「お父さん、お父さん」
 自分を呼ぶ声で、中原孝広(なかはらたかひろ)は目を覚ました。声の方を見ると、一人息子の誠也(せいや)が立っていた。総合病院の病室、孝広が横たわるベッドのすぐ脇。
 誠也の顔を見るのは久し振りだ。大学を卒業して、今は法科の大学院に通っていると聞いていた。もう立派な大人だ。
「……来てくれたのか」
 誠也に話しかけた。
「はい。入院の手続きも必要でしたから」
 しっかりした口調で誠也が答える。
「……佳寿美(かすみ)は?」
「すみません。来られません」
「そうか……」
 佳寿美は誠也の母、そして孝広の妻、いや、元、妻だ。孝広と佳寿美は離婚していた。一人息子だった誠也は佳寿美が引き取っていた。
「遠くから、わざわざすまなかった……」
 孝広の言葉に誠也が黙ってうなずく。
「この機会に、話せることは話しておこうと思うんだが……いいかな」
 たどたどしい言葉で孝広が続ける。
「私が死んだ後のことだ」
 孝広は、医師からガンを告知されていた。発見された時にはもうかなり進行していた。それでも手術はせず、在宅療養を希望した。そして定期的に通院して治療を受けていた。いつもの治療のつもりで来たはずの病院で、緊急入院が必要だと言われたのだ。
「まず、アパートの後始末を、頼む」
「はい、わかっています。僕の他にいませんから」
 表情を崩さずに誠也が答える。
「家賃や公共料金は銀行の自動引き落としになっている。残高は十分にあるから迷惑は掛けないはずだ」
「はい」
「債務、借金はない」
「はい」
 はっきりとした口調で誠也が答える。
「私の財産だが……銀行と証券会社にある預金と投資信託がすべてだ。不動産はない。誠也が住んでいた家もだいぶ前に売ってしまった」
「はい、聞いています」
「あとの整理や相続税の支払い分を差し引いてもまだ、それなりの金額は残るはずだ。家の売却代金と、退職金も入っているから……」
 ガンを告げられ、孝広は勤めていた銀行を退職していた。
「はい」
「法定相続人、つまり民法上、私の財産を相続する権利がある人間は、誠也、お前ひとりだ」
「はい」
「全財産を誠也が引き継ぐことになる」
「はい、わかっています」
「……そうだな、法律を勉強しているんだったな」
「はい」
 離婚した妻には相続権はない。孝広は銀行に勤めていた。相続についての一通りの知識はあった。まして誠也は今、法科の大学院生だ。
「……」
 何か言いたそうな孝広に、誠也の方から問いかけた。
「母のことを心配してるんですか?」
「ああ……それもあるが……」
「母に財産を遺す必要はないと思います。今の父に十分な収入がありますから、母は経済的には不自由はないはずです。たとえ財産を遺しても、母は受け取らないと思います」
「……そうか」
「はい」
「……わかった。だったらいい……」
「他には何か?」
 誠也が言った。孝広にはまだ、誠也に話しておきたいことがあった。しかし……
「いや……いいんだ」
 そう言って孝広は目を閉じた。
「今日はありがとう」
 ベッドに横たわったまま、孝広が弱々しく手を上げた。
「また来ます」
 そう言って、誠也は頭を下げた。

 次に目を覚ました時、孝広は真っ暗な中を一人で歩いていた。長いトンネルか、洞窟の中のような所だ。病院から外出許可が出るはずがない。深夜、自分で病院を抜け出てしまったのだろうか。記憶はない。
「残念、間に合わなかったね」
 声がした。いつの間にか、目の前に、少女が立っていた。ピンク色のジャージに白い運動靴。見知らぬ少女だ。
「間に合わなかった? どういうこと……でしょうか?」
 例え少女でも、初対面の相手には丁寧に接する。孝広の信条だ。
 それにしても、不思議なことを言う。いったい誰だろう。
「遺言書、書きたかったんでしょ?」
「そんなこと……どうしてわかるんですか?」
「まあ、だいたいのことはわかるの。て言うか、そういう事情があるから、あなたがここにいるんだと思う」
 また不思議なことを言う。この少女は誰だ? そもそも、ここはどこだ。
「私の名前は塞の神。それからここは、黄泉比良坂」
 その少女が言った。
「あなたには……私の考えていることがわかるのですか?」
「言ったでしょ。だいたいのことはわかるって。それにどうせ聞かれるんだから、先に答えちゃおうと思って」
「しかし……こんな暗いところにあなたのようなお嬢さんが一人でいるのは危険だと思いますが」
「私なら大丈夫。私はいつもここにいるから」
「いつも? ここにあなたの家があるのですか?」
「家? そう言われると、家はないな」
 少女が首をかしげた。
「そんなことより、おじさんのこと。おじさんの問題を片付けないと、ここ、通してやれないから」
 知らない少女から「おじさん」と呼ばれるのは少し違和感があった。いや、それ以前に少女の言っていることがわからない。
「問題? ここを通す?」
「そう。おじさんの問題。もっと言うと、おじさんの財産の問題。財産をどうしたかったのか、言ってみて。ちなみに私、誰に対しても『おじさん』ていう呼び方してるから、そこは気にしないで。実際ここに来る人はだいたい『おじさん』だし」
「そうですか……しかし、どうしてあなたにそんなことを話さなければいけないのですか」
「だから、そこを解決しないとここを通してあげられないんだって」
「あなたには関係ないことです」
 見知らぬ少女にプライベートな問題を話すことはできない。
「う~ん、わかんないかな……じゃ聞くけど、おじさんの財産、全部息子の誠也君に遺すっていうことで、いいの?」
「法定相続人は誠也ひとりです。当然そうなります……しかし、どうしてそんなことをあなたが知っているのです?」
「だから、だいたいのことはわかるんだってば」
 その時にになって、ある考えが浮かんだ。
「……サイノカミ、と言いましたよね……カミ、て、ひょっとして……」
「そういうこと」
 孝広が言い切る前に、少女が答えた。
 孝広は改めてその少女の顔を見た。まだ幼さの残る、普通の少女だ。
 心の中で、言いかけていた言葉を思った。
 ……神?
 その時になって気が付いた。真っ暗な中、その少女の周りだけが明るく光っていた。光っているということは、この少女は本当に……しかし、もしそうなら、自分は今……
 孝広はその考えを否定しようとした。
 どこかにスポットライトがあるのかもしれない。そもそも孝広は神の存在を信じていなかった。自分はこの少女にからかわれているだけかもしれない。この少女に病院から連れ出されて……
「それより、財産を遺したい人、他にもいるでしょ」
 また、その少女が言った。
 確かに……そう思っていた。不思議だ。本当に自分の思っていることがわかるのだろうか。
「……佳寿美のことですか?」
「そうじゃなくて。前の奥さんのことは心配ないって誠也君も言ってたよね。他に、いるでしょ?」
「そんなことまで……」
「それで、遺言書、書きたかったんだよね」
「そこまで知っているんですか……」
「法定相続人以外の人に財産を受け取ってもらうためには、遺言書が必要だもんね」
「そうです……しかし、あの人が今、どこの住んでいるのか、住所もわからないし、正確な生年月日もわからない……だから、遺言書の書きようが……」
「それで、間に合わなかったんだね」
「間に合わなかった……といことは、私はもう……」
「うん、そういうこと。残念だけど」
 少女の言いたいことは、理解できた。自分は、もう、死んでいる……少女は、そう言いたいのだ。
「興信所を使って調べてたんだよね」
「そうです……でも、間に合わなかったの……ですか……」
 孝広には、どうしても自分の財産を遺したいと思う人がいた。しかしその人が今、どこでどうしているのか、その住所すらわからなかった。医師からガンを告知された孝広は、興信所にその人の調査を依頼した。その人に財産を遺す趣旨の遺言書を書くために。しかし……
「興信所の調査は、できてたんだよ」
「え?」
 孝広は顔を上げた。
「興信所からのメールがスマホに入ってる」
「そ……そんな……だったら……」
「正式な報告書は郵便で送られてくるんだろうけど、わかり次第連絡してくれって、依頼してたんだものね」
「そんなことも知っているんですか……だったら……何とか……」
「でね、私の出番なわけ」
「出番?」
「そう。書かせてあげるよ、遺言」
「そんなことが……あなたに、そんなことができるんですか?」
「目をつぶって」
「え?」
「いいから私の言うとおりにして」
「は……はい」
 孝広は目を閉じた。
「行くよ!」
 すぐ横で、少女の声がした。

