天使の住む街、知りませんか?



 リリアの問いかけに、クロルは「へっ?」と素っ頓狂な声を上げ、

「いや、別にそういうわけじゃ……第一、住民以外は参加できないだろうし……」

 と、慌てて否定しますが、それをイサカさんは笑い飛ばし、

「参加できるぞ。お試し初心者モードでな」
「お試し初心者モード?」

 クロルとリリアが声を揃えて首を傾げます。

 と、ちょうどその時、一行は目的地に到着しました。
 街の四分の一の面積を占めるゲームエリアの入り口です。
 
 その広大な土地全体が、白い建物ですっぽりと覆われていました。天井部分はドーム状になっているのか、少しふくらんでいるように見えます。しかしあまりにも巨大で、壁も屋根もその端が見えない程でした。
 
 入り口にはこれまた巨大な門があり、今は左右に開かれています。その中に受付と思われるカウンターが建っていて、『ビル街エリアはこちら↑』などの案内板が掲げられていました。

 一行は門をくぐり、建物の中へと入ります。
 すると、

「……え……?」

 クロルとリリア、そしてずっと黙ってついて来ていたポックルまでもが驚愕し、声を上げました。
 何故なら……

「建物の中に……」
「……空が、ある」
「……ニャ」

 外から見た時は、確かにドーム状の、白い屋根のある建物に見えました。しかしその内部には、気持ちの良い青空が広がっていたのです。白い雲が少しずつ形を変え、流れてゆくのさえ見て取れます。

「ど、どうなっているの……?」
「驚いたか? これが我が街の技術の集大成、ゲームエリア"シャングリラ"だ!」

 イサカさんが両手を広げ、高らかに言います。

「空のように見えるが、あれはパネルに映し出された映像だ。実際の天候に左右されず、且つ屋外の開放的な雰囲気でゲームを楽しむことを追求した結果、こうなった。曇りにすることも、時間を変えて夜空にすることもできるぞ」

 リリアが目を輝かせ「す、すごい……」と唸ります。イサカさんが自慢気に続けます。

「ちなみに、このゲームエリアにはセンサーが張り巡らされていて、ヒットを感知し自動でポイントの増減をカウントしてくれる。住民である俺たちには皆マイクロチップが埋め込まれていて、そこにゲーム内容が記憶されていくんだ」
「なるほど。すごいシステムですね」

 すんなり理解するクロルに対し、リリアはパンク気味の頭をぐわんぐわん揺らしました。

「では、マイクロチップがない僕らはどうやって、その……お試し初心者モードで遊べるんですか?」
「ああ、それだが」

 と、イサカさんは受付カウンターへと向かいます。カウンターにはスタッフの女性が一人いました。その女性がイサカさんを見るなり、親しげな様子で声をかけてきます。

「あ、イサカさん! 今月もあと少しですが、頑張ってくださいね!」
「おーマリちゃん、ありがとう。俺のエントリー手続き、よろしくね。あと、この子たち他所の街から見学に来たんだけど、『お試し初心者』で登録してあげて」
「あら、お客さんなんて久しぶりだわ。こんにちは。みんな、楽しんでいってね」

 眼鏡をかけた茶髪の受付嬢……マリさんが、こちらにウィンクします。

「それじゃあ二人とも、パスを貸してもらえるかしら」

 マリさんにそう言われ、クロルとリリアは一度、互いの顔を見合わせます。それに、マリさんは「ふふっ」と笑い、

「大丈夫、お金を取るわけじゃないわ。二人の情報をこのシャングリラのシステムに登録するのよ。そうしないと、ポイントの表示ができないからね…………はい、終わったわ」

 と、マリさんはコンピューターの画面に二人のパスをかざして手早く操作すると、すぐに返してくれました。それから続けて、赤いゴム製の腕輪を二つ差し出します。

「二人とも腕に付けておいてね。百ポイント分付与したから、これで参加ができるわよ」

 それがどういう仕組みなのかいまいちわかりませんでしたが、成り行きで自分まで参加することになったことに気付き、リリアは受け取ってから「はっ!」と声を上げました。
 クロルが腕輪をはめながら、ポックルの方へと振り返ります。

「ポックルはどうする? 参加、してみる?」

 聞かれたポックルは、だるそうに言いました。

「ごっこ遊びに興味はニャいが……他にやることもニャいし、付き合ってやってもいいニャ」

 すると、それを見たイサカさんが身体を仰け反らせて驚きます。

「おぉっ! この猫、喋れるのか! 噂には聞いていたが……本当にいるんだなー、喋れる猫」

 しかしポックルは返答もせず、やはりめんどくさそうにツンとそっぽを向きました。

「ハッハッハ! マリちゃん、猫はルール上参加できるのか?」
「うーん、パスがないから登録はできないけど……ポイントなしでよければ混ざってもいいんじゃない? 面白そうだし」

 と、あっさりとポックルの参加も決まりました。
 イサカさんはあらためて二人と一匹の正面に立ち、腰に手を当て、

「あと一時間ほどで今日のゲームが始まるぞ。その前に、君たちの服と武器を決めなくちゃな。ここまで来たら最後まで面倒見てやるから安心してくれ。さぁ、こっちだ」

 そう言うと、二人と一匹を受付カウンターのさらに奥へと案内しました。
 


 ――その後。
 準備スペースにてそれぞれの武器を見繕ってもらい、迷彩服に着替え(リリアは羽の、クロルはリュックの上から羽織る形で着ることにしました)、試し打ち場でそれぞれの銃の使い方を教わり、いよいよ開始時間になりました。

 三人と一匹はゲームエリアへと入ります。ほかの参加者も続々と集まってきていました。月初めには三百人ほどが参加するそうですが、だんだん脱落して、月末の今日は三十人ほどしか残っていないそうです。

「さぁ、サバイバーのみなさん! 今月のゲームも残すところあと三回! 高得点の猛者ばかりが残る白熱した展開になってきたよー! まだまだ逆転の可能性はあるから諦めないでね! 視聴者のみんなも、盛り上がっていこー!」

