天使の住む街、知りませんか?



「――ねぇねぇ!」


 すべての授業を終えた放課後。
 子どもたちが帰り支度をする中、鞄を持ったキリクがクロルたちの元に駆け寄って来ました。

「二人とも、この後時間ある? よかったら、僕らがいつも遊んでいる場所に案内するよ!」

 その提案に、クロルとリリアは顔を見合わせてから、ポックルの方を見ます。
 午後もずっと机の上で寝ていたポックルは、その視線に気付くと、

「……好きにすればいいニャ」

 と、ぶっきらぼうに言いました。
 ポックルのお許しをもらえたリリアは、ワクワクした声音で尋ねます。

「遊びって、いつも何しているの?」
「最近は学校の裏の森にみんなで秘密基地を作っているんだ。もうすぐ完成するんだよ」
「ひみつきち?」

 リリアはいつものように答えを求めてクロルの方を見ますが、彼もピンときていない様子で、

「その基地は、何をするための場所なの?」

 と、珍しく質問を返しました。
 キリクはきょとんとした顔をして、

「何って……中に入って遊んだり、みんなの遊び道具を隠しておいたりするんだよ。実は僕ね、そこに漫画を隠しているんだ。学校に持って行くと怒られるし、家で読むと母ちゃんがうるさいからさ」

 そう言って、キリクは悪戯っぽく笑いました。
 リリアはその台詞を聞くなり身を乗り出し、

「まんがってあの、絵で物語が描いてあるっていう本? 私、一度でいいから読んでみたかったの!」
「えっ、漫画を読んだことがないの? じゃあ僕のを貸してあげるよ!」
「本当? クロル、貸してくれるって! その秘密基地ってところに早く行ってみようよ!」

 リリアが目をキラキラさせながら言うので、クロルも微笑みながら頷きました。



 ――キリクは二人と一匹を外へ連れ出すと、学校の真裏に広がる森の中へと案内しました。
 木の根があちこちに張り巡らされ、土と苔の匂いの立ち込める、自然さながらの森でした。

 キリクが言ったように、この街は他と比べて人口が少ないため未開拓の土地が多いのだと、クロルは思います。
 人々が暮らす居住地域はクレイダーの駅の周りに集中し、他は手付かずの森が広がっているようでした。

 森の中を十分ほど進むと、大きな樫の木が現れました。その下に、木の板や石を積み上げて作った小屋のような物が見えます。

「ほら、あれが僕らの秘密基地だよ!」

 リリアとクロルが近付いて見てみると、小屋の中は子ども三人がやっと入れるくらいのスペースになっていて、バットやボールなどの遊び道具が置いてありました。上部には木の枝と葉っぱを組み合わせた屋根まで付いています。

「今日はまだ誰も来ていないみたい。好きに見てくれていいよ」

 キリクに言われ、リリアとクロルは初めて見る『秘密基地』を興味深そうに眺めました。ポックルはと言えば、所在無げに辺りのにおいをふんふん嗅ぎ回っています。
 すると、

「……あれ? あれぇ?」

 秘密基地の中をガサゴソと漁る音と共に、キリクの困った声が聞こえました。

「ない……僕の漫画がない! 昨日確かにここに置いておいたのに!」
「ええー!」

 キリクの叫びに、リリアが落胆混じりの声を上げます。
 クロルも基地の中を見回しますが、本のようなものは一つも見当たりませんでした。

「他の友だちが持っているとか?」
「勝手に持っていくなんてこと、しないと思うけど……」

 三人が基地の周りを探し、歩いていると、

「――あ。あれって……」

 クロルは、秘密基地の裏側……森をさらに奥へと進んだところに、一人の人影を見つけました。その姿には、見覚えがありました。
 キリクもそれに気付き、目を細めてそちらをじっと見つめます。

「……ん? ウドルフじゃないか。あんなところで何してんだろ」

 それは先ほどまで同じ教室で授業を受けていた、あの勝気そうな少年でした。切り株に腰掛け、手に持った何かを眺めているようです。
 一行がそちらへ近付いていくと、

「あーっ! それー!!」

 突然、キリクがウドルフを指差し、声を張り上げました。
 それに、ウドルフもようやくこちらに気が付いたようで、驚いてキリクの方を見ます。

 キリクはウドルフに駆け寄り、彼が手にしている物……一冊の本を指差したまま、

「それ、僕の漫画!!」

 そう叫びました。
 するとウドルフは、鬱陶しそうな表情で言い返します。

「ああ? なんだよ、いきなり」
「秘密基地の中から盗んだんだな?! 僕のなんだから返してよ!」
「盗んでなんかいない、これは拾ったんだ。変な小屋があったから覗いてみたら、たまたまこれが落ちてたんだよ」
「落ちてた?! 違うよ、大事に隠しておいたんだ!」
「ギャーギャーうるせぇな。だいたい、お前のモンだって証拠でもあんのかよ?」
「しょ、証拠……」

 体格の良いウドルフが立ち上がり、ずいっと顔を近付けてきたので、キリクはすっかり弱腰になってしまいました。
 その様子を、リリアは冷や冷やと見つめています。

 しばらく睨み合った後……ウドルフはばっと離れ、

「フン。返せって言うんなら、力ずくで取り返してみな!」

 そう言って、本を持ったまま森の奥へと駆け出しました。

「あっ、待て!」

 キリクも慌ててそれを追いかけます。リリアとクロルと、いちおうポックルもそれについていきます。

「もうっ、なにアイツ!」

 走りながら、リリアが頬を膨らませて憤ります。
 しかし、キリクは弱々しい声音で、

「ウドルフはクラスで一番……ううん、学校で一番運動神経がいいんだ。かけっこじゃ勝てたことなんてないよ」

 そうこぼしました。
 確かに、木の根でボコボコしている森の中を、ウドルフは意に介さずひょいひょいと進んで行きます。キリクたちは時々転びそうになりながらやっとの思いで走っていたので、どんどん差を広げられてしまいました。

 やがて、少し先に、樹木の生えていない拓けた場所があるのが見えてきました。まるでスポットライトに当てられているかのように、そこだけ日の光が明るく差し込んでいます。
 その明るく拓けた場所に、ウドルフが仁王立ちになって待ち構えていました。よく見ると、彼の立つすぐ横の地面には大きな穴が空いています。

「僕の漫画を返せ!」

 追い付くなり、キリクが息を荒らげて言いました。
 しかし、ウドルフは軽く鼻を鳴らし、

「だぁから、これは落し物なんだって。落し物は落し物らしく……」

 ニタッ、と意地悪な笑みを浮かべ……

「……こうして、ここに落とすことにする」

 漫画本を掲げると、すぐ横に空いた穴の中へ、落としてしまいました。

「ああっ、僕の漫画が!!」

 キリクが地面に手をつき、淵から穴を覗き込みます。
 しかし、どれほど深いのか、穴の中はただただ真っ暗で、底などまったく見えませんでした。
 ウドルフは「ギャーッハッハ!」と笑って、

「本当に自分のモンなら、穴に入って取ってこいよ!」

 挑発するように言い残し、元来た方へと笑いながら去って行ってしまいました。

「あいつ、ほんとにむかつく!」

 リリアは去りゆくその背中を睨みながら歯を軋ませます。クロルは、項垂れたままのキリクに「大丈夫?」と声をかけますが、

「僕の漫画……お小遣い貯めて、楽しみに買ったやつだったのに……っ」

 キリクは、地面についた手をぎゅっと握ると、ポロポロと泣き出しました。
 クロルもリリアも、何と声をかけるべきかわからず、キリクの震える羽と真っ暗な穴を交互に見つめていました。
 ……すると、

「まったく(ニャさ)けニャい。おれが入って、取って来てやるよ」

 ポックルがため息混じりにそう言いました。
 キリクは顔を上げ、そちらに振り向き、

「えっ、できるの?!」
「造作もニャいことニャ。猫サマは高いところからの着地がトクイだからニャ」
「すっげー! 猫サマー!!」

 キリクは涙も吹き飛ぶ勢いで目を輝かせます。リリアも「おぉーっ!」と手を叩くので、ポックルは得意げに二本足で立ち、胸を張りました。

「そこで待っているがいい。すぐに戻るニャ」

 と、格好良く穴に飛び込もうとするので、

「待って、ポックル。入るのはいいけど……」

 クロルが手を伸ばし、それを止めようとしますが……時既に遅し。
 ポックルはぴょんとジャンプをして、穴の中に姿を消してしまいました。

 リリアとキリクが「よかったね!」「うん!」などとにこにこ笑っていますが……クロルは心配そうに、穴の中を覗き込みました。

 


