今日は少し、遠回りして帰ろう【完】


 「前置きが長くなってしまったので、そろそろ発表しましょう。今年の二年C組の出し物に、我々はメイドカフェ・執事喫茶を提案します!」


 紅野さんが高らかに宣言する後ろで、墨田が黒板いっぱいに『メイドカフェ・執事喫茶』と殴り書きをする。思ってもいなかった提案に、みんなが「え……」と口を開けて固まった。


 「去年、王子様を遠くから見ていることしかできなくて、歯痒い気持ちになりませんでしたか?」
 「それが今年は、金を払えば三枝に接客してもらえる。会話もできるし、ツーショットだってできてしまう」
 「どうしよう、一気にめちゃくちゃありな気がしてきた」
 「しかも、滅多に見られない執事姿を、君たちは働きながらでも拝めるわけだ」
 「はい、決まり」
 「メイドカフェと執事喫茶やるしかないじゃん」


 墨田と紅野さんの演説を聞いたクラスの女子たちが、一斉に賛成の声を上げる。この空気の中、反対の声を上げられる男子はいない。


 「まぁ、面白そうだしいいんじゃね?」
 「あ、螺良、お前も執事やってもらうから」
 「え、嘘でしょ」
 「はぁ……、お前だってモテること知ってるんだからな、サッカー部のエース様」


 適当に興味本位で声を上げたせいで、螺良が標的にされる。三枝には負けるけれど、螺良の人気が高いのも事実。納得の人選だった。


 「頼、何も言わないけど、お前はこれでいいの?」
 「やれって言われたことをやりますよ、俺は」


 螺良の問いかけに顔を上げた三枝が淡々と答える。多分、こういう扱いにも慣れてしまったのだろう。横目で見た表情は少し冷たくて、客寄せパンダ扱いの三枝に同情した。


 「なんか紅野さんって、去年頼のファンクラブを作ろうとしたことがあるらしいよ」
 「へー」
 「頼に反対されて未遂で終わったらしいけど、あれだけ熱意があったら非公式に立ち上げててもおかしくないよなぁ」


 休み時間、席までやってきた螺良の話す内容に相槌を打ちながら、人は見かけによらないものだと紅野さんを観察する。さっきまでの生き生きとした表情はどこへやら、見慣れた大人しい紅野さんに戻っていて、どっちが本当の紅野さんなのか混乱する羽目になった。

 結局、全クラスが集まる実行委員会で見事メイドカフェ・執事喫茶の権限を勝ち取ってきた二人は三枝ファンから崇められていた。隣のクラスの実行委員から聞いた情報によると、そこでもうちのクラスの演劇部コンビは熱弁を奮って、みんな呆気にとられたらしい。

 学校中に三枝ファンがいるのだ、名前を出したら何でもOKが出ていたに違いないと思いつつ、そこまで漕ぎ着けたのは二人の力量と熱意のおかげなのだから、きっと三枝ファンのクラスメイトは彼らに素直に感謝するべきなのだろう。

 そうして出し物が無事に決まり、文化祭が近づいてきた。準備にも熱が入り始める。キッチン担当に決まった俺は裏方に徹しようと、当日までやることがないから装飾担当を手伝っていた。みんなで力を合わせて作業して、実際に形になっていくのが楽しかった。



 放課後、内装作りで出たゴミを一度捨ててこようと、両手にゴミ袋を提げて教室を離れた。渡り廊下に出たところで後ろから足音が近づいてきて、そのままさっと右手のゴミ袋を取られる。その動作があまりにスムーズで、抵抗する暇さえなかった。思わず、戸惑いながら足を止めてしまう。


 「……手伝う」
 「…………ありがと」


 そう一言だけぼそりと呟いた三枝は、きゅと唇を結んで意思の強い瞳で俺を見ていた。今更二人きりになれるはずがなくて本当は断りたかったけど、その瞳で見つめられれば頷くしかない。

 肩を並べた俺たちは、一人で歩いていたときよりも随分と遅いスピードで再び歩き始める。少しでも長くこの時間が続けばいいなと、狡い俺だけがそんなことを考えていた。

 グラウンドの方から、運動部の声が聞こえてくる。何を話せばいいのか分からなくて、俺たちの間に会話はない。切なくて、苦しい。手を伸ばせば触れられるほど近くにいるのに、三枝を随分と遠く感じた。

