――それから僕は、リヒトさんと様々な街を廻った。
最初に訪れた街――隣街に降りた時、すぐに「悪魔が来た!」と騒ぎになった。
それに僕は傷付きながらも、どこか諦めた気持ちでいたけれど、リヒトさんが一言、
「悪魔なワケねーだろ。よく見ろ。ただの人間の子どもだ」
そう言い返してくれたことが、本当に嬉しかった。
リヒトさんは、僕の羽のことを一度も特別扱いしなかった。
腕とか足とか、当たり前にある身体の一部と同じくらいにしか思っていなかったんだと思う。
だから気にせず僕をあちこちに連れ回し、パスの再発行から買い物の仕方、飲食店での注文の仕方、図書館の利用方法など、いろんなことを実際に見せながら教えてくれた。
だけどやっぱり、どこへ行ってもこの黒い羽が視線を集めてしまう。
時に心無い言葉を浴びせられてしまう。
それが辛くて、二両目の客室のベッドで毎晩こっそり泣いていた。
それを知ってか知らずか、リヒトさんはある日、革製の大きなリュックを買ってきてくれた。
そして、背中に当たる部分を大雑把に丸く切り抜き、「ほらよ」と渡してきた。
意図が分からず首を傾げていると、「こうすんだよ」と無理矢理背負わされる。
切り抜いた穴から、僕の羽をリュックの中に収めたのだ。
「見てみろ」
シャワー室にある全身鏡の前に立たされ、自分の姿が映し出される。
羽がリュックの中にすっかり隠れ、横から見ても分からない。
これなら、どこからどう見ても普通の子どもだ。
「ありがとう……ありがとう、リヒトさん!」
僕はリュックの肩ベルトをぎゅっと握りながら、思わず笑顔で言った。母さん以外に笑顔を見せたのは、これが初めてだったかもしれない。
しかしリヒトさんは、いつになく真面目な顔をして、
「……これでお前は傷付かなくなったかもしれない。けどな、お前と真剣に向き合ってくれる奴が現れたら……お前が本当に大切にしたいと思える奴に出会えたら、そのリュックは捨てろ。でないとお前も、本当の自分を偽る"嘘つき"になっちまうからな」
そう、静かな声で言った。
その言葉は、僕の胸の中に、深く深く刻み込まれた。
――リュックを背負い、羽を隠してからというものの、訪れる街の人々の反応が明らかに変わった。
住む街を探す『普通の子ども』の僕に、みんなとても親切で優しくなった。
街中を普通に歩けるようになったので、僕は本屋でガイドブックを買った。
母さんに買ってもらったのと同じ、すべての街が紹介されているあの本だ。
家にいた頃は自分の街の地図ばかり見ていたけれど、これからは訪れる街のことをちゃんと調べたいと思った。
やっぱり、地図を見るのは楽しい。
地図を見ながら実際に歩いてみると、もっと楽しい。
リュックをもらって、堂々と街を歩けるようになって。
あの屋根裏部屋の中で抱いていた『外を歩きたい』という願いが、やっと叶った気がした。
だけど……
人目を気にせず普通に生きられることが嬉しい反面、それは本当の自分を隠しているからだということを思い出しては……
自分のことが、どんどん嫌いになっていった。
* * * *
――そうして。
あっという間に、一ヶ月が経った。
「明日で、お別れだな」
午後九時。停車中の列車の、いつものテーブルで、リヒトさんはそう言った。
明日到着する街で、リヒトさんは降りるのだ。
「お前はどうする? 俺と一緒に降りてもいいし、このまま列車に残って、お前に相応しい街を探してもいい。お前の自由だ」
「………………」
リヒトさんの問いかけに、僕は沈黙する。
しかし、実はもう答えは決まっていた。
「リヒトさんと離れるのは……独りになるのは、怖いです。だけど……」
ぐっと拳を握り締め、僕はリヒトさんを見つめる。
「僕、行ってみたい街があるんです。僕と同じ、羽がある人たちが住む街……」
言いながら僕は、ガイドブックのページを開いてみせる。
「ここなら、羽を隠して……嘘をついて生きなくてもいいかもしれない。僕、ここへ行ってみたいんです」
「そこは……こっから二年近くかかるじゃねぇか。大丈夫なのか?」
ガイドブックを覗き込み、リヒトさんが珍しく心配そうな声を出す。しかし、僕は頷き、
「大丈夫です。リヒトさんに、たくさんのことを教わりましたから。それに……これまで送れなかった"普通の生活"を、送ってみたいんです」
そう、笑ってみせる。
リヒトさんは後ろ頭をボリボリと掻き、しばらく何かを考えるように黙り込んでから、
