すると、オラついている不良集団が隣の席に群がり始める。人気者は何もしなくても輪の中心にいるんだと、分からされた気がした。
「頼じゃん、おはよー」
「初日から登校するとか、今年は優等生にでもなんの?」
「いやどうせ授業始まったら来なくなるに一票」
「はは、確かに! 担任泣くぞ〜」
笑い声の真ん中で、何も言葉を発さない三枝。そんな態度を気にすることなく、彼の話で盛り上がる周り。
話の内容が日常会話のようなものならよかったけれど、少し棘というか、悪意みたいなものを感じてしまって、無意識に眉間に力が入った。
聞いているだけの俺でさえ、馬鹿にしているのかと不愉快になるのに。話のネタの張本人である三枝は何も言わずにぼーっとしているだけだった。
虚しい。三枝の人気に肖ろうという魂胆が見え透いている。こんな奴らに毎日囲まれるぐらいなら、そりゃ教室にも行きたくなくなるよなと納得した。
「また頼と同じクラスでラッキーだわ」
「今年は去年よりも登校日数増えるか、賭けでもする?」
「あの!」
「あ?」
心の中を靄が覆っていく。さっきまでの晴れやかな気持ちはどこに行っちゃったんだ。
理由なんてないまま、気づいたら声を出していた。視線を落としていた三枝が目を丸くしてこちらを見ている。
そんな三枝の周りは、突然割り込んできた部外者に苛立ちを隠そうともしない。振り向いた目は鋭かったけれど、俺を確認すると「なんだ」と力を抜いた。
「あー、誰かと思ったら元A組の委員長か」
「もう先生来てるので席についてください。貴方たちが座らないと、ホームルームを始められません」
「おー、怖。ちょっと喋ってただけなのに、これだから真面目くんは」
「早く座りなよ」
「何だよ、頼まで真面目ぶっちゃって。分かったよ」
教壇の前でおろおろしている、去年も担任だった桃ちゃん先生こと桃山先生が目に入って注意すれば、その目にまた苛立ちが宿る。
俺らに向かって舐めた口、利いてんなよ。そう目が言っている。ふざけた口調をしているけど、「俺らに指図すんな」と思っているのは火を見るより明らかだった。
けれど、そんな彼らに鶴の一声。三枝が落ち着いた声で端的に注意すると、周りは大人しく自分の席に戻っていった。
「……ごめん」
三枝をあの輪の中から救い出したくて、だけど結局自分一人じゃ何もできなかった。やっと始まったホームルームの最中、小さな声で謝れば三枝は目をきょとんとさせる。
思い上がってんなよ、俺。
俺が口を挟まなくとも、三枝は一人であの場をやり過ごすことができたはずだ。なんか、独りよがりの偽善だったなと思ったら、無性に恥ずかしくなって視線を逸らした。
――くいっ。
突然、右手の袖を引っ張られる。
何だと思って見ると、不満そうにきゅと口を結んだ三枝がこちらをじとりと見ている。
「ありがとうぐらい言わせてよ」
「……」
「嬉しかった」
何も言えない俺に、そう笑いかける男のことをまだよく知らない。だけど、他人をよく気にかけていて、優しくて。顔が良いから人気というわけではないことは、出会ってすぐの俺でもよく分かった。
三枝は、何でも一人でできるタイプの人間だ。
友人とはまだ言えない、ただのクラスメイト。それなりに距離を保ちつつ、困っている時は寄り添える人になりたいと思った。
――……そう、思っていた時が俺にもありました。
進級して、一週間が経った。
木曜日の六限目、LHRの時間。
「今日はこのクラスの委員と係を決めます」
桃ちゃん先生がそう言うと、クラスは一斉に沸き立った。女子は仲の良い友だちと目配せし合って、男子は「お前、何する?」と声を張り上げる。
俺は別に何でもいいなぁ。
去年委員長をやったのだって、誰もやりたがらなくて全く決まらなかったからだ。流れに身をまかせようと静観していると、隣から視線が突き刺さる。
「何やるか決めた?」
「さぁ……、何でもいいかな」
「ふーん」
自分から聞いてきたくせに、つまらない返事に興を削がれたのか、三枝は頬杖をついて前に向き直った。
「まずはクラス委員長、やりたい人は手を挙げて」
「…………」
桃ちゃん先生の言葉に、さっきまで大騒ぎしていたクラスメイトは一斉に口を閉ざす。しーんと静まり返った教室。下手に口を開けば槍玉に挙げられる、それをみんな分かりきっているのだ。