 もう、あの夏には戻れない。そう実感してしまう。

 校内にゴミ捨て場があるのだから、所詮ゴミ捨てなんて数分で終わる。手に持っていた重みが消えて解放されたはずなのに、胃の中にずしんと重たいものが残ったまま。どうすることもできないそれを抱えたまま教室に戻ろうとしたときだった。


 「ねぇ、くるちゃん」
 「……なに?」


 三枝が俺を呼び止める。
 ゆっくりと振り返れば、迷子のような表情をした三枝が下を向いていた。言うか言わないか、悩んでいるのが伝わってくる。


 「俺のこと、……ううん、ごめん。やっぱりなんでもない」


 西日が眩しい。三枝の目元がキラリと光った気がして、一瞬泣いているのかと錯覚した。


 「……戻るぞ」
 「待って、」


 このまま二人でいたら、また絆されてしまう。早く教室に帰ろうと一歩踏み出したところで、腕を掴まれた。触れられたところにぶわりと熱が集中する。


 「……くるちゃんの時間がほしい」
 「え?」
 「文化祭の日、一日だけでいいから俺にくれないかな」


 都合のいい夢か幻聴かと思ったけれど、縋るような目でそう訴えかける三枝は現実で、言葉の意味をうまく飲み込めない。理解はしたって、納得はできていないのだ。

 こんな俺が今更何を返せばいいのか。自分の気持ちに従って「はい」と答えてしまいたいのに躊躇ってしまう。黙り込んでいると、ぎゅと掴まれたままの腕に力が入った。


 「何で俺? 三枝と一緒に回りたいっていう女子、いっぱいいるよ」


 へらりと笑って、本心を隠す。冗談でしょと、真剣に取り合わないようにすれば、三枝の綺麗な顔が歪んだ。



 「……くるちゃんは女子と約束してるんだ」
 「何でそうなるんだよ」
 「…………絵上さんと、付き合ってるんでしょ」


 口にするのも嫌だと言いたげな苦々しい表情で、三枝が俺を睨むように見据える。その圧が強すぎて、蛇に睨まれた蛙のようにぴくりとも動けない。

 突然出てきた名前に驚くと同時に、なぜ彼女が名指しされているのか分からなくて眉根を寄せる。博愛主義な三枝が、特定の女子に対してこんなに敵意剥き出しなのも珍しい。


 「言ってることが意味分かんないんだけど」
 「はぐらかさなくても知ってるから」
 「は?」
 「だって、……泣くほど、好きなんでしょ」
 「泣くほど……?」


 聞いたこともないほどの低い声。責めるように言われるけれど、その内容に全く身に覚えがなくて困惑している間に、三枝は淡々と話を続ける。


 「絵上さんに呼び出された日、教室に戻ってきて泣いてたじゃん」
 「な、んで、それ……」


 お前、あの時起きてたのかよ。寝ていると思っていたのに、バレていたことが恥ずかしい。それと同時に、あの日の涙の理由を誤解されていることが悔しかった。

 違うんだ、三枝。あれはお前のことを思って、この恋にさよならするって決心した証だったんだよ。
 そう言ってしまえたらよかったのに、それだけは絶対に許されない。何て答えようか悩んでいるうちに、更に誤解を深めた三枝が口を開く。


 「俺のことを避けるようになったのも、絵上さんが理由?」
 「ちがう」
 「だったら、どうして……?」
 「それは言えない。けど、……俺が好きなのは、絵上さんじゃない」
 「その言い方だと、他に好きな人がいるって聞こえるけど」
 「ああ、そうだよ」


 ほとんど売り言葉に買い言葉だった。まさか俺が肯定するとは思っていなかったのか、目を丸くした三枝はその言葉をゆっくりと噛み砕き、何かを諦めたように力なく笑った。


 「……くるちゃんはその子と文化祭回りたいんだ」
 「そんなこと、考えてもなかった」
 「え?」
 「こんな気持ち、早く捨ててしまいたいって思ってたから」
 「好きなのに?」
 「好きだから、相手を困らせたくない」
 「…………」
 「俺なんかが好きになったら駄目な人だから」


 そんなことまで言うつもりはなかったのに、勝手に口が動いていた。何でお前の方が泣きそうなんだよと、そう言ってしまいたいぐらい、随分と酷い顔をしている三枝に失敗したなと後悔ばかりが募る。