「……わかった。お前、意外と頑固だからな。自分で決めたのならそうしろ。と……そういうことであれば、提案なんだが」
言葉を止め、頭から運転手の印……刺繍入りのキャスケット帽を取り、僕に差し出す。
「しばらく乗るっていうなら、このまま運転手にならねぇか? そうすれば金も入るし、住む場所にも困らねぇぞ」
僕が、運転手になる……
それは、とても魅力的な提案だった。
クレイダーには、有人の車両と無人の車両がある。基本的に電気式の自動運転だから、運転手がいなくともセントラルの管理課から遠隔で動かすことができるらしい。
けれど、列車の車体管理や生活用水の交換などは人の力が必要なので、一定期間乗る予定のある乗客がそのまま運転手として働くことができるそうだ。
断る理由は、なかった。
「……そう、します」
僕の返答に、リヒトさんは悪戯な笑みを浮かべ、キャスケット帽を僕の頭に乗せた。
そして、頬杖をついてそれを眺めながら、
「いいじゃん、俺より似合ってるぜ。……頑張れよ、クロル」
そう言って、優しく笑った。
* * * *
――翌日。
到着したその街は……街と呼べるのかわからない、そんな場所だった。
クレイダーの駅のホームには、どこも簡素なベンチや屋根があるけれど、そこはホームすらなく、降りてすぐに土の地面と鬱蒼とした木々が広がっていた。まるで、森の中に迷い込んだようだ。
その光景にぽかんとしていると、先に列車を降りたリヒトさんが振り返る。
「すげぇだろ。ここは街と言うより"保護区"なんだ」
「保護区?」
「ああ。戦争以降数が減ってしまった動植物を集めて、保護したり飼育したり、或いは研究したりする場所だ。セントラルで働いている時に何回か訪れたんだが……その時からここに住みたいと思っていた」
「住むって……人の住める場所があるんですか? ここ」
見渡す限り自然が広がっていて、人工的な建物はまったく見当たらない。ガイドブックにも、この街だけは明確な地図が載っていないのだ。
しかしリヒトさんは、穏やかな声でこう答えた。
「中心部に居住区がある。環境を壊さないように配慮された、特別な集落だ。研究施設もあって、そこで働く予定なんだ」
言いながら、リヒトさんがその方向を指差す。
するとちょうど、見たこともないくらいに大きな鳥が飛んでいくのが目に入り、僕は思わず「わぁ……」と声を漏らした。隣でリヒトさんも、眩しそうにそれを見上げていた。
リヒトさんは、ぶっきら棒で淡白で、物事をストレートに言う、裏表のない人だ。
だけど、動物や植物のことについて語る時は、いつも子どものように目を輝かせる。本当に、生き物が好きなんだと思う。
彼の真っ直ぐな物言いに動揺したこともあったけれど、彼は誰に対しても……動物や植物に対しても、対等に接しているだけなのだということがわかった。
そして、こんなにも夢中になれるものがある彼が、羨ましくもあった。
――その後、リヒトさんと僕は列車に戻り、荷物の片付けを済ませた。
列車内の通信機器でセントラルに連絡を取り、リヒトさんが予定通りこの街で降りることと僕が運転手を引き継ぐことを告げると、「次の街の出張所で所定の登録手続きをしてください」と言われた。
最後の夕食は、リヒトさんの作るチーズリゾットだった。「これだけは失敗しない」と言ってよく作ってくれた、僕らの定番メニューだ。
僕もリヒトさんも、思い出話はしなかった。それよりも、僕の生活を心配してリヒトさんがあれこれ教えてくれたり、この保護区にはどんな珍しい動物がいて、どんな研究が楽しみで……という、これからの話をたくさんした。
そうして、最後の夜は、あっという間に更けていった。
――明くる日の夕方。
荷物を新しい住居に運び終えたリヒトさんと、運転手の帽子を被った僕は、列車の前で向かい合う。
「リヒトさん。この一ヶ月、本当に……ありがとうございました」
僕は帽子を取りながら、深々と頭を下げた。
リヒトさんは鼻の頭を掻き、困ったように笑う。
「いや、なんつーか……悪いな。お前を母親から引き離した癖に、中途半端にまた放り出しちまって」
「いいえ。僕、あの時リヒトさんに引き取られてよかったです。でないと、外の世界を知らないまま、一生あの部屋に閉じ込められていたかもしれませんから。それに、生きる為に必要なことは十二分に教わりました。僕、もう大丈夫です」
