午前6時半、伊勢川由人(いせかわよしと)は玄関で通学靴のつま先をトントンと鳴らしながら顔を廊下越しのリビングへ向ける。
「行ってきます」まだ起きて間もないぼんやりとした家族に軽く告げてドアを開ける。
 鍵を閉め、マンションの2階の廊下を歩き階段を降りて自転車置き場へ向かう。
 高校生になって母から譲り受けた軽快車、いわゆるママチャリを由人は気に入って乗っている。
 身長162cmの体にサイズも合っているし色も緑でかわいい、籠も前方に付いているので通学カバンも入れられるから楽ちんだ。

 この時間帯、駅までの道は車の行き来はあるものの、徒歩の人や自転車に乗っている人はまばらだ。
 由人はわざとこの時間に家を出て電車に乗り、40分ほどかけて通っている高校に早めに着く日々を送る高校3年生だ。
 朝の澄んだ空気の中、人が少ない道を自転車で爽快に走れることも理由の一つだがそれ以上に由人は出来るだけ人と関わり合いたくなかった。
 実際はまだ家でゆっくりしてからでも十分に登校は間に合うけれど、そうすれば朝のラッシュピークにあってしまう。
 それが怖くて辛い。
 
 由人は幼い頃から内気だった。
 父親は由人がまだ母のお腹の中にいた頃に浮気して両親は離婚した。
「私も夫婦という関係に飽きてきていた、私の様な自立した女より、そりゃ可愛い年下が気になる気持ちは分かるし、慰謝料も養育費も気前よく払うんだから解放してやろう」
 気の強い母親は7つと4つ歳上の姉2人にそう言ったらしい。
 そんな母と仕事で留守がちの母の代わりに家を守ってきたしっかり者の姉2人に由人は可愛がられ甘やかされる。
 小学生に上がるころにはますます自主性のないこじんまりとした子に育ってしまった。
 しかも姉とその友達、女の子ばかりに囲まれて遊び場はもっぱらマンション内で、お人形や皆んなの妹の様に扱われいた。
 仕草が柔らかく聞き分けのいい由人は、同い年の活発な男の子から見たら常に正義感の強い女子に守られている弱い存在だった。
 事実、由人は弱かった。
 授業中に発言することはなく挙手もしない。先生が気をまわして質問すれば顔を真っ赤にして立ち上がるのが精一杯で緊張で声も出せない。意地の悪い子が揶揄えばすぐにシクシクと泣いてしまう。
 母親と姉達が構いすぎたせいもあるが、由人はもともと気弱であがり症で泣き虫で、そして優しい子なのだ。
 周りの子の様に、元気だったり発言が出来たり仲良くしたりケンカをしたり、当たり前の事が出来ないのを家族のせいにしたりしない。
『すぐにドキドキして顔が赤くなって、気弱になってしまう、僕はダメな子』
 それが由人が自分に貼ったレッテルだ。

 6時40分、駅の自転車置き場に着く。
 由人はまだガランとしている自転車置き場の入り口近く、つまり駅から離れた場所に自転車を停める。
 そして制服のズボンポケットから折りたたんだポリエステルの袋を出して、駅までの通り道に落ちている空き缶とペットボトルを拾って袋に入れた。
 そしてトコトコと小走りをし、改札口のすぐ近くに設置してある分別ゴミ箱に分けて捨てる。
 これは由人が通学でこの駅を利用し始めてから3年生になった今でも続けていることだ。
 毎日、少しだけ良い行いをする。
 それは由人のコンプレックスを少し軽くして1日の始まりの勇気になっていた。
 空になった袋を畳んでポケットに入れ、同じポケットから小さなスプレーボトルを取り出した。
 1番上の姉、夏菜が中に消毒液を入れて渡してくれた物だ。
 由人は素直に両手に消毒液を振りかけてから「ヨシ……」と呟いて改札口を通った。

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 3-5は由人のクラスだ。
 教室前方の入り口ドアのそば、背の低い由人の固定席なっている。

