「じつはな、あいつの水曜日の噂、断片的には聞いたことがあるんだ」
「えっ、知っていることがあるの?」
思わず葉山くんを直視する。
「あくまで噂だけどな、それと有紗があいつに惚れているわけじゃないっていう前提だから教えるんだぞ」
その意味ありげな前置きに私の鼓動は早まった。京本くんは浮いた話とは無縁に見えるのに、葉山くんの言い草は女子の匂いを感じさせたからだ。
そして葉山くんの放ったひとことに、私は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
「深窓の令嬢と蜜月しているらしい」
つい、反射的におおきくのけぞり、椅子が傾いた。倒れそうになりあわてて机にしがみつく。かろうじてひっくり返らずに済んだ。
体勢を立て直して葉山くんに詰問する。
「ちょっ、ちょっと待ってくれない葉山くん! それって、あの京本くんには付き合っている人がいるってこと?」
もしそうなら、世の中どうかしている。ちょっと変わり者の彼が異性とお付き合いという、未知の領域に踏み込んでいるなんて。
しかも、深窓の令嬢とか、蜜月とか、表現が妙になまめかしい。
私は思わず想像をたくましくした。高価なアンティークが飾られた洋風の部屋を思い浮かべる。香水の匂いと優雅なクラシックが部屋を特別な空間に仕立て上げる。そこで見つめ合う京本くんと深窓の令嬢。ふたりは手を取り合って距離を詰め……そのまま……。
だめだってば私、そんなイケナイことを想像しちゃ!
「おい、どうしたんだ有紗、フリーズしているぞ。もしかしてショックだったのか」
声をかけられて我を取り戻した。私は想像の世界に迷い込むと表情が固まってしまうらしいので、今もそうなっていたに違いない。またもやあわてて否定する。
「ショックなんか受けてないよっ! あと、いかがわしいことなんか想像していないからねっ!」
「なるほど、脳内はただいま妄想暴走中ってことだな」
「うっ……」
冷静さと警戒心を忘れて失言してしまった。でも、いとも簡単に相手の本心をあらわにしてしまうところが葉山くんのすごいところであり、ずるいところでもある。私にそんな能力があれば、京本くんとの会話に苦労することなんてないのに。
「でもその深窓の令嬢って、いったいどんな人なの?」
かく言う私だって、どうせ恋愛過敏症だ。クラスメートの恋バナに、いやおうなしに好奇心が刺激される。
葉山くんは視線を鋭くしてにやりと笑った。並びの良い白い歯が自信の証のように見える。
「じゃあ、直接自分の目で確かめればいいじゃん。水曜日、こっそり後をつけてさ」
「ええっ、それじゃあストーカーみたいじゃない。私、そんな悪どいことはできないよ」
心の底から引いた態度を取ると、葉山くんは露骨に不服そうな顔をし、こう言い切った。
「おいおい、だいたい有紗はいつも良い子でいようとしすぎて、結局なんにも踏みだせていねえんじゃねえか? 俺にあれこれ聞いたところで自分から動こうとはしねえし、フルートの音色だってつまんねえ教科書通りだしよ」
「ちょっ……!」
葉山くんの上から目線の言い分はひどく非難的で横柄だった。けれど、そんな葉山くんに対して、私はなにも言い返せない。
だって、彼の言うひとことは、驚くほどに的を射ていたのだから。
私だって、このままの自分じゃだめだと思っている。けれど、変われるきっかけなんて、日常の中にそうそう転がっているものじゃない。
だから、京本くんの水曜日を知ろうと決心したのは、私のささいな反抗だったのかもしれない。
私のことをまるで気に留めていない京本くんと、狭い檻の中から飛びだせないでいる、この私自身に対しての。
★
その日の学校帰り、私はこっそりと京本くんの後を追う。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、京本くんはそそくさと荷物をまとめて足早に教室を後にした。人目を避けるように見えたのは、ほんとうに避けているのかもしれないし、「蜜月」という二文字が私の脳裏で悶々としているから、そう感じるのかもしれない。
京本くんは、電車で二十分ほどの、すこし離れた街に住んでいる。葉山くんの話によると、部活には所属していなくて、毎日アルバイトに勤しんでいる。地元の本屋さんの手伝いをしているらしい。
けれど学校の帰り道、京本くんが向かったのは駅とは違う方角だった。やっぱり不自然だと直感する。
京本くんは通学路の国道を脇にそれて坂道を登ってゆく。その先には丘陵の上に開発された見晴らしの良いホームタウンがある。閑静で落ち着いた雰囲気は抜群に住み心地が良いのだと、ポストに入っていた住宅販売の広告で見たことがある。
蜜月――ほんとうにそうなのだろうか?
いくばくかの罪悪感がつきまとうけれど、それ以上に好奇心が私の背中を後押ししていた。
――あんなにおとなしそうな人が会いに行く女性って、どんな人なんだろう?
ブロック塀の陰に身を隠し、見失わないように彼の姿を追う。京本くんは細い路地を抜け、ちいさな一戸建ての家の前で足を止めた。
その家に向かって白いワンボックスカーが近づいてきた。停車すると、ゆっくりとバックをして車庫に収まる。京本くんは車の運転を見守りながら、運転席に向かって一度、深々と頭を下げた。
運転席から降りてきたのは、見た目が四十代くらいの女性だった。買い物に出かけるようなカジュアルな服装で、京本くんを見て笑顔を浮かべる。声質が明瞭で、「いらっしゃい、いつもありがとう」と言っているのが遠くからでも聞こえた。私は気づかれないように壁際から様子をうかがう。
――誰だろう、親戚の人かな。
やわらかな物腰のその女性は、車の後部座席の扉を開け、中に手を差し入れた。もうひとり、誰かが乗っているみたい。
手を取って降り立ったのは、私と同年代の女の子だった。
トイプードルのようなふわくしゅのくせっ毛、やわらかな輪郭の丸顔、にきびひとつない、陽射しに映えるきれいな素肌。同級生に比べて雰囲気があどけなく感じられる。
私の高校からさほど遠くない自宅だというのに、その女の子は見たことのない臙脂色のブレザーをまとっている。
私はその女の子の挙動に違和感を覚えた。探るように手のひらを家の外壁に当てていて、足の運びもやけに慎重だ。しかも、その子の両眼はかたくなに閉じられている。
運転手の女性が車から白い棒のようなものを取りだして女の子に渡す。女の子はそれを握って地面を突いた。
女の子が握っていたのは、「白杖」だと気づいた。
――まさか、目が見えない子なの?