「いいよ」
 少女の声で、孝広は目をあけた。やはり……真っ暗な中にいた。しかも、横になっている。そこは……病院のベッドだった。ということは……自分はまだ生きているということか。さっきまで、少女、神と名乗る少女と話していたのは夢だったのか。
「灯りは点けないからね。他の人に気付かれるといけないから」
 声がした。横を見ると、暗い中、ベッドの脇に人が立っているのがわかった。息子の誠也が立っていた場所、そこに、ピンク色のジャージを着た少女、塞の神が立っていた。
 さっきのは、夢……ではなかったのか。
 孝広は上半身を起こした。起き上がることができた。誠也が来た時には起き上がることさえできなかったのに。
「スマホはカバンの中かな」
 少女が言った。そうだ。入院が決まってから誠也に連絡を入れて、その後は電源を切ってカバンに入れたままだ。
 孝広は両足を床に着けて立ち上がった。立ち上がることができた。
 手探りでベッドの脇にあるはずの物入れを探し、中からカバンを取り出す。カバンを開け、スマホを取り出す。電源を入れ、メールを開く。
 あった。興信所からのメール。報告書が添付されている。パスワードを入れて報告書を開く。
 確かに……あった。興信所からの回答。調査を依頼していた「あの人」の住所と生年月日。
「これで遺言書が書けるね」
 その通りだ。しかし……
「これは……夢? あなたは……本当に、神?」
「うん、あまり自覚ないけどね」
「遺言を書けるということは……私はまだ生きているということですか?」
「残念だけど、そうじゃない。今、ここにいるのは死んだ後のあなたの魂。あなたは誠也君が病院に来た直後から昏睡状態になって、そのまま三日後に死んだの。でも最後は、誠也君と、それに佳寿美さんも看取ってくれたんだよ。あなたにはわからなかっただろうけど」
「そうですか……」
 その様子は想像できた。しかし、それでもまだ……
「で、今はね、その日の前の日の午後十一時。私が作ってあげられる時間は一時間。その日になるまで。実際のあなたは昏睡状態だったから遺言書なんか書ける状態じゃなかったんだけどね、今は、そのあなたと入れ替わってる。ちょっとわかりづらいかも知れないけど。今なら、遺言でも何でも書いたもん勝ち」
「しかし、筆記用具も何も……」
「カバンな中に普段から使ってた手帳とボールペンがあるよね。それで十分だよ」
「……そうだった」
「誠也君がちゃんと見つけてくれるから、大丈夫」
 孝広はカバンから手帳とボールペンを取り出した。
「書き方はわかってるよね」
「はい、わかります」
「内容は?」
「決めてあります」
 そう言って孝広は病室の窓際のスペースに手帳を広げた。そしてスマホの画面の僅かな光を頼りにペンを走らせ始めた。
『遺言書 私、中原孝広は私の全財産の二分の一を息子である千川誠也に相続させる』
「……誠也は今、『千川(せんかわ)』という姓です。佳寿美の今の夫の姓です」
 少女、塞の神に説明するように孝広は言った。
『全財産の二分の一を、滝山春子 住所……』
 孝広はスマホの画面に表示された興信所からの報告書を見ながら「その人」の氏名、住所、生年月日を手帳に書き込んだ。
『……に遺贈する』
「法定相続人以外の人に財産を受け取らせることを『遺贈』といいます」
 孝広が書きながら説明する。塞の神は微笑みながらうなずいている。
「遺言執行者は?」
「やはり……誠也しかいません。誠也に任せます」
「うん、そうだね。でも、それなら付言が必要だよね」
「付言?」
「遺言の内容についての説明を付け加えておく、ていうヤツ。こういうわけでこの人に財産を上げます、とか、この人にはお世話になったから多くします、みたいな。お礼の言葉とかを書いてる人もいるよ」
「……」
 ボールペンを持つ孝広の手が止まった。
「どうしたの?」
「……書けない」
「でも、それを書いておかないと、誠也君も納得しないと思うよ。どうしてその、滝山春子さんに財産を渡たさなければならないのか」
「しかし……書けません」
「今さらプライドとか考えてる場合じゃないよ」
「プライドじゃなくて……」
「じゃ、どうして?」
「あの時のことは……誠也には、知ってほしくない」
「それってやっぱり、おじさんのプライドでしょ? 父親としてのプライドっていうか」
「……」
 孝広は黙って手帳を見つめた。塞の神は口を尖らせた。
「早くしないと、時間なくなっちゃうよ」
 孝広が顔を上げた。
「遺言書に書かれていることが、遺言者の遺志です」
「うん」
「遺言執行者は、遺言者の遺志通りにその遺言を実現する義務があります」
「そうだけど」
「つまり、誠也の気持ちがどうであれ、誠也は遺言書通りに執行しなければなりません。そのことは誠也もわかっているはずです。法律を勉強しているのですから」
「それはそうだけど」
「だから……付言は必要ありません」
「それでいいの?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい、要りません」
「そう、じゃ、もう知らないから」
 塞の神がまた口を尖らせた。
 孝広は黙って手帳を閉じた。
「ここにあれば誠也もすぐに気が付いてくれるはずです」
 孝広がそのまま窓際に手帳を置いた。
「封筒とか、入れなくていいの?」
「それも必要ありません。誠也がこれを隠蔽したり内容を改ざんしたりすることはありませんから」
「そう。じゃ、帰るよ!」
 塞の神が不機嫌そうに声を上げた。
「え?」
 その声に振り返ると、孝広はまた暗闇の中に立っていた。孝広はあたりを見回した。そこは病室ではなく、真っ暗な洞窟の中だった。
「もう、頑固なんだから」
 そう言われて振り向くと、光の中に塞の神が立っていた。頬を膨らませて、孝広を睨みつけている。
「こっち来て。見せてあげるから」
 塞の神が横を向いて歩き始めた。塞の神が離れると孝広の周囲は足元も見えないくらいの暗闇になった。やむをえず孝広は塞の神の後を追った。
 スポットライト……いや、やっぱり塞の神自身が光っているのか。
「あ、そうだ。大事なこと忘れてた」
 歩いていた塞の神が孝広を振り返った。
「誠也君の気持ちの他に、もう一つ問題があった」
「問題?」
「そう。ま、それも見ればわかるか」
 塞の神が立ち止まった。
「見て」
 そう言って、塞の神が前方を指さした。そちらに目を遣ると、暗闇の中に動きがあるのがわかった。孝広の耳に水が流れる音が聞こえてきた。
 川だ。そこに川があるのだ。
「見せるよ」
 塞の神が言った。すると、川の底が青白く光り始めた。
 見せる……この川底に何かが映し出されるのだろうか。映画のように……いったい何を見せてくれるのだろうか……
 孝広は、その場にしゃがみ込んだ。

