徐々にではあるが薄らいでいく。
 だが、戸惑うのは向けられる紗依への感情である。
 普段の矢斗は、時嗣が言っていた通りに祭神として威厳ある相応の振舞いをし、けして威による理不尽を強いることなく寛容だった。
 だが、紗依に関してはやはり時嗣の言っていたように『螺子が飛ぶ』のである。
 矢斗は、叶う限りの時間を紗依と共に過ごすことを望む。
 紗依を傍に置きたがり、少しでも離れることを嫌がる。それは時として、時嗣が一人の時間もさしあげろ、と釘をさすほどのものだった。
 北家にて紗依がけして不自由を感じないようにと、自分の事については多くを求めることはないのに、紗依に関してだけは多くを求める。
 それは紗依の暮らす環境であったり身の回りの品々であったり。仕える人間であったり。
 過保護に過ぎるのではと思うほどに、矢斗は紗依の周りが恙無くあることに注力した。
 自分に関しては無頓着とも言えるほど執着は薄く、時嗣達に言われたことをそのまま受け入れているような様子なのに、紗依に関してだけは違う。
 そして、時として紗依が驚くようなことまでして見せるのだ。
 ある時など、紗依が朝に目覚めたならば。
 咽そうな程の花の香りに驚いて目を開いた紗依の周囲には、様々な花が床を埋めつくさんばかりに飾られていた。
 それも、淡い可憐な春の花の隣には、鮮やかな大輪の夏の花があり。
 雅な色合いの秋の花の隣には、雪を耐え忍び咲く冬の花があり。
 まだ自分は寝ているのだろうかと呆然と目を見開く紗依の耳に、楽しそうな男性の声が届いた。

『おはよう、紗依』
『……っ⁉ ……矢斗、これは一体……』

 室内に男性がと一瞬顔色を変えかけたが、声が矢斗のものであると気付いて息を吐く。
 眠っている間に居室に立ち入られたことには思うことはあるけれど、生じかけた警戒心は消えている。
 それよりも、視界を埋めつくす色彩の乱舞はおそらく矢斗の手によるものだ。
 戸惑いながら身を起こした紗依を見つめる黒髪の美丈夫は、心から嬉しそうな様子で理由を説明する。

『紗依が、様々な季節の花に埋もれてみたいと言っていたから……』

 一瞬、きょとんとしてしまった紗依。
 自分がいつそのような夢物語のようなことを語っただろう。北家にきてからは色々と衝撃が大きすぎて忘れているだけ?
 四季の花に埋もれて眠ってみたいと自分が言った……。
 暫く考え込んでいた紗依は、やがて小さく声をあげる。

『まさか。あ、あれを覚えていたの……⁉』

 紗依の脳裏に蘇るのは、かつて小さな光だった頃の矢斗と語らった時のこと。
 表庭に立ち入ることが許されない紗依は、花の盛りの庭がどれほど美しくても見ることは叶わない。
 諦めてはいたけれど、憧れは募っていた。だから、小さな友にはこっそりと胸の裡を明かしていたのだ。
 色んな季節の花が咲いているのを見てみたい。溢れるような花々に埋もれてみたい、と。
 けして叶うことのないおとぎ話のような夢想を、彼にだけは語った……。
 北家に暮らすようになってから時嗣や千尋が屋敷の中を案内してくれたが、この屋敷には四季それぞれの花を植えた四つの庭がある。
 今の季節は花の咲いていない庭もあったが、見応えのある庭に目を輝かせた覚えがある。
 その時、何かを思案する様子だった矢斗が気がかりだったが、まさかこれを為そうと考えていたのだろうか。
 周囲を取り巻く花々を見れば、確かにそれぞれの庭にて見た覚えのあるものばかり。
 まさか、と抱いた疑問は、やがて慌てたように駆けてくる足音が肯定してくれた。
 慌ててやってきたのは、時嗣と千尋だった。
 四庭全てが花盛りという事態に庭師が大混乱だ、と矢斗を怒鳴りつける時嗣の言葉で、矢斗が何をしたのかを知ってしまう。
 矢斗は、四つの庭を巡って季節ではない花を咲かせて。それを抱えて、紗依のもとにやってきて、この場を作り出したのだ。
 北家の祭神とはそんなこともできるのか、と嬉しいのか呆れているのか自分でも分からない複雑な思いを抱きながら、紗依は時嗣に説教される矢斗を見つめていた。
 その後、時嗣に諭された矢斗がそれぞれの庭を元通りにして歩く後ろ姿を、紗依はそっと見守ることとなった。
 矢斗が為した驚きは、それだけではなかった。
 苑香が見せびらかすように口にしていた西洋の菓子を、羨ましいと紗依が口にしたことを思い出したらしい。
呼ばれて足を運んでみれば、大きな卓を埋めつくしそうな菓子の数々。
紗依が言ったものだけではなく、紗依が見たこともきいたこともないような菓子まで用意してくれていた。
 ただ聞いたところによると、その際に「紗依が憧れていた異国の物語の、菓子の家というものを再現してみたい」と言い出したので、一騒動あったらしい。
 見るものであり、聞くものであり、触れるものであり。
衣であり、食であり、住まいであり。
かつて紗依が見てみたいと言っていたものを、聞いてみたいと願っていたものを。叶う限り紗依の前に再現しようと心血を注ぎ続けた。
 幼き心で描いた夢想が一つずつ現実にて形になっていく様は、胸躍るものであるが、 飢えて震えていた子供の哀しい願いが露わになる気恥ずかしさもある。
 けれど、矢斗の行い全てが、紗依を気遣い慈しむ想いに満ちているのを感じれば、怒ることも拒むこともできるはずもない。
 最初こそ呆然と言葉を失っていた紗依だが、少しずつはにかみながら言葉を返すことができるようになっていく。
 矢斗が紗依の周りに不足のないよう恙無くあるようにと願うのを受けて、北家の人々もまた紗依に対して過分なまでの心配りをしてくれる。
 最低限の道具のみ持たされ、ほぼ着の身着のままといっても過言ではない状態で来た紗依を気遣い、時嗣は千尋に必要なものを過不足ないようにと命じた。
 それを受けた千尋は、女性ならではの視点で紗依の身の回りの足りないものを贖う為に、出入り商人を呼んで揃えていってくれたのだが。
選ぶ一つ一つが、贅に囲まれ暮らしていた苑香すら羨んでいた品ばかりなのである。
 着物一つとっても、呉服屋に持参させた反物から「これが似合いそうですね」と躊躇いなく見事な織りのものを選ぶ。
 けして華美にはならないように気を遣い、見て高級であるとわからぬように一見控えめな選択をしてくれてはいた。
 だが、母に様々な教えを受けていたことに加え、苑香が自らの着物を逐一具体的な値を示して自慢してくれていたせいで嫌でも察してしまう。
 好意を無碍にしたくはない。けれど、身に過ぎた品は遠慮したい。
 紗依が相反する心に惑い言葉を紡げないでいるうちに、千尋は笑顔のまま話を進めた。
 更には、様子を見に来た時嗣と矢斗が千尋の選択を褒めて場に笑顔が満ちると、それ以上何も言えなくなってしまう。
 止めのように矢斗「仕立て上がった着物を、紗依が着ているところが早く見たい」とはにかむように言われてしまっては、もう。
 紗依の身の回りは、北家に長く仕えているという老女中であるサトが世話をしてくれることになった。
 誰かにしてもらうなどと恐縮して自分で出来ると伝えるけれど、老女中は無理を強いない範囲で紗依の願いを聞きながら優しく面倒を見てくれる。
 生活に人の手を借りるなど幼い頃以来であるから戸惑うばかりだったけれど、それを汲んでサトがしてくれる気遣いに救われる思いである。
 しかし、自分に対して向けられる温かな情と戸惑う程の恵まれた暮らしにあっても、紗依の心は母にあった。
 恵まれた暮らしであると思えば思うほど、母はどうしているかと気になってしかたない。
 時嗣や千尋に頼んで母と連絡をとらせてもらおうかと考えていた時、弟の亘から密かに手紙が届いた。
 紗依が北家に向かってから数日後、母は準備を整え屋敷を出たという。
 それからまた少しして、今度は亘を通して無事療養所についたという旨の母からの手紙が届く。
 どうやら素性については伏せているということで、表だってやり取りをしては障りがあるから今後は亘を通して近況を送る、と記されていた。
 父が約束を反故しなかったことに安堵しつつも、これからの母の手紙を心待ちにする思いに、思わず紗依の口元には久方ぶりの小さな笑みが浮かんでいた。
 そして、分け合った対の守りを手に母の教えを思い出す。
 窮した暮らしにありながら、母は日頃紗依に人として大事な心構えを教えてくれていた。
 母は言っていた。
 気遣いをくれる相手に対して何時までも卑屈であり続けることは、相手に傲慢に振舞うのと同じぐらい恥ずかしいことであると。
 北家での暮らしはあまりに眩く、おぼろげな記憶にある砂糖菓子のように甘く幸せなものだった。
 毎夜眠る前に、朝起きたら覚めてしまう夢ではないかと思うほど、現実とは思えない程優しいものだった。
 溢れるほどの情を向けてくれる矢斗。優しい気遣いをくれる時嗣と千尋、それにサト。皆は、ただ二心なく紗依へと心を配ってくれている。
 それに対して、紗依は「自分などに申し訳ない」と身を小さくするばかりだった。
 恵まれた境遇にはまだ慣れないし、慣れてしまうのは何時かまた失うかもしれないという恐れにつながり、怖い。
 けれど、何時までもただ不相応だと縮まっているだけでは、皆の心を無碍にし、気遣ってくれる人々を貶めることになるのかもしれない。
 そう思った紗依は、少しずつ『申し訳ない』を『ありがとう』という言葉に変えていく努力を始めた。
 紗依がぎこちないけれど現し始めた変化を、北家の人々は目を細めて見守ってくれるようになる。
 その日もまた、矢斗は紗依の抱いていた夢想を一つ形としてくれた。