 天井の青空の一部が四角い画面に切り替わり、先ほど受付をしてくれたマリさんのご機嫌なアナウンスが映し出されます。

「しちょうしゃ?」
「ゲームの様子をライブ映像で配信しているんだ。参加しない住民はみんな視ている」

 と、リリアの呟きにイサカさんが答えます。

「スタート位置の確保はオーケー? あと十秒で始めるよー!」

 マリさんを映していた画面の映像が切り替わり、カウントダウンが始まります。


「スリー、ツー、ワン……スタート! グッドラック、サバイバー!」


 サバイバルトーナメントの幕が開けました。

 


 ――そういうわけで。

 ゲーム開始から五時間後の、午後二時。
 クロル・リリア・ポックルは、イサカさんと共にゲームエリア内を進み、ライバルである"絶対王者"を探していました。

 どうやら"絶対王者"は、エリアの最奥部から中央部のどこかに陣取っているようなのです。
 イサカさんは正面から進み、クロルとポックルが端から回り込んで、挟み撃ちにする作戦で動いていました。

 クロルたちと別れたイサカさんはリリアを抱えたまましばらく走ると、敵を見つけたのか、無造作に設置されたドラム缶の後ろに身を隠します。

「リリアちゃんは敵と接近戦になったらそのショットガンを使え。基本的にはそうなる前に俺が仕留める。俺の背後を確認していてくれ」

 イサカさんはドラム缶の陰からバッとサブマシンガンを構え、数発撃ってまた隠れる、ということを繰り返しています。
 リリアは終始おろおろした様子で、とりあえず彼の後ろから敵が襲って来ないか見張っていました。すると……

 ――キンッ!

 ドラム缶に何かが当たりました。それがリリアの頬ギリギリを掠めたので、彼女は驚きのあまり声もなく、地面にへたり込みました。
 それに気付いたイサカさんがリリアの肩を支え、

「大丈夫か? クソッ、考えることは同じか……!」

 リリアの正面……四十メートルほど先でしょうか、ボロボロになった木製の小屋の方へと目を向けます。と、今撃ってきたと思われる人影が小屋の陰に隠れるのが見えました。

 イサカさんは姿勢を低くし、音を立てずそちらに近付き……
 ほんの一瞬、小屋の窓から出した敵の頭を、サブマシンガンで撃ちました。
 撃たれた相手は両手を挙げ、その頭上には赤く光るバツ印とマイナス一六〇という数字が点滅しました。

「よし、これでオーケーだな」

 イサカさんは頷き、再び正面の敵を処理しようと振り返った――その時。
 今しがた一人倒したボロ小屋よりもリリアに近い、地面に突き刺さった分厚い鉄板の陰からもう一人が飛び出してきました。
 それにイサカさんが反応するよりも早く、

「ひゃあっ」

 パン! と、リリアが咄嗟にショットガンの引き金を引きました。
 それが運良く命中したのか、相手の頭上にバツ印とマイナス二五〇という数字が浮かびました。

「あ……当たった……」
「やるじゃねぇか、リリアちゃん! もう一人いたとはな……だが、さすがにもういないようだ。これで二人仕留めたか。今日はイケるかもしれねぇ!」

 そう言ってイサカさん正面にいた敵を撃破すると、リリアをひょいっと小脇に抱え、

「このまま一気に本命を叩くぞ、リリアちゃん! 気合い入れていけ!」

 再び走り出しました。
 その振動でがくがく揺れながらリリアは、「いっそ今のでやられていたら戦線離脱できたのに……」と、倒してしまったことを少しだけ後悔しました。


 
 ――リリアがイサカさんに抱えられエリアの中央部へと移動している時、クロルとポックルは最西端を回り込むように進んでいました。

 午前中のゲームを経て、クロルとポックルは既に二人の選手を仕留めていました。"廃村"というだけあって、エリア内には壊れかけの建物やドラム缶、積まれたタイヤ、地面に突き刺さった鉄板などが至る所にあり、身を隠せるようになっています。

 ポックルが少し前を行く形で、物陰に隠れつつ進んでいると、

「……待て。いる」

 そう囁いて、足を止めました。それに合わせてクロルも動きを止め、崩れた壁の陰に屈みます。

 ポックルの視線の先を見ると、進行方向の左手……五十メートル程先にある半壊した建物の中に、一人の人影が見えました。ちらりと見えた武器はライフルではなく拳銃のようなので、お目当の"絶対王者"ではなさそうですが、

「……あの人がいると奥へ進めない。倒そう」
「また囮作戦か? ズルっちぃニャ」
「とか言いつつ、ポックルもけっこう楽しんでいるでしょ?」

 図星なのか、ポックルは目線を逸らしました。
 クロルは小さく笑い、銃を構えます。

「ズルでもいいよ。僕らは初心者なんだから、使える戦略は全部使って勝ち残らなきゃ」
「……お前、(ニャに)考えてるかよくわからんヤツだが、意外と負けず嫌いニャんだニャ」
「えっ、そう? んー……そうなのかな」
「まぁ、いいんじゃニャいか? 悪くニャいと思うぞ、そういうの」

 珍しくポックルが肯定してくれたので、クロルは少し驚きながら、思わず笑みを浮かべました。
 すると、照れ臭くなったのか、ポックルは慌てたように二本足で立ち、

「お、おれも狩りをするからには成功させたいしニャ! トラは単独で行動するものだが、ライオンは群れで狩りをするらしいから、今日はライオンにニャってやってやるニャ!」

 と、前足を腰に当てて言いました。

(……群れで狩りをするのは、主にライオンの()()だけどね)

 という言葉を、クロルは口に出さず胸にそっとしまっておきました。

「それじゃあライオンさん。向こうのドラム缶の裏に回り込んで、あの人を引きつけてくれる? 出てきたところを、僕が狙う」
「任せろ」

 ポックルは頷き、三十メートルほど奥にあるドラム缶へと向かいます。
 警戒しながら周囲を見回しているターゲットの視線の合間を縫って、その裏に回り込み……

 ――カンカンカン!