 「諦めるって決めたから、この話はもう忘れろよ」


 きっと、何と声をかければいいのか分からないのだろう。何も言葉を発さなくなった三枝に「戻るぞ」と声をかける。以前とは立場が逆転しているのが、なんだかおかしかった。


 「          」


 先に歩き出すと、後ろから声が聞こえた気がして振り返る。校舎の周りを走っている外練中のバレー部の声が邪魔をして、何を言ったかまでは聞き取れなかった。下を向いた三枝の表情はよく見えない。


 「何か言った?」
 「……ううん」
 「そ」


 少し悩んで首を横に振る三枝に、そういうことにしておいてやろうと素直に受け入れる。藪をつついて蛇を出すなんて趣味は持っていなかった。


 「ねぇ、くるちゃん。やっぱり駄目?」
 「何が?」


 パッと顔を上げて、俺の隣に並んだ三枝が強請るように見つめながら聞いてくる。


 「文化祭、一緒に回ろうよ」
 「……しかたないな」
 「ふふ、ありがとう」


 その顔に俺が弱いって分かってやってるなら、相当策士だよ。けれど、分かっていて丸め込まれてしまう俺も大概だ。断れない俺が悪い。

 大袈裟にため息を吐き出してやれやれ感を演出してみるけれど、そんなことをしている自分が馬鹿に思えるぐらい素直に喜ぶものだから、ほんの少し恥ずかしくなった。

 嬉しそうに笑う三枝を見ていると、釣られて頬が緩む。だって、心の奥底ではじんわりと喜びが湧き上がってきているから。また一緒にいられるんだという事実が、今は何よりも嬉しいから。でも、それを三枝にだけは悟られてはいけない。平静を装いながら、文化祭の日が早く来ないかなと密かに待ち遠しくしていた。



 いつもとは違って、派手に飾り付けられた教室。老若男女問わず、多くの見慣れない人が行き交う校内。そんな様子を確認する時間すらなく、遂にやってきた文化祭にキッチンはてんやわんやの状態だった。

 一番人気の教室はここだと胸を張って言えるぐらい、廊下には長い長い列ができている。そのほとんどが三枝目当ての女子生徒。うちの生徒だけじゃなくて、他校の制服を着た人もかなりの割合を占めているらしい。


 「委員長、これ持っていくね」
 「うん、頼んだ」


 執事服に身を包んだ螺良がキッチンに顔を出した。髪もセットされていて、いつもよりぐんと大人っぽい。さっき女子たちが「螺良やばくない?」とひそひそ話していたのを思い出す。働き者の彼の耳にはきっと入らないだろうけれど、仲のいい友だちが褒められていることになぜか俺が誇らしい気持ちになった。

 ひっきりなしに上がり続ける黄色い悲鳴。三枝を一目見た女子が、その威力の高さにやられて思わず声を上げてしまうそうだ。繁盛するのはいいことなのに、三枝の人気を見せつけられたみたいで、心臓を鷲掴みされたみたいに苦しくなる。ずっと声が聞こえてくるものだから、痛みに気づかないフリをするのは困難で、休憩する時間も取らず、一心不乱に担当のパフェを作り続けた。

 一緒に回ろうと言っていたけれど、この調子じゃ絶対に無理だ。定期的にやってくるチェキの時間は三枝がいないと成り立たないし、きっと抜けられても五分から十分しか無理だ。交代の時間は決まっているけど、ホールの方が明らかに人手不足で余裕がなさそう。

 俺は見たいものも特にないし、このままキッチンを手伝おうかな。そんなことを考えていると、キッチンのリーダーを担当している調理部の天谷(あまや)さんが声を上げる。


 「ねぇ、誰かキッチンからホールに変わった方がいいかも」
 「確かに、ずっとバタバタしてるもんね」
 「どうしよう、誰が変わる?」
 「やりたい人とかいる?」


 キッチンを担当しているのは、目立つことが苦手なメンバーばかり。ホールになりたくないから、みんなキッチンに立候補したのだ。加えてこのお客さんの多さ。三枝目当てがほとんどで、他の人には興味無いだろう。でもだからこそ、三枝と比べられて嫌な思いをすることもあるかもしれない。口では賛成しているけれど、全員やりたくないと考えているのは、顔を見ればすぐに伝わってきた。