 クラスで1番に教室に入る由人はまずカーテンと窓を開けてまわり、5月の爽やかな風を教室に入れ、それから席につきみんなが来るまで静かに予習をする。
 気が弱く運動神経も良くないけれど、勉強は努力すれば身につき成績が上がれば家族も喜んでくれるので好きだった。
 そして自分の様に極度のあがり症は社会で上手く生き抜くのは難しと悟っている。
 取り柄のない自分を可愛がってくれる家族に報いるためにも、出来るだけ勉強をして選択肢を広げる必要があると由人は考えていた。
 予習をしていると次々にクラスメイト達が教室に入って来る。
 由人と仲の良い内川早恵子(うちかわさえこ)も席に鞄を置いた後、こちらへ寄って来る。
 座っている椅子の半分をあけると、早恵子も静かにその椅子に座る。
「おはよう」肩まで伸びている髪を1つに結んだ眼鏡女子の早恵子はのんびりとした声で由人に声をかける。
 早恵子は漫画とアニメが好きで、他にも幅広い知識があるマルチなオタクだ。チェック柄が好きで文房具や小物は多種多様なチェック柄でまとめている。
 成績も良い優等生で、2年生で同じクラスになった時に早恵子から声をかけてあがり症の由人が落ち着くのを黙って待ってくれた。
 おっとりしていて思慮深く、心強い友達の1人だ。
 早恵子の次は、八田雛子(はったひなこ)と笹原誉(ささはらほまれ)が自分の机に鞄を置き、由人と早恵子のところに集まって来る。
 雛子と誉も漫画とアニメが好きで他のことにはあまり興味がない。
 雛子はこの4人の中で1番背が高く痩せ型、切れ長の目でショートボブ、前髪が長く猫背。
 由人と早恵子と誉には心を開いているが他のクラスメイトとはあまり口をきこうとしない厨二だ。
 誉は少しくせ毛の髪をおさげで結び、気が効いて、ころころとよく笑う可愛らしい子だが由人のように自己主張のない性格で1年、2年と友達はいたがいつのまにか自らパシリになってしまう、そんな子だった。
 誉は由人と1年生の時同じクラスで、まだ中学生気分が抜けない男子が教室の端で目立たない様にじっとしいる由人を揶揄った時、そばにいた。
 真っ赤になって黙って耐えている由人を誉はどうにか助けたかった。
 でも自分も揶揄われるのでは、女子に構われても迷惑かもしれないなど色々考えているうちに担任が間に入り、結局由人とは何も話せないまま2年生になりクラスも違ってしまった。
 その後廊下などで、仲良くなった由人と早恵子を見るたびにホッとしながらどこか羨ましかった。
 3年生になって同じクラスになった時、誉は勇気を出して2人に声をかけた。
 雛子と早恵子は幼馴染で、誉は目つきの悪い雛子が始め苦手だったが話してみると好きな漫画と好きなキャラクターがかぶっていて、壁が厚い雛子は、そのぶん仲良くなるとお節介なくらい優しかった。
 
 8時20分にもなればもう殆どのクラスメイトが登校して、それぞれ居心地のいい場所で賑やかに話している。
 3-5は、はっきりとグループが分かれてはいるが上下関係などのないクラスだった。
 由人は仲良し3人の会話を聞きながら廊下へと耳をすましている。
 このクラスの雰囲気がいいことには大きな要因が存在していた。
 始業のベルが鳴る10分ほど前になると廊下の離れた方から明るいよく通る声が徐々に近づいてくる。
「おはよう! おはよう、おはようー!」
 声の主は3人で、大久保克文(おおくぼかつふみ)、丸太朋和(まるたともかず)、そして1番声の通る久場大也(くばひろや)
 由人が通う学校は進学校で朝の部活動は禁止されているが、サッカー部のこの3人は自主練と称してドリブル練習をしてから教室にやってくる。
 首にタオルを引っかけ、スクールジャージのまま少し早歩きで、すれ違う人に挨拶をされれば笑顔を向け応える。
 太陽の様に晴れやかで爽やなこの3人は学校内ですこぶる人気者だ。
 クラスは違うのでそれぞれの教室に分かれる。
 久場大也は3-5で、席は後ろなのだがいつも前方のドアから入ってくる。
 由人の席の目の前のドアだ。
「おはよー、みんなー」
 身長の高い久場は、いつも上のドア枠に左手を引っかけまずクラス中に大きな声で挨拶をしてから教室に入る。
 そしてドア枠から左手を離す流れのまま由人の髪をクシャクシャと撫でる。
「伊勢川くんもおはよう」と言いながら前を過ぎて行く。同じクラスになってから毎日だ。
 初めて頭を撫でられた日は、変な声が出てしまい近くにいたクラスメイトに笑われた。
 久場は由人を揶揄っているのかと雛子が憤慨して警戒したが、毎日するその仕草も由人にかける声も邪心はなく、早恵子の考察ではどうやら久場のルーティンの1つに入ってしまったのではないかいうことになった。
「おはよう……」 
 毎日の事なので過剰に驚く事はもうなくなったけれど、由人はいまだに体が固まってしまい久場に聞こえない小さな声で返事をするのが精一杯だった。
 席に着いた久場は通学鞄から筆記用具などを取り出しながら周りのクラスメイトとにこやかに話をしている。
 誰にでも分け隔てない態度で明るく堂々として活発な久場は教師達の信頼も厚く、クラスの揺るぎない支柱になっていた。
 始業のベルが鳴り、皆んなが席に戻っていき由人も前を向いて椅子に座り直す。そしてこっそりと久場に撫でられた髪を触って頬を赤らめる。

 この高校を選んでよかった。三年生の最後に久場くんと同じクラスになれてよかった。今日も挨拶してくれてありがとう。久場くん……今日もかっこいいなぁ。

 コンプレックスの多い由人にとって欠点のない久場は眩しい憧れの存在だった。