今日は少し、遠回りして帰ろう【完】


 どうしようもない。
 そんな言葉がぴったりの甘くて苦い感情を持つようになって、どれだけの時が過ぎただろう。

 最寄り駅まで、およそ二十分。
 人混みをかき分けて、俺は定位置につく。
 
 電車に揺られながら、単語帳と睨めっこしている見慣れた姿。時々眠気に負けるのか、こくりと船を漕ぐのもご愛嬌。同じ制服を着た彼は、欠伸を噛み殺しながらページを捲る。

 かわいいなぁ……と頬がゆるむのもしかたない。
 毎日同じ姿を見つめているのに、彼はちっともこの視線に気づきそうにない。

 そういう鈍感なところも愛おしいと思ってしまうのだから、恋というのは恐ろしく不毛だ。だってそうだろう。何をしたって、同じ感情に行き着くのだから。

 ――俺に、気づいてほしい。
 幾度となくそう願ったのに、だけどやっぱりバレたくないとも思ってしまう天邪鬼。

 彼のことを目で追っていると、二十分なんてあっという間に過ぎてしまう。時計の針の進むスピードが、もう少しだけ遅ければいいのに。誰か電車止めてくれないかな。

 そんなことを考えているからか、神様は意地悪で、今日も今日とてきちんと定刻通りに電車は駅に到着した。

 単語帳に集中していた彼はハッと顔を上げる。周囲を警戒している小動物のようにキョロキョロと辺りを見回し、外の看板で学校の最寄り駅であることを確認するとバタバタと降車していく。

 胸が鳴る。熱が上がる。
 けれど、この衝動だけは電車の中に置いていく。

 この感情は、誰も知らなくていい。
 そう、君でさえ……。


 

 四月最初の登校日、それ即ちクラス発表の日。

 一年通って、すっかり乗り慣れた電車の中で英単語帳を開く。たまたま空いた席に座ることができて、今日はラッキーだ。

 高校二年生に進級した俺は、今日の重大イベントであるクラス発表に少しだけドキドキしていた。そのせいか、気が散ってしまってあんまり単語が頭に入ってこない。さっきから、同じところばかり繰り返し目で追っている。

 誰と一緒がいい、とか。
 あの人と同じクラスになりたくない、とか。
 そういうのは一切ないけれど、ただ普通に過ごせるクラスならいいなぁと思う。

 英単語そっちのけでそんなことを考えていると、車内アナウンスで、次が学校の最寄り駅だということを知らされる。結局、二十分間で一ページも進まなかった英単語帳をそそくさとリュックにしまった。

 同じ制服を着た生徒が数人、グループになって前を歩くのを追いかけながら、俺は一人でのろのろと学校へと続く一本道を歩いていた。

 学校が近づいてくると、自転車派やバス派、徒歩派も合流してどんどん登校している生徒の数が増えていく。


 「あ、委員長だ、おはよう!」
 「おはよ」


 学校の目の前にある交差点で信号待ちをしていれば、一年生の頃に同じクラスだった螺良(つぶら)が声をかけてくる。サッカー部のエースとして有名だが、今日は部活の朝練がなかったらしい。

 周りを取り囲んでいるメンバーも、きっとサッカー部の仲間なのだろう。圧倒的陽キャ集団のオーラが朝日のように眩しくて、目に染みる。



 「委員長と登校時間被るの珍しいね」
 「確かに」
 「あー、クラス発表ドキドキするなぁ」


 そのままサッカー部の連中と一緒に行くのかと思いきや、一緒に並んで歩き出した螺良は平然と会話を始める。一瞬、自分の感覚の方がおかしいのかと錯覚してしまうほど自然な行動。

 だけど、去年からこいつはそういう奴だった。
 一人でいる人を放っておけない、まさに太陽のような存在。


 「今年も委員長と同じクラスだったらいいなぁ」
 「……もう今は委員長じゃないけどね」
 「えー、そうなんだけど、委員長は委員長なんだよなぁ。名前で呼んだ方がいい?」
 「別に螺良が呼びやすい方でいいよ」
 「じゃあ、やっぱり委員長だ!」


 屈託のない、にかっとした笑顔を向けられると何でもよくなってしまう。

 一年生の時にクラス委員長を務めていたせいで、クラスメイト全員から「委員長」と呼ばれるようになってしまったのだけれど、進級して委員長の任を解かれてもこの呼び方は変わらないらしい。それほど馴染むあだ名をもらってよかったと喜ぶべきか、否か。

 うーんと考えていると、いつの間にか下駄箱前まで来てしまっていた。新しいクラス分けが書かれた大きな紙が張り出されていて、人集りができている。



 さて、お待ちかねの時間だ。
 二年A組から順番に自分の名前を探していく。

 枢木一織(くるるぎいおり)はどこだ。
 A組……ない。次はB組……ない。
 そして、C組…………、あった!