 誠也は集合住宅の前に立っていた。
 集合住宅、といってもマンションやアパートではない。金網に囲まれた平屋。横長の建物に同じようなドアが並んでいる。ドアの脇にはむき出しの電気メーターと郵便受け。肌色の壁はだいぶ色褪せている。相応の年数が経っているのだろう。周囲には同じような建物が並んでいる。
 公営住宅。低所得の人たちのために自治体が安く貸し与えている住宅だ。
 真夏ではあったが、誠也はきちんとしたスーツを着てきていた。身なりは整えておいた方がいいと思ったからだ。相手がどんな人物であれ。
 ためらいながら敷地の中に足を踏み入れる。門、と呼べるものさえない。玄関、ノブの付いた事務的なドアがあるだけの玄関だが、その横にかかった表札を確認する。
「滝山」
 間違いない。
 表札の下のインターフォンを押そうとして、またためらう。深呼吸をしてから、指に力を入れる。事務的な呼び鈴の音がした。
 父、孝広の遺言を目にした時、正直驚いた。困惑した。
 滝山春子。その名に心当たりはなかった。父孝広は見ず知らずの女性に財産の半分を分け与えようとしている。しかもその執行者に自分を指名している。
 遺言者の遺志を成就させる。それが遺言執行者の責務だ。そのことは理解している。十分に。しかし……それでも。
 父孝広が滝山春子に財産を遺す旨の遺言書を遺していたこと、そして誠也がその遺言の執行者に指名されていたことを記した手紙を滝山春子あてに送っていた。間もなく返信が来た。しかしその内容は誠也を一層困らせる物だった。
 今日、誠也はその真意を確かめるため、滝山春子本人に会いに来たのだ。
「ガチャ」と音がしてノブが回った。少しだけドアが開いた。内側に取り付けられたチェーンで固定されたドアの隙間に顔が見えた。
「どちら様でしょうか?」
 女性の声がした。高音の澄んだ声。若い女性の声だ。
「千川誠也といいます。先日お手紙を差し上げた者です」
 ドアの隙間に見えた大きな瞳が上下に動いた。誠也の身なりを確認しているのだろう。スーツを着て来たのは正解だった、と思った。
「お待ちください」
 声がして、一旦ドアが閉まった。チェーンを外す音がして、今度はさっきより少し広くドアが開いた。
 そこに立っていたのは……ショートカットの小柄な女性。年齢は誠也と同じくらい。いやもう少し若いかもしれない。飾り気のない白いTシャツにジーンズ。化粧もしていないように見える。
 この人が、滝山春子……いや、そんなはずはない。孝広の遺言書には滝山春子の生年月日も書いてあった。現在の年齢は五十歳を超えているはずだ。だとしたら、この人は……
「ご用件は?」
 女性が言った。硬い表情だ。視線が誠也を見上げている。見上げているというより、睨みつけている。誠也の緊張感が増す。もう一度深呼吸して、切り出す。
「お手紙でご連絡いたしました父の遺言書の件で、きちんとお話したいと思いまして……」
「その件でしたら、手紙でお答えいたしました。他にお話しすることはありません」
「いや、そう言われましても……」
 押し出されそうな圧を感じながらも、両足に力を入れて反論する。ここまできてあっさり引き返す訳には行かない。
「とにかく、きちんと話をさせてください。僕の方も聞きたいことがあります」
 女性が一歩、玄関から外に足を踏み出した。誠也はその分一歩、後退りした。
 女性の視線が左右に動いた。周囲の様子を確認しているのだろう。右側で視線が止まる。誠也もそちらに顔を向けた。
 隣の住宅の前から老人がこちらを見ていた。買い物帰りなのだろう、両手に大きなビニール袋を持っている。誠也と視線が合っても、こちらを見たまま遠慮する素振も見せない。
「わかりました。とりあえず中に入ってください」
 入り口を塞ぐように立っていた女性が脇に動く。誠也が中に入ると、女性がドアを閉めた。申し訳程度の狭い玄関スペース。誠也はそこで女性と向き合う形になった。玄関の向こうには間仕切りのカーテンが掛かっていてその中は見えない。
「返信した手紙は読んでいただきましたよね?」
 至近距離に立った女性が言った。どうやら玄関から奥へ誠也を通すつもりはないようだ。話し合いはこの狭いスペースでの立ち話、ということだ。
「手紙に書いた通り、遺贈はお断りさせていただきます」
 女性が続けた。そう、誠也が送った手紙の返信には「遺贈は辞退する」と書かれていた。
 しかし……はい、そうですか、というわけにはゆかない。誠也には責務がある。遺言執行者としての。そして、父孝広の息子としての。
「それならそれでかまいませんが、それはほんとうに滝山春子さんの意思なのですか? 手紙の差出人名は確かに滝山春子さんでしたが、あれだけでは父からの遺贈を辞退するには不十分です。それで僕は今日、滝山春子さんの意思を確認するためにここまで来たんです」
 言い始めると、いっきに言うことができた。
「あなたは誰ですか? 滝山春子さん本人ではありませんよね?」
「私は……春子の娘です。滝山優衣(ゆい)といいます」
 その女性が答えた。さっきより少し声が小さくなったような気がする。勢いを挽回できたような気がした。
「でしたら、あなたと話しても意味がありません。滝山春子さん本人と話をさせてください。春子さんは今、どこにいますか」
「母に会わせることはできません」