そう言って、精一杯の笑顔を見せる。これ以上、この人に心配をかけないように。
そんな僕の思いとは裏腹に、リヒトさんは腕組みをして、
「いやー、心配だなぁ。こないだ外に出たばかりの、まだ十一歳のガキんちょを一人で行かせるなんて」
「もうすぐ十二歳になります」
「そういう問題じゃねーよ。はぁ……ま、俺の人生は俺の人生、お前の人生はお前の人生だからな。考えたって仕方ない」
リヒトさんは屈んで、僕に目線を合わせると、
「……クロル。お前は賢い。要領も良いし、勘もいい。だからこそ、傷付く前に先回りをして、本心を隠してしまうことがある。……本当の自分を否定するなよ。誰が何と言おうと、お前の生き方を決めるのは他でもない、"お前自身"だからな」
瞳の奥まで見つめられ、僕は瞬きすらできずにそれを聞いた。
リヒトさんは立ち上がり、
「ほら、やるよ。中古で悪いが、早めの誕生日プレゼントだ」
言いながら、左手に着けていた腕時計を取り、僕に差し出した。ベルト部分が青い、文字盤の大きな、大人用の時計だ。
「え……いいんですか?」
「よく見ろ。もう午後五時になるぞ」
言われて見れば、時計の針は今にも発車時刻を指しそうだった。
出発は時間厳守であることを散々刷り込まれていた僕は、慌てて列車に乗り込んだ。
二両目のドアの横にある開閉ボタンを押す前にリヒトさんの方を見ると、「早く行け」と言いながらシッシッと手を振られた。
僕は……意を決して、ボタンを押す。
ぷしゅーっと音を立て、僕とリヒトさんを隔てる客室のドアが閉まった。
そのまま僕は、一両目の運転席へと向かう。
そして、首から下げた笛をピィーッと鳴らし、ゆっくりと発進レバーを……
「………………」
不安と、戸惑いと、名残惜しさに胸が締め付けられ。
僕は、左側の窓……列車の外のリヒトさんに目を向ける。
するとリヒトさんが、こちらに向かって叫んだ。
「何やってんだ! お前の列車だろ? お前以外、誰が動かすんだよ!」
僕は、喉の奥がぎゅっと詰まって。
それを吐き出すように、レバーをガコンと引いた。
列車が、ゆっくりと動き出す。
後ろに流れて行くリヒトさんを追って、僕は二両目に駆けた。
ベッドの横の窓に張り付いたけれど、リヒトさんが見えたのは一瞬だった。
だけど最後に、確かにその唇が、笑いながらこう動いたのがわかった。
「――上出来だ」
そうして、クレイダーの運転手としての、僕の旅が始まった。
* * * *
――リヒトさんと別れ、最初に訪れた街で。
運転手になる手続きをしに、セントラル出張所へ向かうため……
僕は、羽を隠していたリュックを、外した。
リヒトさんが言うように、この羽を隠さずに生きてみようと思ったから。
地図を確認する。出張所は、歩いて十分ほどの場所にあるようだった。
午前十時。意を決して列車を降りると、たくさんの人が通りを行き交っていた。
その中を俯きながら歩いていくけれど、黒い羽が視線を集めているのを感じる。
「なんだアレ……」
「あんなの初めて見た」
「なんでこの街に来たのかしら……」
そんな声が聞こえてきて、僕はキャスケット帽を両手でギュッと掴んだ。鼓動が加速する。
こんなこと、わかりきっていたじゃないか。
それでも、乗り越えなきゃ。
たった十分が永遠に感じられるくらい、長い長い距離に思えた。
出張所に着いてからは、スムーズに手続きをすることができた。
対応した職員さんも僕の姿に少し顔をしかめたが、何も言わなかった。
運転手の登録手続きを終え、今度は列車に帰らなければならない。また、鼓動が速くなる。
さっきの道は人が多くて、もう一度歩いて帰る勇気が出なかった。
出張所で着替えたつなぎのポケットからガイドブックを取り出し、再び地図を確認する。
少し遠回りになるけれど、人通りの少なそうな狭い路地があるようだ。そっちの道を使って、列車へ戻ろう。
僕はキャスケット帽を目深に被り、列車を目指して歩き始めた。
予想通り、選んだ道にはほとんど人がいなかった。
よかった。このまま目立つことなく帰れそうだ。
初めてにしては『上出来』じゃないか。
そうでしょう? リヒトさん。
そんなことを思った……直後。
「……わっ」
ドン、と右側から、何かがぶつかってきた。
僕は堪らず尻餅をつく。
その弾みで、帽子が地面に落ちてしまった。
見上げるとそこには、五歳くらいの男の子が立っていた。右の路地から走ってきて、僕にぶつかったらしい。向こうも驚いたように、ぽかんと立ち尽くしていた。