「こ、これを……。私が、読んで良いの?」
「紗依の為に用意してもらったものだから、遠慮などする必要はない」

 紗依の目の前に置かれていたのは、何冊かの本だった。
 いつもなら遠慮がちに本当に良いのかと問う紗依だったが、今日ばかりは期待に目を輝かせて問いかけた。
 目の前にあるのは紗依が噂に、或いは母から教えられて、いつか読んでみたいと語っていた物語ばかりだったから。
 当然のように、紗依は学校にいくなど許されておらず。義務とされる教育を受けるだけで精一杯。
 本を読むことなど許されず、またそのような時間も与えられずに。憧れた物語を読むことは、それこそおとぎ話のようなものだった。
 苑香が飽きたといって放り出していた冊子を密かに拾い上げ、隠れるようにして読んでいた時を思い出す。
 それすらも結局見つかって。ひどく折檻を受けたうえで目の前で燃やされてしまった。
 泣きながら悔しさと抱く願いを口にする紗依を、小さな友は静かに見守ってくれていた。
 喜びに輝く紗依を見て嬉しそうに微笑みながら、矢斗は更に紗依を喜ばせることを口にする。

「それと、学問と稽古事をしたいなら……千尋殿が師を手配してくれるそうだ」
「本当に⁉」

 弾かれるようにして叫んでしまってから、はっとして思わず俯いてしまう紗依。
 自分には過ぎたことと思っていたのに、つい気付けば喜んでしまっていた。
 恥じらうように視線を膝に落してしまった紗依に、矢斗はあくまで優しく気遣うように笑う。

「だって、紗依は学びたいと願っていただろう? おそらく、それは私より千尋殿や長けた者に頼むべきだと思ったから」

 高等小学校を卒業した後、紗依は玖瑶の家にて閉じ込められるようにして暮らしていた。 
 使用人として使われ、本来受けられるはずだった教えを受ける機会も与えられず。
 日々の合間を見て母は自分が持てる教養を紗依に教えてくれていたのだが、名家の娘として長く教育を受けた母のようには、紗依は出来なかった。
 母は自分がもっと良い教え手であればと気遣ってくれたけれど、紗依は自分が至らないからだと責めていた。
 自分には足りないことも、できないことも多すぎる。
 忙しい日々に諦めてしまっていたけれど、本当はもっと学びたかったし、より出来ることを増やしたいと思っていた。
 辛い境遇にあってもなお必死で育ててくれた母の娘として、恥じない自分で在りたいと願っていた。
 そしてそれを、夕星にだけはそっと話していた……。

「紗依がいつも願いを抱いたとしても全て我慢して。お腹を空かせていたことも、寒くて辛い思いをしていたことも知っているから。もう、けしてそんな思いはさせたくないと」

 ただただ優しく愛しむような声音で紡がれる言葉に、紗依は先程とは違う想いにて俯いてしまう。
 頬の当たりが赤みを帯びたような気がして琥珀の眼差しを真っ直ぐに見つめることができない。

「でも、これでは私はしてもらってばかりで……。あなたに、何も返せていなくて……」

 胸が満ちる温かなものに戸惑いながらも、紗依は消え入りそうな声で何とか少しずつ裡にある想いを形にしていく。
 そう、紗依はしてもらうばかりなのだ。
 矢斗は次々と紗依がかつて抱いた願いや望んだことを形にしてくれるのに。紗依は、矢斗に何も返せていない。
嬉しいとは思う。けれど、ただ、与えてもらうばかりなのが申し訳なくて。
 二人がそれぞれに口を閉ざすと、その場にはふと沈黙が訪れて。
 けれど、少しの後にそれは破られる。
 俯いたままの紗依は何かが動いた気配を感じたが、その次の瞬間には紗依を取り巻く景色が変わっていた。

「小さな光でいた頃は。……どれだけ紗依の涙を拭ってあげたくても、頭を撫でて慰めたくても出来なかった」

 困惑する紗依の耳に、慈しむ響きに満ちた言葉が降って来る。
 気が付いた時には、紗依はあの日のように矢斗の広い腕の中に優しく捉われていた。
 戸惑いに意味ある言葉を紡げずにいる紗依を抱き締めながら、矢斗は噛みしめるように続ける。

「けれど今はこうして、紗依に触れる事が出来る。抱き締める事が出来る。それが、嬉しくてたまらない」

 涙する紗依の話を聞きながら、小さな光だった友はいつも謝ってくれていた。
 何もできずにすまないと。話を聞くことしかできなくて、すまないと。
 かつての日々を思い出しながら矢斗の腕に抱かれる紗依は、矢斗が確かにここに生ある証である鼓動を感じる。
 恥じらいに、自分の鼓動は忙しないけれど。矢斗の音を感じれば、少しずつ溶けあい、緩やかになっていく気がする。