 ――五分ほど経ったでしょうか。
にこにこ笑顔だったリリアとキリクの表情は、だんだんと曇ってゆき……

「……ポックル、遅くない?」

 痺れを切らしたリリアが、沈黙を破って言いました。
 それに、クロルはため息をつき、こう答えます。

「たぶん思ったよりも深くて、戻れなくなっているんだよ」
「えぇぇええ?!」

 リリアとキリクは絶叫し、「どうしよどうしよ」と狼狽えます。

「キリク、秘密基地にロープがあったよね。あれを借りてもいいかな? 僕が降りて、ポックルを引き上げるよ」

 クロルの落ち着いた声に、キリクは「うん!」と頷き、秘密基地からすぐに一本のロープを取ってきました。
 そのロープを、クロルは近くの樹の幹にしっかりと括り付け、余った部分を穴の中へと垂らします。

「いちおう、ロープが外れないか見ていて」

 クロルは二人にそう告げると、ロープを掴みながら穴の壁面に足をかけ、ゆっくりと降下していきました。
 その様子を、キリクが不安げな表情で見送ります。

「大丈夫かな……」
「大丈夫。クロルはすごいんだから!」

 その横で、リリアが自慢げにそう言いました。

 一方、穴の中を降りてゆくクロルは、空気の流れや音の反響から、この穴が想像以上に深いことを感じていました。
 日の光は次第に届かなくなり、視界は真っ暗です。もしかすると、三階建ての建物くらいの深さがあるかもしれません。

「ポックル……無事に着地していればいいけど」

 と、クロルが呟いた、その時。

「その声は……クロルか?! ニャァアッ、助かったニャ!!」

 下の方から、そんな声がこだましました。その必死な声色に苦笑しながらクロルが慎重に降りてゆくと、程なくして穴の底へと降り立ちました。
 瞬間、もふもふしたものが勢いよくクロルの顔面に貼り付きます。

「ウニャァァアアン! 怖かった! 怖かったニャァアァアッ!!」
「はいはい、わかったから。一度離れてね」

 クロルは泣き噦るポックルの身体を顔から引き剝がします。そして、常に背負ったままだったリュックを背中から下ろすと、手探りで中から何かを取り出しました。
 地面に降ろされたポックルが不思議そうに首を傾げていると……突然、目の前に眩い光がぱっと現れました。

「電池式のランタンだよ。早速、役に立ってよかった」

 それを片手にぶら下げながら、笑みを浮かべるクロルを見上げ、

「……お前、こニャいだのウソをホントにしたな?」
「まぁね。ああ言っちゃったからには、ちゃんと入れておかなきゃと思って。非常グッズ」
「……つくづく、(ニャに)を考えているかわからニャいヤツだ」

 目を細めて言うポックルに返事をしないまま、クロルはリュックを背負い直すと、ランタンを掲げて穴の底を見回します。

 直径三メートル程の、それほど広くない空間でした。土と石とが入り混じった地面は黒く湿っています。
 クロルが壁面に沿ってぐるりと回ると、一冊の本が落ちていました。キリクの漫画本です。

「あった。それじゃあ……」

 戻ろうか。そう言いかけて、クロルは言葉を止めます。
 漫画本を拾い、顔を上げたその正面……壁面の一部分に、人ひとりが通れるような横穴が空いているのを見つけたのです。

「ん、どうしたニャ?」
「……これ」

 尋ねるポックルに、クロルはランタンを掲げ、横穴を示します。

「……どこに繋がっているんだろう」

 クロルが呟くと同時に、その横穴の向こうから、微かに風が吹いてきました。どこか別の出口へと繋がっているのかもしれません。
 しかしポックルは、首を横に振って、

「どうでもいいニャ。早く地表へ戻るニャ」

 真っ暗な穴の底にいたことがよっぽど怖かったのか、急かすように言いました。
 クロルは「わかったよ」と笑い、ポックルを抱きかかえ、ロープに手をかけようとして……

 ふと、そのロープが左右にゆらゆらと揺れていることに気が付きます。
 それは、風で揺れているというよりは、明らかに人によって揺らされているような動きで……

「……まさか」

 クロルが上を見遣ると、案の定、リリアとキリクがロープを伝って、穴の底を目指し降りてきているではありませんか。

「あっ、いたいた! おーいクロルー! ポックルー!!」

 こちらを見下ろしながら、リリアが明るい声で呼びかけます。その少し上の位置では、キリクが必死な表情でロープを掴んでいました。
 しかしクロルは、慌てて二人を見上げ、

「そのロープ、二人分の体重は支えられないかも! リリア! 受け止めるから飛び降りて!」

 と、大きな声でいいました。
 その言葉に示し合わせたかのように、ロープがギシッと嫌な音を立て……リリアとキリクの顔が一気に青ざめます。

「ど、どどど、どうしよう……! リリア、飛び降りるなんてできる……?」

 額から汗を垂らしながら、キリクが尋ねます。
 確かに、穴の底まではまだ五メートルはあります。飛び降りるには勇気のいる高さでした。
 しかし、リリアは微笑んで、

「平気! だって、羽があるもん!」

 そう、返しました。
 そして彼女は、

「クロル、受け止めて!」

 迷うことなく、ロープから手を離しました。

 左右に広げた羽に風を受け、リリアはゆっくりと下降していきます。
 キリクもポックルも、そしてクロルも、驚いたようにその姿を見つめました。

 ランタンの光に照らされた白い羽と金色の髪が、きらきらと輝いています。
 その、神々しさすら感じる美しい光景に……

 ――嗚呼、もしかしたら本当に、彼女は空から舞い降りた天使なのかもしれない、と……

 クロルは無意識の内に、そんなことを考えていました。

 静かに、壊れ物を扱うかのように優しく、クロルはリリアを抱きとめました。
 その温かなぬくもりに、頭がぼうっとしそうになります。
 が、リリアがすぐにパッと離れ、

「キリク! ロープが切れる前に急いで戻って!」

 そう叫んだので、クロルも再びそちらを見上げます。キリクは「う、うん!」と返事をすると、慌ててロープを登り始めました。

 ……しかし。
 キリクが掴んでいる手の、少し上の辺りで……

 ――ブツッ。

 ……と、ロープが切れました。

「……え。わ、うわぁぁああああっ!!」

 キリクは、千切れたそれを握りしめたまま、悲鳴と涙をこぼしながら、穴の底へ真っ逆さまに落下します。
 クロルとリリアが受け止めようと慌てますが、間に合わず……あえなくキリクは、冷たい地面にお尻を叩きつけました。

「いったぁい!」
「キリク! 大丈夫?」

 リリアたちはキリクに駆け寄り、心配そうに様子を伺います。どうやら彼も背中の羽で落下が緩やかになったらしく、大きな怪我には至りませんでした。

 しかし、ロープは穴の底からでは届かない位置で千切れてしまいました。これでは地表へ戻る術がありません。

「……二人とも、どうして降りてきちゃったの?」

 クロルが困ったように尋ねると、リリアとキリクは一度顔を見合わせ、

「ごめん。私は興味本位」
「僕は……僕の漫画だから、やっぱり僕が取りに行かなきゃと思って……ごめん……」

 けろっと言うリリアの横で申し訳なさそうに俯くキリクに、クロルは微笑みながら先ほど拾った漫画本を差し出します。キリクは顔を上げ、「ありがとう」と言いました。

「さて。これからどうやって地表へ戻るかだけど……さっき、あそこに横穴を見つけたんだ。空気の流れがあるから、どこかへ繋がっているかもしれない。行ってみよう」
「クロル……勝手に降りてきたこと、怒ってないの?」

 リリアが、伺うように問いかけます。
 それにクロルは、

「当たり前だよ。怒ったって仕方がないからね。それに、元はと言えばポックルが後先考えずに飛び込んだのが原因だし」
「ニャッ?! おれのせいだって言いたいのか?!」

 毛を逆立てるポックルに、クロルは「冗談だよ」と笑い、

「とにかく、ここにいたって何も変わらない。この穴の先へ進もう」

 ランタンを掲げながら、二人と一匹に向け、そう言いました。

 