「なぜですか? 春子さんと話さないことには進みません」
「とにかく、会わせることはできません。あなたのお父様がどんな人かは存じませんが、いわれのないお金を受け取るつもりはありません」
 その一歩的な言い方には誠也もカチンときた。
「どんな人か存じないって……あなたは僕の父のことを知らないんですか? そもそも、あなたのお母さんは、父とはどんな関係ですか?」
 誠也自身の疑問をぶつけてみた。
「知りません。こちらが訊きたいくらいです。中原孝広って、誰ですか」
 誠也の母は父孝広と離婚している。しかしその原因については聞いたことがなかった。誠也ももう子供ではない。滝山春子という人がその原因であった可能性は遺言書を見た時からずっと考えていた。しかも父はその人に財産の半分を遺贈しようとしている。財産が惜しいわけではない。しかし、せめてその素性くらいわからなければ。
 誠也は優衣に向かって「ある言葉」を発しようとしていた。滝山春子を、そしてその娘の優衣を傷つけるのに十分な言葉を。
 その時……気付いた。
 涙? 優衣は、誠也を睨み見つけるその目に、涙をためていた。悔しいのか? 何かを我慢しているのか? 誠也にはわからなかった。誠也は、発しようとしていた言葉を飲み込んだ。
「……でしたら、その、お母さんが本当に父からの受遺を辞退しようとしているという、その意思を確認させてもらえませんか。実印を押した文書とか、そういう形で……」
「申し訳ありませんが、それもできません」
「どうしてですか?」
 優衣がうつむいた。どういうことだろう? 誠也は優衣の回答を待った。
 やがて、顔を上げた優衣が言った。
「母は今……寝たきりの状態です。三年前に脳梗塞で倒れて……今は、意思能力がない状態です」
「えっ……」
 予想外の答えに、言葉が詰まった。
 意思能力がない……とういことは、遺贈を辞退するも何も……
「……あの、他に親族は……あなたの、お父さんとか……」
「いません。父はずっと前に他界しています。母の両親ももういません」
「ずっと前……」
「私がまだ母のお腹の中にいる時でした」
「お腹の中にいる時……すると、あなたなは、それからずっと」
「……はい。母と二人暮らしです」
 色々な思いがこみ上げてきて、なかなか整理ができなかった。しかし……確認しておかねければならないことはある。
「失礼ですが、あなたは今、学生ですか?」
「いえ。母が働いて、高校には行かせてくれましたが、母が倒れたのがちょうど高校を卒業するタイミングでしたので、そのまま就職しました」
「今日は……お仕事は?」
「母の介護のため普通の会社では働き続けることができなくて、今はパートで働いています。母の様子を見ながら……今は空き時間で……あなたには関係ないことですよね?」
 その通りだ。遺言の執行には直接関係ない。しかし、二人の生活状況、経済状況次第では……
 誠也は大きく深呼吸した。どうすればいい。どう整理すれば……
 一つの思いにたどりつた。
 父孝広と滝山春子の関係がどうあれ、この母娘に父の財産を受け取らせなければならない。それが遺言執行者である自分の任務だ。
「すると……あなたが春子さんの代理人ということでしょか?」
「はい。二十歳になってから、私が成年後見人になりました。給付金を受け取ったりするのにその方がいいと役所の方に勧められて」
 成年後見人とは、意思能力がないなど自分では法律行為ができない人の代わりに法律行為をする代理人だ。家庭裁判所に申請して承認してもらう必要がある。
「ですから、母に代わって私がその遺贈を辞退します」
 きっぱりとした口調で優衣が言った。しかし、その分野なら誠也の方が専門だ。
「あなたは誤解しています。確かに成年後見人は本人に代わって契約などの法律行為をすることができますが、成年後見人の任務は本人の利益を守ることです。父からの遺贈はつまりあなたのお母さんの利益です。したがって、父からの遺贈をあなたが拒否することはできません」
「でも……」
 言いかけて優衣は黙り込んでしまった。
「正確な遺贈の金額が確定したらまた文書を送ります。確認ができたらあなたのお母さんが持っている銀行の口座を教えてください。準備ができ次第、そこに父の遺贈分を振り込みます。もちろん成年後見人であるあなたの口座でも構いません」
「……」
 優衣は答えない。
「もちろん、お金があったからといって、お母さんの容体がよくなるわけではありません。介護や、家計を支えるための仕事の負担は減らないかもしれない。でも、たとえいくらでも、お金はないよりはあった方がいい」
「あの……」
 優衣が何か言いかけた。しかし後が続かない。
「見ず知らずの人からお金なんかもらいたくないというあなたの気持ちもわかります。父とあなたお母さんとのことは僕の方で調べてみます」
 正直、誠也も百パーセント納得したわけではない。父孝広と滝山春子との関係はやはり気になる。そこをクリアにしなければ、娘の優衣とも信頼し合うことはできない。お互いに。
 黙ったまま、優衣が顔を上げた。目にたまっていた涙が、こぼれた。悔しいのか? 我慢しているのか? それとも、嬉しいのか……誠也にはわからなかった。
「また連絡します」
 そう言って誠也は頭を下げ、自分でドアを開けた。昼下がりの陽光がまぶしかった。