「紗依が喜びに笑ってくれること。それが、私にとってなによりの喜びであり、返礼だ」

 一つになっていく感覚を、やはりけして嫌とは思わない。
 友はかつての小さな姿ではなく、人ではないあまりに美しく偉大な存在であって。それに比べたら自分は小さな存在で。
 それなのに、矢斗にそこまで思ってもらえることへの罪悪感めいたものと、胸に生じて満ちていく自分でも分からない想い。
 分からないことが増えていく一方で、温かな腕の感触を今暫く感じていたい、と思う自分に。
 紗依は、ただ戸惑うばかりだった――。
 紗依は、北家の主とその妻から。そして家人からも温かく受け入れられた。
 とりたてて特別なことをしているわけではないのだが、矢斗は少しずつ調子を取り戻し、日を追うごとに異能を持たない身にも存在が確かになっていくのが分かる。
 時嗣に愛の力だな、などとからかわれると、何もしていないのにと照れて俯くしかないが。それを見ている矢斗は実に嬉しそうだった。
 紗依の今を取り巻く人々は、皆揃って優しい。
 だが、全ての者がそうとは限らないことを、紗依は知ることとなってしまう。

 事件が起きたのは、紗依が漸く少し北家に慣れてきたとある日のこと。
 起床した紗依はいつもとは違うことに気付いた。
 いつもなら、紗依が起きるのを見計らうようにサトが現われるのだが、その日は待てども誰も現われなかった。
 確か、サトは郷里に所用と言っていた。代わりが来るとのことだったが……。
 もしかしたらその人は他の仕事の為に来られなくなったのかもしれないと思い、紗依が自分で身支度を整え始めた時だった。
 部屋外からすっかり馴染んだ女性の声がかかり、紗依は千尋が来た事を知る。
 少しだけ待ってもらうよう声をかけ手早く支度を整えると、紗依は千尋を部屋へと招き入れた。 

「おはようございます、紗依様」
「おはようございます」

 千尋は優しく微笑みながら挨拶を口にする千尋に、紗依ははにかみながら応える。
 北家での暮らしに慣れていくにつれて、千尋とも打ち解けて話が出来るようになりつつあった。
 少しだけ年が上の千尋は日頃何かと気遣いをくれるばかりか、学びを望む紗依に自身も色々と教えてくれる。
 姉がいたらこのような感じだろうかと思う相手でもあり、初めてできた同性の友とも思える相手であった。
 千尋は室内を見回して、身支度を整えた紗依の他に誰もいないことに気付くと、怪訝そうな顔をする。

「ご自分で支度をされていたの? ……サトの代わりの女中は?」
「代わりの方のことは聞いていたのですが。お忙しいのかなと……」

 眉を寄せて首を傾げる千尋を見て、紗依は少し困惑しつつも推測を控えめに口にした。
 サトが郷里に帰っていることは千尋も知っているだろうし、千尋の様子からして代わりを寄越すよう命じてくれていたようだ。
 そうなると、来られなかった何がしかの事情があるかもしれない、とは思う。
 しかし、眉を寄せたまま考え込んでしまった千尋の様子に徐々に不安が生じていく。
 自分の預かりしらぬところでもしや何かあったのでは、と紗依が口にしようとした時。

「……少し、失礼しますね」

 努めて抑えたような声音で言うと、千尋は静かにその場を辞した。
 呆気にとられた紗依は何か言葉をかけることもできずに、消えていく背を見送ることしかできず。
 しばし呆然と目を丸くしていたが、やがて我に返った紗依は千尋の様子が気がかりでならなかった。
 どうするか迷っていたものの、紗依は意を決して去った千尋の後を追うことにした。
 千尋の姿は既に部屋の近くにはなく、どちらに向かったのか推測して周囲を伺いながら進んで。ややあって、紗依は再び千尋の姿を見出すことができた。
 だが、咄嗟に声をかけることは憚られた。
 千尋が、ある部屋の前で険しい表情のまま佇んでいたからだ。
 どうしたのかと問いかけようとした時、その言葉は紗依の耳を打った。

「異能を持たない呪い子に触れるなんてぞっとするわ。世話をするなんてとんでもない」

 呪い子という言葉を久しぶりに聞いた。誰をさしているのかなど、言われずともわかる。
 僅かに蒼褪めた紗依は、半ば呆然とした面もちの千尋が見つめる先、部屋の中をおそるおそる覗き込む。
 奥女中の女が数人、卓を囲んで寛いだ様子で座り集っている。
 今の言葉を発したと思しき女は、美しい顔を悪意に歪めながら呪い子……紗依を嘲笑いながら陰口に花を咲かせていた。
 千尋が現われたことに気付いていないはずはないのに、敢えて無視をするように殊更声を大きくして。
 思わず息を飲んでしまった気配によって紗依が来ていたこと、そして今の言葉を聞いてしまったことを察したらしい千尋の顔色が消え失せる。
 しばし唇を噛みしめていたものの、厳しい表情のまま一つ息をついた千尋は、女達を見据えて口を開いた。

「何をしているの。私は、紗依様の支度を手伝って、と言ったはずよ?」
「これは千尋様。あの呪い子様なら、ご自分でなさるでしょうから良いのでは?」

 室内にいた女達は打たれたように身動きを止めて、声の主である千尋を見つめる。
 更には千尋の後ろに紗依がいることに気づいて、他の女二人は気まずい表情を浮かべた。
 だが、詰問された女は表情を変えることすらせず、ふてぶてしいまでの余裕を保った鼻で笑って見せる。
 悪びれた様子もなく言い返した女は、尚も嘲笑を交えながら続けた。

「呪い子を貴人と扱うなど……。北家の格が問われてしまうのではありませんか?」

 その表情には紗依だけではなく、何故か千尋すら侮っているような様子がある。
 自分のせいで千尋にも苦い思いをさせているのだと思えば思わず言葉を失って俯いてしまうが、千尋はあくまで静かに応じる。

「紗依様は、時嗣様が正式に北家にとっての貴人としてお迎えすると決めた方です。口を慎みなさい」

 紗依を庇うようにして立ちながら、毅然とした様子で千尋は女へと告げた。
 聞いた女は、紗依を庇う千尋を見てさも面白そうに笑ったかと思えば、口元を押さえる。 

「さすが、下々のお育ちをなさった方々は気心が知れるのが早くていらっしゃる」

 厳しい表情のまま唇を引き結ぶ千尋の後ろで、紗依が一瞬目を瞬いた。
 どういうことなのだろう、と思っていると、千尋が少しだけ苦笑いを浮かべて紗依へと語り始めた。

「私は、御一新でなり上がった商人の娘なのです」

 千尋の父は世の大きな節目となったあの動乱に機を見出して財を為した商人であり、元は平民の生まれであるという。
 抑えた声音で淡々と語ってはいたものの、言葉の端に揺れる心が少しの震えとなって表れていることに紗依は気づいていた。
 北家の奥女中として奉公できるということは、恐らくこの女達は相応の家柄の出だろう。
 彼女達からすると、平民が奥方として自分達に命令するなどという思いなのだろうか。
 だが、察したからといって理解はしたくない。裡に膨れるようにして生じつつある憤りが止められない。
 強張った表情の二人を見ながら、女は笑いながら続ける。

「千尋様は、実に幸運なお方ですわ」

 称賛の皮を被った純粋な悪意を口にした女は、棘だらけの言葉を止めようとしない。

「多少の異能をお持ちだったからお妾だったお母様のところから引き取られ。お父様がたんとお金を積んでくれたおかげで、分不相応に恵まれた暮しを手に入れられたのですもの」

 その言葉で、千尋が語らなかった彼女が抱える事情について知ってしまう。
 このご時世、女は自らの意思で結婚を選ぶことなど有り得ず、そこに政治的な思惑が働くのはままあること。
 千尋は恐らく、金銭的な支援などとひきかえる形で北家に嫁ぐこととなったのだろう。
 そこに至るまでの彼女の意思について今知りようはないが、分かることはある。
 千尋と時嗣が互いを思い合い、仲睦まじい夫婦であるということ。
 けしてこのように、悪意に貶められていい人ではないということ……!