でも、それ以上に驚いたことは、京本くんが運転手の女性から女の子の手を受け取り、そっと握りしめたことだった。女の子はまぶたを閉じたまま京本くんの顔を見上げ、花が咲いたような笑顔を浮かべる。ふたりの息が合っていることに、私の胸がひどくざわついた。
女の子は無邪気に京本くんに話しかける。
「和也くん、来てくれたんだね。ありがとう」
「当然だって。今日は水曜日だからな」
――えっ?
今、信じられなかったけれど、私は確かに京本くんの声を聞いた。水曜日は絶対に喋らないはずの京本くんは、彼女に対してだけは言葉を発していた。その声は格別に優しい音調に感じられた。
女の子は目を閉じたまま、嬉しそうに首を縦に振っている。京本くんも口元を緩めているように見えるけれど、やっぱりどこか辛そうだ。その不自然さは朝、屋上で見かけるときよりも、はるかに色を濃くしている。
葉山くんは彼がリア充をしているように見えるって言っていたけれど、私からすれば彼は息苦しくなるような痛みを伴っているように感じる。いったいどうしてなんだろう?
もしかすると、あの女の子が京本くんの苦しみの原因になっているんじゃないだろうか。あの女の子が彼の水曜日を縛っているからじゃないだろうか。彼が音のない水曜日を過ごす理由が彼女にあることは間違いないのだから。
次々と水曜日の疑問が湧いてきたけれど、私はそれ以上どうすることもできなくて。
結局、京本くんが「蜜月の相手」と家の中へ消えていくの、息をひそめて見届けることしかできなかった。
「それでは皆さん、最後の合唱祭、全力で頑張ってくださいね。高校生になったら、皆で歌う機会なんてそうそうないですから」
中学生活も大詰めとなった晩秋。僕らは合唱祭たるものを毎年経験してきたが、いよいよ今年で最後になる。小学校からか、あるいは幼稚園からか、物心ついた頃には歌の練習は日常の一コマだった。
ただ、今年は一点だけ、予定の変更が生じたらしい。先生は保身的なにこやかさで説明する。
「今年は例年のプログラムに加え、特別支援学校の生徒が本校で歌を披露してくださることになっています」
クラスメートたちは露骨に不満をあらわにした。他校の知らない障害者に時間を取られたくありませんとか、そういう企画は学校の評判を良くしたいためじゃないんですか、とか。
中学三年にもなればいっぱしに文句を言う知恵もついている。夏が過ぎていった頃から皆、人生の分岐点を意識し始めたのか、妙に神経が昂っていた。先生も先生らしく、正論で説得を試みる。
「もちろん、合唱祭の主役はあなたたちです。ただ、あなたたちは将来、社会に出るのですから、社会にはさまざまな人がいることを知っておくのも大事な勉強ですよ」
「先生、社会勉強は受験には必要ないから、あとで学べばいいんじゃないですか。高校とか、大学とかで」
クラスメートのひとりが言い返すと、先生は若干厳しい口調になった。
「いいですか、これは学校同士で話し合われた地域の交流イベントのひとつです。決まったことですから、これ以上の文句は受け付けません」
そこで異論を唱えた生徒たちも空気を察して身を引いた。
どうやら皆、自分の進学先を決める、「受験」というステップが人生の一大事らしい。
けれど、受験ってほんとうにそんなに大切なものなのだろうか? ランクの高い学校に進学したら、その先に幸せな未来が待っているというのだろうか?
ふと、昨晩のニュースを思いだした。
塾帰りの子供が飲酒運転の犠牲になったとか、いじめが原因の自殺者が何人いたとか、盲目の人が駅のホームから転落して電車にひかれたとか。
世の中が不条理にできているのは火を見るより明らかだ。でも、そういう重要なことを教科書はまるで語ってくれない。
だけど、そう思いながらも僕はいまだになにもできないでいる。手助けをしたくても、どうすればいいのかすらよくわからない。支えを必要としている人は、世の中にたくさんいるはずなのに。
僕はとても無力でちいさい存在なのだと思う。だから僕は、自分がなんで生きているのかがわからなくて、霞がかったような毎日を繰り返している。
他人の不幸を知るたびに、そう感じてしまう僕はおかしい人間なのだろうか?