 「……俺がやろうか?」
 「ほんとに? 委員長ならしっかりしてるし、接客向いてそう!」
 「余りの衣装あるか、紅野さんに聞いてくるね」


 さっきまで目を合わせないように下を向いていたのに、立候補した途端、パッと顔を輝かせながら俺を見るものだから、その現金さに笑ってしまった。ぱたぱたと足音を響かせて、俺の気が変わらないうちにと走り去っていく姿を見送る。

 執事服なんて似合わないだろうな、俺。見苦しいものを見せることになるのが心苦しいけれど、俺の犠牲で大変そうなホールメンバーが少しでも楽になるならそれでいい。そう思っていたけれど、キッチンにやってきた紅野さんは目を輝かせて高らかに話し始める。


 「委員長! 私はずっとホールをしてくれないかなと思っていたので、念願叶って嬉しいです」
 「どうも?」


 やばい、なぜかあの演劇モードに入っている。嫌な予感しかしない。つーっと、冷や汗が背中を流れていった。



 「こんなこともあろうかと、実は勝手ながら衣装を用意してたんです!」
 「えー、紅野さん準備万端じゃん」
 「委員長専用って、すごいね」
 「見たい見たい!」
 「なに? 委員長もホールになるの?」
 「そうだよ、今から準備するからもうちょっとだけ今のメンバーで耐えてて」
 「了解! 委員長ありがとね、めちゃくちゃ助かる!」
 「うん……」


 キッチンメンバーから煽てられている紅野さんは「ふふふ」と怪しい笑みを浮かべている。怖い。めちゃくちゃ怖い。何を企んでいるかは分からないが、キッチン担当の俺がホールをやるかも分からないのに、それでも自費で衣装を用意してるってやばすぎる。

 思わず後退りすれば、背中が誰かにぶつかった。振り返ればキッチンにやってきた螺良で、一瞬で状況を把握したらしい。ぽんと背中を叩いて、爽やかに笑ってキッチンを出ていく螺良に「待ってくれ」と必死に縋りたくなる気持ちをなんとか抑えて、その後ろ姿を見送った。

 残された俺は、魔女のように笑っている紅野さんと対峙する。キッチンの隅でこちらを見ないようにしながらパフェを作り続けている男子メンバーからは、絶対に関わりたくないオーラが放たれているし、女子メンバーは俺の気持ちなんて露知らず、どんな衣装かとワクワクしている。方々から見捨てられた俺は、ここまできたら覚悟を決めるしかなかった。


 「じゃあ、出しますよ。心の準備はいいですか?」
 「……どうぞ」
 「ふふ、じゃーん!」


 楽しそうな明るい声を合図に、ブランドの紙袋から出てきたのは、淡いブルーを基調としたメイド服。レースやリボンがふんだんに使われているそれは、絶対に男子高校生が着るものでは無い。なぜか無駄に高いクオリティに「おぉ!」と感心した声が上がるけれど、俺だけは「は?」と我が目を疑っていた。


 「めっちゃかわいい!」
 「これ、紅野さんが作ったの?」
 「ええ、夜なべして作りました」
 「天才じゃん」


 いや、使わなくていいところでその才能を使うな。そう言ってしまいたいけれど、ぐと堪える。反対しているのは俺だけで、周囲から上がる賞賛の声に紅野さんは鼻高々。


 「これを俺が着るんですか……?」
 「はい、もちろん」
 「あの、俺に拒否権は……」
 「委員長がホールやるって言ってくれたんだよね。男に二言は?」
 「…………ありません」


 いや、あるに決まっているだろうが! いっそ、そう叫んでしまいたかった。けれど、恐ろしいほどにニコニコしている女子たちに囲まれて主張できるほど、俺のメンタルは強くなかった。

 そもそも俺からしてみれば、誰も反対意見を唱えていないことが恐怖極まりない。どこか別世界に迷い込んだみたいだ。何でみんな平然と受け入れてるんだ。だって、メイド服だぞ!? 俺なんかに似合わないし、普通に考えてありえないだろ。


 「でも俺、男だし、それ入んないでしょ」
 「そのあたりは抜かりなく、ちゃんと対応しているので安心してください」
 「いや、何でだよ」


 何で俺のサイズを把握しているんだ。口をついて出たツッコミを気にすることなく、紅野さんはホールを担当しているクラス一のギャル・光好(みつよし)さんを呼び出す。


 「私がホールを担当するので、代わりに委員長のヘアメイクをお願いしてもいいですか?」
 「オッケー! 任せて、委員長。とびっきりかわいくするね」
 「ヨロシクオネガイシマス……」