「だ……大丈夫?」
僕は起き上がり、声をかける。
男の子は相変わらず呆けた顔で僕を見つめていた。
……けれど、
「う……うわぁぁああん!」
突然、堰を切ったように男の子が泣き出した。
どうすればいいのかわからず、慌てふためいていると、
「きゃぁあああっ!」
後ろから、叫び声が聞こえた。
そちらを振り返るより早く、女性が駆け寄ってきて、男の子をひったくるように抱き締めた。どうやらこの子の母親らしい。
その女性はキッと僕を睨み付けると……金切り声で、こう言った。
「うちの子に何をしたのよ! この悪魔!!」
――ドクン。
心臓が、大きく跳ねるのを感じる。
そして、思い出す。
リヒトさんに連れ出された、あの日のことを。
僕を囲む子どもたちの「悪魔だ!」と叫ぶ声。
街の人々の異様な雰囲気。
追い詰められた母さんの表情。
それから――
『……こんな子………………私、知りません』
「はぁっ……はぁっ……」
呼吸が上手くできず、胸を押さえる。
冷や汗が止まらない。
僕は足元に落ちたキャスケット帽を掴むと、逃げるように走り出した。
振り返らず、とにかくがむしゃらに、走って、走って、走って……
ひたすらに地面を蹴っていたら、いつの間にかクレイダーまで戻ってきていた。
僕は車両に飛び乗り、客室のドアを閉める。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
床に膝をつく。
身体がガクガクと震えている。
頭もぐわんぐわん揺れている。
――ぱた。
と、何かが床に落ちる音がして。
それが自分の涙だということを認識するまでに、少し時間がかかった。
――それから僕は、リヒトさんからもらったリュックを手放せなくなった。
羽を隠した僕には、やっぱりみんな優しい。
僕も堂々と人に接することができる。
これでいいじゃないか。
傷付かないために、自分を偽ることの何が悪いんだ。
どうせ独りなんだ。誰も裏切ってなんかいない。
そう思っていたのに。
そう思っていたかったのに――
――君に、出会ってしまった。
「――クロル……それ………」
目の前の光景に、リリアが掠れた声をもらします。
リュックを取り払ったクロルの背に……羽が生えていたのです。
夜の空より暗い、漆黒の羽が。
クロルは、悲しげな笑みを浮かべ、
「……ごめんね。これが、僕なんだ」
そう言いました。
リリアは、顔をくしゃっと歪めて尋ねます。
「どうして……どうして、隠していたの? 同じ羽を持っていたこと……」
「……同じ?」
彼女の言葉に、クロルは自嘲するように返します。
「これのどこが同じなの? 君のは白い"天使の羽"。僕のは黒い"悪魔の羽"。それだけで、世間の目がどんなに違うか……君にはわからないよね」
今までとは違うクロルの雰囲気に、リリアは喉が詰まるような気持ちに襲われました。クロルが続けます。
「……知りたいのなら教えてあげるよ。僕がどんなことを考え、どんな風に生きてきたのか」
そしてクロルは、笑みを浮かべたまま……
立ちつくすリリアに、語り始めました。
「僕はね、この羽のせいで、母親に棄てられたんだ。生まれた街を追われて、クレイダーに乗って、様々な街を廻ったけれど……みんな僕のことを『悪魔』と呼んで遠ざけた。でも、このリュックで羽を隠すだけで、世界は驚くほどに優しくなるんだ。君も言っていただろう? こんな羽、なくしてしまった方が自由に生きられるって。本当に、その通りなんだよ」
そう言われて、リリアは自分が"麗しの街"で言った言葉を思い出します。
『この羽のせいで……私も他とは違う扱いを受けてきた。だから、この羽をなくすつもりでいる。そうすれば"普通の人間"として、見た目のことなんか気にせず、住むところを自由に決められるでしょ?』
リリアが口を閉ざしていると、クロルが諦めたように笑います。
「……僕はずっと、君が絶望すればいいのにって思っていたんだよ。この世界は、異質な存在に対して、あまりにも非情で冷酷だ。運転手になってからも、『異端だ』と街から追い出され、傷付きながらクレイダーに乗ってきたお客さんを何人も見てきた。ここは、そういう世界。君も僕と同じように、その羽のせいで様々な街の人から異端として扱われ、絶望すればいいって思っていた。……たぶん、仲間が欲しかったんだ。一緒に絶望を分かち合っくれる仲間が」
