――それから僕は、リヒトさんと様々な街を廻った。
最初に訪れた街――隣街に降りた時、すぐに「悪魔が来た!」と騒ぎになった。
それに僕は傷付きながらも、どこか諦めた気持ちでいたけれど、リヒトさんが一言、
「悪魔なワケねーだろ。よく見ろ。ただの人間の子どもだ」
そう言い返してくれたことが、本当に嬉しかった。
リヒトさんは、僕の羽のことを一度も特別扱いしなかった。
腕とか足とか、当たり前にある身体の一部と同じくらいにしか思っていなかったんだと思う。
だから気にせず僕をあちこちに連れ回し、パスの再発行から買い物の仕方、飲食店での注文の仕方、図書館の利用方法など、いろんなことを実際に見せながら教えてくれた。
だけどやっぱり、どこへ行ってもこの黒い羽が視線を集めてしまう。
時に心無い言葉を浴びせられてしまう。
それが辛くて、二両目の客室のベッドで毎晩こっそり泣いていた。
それを知ってか知らずか、リヒトさんはある日、革製の大きなリュックを買ってきてくれた。
そして、背中に当たる部分を大雑把に丸く切り抜き、「ほらよ」と渡してきた。
意図が分からず首を傾げていると、「こうすんだよ」と無理矢理背負わされる。
切り抜いた穴から、僕の羽をリュックの中に収めたのだ。
「見てみろ」
シャワー室にある全身鏡の前に立たされ、自分の姿が映し出される。
羽がリュックの中にすっかり隠れ、横から見ても分からない。
これなら、どこからどう見ても普通の子どもだ。
「ありがとう……ありがとう、リヒトさん!」
僕はリュックの肩ベルトをぎゅっと握りながら、思わず笑顔で言った。母さん以外に笑顔を見せたのは、これが初めてだったかもしれない。
しかしリヒトさんは、いつになく真面目な顔をして、
「……これでお前は傷付かなくなったかもしれない。けどな、お前と真剣に向き合ってくれる奴が現れたら……お前が本当に大切にしたいと思える奴に出会えたら、そのリュックは捨てろ。でないとお前も、本当の自分を偽る"嘘つき"になっちまうからな」
そう、静かな声で言った。
その言葉は、僕の胸の中に、深く深く刻み込まれた。
――リュックを背負い、羽を隠してからというものの、訪れる街の人々の反応が明らかに変わった。
住む街を探す『普通の子ども』の僕に、みんなとても親切で優しくなった。
街中を普通に歩けるようになったので、僕は本屋でガイドブックを買った。
母さんに買ってもらったのと同じ、すべての街が紹介されているあの本だ。
家にいた頃は自分の街の地図ばかり見ていたけれど、これからは訪れる街のことをちゃんと調べたいと思った。
やっぱり、地図を見るのは楽しい。
地図を見ながら実際に歩いてみると、もっと楽しい。
リュックをもらって、堂々と街を歩けるようになって。
あの屋根裏部屋の中で抱いていた『外を歩きたい』という願いが、やっと叶った気がした。
だけど……
人目を気にせず普通に生きられることが嬉しい反面、それは本当の自分を隠しているからだということを思い出しては……
自分のことが、どんどん嫌いになっていった。
* * * *
――そうして。
あっという間に、一ヶ月が経った。
「明日で、お別れだな」
午後九時。停車中の列車の、いつものテーブルで、リヒトさんはそう言った。
明日到着する街で、リヒトさんは降りるのだ。
「お前はどうする? 俺と一緒に降りてもいいし、このまま列車に残って、お前に相応しい街を探してもいい。お前の自由だ」
「………………」
リヒトさんの問いかけに、僕は沈黙する。
しかし、実はもう答えは決まっていた。
「リヒトさんと離れるのは……独りになるのは、怖いです。だけど……」
ぐっと拳を握り締め、僕はリヒトさんを見つめる。
「僕、行ってみたい街があるんです。僕と同じ、羽がある人たちが住む街……」
言いながら僕は、ガイドブックのページを開いてみせる。
「ここなら、羽を隠して……嘘をついて生きなくてもいいかもしれない。僕、ここへ行ってみたいんです」
「そこは……こっから二年近くかかるじゃねぇか。大丈夫なのか?」