 その横穴は、人ひとり通るのがやっとの高さと横幅でした。
 真っ暗闇の中、たった一つのランタンだけが頼りです。

 クロルを先頭に、ポックル、リリア、キリクの順番で、三人と一匹は団子のようにくっつきながら、ゆっくりと進んで行きました。

「キリク。この穴って、誰がなんのために造ったものなのか知ってる?」

 クロルの声が、狭い通路に響きます。
 キリクは首を横に振り、

「それがわからないんだ。友だちから聞いた話によると、森の中にはここと似たような穴ぼこがいくつかあるらしくて……母ちゃんに聞いてみても『知らない。けど、危ないから近寄るな』ってさ。アナグマか何かが掘ったものなのかな?」

 クロルは「そう」と短く返してから、壁面に目を向けます。

 土の削れ方から見るに、これは動物が掘ったものではなく、人が意図的に造ったもののように思えるのですが……そのことは口にしないでおきました。

「それにしてもポックル、あんな高さから落ちても怪我一つしていないなんてスゴイね。さっすが猫!」

 リリアにそう言われ、ポックルは得意げに顎を上げます。

「ふふん、まぁニャ。猫サマには怖いものニャどニャいのだ」

 それを聞いたクロルが振り返り、意味ありげな視線をポックルに送りますが……

「…………言うニャよ」

 ポックルに睨み返されたので、彼が散々怖がっていたことは伏せておくことにしました。


 暗くて深いこの穴の中から、果たして抜け出すことができるのか。
 考え出すと足が止まってしまいそうだったので、三人と一匹はなるべくおしゃべりをしながら先に進みました。

 その中でリリアが、「この街の住み心地はどう?」と、キリクに尋ねました。

「どう、って……普通の街だよ。良く言えば平和、悪く言えば退屈。みんな普通に学校や仕事に行って、家に帰って、ご飯を食べて寝る。その繰り返しさ。その分、有翼人には住み心地が良いと思うけどね。ここでは羽があることの方が当たり前で、それによって傷付けられたり、差別を受けたりすることはないから。他所からの移住者も時々いるよ」

 キリクの答えに、リリアは「そっか」と言って、考え込むように俯きました。
 その様子を、クロルが無言のまま横目で見つめていると……

「見ろ。アレ」

 ポックルが前方を向きながら、声を上げました。
 三人もそちらに目を向けます。

「道が……二手に分かれている」

 キリクが呟きます。
 彼らの目の前で、道が左右に分岐しているのです。

「どっちに進めばいいの……?」

 戸惑うリリアの声を聞きながら、クロルは人差し指を舐め、かざします。
 どうやら左の方の穴から微かに風が吹いているようです。

 と、そこでポックルがクロルの肩にぴょんと飛び乗り、

「……右の方からは、妙ニャ()()()がするぞ」

 クロルにしか聞こえないように、耳元で言いました。
 クロルにはまったくにおいなど感じられませんが、その情報を自分にだけ伝えてきたことの意味を、クロルは考え……

「……左から風を感じる。けど、右の道に出口がある可能性もゼロじゃない。僕とポックルで少し様子を見てくるから、リリアとキリクはここで待っていて」
「えっ?! ってことは僕ら、この真っ暗闇の中で待っていなくちゃいけないの?!」

 クロルの言葉に、キリクは声を震わせます。

「君たちが二百かぞえる間に戻ってくるから。何かあったら、大声で呼んで」

 不安そうに「でも……」と言いかけるキリクの背中を、リリアがぽんと叩きながら、

「わかった。二百かぞえる。終わってもクロルが戻って来なかったら、大声で呼ぶね」

 そう言って、明るい笑顔をクロルに向けます。
 それに、クロルも微笑み返し、

「うん。念のため、道が続いていそうか見てくるだけだから。少しだけ、待っていてね」

 力強く頷くリリアと、今にも泣き出しそうなキリクを分岐点に残し……
 クロルとポックルは、右側の穴の先へと歩き始めました。



「――よっぽどお前のことを信頼しているんだニャ、リリアは」

 リリアとキリクの数をかぞえる声が遠ざかった頃、ポックルがぼそっと言いました。
 クロルは肩を竦め、答えます。

「そうかなぁ。だとしたら申し訳ないな。こんな嘘つきなのに」
「フン、思ってもいニャいことを」
「思っているよ。僕は本当に最低な人間だ、って」
「……それより、そろそろお前も感じニャいか?」

 ポックルが、低い声音でそう言います。
 それだけで、クロルにはその意味がわかりました。

「うん。感じるね。何かが……腐敗したにおいだ」

 答えながら顔を上げると、その先の景色が少し変わりました。
 もぐらの穴のようにただ真っ直ぐだった道が、広い空間で行き止まったのです。

 ドーム状に丸く削り取られた天井と壁。
 その、円形の地面には……

「ニャんだこれ……すごい数だニャ」

 言いながら、ひどい悪臭にポックルが前足で鼻を押さえます。

 そこにあったのは、原型がわからないほどに腐り果てた……肉の山でした。
 一個一個の大きさは鶏一羽分ほどでしょうか。それがいくつも重なり合い、一つの大きな肉塊と化しています。

 クロルは躊躇なくそれに近付き、しゃがみ込んでじっくり観察します。
 赤黒く変色した皮膚の至る所から白い骨が覗き、明らかに生き物の亡骸であることが伺えました。

「そんニャに近付いて平気ニャのか? (ニャん)の肉かわかったもんじゃ……」
「ヒトだよ」

 はっきりと言い放たれたクロルの言葉に、ポックルが「え?」と聞き返します。
 クロルは、なおも顔色一つ変えずに、

「厳密に言えば、赤ん坊の肉。つまり、死体だ」

 と、落ち着いた声で言いました。

「ニャ……(ニャん)でそんニャものがここに……!?」
「よく見て。これ」

 動揺するポックルに、クロルが足元にある死体を一つひとつ指差しながら、

「どれも羽がない。これも、これも、これも……たぶん羽を持たずに生まれたから、生後すぐに処分されたんだ」
「処分? 一体誰がそんニャことを……」
「さぁ。産んだ母親かもしれないし、取り上げた病院かもしれない。おそらく有翼人同士の子どもの中にも一定数、羽を持たずに生まれてくる子がいるんだろう。リリアの母親には羽がなかったらしい。なら、逆も然りだ」
「けど……羽がニャいからって、ニャにも殺すことは……」
「やだなぁ、ポックル――何を言っているの?」

 クロルは軽い冗談を諌めるかのように、ポックルの方を振り返ります。

「ここは"有翼人の街"だよ? 羽のない人間はいらないんだ。それに、羽がないままこの街で生き長らえたところで、酷い扱いを受けるだけ。この街には、羽のない人間に虐げられ、逃げてきた人たちがたくさんいるだろうからね。だから殺す。簡単な話さ」
「……お前は、こんニャ恐ろしい街にリリアを住まわせるつもりでいるのか?」
「恐ろしい? 他と変わらないじゃないか。同じ容姿や、同じ考えの者同士で群れていたい。自分と違うものは排除する。傷付かないために。争わないために。これまで見てきたどの街もそうだった。それが、この世界だよ。それが……僕たち、人間なんだよ」

 そう言って……クロルは、諦めたように笑いました。
 そして、

「……傷付くことのない、素晴らしい街じゃないか。だから、僕は…………」

 ……と、そこまで言いかけたところで。


「クロルーっ! ポックルーっ!!」


 穴の向こうから、リリアとキリクの呼ぶ声が聞こえてきました。どうやら二百秒をかぞえ終えたようです。

「……いけない、少し喋り過ぎちゃったね。戻ろう。でも、よかった。ここにこんな処分場があるということは、人が出入りできる場所があるってことだから……」
「クロル」

 リリアたちの元へ戻ろうと歩き始めるクロルを、ポックルが後ろから呼び止めます。

「……お前も、もっと自由に生きればいい」

 そのポックルの言葉に、しかしクロルは自嘲気味に笑って、

「……それができていたら、こんな風にはなっていないよ」

 振り向かないまま、そう返しました。



「――お待たせ。ごめんね、二百秒過ぎてしまって」

 リリアとキリクの元へ戻ると、二人のほっとした顔がランタンに照らされました。

「もーっ、心配したよ!」
「ごめん、リリア。でも、収穫があったよ。行き止まりだったけど、比較的新しい足跡があるのを見つけたんだ。きっと外へ通じる道があって、人が出入りしているに違いない。左の道を進めば、外へ出られるかも」

