紗依が北家の門を叩いてから、日々は駆けるように過ぎて行った。
 心を揺らすかつての『友』との再会を機に、紗依の暮らしはそれまでとは天と地ほども違うものとなった。
 紗依は、まず矢斗の暮らす北家の最奥に居室を与えられた。
 しかし、北家の屋敷の中枢といえる場所であり、祭神が暮らす域にある部屋である。
 どう見ても貴い女性が住むであろう、思わず目が眩んでしまいそうなほど見事な部屋に、紗依は震えながら身に余ると訴えようとした。
 けれど、時嗣は貴人には相応の扱いをさせて欲しいと頭を下げて頼んでくるし、矢斗は近い場所にて暮らして欲しいと訴える。
 千尋が、いずれ慣れますよ、と安心させるように優しく言ってくれたのだが……。
 つい先日まで、捨て置かれた物置にて暮らしていた身である。
 隙間風の心配をしない場所にて、柔らかな布団で寝られるようになっただけでもありがたいのに。
 調度一つとっても触れることすら躊躇うような、随所に名のある職人が手掛けたと思われるものがごく自然に置かれているような場所など、分不相応に思えるのだ。
 それでもいつか慣れる日がくるだろうかと思うのだが、慣れない、というより戸惑いが消えないままのことはあった。
 他ならぬ小さな友だった存在……矢斗のことである。
 北家で暮らすうちに、小さな友が力ある存在であったことへの衝撃は徐々にではあるが薄らいでいく。
 だが、戸惑うのは向けられる紗依への感情である。
 普段の矢斗は、時嗣が言っていた通りに祭神として威厳ある相応の振舞いをし、けして威による理不尽を強いることなく寛容だった。
 だが、紗依に関してはやはり時嗣の言っていたように『螺子が飛ぶ』のである。
 矢斗は、叶う限りの時間を紗依と共に過ごすことを望む。
 紗依を傍に置きたがり、少しでも離れることを嫌がる。それは時として、時嗣が一人の時間もさしあげろ、と釘をさすほどのものだった。
 北家にて紗依がけして不自由を感じないようにと、自分の事については多くを求めることはないのに、紗依に関してだけは多くを求める。
 それは紗依の暮らす環境であったり身の回りの品々であったり。仕える人間であったり。
 過保護に過ぎるのではと思うほどに、矢斗は紗依の周りが恙無くあることに注力した。
 自分に関しては無頓着とも言えるほど執着は薄く、時嗣達に言われたことをそのまま受け入れているような様子なのに、紗依に関してだけは違う。
 そして、時として紗依が驚くようなことまでして見せるのだ。
 ある時など、紗依が朝に目覚めたならば。
 咽そうな程の花の香りに驚いて目を開いた紗依の周囲には、様々な花が床を埋めつくさんばかりに飾られていた。
 それも、淡い可憐な春の花の隣には、鮮やかな大輪の夏の花があり。
 雅な色合いの秋の花の隣には、雪を耐え忍び咲く冬の花があり。
 まだ自分は寝ているのだろうかと呆然と目を見開く紗依の耳に、楽しそうな男性の声が届いた。

『おはよう、紗依』
『……っ⁉ ……矢斗、これは一体……』

 室内に男性がと一瞬顔色を変えかけたが、声が矢斗のものであると気付いて息を吐く。
 眠っている間に居室に立ち入られたことには思うことはあるけれど、生じかけた警戒心は消えている。
 それよりも、視界を埋めつくす色彩の乱舞はおそらく矢斗の手によるものだ。
 戸惑いながら身を起こした紗依を見つめる黒髪の美丈夫は、心から嬉しそうな様子で理由を説明する。

『紗依が、様々な季節の花に埋もれてみたいと言っていたから……』

 一瞬、きょとんとしてしまった紗依。
 自分がいつそのような夢物語のようなことを語っただろう。北家にきてからは色々と衝撃が大きすぎて忘れているだけ?
 四季の花に埋もれて眠ってみたいと自分が言った……。
 暫く考え込んでいた紗依は、やがて小さく声をあげる。