「いい加減に、してください……!」

 強い感情が胸の裡にて破裂したように感じた瞬間、気づけば紗依は叫んでいた。
 千尋が目を瞬いてこちらを見ているのがわかる。女もまた、一瞬呆気にとられたような顔をした。 
 だが女はすぐに我に返ると、面白くなさそうに溜息をついて、紗依を睨みつけた。

「何よ。お情けで優しくしてもらえているだけの呪い子のくせに。生意気な」

 この女は紗依を呪い子と呼んでいる。つまりは、玖瑶家の事情をある程度知っているようだ。玖瑶家とそれなりに親交のある家の出なのかもしれない。
 どのようにして表向き伏せられている紗依のことを知り得たのかは知らないが、今それはどうでもいい。
 紗依に優しく接してくれる姉のような存在を侮辱する女を、許せないと思う。

「私に対してなら、好きなように言えばいいです。でも、千尋様を侮辱するようなことはやめてください……!」
「はあ……。本当に、卑しい育ちの方は慣れ合うのがお好きだこと」

 庇ってくれていた千尋の影から出て、紗依は震えそうになる自分を叱咤しながら女を真っ直ぐに見据える。
 自分に歪んだ悪意を向けてくる美しい女を見ていると、かつて自分を虐げていた美苑や苑香たちを嫌でも思い出してしまって震えそうになる。
 けれど、今はそれ以上に千尋を悪し様に言われるのが許せない。
 睨みあう形になった紗依と女を、女の取り巻き達も千尋も戸惑った様子で息を飲み見つめ、緊迫した沈黙がその場に流れたが。

「その女を今すぐ叩き出せ」

 不意に響いた低く重い男の声によって、空気は一変した。
 千尋の顔が瞬時に蒼褪める。恐れていたことが起きたというような強張った表情だった。
 声のしたほうに視線を向けると、そこには今までみたこともない程に厳しく怒りに満ちた表情の時嗣が居た。
 その後ろには、同じく怒りに満ちた……背筋にうっすらと寒いものを感じるほどの形相の矢斗が居る。

「次の勤めの紹介もいらん。今後北家と縁のある一切の場所への奉公は禁じる。今すぐ俺の前から消えろ」
「ご、ご当主様……!」

 思わぬ人物の登場に、それまで余裕の表情を崩さなかった女の顔に初めて動揺が表れる。
 取りすがるように言葉をかけようとした女を遮るように、時嗣は努めて淡々とした声音で尚も告げる。

「北家当主の妻を……俺の嫁を侮辱しておいて、命があるだけありがたいと思え」

 紗依も千尋も、その場にいた人間は揃って顔色を無くした。
 時嗣の言葉の底に煮えたぎるのは、殺気とも言えるほどの激しい感情だった。
 女の出方次第では、時嗣がそのまま行動に出てもおかしくないと思えるほどのものを感じ、紗依は目を見張ったまま言葉を失う。
 いつも朗らかに気さくな時嗣がここまで激するのを初めて見た。
 そして、やはりいつもならそれを宥めるであろう矢斗が、何も言わず女を睨み据えているのを目にして息を飲む。

「あなた。何もそこまでは……」
「千尋。お前は優しいから罰程度で許してやるつもりだったろうが。俺は、お前を侮辱した人間をそんなもので済ますつもりはない」

 ようやく我に返ったらしい千尋が、呻くようにして掠れた声で夫へ言う。
 だが、時嗣の答えは取り付く島もないものだった。
 時嗣は深い溜息と共に、紗依へと視線を一度巡らせ、そして背後の矢斗へ目を向ける。

「奴はお前にだけじゃなく、紗依殿まで侮辱した。矢斗の為にも、紗依殿に無礼を働いた人間を北家の屋敷に置いておくつもりもない」

 視線を受けた矢斗は、言葉に同意するように僅かに目を伏せた。
 矢斗の表情を見て、時嗣を止めようとしない彼の怒りの程を知りつつも、紗依は恐る恐る口を開く。

「でも。……いきなり追い出すのは、あまりにも」
「紗依、あなたまで……」

 躊躇いがちに言葉を紡ぐ紗依を見て、矢斗が苦い表情で呟く。
 如何に過失があったとしても、奉公先から突然追い出されるというのは想像以上に辛い仕打ちだ。
 実家が戻された女を受け入れてくれればいいが、北家の怒りを買ったとして忌まれる可能性が高い。
 存在を無き者として生涯閉じ込められて暮らすことになるか。はたまた縁を切られ身一つで追い出されることになるか。
 それを思えば、如何に不快な思いをさせられた相手であろうと迂闊に追い出してくれなどとは言えない。
 偽善を気取るつもりはないけれど、寄る辺ない生活による不安を知るからこそ、それは言えない。
 千尋と紗依の訴えるような眼差し二つを感じて、やがて時嗣は盛大な溜息と共に肩を竦めた。

「……なら、暫く食事抜きで蔵に閉じ込めておけ。その後は奥女中から下女中に格下げだ。それ以上は譲らんぞ」
「わかりました……」

 憮然とした面もちで罰を言い渡す時嗣に、千尋は安堵したような複雑な色合いを帯びた様子で頷いた。
 千尋は速やかに女の周りにいた者達に、女をこの場から連れていくように命じる。
 雷に打たれたように跳ねた後、周囲の者達は呆然とした表情で固まったままの女を引きずるようにしてその場から消えていった。
 満ちた暫く何ともいえない沈黙は、矢斗の深い息と共に紡がれた言葉が終わりを告げる。

「あの女は、お前に対して邪な情を抱いていたようだ。あわよくば、お前が気の迷いを起こすことでも狙っていたのだろう」
「馬鹿か」

 矢斗の言葉を聞いた時嗣は、吐き捨てるように呟いた。
 紗依は複雑な面持ちになってしまう。
 矢斗の言葉から察するに、あの女性はどうやら時嗣の妾の地位を狙っていたらしい。
 北家の主であれば、妻ではなくて妾でも構わないと思ったのだろうか。
 ましてや、まだ千尋には子がない。
 それなりに美しい容貌があり、異能も持っていた。北家に奉公が許されるなら、出自も確かだろう。良からぬ野望を抱いたとしても不思議はない。
 確かに、それもまた一人で生きていくのは難しい女の一つの道なのかもしれないが……。

「さて、矢斗。俺は千尋を慰めるから、お前は紗依殿の気分を変えてさしあげろ」

 いまだやや蒼褪めたままの千尋の肩を抱いて踵を返した時嗣は、紗依の傍らに佇む矢斗へと、先程とは違う優しい苦笑いを込めて言う。
 そして、そのまま妻を伴ってその場から静かに消えていった。
 残されたのは、矢斗と紗依。
 暫くどうしていいのか分からず困惑や動揺に言葉を紡げずにいた紗依だったが、ふと目の前に差し出された手に気付く。