 突然呼び出されたにも関わらず、すぐに受け入れてしまう光好さんのノリの良さが恨めしい。

 ホールになるなんて、軽い気持ちで言うんじゃなかった。しかし後悔先に立たず、今更この場から逃れることなんて、メイク道具を持った光好さんが目の前に立ちはだかっている状況でできそうになかった。



 ◇◇


 「すごーい! 委員長かわいい!」
 「ベリーショートの女の子ですって言われたら、信じちゃうレベルだよ」
 「ほら、表情管理しっかりして。委員長ならナンバーワンメイドになれるから!」


 気が乗らないまま、なぜかぴったりサイズのメイド服に着替え、光好さんのされるがままメイクを終えた俺を女子たちが取り囲む。よっぽどげんなりした表情をしていたのだろう、「笑って」とみんなに言われて口角を上げようとするけれど、顔がぴくぴくと引き攣ってしかたない。このメイド服に生気を吸い取られてる気がしてならない。ナンバーワンメイドとか、絶対になりたくないんだけど。


 「まぁまぁまぁ……!」
 「紅野さん……」
 「最高の出来です、委員長! 私の目に狂いはなかった!」


 すると、俺を辱めている張本人がタイミングよくキッチンに戻ってくる。俺の姿を一目見た瞬間、ぱあっと顔を輝かせ、その頬は興奮で紅潮している。

 短いスカートの裾をぎゅっと握り締め、唇をきゅと噛み締めていれば、紅野さんに「さぁさぁ」と背中を押される。え、本当にこの格好で人前に出るの? 未だに受け入れられてなくて、最後の悪足掻きでブンブンと首を横に振って、その場に踏み留まろうとする。しかし、そんな俺の行動はお構いなしに、その細腕のどこにそんな力があるんだというほどぐいぐいと押されてしまい、あっという間に俺はキッチンを出て、ホールに立っていた。


 「えー、かわいい!」
 「新しいメイドさんだ!」


 席が近かった他校の女子高生二人組がすぐに気づいて声を上げる。羞恥心が上限突破して、ぷすぷすと火が出ているんじゃないかってぐらい顔が熱い。今すぐにでもキッチンに戻りたい。


 「メイドさんもチェキ撮れるんですか?」
 「え、いや、俺は、」
 「もちろんです! 何枚ご希望ですか?」


 断ろうとした瞬間、金の匂いを嗅ぎつけた墨田がさっと登場し、俺の代わりに交渉を始める。敏腕マネージャーも驚きの早さに若干女子高生も引き気味だ。

 チェキコーナーは三枝の待機列ですごいことになっているからと、あれよあれよという間に勝手に話が進んでその場でポーズを取らされる。


 「はい、チーズ!」


 一緒にハートを作ってほしいと言われて、渋々手を差し出せばそれだけできゃっきゃっと喜ばれる。こっちは死んだ目で無理やりな笑顔だっていうのに、随分と楽しそうだ。


 「わー! ありがとうございます!」
 「みんなに自慢しちゃお」
 「かわいい男の子とチェキ撮れるなんて知らなかったから、めっちゃラッキーだったね」


 そして制限時間が迫っていたのか、チェキを確認した二人はるんるんと足取り軽く教室を出て行った。取り残されて、はぁ……と深く息を吐いていると、ぽんと肩に手が乗る。


 「委員長、荒稼ぎするぞ」
 「最低だよ、お前」


 グッと親指を立てて、にかっと笑う墨田の腹を肘で押して体を離す。そのまま隅の方に移動しようと歩き出せば、「不機嫌なメイドも案外需要あるぞ」と後ろから声が飛んできた。馬鹿みたいにとことん下衆な奴だと呆れてしまう。



 「え、男?」


 ホールのみんなを手伝うために全てを捨てる羽目になったんだ、仕事だけはちゃんとやろう。大変そうにしているところはどこだと、まずは状況把握からだと教室内をぐるりと見渡していれば、驚きに満ちた声が耳に入る。

 気まずいなと思いながらも確認すると、まだ何も置かれていない窓際の席にちょうど腰掛けようとしていた他校の男子高校生グループがこちらを見ていた。俺の視線が向いたからか、「おぉ!」と声が上がるのを無視して、おしぼりとカトラリーを持っていく。