「立候補する人はいないか……」
桃ちゃん先生が残念そうに教室中を見回す。ぱちんと目が合った気がして、去年も泣きつかれたことを思い出した。
「じゃあ、この人がいいんじゃないかって推薦できる人は? 一週間も過ごせば、クラスメイトの人となりぐらい先生より分かっているだろう」
これまた口を開きにくいことを言う。友だちの名前を出せば裏切ったのかと後の友情に響くし、逆に全く絡んだことのない名前を出せば嫌がらせと思うだろう。
そんな状況で名前を挙げるのは――……
「枢木がいいと思いまーす」
そうだよな、お前たちは俺のことを嫌ってるもんな。
悪意があからさますぎて、最早笑えてくる。
やってやったぞと謎の達成感に包まれ、ドヤ顔でこちらを見てくるのが正直鬱陶しい。三枝の取り巻きたちは、どうしても俺に一泡吹かせたいらしい。
「枢木、どうだ?」
「まぁ、他にいないならやってもいいですけど」
「他に推薦したい人がいれば、手を挙げて」
桃ちゃん先生の声に反応することなく、クラスメイト全員が視線を逸らすばかり。
「じゃあ、枢木に決定。みんな、拍手!」
「あの、先生。一つだけいいですか」
「うん、何だ?」
「推薦された側だけが役職につくのは不公平なので、推薦した人も何か委員会に入るべきだと思います」
真面目くさった顔でそう言うと、隣から噴き出す音が聞こえた。
去年もやったし、別に委員長をやりたくないわけじゃないからどうだっていいのだけれど。ニヤニヤした顔で、わざとらしく拍手している奴らが気に食わない。
誰もやりたがらない役職に就いたのだから、というのを建前にすれば、周りも「確かになぁ」と頷いた。
「委員長がこう言ってるんだし、風紀委員とかやっとけば」
「あ、いいじゃん」
「俺も螺良に賛成!」
最初に乗っかってきた螺良の言葉に「賛成」の声が繋がる。隔週で早朝に登校して、生徒の制服チェックをしないといけない風紀委員は、委員長の次に圧倒的不人気だ。
「じゃあ、風紀委員も決まりだな。よろしく」
反論する暇もないまま、決まってしまった風紀委員という役目に、先程までとは打って変わって肩を落とす取り巻きその一、改め味田。
そんな彼の様子を気にすることなく、呑気な桃ちゃん先生は話を進める。
「風紀委員が味田に決まったところで、次は副委員長だね。やりたい人、いるかな」
「はい」
また誰も手を挙げないと、思っていた。
さっきの流れを見て、どうせくじ引きで決めることになるだろうと、多分みんなが思っていた。
いつものように頬杖をついたまま、やる気なさそうに手を挙げたのは、三枝だった。驚きのあまり、隣を凝視してしまう。
「え、頼が副委員長なら委員長やってもよかったじゃん」
「だよね、今からでも変えてもらえないかな」
前の方の席で女子がひそひそと話している。予想外の立候補に混乱しているのがよく分かった。状況についていけてないのは女子だけじゃない、俺だってそうだ。
「お! 三枝、副委員長やってくれるか?」
「はい」
「じゃあ、三枝に決定! 拍手!」
戸惑いの疎らな拍手の中、俺の方を向いた三枝はその美しい顔に笑みを浮かべて囁いた。
「よろしくね、くるちゃん」
「……くるちゃん?」
初めて言われた、馴染みないあだ名を反芻する。
すぐに前に向き直った三枝は、さっきよりもずっと機嫌が良さそうだった。
そうして、LHRが終わり、全ての委員会と係が決まった。体育委員に決まった螺良が、唇を尖らせながら俺の席までやって来た。
「何その顔、体育委員やりたかったんじゃないの?」
「やりたかったけど、そうじゃない」
「んー?」
「俺が腹立ってんのはあいつら」
そう言う視線の先は、まだ落ち込んでいる味田を元気づけようとしている集団。最早、三枝の取り巻きというより、味田軍団だろという気がするのはこの際置いておこう。
「委員長が今年も変わらず委員長なのは俺もしっくりきてるけどさ、あいつらのやり方は納得いかない」
「螺良……」
「委員長がやり返したの見て、ちょっとすっきりしたけどね」
「ありがと」
いつも明るくて、誰にでも優しい螺良がここまでなるのは珍しいと思ったら、俺のために怒ってくれていたらしい。他人のためにここまで怒れる螺良は、やっぱり良いやつだ。