「……少し、庭を歩こうか」

 気遣うように僅かに微笑んで、矢斗は紗依へ誘いの手を差し伸べてくれていた。
 紗依の裡ではいまだ起きた出来事に対する様々な感情が入り交じり、整理がつかない。
 けれど。
 一瞬考えた後、紗依は静かに差し出された手に己の手をそっと載せたのだった。
 少し後、紗依は矢斗に伴われて今が盛りの春の庭を歩いていた。
 二人とも何とはなしに沈黙したままで、少し固い空気が流れているような気がする。
 淡い色に濃い色。様々な色合いが絶妙な変化を描くように配置された庭は、ただ見事の一言に尽きる。
 穏やかな日差しのもとで咲き誇る花々の中を、紗依を気遣いながら矢斗は進む。
 歩みを進めるにつれ、先程の出来事に揺れていた心は少しずつ落ち着いてきた気がする。
 しばし双方言葉なく歩いていたが、ふと矢斗が紗依へと問いかけた。

「また、母君からの手紙が届いたそうだな」

 思わぬ言葉に一瞬目を瞬いたけれど、すぐに淡い微笑みを浮かべて紗依は頷いた。

「ええ。療養所の先生や看護婦さんが、とても良くして下さると」

 亘を介しての母から近況を知らせる手紙は、一通目以降も定期的に続いていた。
 時折字が揺れているような気がして不安になることもあるし、言葉の端に違和感のようなものを覚えるときもある。
 だが、概ね診療所での環境がとても落ち着いていることや、周りの人々が親切であること。日々のささやかな出来事が記されていた。
 紗依は届く手紙を見ては、母が元気でいてくれることに安堵する。
 傍に居られないことは寂しくて、顔を見たいと手紙を見る度に思うけれど。何時かまた共に暮らせるようになると信じて、紗依は一生懸命返事を認める。

「だから、私も手紙に書いたの。北家の皆様や矢斗が、どれだけ良くしてくれているか」

 もう完全な復調に近いとはいえ、未だ存在については伏せたままだから矢斗の素性については確かに語れない。
だが、紗依は母への手紙で、出来る限りの範囲で矢斗のことを記した。
そして時嗣や千尋、サトがどれだけ自分に優しく接してくれているか。
今どれだけ穏やかで恵まれた暮らしをさせてもらっているかを、日々のささやかな出来事の一つ一つに触れながら綴った。
 紗依の顔に控えめであれども笑みが戻ったのを見て、矢斗は心底嬉しそうな顔をする。
 それに気付くと、紗依の鼓動はまた少し早くなるのだ。
 紗依は、そっと矢斗を伺うようにして見上げる。
 祀られるものとして相応しい威厳を備えた長身のしっかりとした体躯に、ふとした拍子に思わず目を奪われてしまう程に美しい容貌。
 折に触れて、矢斗は本当に人ならざる偉大な存在なのだと思い知る。
 気安く話してしまっているけれど、そう、相手は北家の尊き祭神である。本来ならばこのように、隣に並ぶ事も、友のように接することなど許されないはず。
 故に一度は改まった接し方をと思ったのだが、される側の矢斗が盛大に拗ねたのだ。
 その拗ね方というのが何ともはや。紗依が元のように話してくれるようになるまで出ない、と自らの部屋に籠ってしまった。
 開かぬ扉に向かって「この駄々っ子!」と怒鳴りながらも深い溜息をつく時嗣に懇願され、紗依は言葉と態度を戻したのである。
 時嗣が以前、矢斗は紗依のことに関しては螺子が飛ぶ、とは言っていたけれど。
 螺子が飛ぶというか、甘え方が激しいというのか。時折困惑するほどの包容力を以て紗依を甘やかしてくると思えば、全身全霊でじゃれつかれているように思う時がある。
 けれど一番紗依が戸惑うのは、そんな矢斗を自然に受け入れつつある自分についてだ。
 翻弄されるのが、けして嫌ではないと思ってしまう。そんな自分に一番戸惑いを覚える。
 紗依は自分を落ち着けるように一つ息を吐いてから、改めて口を開いた。

「お母様が療養所で元気になって下されば……。手紙で近況をお知らせすることで、少しでも安心して頂ければいいけれど」

 母のいる場所に繋がっているであろう空を見上げながら、紗依は母を思って言葉を紡ぐ。
 今は距離の隔たった場所にいるけれど、いつかまた一緒に暮らすことができれば。
 思いを馳せたまま空の蒼に目を細めていた紗依は、ふと手を包み込むような温かな感触を覚える。
 驚いて視線を向けると、矢斗が大きな両の手の平で紗依の手を取っていた。

「矢斗……?」
「……私は、紗依の『夢』を叶えたい」

 戸惑う紗依を真摯な光を宿す琥珀の一対で見つめながら、矢斗は静かに告げた。
 夢、と言われてもと紗依が更に困惑を深めかけた時、矢斗は微かに懐かしむように目を細めながら続ける。

「紗依は母君の願いを叶えたいと……。それが夢だと言っていただろう?」

 考え込みかけて、思わず小さく声をあげかける紗依。
 確かに自分はそう言った。あの庭の片隅で友と寄り添っていた時、密やかに。
 揺れる眼差しで矢斗を見つめるしかできずにいる紗依へと、矢斗は優しく、だがはっきりとした声音で言葉を紡ぐ。

「母君は……紗依を大切にしてくれる者を見つけて、家庭を築いて欲しい幸せになって欲しい。そう、願われていた」

 紗依だけを大切にしてくれる人を見つけて結婚し、温かい家庭を築いて欲しい。
 愛し愛され、守られて。幸せになって欲しい。それが、母が折に触れて口にしていたことだった。
 言葉にはしなかったけれど、自身の結婚がけして夢見た幸せな形ではなかった故かもしれない。
 紗依には幸せになって欲しいと願ってくれる心を感じる度に、胸は痛んだ。

「紗依はその母君の願いを叶えたい。母君に心安らかにあってもらうことが出来れば、と言っていた」

 叶うならば、紗依だってその願いを現として母に安心して欲しいと心から思っていた。
 けれど、あの家にある限りそれは無理なことだった。
 父は娘を何処かへ嫁がせる気など全くなかったし、美苑達は紗依を死ぬまで飼い殺しにするつもりだったからだ。
 使用人として虐げられている自分には無理な夢だと思い、諦めていた。
 母の願いを叶えて安心させてあげたい。それが夢だけれど……と小さな友に語ったことがあった。
 苦い思いと共に語った言葉を、矢斗は覚えていたのだ。

「私では、その夢を叶えられないだろうか」
「矢斗……」

 胸の裡に生じた過去の痛みに哀しげに表情を曇らせた紗依の耳を打つのは、あまりに深い想いの籠った矢斗の『願い』だった。
 紗依は咄嗟に答えを返すことが出来ない。
 矢斗の声が真っ直ぐすぎて、優しすぎて。そんな昔のこと、と誤魔化して笑って見せることも出来ない。
 彼の言葉が、とりもなおさず改めての求婚を意味することに気づかない程愚かではない。
 かつて友だった美しい付喪神の言葉を疑うわけではない。紗依の願いを叶えたいという言葉に込められた情は確かなものだと感じる。
 けれど、願いを叶えたいからこそ、彼は紗依の夫となることを望むのだろうか。紗依が伴侶を得ることで母が安心してくれる。その為にだけに?
 何故にそこまで一生懸命になってくれるのか。矢斗自身の心はどこにあるのか。
 戸惑いに心は揺れるけれど、心の裡にあるのは拒絶ではないのに紗依は頷く事ができずに居る。
 言葉を紡げぬままに俯いてしまった紗依は、自分に琥珀の眼差しが変わらぬ優しさを以て注がれているのを感じて、尚の事顔をあげられない。
 風が吹き抜け、様々な彩の花弁を揺らしていく。
 向かい合う二人はそのまま口を閉ざしてしまい、沈黙が満ちること暫し。