 「メイドさん、かわいいね」
 「……どうも」
 「まじで男じゃん」
 「女装のクオリティすげーな」


 他校に来て、気が大きくなっているのだろうか。下品に騒ぎ立てる男たちに冷たい視線を送っていれば、それに気づいた一人が立ち上がる。


 「とか言って、本当は女なんじゃねぇの?」
 「は?」
 「付いてるかどうかは、見てみないと分かんねぇじゃん」


 蔑んだ目のそいつは、俺が唖然としている間にパッとスカートを捲った。短い丈はあっさりとスカートの中を晒す。ばっと慌ててスカートの裾を抑えるが、ばっちり中は見えただろう。


 「まじで男だったのかよ」
 「お前、それはまずいって」
 「下着も女性用だったらよかったのにね」
 「バカお前、こんな格好してボクサー履いてるのがいいんだろ」
 「きっしょ、お前の発想変態すぎるだろ」


 俺のことなんてそっちのけで、ギャハハと笑い声を上げるグループ。何が面白いのか、全く理解できない。男同士だからそこまで精神的ショックがないとはいえ、これが本当に女子だったらどうしていたんだと沸々と怒りが湧き上がる。けれど、こんな奴らも一応はお客さん。作り笑いを貼り付けて声をかけようとした、その時だった。

 ぐいっと腕を引かれて、大きな背中に姿を隠される。ドンッと壁を蹴る音が教室内に響き、騒がしくしていたそいつらは一斉に口を閉じた。


 「三枝、」
 「帰れよ」


 こんなに冷たくて、怒りに満ちた声を聞いたことがない。痛みを感じるほど、強く掴まれた腕。静かな物言いにビビったのか、教室にいる全員の冷ややかな視線を集めた他校生は何も言わずにその場から逃げるように去っていく。その姿を見送って、くるりと振り返った三枝は感情を全て消した顔で俺の手を引いた。


 「墨田、休憩もらうから」
 「どうぞご自由に」


 金にがめつい墨田だ、今三枝が抜けたらその分稼げなくなると分かっているだろうに、有無を言わせぬ圧に負けたのか、あっさりと許可を出した。三枝が俺の腕を引いたまま歩き始めると、みんな邪魔にならないようにサッと避けていく。


 「ちょ、待てって」


 俺まで抜けたら人が足りなくなるんじゃないか。長時間、あれだけの人に囲まれて対応するなんて精神的にも肉体的にも疲れるに決まっているから、三枝が休憩を取りたいのは分かる。けれど、俺は別にそこまで疲れてないし、さっきの奴らだって腹は立ったけど抜け出すほどのことじゃない。

 ずんずんと歩くスピードを緩めない背中に声をかけるけれど、三枝は聞く耳を持たなかった。執事服を着た三枝は相変わらず注目を集めているが、その表情はかなり厳しいものなのだろう、誰も声をかけようとする人はいなかった。

 ――パタン。
 静かにドアが閉まる音がして、階段を上りきった三枝がやっと足を止めた。図書室に二人で来るのは久しぶりな気がして、緊張が走る。駄目だ、この場所には思い出が詰まっている。そわそわして、落ち着かない。

 そんな俺を他所に、カーテンをシャッと閉じた三枝はくるりと振り返り、ふわりと俺を抱き締めた。突然の行動に驚いて、固まることしかできない。しかし、心臓の音がバクバクと大きくなって、これが三枝に聞こえるんじゃないかと思ったら、一刻も早くその腕の中から抜け出す必要があった。どうにか逃れようとじたばたと藻掻くけれど、更に腕の力を強くされて無意味に終わる。


 「三枝?」
 「…………」
 「俺なら平気だからさ、そんなに気にすんなって」


 名前を呼べば、肩に顔を埋められる。首筋に当たるサラサラの髪がくすぐったい。頭をぽんぽんと撫でて宥めるように話せば、三枝は「……許せない」と低い声で呟いた。


 「お前がそこまで怒ることないだろ」
 「……ある」
 「何を、」
 「あいつら、汚い言葉を吐いて、くるちゃんに触りやがった」


 俺以上に怒っているのが伝わってくるから頭が冷えてきて、スカートを捲られたときに感じた怒りはすっかりどこかへ消えてしまった。イヤイヤと首を振る三枝はまるで幼稚園児だ。もうこれは三枝が満足するまで諦めるしかないと、俺は肩の力を抜いた。相変わらず顔は熱いし、心臓はうるさいけれど、俺だってこの温もりから離れがたいと思ってしまった。