 爪を立ててドラム缶に猫パンチをしました。
 すると、その音に気付いたターゲットが不審そうに建物から顔を出し、銃を構えながらゆっくりとドラム缶に近付いてきました。

 クロルはアサルトライフルを構え、片目でスコープを覗き、照準を合わせます。
 五十メートル程距離の離れた相手。向こうはこちらに気付いていません。当て損なってこちらに気付かれ、接近戦にでもなったら、初心者のクロルに勝ち目はないでしょう。

 ……失敗はできない。この一撃に賭けるしかない。
 その緊張感を、クロルはトリガーを握る手に込めます。

 高鳴る鼓動を、どこか心地よく感じている自分がいる――

 そんなことを頭の片隅で考えながら、ターゲットがポックルのいるドラム缶の裏に回り込もうとこちら側に背を向けた――その瞬間。

 パン! パン!

 二発、クロルは撃ちました。
 そのどちらも見事に命中し、ターゲットにしていたその人は手を上げ、頭上にバツ印とマイナス一七〇という数字が浮かび上がりました。

「三〇〇点台の人か……助かった」

 イサカさん曰く、四週目のゲームともなると千点台の猛者たちがウヨウヨいるとのことで、そういう"上手い人"は不用意に不審な音などに近付いて来ないそうです。

 つまり、高得点保持者になればなるほど、この囮作戦は通用しなくなるということ。
 今しがた倒したターゲットが退場していくのを見送りながら、クロルは呟きます。

「やるからには"絶対王者"さんに挑戦したいけど……どうすれば勝てるかなぁ」

 暫し虚空を見つめ考えますが、ドラム缶の裏から「ニャにしている、早く先に進むニャ!」という声が聞こえたので、クロルはひとまず先に進むことにしました。

 


 一方、その頃。
 リリアを小脇に抱えたまま、イサカさんはエリアのど真ん中のラインをどんどん進んでいました。

 当然、いろんな選手から狙われるのですが、イサカさんはすんでのところで弾を躱し、物陰に隠れ、痺れを切らして頭を出した相手を撃つ……といったことを繰り返し、ことごとく返り討ちにしていました。

「よし、一旦ここで態勢を整えよう。今、何人倒した?」
「全部で六人……だと思う」

 屋根もなく窓ガラスも全部割れている、そんな廃墟然とした小屋の中で、リリアは地面に降ろされながらそう返答します。
 イサカさんの荒い走りと、それにより舞い上がる砂埃、銃弾の飛び交う恐怖の中を潜り抜け、リリアはすっかりボロボロな様子でした。

「ハッハッハ! これじゃ美人が台無しだな!」
「笑い事じゃなーい! もう、なんでこの街の人はこんな怖くて疲れることをしてるの?!」

 リリアは涙目になって訴えます。
 イサカさんは「ハッハ!」と笑ってから、

「確かに怖くて疲れる。が……"生きている"ってことを実感できるから、かな」
「生きている、ってこと……?」

 聞き返すリリアに、イサカさんが頷きます。

「相手の弾を避ける時。相手に銃を向けた時。そして、相手を倒した時……心地よい緊張感と達成感が、一気に胸に押し寄せてくるんだ。それが、クセになるというか……」

 そこまで言いかけた時、リリアが訝しげな顔をしたので、イサカさんは慌てて両手を振り、

「もちろん乱暴したいとか、人を傷付けたいってわけじゃないぞ? ただ、こうして擬似的に『命をかけたやりとり』をすることによって、自分の"生"も相手の"生"も、とても尊くて大切なものだってことが再確認できるんだ。この気持ちは、人と人とが真剣に向き合わないと味わえないんだろうな」
「人と、真剣に向き合う……あ、"人間ドラマ"ってやつだね!」
「そうそう。よくわかっているじゃねぇか、リリアちゃん!」

 イサカさんは嬉しそうに笑います。

「ま、偉そうに言ったが、みんな単純にこのスリリングなゲームが好きなのさ。あとはなんと言っても、銃で『ダダダダーッ!』ってやるのはかっこいい! くぅーっ、まさにロマンだよなぁ」
「そっかぁ。やっぱり男の子はこういうのが好きなんだね。クロルとポックルもすごく楽しんでいるみたいだし」
「いやいや、男だけとは限らないぜ? なにせ――」

 ――と、その時。

 パシュン!!

 遠くの方で、そんな音がしました。
 見れば、二人がいる小屋から五十メートルほど離れた場所で一人、狙撃され手を上げている人物がいました。
 どこから撃たれたのか分からないらしく、キョロキョロ見回しながら退場していきす。

「今の発砲音からして、恐らく……"アイツ"だな」
「アイツ? って……例の一番強い人?」

 リリアの問いに、イサカさんが頷きます。

「ああ。こっから二百メートル圏内にいるだろう。下手に進むとアイツの射程に入っちまう。さて、どうしたもんか……」

 イサカさんが今しがた撃たれた人物を眺めながら思案していると……その時、

「――ん? あれは……」

 イサカさんが小屋の外を指差します。
 リリアがそちらを見ると、百メートルほど先の物陰から顔を出すクロルの姿がありました。その足元にはポックルのものらしきしっぽも見えています。

「クロル! すごい、無事だったんだ!」
「ああ。ってことは"アイツ"は、こっからあそこまでの間のどこかに潜んでいるってことだ。となると、あの建物の二階、もしくは――」
 


「――井戸の中だ」

 イサカさんとリリアの姿を確認したクロルは、再び身を潜めながら呟きました。

 先ほどの人が撃たれた瞬間をたまたま目撃した彼は、地面に埋れかかった古井戸の中にライフルの使い手――"絶対王者"と思しき人物が潜んでいるのを見たのです。

 それは一瞬の出来事でした。建物と建物の間にターゲットが現れた瞬間、必要最低限の動作でライフルを構え、照準を合わせ、一撃で仕留める――
 そして、またすぐに井戸の中へと身を潜める。