 クロルの報告に、リリアとキリクは明るい表情を浮かべました。
 嘘ではない、しかし全てを語っているわけでもないその言葉に、ポックルは何も言いませんでした。

 気を取り直し、三人と一匹は左側の道を歩き出します。
 進むに連れて道幅も天井も、徐々に広く、高くなってゆきました。空気の流れも、確かに感じられます。
 この先に、出口がある。誰もがそう確信して、歩を進めました。

 そうして、十分ほど歩いたでしょうか。
 突然、その道が途切れました。

 三人と一匹が行き着いたのは、円柱状の空間……つまり、彼らが落ちたあの穴と同じような場所だったのです。
 どこかへ通じる扉や、地表へ上がれそうなロープはありません。頭上には穴が空いているのか、それとも何かで塞がれているのか、ランタンの光量では確認できませんでした。

「嘘でしょ……結局、行き止まりなの?」

 キリクが青ざめた顔をして辺りを見回しますが、出口らしいものは見当たりません。

「クロル……どうしよう……」

 リリアも不安げな声で、縋るように言います。
 クロルはランタンを掲げながら、果ての見えない天井部分をゆっくりと観察しました。
 そして一度、その灯りを消しました。突然視界が真っ暗になり、キリクたちは「ひゃっ!」と声を上げます。

「何?! まさか、ランタンが壊れちゃったの?!」

 キリクがいよいよパニックを起こしかけながら訴えますが、クロルは「上を見て」とだけ返します。
 キリクも、リリアも、ポックルも、言われるがままに頭上を見上げると……

「……あ!」

 真っ暗な天井の一部分。そこに、丸く象られた光の筋が差しているのが見て取れます。
 それはまるで、マンホールの隙間から日の光が漏れているかのようでした。

「たぶん、この穴への出入り口だ。時間的にはもう日が暮れているから……恐らくあれは人工の光。向こうに呼びかければ誰かいて、気付いてくれるかもしれない」

 クロルのその言葉を聞くなり、キリクとリリア、それにポックルまでもが「おーい!」と大声で叫び始めました。
 僕は、私はここにいると、一生懸命に叫びました。
 
 すると、光が漏れていた蓋がギィッ、と開いて、

「……やだ! 坊やたち、ここで何しているの?!」

 白衣を着た年配の女性が顔を出し、驚いたようにこちらを見下ろしました。

 


 その扉は、街で唯一の病院の地下室に繋がっていました。
 声を聞きつけ、扉を開けてくれた看護師さんに梯子を下ろしてもらい、三人と一匹は無事、穴の底から脱出することができました。

 それとほぼ同時に、ジーナ先生と、漫画本を落とした張本人であるウドルフが、血相を変えてその部屋に飛び込んできました。
 なんでも、ウドルフが様子を見に森へ戻ったらキリクたちの姿がなく、代わりに千切れたロープが残されていたため、穴の中へ落ちたのではないかと思い、慌ててジーナ先生に助けを求めたのだそうです。

「呼びかけても返事がないから、落っこちて気を失っているんじゃないかと思って……こっちの出入り口から入ってみようと駆けつけたところだったのよ。まったく、心配かけて」

 胸をなで下ろすジーナ先生に、キリクたちは「ごめんなさぁい」と頭を下げました。

「私に謝るよりも……キリク、ウドルフ。あなたたちは、お互いに謝りましょう」

 先生のその言葉に、当人たちはお互いをちらりと横目で見ます。
 ウドルフは口を尖らせていますが、キリクはそんな彼の正面に立ち、

「……ごめん、ウドルフ。盗んだなんて言って」

 そう、頭を下げました。
 ウドルフもぐっと唇を噛みしめて、

「……悪かったよ。お前のもの勝手に取って、穴に落としたりして。ただ……」

 ふいっ、と少し照れ臭そうに視線を逸らし、

「……お前らがいつもコソコソ作ってた秘密基地、いいなぁって思ってたんだ。だから、その……」

 と、珍しく歯切れの悪い言い方をするので、キリクは明るい表情を浮かべ、

「なんだ。だったら明日からおいでよ! まだまだ改造したいんだ、秘密基地!」

 そう言いました。キリクの返答に、ウドルフも「へへっ」と笑って鼻の下を擦ります。
 その様子を、クロルとリリア、ジーナ先生が笑顔で見守りました。

 そしてふと、リリアが、

「でも、クロル。どうして天井に出入り口があるってわかったの?」

 隣に立つクロルに尋ねます。
 彼は「ああ」と言って、

「位置的に、病院の真下辺りだろうなって思ったんだ。この街の地図は頭に入っていたから、だいたいどこを歩いているのかわかったんだよ。これは憶測だけど……あの地下道は、戦争の時に使われていた防空壕か、避難するための隠し通路だったんじゃないかな。だから、その時の名残で病院っていう大事な施設に繋がっているんじゃないか、って思って」
「その通りよ」

 と、クロルの台詞をジーナ先生が肯定します。

「この地下道は、戦争時代の名残り。悲しい記憶を後世に伝えるため、あえてそのまま残してあるの。子どもたちには今度、授業で教えるつもりだったんだけど……こんなことがあったんじゃ、その予定を早めた方が良さそうね」

 ため息をつく先生に、キリクとウドルフは再び「ごめんなさぁい」と声を揃えました。

「ふふ、冗談よ。さ、お家の方も心配しているわ。早く帰りましょう」

 ジーナ先生に促され、子どもたちとポックルは一つ上のフロアにある病院の玄関口へと向かいました。
 子どもたちはジーナ先生と、見送りに来てくれた看護師さんたちに別れを告げ、各々の家路につこうとします。
 ……が。

「――あ、待って。あなたたち……」

 ジーナ先生が、何か思い出したように彼らを呼び止めます。
 そして、心優しい先生の笑みを浮かべ、

「……あの地下道で、何か変なものは見なかった?」

 問いかけるその後ろで、病院の看護師さんたちも不自然なほどにこやかな表情を浮かべ、こちらを見つめてきます。

 クロルとポックルに、緊張が走ります。
 しかし、すぐにキリクが、

「変なもの? いいや、見ていないよ。どこを見ても茶色い土壁だったからね。もうこりごりさ」

 あっけらかんと答えてくれたので、ジーナ先生も看護師さんたちも本当の笑顔に戻り、

「……そう。ならいいけど。危ないからもう二度と、あそこへは降りないでね」

 最後にそう忠告し、こちらに手を振りました。



「はぁー。外の空気がこんなにおいしいだなんて、知らなかったなぁー」

 病院を離れ、家へと向かう道すがら。キリクは深呼吸して言います。
 それから、リリアの側に駆け寄り、こう尋ねます。

「リリア、この街に住むかどうか決めた? 怖い思いをさせちゃって悪かったけど……僕はこの街が大好きなんだ。平和で退屈だけど、たまにはこんな冒険があったり……みんなもとても親切で、街全体が家族みたいなんだよ。もちろん、時々喧嘩もするけどね」

 言ってキリクは、ウドルフと目を合わせて笑います。

「ここにいれば、人目を気にしたり、周りとの違いに悩んだりすることもなくなると思う。だから……どうかな?」

 キリクの問いに、リリアは俯いたままじっと考え込みます。
 クロルとポックルは何も言わずに、彼女の言葉を待ちました。

 その沈黙を破るように、ふとウドルフが口を開きます。

「クロルは、どうするんだ?」
「え?」

 突然、話の矛先を向けられ、クロルは思わず聞き返します。

「クレイダーの運転手ってことは、お前も住む街を探しているんだろう? それとも、もう降りる街を決めているのか?」

 続くウドルフの問いかけに、今度はリリアが「え?」と声を上げます。

「クロルも……住む街を、探しているの……?」

 そうクロルに尋ねますが、代わりにウドルフが、

「お前、そんなことも知らないのか? 移住希望者が新しく住む街を目指しながらついでに働く、それがクレイダーの運転手だろ? 常識じゃねぇか」

 キリクが「ウドルフ、言い方が意地悪だよ」と注意しますが、リリアはそれどころではなく……

(移住を希望している人がなる職業。それが、クレイダーの運転手……?)