 「……お願いだから、俺以外に触れさせないで」
 「え?」
 「誰のものにもならないでほしい……」


 懇願するみたいに、ぽつりと溢れ落ちた言葉に耳を疑う。


 「くるちゃんに好きな人がいるのは知ってるけど、……俺じゃ駄目かな」


 だって、こんなの、まるで……。うまく言葉を返せなくて、固まることしかできない。思い浮かんでくる答えを必死に打ち消そうとする。期待して、間違っていたら傷付くのは自分だ。これ以上、三枝に振り回されたくない。


 「そういうの、ずるい」
 「え?」
 「……お前だって、好きな人がいるんだろ。だったら、俺にそういうこと言うのやめろよ」
 「まだ、わかんない?」
 「…………」


 ゆっくりと顔を上げて、やっと少し体を離した三枝と目が合う。澄んだ瞳に、なんとも言えない表情をした自分が映っていた。言葉にしなくたって、その瞳から三枝の気持ちが痛いほど伝わってくるから、期待と不安に胸が震える。その次の言葉を聞きたくて、でもやっぱり聞きたくない。


 「くるちゃんのことが好きなんだ」
 「……ッ」
 「……ごめんね」


 泣きそうな顔をしながらも笑って謝る三枝を真正面から受け止めたせいで、ぎゅっと胸を締め付けられる。そんなに苦しそうに謝られると、やっぱりこの恋は間違いだったんだって思ってしまうから、正直聞きたくなかった。


 「全部話したら終わりにする。もう何も望まないから、俺の話、聞いてくれる?」
 「……うん」


 頷く俺を確認した三枝が、階段の最上段に腰掛ける。こっちと隣を示されれば、俺もそれに倣うしかなかった。少しでも動けば、肩がぶつかりそうな距離の近さに息が止まりそうだった。

 今からこの恋の終わりを迎えに行く。三枝がもういいと言うのなら、わざわざ俺が引き止める必要はないんじゃないかって。三枝の隣は、俺みたいな男より、可愛らしい女の子が似合ってる。一時の気の迷いなら、ここでサヨナラをするのが正解だ。

 何から話そうかなと逡巡を巡らせていた三枝は、やがて穏やかな声で昔を懐かしむように話し始めた。


 「始まりは、入学式の日に通学電車でたまたまくるちゃんを見かけたこと。俺が同じ電車に乗って登校してたなんて、ずっとくるちゃん知らなかったでしょ」
 「……うん」
 「まだ入学したばかりで授業も始まってないのに、もう電車の中で勉強してるんだって、こんなに真面目な子が同級生なんだって、最初はただの興味だった。でも理由もなく、気づいたら目で追うようになって、同じ車両を選ぶようになって、今思えばストーカーだって通報されてもおかしくないことをしてた」


 今、初めて知る事実。三枝の存在に全く気づいていなかったから、そんなに前から俺のことを知っていたんだと驚きを隠せない。三枝のように注目を集めるようなタイプでもないし、周りの視線なんて気にしたこともなかった。

 せっかく入学できた進学校で勉強についていけなくて置いていかれるわけにはいかないと思ったから、とにかく必死だったのもあるかもしれない。たまに集中力が途切れることはあるけれど、電車の中では大抵単語帳と睨めっこしていたし、周りを見回す余裕もなかった。

 そこで、ふと思い出す。三枝が問題児と言われるようになった所以を。


 「じゃあ、前に言ってた授業をサボってたのも……」
 「そう。くるちゃんを見てた。今頃何してるのかなって、試しに空き教室に入ってみたら、ちょうどそこからくるちゃんの教室が見えて……。知っちゃったら最後、あそこに入り浸ってばっかだったなぁ。絶対に近寄れない分、遠くから見ているだけなら、この気持ちを大切にしていても問題ないかなって思ってた」


 三枝を問題児にしたのは俺だった。その事実に少なからずショックを受ける。そんなに気になっていたなら、声をかけてくれたらよかったのに。なんて、他でもない俺がそう思うのは、違う。軽々しく、そんなことを言うのは許されない。俺がその立場なら、三枝と同じことをしただろう。近づきたくても、近づけない。一方的な思いを抱くって、そういうことだ。



