水曜三時間目の日本史が終わった。俺は先生に「片付け手伝います」と断り、授業が終わった後も教室に残っていた。
「小松原君はいつも熱心に聴いてくれて嬉しいよ」楽しげな先生に若干の気まずさを覚えながらも、さほど必要もないのにチョークの消耗加減を確認する。

 ちらほら次のクラスの奴らが現れ始めた。ふと甘い香りが掠めた気がして、振り返ると意外な人物が入って来た。
 何気なく目で追うと、その人物が気怠げに向かう先は、さっきまで俺が座っていた席で俺は俄かに焦り始めた。

 知っている。——2Fの(たちばな)柚弥(ゆきや)だ。
 橘はちょっとした有名人だ。良い意味でも、悪い意味でも。
 良い意味。とんでもない美少年だ。白く細い頸の上に、校内で一二を争う完璧な頭蓋が乗っている。
 あとは大体悪い意味。美少年といっても、か弱いとか守ってあげたい(たぐ)いじゃない。毒々しい我の強さが滲み出ている。

 うちは服装についての校則もかなり寛容だが、奴はその最先端を行き、髪は白に近い金髪で見るたびにインナーカラーが変わり、アクセサリーも制服の中に潜んだ派手なインナーも常にやりたい放題で余計目を引く。
 柄の悪い三年とよくつるんで可愛がられている印象がある。思い出した。……妙な噂もある。

 イケメンばかり出てくるBL系ゲームかなんかで、いたずらに主人公を引っ掻き回しに来そうな、中性的小悪魔美少年みたいな容姿をしている。
 そして、その見た目を漏れなく裏切らない妖しい噂があるのだ。
 男子校のウチで、多数の崇拝者を誇る裏の意味(・・・・)でも絶大的なアイドルで、校内の至るところ、不特定多数と日々酒池肉林を繰り返しているとか何とか……。 


 正直、出来るだけ関わりたくない人種だ。そんなリアルBL(疑惑)の橘は、前髪を掻き上げたらたら俺の指定席の方へと歩いていく。
 俺は口をごもごもやりながら、内部では激しく感情が渦巻いていた。

 え? あいつなのか? 違うだろ。
 だってあいつ金髪だし派手だし、見るからにチャラチャラしてて、アニメなんかとは対極の、真っ先に馬鹿にしそうな空気が充満している。
 確かに席は自由だ。けど選りに選って、どうして今日その席を選ぶんだよ。
 もうすぐ席に着いてしまう橘の背を凝視しながら、俺の頭はフル回転だ。
「あ、忘れ物!」と割り込むべきか。でもそれでその席を奴が諦めるか判らないし、落書きを見た場合それが俺だと即刻ばれる。

 そう。今日机には新たな落書きが施してある。——さっき俺が描いた。
 落書きの主がそこに座った場合、高確率で食いつくと思われるものを用意したのだ。今まで頑なに避けてきたこの俺が、絵を描いたのだ。
 キャラ物は諦めた。俺のもう一つの得意分野は日本史だ。
 これまでのやり取りから、奴は一風変わったキャラや生物を好むらしいことが判っていた。
 それを考えすぎて、また随分マニアックな、奴にしか見せられないチョイスになってしまったのだが。

 今日の授業は壇ノ浦の戦いだった。


『平家ガニっているらしい』

 厳めしい顔をした、甚だいびつな蟹が机に鎮座している。