「ならば。……紗依がそれを見定めるまでの時間を、私に与えてはくれまいか?」

 沈黙に揺蕩う花の庭に、ややあって穏やかに優しく響いた言葉に紗依は目を瞬く。
言葉を返せぬままでいる紗依へと、矢斗は傍らから取り出した何かを丁寧な手付きで紗依の手に握らせた。

「……これを、紗依に」

 何であろうかと戸惑いながら視線を落とした先にあったのは、一本の簪だった。
 作りとしては簡素なものであったが、足に使われているのは清い輝きを放つ銀であり。その先端にはまるで星の光が凝ったような不可思議で美しい珠がついている。
 矢斗によると、それは北家に帰還してから毎夜紗依を想いながら祈り。空に輝く星の光を僅かずつ集めて為した宝玉だという。

「矢斗……」
「かつて、紗依が簪を願った時には何も贈れなかった。だから、受け取って欲しい」
 矢斗の言葉に一瞬怪訝そうな様子を見せたものの、次の瞬間には思わずと言った風に叫びかけていた。

 二人が友としてあった過ぎし日の、ある日のこと。
 紗依は酷く折檻を受け傷だらけの様子で矢斗の元に行くことになってしまった。
 驚き心配する友に何でもないと笑って見せたかったけれど、優しい声を聞いたら涙が止まらなくなってしまい。紗依は涙まじりに何があったのかを話した。
 切っ掛けは、苑香が美しい簪を挿していたことだった。
 娘に甘い父親が、どう見ても子供には似つかわしくないほどの見事な品を買い与え。苑香はそれを殊更紗依に見せびらかすようにして髪にさした。
 紗依が俯いてそれを必死に見ないようにしながら過ごしていたある日、苑香に部屋の掃除を命じられた時。簪が無造作に鏡台の上に置かれていた。
 紗依とてまだ子供であり、美しいものに憧れる年頃だった。
必死に打ち消しても、打ち消しても。どうしても羨ましいという思いが消えなくて、気が付けば置かれた簪に手を伸ばしていた。
ただ、触ってみたかった。少しの間、髪に挿してみたかっただけなのに。
 それを、まるで待っていたかのように苑香が現れ、泥棒だと大騒ぎを始める。
 恐らく紗依が簪を羨んでいるのを知り、罠にかけて甚振ろうとしていたのだろう。
 苑香の叫びを聞きつけて現れた美苑は、娘から事の次第を聞くと紗依の言葉などまるで聞かずに鞭で打たせ、容赦なく平手を浴びせ、足蹴にし続けた。
 事の次第を黙して聞いていた夕星は、涙する紗依を慰めるように言ったのだ。
 いつか、貴方にあの夜空の星を集めて玉を作って、美しい簪を贈りたいと。
 優しい友の言葉に、慰めと分かっていても紗依は嬉しくて。暫く後に笑顔を見せて、待っていると答えたのだった……。
 矢斗は、あの時のことを覚えていて。北家に戻ってから、未だ完全とは言えぬ身体であっただろうに、紗依との約束を果たすために夜空の星の光を少しずつ集めていたのだ。
 紗依を想い、祈りを捧げながら。いつか、紗依に約束した簪を贈る為に。
 夜空の雫とも言えるような美しい簪を手にして、紗依は僅かに逡巡した。
 あの日の言葉をまた現のものとしてくれた矢斗の気持ちが嬉しくて。そして、その想いに今応えることができないことが悲しくて。
 紗依は少し俯きながら、哀しげな苦笑を浮かべて告げた。

「でも。この髪では、簪は挿せないわ……」

 紗依の髪は、肩上までで切りそろえられている。
 かつて苑香に嫌がらせに炎を向けられたことがあり、その時に焼け焦げてしまって。
その上、苑香は整えてあげるといってわざと不揃いに、焦げていない髪まで切り落としたのだ。
 結うことも儘ならない、女性としてはあるまじき長さの髪を恥じ入るようにして更に俯き、寂しそうに言う紗依。
 けれど、紗依の簪持つ手を包み込むような温かな感触が生じる。

「髪は、いずれ伸びるだろう? いつか挿せるようになった時、見せてほしい。……その日まで、紗依の傍らで見守らせて欲しい」

 己の手に矢斗の手が添えられたのを感じながら、緩やかに顔をあげた紗依が目にしたのは。変わらずに、けしてゆれることなく自分に向けられる温かな眼差しだった。
 矢斗は今ここに求婚の答えを求めていない。いずれ、簪が挿せるようになる日まで……紗依が充分に考え、心を定めるのを待ってくれている。
 現になったあの日の言葉に込められた想いに、裡に熱いものが生じて、胸が苦しい。
 何故そこまで矢斗は自分を想ってくれるのだろうか。自分は、それに値するような存在であるとは言えないのに、何故。
 手に感じる温かさを感じながら、はっきりと拒むことも受け入れることも、どちらもできない自分を情けなく思うけれど。
 それからまた少し俯いていた紗依はやがて顔を上げ、矢斗を見つめながら静かに一度頷いて見せた――。


 そして、紗依が矢斗へと少しぎこちない笑みではなく、自然にはにかむようになった頃。
 矢斗は正しく己のあるべき姿と力を取り戻す。
 時嗣は吉日を選び、北家当主の名において正式に祭神の帰還を公表した。


 帝都の西に位置する、西家の屋敷にて。
 線の細い、一見して女性にも見える物腰穏やかな男性は、側近からその報せを聞いて驚きに目を見張った。

「北家に破邪の弓が戻られたと……」
「間違いないな。……今でははっきりあいつの気配を感じる」

 戸惑い交じりの声に答えたのはもう一つの人影。流麗な容貌を誇る人ならざる美貌の主だった。
 その言葉を聞いて男性は漸く納得した様子で一つ頷くと、側近に祝いの手配をするようにと命じる。
 しばし慌ただしく采配をしていたものの、やがて残されたのは男性と美貌の主のみ。
 目を一度伏せると、一つ息を吐きながら男性はしみじみと呟いた

「これで始まりの武具が全て元の通りに。めでたいことです……」


 処は変わり、こちらは南家の本拠地である屋敷にて。
 同じように側近から北家祭神帰還の報せを受けた人物は、きょとんとした表情を浮かべながら首を緩く傾けた。

「あら……。北家に祭神がお戻りになったですって?」

 鈴を鳴らすような声でおっとりと呟いたのは女性だった。
 傍らでは女人にしては背の高い美貌の主が、口元を押さえながら目を丸くしている。
 報せをもたらした者達は皆彼女達に対して跪き、改めて問いを肯定した。
 華麗にして美しい衣で装いながら、その絢爛さにけしてまけない華やかな……心から楽しそうな笑みを浮かべて女性は北家の方角へと視線を向ける。
 鮮やかな紅を刷いた唇を緩く吊り上げて、女性は言う。

「時嗣さんも大喜びでしょうね。暫くは大わらわでしょうけれど……面白くなりそう」


 そして、帝都の中枢ともいえ尊き存在の住まう御所にて。
 奥つ城とも言える場所にて、唯一人のみ許された衣を許された人物……この国を統べる帝は驚愕の声をあげた。

「北家の……。矢斗が戻ってきたということか?」
「そのように報告が参っております」

 目を見張り次なる言葉がなかなか続かない様子の帝へと、精悍な印象を与える男性が頷きながら答える。
 近侍のように傍に控える武人とも見える男性が肯定したのを聞いて、ややあって帝は溜息と共に口を開く。