その声は、少し震えているようにも聞こえて。
リリアは、胸の前できゅっと拳を握ります。
「なのに……君は絶望するどころか、とても楽しそうだった。初めて見る外の世界の何もかもを、楽しんでいた。……羨ましかったよ。羨ましくて、妬ましくて………なのに」
クロルは、泣き出しそうな目でリリアを見つめ、
「なのに、いつの間にか、そんな君のことが…………好きになっていた」
……振り絞るようなその言葉に。
リリアは、息を止めました。
クロルは笑みを向けて、こう続けます。
「……君といるとね、なんだかこっちまで真っ白になれる気がするんだ。真っ直ぐで、嘘がなくて、思ったことを素直に言葉にできる……本当に強くて素敵な女の子だ。僕も君みたいに生きられたら、どんなによかっただろうって……ずっと思っていた」
そう言って、クロルは一度息を吐き、沈黙しました。
突き付けられた真実に、リリアは胸が痛いくらいに締め付けられ、唇を噛み締めます。
しかし、黙っているわけにはいかないと……自分も伝えなければと、口を開きます。
「……クロルは、クロルだよ」
「……え?」
クロルが聞き返すと、リリアはバッと顔を上げ、
「……その羽も含めて、クロルはクロルだよ。いつか私に、そう言ってくれたよね。あの言葉があったから……クロルがこの羽を好きだって言ってくれたから、私はここまでこられたんだよ?」
「それは……君が羽を残すことで、絶望すればいいと思って……」
「それでも!」
リリアは、クロルの言葉を遮るように叫び、
「それでも私は、クロルに救われたの。このままの自分でもいいかもしれないって、好きになってもいいかもしれないって……そう思わせてくれたのは、クロル。あなたなんだよ?」
心の底から振り絞るように、リリアは言葉を紡ぎます。
「私が知っているクロルは……頭が良くて、勇気があって、『ごめんね』が口癖で……相手の気持ちをいつも思いやってくれる優しい人だった。なのに、ずっと羽を隠さないと生きられないくらい辛い思いをしていただなんて……私、全然気付けなかった」
そして、クロルの右手をそっと握り、
「私は、クロルにしてもらったことも、クロルにもらった言葉も、嘘だったなんて思わないよ。偽物だったなんて思わない。だってクロルは、私に……」
――ぽろっ。
と、その目から、涙を零しながら、
「……私に、人としての名前をくれた。あの花と同じ、真っ白で綺麗な名前。あの時初めて、私は人になれた。人として生きることを許された。だから私は、ありのままの自分でいられたの。クロルが好きになってくれた私は、クロルが作ったんだよ? だから、どうか……クロルも、自分のことを好きになってよ。私だって、こんなに……っ、こんなに、クロルのことが……好きなのに……っ」
……その瞬間。
クロルは、リリアの身体を、強く抱き締めていました。
『あなたのことが好き』
それは、魔法のような言葉でした。
心を護るために作った"嘘"で塗り固めた壁が、温かに溶けていく魔法。
溶け出した心の壁は涙となって、クロルの目からとめどなく溢れました。
「……ごめんね」
リリアを抱き締めながら、クロルは言います。
「僕、酷いことを言ったのに……君を騙していたのに……『好き』って言ってくれて、ありがとう」
その声は、小さな子どものようにか細くて。
リリアは胸がいっぱいになりながら、ぎゅっと抱き締め返し、言います。
「……何を言っているの? 先に『好き』って言ってくれたのはクロルの方だよ。いつもそう。気付いていないかもしれないけれど……クロルは、たくさんのものを私にくれた。本当に……ありがとう」
そうして二人は、抱き合ったまま、互いの鼓動を感じました。
クロルの鼓動と、リリアの鼓動。
その音は小さくて、世界にかき消されてしまいそうな程に不確かで……でも、確かにそこにありました。
僕たちは、生きている。
そんな当たり前のことに今さら気付いたような気持ちになり、クロルは生まれて初めて、命を愛おしく思いました。
そして……自分自身のことも、少しだけ愛おしいと思うことができたのです。
体温が混ざり合い、身体の境目が曖昧になった頃……
先に口を開いたのは、クロルの方でした。
「……僕ね、この街で降りるんだ」
「え……?」
「もう、羽を隠して……自分を偽って生きるのは嫌なんだ。ここしかないんだよ、羽を隠さずに生きられる場所は。それに……一週間後に着く街はね、僕の生まれた街なんだ」