 とても正確で、一切の無駄がない動きでした。

「それにしても……あんな井戸の中にいるのに、よく外の人に気付けるなぁ」
「よっぽど耳がいいか、空に目ん玉がついているか、だニャ」

 ポックルと言葉を交わしつつ、クロルはどう攻めるか考えます。

 相手を撃つには井戸から出てきてもらうか、こちらが井戸を覗き込むしかありません。
 当然ながら、簡単には出て来てはくれないでしょう。
 覗き込もうにも、相手は井戸の中で既に銃を構えているはずなので、こちらがトリガーを引くより早く撃ち抜かれる可能性があります。

 そこで、クロルはあたらめて周囲を確認してみます。
 今隠れている壁の向こう側――正面・五十メートル程先に古井戸。
 十時の方向・百メートル先にイサカさんたちのいる小屋。
 九時の方向に二つ並んだドラム缶。
 その真向かい、三時の方向に二階建ての廃屋があります。

 ポックルに協力してもらう、いつもの囮作戦は通用しないでしょう。挑発的な音に不用意に出てくるような相手ではない上に、こちらの位置を教えることになってしまいます。

 ならば、"絶対王者"はどんな状況なら、あちらから顔を出してくれるでしょうか?


「…………よし」

 クロルの脳裏に、一つの作戦が浮かびます。
 それにはポックルと、イサカさんの協力が必要でした。

 クロルは再び壁から顔を覗かせ、イサカさんに手を振ります。すると、イサカさんも手を振り返してくれます。
 クロルはそのまま無言で井戸を指差し『"絶対王者"はそこにいる』と合図を送りました。意味が通じたのか、イサカさんが腕で丸を作って返してきます。

 それを確認してから再び壁に隠れて、

「ポックル。僕は今からイサカさんに向かって何発か撃つ。おそらくイサカさんも撃ち返してくると思うから、あっちに走ってからこう叫んで」

 と、ポックルの耳元で作戦を伝えます。
 聞いたポックルは呆れたように目を細め、

「そんニャんで上手くいくのか?」
「大丈夫、だと思う。あ、なるべく『ニャ』って言わないようにね」

 そう付け加えて、クロルはイサカさんの方へと銃を構えます。
 ポックルは言われた通り、今いる位置から九時の方向……ドラム缶の方へと移動を開始しました。

 いきなり銃を向けられ、驚くイサカさんの顔がスコープ越しに見えます。
 が、クロルはお構い無しにトリガーを引きます。

 パン! パン! パン!

 三発、立て続けにイサカさんたちのいる小屋に向かって発砲します。もちろん当たらないように。
 その後すぐ、三時の方向にある二階建ての廃屋へと走りました。イサカさんも作戦を知ってか知らずか、クロルが今までいた壁の辺りへと撃ち返してきます。

 イサカさんの放つ銃声を左手に聞きながら、クロルは廃屋の二階へと一気に駆け上がります。
 そして――

 銃声の合間に、カンカンカン! というドラム缶を弾く音が聞こえ、

「やられた! 降参だ!」

 というポックルの大声が響き渡ります。
 すると、その瞬間――

 ――井戸の中から、ライフルを構えた"絶対王者"が、姿を現しました。

 全身を迷彩服で覆い、フードを被っているためその顔までは確認できませんが……
 彼、あるいは彼女は、実に正確に、まるで今までの銃撃を見ていたかのようにイサカさんのいる小屋へと銃口を向けました。

 ――狙い通りだ。
 クロルはそう思いました。

 "王者"が姿を現わす時。それは――
 周囲の状況が把握でき、且つ確実に仕留めることのできる相手がいるとわかった時。

 イサカさんの話と、先ほど実際に見た動きから、"王者"はとても慎重であることがわかりました。
 むやみやたらと無駄撃ちのすることなど決してしない、確実に狙える状況が整うまではじっと身を潜める。そんな性格なのです。

 では、確実に仕留められる相手とは一体、どのようなものでしょうか。

 それは、警戒を解き、油断している相手。
 そして、恐らく最もプレイヤーが油断する瞬間というのは……誰かを仕留めた直後。

 そう考え、クロルは作ったのです。
 誰かと誰かが撃ち合い、片方がやられ、片方が油断しているであろう、そんな状況を――
 

 "絶対王者"の背後――剥き出しになった廃屋の二階から助走をつけたまま、クロルは勢いよく飛びます。
 そして空中で銃を構え、落下しながら、"王者"の背中に照準を合わせました。
 井戸の真上に、遮るものは何もありません。

 ――いける。

 クロルがトリガーに指をかけ、力を込める……
 ……よりも、わずかに速く。

 "絶対王者"は構えていたライフルを捨て、腰から抜いたリボルバーをクロルに向け――

 バン!

 振り向き様に、撃ちました。
 それは見事なまでに、クロルのおでこのど真ん中に命中し……

「……ってぇぇえええ!」

 悲痛な叫び声を上げながら額を押さえ、クロルは落下し、地面に体を打ち付けました。
 ――それと同時に。

 ババババッ!

 "王者"の後ろ――いつの間にか距離を詰めていたイサカさんが。
 "王者"に向けて、銃弾を撃ち込みました。

 頭を覆うフードの下から覗く相貌――燃えるように赤い瞳が、大きく見開かれ……
 その頭上に、マイナス一五〇〇の表示が、明滅しました。

 


 ――次の日の夕方。
 クロルたちを見送りに、イサカさんが列車を訪ねて来てくれました。

「よう。昨日はよく眠れたかい?」

 あの後――
 見事"絶対王者"を仕留め、暫定一位の点数を獲得したイサカさんに美味しい晩ご飯をご馳走になったのですが……
 全員疲労のあまり列車に戻るなりベッドへ直行し、すぐに寝てしまったのでした。

 そうして、そのまま泥のように眠り続け……

「……ついさっきまで寝てました」

 と、おでこに絆創膏を貼ったクロルが、まだ少し眠そうに答えます。
 イサカさんは「ハッハ!」と笑って、

「なぁに、若いんだからすぐ回復するだろう。肉を食え、肉を!」
「昨日たくさん食べたはずなのに、まだ全然眠いよぅ……」

 リリアも目を擦りながらそう言います。ポックルはまだ寝ていて、客室のベッドで丸くなっていました。

「あらためて、昨日はありがとうな。おかげでアイツに一発キメることができた」
「いいえ。いろいろ教えていただいて、こちらこそありがとうございました。とても楽しかったです」