 クロルは、ずっと運転手でい続けることが当たり前のような口ぶりでリリアに接してきました。
 しかし今思えば、これまで「住む街を探しているの?」と声をかけてくれた人たちは、いずれもリリアにだけではなく、二人に向けて尋ねてきていました。

 クロルも、自分と同じように、住む街を探している。
 だったら彼は……どうして元の街を離れ、そして、何処を目指しているのだろう。

 答えを探るように、リリアはクロルを見つめますが……彼は何も言わずに下を向いています。


 ――結局、リリアへの問いも、クロルへの問いも答えは出ないまま、二人と一匹は、キリクとウドルフと別れました。



 * * * *



 ――クロルとリリアとポックルは、クレイダーに戻ってきました。
 そして無言のまま、クロルが一両目の自分の部屋へと向かうので、

「待って!」

 リリアは追いかけて、その腕を掴みます。

「ねぇ、クロル……教えて。あなたは、どこから来たの? どうしてクレイダーに乗っているの? そして……これからどこへ向かうつもりなの?」

 ずっと聞きたかった。けど、はぐらされて教えてもらえなかったことを、彼女はついに尋ねました。

 少しの沈黙の後……クロルは背を向けたまま、こう聞き返します。

「……どうだった?」
「え?」
「この街。リリアが住みたいと思える街だった?」

 リリアが答えに迷っていると、クロルが続けて、

「すごく、いい街だったよね。子どもたちはみんな楽しそうで、先生や大人たちも親切だった。普通に学校に通って、普通に友だちと遊んで、時には喧嘩して。みんな同じ羽を持っているから、ここではそれが普通なんだ。キリクの言う通り、傷付くことのない素敵な街で……」
「……私のことよりも!」

 俯いたまま発せられるクロルの言葉を遮り、

「……私のことよりも、クロル。あなたのことを教えてよ。私、あなたのこと……ちゃんと知りたい」

 リリアは、泣きそうに顔を歪ませます。
 クロルはようやく振り返り、その瞳を見つめ、

「……君が『この街に住む』って言ってくれるまで待ちたかったけど……そうだね。もう時間もないし、ここいらが潮時だ。……いいよ。本当の僕を教えてあげる」

 悲しげに笑いながら、言いました。
 そして、ずうっと背負っていた大きな革のリュックを、その肩から外し……


「……ごめんね。僕は、最初から――――君に、嘘をついていたんだ」

 
 ――その光景に。
 リリアは、潤んだ瞳を大きく見開きました。

 そこに映るのは、一対の羽。
 クロルの背中から生えた、リリアのものとよく似た羽です。

 しかし、リリアのものとは、明らかに違いました。
 何故なら、その色は…………

 
 夜の闇にも似た、深い深い、黒色だったのです。
 

  


 四角いテレビ画面と、丸い窓から見える景色。
 それが、僕の世界の全てだった。

 
 僕の生まれた場所は、"嘘のない街"と呼ばれていた、らしい。
 らしい、としか言えないのは、ほとんど外の状況を知らずに育ったからだ。

 二階建ての、質素な家。
 その家の、狭くて暗い屋根裏部屋が、僕の居場所だった。

 家族は母親だけ。父親は知らない。
 母さんは昼間、学校の先生として働いていて、夕方に帰ってくると夕ご飯を作って屋根裏部屋まで持ってきた。
 休みの日には読み書きや、いろんなことを教えてくれた。僕が退屈しないよう、定期的に新しい本も持ってきてくれた。
 けれど、トイレとお風呂以外、僕がこの部屋から出ることを決して許さなかった。

「もう暗いから、テレビは消しなさいね」

 夕食の食器を下げる時は、決まってそう言う。
 テレビを点けていると、窓から光が漏れて、外から見えてしまうからだ。

 灯りのない屋根裏部屋は、テレビを消すと真っ暗になる。窓から差し込む月明かりだけが、部屋を仄かに照らした。
 それを見上げるように寝転がり、月がゆっくりと動いていくのを眺めている内に、眠ってしまうことが多かった。
 

 僕は、"存在しない存在"。
 母さん以外には知られていない、居ないはずの人間。
 ……いや、恐らく人間ですらないんだ。

 本で読んで知っていた。
 僕みたいに黒い羽が生えた者を、『悪魔』と呼ぶことを。
 母さんも、テレビの中の人も、窓の外の子どもたちも、羽なんか生えていない。

 僕だけ。僕だけが違う。
『悪魔』は悪い存在。
 だから、この部屋から出てはいけないんだ。

 そんな風に、ずっと自分に言い聞かせ……
 ここから出ることを、諦めていた。



 ――僕が外の世界について知ったのは、十歳の時だった。
 終戦記念日の特集番組で、ここ以外にも様々な街があることを知ったのだ。

 十一歳の誕生日、僕は母さんに、「世界のことがわかる本が欲しい」と言ってみた。
 自分からプレゼントを欲しがるのは初めてだったので、母さんは渋りながらも全ての街が載ったガイドブックをくれた。

 そこに描かれたこの街の地図を見て、僕は感動した。
 部屋の窓から見えるものが"クレイダー"という列車の線路で、自分の家がどのあたりで、母さんが勤める学校がどの辺りにあるのかがわかったからだ。

 まるで、空の上から街を見下ろしているような気分。
 この時僕は、初めて思ってしまった。

『外に出て、歩いてみたい』と。

 ふと、窓の外を見る。
 そこには、学校を終えて遊び回る子どもたちや、母親と手を繋いで歩く子どもの姿がある。

 ……どうして僕は、あそこにいないんだろう。
 答えは決まっている。僕が、悪魔だからだ。



 ――それから僕は、毎日飽きもせずにこの街の地図を眺めた。

 向かいの家の男の子は、この道を使って学校へ通っているのかな。
 母さんは、このお店で買い物をして帰って来るのかな。
 僕だったら、この道をこう通って、ここまで行って……

 そんな答えのない遊びに、時間が過ぎるのも忘れて夢中になった。

 地図の横には、この街の紹介文が載っていた。
『嘘のない街』。
 正直に生きたい人・本音で語りたい人におすすめの街。
 住む上でのルールはただ一つ。
 決して、嘘をつかないこと。

「…………」

 僕はガイドブックを持ち上げ、その紹介文の続きを読み始める。
 その時、家の呼び鈴が鳴ったので、驚いてガイドブックを床に落としてしまった。
 一階にいる母さんが「はーい」と言いながらドアを開ける音がする。続けて、来客者らしき人の声が聞こえてきた。

「こんにちは、先生。休みの日にごめんなさいね」
「あ……大家さん、こんにちは」
「なんか屋根裏の方から音がしたけど……ねずみでもいるのかしら?」
「あ、いえ……さっき授業の資料を整理したので、本が倒れたのかも」
「そう、ならいいんだけど。先日話した通り、この家を貸したい人がいるのよ。知り合いの息子さん夫婦なんだけど……転居の件、前向きに考えてくれた?」
「え、ええ……まぁ……」
「先生にはここよりも築年数が浅い綺麗なアパートを紹介するから。家賃も安くなるし、職場も近くなるし、悪くないでしょ? それに、一人暮らしなのにこんな一軒家、かえって寂しいんじゃないかって申し訳なく思っていたの。本当よ?」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「いえいえ。じゃあそういうことだから、今月中に結論出してちょうだいね。それとこれ、おすそ分け。ピクルスを漬けたから、よかったら食べて」
「いつもすみません」

 そんなやり取りの後、ドアがバタンと閉まる音がして。

「………………」

 しばらくして、「パリーンッ」という何かが割れる音。
 そして、母さんのすすり泣く声が聞こえてきた。
 
 ……母さんは、『正直』とか『本音』とは正反対の性格をした人だった。
 家に来る人への対応や電話でのやり取りを聞いていて、母さんはいつも相手の顔色を伺い、相手に合わせた言葉でしか話せない人なのだということを知っていた。