★
『特別支援学校』
そのキーワードは、なにかしらの不幸を背負った人間の姿を想像させる。不自由なのは目か耳か、それとも肢体か、あるいは知能の発達か。
音楽教師の話によると、訪れるのは視覚不自由者のクラスの生徒だということだ。確かに、視覚が不自由なことは歌う上で支障なさそうだ。楽譜を見なくたって歌は覚えられるし歌うことはできる。
くだんの特別支援学校のある場所は隣町のさらに隣で、車でゆうに三十分はかかる場所にあるらしい。なぜこの中学校がお披露目の場として選ばれたのかは不可解だけど、きっと大人の事情なのだろう。
合唱祭では一年生から順に歌い、最後が三年生で、合唱終了後に教師陣が採点をするのだが、採点にはほどほどの時間が必要なので、待っている生徒は退屈してしまう。だから、採点中の余興として特別支援学校の生徒が歌を披露するらしい。
僕らのクラスが大トリとなるはずだったが、他校の身体障害者に水を差された形となったから、不満を抱くクラスメートもいるようだった。五体満足でも不満は飛びだすものだな、と思い冷ややかな視線でクラスメートを見てしまう。
当日、合唱祭が始まった。体育館にパイプ椅子が並べられ、席順通りにおとなしく腰を据える。定型のプログラムは淡々と進んでゆく。
どのクラスにもピアノが上手な生徒はひとりやふたりいて、そんな生徒がピアノの伴奏を請け負っている。かたや歌い手は際立って上手いクラスも下手なクラスもない。
校内の生徒とすれば最後である、僕のクラスの順番が回ってきた。僕らの課題曲は「大地讃頌」、自由曲は「雑草」だった。
その二曲の合間で、舞台袖で出番を待つ他校の生徒の存在に気づいた。横目で観察すると、おそろいの紺色のブレザーを着ていて、人数は男女合わせて十一名。皆で円陣を組んでいるが、気遣ってか声をひそめている。作戦会議のつもりらしい。僕らとは違ってやる気満々のように感じられた。彼らにとって校外活動は数少ない活躍の機会なのだろう。
生徒たちは背の高さにだいぶ個人差があったから、中学一年から三年までの生徒全員でひとつの合唱グループを作っているようだった。特別支援学校の生徒は人数が少ないだろうから納得できる。
そばには指導員が三名ついていたが、おおむね見守っているだけで、主導権はあくまで生徒のようだ。
ふと、赤みのかかったくせっ毛の、快活そうな女子の背中が目に入った。その子が御一行様を仕切っているリーダーらしい。たぶん三年生、ということは僕と同い年なのだろう。
僕のクラスが二曲を歌い終わり、舞台を後にすると本校のプログラムは終了となる。そこでアナウンスが流れる。
『これから点数を集計しますが、その間、お越しくださいました光陽特別支援学校の生徒さんに歌を披露していただきます。皆さん、静かに待っていてください』
僕が席に着くと、ゲストの生徒たちはすでに舞台に登壇していた。
「盲学校」と聞いていたので先日、すこしだけ下調べをしてみたが、そこに通う生徒は目がまったく見えないとは限らないらしい。
眼の病気で視野が極端に狭いとか、あるいは解像度が悪いとか、とにかく見えていても日常生活に支障をきたすレベルだと盲学校に通うことになるらしい。
どの程度見えているかはわからないものの、ほとんどの生徒は開眼していた。
けれど、舞台の中央に佇むくせっ毛の女の子だけは、まぶたを完全に閉じていた。あえてそうしているのか、それとももしかしたら――眼球自体が失われているのか。そう考えると恐ろしくて背筋が冷たくなった。
ただ、僕がどんな推測をしようが、その女の子の世界は暗闇のままなのだ。絶望に襲われたりしないのだろうか?
僕の懸念をよそに、その女の子はマイクを受け取り、代表としての挨拶をはきはきとする。
「みなさん、はじめまして。今日はお招きいただきありがとうございます。いままで練習してきた私たちの歌をお楽しみください」
僕ら生徒の間には気だるい雰囲気が漂っている。特別支援学校の生徒たちの目に否定的な表情が映らないのはさいわいだなと安堵する。
曲が始まり、オーケストラ調の伴奏がスピーカーから流れだす。どこかで耳にしたことのあるメロディだけれど、曲の題名は思いだせない。
舞台の中央に並んだ生徒たちは、息を吸い込み歌声を放った。
とたん、皆の視線が壇上に集中する。その歌声は、一瞬にして会場の空気を鮮やかに塗り替えた。
――quando sono sola(ひとりのとき)
――sogno all'orizzonte(水平線の夢を見て)
曲は最初、女子のパートから始まった。おおっ、と周囲から驚きの声が上がる。皆、予想だにしなかった伸びやかな美声に目を丸くしていた。そのうちの誰かが曲の題名をこぼす。
『Time To Say Goodbye』
そうだ、盲目の男性歌手が女性のソプラノ歌手とデュエットで歌っていた曲だ。
――e mancan le parole(言葉は失われて)
――si lo so che non c'? luce(太陽のない宵闇の部屋で)
異国の言葉で紡がれたその歌は自由な音色を醸していた。生徒たちは皆、舞台上から発せられる美声に釘付けになっている。僕自身も固唾を呑んで歌に聴き入る。
――che sei con me con me(きみが僕と一緒にいること)
――tu mia luna tu sei qui con me(きみは僕の月、僕とともにある)
男子のパートもまた、重厚で包容力のある声調に感じられる。すでに声変わりを終えた男子生徒が多いようで、男女間の音調のバランスも絶妙だ。
彼らは視覚が弱いぶん、音を聴き分ける感覚が鋭敏なのだろう。そうとしか思えないくらい、皆、そろいもそろってすばらしい歌い手だったのだ。
曲が終焉に近づいて、最後の聴かせどころを迎えると、そのタイミングで生徒たちは皆、はたと歌声をひそめた。あれ、と不思議に思ったとき、リーダーを務めていた女の子が一歩、前に歩みだした。
最後のパートは、彼女の独唱らしい。
でも、ここから先はデュエットで盛り上がるはずなのに。僕はそう懸念したけれど、彼女が口を開いた瞬間、抱いていた不安は一瞬にして消し去られた。
彼女の独唱は、中学生の女の子から放たれた声とは思えないほどに力強く、そして気高かったのだ。薄紅色の唇からあふれだす歌声は、体育館の窓を震わせ、天井を穿ち、この会場の空気を彼女一色に塗り替えてしまった。
なんて歌声なんだ!