クロルは、抱き締める力をさらに強めて、
「……怖いんだ。あの街に近付くのも、思い出すのも。だから、あの街に帰り着く前に、ここで降りるって決めていた……この街は、僕の旅の終着駅なんだよ」
「……そう、だったんだ」
「リリアは、どうする? 一緒にこの街で降りる? それとも……他の街へ行く?」
リリアは戸惑います。
この街でクロルと暮らせたら、どんなに幸せでしょう。
平凡な、普通の日常。この街にいれば、それが手に入ることはわかっていました。
だけど……
「…………」
答えに迷うリリアに、クロルは小さく笑って、
「……ごめんね、急にいろいろ話してしまって。気持ちの整理がつかないよね。出発まで、まだ一日ある。よく考えて、答えを見つけて」
そうしてゆっくりとリリアを離すと、クロルはドアの近くで見守っていたポックルの方を振り返ります。
「ポックルも、ごめんね。君が羽のことをリリアにバラしてくれないかな、なんて、試すようなことをしてしまった。黙っていてくれてありがとう」
ポックルはそっぽを向きながら、さらりと答えます。
「別に隠していたわけじゃニャい。言う必要がニャかっただけだ」
そう言ってくれるポックルを、クロルはそっと抱き上げました。
「君に相応しい街まで送り届けるって言ったのに……それも嘘になっちゃったね」
「何を言っている。自分の縄張りも定まっていニャいやつに心配されるほど、このポックル様はヤワじゃニャい。まずは自分が幸せにニャってから。他人のことは、その後だろ」
「うん……そうだね。本当にありがとう。大好きだよ」
ぎゅっと抱き寄せられ、ポックルはくすぐったそうに身を捩りました。
――それから、二人と一匹は列車の外に出て、線路に腰掛けながらいろいろな話をしました。
この世界のこと。
様々な街のこと。
今まで出会った人々のこと。
空には月と無数の星が輝き、目の前に広がる湖が鏡のようにそれを映しています。
ふと、クロルがこんなことを口にします。
「……昔の人は、戦争の経験から、国籍や肌の色ではなく同じ価値観を持つ人同士で暮らせるよう街を創った。確かに戦争はなくなったけど、それって……『似た者同士で群れていたい』、『似ていない者は排除したい』っていう"人間の本質"が残っただけなんだ。……臆病で、寂しがり屋なんだよね、人間って。自分と違う存在が怖くて、否定されるのが怖くて、自分が傷付くより先に傷付けてしまうのかな。だったら、まず最初に自分が心を開いたら……『あなたのことが好きですよ』って伝えられたら……傷付けられることもなくなるのかな」
「そうかもね。私も、そうしていきたいな」
「はぁ。ニンゲンはいちいち小難しく考えすぎニャんだよ。気に入らニャいやつとは目を合わせニャい。気に入ったやつには身体を擦り寄せる。ただそれだけのこと。全員に好かれようとするからややこしくニャるんだ。本当に大切にしたいやつだけ大切にできれば、それで良いニャ」
「うん……そうだね。ポックルの言う通りだ」
「ポックルは大人だなぁ」
「ふふん、まぁニャ」
「僕、リリアとポックルに出会えて本当によかったよ。……ありがとう」
「……本当に、ここで降りちゃうんだね」
「うん。もうずっと前から決めていたんだ。……黙っていてごめんね」
「ううん。クロルがここで安心して暮らせるのなら、それが一番だもん」
「でも……今日見た限りだと、黒い羽の人はいないみたいだったね。僕だけが黒いなんて……ここでもみんなから『悪魔!』って言われたりして」
「大丈夫だよ。ここの人たち、みんな優しいもん。それに、クロルさっき自分で言ってたじゃない。まずは自分から『好き』って気持ちを伝える。そうすればみんなも、心を開いてくれるはずだよ」
「甘いニャ。この街で一番強いオスにニャって、まるごと自分の縄張りにしてしまえばいいニャ。そしたら誰も文句言わニャいぞ?」
「もー、ポックルは考えがワイルド過ぎるんだよ。クロルはそんな……」
「確かに……それはアリかも」
「クロル?!」
「あはは。というのは冗談で。……ありがとう。僕、この街で自分の居場所を見つけるよ」
クロルは穏やかに微笑んで。
そうして、最後の夜は過ぎて行きました。
――翌日。
二人と一匹は、クレイダー九十九号の大掃除をしました。
列車の中はもちろん、窓や外側のボディまでピカピカに磨き上げます。
長い旅によりくすんでいた白い車体は輝きを取り戻し、周りの景色を反射するまでになりました。