 僕はそれを、『優しさ』とか『思いやり』だと思っていた。
 だけど……それはきっと、間違いだったんだ。



 * * * *



 ある晩。
 僕がいつものように、月明かりを頼りに地図を眺めていると、母さんの声が聞こえてきた。

「ええ……ええ……それじゃあ明後日、こちらに着くのですね」

 誰かと電話しているようだ。
 僕は地図に目を落としながら、なんとなくそれを聞いていた。

「そうなんです……今月中に家を明け渡さなくちゃいけなくて……見つかると厄介なことになるので……ええ」

 僕は、大家さんと母さんとの会話を思い出す。
 この家を、別の夫婦に貸すという話。
 あの後何回か大家さんが来たようだけれど、母さんは転居を断りきれなかったようだ。

 そうなると、僕を隠しておく場所がなくなってしまう。
 そうなると……『厄介なことになる』。
 今しているのは、つまりそういう話だろう。

「……では、宜しくお願いします。はい。夜中の内に引き渡しますので」

 胸の鼓動が、どんどん速くなる。

 母さんは、僕の存在をひた隠しにしてきた。
 はぐらかしながら、嘘をつきながら。
 でも、この『嘘のない街』で、僕という"悪魔(うそ)"を隠し続けることは難しい。

 だから、転居を機に『引き渡す』ことにしたのだろう。
 僕の身柄を、知らない誰かに。

「…………っ」

 背中を、冷たい汗が伝う。
 全身が震えるのを自覚しながら、僕は母さんにもらったガイドブックを、ぎゅっと胸に抱いた。
 
 


 ――その二日後。
 僕が、誰かに引き渡される予定の日。

 前の晩からほとんど眠ることができなかった僕は、窓の縁にもたれかかり、夜明けと共に街へやってきたクレイダーが走るのを、ぼうっと眺めていた。

 母さんはなんでもない様子で、いつも通り仕事へ出かけて行った。
 母さんが不在の間、何度も家を出てみようかと考えたけれど、窓から通りを行き交う人々が見えると、どうしようもなく怖くなってやめた。

 そして何もできないまま午後八時になり、母さんがいつも通り食事を持って来た。
 僕の大好きな、ハンバーグだ。

「……いただきます」

 これが、母さんの作る最後のご飯になるのかな。
 そう思うと、なかなか手が付けられなかった。

「どうしたの? 食べないの?」

 母さんが、静かな声で尋ねる。
 その表情からは、何の感情も読み取れない。

 ……本当に、なんともないのかな。
 僕と離れることを、なんとも思っていないのかな。
 僕は、怖くて仕方ないのに。
 生まれてからずっと、この部屋と、母さんしか知らずに育ったのに。
 急に、引き離されるなんて。

 ……それとも。
 こんな厄介な悪魔の世話から解放されて、母さんは、清々するのだろうか……?


「……ねぇ、母さん」

 僕が呟いた、その時。
 一階で、電話が鳴った。

 母さんは心当たりがあるようで、すぐさま屋根裏部屋を出て、階段を駆け下りて行った。
 開け放たれたドアの向こうから、電話に応じる母さんの声が聞こえてくる。
 恐らく相手は……僕を引き渡す予定の人だ。

「…………」

 僕は、煩いくらいに鳴り響く心臓を抑え込み……
 そっと、ドアの外へ、足を踏み出した。

 母さんは、まだ電話をしている。
 その声を聞きながら、音を立てないように階段を降りる。

「……はい、眠っている間に……ええ。あれを口にしたらしばらくは起きないかと……」

 ドクン。
 心臓が、一際強く脈打った。

『口にしたらしばらくは起きない』

 ……そうか。つまり、あのハンバーグには……
 僕の大好物には、僕を眠らせるための"何か"が、混入されていたのだ。

「…………ッ」

 僕は一気に階段を駆け下り、玄関に掛けてあった母さんのコートを羽織ると、そのままドアを開けて外へ飛び出した。
 母さんの慌てた声が後ろから聞こえるけれど、構わずに走り出す。

 自分の靴なんてもちろんないから、裸足だった。
 走ること自体初めてで、何度も足がもつれたけれど、それでも無我夢中で足を動かし続けた。

 賑やかな昼間と違い、通りに人はいない。
 その代わり、周りの家から美味しそうなにおいと、楽しそうに食事をする声が聞こえてきた。

 それを別の世界のことのように感じながら、僕はひたすらに走って、走って――



「――ハァ……ハァ……」

 気がつくと僕は、開けた土地と、その奥に四角い建物がある、そんな場所に辿り着いていた。門の横には、『学校』の文字が見える。

 ……そうか。ここは、母さんが勤める学校だ。地図の上では何度も通ったことがある。

 門の横にある通用口のドアノブをひねると、鍵がかかっていないらしく、簡単に開いた。
 敷地に入り見回すと、外壁に沿うように木が植えられており、いくつかの遊具もある。
 その内の、テレビで見て以来乗りたいと思っていたブランコに、腰掛けてみた。

「………………」

 どうしていいかわからず、とりあえず座って、肩から羽織ったコートをぎゅっと握る。
 少しだけ、母さんの匂いがした。

「…………う……うっ……」

 堪えていた涙が、嗚咽と共に溢れ出す。

 昼間、きっとこのブランコにはたくさんの子どもたちが集まって、友だちと楽しく遊んでいるのだろう。
 その子たちと僕は、どうして違うのだろう?
 なんでこんな羽なんか生えているのだろう?
 自由に生きることも、逃げ出すことも許されないのなら……いっそ、殺してくれればよかったのに。
 それとも、今日僕を引き取るはずの誰かは、僕を殺すつもりだったのかな?

「……それでもいいや」

 空を見上げると、まん丸の月が、夜をくり抜いたように白く輝いていた。
 いつも窓越しに見つめていた月。こうして外で見る方が、ずっとずっと綺麗だった。

 人は死ぬと、星になれるらしい。
 僕みたいな悪魔でも……死んだら星になれるのだろうか?

「……側に行ったら、仲良くしてね」

 そう、月に語りかけて……
 そこで、僕の意識は途切れてしまった――

 


「――……い……おい! 君!」

 誰かが、僕の身体を強く揺する。

「……ん……」

 目を覚ますと、腕が痺れていた。
 どうやらブランコにうつ伏せになりながら眠っていたらしい。

 声の方を見上げると、口髭をたくわえた初老の男性がこちらを覗き込んでいた。

「君、大丈夫かね? お家の人は? どこか具合でも……」

 もうとっくに日が昇っていたようで、辺りが眩しい。
 僕は目を擦りながら周囲を見回すと……

 その男性の後ろに、たくさんの子どもたちがいた。

「う……うわぁぁああっ!」

 思わず後退りして、尻餅をついた。
 こんなに大勢の人を目の当たりするのは初めてだったから。

 その時、地面にへたり込んだ弾みで、肩から掛けていたコートが外れた。すると……

「きゃぁあああああっ!」

 子どもたちから悲鳴が上がった。
 僕はますます恐ろしくなって、身体を強張らせる。

「こ、この子……羽が生えてる……!」
「しかも真っ黒……!」
「俺知ってるぜ! これって……」


「「悪魔だ!」」


 僕を囲む複数の子どもたちが、一斉に言い放った。

 目の前の景色が、ぐるぐると回る。
 恐怖と緊張で、吐きそうになる。
 全身から冷たい汗が噴き出し、呼吸がどんどん荒くなる。

「な、なんで有翼人がこんなところに……この街には一人もいないはず……」

 初老の男性が困惑した様子で言った、その時。
 僕は、僕を指さす子どもたちの向こうに……
 この世界で唯一、知っている人の顔を見つけた。

「か……母さん……」

 僕のその呟きに、そこにいる全員が一斉に振り向いた。
 そこにいたのは――仕事着に身を包んだ、僕の母親。目の下にクマを作り、とても疲れた表情をしていた。

「カトレア先生……この子をご存知で?」

 初老の男性が、母さんに向き直って尋ねる。
 母さんは僕に気付くと、青白い顔をさらに青くして、

「あ……いや、私は……その……」

 と、口籠もりながら後退る。
 男性がさらににじり寄り、

「そういえばこのコート、カトレア先生のものとよく似ていますね? まさか、ですが……」

 ザッ――と、子どもたちも全員、母さんの方を向いて、

「あなた……我々に何か嘘をついているのですか? この街で嘘をついたら……わかっていますよね?」

 その異様な雰囲気に、母さんは汗を流しながら息を詰まらせる。
 怯えているのか、身体がガクガクと震えている。


 なんだよ、これ……なんでみんな、こんなに怖い顔をしているの?
 確かにここは、嘘をついてはいけない街。
 だけど……

 嘘がバレてしまった人間は……一体、どうなるの……?