皆で歌っているとき、彼女は声量を相当、加減していたに違いない。ソリストとなった彼女の歌声は伸びやかに、なににも縛られることなくステージを舞い上がる。
――con te io li rivivr?(あなたとともにまた生きて)
――con te partir?(あなたとともに旅立とう)
圧倒的に説得力のある歌声に、僕の胸中の琴線は、これでもかというくらいにかき乱される。
抗うことのできない濁流のようなその感覚は、恍惚でありながら僕自身を容赦なく打ちのめす苦痛でもあった。
届くはずもないのに、僕は舞台の上の彼女に向けて胸の内を吐露する。
どうしてなんだよ。
僕は胸を燻らせながらもなにもできないでいるっていうのに。
どうして不自由を抱えるきみは、そんなにも迷いなく自分を表現できるんだ。
混迷の泥沼に引きずり込まれそうになったとき、僕は突然、奇妙な感覚に襲われた。
舞台の上で歌う女の子から発せられる声が光の帯になり、まるで僕の心臓を捉えるかのように、胸に絡みついてくる。全身に電気が走り、思考が麻痺するような衝撃を受けた。
まるで彼女と僕だけしか存在しない、音の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。さらに純度を高めてゆく彼女の歌声が、僕の胸をやさしく締め上げる。
舞台の上で歌い続ける彼女は、やわらかに微笑んで両手を広げた。まぶたを閉じているのに、僕のすべてを見透かしているようにも思えたし、僕を彼女の世界に招き入れているようにも感じられた。その表情は優雅で寛容で、神々しいとさえ思えた。
僕はふいに、彼女の想いのようなものを歌の中から感じ取った。言葉では言い表せないが、そのメッセージはビブラートのゆらぎを縫うように、確かに存在していた。
――届いて。
――あなたに届いて。
――この歌声、あなたに届いて。京本和也くん!
僕の胸が早鐘を打つ。
どういうことなんだ?
理解が追いつかないけれど、彼女の歌の中には、僕に対する彼女の願いが込められていた。そうとしか思えないほど、僕の中に明瞭な彼女のインスピレーションが湧いたのだ。
はっとなって我を取り戻したのは、生徒たちが舞台に向かって浴びせる、割れんばかりの拍手のせいだった。気づかぬ間に、彼女の独唱はアウトロを抜けていたのだ。
彼女が歌う間、僕は焦燥と、陶酔と、困惑をいっぺんに抱え、時間の感覚が狂うほどに歌声に魅了されていた。
なんなんだ!
いったい、彼女は僕になにを伝えようとしたんだ!
ひどく動揺する僕とは裏腹に、舞台上の生徒たちは、さも満足げに聴衆に向かってお辞儀をしている。
壇上の生徒たちは慎重に舞台の上に広がり、等間隔で二列に並んだ。指導員が見守っているようだが、皆、体が覚えているようで、おおむね正確な間隔で並んでいた。
次の曲の伴奏が流れだす。舞台上の生徒たちは皆、右手でピースサインを作り顔の前にかざし、左手を腰にあててポーズをとる。
すぐさま会場が色めき立った。最初の曲とはうって変わって、誰もが知る流行りの女子アイドルグループの歌。
特別支援学校の学生たちは曲に合わせてステージ上で踊りながら歌い始めた。皆、ぴったりと息が合っていて、キレのあるダンスと可愛らしい歌声に会場全体が引き込まれる。羨望や感嘆を含むざわめきが起き、本校の生徒たちは曲に合わせて手拍子をし始めた。会場は一体となり、誰もが予想しなかった盛り上がりを見せている。
この会場はもう、彼女たちの独壇場になっていて、もはや合唱祭の場ではなくなっていた。
けれど僕はその雰囲気に乗じることができず、ただ、まぶたを閉じたまま舞台上で踊る女の子のことを呆然と見ている。
不自由を抱えながらも舞台上で輝く生徒たちと、存在意義すらおぼろげな僕自身を比べ、あたりまえに生きることが罪を犯すことと同義のように思えた。
あの女の子の歌声を聴いたときに抱いた感覚は、僕だけのものなのだろうか。拭えない疑問を抱えてあたりを見回すが、僕のように困惑している生徒は皆無だった。
彼女たちはさらに二曲、合計四曲の歌を歌いきった。一曲は人気の男子ユニットの歌で、ドラマの主題歌にもなっている軽妙なポップソングだった。会場の熱気はさらに上昇し、声を合わせて歌いだす生徒もいたからもはやカオスだ。
最後は一昔前のしっとりとしたバラードの曲で、巧みな男女混成の合唱は郷愁を誘うような切なさがあった。生徒たちはそれまでの盛り上がりが嘘だったかのようにしんみりとし、なかには感極まって涙をこぼす生徒もいた。
波が引いてゆくように、バラードは静かな終焉を迎えた。
文句ない拍手喝采の中、特別支援学校の生徒たちは最後、一列に並んで互いに手を取り、リーダーの女の子の挨拶でいっせいに頭を垂れた。
「皆さん、本日はわたしたちの歌をお聴きくださり、ありがとうございました」
僕は舞台の上をぼんやりと眺めながら、ただ、止まらない胸の疼きに困惑するしかなかった。
★
翌週の水曜日は開校記念日だった。休校なのは最高の契機だと思い決心し、カバンに財布と携帯電話を入れて家を出る。
電車に乗って二十分ほど下り方面にゆき、隣のさらに隣町の駅を降りる。繰り返し深呼吸をして気持ちを落ち着かせたけれど、胸の鼓動は収まる気配がまるでない。
駅を降りるとロータリーから放射状に伸びる道がまず、目に入った。深秋の乾いた風が道沿いに植えられたポプラ並木の葉をかき乱す。駅前の地図を見ながら目的の場所に続く道を確かめ、意を決してその方向に足を進めてゆく。期待する気持ちと、不安な気持ちが互い違いに押し寄せてきて、ふと足を止めたり、また歩いたりの繰り返しだった。