 イサカさんの言葉に、クロルは礼儀正しく頭を下げました。

「リリアちゃんも、美人を台無しにして悪かったな」

 悪戯っぽくそう言われ、リリアも「ほんとだよ!」と笑顔を返します。

「それにしても……クロルくん。君はすごいよ。銃の扱いにさえ慣れていれば、アイツを仕留めていたのは君だっただろう。戦略といい、空間把握能力といい……この街の頂点に立てる器だ。俺も今回は君のおこぼれに(あずか)っただけに過ぎない。お守りするつもりが、逆に助けられちまったな」

 イサカさんは腕組みをして、クロルの顔をじっと覗き込みます。

「――なぁ、真面目な話……この街に残らねぇか? 君ならきっと、ものすごいプレイヤーになれるぞ」

 真剣な眼差しでそう言われ、クロルは思わず目を見開きました。
 その横でリリアが、少し緊張した面持ちで二人を見つめています。
 しかしクロルは……困ったように笑い、

「みんなで力を合わせたから、あんなことができたんですよ。一人だけで戦ったら、僕なんかだめだめで……すぐにやられちゃいます」

 と、後ろ頭を掻きながら、遠慮がちに言いました。
 その返答に、イサカさん口元に笑みを浮かべて、

「そうか、残念だか……強力なライバルが増えずに済んだと思っておくか。ハッハッハ!」

 腰に手を当て、いつもの元気な笑い声を上げました。

「おーい。そろそろ時間ニャんじゃニャいか?」

 と、客室のベッドから起きてきたポックルが言います。それとほぼ同時に、鐘の音が聞こえてきました。
 クロルは慌てて運転席のある一両目に乗り込み、リリアも二両目に飛び乗ります。

「よっ、猫くん。昨日は楽しかったぜ。達者でな」

 片手を上げるイサカさんを、ポックルは一瞥し、

「……まぁ、たまにはライオンにニャるのも悪くニャかった。もうやらニャいけどニャ」

 と、そっぽを向いて言いました。

「それじゃあイサカさん、本当にありがとうございました!」
「楽しかったよ!」

 一両目の窓からクロルが、二両目のドアからリリアが、それぞれ手を振ります。

「おう、こちらこそありがとう! 気をつけて! 元気でな!」

 イサカさんも手を振り返してくれます。
 それを見届けて、時刻はちょうど午後五時。
 客室のドアが、ぷしゅーっと音を立てて閉まります。
 クロルが笛をピーッと鳴らし、列車は動き出しました。

 クロルもリリアも、イサカさんも、お互いの姿が見えなくなるまでずっと、その手を振っていました。



 * * * *



 ――二人と一匹が乗る列車が、すっかり見えなくなった頃。

「……よかったのか? バレッタ。挨拶しなくて」

 イサカさんが、そう口にします。
 すると、駅の柱の陰から、美しい女性が姿を現しました。
 銀色の長髪に、切れ長の赤い瞳。スラリと背の高い身体には黒のタンクトップと迷彩柄のズボンを纏い……肩にはスナイパーライフルが背負われています。

 バレッタと呼ばれたその女性は、「ふん」と鼻を鳴らし、

「挨拶? 子どもや猫の手を借りないと嫁に勝つことも出来ない情けない旦那がお世話になりましたと、そう言えばよかったのか?」

 腕を組み、ツンと返しました。
 しかし、イサカさんは笑いながら、

「相変わらず手厳しいな! ウチの嫁さんは!」

 と、まったく傷付いていない様子で言いました。

「ま、これで今月のゲームはわからなくなったぞ。俺が勝ったら、今年二勝目だ」
「私が勝ったら三勝目だがな」
「ハハ! バレッタは、どんな新ルールを願うんだ?」

 その問いに、バレッタさんは暫し沈黙してから……

「……例え初心者であっても、協力プレイ禁止」
「ハッハッハ! 俺は逆に協力プレイありを追加しようと思っていたわ!」
「……最悪だな」

 バレッタさんは「はぁ……」とため息をつきますが、イサカさんが続けて、

「にしても――クロルくんは惜しい人材だったなぁ。あの子なら"絶対王者"の座をお前から剥奪できたかもしれないのに」
「ふん、戯れ言を。あんな子どもに、そう易々と奪われてたまるか」

 言いながら、バレッタさんは長い銀髪をかき上げます。

「……あの少年のやり方は危険だ。繊細に見えて大胆、慎重に見えて向こう見ず……だいたい、建物の二階から銃を構えたまま飛び降りて、着地はどうするつもりだったんだ? あのまま井戸の中へ落下していたら、あの子も私もどうなっていたか知れたものではない。咄嗟に弾を撃ち込んで、落下地点を修正できたからよかったものの……あんな戦い方をしていては、あっという間に壊れてしまう。自分を大切にできないやつは、このゲームに参戦すべきではない」
「ふむ……確かな。自分が傷付くことへの恐怖心があってこそ、強く巧くなっていくモンだ」

 イサカさんの返答に、バレッタさんはもう見えなくなった列車の方を見つめます。

「事情は知らないが……あの歳でクレイダーに乗っているんだ。生まれた街を出る、よっぽどの理由があったのだろう。であれば自ずと、自分自身の"生"と向き合う機会も多かろう。こんな街で止まらずに、様々な出会いを通し……自分の尊さを学んでゆけばいい」

 そう、淡々と言いました。
 その言葉に、イサカさんはニヤリと笑って、

「やっぱり、ウチの嫁さんは世界一強くてカッコ良いな!」
「うるさい黙れ。仕事に戻るぞ」

 そんなことを言い合って、最後にもう一度、列車が旅立った方を振り返ってから……
 二人は、ビルの犇めく街中へと消えて行きました。

 