一両目、クロルの部屋だった場所から僅かな私物を運び終えたところで、時刻はまもなく午後五時。あっという間に出発時間です。
「………………」
クロルは最後に、部屋の中を見回します。
不慣れな料理を覚えた小さなキッチン。
狭いけど、世界で一番寝心地の良いベッド。
そして、リヒトさんや、リリアやポックルと食事をした丸いテーブル。
「…………ありがとう」
そう、小さく呟いた直後、
「おーい! おーい!!」
ふと、列車の外から元気な声が聞こえてきます。
リリアとポックルと共に降りてみると、キリクがこちらへ駆けて来ました。ウドルフや、同じクラスのみんなも集まってきます。
「昨日はありがとう! 結局どうすることにしたのかなって、気になって来ちゃった」
「この街に残ることにしたのか?」
キリクとウドルフが、リリアに向かって交互に尋ねます。
「えっと、実は……」
彼女が戸惑いながらクロルの方を見ると、
「――僕なんだ」
クロルが一歩、前に出ます。
そして……意を決したように、その背からリュックを外しました。
現れた真っ黒な羽を見て、キリクもウドルフもみんなも、口を開いたまま言葉を失います。白以外の色の羽を見るのは初めてだったのです。
――やっぱり、ここでも受け入れてもらえないのかな。
キリクたちの反応に、クロルはあの時のことがフラッシュバックしそうになります。
しかしそれを振り払うように、クロルはバッと顔を上げて、
「――この街で暮らしたいのは、僕なんだ。僕を……みんなの仲間にしてほしい!!」
そう、叫びました。
それはリリアも聞いたことのないくらいに大きくて、はっきりとした声でした。
みんなは、やはり唖然とした表情を浮かべています。
リリアもポックルも、固唾を飲んでそれを見守っていました。
――やがて。
「……か」
キリクが、口を開いたかと思うと、
「かっこいい!!」
突然、大声でそう言ったので、クロルは驚いて仰け反ります。
しかしキリクは、前のめりでクロルの羽を覗き込み、
「黒いのなんて初めて見た! いいなーかっこいいなぁー! 漫画の主人公みたい!」
思いがけない反応に、クロルは目をぱちくりさせます。
さらに、ウドルフまで目を輝かせ、
「うん……黒い方が、男らしくていいな!」
などと言います。
みんなもクロルを取り囲んで、黒い羽をまじまじと見つめました。
その状況が、なんだか可笑しくて。
自分が怖がっていたのが、馬鹿らしくなってきて。
「はは……あはははは」
一気に緊張が解け、クロルは涙を流しながら大笑いしました。
突然笑い出したクロルに、キリクとウドルフはぽかんとしますが……
リリアとポックルは、微笑んで顔を見合わせました。
「……よかったね、クロル」
リリアが呟いた、ちょうどその時。
――ゴーン……ゴーン……
午後五時を告げる鐘が鳴り始めました。
クレイダーの出発時間です。
その鐘が鳴ると同時に、
「――クロル!」
リリアに呼ばれ、彼は振り向きます。
が、その瞬間に頭のキャスケット帽を彼女に奪われました。
そしてそのままリリアは自分の頭にそれを被り、軽やかに列車へ乗り込みます。
クロルはそれを、はっとした表情で見上げました。
「リリア……ひょっとして……」
彼女は明るい笑顔を浮かべて、
「うん。私――この街では降りない」
凛とした声で、答えました。
「……クロルのことは大好きだよ。本当は離れたくない。だけど……ここで降りることを決められるほど、私はまだ世界のことも、自分自身のこともわかっていない。だから、それを……これから見つけに行きたい」
青く澄んだ、真っ直ぐな瞳。
彼女は、出会った時からずっとそうでした。
その素直さが、潔さが、強さが……
クロルの目にはいつも、キラキラと眩しくて。
「……うん。わかった。僕もリリアのことが大好きだよ。だから、君が君らしく生きられる街を探して。本当に……本当にありがとう」
その言葉に、リリアの顔が少し泣きそうに歪みます。
クロルは、優しく微笑んで、
「――こんなことを言ったら君を傷付けるかもしれないけれど……僕にとって君は、神さまが使わせてくれた天使だったよ。僕だけは君を、特別に――"天使"って呼んでもいいかな?」
クロルの言葉に、リリアは一瞬驚いた顔をしますが……
涙を一筋、頬に流して、
「……だったら、クロルも私の"天使"だよ。世界でたった一人、黒い羽を持つ、私だけの"天使"!」