「それにしても、頼が副委員長やると思わなかったからびっくりしたんだけど。前からそうするつもりだったの?」
「いや……」
螺良にツッコまれて、何故か気まずそうに視線を落とす三枝には俺も立候補した理由を聞きたかった。
この一週間、授業に全く参加しないと聞いていた三枝は、毎日休むことなく教室に顔を出していた。新学期が始まってまだ五日しか経っていないのに、百パーセントの出席率を確認した職員室では、歓喜の声が上がったとかいう噂まである。
どれだけ問題児扱いされてたんだと呆れそうにもなるが、いろんな人から「不良だ」「問題児だ」と言われている三枝にとって、委員会なんてめんどくさいものは参加する気さえ起きないものだと思っていたのに。どういう心境の変化なのだろうか。
「じゃあ、何で急に立候補したのさ」
「……くるちゃんが委員長だっていうから、釣られたというか、気づいたら手挙げてたというか」
「俺?」
「はーん、そういうことね。分かった、分かった」
耳を赤くした三枝が、手で口元を隠しながらぼそぼそと小さな声で言い訳をするみたいに白状するけれど、その理由に更なる疑問が追加される。しかし螺良は納得したのか、訳知り顔でニヤニヤ頷くと、満足そうにしながら自分の席に帰っていった。
「どういう意味……?」
「ほら、くるちゃん。先生来たから、号令」
「お前なぁ……」
俺だけ意味が分かってないのも、なんかムカつく。けれど、問いただそうとしたところで、桃ちゃん先生がSHRを始めるためにタイミング悪く教室に入ってくる。
話題を逸らされた先が委員長としての役目なら、俺はそれを甘んじて受け入れるしかなかった。そんな俺の扱い方がバレているのも、俺ばっかり知らないことだらけなのが明白になったようで、ちょっぴり不愉快だった。
「起立」
不機嫌にそう声を上げる俺の隣で、三枝は下を向く。そんな彼がじんわりと広がる喜びを必死に隠そうとして、けれど口角が勝手に上がってしまうのを止められずにいたなんて、俺は全く知る由もなかった。
理由は何も分からないが、どうやら俺は三枝頼という問題児であり、人気者でもある彼にいつの間にか懐かれていたらしい。
一年生の頃は全く授業に出ていなくて、進級するための出席日数がギリギリだったというのに、今年の三枝は真面目に授業を受けている。提出物もちゃんと出しているようだし、午前中は気だるげにしているものの、遅刻するようなこともなかった。
最初は気まぐれかと疑っていた教師陣も、一ヶ月もそんな態度が続けば心を入れ替えたのだと、素直に感激する他なかった。
問題児卒業かと思われた三枝だったが、俺はその行動に疑問を抱く場面に遭遇していた。授業中、不意に隣から視線を感じるときがある。そんなとき、ちらりと盗み見れば、なんとも形容し難い表情で俺のことを見つめている三枝と高確率で目が合うのだ。
「なに?」
「……なんでもない」
分からない箇所があって、聞きたいことがあるのか。忘れ物をしたから、教科書を見せてほしいのか。何かしら理由があってこちらを見ているのだろうと思って小声で尋ねても、きゅと口を結んだ彼は曖昧に微笑んでまた黒板の方を向き直るばかり。
一回ならまだしも、それが何回も続くと疑問は募るばかりで、心の奥がむずむずしてたまらない。俺と話したくないから誤魔化されているのか、つまりそれって嫌われているのだろうかとも思ったが、休み時間になると別人のように「くるちゃん」と絡んでくるからそういうわけでもないらしい。
二重人格かと疑いたくなるほどの変わり様。三枝頼という人間の扱い方が分からない。気づけば学校だけじゃ飽き足らず、家でも三枝のことを考えるようになってしまった。認めたくはないが、頭の中の七割を占める悩みの種。だけど、三枝のことで悩んでいると本人にバレるのは癪で、俺は何も気にしていない風を装って、ポーカーフェイスを貫いていた。
そんなある日、ちょうど定期考査が近づいてきたときのことだった。
「あ、枢木」
「何でしょう?」
「実は、一つ頼みがあって……」
SHR後、掃除当番に割り当てられていたため、教室の掃き掃除をしていると桃ちゃん先生に声をかけられた。
