――翌日。
二人と一匹は、クレイダー九十九号の大掃除をしました。
列車の中はもちろん、窓や外側のボディまでピカピカに磨き上げます。
長い旅によりくすんでいた白い車体は輝きを取り戻し、周りの景色を反射するまでになりました。
一両目、クロルの部屋だった場所から僅かな私物を運び終えたところで、時刻はまもなく午後五時。あっという間に出発時間です。
「………………」
クロルは最後に、部屋の中を見回します。
不慣れな料理を覚えた小さなキッチン。
狭いけど、世界で一番寝心地の良いベッド。
そして、リヒトさんや、リリアやポックルと食事をした丸いテーブル。
「…………ありがとう」
そう、小さく呟いた直後、
「おーい! おーい!!」
ふと、列車の外から元気な声が聞こえてきます。
リリアとポックルと共に降りてみると、キリクがこちらへ駆けて来ました。ウドルフや、同じクラスのみんなも集まってきます。
「昨日はありがとう! 結局どうすることにしたのかなって、気になって来ちゃった」
「この街に残ることにしたのか?」
キリクとウドルフが、リリアに向かって交互に尋ねます。
「えっと、実は……」
彼女が戸惑いながらクロルの方を見ると、
「――僕なんだ」
クロルが一歩、前に出ます。
そして……意を決したように、その背からリュックを外しました。
現れた真っ黒な羽を見て、キリクもウドルフもみんなも、口を開いたまま言葉を失います。白以外の色の羽を見るのは初めてだったのです。
――やっぱり、ここでも受け入れてもらえないのかな。
キリクたちの反応に、クロルはあの時のことがフラッシュバックしそうになります。
しかしそれを振り払うように、クロルはバッと顔を上げて、
「――この街で暮らしたいのは、僕なんだ。僕を……みんなの仲間にしてほしい!!」
そう、叫びました。
それはリリアも聞いたことのないくらいに大きくて、はっきりとした声でした。
みんなは、やはり唖然とした表情を浮かべています。
リリアもポックルも、固唾を飲んでそれを見守っていました。
――やがて。
「……か」
キリクが、口を開いたかと思うと、
「かっこいい!!」
突然、大声でそう言ったので、クロルは驚いて仰け反ります。
しかしキリクは、前のめりでクロルの羽を覗き込み、
「黒いのなんて初めて見た! いいなーかっこいいなぁー! 漫画の主人公みたい!」
思いがけない反応に、クロルは目をぱちくりさせます。
さらに、ウドルフまで目を輝かせ、
「うん……黒い方が、男らしくていいな!」
などと言います。
みんなもクロルを取り囲んで、黒い羽をまじまじと見つめました。
その状況が、なんだか可笑しくて。
自分が怖がっていたのが、馬鹿らしくなってきて。
「はは……あはははは」
一気に緊張が解け、クロルは涙を流しながら大笑いしました。
突然笑い出したクロルに、キリクとウドルフはぽかんとしますが……
リリアとポックルは、微笑んで顔を見合わせました。
「……よかったね、クロル」
リリアが呟いた、ちょうどその時。
――ゴーン……ゴーン……
午後五時を告げる鐘が鳴り始めました。
クレイダーの出発時間です。
その鐘が鳴ると同時に、
「――クロル!」
リリアに呼ばれ、彼は振り向きます。
が、その瞬間に頭のキャスケット帽を彼女に奪われました。
そしてそのままリリアは自分の頭にそれを被り、軽やかに列車へ乗り込みます。
クロルはそれを、はっとした表情で見上げました。
「リリア……ひょっとして……」
彼女は明るい笑顔を浮かべて、
「うん。私――この街では降りない」
凛とした声で、答えました。
「……クロルのことは大好きだよ。本当は離れたくない。だけど……ここで降りることを決められるほど、私はまだ世界のことも、自分自身のこともわかっていない。だから、それを……これから見つけに行きたい」