 と、朦朧とする頭で懸命に考えていると……


「いやぁーすみません。それ、自分が連れてきた子です」


 突然、そんな声が聞こえてきた。
 母さんの後ろを見ると、キャスケット帽を被ったつなぎ姿の男が、猫背気味に立っていた。母さんと同じくらいか、少し年上か。焦げ茶色の長髪を背中の辺りで一つに結んでいる。

「あなたは……クレイダーの運転手さん?」

 現れたその男に、初老の男性は不審な目を向ける。しかし、キャスケット帽の男は飄々とした態度で、

「そうです、昨日の便で来ました。そいつ、他所の街から乗って来た子なんすけど……夜中に抜け出して、ここで遊んでいたみたいっすね。もー、駄目だろー? 勝手に入ったらー」

 まったく緊張感のない、棒読みな声でそんなことを言う。
 もちろん僕はこんな男の人、知らない。
 けれど、母さんの表情と、男の口ぶりからわかった。
 この人が、僕を引き取る予定の人物なのだと。

「なんだ……そうでしたか。どおりで見たことのない子だ」
「そうでしょうそうでしょう。この街では一度も見たことがないでしょう」

 初老の男性の言葉に、キャスケット帽の男は肩を竦めて笑う。
 そして、そのままひょいっと僕を担ぎ上げ、

「じゃ、そういう事なんで。あー、カトレア先生……でしたっけ」

 男は、母さんの方を振り返る。
 母さんは、緊張した面持ちでこちらを見つめていた。

「すみませんでしたねぇ、変な疑いをかけさせてしまって。危うく"嘘つき"になるところでしたね。はっきり言っておいた方がいいんじゃないですか? あなたはこの子と、何の関係もないって」
「…………」

 男が、今までとは違う、低く暗い声で言う。
 母さんは、額に汗を浮かべながら俯く。
 続く言葉を、その場にいる全員が待っていた。


 ……いやだ。そんな言葉、聞きたくない。
 わかってる。わかっているから。
 母さんの望む通り、いなくなるから。

 だから……その言葉を、どうか口にしないで。


「…………ません」

 ……そう、願ったのに。
 母さんは、顔を上げ、


「……こんな子………………私、知りません」


 僕を見つめながら、はっきりと。
 そう、言った。

 その時、「カシャン」と音を立てて。
 僕の中で、何かが壊れる音がした。



「……じゃ、そういうことなので。お騒がせしましたー」

 男は、学校の外へと歩き出す。
 僕は肩に担がれたまま後ろを振り返り、もう一度母さんを見た。
 母さんは、じっとこちらを見てから……気まずそうに、視線を逸らした。

「…………いやだ」

 僕は、力の入らない手足をじたばたさせて、

「いやだ……母さん! 母さん!!」

 そう叫んで、暴れてみる。
 すると男は、躊躇いもなく僕を地面に放り投げた。
 背中を打ち付け、一瞬呼吸が止まる。
 うずくまる僕に、男はしゃがんで、

「こぉら坊主。その辺にしておきなさい。でないと、この街で嘘をついた人間は……」

 倒れたままの僕の胸ぐらを、ぐいっと持ち上げ、


「――死ぬよりひどい目に合わされるんだぞ……? だから、嘘はここまで。……わかったな?」


 軽い口調とは裏腹に、鋭く目を細め、そう言うので……
 僕は恐ろしくなって、暴れることも叫ぶことも諦めた。


 再び肩に担がれて、母さんからどんどん離されていく。
 母さんはもう、僕のことを見ていなかった。
 周りにいる子どもたちに、優しい笑顔を向けている。

 ……なんだよ、それ。
 なんでそんな顔、できるんだよ。
 なんでその笑顔を、嘘でも僕に向けてくれなかったんだよ。
 嘘つきのくせに。

「……嘘だ……嘘……全部……うそ……」

 僕の口から溢れるその呟きは、もう母さんの耳には届かなかった。

 


「……っ……うっ……」
「あーもう、いつまで泣いてんだよ」

 担がれたまま泣いている僕に、男は面倒臭そうにため息をついた。

「ほれ、着いたぞ。自分で歩け」

 今度はそっと降ろされ、地面に足を付ける。
 見上げると、目の前には、

「……クレイダー……?」

 ガイドブックの中と、窓の向こうでしか見たことのなかった片道列車が、そこにあった。
 白く塗装されたボディと大きな窓。一両目の側面には『九十九号』と書かれたプレートが光っている。

 男は段差を上り、後ろの車両に入っていく。
 その様を、僕がじっと見上げていると、

「……おい、お前も乗るんだよ」
「え?」

 振り返りながら呆れ気味で言われ、僕は躊躇いから、羽織ったままのコートをぎゅっと握った。
 男は「はぁ」とため息をつき、

「察しが悪いな。お前は母親に棄てられたんだ。これに乗って、この街を出るんだよ」

 頭ではわかっていたことを、あらためてはっきりと言われ、胸がズキンと痛む。

「……ああもう、泣くなって! ほら、乗るぞ!」

 男は頭をガリガリと掻いてから、僕の腕を掴んで引き寄せた。
 すると、その拍子に、羽織っていたコートが駅のホームに落ちた。

「あ……!」

 僕はそれを拾おうと手を伸ばす。
 しかし、男がぐいっと反対の手を引いて、

「おい。……そんなもの、どうする」

 そう、問いかけてくる。

「……そんなものがこれから、お前を護ってくれるのか?」

 僕は……伸ばした手を静かに下ろし。
 男に連れられて、クレイダーに乗り込んだ。


 
「――適当に座ってろ」

 ぶっきらぼうに言われ、僕は車内を見回した。
 後ろの車両は客室になっているらしく、左右に大きな窓と、そのすぐ脇に二段ベッドが置かれていた。
 ベッドに膝を立て、街と反対側の窓を覗き込むと、この世界の中心と言われる湖が見えた。

「うわぁ……」

 それは、想像よりもずっと大きかった。太陽の光を受け、湖面がキラキラと輝いている。あまりの美しさに、僕はしばらく無心で眺め続けた。

 ふと、男が進んで行った方を見ると、ドアがあった。
 その先をそろりと覗き込むと、左にトイレ、右にシャワー室がある。車両と車両の間にはこうした水回りの設備があるらしい。
 さらに奥には一両目のドアがあって、男はそこにいた。

 運転席と部屋が合わさったような、不思議な空間だった。
 正面の大きな窓――フロントガラスからは、ずっと先まで続く線路が見える。窓の下にはレバーやボタンが並んだ運転席があって、その手前、右側には簡易的なキッチンとベッド、左側には二人がけの丸テーブルが置かれていた。

 男は運転席の機械の前に立ち、腕時計を見てからボタンを一つ押す。すると背後からぷしゅーっという音がし、僕はびくっと身体を震わせた。どうやら二両目のドアが閉まったらしい。
 それから男は、機械の真ん中あたりにあるレバーをゆっくりと引く。それに合わせるように、列車がガタンと揺れた。

「…………?!」

 車輪が線路の上をゴロリと転がる感覚。
 このまま発車するようだ。

 心の準備をする暇も与えられず、僕は慌てて二両目に戻り、左側の窓――街の景色が見える方にへばり付いた。

 窓の外には、駅のホームに置いてきた母さんのコートが見える。
 けれどそれは、街の風景と一緒にどんどん後ろへ流れていき……あっという間に見えなくなってしまった。


 僕を棄てた母さん。
 臆病で、嘘つきな母さん。

 今までの出来事が、なんだか他人事のように感じられて。
 そもそもあの人は、本当に母親だったのだろうか? とか、あの部屋で過ごした十一年間ってなんだったのだろう? とか。
 故郷の街のはずなのに、初めて見るその風景をぼうっと眺めながら、知らないうちにまた涙を流していた。