木々の間を縫う細い街道をしばらく歩くと、迷うことなく目的地にたどり着くことができた。もしも迷ったら、多分、おじけづいて引き返してしまっただろう。学校の銘板を見上げて再度確認する。
『光陽特別支援学校』
敷地内の古びた校舎を遠目に眺める。僕の中学校で歌を披露したあの女の子は、今、ここに在籍しているはずだ。僕はどうしても彼女に会いたくて、この学校を訪れてしまった。
合唱祭で彼女の歌声を聴いて以来、いずれ消えると思っていた胸の疼きは、むしろしだいに明瞭になっていった。夜、眠ろうとしてまぶたを閉じると、いやおうなしに彼女の姿が脳裏に浮かび上がり、歌い声が甦る。僕はいよいよ病気の範疇かと覚悟したくらいだ。
視覚障害のせいで暗闇の世界に住んでいるはずの彼女は、僕よりもはるかに眩い現実を生きているように思えてならなかった。
あのとき、僕は彼女の歌の中に僕を呼ぶ声を聞いたのだ。ほんとうに呼ばれているのかは定かではなかったけれど、僕だけは確かにそう感じていた。
彼女たちの壮観な合唱はクラスでも話題になっていたので、その奇妙な感覚について尋ねたのだけれど、クラスメートの反応は「俺たち受験を控えた中三だろ? そういうことは去年のうちに言ってくれ」と容赦なく冷ややかだった。
僕は開門された入口のそばで、参考書を開いて読みながら待っていたが、当然、参考書の中身が頭に入るはずもなく、打ちつける胸の早鐘ばかりが気になっていた。
いよいよ息苦しくなり、敷地内をのぞいては入り口から離れ、また戻ってくる。人目があれば、僕はきわめて挙動不審な学生に見えただろう。
小一時間ほど経った頃、車が立て続けに敷地内に入っていった。迎えがきたようで生徒たちも校舎から姿を現す。
さまざまな年代の生徒がいて、私服、紺色、それに臙脂色のブレザーの集団があった。下調べの情報によると、同じ敷地内に小学校から高等学校までがそろっているらしい。
紺色ブレザーの生徒が数人、校舎から姿を現した。白杖を手にしていて、互いに指先を触れ合わせ別れの挨拶をする。手を振るのと同じ意味なのだろう。指導員が付き添って迎えの家族に生徒を受け渡す。
乗り入れた車は校庭の青空駐車場に停まり運転手が降りてくる。生徒の母親のようで、いずれも中年の女性だった。生徒に歩み寄って声をかけ手を取る。
目を凝らすと、車に戻る生徒の中に、赤みのかかったくせっ毛の女の子の姿があった。僕の心臓が跳ね上がる。
ふと今になって、どうすれば話すきっかけが作れるのか、考えていないことに気がついた。僕は女の子の名前すら知らなかったのだ。
でも、この機を逃すわけにはいかない。行動あるのみだと思い、意を決して校門を足早にくぐり抜ける。青空駐車場へ向かい、車の陰に隠れて彼女を待ち構えるつもりだ。
ところが敷地に入った瞬間、いきなり背後から襟首をつかまれた。驚き振り向くと、頑健な風体の警備員が僕をにらみつけている。
「さっきからうろついていただろう。なにをするつもりだ!」
僕を串刺しにする視線に背筋が凍りついた。いままで気配すら感じなかったのに。校門の裏に隠れて見張っていたということか。
警備員は僕の腕をつかみ、背中に回し捻りあげる。肩に激しい痛みが走った。
「すっ、すいません、怪しい者じゃないんですっ!」
「怪しくないわけないだろうが! どうせまた、嫌がらせをしにきたのだろう!」
警備員の言い方からすれば、障害者が通う学校、あるいは障害者に対しての嫌がらせが日常茶飯事のようだった。けれど、濡れ衣を着せられた僕は自分がここにいる理由をうまく説明できるはずがない。
「どこの学校の生徒だ、警察に突きだしてやるからな!」
「僕はッ! 嫌がらせにきたんじゃありません!」
僕と警備員がもみ合っている姿に危険を感じたのか、生徒たちは手早く迎えの車に乗せられていた。あの女の子もそうだった。
警備員は僕が嫌がらせの犯人だと思い込んでいるのか、容赦なく腕に力を込める。肩と肘があらぬ方向に曲げられ、悲鳴をあげそうになった。
そのとき、僕はあの日聴いた歌のなかのメッセージを思いだした。
――この歌声、あなたに届いて。京本和也くん!
そうだ、僕は彼女に呼ばれたんだ。だからこうして会いにきている。もしも僕の抱いた不思議な感覚が錯覚でなければ、彼女は僕に気づいてくれるはずだ。
彼女の乗っている車に向けて力の限り叫ぶ。
「僕はッ……京本和也です! きみの歌を聴いて会いに来ました!」
あたりの視線が僕に集中する。明らかに不審者を見る目だ。
けれど、あのくせっ毛の女の子だけは驚いたような顔を車窓からのぞかせていた。僕に向かって――いや、正確には声のしたほうに向かって返事を発する。
「和也くん……? ほんとうに和也くんなのっ!」
その反応に、僕は心底驚かされた。彼女がまるで僕と旧知の仲のような反応をしたからだ。警備員はなんらかの事情があると察したのか、ようやっと腕の力を緩めた。
僕は警備員の腕を振りほどき、無我夢中でその女の子に駆け寄る。車窓越しに彼女と向かい合う。
彼女は僕の存在を確かめるように手を伸ばしてきた。僕はその手をしっかりと握りしめる。彼女も力強く握り返した。
「あのっ――!」
でも、その先の言葉が出てこなかった。なにをどう話せば良いのか、自分自身でも混乱していた。彼女はまぶたを閉じたままで、けれど感極まって震える吐息をこぼした。
「和也くん、まさか会いに来てくれるなんて……」
「ごめん……いきなり押しかけて」
「ううん、嬉しいよ」
彼女の言葉に疑問を抱きつつも、僕自身が既視感に襲われていた。初対面の相手に対して推し量るような慎重さが、彼女にはまるでなかったからだ。気心知れた相手のような抵抗のなさだった。