「よくもまあ、今の今まで外に隠していたものよ」
「それも、理由あってのことかと。詳細については、直にご下問なさるのがよろしいかと」

 実直な声音で為される進言に、呆れた風にも感心した風にもとれる表情をしていた帝は頷く。

「近く、参内するように申し付けよ」
「御意」


 長らく祭神不在であった北家に、祭神が帰還したという知らせに帝都は大いに驚きに揺れ、人々は最初こそ真偽を問う戸惑いの声をあげていた。
 だが、それが北家として公式の触れであること、他の三家、更には帝がそれぞれに祝いの意思を明らかにしたことで事実だと広まっていく。
 人々は徐々に受け入れ、欠けていた始まりの帝の武具が四つのあるべき形に戻ったこと寿ぐものは徐々に増えていった。
 だが、それをめでたいことと受け入れぬ者達もいた。

「北家が祭神を取り戻した、だと……?」

 玖瑶家の屋敷にて、紗依の父である現当主は震えかける声を必死に抑えながら、絞りだすようにして呻いていた。
 傍らには、美苑と苑香の姿がある。未だ学校より戻っていないためか、亘の姿はない。
 いずれも蒼褪めた顔で唇を噛み、あるいは苛立った様子で爪を噛んでいる。

「それならあの申し出にあった『神嫁』とは、その、祭神の妻のことだったの……⁉」

 認めたくないと言う様子で言ったのは美苑だった。
 それが本当ならば、あれだけ疎んじ虐げていた紗依を、尊い存在の妻として差し出してしまったことになる。
 北家を、四家とは名ばかりと蔑んでいた。神嫁などといっても、戯言だと嘲笑っていた。
その家で日陰の立場になればいいと送り出したものが、栄光を取り戻した名家にて貴人として扱われる立場になってしまったということ。
 不幸を笑ってやるはずだったのに。そんなはずではなかったと苛立ち何度も溜息を吐く母の傍らで、苑香は顔を歪める。

「やたら幸せそうなのは虚しい作り話だと思っていたけど、本当だったというの……?」

 何かに思いを巡らせるようにして思案しながら、苑香は更なる苛立ちに爪を噛む。
 身代わりに差し出してやったというのに、貶められるどころか尊ばれているらしい姉。
 もたらされるとある報せを虚しい夢想と嘲笑っていたというのに、それはどうやら真実だったのかと忌々しげに独白している。
 三者はそれぞれに、かつて虐げていた相手が貴人となったことに対して狼狽えていた。
 だが。

「お父様、お母様。今からでも遅くないわ」

 重苦しい沈黙が満ちかけたが、不意に苑香が不思議なほど明るい声をあげたのだ。
 両親が驚いて娘へ視線を向けると、そこには無邪気なほどの微笑みがあった。
 苑香は良い事を思いついた、と呟いてから実に楽しそうに二人へと続ける。

「異能を持たない役立たずの呪い子なんて、神の妻には相応しくないもの」

 そう告げる苑香は、人々に称えられる美貌にて花のように微笑んでいた。
 それは、どこか毒花めいた危うさと恐ろしさを秘めたものだった――。
 紗依は、不思議な微睡みの中にあった。
 朝告げの小鳥が囀る音が遠くに聞こえて。眠る床からも室内が薄っすら明るくなってきたのを感じて。ふわりとした感覚の中、もう直ぐ朝が来るのだと知る。
 今日は矢斗に本を読んで聞かせると約束しているのだ。
 祭神として北家の内外に正式に触れが為された後、矢斗が紗依と過ごす時間は少し減ってしまっていた。
けれども、共に過ごす時間に並んで座る二人の距離は、少しずつ近くなっていた。
 矢斗は、紗依の声で物語が語られるのを好んでいた。
 他愛ないおとぎ話であったり、歴史を語るものであったり。時によりさまざまである。
矢斗は紗依が読み聞かせるのを楽しそうに聞いてくれ、続きをせがんでくれる。
 自分も本が読めることが嬉しいし、求められることも嬉しくて。
 物語を読みたいけれど、と悲しんでいた紗依が、好きなだけ好きな物語を読めることを矢斗が喜んでくれていているのが嬉しくて。
ついつい顔がほころんでしまいそうになるほど、待ち遠しいと思ってしまっている。
 不可思議な感覚の中、そろそろ起きなければと紗依が目を開こうとした時のことだった。

『幸せそうだな』

 愉悦を含んだ、一瞬にして恐れを呼び覚ます程に暗く低い声が聞こえた。
 眠っているのか起きているのか曖昧な感覚の中で、その声だけはひどくはっきりとしている。
 誰かが紗依に呼びかけている。
 夢かとも思ったが、違う。紗依を起こそうとする誰かかと思ったけれど、違う。
 眠る紗依の傍にて語り掛けるのではない。
 それは……紗依の『中』に居る。声は、紗依の『内側』に響いている……!

 ――あなたは、誰。どうして、私の中から声がするの。何故、私の中に……。

 自分の中に、自分以外の『何か』が存在している。
 得体のしれない恐怖が湧き上がってくるのを止めようとしても止められない。
 出来る限りの強さで、紗依はその『何か』に対して問おうとする。
 しかし、見えない『何か』は更に愉快そうに笑うと、尚も紗依の内側に低い言の葉を響かせる。

『これは異なことを。我を内に生じ入れたのは、他ならぬお前』

 ――私は、あなたなど知らない。そんな覚えなんか……。

 言葉に抗う意思を伝えようとしたけれど、その瞬間破裂するような笑いが響き渡る。
 痛い、苦しい。
 裡に直で感じる順然たる嘲笑う意思を感じて、紗依は胸を押さえてのたうち回りたい衝動に駆られる。
 私はこれを知らない――いや、わたしはこれを知っている。
 相反する事実と意思が鬩ぎ合う中、悶える紗依の意思を愉快そうに眺めていたそれは、重々しく告げる。

『我は、お前の中にある』

 目を開きたい。目を覚まして、早くこの嫌な感覚を無くしたい。夢だったとして、忘れてしまいたい。
 そんな紗依の意思を見透かすように、それは笑い、笑いは翻弄する嵐となって紗依を捕らえる。

『我は、時を越えても、お前と共にある……!』

 否定か、それとも。
 紗依は、自分でもわからないままに何かを叫ぼうとした。
 けれど。

「……っ!」

 次の瞬間、紗依の目の前にはもう見慣れた居室の天井が映った。
 呆然と目を見張る紗依の耳に鳥が朝を告げる囀りがはっきりと聞こえてくる。
 おそるおそる視線を動かせば、窓からは朝の光が差し込み、薄暗かった室内を照らしていた。
 ああ、目覚めたのだ、と紗依は気付いた。
 いつもと同じ朝。けれども、明確に幾度も迎えた朝とは違っている。
 紗依は呆然と天井を見据えたまま、 荒い息を何とか整えようとするけれど、成果は芳しくない。
 一筋、二筋。冷たい汗が頬を伝って落ちていく。
 心臓の鼓動が、どこか自分のものではないような、遠くにあるような不思議な感覚を覚える。
 見慣れた光景の中にある、慣れない感覚。呼吸も鼓動も自らの意思に反して整うことはなく走り続け、紗依は横たわったまま唇を噛みしめる。
 もうすぐサトがやってくるだろう。起き上がることも侭ならない有様なら、心配させてしまう。
 先程のことは、きっと夢だったのだ。悪い夢を見ただけで、心配することなど何もないのだ。
 半ば無理やりにそう思おうとした紗依だったが、願いに反して胸の不快な鼓動が収まるまでには時間を要した。
 かろうじてサトが来るまでに間に合ったけれど、老女中を出迎える紗依の心の中には冷たいものが伝い続けていた。
 そして、その異様な出来事を境に。紗依が不可思議な『悪夢』を見ることは次第に増えていった……。