『まさか。あ、あれを覚えていたの……⁉』

 紗依の脳裏に蘇るのは、かつて小さな光だった頃の矢斗と語らった時のこと。
 表庭に立ち入ることが許されない紗依は、花の盛りの庭がどれほど美しくても見ることは叶わない。
 諦めてはいたけれど、憧れは募っていた。だから、小さな友にはこっそりと胸の裡を明かしていたのだ。
 色んな季節の花が咲いているのを見てみたい。溢れるような花々に埋もれてみたい、と。
 けして叶うことのないおとぎ話のような夢想を、彼にだけは語った……。
 北家に暮らすようになってから時嗣や千尋が屋敷の中を案内してくれたが、この屋敷には四季それぞれの花を植えた四つの庭がある。
 今の季節は花の咲いていない庭もあったが、見応えのある庭に目を輝かせた覚えがある。
 その時、何かを思案する様子だった矢斗が気がかりだったが、まさかこれを為そうと考えていたのだろうか。
 周囲を取り巻く花々を見れば、確かにそれぞれの庭にて見た覚えのあるものばかり。
 まさか、と抱いた疑問は、やがて慌てたように駆けてくる足音が肯定してくれた。
 慌ててやってきたのは、時嗣と千尋だった。
 四庭全てが花盛りという事態に庭師が大混乱だ、と矢斗を怒鳴りつける時嗣の言葉で、矢斗が何をしたのかを知ってしまう。
 矢斗は、四つの庭を巡って季節ではない花を咲かせて。それを抱えて、紗依のもとにやってきて、この場を作り出したのだ。
 北家の祭神とはそんなこともできるのか、と嬉しいのか呆れているのか自分でも分からない複雑な思いを抱きながら、紗依は時嗣に説教される矢斗を見つめていた。
 その後、時嗣に諭された矢斗がそれぞれの庭を元通りにして歩く後ろ姿を、紗依はそっと見守ることとなった。
 矢斗が為した驚きは、それだけではなかった。
 苑香が見せびらかすように口にしていた西洋の菓子を、羨ましいと紗依が口にしたことを思い出したらしい。
呼ばれて足を運んでみれば、大きな卓を埋めつくしそうな菓子の数々。
紗依が言ったものだけではなく、紗依が見たこともきいたこともないような菓子まで用意してくれていた。
 ただ聞いたところによると、その際に「紗依が憧れていた異国の物語の、菓子の家というものを再現してみたい」と言い出したので、一騒動あったらしい。
 見るものであり、聞くものであり、触れるものであり。
衣であり、食であり、住まいであり。
かつて紗依が見てみたいと言っていたものを、聞いてみたいと願っていたものを。叶う限り紗依の前に再現しようと心血を注ぎ続けた。
 幼き心で描いた夢想が一つずつ現実にて形になっていく様は、胸躍るものであるが、 飢えて震えていた子供の哀しい願いが露わになる気恥ずかしさもある。
 けれど、矢斗の行い全てが、紗依を気遣い慈しむ想いに満ちているのを感じれば、怒ることも拒むこともできるはずもない。
 最初こそ呆然と言葉を失っていた紗依だが、少しずつはにかみながら言葉を返すことができるようになっていく。
 矢斗が紗依の周りに不足のないよう恙無くあるようにと願うのを受けて、北家の人々もまた紗依に対して過分なまでの心配りをしてくれる。
 最低限の道具のみ持たされ、ほぼ着の身着のままといっても過言ではない状態で来た紗依を気遣い、時嗣は千尋に必要なものを過不足ないようにと命じた。
 それを受けた千尋は、女性ならではの視点で紗依の身の回りの足りないものを贖う為に、出入り商人を呼んで揃えていってくれたのだが。
選ぶ一つ一つが、贅に囲まれ暮らしていた苑香すら羨んでいた品ばかりなのである。
 着物一つとっても、呉服屋に持参させた反物から「これが似合いそうですね」と躊躇いなく見事な織りのものを選ぶ。
 けして華美にはならないように気を遣い、見て高級であるとわからぬように一見控えめな選択をしてくれてはいた。
 だが、母に様々な教えを受けていたことに加え、苑香が自らの着物を逐一具体的な値を示して自慢してくれていたせいで嫌でも察してしまう。
 好意を無碍にしたくはない。けれど、身に過ぎた品は遠慮したい。
 紗依が相反する心に惑い言葉を紡げないでいるうちに、千尋は笑顔のまま話を進めた。
 更には、様子を見に来た時嗣と矢斗が千尋の選択を褒めて場に笑顔が満ちると、それ以上何も言えなくなってしまう。
 止めのように矢斗「仕立て上がった着物を、紗依が着ているところが早く見たい」とはにかむように言われてしまっては、もう。
 紗依の身の回りは、北家に長く仕えているという老女中であるサトが世話をしてくれることになった。
 誰かにしてもらうなどと恐縮して自分で出来ると伝えるけれど、老女中は無理を強いない範囲で紗依の願いを聞きながら優しく面倒を見てくれる。
 生活に人の手を借りるなど幼い頃以来であるから戸惑うばかりだったけれど、それを汲んでサトがしてくれる気遣いに救われる思いである。
 しかし、自分に対して向けられる温かな情と戸惑う程の恵まれた暮らしにあっても、紗依の心は母にあった。
 恵まれた暮らしであると思えば思うほど、母はどうしているかと気になってしかたない。
 時嗣や千尋に頼んで母と連絡をとらせてもらおうかと考えていた時、弟の亘から密かに手紙が届いた。
 紗依が北家に向かってから数日後、母は準備を整え屋敷を出たという。
 それからまた少しして、今度は亘を通して無事療養所についたという旨の母からの手紙が届く。
 どうやら素性については伏せているということで、表だってやり取りをしては障りがあるから今後は亘を通して近況を送る、と記されていた。
 父が約束を反故しなかったことに安堵しつつも、これからの母の手紙を心待ちにする思いに、思わず紗依の口元には久方ぶりの小さな笑みが浮かんでいた。
 そして、分け合った対の守りを手に母の教えを思い出す。
 窮した暮らしにありながら、母は日頃紗依に人として大事な心構えを教えてくれていた。
 母は言っていた。
 気遣いをくれる相手に対して何時までも卑屈であり続けることは、相手に傲慢に振舞うのと同じぐらい恥ずかしいことであると。
 北家での暮らしはあまりに眩く、おぼろげな記憶にある砂糖菓子のように甘く幸せなものだった。
 毎夜眠る前に、朝起きたら覚めてしまう夢ではないかと思うほど、現実とは思えない程優しいものだった。
 溢れるほどの情を向けてくれる矢斗。優しい気遣いをくれる時嗣と千尋、それにサト。皆は、ただ二心なく紗依へと心を配ってくれている。
 それに対して、紗依は「自分などに申し訳ない」と身を小さくするばかりだった。
 恵まれた境遇にはまだ慣れないし、慣れてしまうのは何時かまた失うかもしれないという恐れにつながり、怖い。
 けれど、何時までもただ不相応だと縮まっているだけでは、皆の心を無碍にし、気遣ってくれる人々を貶めることになるのかもしれない。
 そう思った紗依は、少しずつ『申し訳ない』を『ありがとう』という言葉に変えていく努力を始めた。