隣では彼女のお母さんが僕の顔を指さして、あっけにとられた顔をしていた。でも、どうしてそんな顔をするのか、僕には理由がさっぱりわからない。
僕は彼女のお母さんから放たれたひとことに面食らうことになった。
「あーっ、ほんとうに京本さんちの和也くんなのね! 懐かしいわ。おっきくなったわねー!」
★
まさか、こんな展開になるとは予想だにしなかった。
僕は借りてきた猫になって後部座席に座り、彼女の家へ連行されている。おばさんに自宅に寄らないかと誘われたのだ。
その間、興奮冷めやらぬおばさんは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
「ほんとうに驚いたわぁ。和也くん、紗栄子さんは元気?」
「あ、はい。僕が高校に入ったら仕事を再開するみたいです」
紗栄子さん、とは僕の母親の名前である。つまり母親同士がママ友の仲なのだ。あの女の子、楠千里は僕の幼馴染だった。名前は確かに記憶の片隅にあった。
「仕事ってなにやっていたのかしら。和也くんが生まれてからは専業主婦だったわよね」
「あっ、はい。簿記の資格を持っているので事務仕事だと思います」
「紗栄子さんは几帳面だから合っているわ。ねえ、もうすぐ受験でしょ? 受験勉強ってしているの?」
「いえ、あんまり……」
「そう、あんまりやらなくてもできるって羨ましいわぁ」
ぜんぜん、そういうわけではない。でも、モチベーションが低空飛行なんですと白状できる流れでもない。
「引っ越ししてからもうだいぶ経つものね。でも、千里が和也くんの学校で歌って、和也くんが千里に気づいて会いに来てくれるなんて、ほんと奇跡的な再会よね。それにふたりともお互いを覚えているなんて!」
「はい、ほんと、偶然ですね……」
つい、奥歯にものが挟まったような返事になってしまう。
最後に彼女とおばさんに会ったのは、八年前、小学二年生頃のはず。僕自身、ふたりを覚えていなかったのは無理もないと思う。けれど、運転席から振り向いたおばさんの笑顔を勘案すると、事実を修正するのは不可能なところまできているようだ。
修正しようにも、僕自身が訪れようと決心した理由を説明できるはずもない。そのままのほうが支障ないだろう。
隣の女の子はさっきから何度も、そろりと指を伸ばして僕に触れると素早く引っ込め、声を殺して悶絶している。紅潮しっぱなしの顔をしていて、内心大騒ぎなのが見てとれた。僕が特別支援学校を訪れたことは、彼女にとっても予想外の驚きだったようだ。
記憶の糸を手繰り寄せると、彼女とは家が近所で幼稚園は同じクラスだった。母親同士の仲が良いため、お互い家を行き来していた仲だ。小学校は別の学校になったけれど、しばらくは交流があったはず。
けれど後に、その家庭は引っ越しをしたと母親から聞かされた。詳しい事情は話してもらえなかったし、幼い自分は詮索するつもりなどなかった。以来、楠家との交流は途絶えていた。
「千里、眼の病気になっちゃったからねぇ……」
おばさんは急にしんみりとした口調になる。今になって引っ越した理由が理解できた。この月ケ先の街には小中高一貫の特別支援学校があるからということらしい。
「そうなんですか……千里さん、残念ですね……」
横からすかさずくちばしを挟まれる。
「さん付けしなくたっていいよ。昔は呼び捨てだったじゃん」
「あれ、そうだったっけ?」
千里さん――いや、千里のほうが僕よりは記憶が確かなようだ。僕のことをどれだけ覚えているのだろうか?
「どんな大人になったか、顔見てみたかったのになぁ。声はだいぶ変わっちゃったね」
「僕はぜんぜん大人じゃないよ。背と声はまあ、大人並だけどさ」
「千里、和也くんは昔の面影そのまんまよ」
「むぅ、面影そのまんまって、イメージが湧くようで湧かないようで、微妙……」
そう言ってまた、指先を僕にそろりと近づけた。
千里の家は丘陵の上にあるホームタウンの一角にあった。こぢんまりとした洋風の一軒家で、車庫とちいさな芝生の庭、それに一坪ほどの広さの敷石で囲まれた花壇が備えられている。
深秋という季節のせいか、花の姿はない。石垣の隙間からは龍の髭が無造作に伸びていた。
「和也くん、どうぞ遠慮しないで上がって」
「おじゃまします」
僕は脱いだ靴を玄関の端にそろえて家に上がる。千里は僕の靴を中央にずらし、自分の靴を端に置いた。ああ、そこが彼女の定位置なのか。同じ場所に白杖を立てて置いたので僕は気づいた。
白杖の手元には小熊のストラップが付けられている。思えばほかの生徒の白杖にも違ったストラップが付いていた。たぶん、ストラップの手触りが名札代わりなのだろう。
廊下の壁には腰から膝の高さまで、浅黒い筋がついている。千里が壁に触れて廊下を歩くと、指先は壁の筋の一番高いところをなぞっている。どうやらそれは千里の獣道であり、高さは成長の軌跡のようだ。
千里の後ろ姿を見て、指先がまるで猫の髭みたいだなと思い、滑稽な比喩に笑いそうになるのをこらえた。
「あたしの部屋、こっち。楽しめそうなものはないけど」
そう言って千里は僕を部屋に案内した。女子の部屋に足を踏み入れたことのない僕にとっては、どっと手に汗握る急展開。かたや千里は警戒心の欠片もなく、子供時代の延長線上にいる雰囲気だ。
千里の部屋は一階の、リビングの反対側にあった。部屋にベッドはなく、マットレスの上に布団が敷かれている。ほかには座椅子とハンガーラックにちいさなタンスがひとつ。
邪魔な家具は足を傷める原因にしかならないのだろう。中学生女子の部屋のイメージとはかけ離れた、あまりにも閑散とした空間だった。
「布団の上、座っていいよ。疲れたなら寝っ転がってもいいよ」
「いやいやそれはさすがに厚かましすぎるでしょ」