満面の笑みを浮かべているのは、何かよからぬことを頼もうとしている証拠だ。去年、面倒事を押し付けてくるときに何度も見た表情だから、瞬時に察して身構えてしまう。げんなりしているのが顔に出ていたのか、桃ちゃん先生は苦笑して首を横に振った。
「違う違う、そんなに悪いことじゃないから!」
「桃ちゃん先生のそれは当てにならないんですよ」
「くぅ……、自業自得だから何も言えない……」
「まぁ、いいですよ。話ぐらいは聞きます」
先生と生徒の立場が逆転しているのは、きっと傍から見ても気のせいではない。大袈裟にため息を吐いてから、居住まいを正す。
「枢木って、三枝と仲良いだろう?」
「いや、」
「今年の三枝はやる気みたいだからさ、定期考査前に勉強見てやってくれないかな」
いつの間に仲良い判定されるようになったんだ。俺は友人未満の関係だと思っていたのに、周りからはそう思われていなかったのが何となく居心地が悪い。
否定の声も聞こえないほど、桃ちゃん先生には俺たちが仲良く見えているのか。お願い! と手を合わせる桃ちゃん先生の目は真っ直ぐで、そこに濁りはなかった。
「はぁ……、今回だけですよ」
「枢木!」
「もし三枝が来なかったら、俺も次の日から教えるのやめますからね」
「それは大丈夫! 絶対行くと思うから! 三枝には俺から伝えておくね」
何を根拠にそこまで三枝のことを信頼しているのか、と思ったけれど、そういえば桃ちゃん先生ってこういう人だった。疑うことを知らない、純粋な善人。
問題児って、そんな簡単に治らないと思うけど。そんな偏見を抱きながら、教師なのにバタバタと廊下を走っていく桃ちゃん先生の後ろ姿を見送った。
翌日、チャイムが鳴る前に登校してきた三枝はいつものように「おはよう」と挨拶してから自分の席についた。桃ちゃん先生からまだ何も聞いていないのだろうか。あまりにも普通な態度になんだか拍子抜けしてしまう。
いや、やっぱり、やる気ないんじゃないか。授業に出るのと、放課後に学校で勉強するのは、ちょっと違うだろう。
もしも三枝が来なかったら、……まぁ、その時はその時に考えよう。今は授業に集中だ、とまた今日も隣から遠慮なく突き刺さる視線の圧を無視しながら、真面目に勉学に励んだ。
そしてあっという間にやってきた放課後、静まり返った図書室。二階の奥の方にある席でテスト範囲をまとめていると、目の前に人影がひとつ。
何か用があるのだろうかと、その頃にはすっかり三枝のことなんて忘れていた俺は顔を上げ、その人物を確認して思わず口をポカンと開いた。そんな間抜けな顔を真正面から受け止めた三枝は、子どもみたいな顔で笑っていた。
「勉強教えてくれるなら、先に場所ぐらい言っておいてよ」
「……まじでやる気あったんだ」
「失礼だな」
「ごめん……。正直、来ないと思ってた」
端から期待していなかったのが本音だ。いくら態度が改善されたからといって、授業に出るようになったのは、そうすると決めた本人の意思があったから。
担任からの話だからといって、あの三枝がまさか放課後まで勉強に費やすなんて信じられなかった。いつもすぐに帰ってしまうのに、どうして。
驚きを隠せないまま、目の前に腰掛ける三枝に謝ると、彼は気まずそうに笑った。そんな顔をさせたいわけじゃなかったのに。心の中がモヤモヤと曇っていく。
「ううん、そう思われてもしかたないって分かってるから……」
「あー、去年授業に出てなかったのって、体調がよくないとか、家庭の事情とか、そういうのっぴきならない理由じゃないんだろ?」
「まぁ……」
「ふーん、じゃあいいじゃん」
「え?」
「詳しいことは知らないし、別に聞く気もないけど、学校に来るのがしんどいとかじゃなくて、自分でそうするって決めたことなら何だっていいんじゃないって、ただ俺はそう思っただけ」
例えば、クラスが合わないと感じて教室に行くのが億劫になっていたのだとしたら、今年はそうならないように委員長として助けになりたい。
まだそこまで仲良くなったわけじゃないし、それなりの関係は継続したいけれど、それとこれとは話が別。首を突っ込んだなら、最後まで面倒を見る。無責任に放り出すのは俺の信念に反するから。