「そ……そんな……寝たきり……意思能力が……ない……」
 簸の川の水面を見つめながら、孝広がつぶやいた。
「大丈夫? 顔が真っ青だよ。もっとも、ここに来る人はだいたい顔色悪いんだけど」
 塞の神が孝広の顔を覗き込む。
「あの子が、あの時の……どうすれば……どうすればいいんだ……」
 孝広には塞の神の声が聞こえていないようだ。
「せっかくお金あげても、本人が使えないんじゃね。でも、娘さん、優衣さんだっけ、彼女は助かると思うけどな」
「それは……そうだが……」
 聞こえてないわけではないようだ。
「やっぱり、それじゃ不満?」
「……不満というか……そもそも、あの人に、あの人のために……あの人に、お詫びがしたかった……」
「そういうことね……ま、何とか、なるかな?」
「え?」
 孝広が塞の神を振り向いた。
「ちょっと私じゃ、力不足だけど……あ、その前に」
 塞の神が思い出したように言った。
「まずは誠也君を納得させとこうよ。それなら私にもできるから」
「……誠也を……納得させる?」
「うん、まずはそこから。付言事項を書いておけばそんな必要なかったんだけどね」
「つまり……私と滝山さんのことを誠也に……」
「そう」
「いや……それは……やっぱり……」
「私が、許さないから」
 孝広が言おうとした言葉を塞の神がさえぎった。
「え?」
「私、そういう半端なの、嫌い」
「……半端?」
「そう、みんなが納得してないと」
 塞の神の口調が強くなった。孝広は黙り込んだ。
「こう見えて私、みんなのこと考えてるんだから」
 塞の神が続ける。
「確かに、優衣さんと話してやる気になったみたいだけど、モヤモヤした物を抱えながらじゃ、誠也君もかわいそうでしょ」
「え……ええ」
「それに、そもそもの事情を知ってるのと知らないのじゃ、気合が違うから」
 そうかもしれない……しかし……
「……あなたは、知っているんですか? その……あの時のことを……」
「もちろん、知ってるよ」
「……どうしてそれを?」
「だ、か、ら、言ったでしょ。私、神様なんだから」
「ほ……ほんとうに……あなたは……」
 孝広は改めて塞の神の姿を上から下へと見なおした。
 ピンクのジャージを着た、普通の中学生か高校生。この少女が、神様だなんて……
「父親として息子に見せたくないことがあるのもわかるけど、どうしても誠也君に見せないっていうなら、春子さんのことも力になってあげられないよ」
 この少女に頼めば……何とかしてくれるのか……
「わ、わかりました」
 孝広はうなずいた。
「わかってくれた? よかった」
 塞の神の表情が柔らかくなった。
「じゃ、ここに」
 そう言って、塞の神は孝広の前に両手を突き出した。塞の神の両手のひらには、一枚の白い和紙と一本の筆が乗っていた。
「ここに……何を」
「遺言」
「遺言? もう書いたはずですが……」
「あれはあれ。こっちにはこっちの遺言書が必要なの」
 そう言われ、孝広は和紙と筆を塞の神から受け取った。
「……何を書けば……」
「まずは『遺言書』」
 言われるまま、孝広は和紙に『遺言書』と書いた。
「で、どうしてほしかったんだっけ」
「あの人に……私の財産を受け取ってほしい……使ってほしい」
「そのためには?」
「あの人が……回復して、元気になってほしい」
「じゃ、そう書いて。『あの人』じゃなくて、ちゃんと名前を書いてね」
『滝山春子さんが回復して元気になり、中原孝広の財産を受け取ってくれるように』
 孝広はそう書いた。
「そんなとこかな。誠也君のことと、それに優衣さんのことはそこに付随してきそうだし」
「……これでいいですか?」
「あとは、遺言執行者。本遺言の執行者として塞の神を指定します』て書いて」
「塞の神……あなたは本当に神様なんですか?」
「まだ言ってるの? しつこいわね」
「す……すみません」
 孝広は和紙に言われたとおりの言葉を書いた。
「じゃ、まず、誠也君に見せるよ」
 そう言う塞の神の姿が……変わった。塞の神は、いつの間は真っ白な和服を着ていた。そして、塞の神の胸には……丸い、大きな鏡。
 塞の神が開志に向かって緑の葉の付いた木の枝を差し出した。
「それをここに乗せてください」
 その口調は、そして声も、先ほどと変わっている。少し大人びたような……
「これは榊です」
 塞の神が言った。言われるまま、孝広はその、榊の枝の上に和紙を乗せた。
「では、始めます」
 そう言って、塞の神が目をつぶった。
「祝詞を、唱えます」
塞の神が言った。そして、歌った。張りのある、大きな声で、歌った。