「昔だったら、敷布団の下に潜るか、どこかに隠れるかしていたくせに、なんかつまんないなぁ~」
僕がお客さんらしく遠慮して腰を下ろすと、千里は露骨に不服そうな顔をした。視覚的に相手の反応をうかがえないせいか、遠慮なくあからさまな表情を見せる。
「それじゃさっそくなんだけど、ほんとうに和也くんかどうか確かめていい?」
「え?」
千里は獲物を狙う猫のように、そろりと僕に近づいた。僕は身構えて息をひそめる。千里の指が伸びてきて、僕の頬にそっと触れた。緊張したけれど、千里にとっては日常の行為なのだろうと察し拒否するのを諦めた。
千里の指先に感じる熱は僕の輪郭をなぞってゆく。過敏になっていた神経はさらに昂る。
それから広げた両手のひらで顔全体を慎重にまさぐる。彼女はそうやって、僕を脳裏に具現化しているのだろう。冷静ぶって微動だにしなかったが、僕の拍動は伝わってしまっているかもしれない。
「ふむふむ、やっぱり和也くんだね」
「やっぱりって、ほんとうに覚えていたの? 僕のこと」
「うん。だって、あたしの中でビジュアルがある男の子、っていったら和也くんしかいないもん」
そうか、千里にとって僕の記憶が明瞭な理由が納得できる。けれど、それでは千里の中での僕の立ち位置があまりにも重すぎる。
だというのに、千里の主張はまるで遠慮がない。
「だから再会できて嬉しいよ。和也くんは特別だよ」
「僕は特別な存在じゃないよ。同級生にも男の子いるでしょ」
「むぅ、でもあたしは女の子だよ? エスコートとかしてほしいもん。和也くんはあたしを見て手を引けるでしょ?」
しだいに期待が込められてゆく口調に警戒し、千里を引き離しにかかる。
「この街はちょっと遠いよ。それに、これから受験勉強があるから」
「ふーん、じゃあ今日はなんで会いにきてくれたの?」
千里は探るように尋ねるが僕は答えあぐねた。僕が呼ばれたように感じたのは、自分自身の思い込みだったのだろうか。千里には僕が抱いた不思議な感覚の心当たりがあるのだろうか。
「じつは……合唱祭で聴いていたとき、歌っているのが千里だとは気づかなかったんだよ」
「えっ、それなのにどうして?」
「でも僕は、きみに呼ばれた気がしたんだ」
笑われるのを覚悟で正直にそう告白した。千里はまぶたを閉じたままのすっとんきょうな顔で僕の顔を見上げる。
「あたしが……呼んだ? 和也くんを?」
「うん、千里は歌の中で僕を呼んだりしなかった?」
「ええっ、あたしの歌、そんな変な歌詞に聞こえたの? ……はぁ、やっぱり発音悪かったんだ」
がっかりしたような反応だったので、僕はあわてて否定する。
「いや、そういう意味じゃないよ。歌の中に僕へのメッセージが織り込まれているようだったんだ。千里の魂が宿っているみたいだった」
「へぇー、そんなふうに感じたのかぁ。でもあたし、いつも誰かに届けたいって思って歌っているよ」
「だけど、呼ばれたように感じたのは僕だけだった」
千里はすこしだけ考え込む素振りをし、それからそろりと僕に尋ねる。
「もしかすると、和也くんは『エンパシー』が強いのかもね」
「エンパシー? テレパシーじゃなくて?」
「うん。相手の立場になって気持ちを汲み取る能力のこと。あたしたちは視覚の情報がないから、言葉だけじゃなくて声色や呼吸、それに雰囲気で相手の気持ちを汲み取る訓練をしているの」
「へえ、難易度高そうなスキルだね。僕にはよくわからないや」
「だけど、自分が呼ばれているように感じたっていうことは、和也くんはきっとエンパシーに長けているんだよ。他人の気持ちを自分のことのように取り込んじゃうから。困っている人を助けたいと思う人って、そういう能力のある人が多いんだって」
その言葉を聞いて僕は驚いた。まるで僕の心の中を言い当てているように思えたからだ。両眼を失った千里は、ほんとうは僕も気づいていない心の奥底を見抜く千里眼を持っているんじゃないか。
僕は千里が僕自身を肯定してくれているように感じた。けれど、今の僕はあまりにも無力で、千里の日常に手を差し伸べることなんて到底できそうにない。
「世の中には困っている人を助けたいって思っている人、たくさんいると思う。きっと誰かは力になってくれるよ」
「うん、きっとそうだよね。でも……」
それから一拍、間を置いて千里はそっとこぼす。
「……あたしたちはほんとうに弱い存在なの。どんなに自立しようと頑張っても、やっぱり限界があるの。悪い人に目をつけられて、ひどい経験をする子だっているんだって。だから身を護って生きていくために、『エンパシー』が必要なの」
……そうなのか。
僕はつくづく、子供で世間知らずだと思う。千里のような障害者の現実は、まるで想像すらできていない。でも僕だけじゃない、健常人にとって不自由を抱える人の苦労は、所詮、対岸の火事にしか過ぎないのだ。
「だけど、和也くんはちゃんと信用できる人だよね~」
「んー、まぁ、聖人じゃないけど、悪いことは考えていないかな。でも、千里の先輩たちは学校を出たあと、どうやって生活しているんだろう」
「高校ではマッサージとか英会話とか、そういう技能を身につけるための実習があるみたい。でも、あたしは将来、歌で生きていけたら最高かな、って思う」
「音楽で生きるとなると、『風が吹けば桶屋が儲かる』のことわざみたいだね」
「えっと、それ、風が吹くとどうなっちゃうの?」
千里はあどけなく、小首をきゅーっとかしげた。
「ああ、風が吹くと砂埃で目を傷める人が増えて、そういう人たちは生計を立てるために三味線を弾くんだってさ。それからめぐりめぐって桶屋が儲かるっていう理屈だよ。江戸時代は目が悪いと音楽家になるのが一般的だったらしいんだ」