精一杯の笑顔を浮かべ、そう言いました。
まもなく鐘が鳴り終わります。
ポックルもぴょんと列車に飛び乗りました。
いよいよ出発の時間が迫ります。
「ねぇ、クロル。羽があっても自由に生きられるってことを、私がこれから証明してあげる! だから……だからいつか、探しに来て。その場所で、自由に生きる私を!」
その言葉に、クロルは精一杯声を張り上げて。
「いつか! いつか僕が、あの街を乗り越えられるくらいに強くなったら……探しに行くよ。クレイダーに乗って。君たちが住む街を。絶対に!」
リリアは、微笑みを返します。
その横で、ポックルも、
「それまではニンゲンの言葉、忘れニャいでいてやる。……ニャるべく早く来いよ」
と、しっぽを揺らして告げました。
ぷしゅーっ、と音を立て、二両目のドアが閉まり……
リリアは、一両目の運転席に向かいます。
そして、クロルがいつもやっていたように運転レバーをゆっくりと引きました。
ガタン、と揺れて、列車はゆっくりと走り出します。
窓の外を見ると、クロルが走って追いかけて来ていました。
リリアも窓に駆け寄ります。
けれど、すぐにホームの端に行きつき、クロルは足を止め……
あっという間に、その姿は見えなくなりました。
さっきまで、あんなに近くにいたのに。
やっと、彼のことがわかったのに。
もう声を聞くことも、触れることもできません。
けれどこれは、自分で走らせた列車。
終着駅に着くまで、走り続けなければなりません。
リリアは、窓に額を付けながら。
「――待ってるから」
小さく、呟きました。
* * * *
――それから、約一ヶ月後。
「――元気でね。ポックル」
ポックルは、自然がそのまま残された"保護区"と呼ばれる街で降りることを決めました。
別れの時、彼は一度だけ振り返り、
「……ニャアアォ」
と鳴いて、森の中へと去って行きました。
「……さて」
いよいよ、リリアは一人になってしまいました。
これから訪れる街は、どんなところなのでしょう。
と、クロルのようにガイドブックを広げ……ようとしたところで、リリアは手を止めます。
……ガイドブックを見ずに廻ったほうが、楽しいかもしれない。
リリアはそっと、それを本棚に戻しました。
――いつか。
いつか、住む街を決めて、暮らして、そこでの生活に退屈してきた頃に……
きっとあなたは、来てくれる。
あの日観た、映画のように。
だから、それまでは、自分の物語を進めよう。
いつかまた、あなたの物語と交わることを信じて。
「――すみませーん。列車に乗りたいのですが」
ふと、二両目の方から声がします。
どうやら初めてのお客さんのようです。
「えっと……ええっと……」
どうしよう。
クロルはこんな時、どうしていたっけ。
ああ、そうだ。確か――
リリアはキャスケット帽をキュッと正し、ドアの前に立ちます。
それから、意気揚々と、こう言いました。
「ご乗車ありがとうございます。クレイダー九十九号車、運転手のリリアです!」
彼女の列車は、まだ走り出したばかりです――
――午前九時。
クレイダー九十九号は、とある街の駅に着きました。
扉が開き、列車の中から運転手が降りて来ます。
黒い髪に紺碧の瞳を持つ、背の高い青年でした。
運転手の印である白いキャスケット帽に、緑色のつなぎ。右手にはガイドブックを携えています。
青年は街のメイン通りを進むと、開店準備をしていた八百屋の店主に声をかけます。
「おはようございます。はじめまして。僕はクレイダーの運転手で、クロルといいます。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが……」
口髭をたくわえた男性店主は、彼を見るなり少し顔をしかめました。
「いらっしゃい。背中のそれ、本物かい? 珍しいね、黒い羽なんて」
「よく言われます。珍しいと言えば……そこに並んでいるスイカもずいぶんと立派ですね。こんなに大きなもの、初めて見ました。ご主人の育て方が上手いんでしょうね」
「え? あぁ、そうかい? へへ、ありがとうよ。で、聞きたいことってのは?」
「ああ、すみません。実は、僕の大切な人が住んでいる街を探していまして」
「大切な人? それは一体、どんな人なんだい?」
彼はにこっと、柔らかな笑みを浮かべてから……こう言いました。
「――天使です。天使の住む街、知りませんか?」
―完―