「…………クロル?」
「あれ、リリア。どうしたの? 眠れないの?」
「なんか、昼間にたくさん寝たせいか眠くなくて。そう言うクロルこそ、何しているの?」
「明日着く街の地図を確認しているんだ。迷わないように予習しようと思って」
「へー。クロルはすごいねぇ」
「そんなことないよ。こういうのが好きなだけ」
「……隣、座ってもいい?」
「もちろん、どうぞ」
「……ねぇ。クロルはさ」
「うん?」
「……運転手を辞めて、どこかの街で暮らそうとは思わないの?」
「……どうかな。もう二年近くこの仕事をやっているし、今さら辞めるのもね」
「今日、イサカさんに『ここに住まないか?』って言われていたでしょ? 本当はそうしたかったのかなって。私やポックルっていうお客さんがいるから、それで遠慮して断ったのなら、その……悪いなぁって思って」
「それは違うよ。本当に、僕には無理だと思ったんだ。確かにあのゲームは楽しかったけれど……一日でこんなに疲れるのに、週に三日もあんなことするなんて、ちょっと大変だよね」
「……ごめんね。私、本当は……クロルが断ってくれて、嬉しかったんだ。でもそれって、自分のことしか考えてないなぁって、反省したの」
「……そんなこと気にしていたの?」
「そっ、そんなことって……」
「それで眠れなかった、とか?」
「……ああもう、そうだよ! だからね、これからもしクロルが『住みたい!』って思える街があったら、遠慮なく言ってね。私やポックルのことは気にしないで。わかった?」
「……うん、ありがとう。……はは」
「笑わないでよ! 真剣に考えたのに!」
「ごめんごめん。リリアは本当に……真っ直ぐだなぁって思って」
「……馬鹿って言いたいの?」
「いや、褒めているんだよ」
「……ほんとに?」
「ほんとにホント」


 ……そんなやり取りを、隣の車両で聞いていたポックルが、

「……青いニャ」

 ベッドの上に丸まりながら、そう呟いて。
 今宵の列車は、まだまだ灯りが消えそうにありません。

 


 ――イサカさんと別れてから一週間。
 クロルとリリアとポックルは、さらに三つの街を廻りました。

 みんな仕事が大好きで、どこも人手が足りすぎているため常に新しい仕事を開拓している"労働の街"。
 身の回りのほとんどをロボットがしてくれて、人間がロボットからの指示を待っている"機械仕掛けの街"。
 住民全員がバーチャルリアリティの中で暮らし、好きな性別・容姿・あるいは動物を選択して生きることができる"電脳の街"。

 どの街も、そこに暮らす人々は生き生きとしていましたが、リリアとポックルには合いそうにありませんでした。
 


「――明日着く街は、どんなところなの?」

 "電脳の街"を出発した、その晩。
 二人と一匹はいつものように、クレイダーの一両目で夕食を共にしていました。
 お決まりになりつつあるリリアの質問に、しかしクロルは、

「………………」

 すぐに答えることなく、口を閉ざしてしまいました。
 今までにないその反応に、リリアはクロルを心配そうに見つめ、ポックルもじっと返事を待ちます。

 そして……しばらくの沈黙の後。

「……前に言ったこと、覚えているかな。リリアが気に入るんじゃないかなって思う街が一つだけある、って。明日着くのが、その街なんだ」
「え……」

 食事の手を止め、真剣な表情で言うクロルに、リリアは戸惑います。
 そして、「あ、あはは」と笑ってから、

「そんなこと言って、また変な風習がある街なんでしょ? もう引っかからないんだからぁ」

 そう戯けて言いますが、クロルは笑い返してくれません。

「ど……どうしたのクロル? 明日着くのは、一体……どんな街なの?」

 リリアが再び尋ねますが、クロルは口を噤んだままです。
 これまでクロルは、リリアの質問には何でも答えてくれました。難しいことでも「うーん」と考えながら、必ず答えを出してくれました。
 だから、こんなクロルを見るのは初めてで……

「…………っ」

 痺れを切らしたリリアは立ち上がり、クロルのベッドの横にある本棚から街のガイドブックを取り出しました。
 その中の、"電脳の街"の次のページを探します。すると、

「…………え……?」

 そこには、こう記されていました。


 "有翼人の街"。


 そこでようやく、クロルが困ったような笑みを浮かべて、

「……ごめんね。なんて言うべきかわからなくて……つまり、そういうことなんだ」
「どういうことニャ」

 文字を読めないポックルが怪訝そうに尋ねるので、クロルが答えます。

「明日着くところはね、リリアと同じ、羽が生えた人たちが住む街なんだよ」
「ほー、そんニャ街があるのか。リリア、よかったじゃニャいか。仲間(ニャかま)だぞ」

 クロルの言葉に、ポックルは呑気な声で言います。

「な……仲間……」

 しかしリリアは、気持ちの整理がつかず、言葉を失いました。
 だって、考えたことすらなかったのです。
 この世界に、街が形成できるくらいにたくさんの有翼人がいることを――



 * * * *



 ――翌朝八時。
 列車は、その街に到着しました。

 朝食を済ませた二人と一匹は、どこか緊張した面持ちで列車を降ります。
 駅からまっすぐに伸びるメインストリートの両脇には木製の建物が建ち並んでおり、ほとんどが小さなお店になっているようでした。開店の準備をしている人や走り回る子どもたちで賑わっています。
 
 そして――その人たち全員に、真っ白な羽が生えていました。

「本当に……私と、同じだ」

 リリアは掠れた声で呟きながら、道行く人々を見つめます。

 すると、駅に一番近い建物――飲食店と見られるお店から、鞄を持った男の子が出てきました。
 少し癖のある赤毛に、緑色の瞳、年の頃はリリアたちと同じくらいです。その背中にもやはり、白い羽が生えていました。