ガイドブックを覗き込み、リヒトさんが珍しく心配そうな声を出す。しかし、僕は頷き、
「大丈夫です。リヒトさんに、たくさんのことを教わりましたから。それに……これまで送れなかった"普通の生活"を、送ってみたいんです」
そう、笑ってみせる。
リヒトさんは後ろ頭をボリボリと掻き、しばらく何かを考えるように黙り込んでから、
「……わかった。お前、意外と頑固だからな。自分で決めたのならそうしろ。と……そういうことであれば、提案なんだが」
言葉を止め、頭から運転手の印……刺繍入りのキャスケット帽を取り、僕に差し出す。
「しばらく乗るっていうなら、このまま運転手にならねぇか? そうすれば金も入るし、住む場所にも困らねぇぞ」
僕が、運転手になる……
それは、とても魅力的な提案だった。
クレイダーには、有人の車両と無人の車両がある。基本的に電気式の自動運転だから、運転手がいなくともセントラルの管理課から遠隔で動かすことができるらしい。
けれど、列車の車体管理や生活用水の交換などは人の力が必要なので、一定期間乗る予定のある乗客がそのまま運転手として働くことができるそうだ。
断る理由は、なかった。
「……そう、します」
僕の返答に、リヒトさんは悪戯な笑みを浮かべ、キャスケット帽を僕の頭に乗せた。
そして、頬杖をついてそれを眺めながら、
「いいじゃん、俺より似合ってるぜ。……頑張れよ、クロル」
そう言って、優しく笑った。
* * * *
――翌日。
到着したその街は……街と呼べるのかわからない、そんな場所だった。
クレイダーの駅のホームには、どこも簡素なベンチや屋根があるけれど、そこはホームすらなく、降りてすぐに土の地面と鬱蒼とした木々が広がっていた。まるで、森の中に迷い込んだようだ。
その光景にぽかんとしていると、先に列車を降りたリヒトさんが振り返る。
「すげぇだろ。ここは街と言うより"保護区"なんだ」
「保護区?」
「ああ。戦争以降数が減ってしまった動植物を集めて、保護したり飼育したり、或いは研究したりする場所だ。セントラルで働いている時に何回か訪れたんだが……その時からここに住みたいと思っていた」
「住むって……人の住める場所があるんですか? ここ」
見渡す限り自然が広がっていて、人工的な建物はまったく見当たらない。ガイドブックにも、この街だけは明確な地図が載っていないのだ。
しかしリヒトさんは、穏やかな声でこう答えた。
「中心部に居住区がある。環境を壊さないように配慮された、特別な集落だ。研究施設もあって、そこで働く予定なんだ」
言いながら、リヒトさんがその方向を指差す。
するとちょうど、見たこともないくらいに大きな鳥が飛んでいくのが目に入り、僕は思わず「わぁ……」と声を漏らした。隣でリヒトさんも、眩しそうにそれを見上げていた。
リヒトさんは、ぶっきら棒で淡白で、物事をストレートに言う、裏表のない人だ。
だけど、動物や植物のことについて語る時は、いつも子どものように目を輝かせる。本当に、生き物が好きなんだと思う。
彼の真っ直ぐな物言いに動揺したこともあったけれど、彼は誰に対しても……動物や植物に対しても、対等に接しているだけなのだということがわかった。
そして、こんなにも夢中になれるものがある彼が、羨ましくもあった。
――その後、リヒトさんと僕は列車に戻り、荷物の片付けを済ませた。
列車内の通信機器でセントラルに連絡を取り、リヒトさんが予定通りこの街で降りることと僕が運転手を引き継ぐことを告げると、「次の街の出張所で所定の登録手続きをしてください」と言われた。
最後の夕食は、リヒトさんの作るチーズリゾットだった。「これだけは失敗しない」と言ってよく作ってくれた、僕らの定番メニューだ。
僕もリヒトさんも、思い出話はしなかった。それよりも、僕の生活を心配してリヒトさんがあれこれ教えてくれたり、この保護区にはどんな珍しい動物がいて、どんな研究が楽しみで……という、これからの話をたくさんした。
そうして、最後の夜は、あっという間に更けていった。