「…………おい」

 男が、こちらに声をかけてくる。
 僕はまた怒られそうな気がして、涙を拭って振り返る。
 しかし男は、予想よりもずっと穏やかな声で、

「……腹減ってないか? 飯、あるぞ」

 帽子を取りながら、そう言うので……
 僕はゆっくりと、そちらに向き直った。



 * * * *



「――名乗るのが遅れたが、俺はリヒトだ。お前はクロル、だな」

 一両目の二人がけのテーブルで。
 男――リヒトと名乗るその人が、コーヒーを啜ってからそう切り出した。

 僕は、冷蔵庫から出してもらったサンドイッチを頬張りながら頷く。二日ぶりの食事だったので、食べている最中にもお腹がさらに鳴った。

「こうなった経緯を簡単に説明すると……というか、お前も何かしら知っているから家を抜け出したんだよな? まったく、夜通し探したんだぞ? 眠らせている間に引き取るって話だったのによ……まぁいい。とにかく、お前の母ちゃんは訳あってあの家に住めなくなった。引っ越しなんかしたら隠していたお前の存在がバレちまうから、古い馴染みである俺に連絡をよこして、引き取るように依頼してきたってわけだ」

 やはりそうか。
 そう思ったけれど、簡単に「わかりました」と飲み込めるわけもなく、僕はサンドイッチの咀嚼を止め、俯いた。
 リヒトさんは、困ったように頭を掻く。

「あー……理解はできても納得はできない、ってか? まぁ、そうだよなぁ。お前、生まれてからずっと母親と家の中にいたんだもんな。それが急に、説明もなしにこんな目に合って……」

 と、腕を組み眉間に皺を寄せ、暫し天井を仰いでから、

「……とはいえ、考えたってしょうがない。こうなった以上、受け入れるしかないな」

 などと、さっぱりした声音で言った。
 どうやら僕に共感することを諦めたらしい。

「……リヒト、さんは」

 この時、生まれて初めて母親以外の人間に話しかけたので、その声は思っていたよりも小さく、低いものになってしまった。
 それでも僕は、気を取り直し、

「リヒトさんは……母さんとは、どういう、知り合いなんですか?」

 振り絞るように発した僕の声を、リヒトさんはコーヒーを啜りながら聞く。

「昔の同僚だ。セントラル、ってわかるか? 俺とお前の母ちゃんは昔、セントラルに勤めていたんだよ」

 僕が「わからない」という視線を向けると、リヒトさんは「要するに……」とコーヒーカップをテーブルに置き、順を追って説明してくれた。

 


 二百年前の大きな戦争の後――
 巨大な湖を中心に、その周囲に街が造られた。
 それが、現在の人類が住まう世界。

 三百六十五箇所あるそれぞれの街の経済状況や人口管理、犯罪などを取り締まっているのが"セントラル"――古い言い方をすれば、中央政府だ。

 セントラルは各街に出張所を設けているけれど、それを統括する本部が別に存在する。
 世界の中心である湖のさらに中心。そこに浮かぶ人工的に造られた島が、セントラルの本部だそうだ。

 母さんとリヒトさんは、十数年前にそこで研究者として働いていた。
 戦争後、大きく変わってしまった動植物の生態系の研究をしていたらしい。

 しかしある時、母さんは突然仕事を辞めた。
 仲の良かった同僚にも、何も言わずに。
 そのため、移住先も、子どもがいることも、教師として働いていることも、リヒトさんは先日母からの連絡を受けて初めて知ったらしい。それくらい、何の前触れもなく突然離職したのだ。

 おそらく僕の父親にあたる人と何かあって、僕を身籠って辞めることになったのだろうが、その父親の心当たりすらリヒトさんにはないと言う。
 リヒトさんは半年ほど前にセントラルでの仕事を辞め、今はクレイダーの運転手をしながら新しく住む街を目指しているそうだ。

 
「――お前の母ちゃんから連絡を受けたのが二週間前。向こうも俺が今クレイダーに乗っていることなんて知っているわけがなかったから、本当にたまたまタイミングが合って、引き取ることが決まったんだ。お前にとっちゃ最悪のタイミングだったかもしれないがな」

 リヒトさんは、言葉とは裏腹に悪びれる様子もなくそう言う。

 僕は、あのまま家を明け渡すことになって、僕の存在が街の住人に露見していたらどうなっていたのかと考えてみる。
 あの街の詳しいルールは知らない。けれど、嘘をつくことに対する住民の過剰な反応は、先ほど目の当たりにした通りだ。
 母親が嘘をつき続け、僕を――黒い羽の悪魔を隠していたことがバレていたら……

『死ぬよりひどい目に合わされる』

 リヒトさんの言葉と、街の人々の異様な雰囲気を思い出し、身体が震える。
 それがどういうことなのか、聞く勇気すらなかった。

 母さんと離れることは悲しい。本当は、側にいたい。
 例え嘘つきでも、僕を閉じ込めていた存在だったとしても、母さんは母さんだから。
 だけどこうすることで、母さんを『死ぬよりひどい目』に合わせずに済んだかと思うと……こうするより他になかったのかもしれないと思えた。

「さぁて、そういう訳で。不本意かもしれないが、お前は晴れて自由の身だ。これからどうするか、だが……」

 リヒトさんは、僕の方へ身を乗り出して言う。

「俺はもう降りる街を決めている。ここから一月ほど進んだ先にある街だ。だから、お前との付き合いはそこまでになる。それまでに世間のことを一通り教えておいてやるから、自分で生きる力を身に付けろ。いいな」

 そう真っ直ぐに言われたので、僕は首を縦に振るしかなかった。
 リヒトさんは再び気怠げな様子で、椅子の背もたれに身を預け、

「にしてもなぁー。お前の母ちゃんは、なんであんな街に住んだんだろうなぁ? 本当に謎だぜ」

 天井を仰ぎ見ながら、そう言った。
 それは、僕も抱いている疑問だった。母さんの過去はほとんど知らないけれど、あの街で生まれ育った人ではないことは、なんとなくわかっていた。

 リヒトさんは天井を向いたまま、目を細めて、言う。

「……俺な、正直、お前の母ちゃん見てるとムカついてくるんだよ。いっつも相手の顔色を伺って、ヘラヘラ調子を合わせて……何を考えているのかわかりゃしねぇ。あいつの口から本心っていうのを聞いたことがない気がするんだ。そんでそのまま、誰にも何にも言わずにセントラルを離れちまった……」

 どうやら僕が思っていた母さんの性格と、リヒトさんの中での母さんの印象は、重なる部分があるらしい。
 だからこそ……

「……だからこそ、なんであんな奴が、よりによって"嘘は禁止"の街に住むことにしたのか……まったく理解ができねぇ。結局お前を産んだことも、その存在すらも隠して、嘘をついて生きてきたんだろ? 本当に、何考えてんだかね……」

 リヒトさんは手で頭を押さえながら、呆れ顔でそう言った。


 僕も、この時はまだ、どうして母さんがあの街に住んで、どうしてリヒトさんに僕を託したのか、わからなかった。
 だけど……現在(いま)ならわかる。

 母さんは、常に相手の顔色を伺っている人だった。
 嫌われたり、否定されたりすることを、極端に怖がる人だった。
 そんな人が何故、嘘が罪にさえなるあの街に住むことにしたのか。

 嘘つきな自分を変えるため?
 自分の意見をはっきり言える人間になるため?

 最初はそうだったのかもしれない。
 けれどきっと、本当の理由は――

 ――自分が、嘘だらけだから。

 相手も同じように、上辺だけの言葉を言っているのではと、疑いながら生きるのが怖かったんだ。

 あの街なら、建前やお世辞ではない、相手の本音が聞ける。
 リヒトさんのように、思ったことをそのまま言ってくれる人の方が信用できる。
 そうすれば……自分だけが、安心して嘘をついていられる。

 そしてそれは、現在(いま)の僕と同じだった。
 リリアのように、純粋で真っ直ぐな……
 ポックルのように、飾らずさっぱりとした……
 そんな二人だったからこそ、僕は安心して嘘をつき続けることができた。

 誰の為でもない、ただ、自分が傷付くことを恐れただけの"嘘"。

 ……ああ、もう。
 現在(いま)なら本当に、痛いほどわかるんだ。
 母さんは、僕のためなんかじゃなく……

 自分が『悪魔を生んだ女』と蔑まれることを恐れて、僕を隠し続けていたのだということが。