 その子が「いってきまーす!」と元気な声を出してお店の扉を閉め、歩き出そうとしたその時。ちょうどこちらと目が合いました。

「あっ! ひょっとして、新しくこの街へ来た人?」

 言いながら、男の子は一直線にこちらへ走って来ます。

「はじめまして! 僕はキリク。そこの店の子どもだよ。君たちは?」
「え……あ、あの……」

 突然、自分と同じ羽を持つ同い年くらいの子に話しかけられ、リリアは戸惑いから言葉を詰まらせました。
 なので、クロルが代わりに、

「この子はリリア。住む街を探しているんだ。自分以外に羽を持つ人を初めて見たから、びっくりしているんだよ。僕はクレイダーの運転手のクロル。こっちは猫のポックルだよ」
「よろしくニャ」

 キリクと名乗った少年が、「うわぁ、猫が喋った!」と嬉しそうに驚きます。そして、

「住む街を探しているってことは、まだここに決めたわけじゃないんだね。それなら、僕についておいでよ! 今から学校へ行くんだ。先生に話して見学させてもらおう!」
「がっこう?」
「子どもたちが昼間通う、勉強を習う場所だよ」

 首を傾げるリリアに、クロルがいつものようにこっそり教えます。

「この街には、大人と子ども合わせても五百人くらいしかいないんだ。その内、僕らみたいな初等学校の生徒は三十人。人数が少ないから、すぐに仲良くなれるよ!」
「い、いきなり行って大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫! この街は羽が生えている仲間ならいつでも大歓迎だから。ほら、行こう!」

 そう言ってキリクは、半ば強引にリリアの手を引いて走り出します。
 それを見たクロルとポックルも、顔を見合わせてから、それについて行きました。
 


 ――キリクの通う学校は、街の中心部にありました。
 木製の、二階建ての建物です。
 運動をするための広い庭があり、遊具があり、その周りには様々な植物が植わっていました。

 その庭の真ん中を通って、三人と一匹は校舎の中へと入ります。
 途中、キリクは何人かの友だちに挨拶を交わしながら、入ってすぐの一部屋へとリリアを招き入れました。

「ここが、僕らの教室だよ」

 言われて、リリアはその中を見回します。
 入ってすぐの壁に大きな黒板、それと向かい合う形で木製の椅子と机が二十個ほど並んでいます。奥には先ほど通ってきた庭が見える窓があり、教室の後ろの壁にはロッカーがありました。

 教室には、既に十人ほどの子どもがいました。リリアたちと同い年くらいの子もいれば、もっと幼い子もいます。もちろん、みんな背中に真っ白な羽を生やしています。

 その子たちが、リリアを見るなり一斉に集まってきて、

「えーっ! 君だぁれ?」
「初めて見る子だねー」
「猫もいる! 君の猫?」
「どこから来たの?」

 などと口々に尋ねるので、リリアは言葉を詰まらせました。
 クロルが助け舟を出そうとした、ちょうどその時。

「おはようみんなー。席に着いて……って、あら?」

 後ろから、そんな声がしました。
 クロルとリリアが振り返ると、一人の女性が立っていました。黒い髪をショートカットにした、背の高い人です。

 その女性が、リリアとクロルに目線を合わせるように屈んで、

「はじめましての子たち、よね? こんにちは。私はこのクラスの担任よ。あなたたちは……もしかして、他の街から来たのかしら?」

 優しく尋ねられ、リリアはやっと落ち着いて言葉を選ぶことができました。

「あの、私、リリアって言います。住む街を探して、クレイダーに乗って来ました。こっちは運転手のクロルと、猫のポックル」

 それに続けるように、キリクが身を乗り出し、

「列車から降りて来たところを見つけて連れて来たんだ。ねぇ、ジーナ先生。学校を見学してもらってもいいでしょ?」
「うーん。でも、お家の人に断りもなしにいいのかしら?」

 女性――ジーナ先生が腕を組みながら首を傾げます。
 それにリリアが、

「私たちに『家の人』はいません。私たちだけでこの街へ来ました」

 と、しっかりとした声で言うので、先生は驚いた顔をし、子どもたちも騒めきました。

「……そう。それじゃあ、詳しい事情は後で教えてもらうとして……もう始業時間だから、ホームルームを始めましょうか。リリアとクロルも、好きな席に座って。ポックルくんは……」

 ジーナ先生が言いかけると、ポックルは日当たりの良い窓際の席にぴょんと飛び乗り、

「ここで昼寝させてもらう。お構いニャく」

 と言ったので、子どもたちは「喋ったー!?」と一斉に叫びました。

 


 キリクのクラスは全部で十六人。十歳から十二歳の子どもたちです。
 他にも一クラスあり、そちらには七歳から九歳の子どもがいるそうです。

 リリアとクロルは窓際の後ろの席に座ることにし、ポックルはその前の机に丸まっています。
 リリアが不安そうな表情をクロルに向けると、クロルも珍しく緊張した笑みを返しました。クロルも学校は初めてなのかなと、リリアは思いました。

 連絡事項を伝えるホームルームが終わると、一時間目の理科の授業が始まりました。
 その日おこなわれたのは、光に関する実験です。
 ジーナ先生が色付きのセロファンを貼った懐中電灯を三本持ちながら、生徒に問いかけます。

「ここに、赤と青と緑の光が出るライトがあります。三つの色を重ね合わせると、何色になるでしょう?」

 生徒たちが近くの友だちと相談し始める中、真っ先に手を挙げたのはリリアでした。

「はい! 黒になる!」

 その元気な答えに、周りにいた生徒たちも「私もそう思う!」「僕も!」と声を上げます。しかしただ一人、リリアの発言を「フン」と鼻で笑う子どもがいました。
 クラスの中でも一際体格の良い男の子です。茶色い髪を短く切り揃えた、勝ち気そうな顔立ちをした子でした。その男の子が、

「違うな。白になる」

 と、自信満々に言いました。
 ジーナ先生はにんまりと笑って、

「さぁ、どうなるかしら。実際にやってみましょう。この壁に光を当てて……」

 懐中電灯のスイッチを順番に入れ、一つずつ色を重ねていきます。その行く末を、クラスの全員が固唾を飲んで見守っていました。
 そして、最後に緑色の光が加わり……三色が重なった部分は、白色になりました。
 生徒たちは「えーっ!」と驚いた声を上げ、リリアもぽかんと口を開けます。