青く澄んだ、真っ直ぐな瞳。
彼女は、出会った時からずっとそうでした。
その素直さが、潔さが、強さが……
クロルの目にはいつも、キラキラと眩しくて。
「……うん。わかった。僕もリリアのことが大好きだよ。だから、君が君らしく生きられる街を探して。本当に……本当にありがとう」
その言葉に、リリアの顔が少し泣きそうに歪みます。
クロルは、優しく微笑んで、
「――こんなことを言ったら君を傷付けるかもしれないけれど……僕にとって君は、神さまが使わせてくれた天使だったよ。僕だけは君を、特別に――"天使"って呼んでもいいかな?」
クロルの言葉に、リリアは一瞬驚いた顔をしますが……
涙を一筋、頬に流して、
「……だったら、クロルも私の"天使"だよ。世界でたった一人、黒い羽を持つ、私だけの"天使"!」
精一杯の笑顔を浮かべ、そう言いました。
まもなく鐘が鳴り終わります。
ポックルもぴょんと列車に飛び乗りました。
いよいよ出発の時間が迫ります。
「ねぇ、クロル。羽があっても自由に生きられるってことを、私がこれから証明してあげる! だから……だからいつか、探しに来て。その場所で、自由に生きる私を!」
その言葉に、クロルは精一杯声を張り上げて。
「いつか! いつか僕が、あの街を乗り越えられるくらいに強くなったら……探しに行くよ。クレイダーに乗って。君たちが住む街を。絶対に!」
リリアは、微笑みを返します。
その横で、ポックルも、
「それまではニンゲンの言葉、忘れニャいでいてやる。……ニャるべく早く来いよ」
と、しっぽを揺らして告げました。
ぷしゅーっ、と音を立て、二両目のドアが閉まり……
リリアは、一両目の運転席に向かいます。
そして、クロルがいつもやっていたように運転レバーをゆっくりと引きました。
ガタン、と揺れて、列車はゆっくりと走り出します。
窓の外を見ると、クロルが走って追いかけて来ていました。
リリアも窓に駆け寄ります。
けれど、すぐにホームの端に行きつき、クロルは足を止め……
あっという間に、その姿は見えなくなりました。
さっきまで、あんなに近くにいたのに。
やっと、彼のことがわかったのに。
もう声を聞くことも、触れることもできません。
けれどこれは、自分で走らせた列車。
終着駅に着くまで、走り続けなければなりません。
リリアは、窓に額を付けながら。
「――待ってるから」
小さく、呟きました。
* * * *
――それから、約一ヶ月後。
「――元気でね。ポックル」
ポックルは、自然がそのまま残された"保護区"と呼ばれる街で降りることを決めました。
別れの時、彼は一度だけ振り返り、
「……ニャアアォ」
と鳴いて、森の中へと去って行きました。
「……さて」
いよいよ、リリアは一人になってしまいました。
これから訪れる街は、どんなところなのでしょう。
と、クロルのようにガイドブックを広げ……ようとしたところで、リリアは手を止めます。
……ガイドブックを見ずに廻ったほうが、楽しいかもしれない。
リリアはそっと、それを本棚に戻しました。
――いつか。
いつか、住む街を決めて、暮らして、そこでの生活に退屈してきた頃に……
きっとあなたは、来てくれる。
あの日観た、映画のように。
だから、それまでは、自分の物語を進めよう。
いつかまた、あなたの物語と交わることを信じて。
「――すみませーん。列車に乗りたいのですが」
ふと、二両目の方から声がします。
どうやら初めてのお客さんのようです。
「えっと……ええっと……」
どうしよう。
クロルはこんな時、どうしていたっけ。
ああ、そうだ。確か――
リリアはキャスケット帽をキュッと正し、ドアの前に立ちます。
それから、意気揚々と、こう言いました。
「ご乗車ありがとうございます。クレイダー九十九号車、運転手のリリアです!」
彼女の列車は、まだ走り出したばかりです――