 初めて『悪夢』を見てから数日して。紗依は朝早く、一人庭に出ていた。
 早く目覚めてしまった……否、悪夢から逃れる為に目覚めざるを得なかったのだ。
 少しばかり蒼い顔の紗依が見つめる先で、春の庭の花々は移り変わりゆく季節に合わせて次なる花期に備えて眠りにつき始めている。
 やがて盛りが来るのは夏の庭。陽の光に燃えるように輝く鮮やかな色彩の庭も大層見ものだという。
 自分が北家にきたのはまだ春も浅い時期のこと。それを考えると、この屋敷にて過ごすようになって随分経った。
 矢斗との再会し、小さな友が偉大な存在であったことも。その彼に妻にとこの身が望まれたことも、あまりに大きな衝撃で。
しかし、紗依を包み込むように慈しみ、時として甘え。優しく翻弄してくる矢斗は、今では紗依の日々欠くことのできない大切な存在となっていた。
 それは矢斗ばかりではない。時嗣や千尋や、サトに他の北家の人々。紗依が穏やかに暮らせるように心を配ってくれている皆もそうだ。
 この幸せな環境に母が居てくれればと思う。どれ程喜んでくれるだろうか。
 すっかり温かな人々に囲まれて暮らす日々が紗依の日常となってしまって、玖瑶家での辛い日々の方をまるで遠い夢のようにも感じてしまっていることを怖いと思う時がある。
 幸せに埋もれてしまうのを、何処かで恐れる自分がいる。
 身に余るほどの日々だと、心から思う。周りに居てくれる人々に心から感謝する。だからこそ、裡に染みのように存在するこの不安を表に出したくはないと思うのだ。
 日を追うごとに、あの『悪夢』に対する恐れと眠れぬことへの不安は増していく。
 一度誰かに相談してみるべきなのかもしれない。けれど……。
 物思いに耽りかけた紗依を引き戻したのは、少し離れたところからかけられた静かな声だった。

「紗依」
「矢斗……。おはよう、矢斗も朝の散歩?」

 一瞬驚きに目を見張ったけれど、すぐに誰なのか察して。
 裡を占めかけた思考を何とか彼方へと押しやって、笑みを浮かべながら紗依は振り向く。
 矢斗はいつもの優しい表情を見せてくれているけれど、何故か翳りのようなものを感じるのは気のせいだろうか……。

「いや。女中に紗依が庭に出たと聞いて来た」

 僅かに首を左右に振って告げる矢斗に、紗依は思わず首を傾げる。
 偶々庭にて顔を合わせたのではないということは、矢斗は自分に何か用事があったのだろうか。朝も早いといえる時間に、わざわざ出向いてくるなどどうしたのだろう。
 矢斗の意図を察することができず。生じた問いを口にしようとした時、頬に優しい感触を覚えて目を瞬いた。

「……顔色があまり良くない。何か、私にできることはないだろうか」

 頬に添えられた手に驚いていたが、続く言葉を聞いて鼓動がひとつ跳ねる。
 裡を見透かされたような気がして咄嗟の反応ができず、やや呆然とした面もちで矢斗を見つめるしかできない。
 抱える不安が表に出さないように気を付けてはいたけれど、悟られてしまったのだろうか。
 心から紗依を心配してくれているのが分かる真摯な声音に、胸に痛みが生じる。
 打ち明けてしまえばいいと思う。矢斗ならきっと聞いてくれて、共にどうしたら良いのか考えてくれる。
 自分ではどうすることもできなくても、頼ったならばきっと。
 そう思うのに何故か言葉を紡げない。開きかけた口から零れるのは、掠れる吐息ばかり。
 固い表情で、黙したままの紗依の頬へ包むように手を添え、矢斗は過ぎし日を思い出すように目を細めながら、一つ息を吐く。

「紗依は、辛くても苦しくても。他の人間を頼ろうとしなかった。いや……」

 優しい苦笑いと共に呟いた矢斗の言葉に、一瞬目を見張った後に顔を曇らせる紗依。
 確かに、その通りなのだ。
 言ってはいけない。頼ってはいけない。心の中にある何かが、枷となって裡から紗依を戒めている。
 その何かは、多分。

「誰かに咎が及ぶのを恐れて、頼ることを封じてしまっていた。気負いとなるのを恐れて、口を閉ざしていた。相手を思うが故に、言えなかった」

 ……人に頼ることを戒めているのは、他ならぬ紗依自身だ。
 本当は誰かに頼りたくて、助けてほしくて。辛い、苦しいと訴えたくて。
 でも紗依が下手に誰かに縋り頼れば、紗依を助けたことを咎としてその人間に妹達の矛先が向いてしまう。
辛い、と口にしてしまえば。表に出してしまえば、母の気負いとなってしまう。
だから誰も頼らないように、誰の気負いにもならぬように。全てを自分の裡に封じて、耐えて来た。
 自分を守る為であり、母を守る為であり。関わることになる誰かを守る為に、紗依が貫き続けてきたこと。

「私は、貴方が夕星と呼んでくれたものだ。……貴方が友と思い、胸の裡を明かしてくれた小さな光であったものだ」

 それを、小さな光であった友……矢斗は知っている。
 夕星にだけは、苦しい胸の裡を隠すことなく明かせていたけれど。何故か今は、明かそうとしても思わず俯いてしまう。
 返す言葉が見つけられずに唇を噛みしめて押し黙ってしまった紗依の頬に手を添えたまま、矢斗は続ける。

「ここには、紗依が頼ったからといって咎めるものはいない。害そうとするものから、私が守る。だから私は、紗依が頼ってくれるのを……何かを望んでくれる時を、待っている」

 大地に沁みこむ慈雨のように心に染みこんでいくような矢斗の言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。
 ともすれば泣き出してしまいそうになるのを、必死で堪える。
 矢斗の口元には苦い笑いが浮かんでいるけれど、その空気も表情もただただ優しくて。
 救われ、守られているばかりで。向けられる心に心を返したいと思うのに、それすら出来ない自分が悲しくてしかたない。
 矢斗はけして紗依を急かすことはない。紗依が口を閉ざしてしまうのを責めてもいない。
 温かに見守りながら、紗依が自らの意思にて口を開き、願いを告げる時を待ってくれている。
 泣それがきたい程に切なく、胸が苦しい。
 矢斗に応えられる日がくるだろうか。心から彼を受け入れ、頼り。ただ与えられるだけではなく、共に微笑むことができる日が……。
 暫く見守るようにつめていてくれていた矢斗は、そろそろ朝餉の時間だ、と頬に添えていた手で紗依の手を取り、歩き出した。
 導くようにして歩く矢斗の手の温もりを感じながら、紗依は思った――信じたい、と。
 向けられる真っ直ぐな心に、同じ様に心を返すことができる日が来ると。何時の日か、は必ずくるのだと。
 そうありたい、と思う小さな灯火のようなものが、その日紗依の心に宿った――。