 自分の名前の少し後ろに螺良の名前も見つけて、ほっと息を吐く。彼がいれば、クラスの雰囲気が悪くなることはないだろう。


 「やったね、委員長! 今年もよろしく」
 「こちらこそ」


 ほとんど同じタイミングで名前を見つけた螺良がイェーイと差し出した手にグータッチを返せば、自分まで陽キャになったように錯覚してしまう。螺良って、すごい。周りを自分の色に染める天才だ。

 そんなことを考えていると、後からやってきてクラス分けを確認していた女子グループが突然「キャー!」と叫んだ。さながら、芸能人に遭遇したかのよう。興奮しているせいで、会話の内容も丸聞こえだ。


 「待って、(より)と一緒なんだけど!」
 「え、すご! 去年ずっと好きって言ってたもんね、おめでとう」
 「……隣のクラスだったら、体育は一緒だよね」
 「隣でもいいなぁ。私なんか、また窓から眺める組だよ」


 悲鳴の理由は、自分たちのクラスではないらしい。
 何をそんなに大騒ぎするほどのことが……、と思いつつ、自分には関係ないかと興味をなくしかけたときだった。螺良が渦中の名前を口にした。


 「あ、頼も一緒のクラスなんだ」
 「より?」


 顔が浮かんでこない名前に首を傾げていれば、今度は先程よりも大きな黄色い悲鳴が上がった。何だなんだと振り返れば、注目を一身に集めているにも関わらず、そんな周りのことなんて興味なさげに歩いてくるスラッと高身長の美男子。

 ――ぱちん。
 目と目が合って、「あ、」と思った瞬間、色のなかった彼の瞳が一瞬揺らいだように見えた。

 ん? と疑問に思っている間に、すぐにふいと視線を逸らされる。記憶の中を探ると、なんとなく見覚えがあるような気がするけれど、多分、話したことはないだろう。

 歓声の中心にいる相手にわざわざ絡もうという気も起こらない。クラスは分かったことだし、さっさと教室に行こうと思ったときだった。


 「遅刻もしないで、朝から来るなんて珍しいじゃん」


 螺良が一歩前に出て、親しげに話しかけた。
 顔の広い螺良のことだ、もしかしたら仲のいい友だちなのかもしれない。

 ……でもまぁ、俺には関係ないか。
 淡白な結論に至った俺は、美男子の方に歩いていく後ろ姿に声をかけた。


 「先に教室行ってる」
 「え!?」


 そもそも、一緒に登校しようなんて約束したわけじゃないし、なんか流れでここまで来ちゃっただけだから。誰かと一緒じゃないと嫌だなんて、そんなのは小学生で卒業したし、ただ教室に行くだけだ。一人で平気。

 そう思っていた俺は、すぐに足を止めて振り向いた螺良の表情に目をぱちくりさせた。


 「何でそんなつれないこと言うんだよ」
 「いやだって、仲良いなら積もる話もあるかなと思って……」
 「はぁ……、委員長って、いっつもそう!」


 螺良は頬を膨らませて、不満そうな態度を隠そうとしない。どうしてこんな観衆の目の前で、俺は朝っぱらからダメ出しされているのだろう。


 「俺なりに気を遣ったつもりだったんだけど……」
 「そんなのいらないから。何で同じクラスなのに別々に行こうとするのか、理解に苦しむわ」
 「螺良は同じだけど、その、」


 美男子はまだクラスを確認してないだろう。
 そう言いたいけれど、流石に本人を前にそんなあだ名で呼べるわけがなくて吃ってしまう。

 すると、言いたいことは伝わったのか、居心地悪そうにしている美男子の背中をバシッと叩いた螺良がニカッと笑った。


 「何だ、そんなことか。頼も同じクラスだから大丈夫! な、一緒に行けばいいだろ」


 えー、気まずい。すごく気まずい。
 ……とか、そんな本音を言ってはいけないことぐらい、俺でも分かる。

 リアクションに困っていると、ずっと黙ってやりとりを見守っていた美男子が口を開いた。


 「なんかごめんね」
 「いえ……」
 「『はじめまして』なのに、気遣ってくれてありがとう」


 やたらと「はじめまして」を強調された気がするけれど、これは果たしてただの気のせいだろうか。そう思うけれど、柔和な笑みを浮かべる彼につっこむ気力はなくて、再び「いえ……」と返すしかなかった。


 「え、二人はじめましてなの?」
 「うん、そうだよ」
 「…………」
 「マジ?」


 そんな俺たちのやりとりを傍で見ていた螺良の不思議そうな声に肯定を返せば、疑いの目を向けられるのは美男子の方。


 「だってお前、ずっと、」
 「三枝頼(さえぐさより)。これから同じクラスだし、俺とも仲良くしてね」


 何かを言いかけた螺良を遮るように、自己紹介を始める美男子、改め三枝。

 名前を聞いて「ああ、そうか」と納得する。さっき、女子が大騒ぎしていたのは、こいつのクラス分けを確認していたからだろう。

 今だって、ざわざわしている声と視線がうるさく感じるのに三枝だけは当たり前のようにしていて。こんなにも注目の的になっているところを見れば、納得する。俺の知らないだけで、どうやら三枝頼は学校一の人気者だったらしい。