「榊葉に かけし思いは切なれば 
 鏡は照らさむ その心根を」

 塞の神の胸の鏡が光り始めた。強く、光り始めた。孝広は目を開けていられなくなった。

 誠也は銀行のロビーにいた。カウンターの前に並んだソファに座り、自分の順番を待っていた。
 父孝広の遺言に従って滝山春子に父の財産の半分を渡す。そのためにはまず、その財産を調べ、解約してすぐに動かすことができるようにしておかなければならない。そう思った。孝広は、財産は銀行と証券会社にある預金と投資信託がすべてだと言っていた。誠也は今、アパートにあった通帳やカードを頼りに銀行と証券会社を歩き回っている。
 銀行の待ち時間は長い。「46」と書かれた番号札を持つ手が汗ばんでくる。
 優衣の涙を思い出す。誠也は目を閉じた。
 音が……消えた。さっきまで聞こえていた、案内係の声や、呼び出しの声、銀行ならではのざわついた音たちが、消えた。
 誠也は目を開けた。そこは……銀行のロビーではなかった。
 鮮やかな色の服を着せられたマネキン。折りたたまれたシャツが並んだ棚。店の中のようだ。ブティック……洋服店だ。その中に誠也は立っていた。
 店の中には……誰もいない。誠也は、自分の意志とは関係なく、店の奥に向かって歩き始めていた。
 店の奥に扉があった。扉を開けた。そこは、倉庫のような部屋だった。けして広くはない。壁面の棚の中に、畳まれて重ねられた衣類が見える。
「この店を潰せって言うんですか!」
大きな声が聞こえた。
 部屋の更に奥にテーブルがあった。テーブルを挟んでカーキ色のシャツを着た男性とスーツ姿の二人の男性が向かい合っている。大きな声を出したのはカーキ色のシャツを着た男性だ。誠也よりも年上、三十歳くらいだろうか。
「いえ……とんでもない。そんなつもりはありません」
 そう答えたのはスーツ姿の男性の一人。四十代か五十代に見える。
「しかし、このままでは返済の延滞が溜まる一方です……担当の中原がご説明します」
 そう言われ、もう一人の男性がカバンからファイルを取り出してテーブルの上に広げた。こちらの男性の方が若い。向かいの男性と同じくらいだ。
「ご覧ください。こちらがこの店の毎月の売上げ高です」
 若い方の男性がファイルの数字を指さす。
 男性は……父だ。銀行員をしていたころの……父、孝広だ。
 誠也は三人が話すテーブルに歩み寄った。誰も誠也の方を見ない。三人には誠也の姿が見えていないようだ。
「父さん」
 父孝広に呼び掛けてみた。孝広は振り向かない。孝広には誠也の声も聞こえていないのだ。
「こちらが経費。経費を差し引いた利益がこの数字です。ここから生活費等を差し引くと、残るのはこれくらいです。そして、現在の私どもへの返済額がこの金額……どうしても、返済額が足りません」
 ファイルと男性の顔を交互に見ながら孝広が話す。
「毎月の返済額を少なくしてもらうことはできないんですか?」
「そのためには、どこかでまとまった金額を一括して返済していただく必要があります」
「でしたら、融資の期間を延ばしたら……一回あたりの返済額は少なくなりますよね?」
「申し訳ありませんが、これ以上融資期間を延ばすことはできません。当行の規定で……」
「そもそも、こういうことも想定の上で融資してくれたんじゃないのですか?」
 男性の声が大きくなる。
「私どもが思っていたほど、売り上げが伸びていないんですよ……」
 年上の男性、おそらくは孝広の上司、が、答える。
「こちらの努力不足、ていうことですか?」
「いや、そうは思いませんが……中原君」
 上司が孝広を促す。
「こちらをご覧ください。経費のうち、最大の物は、このお店の賃料です。ですから、この賃料を少なくすれば……」
「ですから! それはこの店をやめろ、ていうことでしょう!」
 カーキ色のシャツの男性がまた声を上げる。
「落ち着いてください、滝山さん」
 上司がなだめるように言う。
 滝山……さん?
「もっと賃料の安いところに移転するとか、規模を縮小するとか、方法はあると思います」
「……」
 滝山と呼ばれた男性が黙り込む。
「自殺では生命保険の保険金は出ない、ていう話を聞いたことがありますが……本当ですか?」
 うつむいたまま、その男性、滝山が言った。
「……何を言ってるんですか?」
 上司が言う。
「いや、確か、けっこう大きな額の生命保険に入っていたな、て思って」
「自殺では保険金は出ません。保険を小さくするのは経費削減にはなるかもしれませんが……ばかなことを考えてはいけませんよ。奥さんもいることですし」
 なだめるような、上司の口調。
 その時。
「遅くなりました」
 そう言いながら、お茶を乗せたトレーを持って、女性が入って来た。
「あ、奥さん……お気を遣わずに」
 上司が言う。その人の、お腹が大きい。妊娠しているのだ。
「おめでたですか」
「はい……来月が臨月です」
 テーブルにお茶を置きながら女性が答える。
「それはそれは……無理をなさらずに」
「はい」
 女性が笑顔でうなずく。
「私、小さい頃から洋服のデザインを考えるのが好きで……」
 トレーを胸に抱えて、女性が話し始める。
「私がデザインした服をたくさんの人に着てもらうのが夢だったんです。服飾の専門学校を出て、アパレルの会社に就職したんですけど……私の考えたデザインなんて、全然認めてもらえなくて……」
 孝広とその上司は視線をうつむき加減にして話をきいている。
「落ち込んでいた時、同じ職場にいた主人が言ってくれたんです」
 女性がうれしそうに言う。
「僕が、君のデザインした服を作ってあげる、売ってあげるよ、て」
 孝広が顔を上げて女性を見た。そして、誠也も。女性は……滝山春子だ。
「それで、主人が会社を辞めて、この店を開いてくれたんです」
 息が詰まった。たぶん、父、孝広も。上司はうつむいたままだ。
「今でも主人は、毎日夜遅くまで私がデザインした服を作ってくれていて……無理しないでねって、言ってるんですけど」
 誠也はその女性に、そして父孝広に話しかけようとして、やめた。その場の四人には誠也の姿は見えていない。その場で誠也が何か言ったとしても、おそらく聞こえない。例え聞こえたとしても……四人と誠也は関係ない。今は。
「中原君、そろそろ行こう」
「……はい、課長」
 上司が立ち上がるのを見て、孝広があわてて広げていたファイルをカバンに戻した。
「さっきの話、考えておいてください」
 そう言って、上司は軽く頭を下げた。孝広も立ち上がって頭を下げた。
 出口に向かって上司が歩き出す。孝広も、その後を追った。
 誠也は黙って、二人を見送った。そしてまた、目を閉じた。

「中原さん、外線です!」
 女性の呼ぶ声に誠也は目を開けた。
「滝山さんていう女性からですけど……それが、かなり取り乱した様子で……」
「回してください」
 答えたのは、父孝広だった。誠也の目の前に孝広が座っている。机に向かって。
 そこは……銀行の事務室だった。
「……落ち着いてください」
 孝広が耳にあてた受話器から、女性の泣き叫ぶような声が漏れてくる。
「すぐにそちらへ行きますから……」
 そう言って、受話器を置いた孝広が振り返った。
「課長! 滝山さんが……亡くなったそうです」
「なに、本当か!」
 そう声を上げたのは、孝広といっしょにブティックで話をしていた上司だ。
「まさか……自殺じゃないだろうな?」
「わかりません。仕事場に倒れていたそうです」
「自殺でなければいいんだが……」
「今から行ってきます!」
「頼む……私は今、手が離せない」
「はい」
 孝広が立ち上がる。
「中原君!」
 上司が呼びとめる。
「生命保険を押さえるのを忘れるなよ!」
 は? 誠也は声に出していた。そして、孝広も。
「あれを逃したら、融資を回収できる見込みはないぞ!」
 何を言ってるんだ? この人は。誠也は思った。
 孝広は……黙って、駆け出していた。誠也はまた、目を閉じた。

「中原君、おめでとう」
 あの、上司の声で誠也は再び目を開けた。
 先ほどと同じ、銀行の事務室。孝広は上司の机の前に立っていた。
「栄転だ。本店の経営企画部だ」
「え……転勤ですか?」
「ああ、出世コースだぞ。よかったな」
「しかし……滝山さんの件が……」
「ああ、あの件はよくやってくれた。融資も全額回収できたし」
「いえ、まだ……奥さんと娘さんのこれからの生活について相談しているところで……」
「それはもういいだろう。いつまでも一つの案件に関わっていても仕方ないぞ。次へ進め」
「しかし……」
 父さん……
 誠也は思った。今、自分が見ているこの世界は、おそらく二十年くらい前。この時、誠也はたぶん三歳か四歳。それでも、父孝広の栄転を、誠也の母、佳寿美がとても喜んで、家族でお祝いしたのを覚えている。
 断れない……断れないよな。
 誠也はまた、目を閉じた。