「へー、ことわざに背中を押してもらえた気がする! でも、和也くんってとっても話しやすいよね。おしゃべり好きなの?」
千里は陽だまりのような、やわらかな笑顔を浮かべた。僕もつられて口元がぎこちなく緩む。
「いやそれがぜんぜん。女の子とこんなに話したことなんか、人生のどこを探したってなかったよ」
「へぇ、意外。あたしに会いに来るくらいだから社交的な人かと思っていたのに」
「そうじゃない、友達だってほとんどいないし」
自分でそう言ってから、ほんとうに仲の良い友達がいないことにいまさら気づく。
「それも意外~! そしたらあたしが和也くんの人生でナンバーワンの話し相手だねっ! ふふ~ん、なんだか勝った気分!」
「ははっ、デフォルトで免疫がついているからだろうね」
「うんっ。和也くんはあたしのライト・フレンドだよ!」
――ライト・フレンドか。
そう言った千里は、僕に対して友達としての親しみと期待を抱いたようだった。僕はいつも他人との間に見えない壁を作ってしまうのに、千里はたったひとことで軽々と壁を越えてきた。
思えば合唱祭の歌だってそうだ。心の奥をつかむような声質、僕の深層に触れてくるようなビブラート。千里は他人の心を動かす個性を持っているのだろうか。
「特別支援学校には高校受験ってないんだよね?」
「うん。だから来年は高校生。校舎は一緒なんだ。制服は変わるけど」
「ああ、あの臙脂色のやつだね」
「うわぁ詳しいね、ひょっとして和也くん、ちまたで言うところの制服マニア?」
「そんなわけないよ! さっき高校生も見かけたから。なかなかスタイリッシュな制服だったよ」
「やった! ダサかったらどうしようって思っていたんだ。……見えないから」
そうだ、彼女は制服のデザインすら楽しめないんだ。
「ごめん。悪いこと言ったみたいで」
「いいよ。楽しみが少ないのはしかたないよ。でも、和也くんは楽しいことってある? 部活とかやっているの?」
「ううん、やってない。インドア神を信仰している。……って、小説に出てきた冗談だけどさ」
「あはは、インドア神って暗そうな神様! でも、読書好きなの?」
訊かれて答えをためらう。文字を読めない千里に読書の話などもってのほかだ。
「……うん、まあ。だけど、そんな崇高な文学じゃないよ。エンタメの小説だよ」
「へえ、どんなのがあって、どんなのが好きなの?」
千里は好奇心が旺盛なのか、本の世界に興味津々のようだ。しかたなく言葉を選んで口を割ると、千里の表情はさらに爛々としてくる。
「ねえ、もっと詳しく教えてくれない?」
「あっ、ああ……」
尋ねられるままに物語のジャンルや既読の本について説明する。その間、千里は真剣そのものの表情で聞き入っている。
拙い解説が終わるまで、千里はずっと僕の口元に注意を向けていて、しかも夢中になっているのか、徐々に距離が詰まってきた。僕は微妙に後ずさりしながら一定の距離を保つ。
「いいなぁ、和也くんはいろんな物語が読めて」
「まあ、みんながみんな、面白い作品だってわけじゃないけどね。好みってあるから」
読めない本に憧憬を抱かれても申しわけないので、ネガティブな意見に寄せてみたものの、その作戦はまるで効果なしだった。千里は犬が匂いを嗅ぐように、さらに顔の距離を詰めてくる。
「あたしも本を読んでみたいなー。点字だとなかなか進まないし、道徳的な物語ばっかりでつまらないし」
「活字を読むのって目が疲れるから、万人におすすめはできないよ。寝落ちだってしょっちゅうだしさ」
なんとかかわそうとするが、千里はスッポンさながらに本の話題に食いついて離れない。
「なんだか、物語の世界があたしを呼んでいる気がするんだけど」
「ぜんぜん呼ばれてないから。万一呼ばれたら、留守だって言っておくから」
じりじりと迫りながら羨ましいと連呼する千里は明らかに不自然だった。僕はそのしつこい態度から千里の狙いに気づいてしまったのだ。
それは、千里の立場になってみれば明快な意図に思えた。千里が言うところの『エンパシー』とは、こういうことかもしれない。
そう、千里は僕が提案するのを待っているに違いないのだ。『本、読んであげようか?』と。
けれどそんなこと、安請け合いできるはずがない。単行本を一冊朗読するのにどれだけの時間と労力が必要なのか。でも、千里はきっとそれをわかって訊いている。自分からお願いするのは厚かましいから、僕に自主的に答えさせようとしている。きっとそういうことだ。
意図を察した僕の警戒心が発動する。千里のやわらかい頬を両手で挟み、顔を引き離しにかかる。
「はい、読書の話はここまで。思春期男子に近づきすぎるのはいろいろ危険だぞ」
「むぎゅう~。せっかくその思春期男子の匂いを味わっていたのにぃ」
「嗅いでいたのかよ。今度来ることがあったら、朝飯にキムチ納豆食べてくるから覚悟しておくんだな」
「ひっど!」
千里はぷぅと唇を尖らせて怒ってみせる。閉眼しているから、キスシーンの演技のようにも見えかねない。いけない、危険な想像を頭から追い払う。
そのとき、背後でぎぃ、と扉が開く音がした。振り返るとおばさんが飲み物とロールケーキを載せた盆を手に、あっけにとられた顔をしている。まさに、見てはいけないものを見てしまったという表情だ。
なんてバッドタイミングだ!
「あっ、えっ、わたし、おじゃまでしたよね……? ごめんなさいっ!」
おばさんは壮大に気まずさを浮かべ、逆再生するかのように廊下を後ずさりしていった。
「ちっ、違います……ッ!」
僕の顔は瞬間湯沸かし器になり、頭のてっぺんから蒸気が吹きだした。
けれど、あわてふためく僕とは対照的に、千里は僕の手のひらに挟まれたまま、不思議そうな表情を浮かべていた。