 「でも、それがまさか同じクラスになるなんて……。くるちゃんと初めて話した日のこと、覚えてる?」
 「うん、覚えてるよ」
 「ふふ、あの時の俺、内心めちゃくちゃ緊張してたんだよ。表にこの感情は出したら絶対に駄目だって、必死に平静を装ってた。少しでも気を抜いたら、気持ちが溢れちゃうって思ったから。……でも、やっとくるちゃんの視界に入れたんだって、すごく嬉しかったなぁ」


 随分と前のことなのに、今なお心底嬉しそうに話す三枝の声からいろんなものが伝わってきて、胸の奥がひどく痛む。熱いものがじんわりとこみ上げてきて視界が滲むけれど、三枝が気づいたら話を中断させて俺を心配するだろうから、歯を食いしばって必死に涙が零れ落ちそうになるのを堪えるしかなかった。


 「この際だから、全部白状するね。俺が副委員長に立候補したのも、下心があったから。くるちゃんはみんなの委員長だから、何にもしなかったらただのクラスメイトの一員になっちゃう。それだけは、どうしても嫌だった。副委員長になったら、委員長のくるちゃんとセット扱いされて少しでも近づけるんじゃないかなって、気づいたら手上げてた」
 「…………」
 「真面目に委員長やってるくるちゃんからしたら、こんなのが隣にいて気持ち悪いよね。くるちゃんが嫌なら、誰かに代わってもらうから、」
 「俺だって、別にやりたくてやってるわけじゃないけど……、委員長をやるなら三枝とがいいって思ってる」
 「ッ、ありがとう」


 震える声で感謝を述べる三枝の痛みが伝染する。三枝とじゃなかったら、押し付けられたクラス委員長なんて面倒な仕事はもっと退屈でつまらないものだっただろう。恋愛感情を抜きにしても、楽しいと思えたのは三枝のおかげだっていうのに、それを無視していなくなろうとするのは許せなかった。


 「お前が副委員長じゃなかったら、勉強を教えることもなかったかもな」
 「そうだね。俺にとって、放課後のあの時間は何よりも大切だった。くるちゃんのことを少しずつ知って、いろんな表情を間近で見て、好きだなぁって気持ちがどんどん大きくなってた」
 「…………」
 「でも、教える側のくるちゃんにとってはやっぱり負担だったのかなぁって、断られて初めて気づいたんだよね」
 「ちがう、負担になんか思ってなかった」
 「ふふ、くるちゃんは優しいなぁ」


 俺の否定を本気だと受け取ってくれないことが悔しい。だけど突き放したのは自分だから自業自得、被害者面するのはおかしい。


 「……体育祭の借り物競争のお題、まだ知りたいって思ってる?」
 「……うん」
 「『好きな人』だよ。こんなの、くるちゃんに教えられるわけがないよね。その時にはもう、この気持ちは死ぬまで秘密にしていようって決めてたから」
 「な、んで……」
 「だって、くるちゃんの迷惑になるでしょ。俺たち男同士だし、いつかくるちゃんはかわいいお嫁さんをもらって幸せな家庭を築く。その未来に俺がいていいはずがない」
 「…………」
 「だから、ごめんね。どうしようないぐらい、くるちゃんを好きでごめん。言わないって決めたのに、結局困らせてごめん。……それと、最後まで聞いてくれて、ありがとう。おかげで、全部、ぜんぶ、……ッ、手放せそう」


 ぽろぽろと三枝の瞳から零れ落ちた涙が、固く握り締められた手を濡らす。未練しかないって、途切れ途切れの言葉からもはっきりと分かるのに、それでも俺のために重たい恋心を捨てようとしているのだ。

 いつも飄々としていて、余裕があって、大人びている。それが俺の見てきた三枝だった。こんな風に誰かを思って、静かに涙を流す男だとは思っていなかった。

 俺に告白して、困らせたと思って後悔している姿に庇護欲が湧く。あまりにも大きな感情を抱えたまま、迷子みたいに彷徨っている。そんな三枝を愛おしいと思う。もらった愛を同じだけ、いや、それ以上にして返したいと思う。

 巻き込んでごめんって、未来で謝ることになるかもしれない。そうなったら、そのとき一緒に考えよう。他に何を捨てても構わないけれど、今、三枝のことだけは何がなんでも繋ぎ止めたいと心から思った。