「私たちを見捨てるんですか!」
 誠也は目を開けた。目の前にいるのは、滝山春子。胸に生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。
「そんな……中原さんだけが頼りだったのに……私、これからいったい……どうすれば……」
 あのブティックの中だ。
「こんな形になってしまい申し訳ありません。でも、見捨てるわけではありません。滝山さん母娘のことは、きちんと後任に引き継ぎます」
 孝広が深々と頭を下げる。
「……後任って……いったい……」
 孝広が振り向いた。誠也を、振り向いた。
「え……」
 一瞬、戸惑った。
「後任の、千川誠也です」
 孝広が言った。
 ど、どういうことだ……父には、僕が見えていないのでは……
「誠也、頼む!」
 孝広の声が大きくなった。
「僕が……僕が後任です。後任の、千川誠也です!」
 声が出た。
 誠也は春子に向かって、頭を下げた。

「46番の番号札でお待ちのお客様、2番の窓口へ……」
 アナウンスの声で誠也は目を開けた。そこは……銀行のロビーだった。
「46番のお客様……」
 アナウンスが繰り返される。
 大きく深呼吸して、誠也は立ち上がった。

「これで誠也さんも納得してくれましたね」
 塞の神が言った。真っ白な和服、大きな鏡を首に掛けたまま。
 簸の川のほとりだ。
「あれから……あれから結局何もしてあげられなかった……銀行の仕事にかまけて、あの母娘のことは忘れてしまっていた……」
「いえ、忘れては、いなかったと思います」
「……そうかもしれない。しかしそれで、佳寿美の心も離れて行ってしまったのかもしれない……」
「佳寿美さんは今、幸せです」
「それならいいが……」
「それより、春子さんのことです」
「そうだ……寝たきりだなんて……それじゃ、あまりにも……」
 塞の神は黙って上を、真上を見た。孝広も同じように上空を見てみた。真っ暗で、何もなかった。何も見えなかった。そこに何があるのか、孝広にはわからなかった。
 しばらくして、塞の神が孝広を向き直った。
「お許しが出ました」
 そう言うと、塞の神は和服の袖に手を入れた。そしてそこから取り出したのは……桃。桃の実。

「桃の実には、病を治す力があります」
 塞の神が簸の川の方を向いた。そしてまた、よく通る大きな声で、歌った。

「桃の実は 青人草の瀬に落ちて 
 苦き患いの助けとなるべし」

 簸の川の底が光り始めた。
「えい!」
 塞の神が声を上げて、その光に向かって桃の実を投げ入れた。一瞬だけ水面に浮いた桃は、光の中に吸い込まれるように、沈んだ。

「お母さん、スーパーにおいしそうな桃があったから買ってきたよ」
 優衣は小さく切った桃を乗せた皿を持って、春子が横たわるベッドの枕元にひざまずいた。春子の顔を覗き込むようにして話しかける。春子は答えない。答えることができない。
 ベッドの脇の台の上に皿をおいて、優衣が立ち上がる。春子の背中に手を入れ、上体を起こす。されるがまま、春子はベッドの上に座る姿勢になった。
 優衣は再びひざまずき、桃の実をフォークに刺してて春子の口元に運んだ。それが食べ物だということはわかるのだろうか、春子が口を開けた。
 優衣が、春子の口に桃を入れる。春子がもぐもぐと口を動かす。そうやって、三切、春子は桃の実を食べた。
 突然。春子が言った。
「夢を……見てた」
「え?」
 優衣は目を丸くした。春子の声を聞くのは……三年ぶり。春子が倒れて以来だ。
「今……何て言ったの」
 桃を乗せた皿を持ったたまま、優衣が聞き返す。
「……夢を見ていたのよ……昔の、夢」
「お母さん、話せるの? 話ができるの?」
 優衣は皿を台の上に置いて春子の両肩を掴んだ。春子の顔を覗き込む。
「あの人は……悪い人じゃなかった。あの人なりに、精一杯やってくれた」
 優衣には春子の言っていることが理解できなかった。それでも、春子が声を出して話をしたということだけで、胸がいっぱいになった。
「お母さん!」
 優衣が春子に抱きついた。
「優衣……ごめんね」
 春子が言った。
「私が……私のことがわかるの?」
 優衣はいったん春子から身体を離して、春子の顔を見た。
「ごめんね……優衣、苦労をかけたね」
 今度は……理解した。春子の言っていることが、理解できた。
 間違いない……きちんとした言葉を話している。
「お母さん!」
 優衣はまた、春子に抱きついた。
 その時。
 玄関のインターフォンが鳴った。
「あ、千川さんかもしれない。お母さん、ちょっと待ってて」
 そう言って優衣は玄関へ走った。ドアを開けると誠也が立っていた。
「すみません突然に。どうしても会って話がしたくて」
「あ……ど、どうぞ」
 優衣は誠也を玄関へ入れた。
「先日は、失礼……」
 あいさつしようとする優衣を遮って、いきなり誠也が話し始める。
「銀行と証券会社を回って父の財産を調べました」
 玄関で話を進めるつもりだ。前回と同じように。
「あの、よろしければ、中へ……」
 そう言う優衣にかまわず誠也が話を続ける。
「財産は全額で一憶一千万円ありました」
「一憶……」
 優衣は自分の耳を疑った。かまわずに誠也が続ける。
「従いまして、お母さん、滝山春子さんの受遺分、あ、受遺っていうのは、遺産を受け取る、ていうことですが、その、受遺分は五千五百万円になります」
「五千……五百万円」
 目を丸くして優衣が繰り返す。
「相続税を支払わなければなりませんから実際の手取りは四千八百万円ほどですが……もちろん相続税の申告や納税は全部僕の方で引き受けます」
「四千八百……」
「相続税を差し引いた残りが僕の分ということになりますが、僕もそのお金を使うつもりはありません」
「え?」
「僕もこのお金をあなたがた母娘に使ってほしいと思っています。いっぺんに贈与すると多額の贈与税がかかってきてしまうので、とりあえずプールしておいて……」
「ちょっと待ってください」
 優衣が誠也の言葉をさえぎった。
「そんな大金……やっぱり、受け取ることはできません」
「ですから、これは僕の父、中原孝広の遺志です。僕や優衣さんには変えることができないんです!」
「……」
 誠也の勢いに優衣が黙り込む。
「僕の分については僕の意思ですが」
 その時。
「優衣、ありがたく、頂戴しましょ」
 部屋の奥から声がした。
「え?」
 誠也は部屋の奥に目を遣った。その時になって気が付いた。前回来た時にはしっかりと閉められていたカーテンが開いていた。
 キッチンらしい部屋の向こうに襖があった。半分開いた襖の向こうにベッドが見えた。そしてベッドの上に半身を起こしたパジャマ姿の女性……
「……中原さんの……息子さんですか?」
 女性が言った。
「は、はい……そうですが」
「今のお話ですと……中原さんは、亡くなったといことですか?」
「は……はい、そうです」
「それは……お気の毒に……ご愁傷様です」
 女性が頭を下げた。
「い、いえ……いや、その、滝山春子さんですか?」
「はい、滝山です」
 はっきりとした口調で女性が答える。
「確か……脳梗塞で倒れて、寝たきりだったのでは……」
 誠也は目を丸くして優衣を見た。優衣もまた、同じように目を丸くして二人のやり取りを聞いていた。
「そ……それが、ついさっき……」
 優衣は言葉に詰まった。まだ、母、春子が意識を取り戻したという現実を優衣自身が半分信じられずにいた。一方で、前回誠也が来た時は嘘をついて追い返したと思われたのではないかという心配が頭をよぎった。
 しかし。
「よかった!」
 誠也が大声を上げた。
「それならご本人と直接話ができますね!」
「は……はい」
「おじゃまします!」
 誠也は靴を脱いで部屋の中に上がり込んだ。
「失礼します!」
 誠也は春子が座るベッドに走り寄ってその前にひざまずいた。
「中原孝広の息子の千川誠也です! 父の財産を……いや、その前に、まずは、お詫びを、お詫びをさせてください」
「お詫び……ですか?」
「はい……会社の都合とはいえ、父が、ほんとうに心無いことをしました……申し訳ありませんでした!」
 誠也が額を床に付けた。
「いいえ……中原さんにはよくしていただきました。感謝してますよ」
 微笑みながら、春子が言った
「そう言っていただけると、父も浮かばれると思います……では、父が遺した財産を、受け取っていただけますね!」
「そうすることが、きっと、お父様のご供養にもなると思います……ありがたく、頂戴いたします」
「よかった……ありがとうございます!」
 いつの間にか誠也は涙を流していた。
「お母さん……」
 誠也の後ろに立っていた優衣もまた。
「……これで優衣にも楽をさせてあげられるかもしれないね」
 春子が優衣の顔を見ながら言った。
「お母さん!」
 優衣は正座する誠也の横を駆け抜けてベッドの上の春子に抱きついた。
「こんな格好のままで、失礼いたしました」
 優衣の背中をなでながら春子が言った。
「これで、これでようやく、父の無念も晴れると思います……ほんとうに、ほんとうに……ありがとうございました」
 誠也は、再び、深く深く、頭を下げた。