 「どうも、枢木一織です。まぁ、それなりによろしく」
 「ふふ、それなりに、か……」


 そんな三枝と連む未来が見えなくて、作り笑いでやんわりと遠回しに誤魔化せば、笑われてしまった。その顔が少し憂いを帯びていて、美男子はどんな表情をしても絵になるなぁと、そんな顔をさせた当事者なのに他人事のように考えていた。



 結局、三人で向かうことになった教室。廊下でも階段でも、すれ違う生徒の視線は隣に並ぶ男に釘付けだ。そんな彼を見上げると、あまりの顔の整い方に感心すらしてしまう。


 「なに?」
 「いや、綺麗な顔してるなぁと思って」
 「……そんなに見られたら恥ずかしいんだけど」
 「あ、ごめん」


 まじまじと見すぎたか。
 思った通りのことを伝えれば、ふいと顔を背けられる。

 顔を見れなくなったのが少し残念だった。けれど、三枝がどんな表情をしているかは分からなくても、その耳が赤く染まっていて、かわいいとも思った。

 三枝の奥で、螺良がニヤニヤと全てを掌握してますみたいな顔をしているのが何故かイラッとしたけど、触れたら負けだと思って何にも言葉はかけなかった。

 そんなこんなでやって来た、二年C組の教室。
 進級した初日ということもあるからか、廊下の時点でなかなかに騒々しかったけれど、多分一番盛り上がっているのがこの教室だ。

 理由は明白、隣に立つこの男が原因だろう。
 自分は関係ないかとさっさと教室に入ってしまって、座席表を確認する。

 窓側から二列目の一番後ろの席。
 見慣れた顔に挨拶しながら席に向かう。
 リュックを開けて荷物を出していれば、隣の席の椅子を引く音がする。

 隣は誰だろうと顔を上げると、綺麗な微笑を浮かべた三枝が隣の席に座ってこちらを見ていた。頬杖をついているのも様になっていて、雑誌から切り取ったみたい。


 「よろしく、お隣さん」
 「うん」


 どうも、とよそよそしく会釈して、荷物の整理に再び取りかかる。壁を作りたいわけじゃないけれど、今まで絡んだことのないタイプだからどう接するのが正解なのか分からない。まだ視線を感じるけど、あえて気づかないふりをした。



 すると、オラついている不良集団が隣の席に群がり始める。人気者は何もしなくても輪の中心にいるんだと、分からされた気がした。


 「頼じゃん、おはよー」
 「初日から登校するとか、今年は優等生にでもなんの?」
 「いやどうせ授業始まったら来なくなるに一票」
 「はは、確かに! 担任泣くぞ〜」


 笑い声の真ん中で、何も言葉を発さない三枝。そんな態度を気にすることなく、彼の話で盛り上がる周り。

 話の内容が日常会話のようなものならよかったけれど、少し棘というか、悪意みたいなものを感じてしまって、無意識に眉間に力が入った。

 聞いているだけの俺でさえ、馬鹿にしているのかと不愉快になるのに。話のネタの張本人である三枝は何も言わずにぼーっとしているだけだった。

 虚しい。三枝の人気に肖ろうという魂胆が見え透いている。こんな奴らに毎日囲まれるぐらいなら、そりゃ教室にも行きたくなくなるよなと納得した。


 「また頼と同じクラスでラッキーだわ」
 「今年は去年よりも登校日数増えるか、賭けでもする?」
 「あの!」
 「あ?」


 心の中を靄が覆っていく。さっきまでの晴れやかな気持ちはどこに行っちゃったんだ。

 理由なんてないまま、気づいたら声を出していた。視線を落としていた三枝が目を丸くしてこちらを見ている。

 そんな三枝の周りは、突然割り込んできた部外者に苛立ちを隠そうともしない。振り向いた目は鋭かったけれど、俺を確認すると「なんだ」と力を抜いた。


 「あー、誰かと思ったら元A組の委員長か」
 「もう先生来てるので席についてください。貴方たちが座らないと、ホームルームを始められません」
 「おー、怖。ちょっと喋ってただけなのに、これだから真面目くんは」
 「早く座りなよ」
 「何だよ、頼まで真面目ぶっちゃって。分かったよ」


 教壇の前でおろおろしている、去年も担任だった桃ちゃん先生こと桃山先生が目に入って注意すれば、その目にまた苛立ちが宿る。

 俺らに向かって舐めた口、利いてんなよ。そう目が言っている。ふざけた口調をしているけど、「俺らに指図すんな」と思っているのは火を見るより明らかだった。

 けれど、そんな彼らに鶴の一声。三枝が落ち着いた声で端的に注意すると、周りは大人しく自分の席に戻っていった。