まぁ、要領のいい三枝なら、俺の手なんか必要とせずに一人で何だってできるのだろうけれど。悩みぐらいなら吐き出す場所になれるだろうか。
「……くるちゃんはずるいよなぁ」
うーんと考えていれば、俺の言葉を聞いた三枝が机に突っ伏しながらもごもごと呟くけれど、ほとんど何を言っているのか聞こえなかった。
「なんて?」
「学校には来てたんだよ、俺」
「そうなんだ」
「そう。屋上とかも行ったけど、三階の空き教室にいることがほとんどだったかな」
「へー、そこで何してたの?」
ただの好奇心で尋ねると、三枝は昔を懐かしむように柔らかな笑みを浮かべた。たっぷりの沈黙の後、瞳に甘さを孕んだまま、ただ俺だけを見据える。
「…………好きな子を見てた」
あまりの衝撃発言に、再び口をポカンと開けたまま何も言葉を返せない。
「ふは、すごい顔」
「いや、だって、そりゃ驚くだろ」
「ごめんごめん」
笑われてからようやく口を閉じることには成功したけれど、脳の処理は追いついていない。動揺していることぐらいバレバレなはずなのに、吹っ切れた三枝は話を止めようとしなかった。
「俺に好きな人がいるのって、そんなに変かな」
「いや、お前だったら彼女の一人やふたりいてもおかしくないだろうけど」
「それはそれで心外だなぁ」
「……告白とかすればよかったじゃん」
そう言うと、三枝は寂しそうに視線を落として首を振った。
「見てるだけでいいって、思ってたから」
「え?」
「そりゃもちろん面と向かって話したりしてみたかったけど、そんな気持ちより恐怖の方が大きかったんだよね」
「恐怖……?」
「好きにもいろいろあるんだよ」
好きなのに、話しかけることの何が怖いのだろう。恋愛初心者の自分にはよく理解できなくて、三枝が複雑な感情を抱いていることしか分からない。
「当時は抱えてる感情が好きだけじゃ収まらなくて、暴走しそうだったから。相手を怖がらせて傷つけるぐらいなら、離れてた方がいいでしょ」
「……それでも、そんなに好きならいっその事、言っちゃえばよかったのに」
「そうかもね。でも、それが俺にとっての愛の形だったんだよ」
学校中の女子に告白されているこの男に、これほどまでに思われている人って一体何者なんだ。今年から空き教室に行かずに自分の教室で大人しく授業を受けているということは、もうこの学校にはいないのだろうか。次々に浮かんでくる疑問が思考を邪魔して、さっきからちっともページが変わっていない教科書の内容なんて全く入ってこない。
俺だけが半ばパニックで、三枝はいつも通り余裕の表情。窓の外を眺めて頬杖をつく姿が大人びて見えて、目の前にいるはずの三枝を遠く感じた。
「今でも好きなの?」
「……もちろん」
「っ、」
柔らかな笑顔で頷く三枝に何故か少し胸の奥が軋んで、何故か俺が泣きたくなった。だって、こいつがあまりにも優しい顔で笑うから。大好きなんだって、その表情から伝わってくるから。
「くるちゃんはそんな顔しないでよ」
三枝の手が伸びてきて、少し伸びて目にかかるようになった前髪を震える指先で払う。駄目だよ、三枝。そんな風に優しく触れられたら、きっと誰だってお前に恋してしまうから。
「別に、元からこんな顔だし」
なんだか無性に顔が熱くなって、視線をばっと窓の外に移した。俺と三枝、友人未満の関係のはずなのに、どこか空気が甘ったるい感じがして、落ち着かない。
だって、こんなの、俺たちには似合わないだろう。この状況をどうにかしようと、俺は敢えてふざけた口調で話しかけた。
「つーかさ、何で急に勉強しようと思ったわけ? お前、テスト勉強やるようなタイプじゃないだろ」
「はは、やっぱ俺ってそういう風に思われてるよね」
「まぁ、うん」
「そろそろちゃんとしなきゃと思ってさ。後悔したくないから、全部ちゃんとやるって決めただけ」
その瞳に強い意志を覗かせて、三枝はにっと笑う。
「どうせ受験するなら、好きな子と同じ大学がいいじゃん」
「うーん、そうかな。まだあと二年もあるのに、ずっと好きでいるかなんて分かんないと思うけど」
「好きだよ、ずっと」
「っ、」
間髪入れずにさらっとそう言われて、自分が告白されたわけじゃないのにドキッと心臓が跳ねた。顔がいい男の真顔は圧がある。