 誠也は川のほとり。
 泣いていた。孝広は黙って泣いていた。
「これでいいかな」
 塞の神が言った。
 孝広は顔を上げた。塞の神は……ピンクのジャージを着た少女の姿にもどっていた。
 この子が……神様。
 改めて思う。この子が……遺言を書かせてくれた。自分の思いを誠也に伝えてくれた。そして、春子を回復させてくれた。
 生前、孝広は神様の存在を信じていなかった。
 しかし、もし神様が本当にいるとしたら、その神様にできることで、この少女にできないことがはたしてあるだろうか? 孝広は今、そんなことを思っていた。
「私だってなんだってできるわけじゃないよ」
 塞の神が言った。
「え?」
 声が出た。自分の考えていることがわかるのだろうか。この子はやっぱり……
「桃の力は、私じゃないからね。私はそこまでできない」
 塞の神が微笑む。
「私の仕事は、この道を渋滞させないこと」
 渋滞……?
「最初に言ったよね。覚えてないかな?」
 そう言えば、確かそんなことを……
「後悔や心配事を遺したままで、なかなかここを通りたがらない人がいるのよね。いったん通してあげても、またこっちへもどろうとしたり。でも一度ここを通過した人は、もう戻してあげられない。そいう決まりだから」
 塞の神が話を続ける。
「でね、ここで後悔や心配事をできるだけ解決してあげるの。それが私の仕事」
 浄化……そんな言葉が浮かんだ。
「ただし、人への恨みを晴らすとか、誰かを道連れにするとか、そういうのはだめだよ」
 そんなことは思っていないが……そういう人もいるのかもしれない……
「あなたは……財産についての問題を法律的に解決するのが仕事、ということですか?」
「それを専門にしてるわけじゃないけどね」
「でも……日本の民法をよく知っている。遺言書とか、遺贈とか……」
「あ、それはね、一番はじめに私のとこへ来たのが司法書士さんでね、その人にいろいろ教えてもらったの」
「……なるほど」
「でもね、わかると思うけど、法律や遺言書だけじゃ解決できないこともいっぱいあってね……そっちの方が多いかな?」
「それで……神様の力で」
「うん。私だけの力じゃないけどね」
「……一度ここを通過するともう、もどることはできないんですね」
「うん、そうだよ。あなたはもう、その必要ないでしょ?」
「はい……でも、実際に戻ろうとする人も……」
「いるよ。それを戻らせないようにするのも、私の仕事」
「……どうやって?」
「う~ん、言えない。ちょっと、見せられない」
「……そうですか」
 どうやって止めるのか……想像できなかった。
「あの人のことを言ってるんだね」
 やっぱり……考えていることがわかるのだ。
「あの人も戻りたがっててね。でも、ここ通っちゃたから」
 あの人は……納得して、成仏したのだろうか……
「何回も戻ろうとして、その度に私がストップしたんだけど……まだその辺をウロウロしてると思う」
 塞の神が後ろを振り返った。
 そうか……やっぱり……あの人は……
「そうだ! あの人をいっしょに連れてってよ! あなたとなら、きっといっしょに行ってくれると思う!」
 塞の神が手を打った。
「ずっと、ていうわけじゃないから。あっちの世界に到着するまで……て言ってたら、来た!」
 塞の神が後ろを指さした。
 青白い光が見えた。
 その中に見える、男性の姿……カーキ色のシャツを着ている。
「滝山さん……」
 孝広が呼び掛けた。
「……中原さん」
 光の中の男性が答えた。そして……小さく笑った。
 孝広が駆け寄った。
「あの時は……ほんとうに……」
「いえ……ありがとうございました」
 孝広の言葉をさえぎって、光の中の男性、春子の夫の滝山が右手を前に出した。
 孝広はその手を両手で握りしめた。
「行きましょう……滝山さん。もう大丈夫です」
 そう言って、二人は歩き出した。トンネルの、奥に向かって。
「よろしくね~」
 振り向くと、塞の神が手を振っていた。大きく、大きく手を振っていた。