「正解は白! ウドルフ、すごいじゃない。よくわかったわね」

 ウドルフと呼ばれた勝ち気そうな少年は誇らしげに胸を張り、リリアに「どうだ」と言わんばかりの視線を送ります。
 それに気付いたリリアは、「むぅぅ」と、悔しげに頬を膨らませました。



 ――二時間目の算数の授業でも、リリアは頬を膨らませていました。
 自信満々に答えた彼女の解答をウドルフがばっさり否定し、どんどん正解していくのです。
 そのやり取りが微笑ましくて、クロルは口元が緩むのを堪えながら、リリアを見守っていました。

 そうして午前の授業が終わり、あっという間に給食の時間になりました。
 生徒たちが配膳の準備をしている間、クロルとリリアはジーナ先生に呼び出され、職員室でこの街に来た経緯を尋ねられました。

 リリアは生まれ育った街を逃げ出し、クレイダーに乗って住む街を探していることを説明します。
 ジーナ先生はそれに納得した後、

「――それで、クロルは?」
「えっ?」

 突然そう聞かれ、クロルは思わず聞き返します。

「君は、どういう経緯でクレイダーの運転手をやっているの? まだ十三歳なのに、学校にも通わず……確かに労働自体は十一歳から認められているけれど、ごく稀なケースよ。あなたにも、生まれた街を出てクレイダーに乗っている理由があるのでしょう?」

 そう尋ねられ、クロルは……口を閉ざし、俯きます。
 ジーナ先生が聞いたことは、リリアもずっと気になっていたことでした。けれど、クロルにいつもはぐらかされていたので、よっぽど言いたくない事情があるのだと、聞けずにいたのです。

「………………」

 黙り込んでしまったクロルを見て、ジーナ先生は小さく息を吐きます。

「言いたくないのなら、無理に言わなくていいわ。急に聞いてしまってごめんなさい。ただ、職業柄、この状況はどうにも心配でね。何か相談に乗れることがあったら、遠慮なく言ってね」
「はい……ありがとうございます。すみません」

 クロルは申し訳なさそうに微笑みました。ジーナ先生もにっこり笑います。
 それから、急に険しい表情になって、

「それにしても……いくら人口が減少しているからって、就業可能年齢を十一歳に引き下げるのはやっぱりおかしいわ。街の教育委員会を通じてセントラルに抗議できないかしら……」

 などと呟きながら、顎に手を当てしばらく思案します。
 しかし、クロルとリリアの視線にハッとなって、

「ごめんごめん、独り言よ。さ、そろそろ準備ができた頃だわ。給食を食べに戻りましょう」

 再び笑顔を向け、そう言いました。
 


 ――先生に促され、クロルとリリアが元いた教室に戻ると、部屋中にいい匂いが立ち込めていました。
 クラスのみんなが、各々のお皿に給食を取り分けているところです。

「あっ、こっちこっち! 二人の分もよそっておいたよ! 一緒に食べよう!」

 机同士が向き合う形に並び替えられており、キリクが手招きをしています。
 給食のメニューは、パンとシチューとサラダ、デザートのフルーツまで付いています。ポックルにも、鶏肉と野菜を蒸したものが与えられました。

「いただきます」という大合唱の後、子どもたちが一斉に食べ始めました。
 リリアも、そしてクロルもポックルも、こんなに大勢で食事をするのは初めてだったので、なんだか不思議な気持ちになりながら給食を食べました。

 やがて食事を終えた子どもたちが、次々とリリアたちに話しかけに来ました。
 この街に来た経緯や、これまで見てきた他所の街のこと、クレイダーの乗り心地など様々なことを聞かれ、二人は少し戸惑いましたが……
 子どもたちの優しい雰囲気のおかげですぐにうち解け、教室は賑やかな笑い声で包まれました。

 大勢の友だちとご飯を食べて、楽しくおしゃべりをする。
 そんな、この街の子どもたちにとっては当たり前な時間が、二人にはとても新鮮で、特別なものに感じられたのです。

 


「――ねぇねぇ!」


 すべての授業を終えた放課後。
 子どもたちが帰り支度をする中、鞄を持ったキリクがクロルたちの元に駆け寄って来ました。

「二人とも、この後時間ある? よかったら、僕らがいつも遊んでいる場所に案内するよ!」

 その提案に、クロルとリリアは顔を見合わせてから、ポックルの方を見ます。
 午後もずっと机の上で寝ていたポックルは、その視線に気付くと、

「……好きにすればいいニャ」

 と、ぶっきらぼうに言いました。
 ポックルのお許しをもらえたリリアは、ワクワクした声音で尋ねます。

「遊びって、いつも何しているの?」
「最近は学校の裏の森にみんなで秘密基地を作っているんだ。もうすぐ完成するんだよ」
「ひみつきち?」

 リリアはいつものように答えを求めてクロルの方を見ますが、彼もピンときていない様子で、

「その基地は、何をするための場所なの?」

 と、珍しく質問を返しました。
 キリクはきょとんとした顔をして、

「何って……中に入って遊んだり、みんなの遊び道具を隠しておいたりするんだよ。実は僕ね、そこに漫画を隠しているんだ。学校に持って行くと怒られるし、家で読むと母ちゃんがうるさいからさ」

 そう言って、キリクは悪戯っぽく笑いました。
 リリアはその台詞を聞くなり身を乗り出し、

「まんがってあの、絵で物語が描いてあるっていう本? 私、一度でいいから読んでみたかったの!」
「えっ、漫画を読んだことがないの? じゃあ僕のを貸してあげるよ!」
「本当? クロル、貸してくれるって! その秘密基地ってところに早く行ってみようよ!」

 リリアが目をキラキラさせながら言うので、クロルも微笑みながら頷きました。



 ――キリクは二人と一匹を外へ連れ出すと、学校の真裏に広がる森の中へと案内しました。
 木の根があちこちに張り巡らされ、土と苔の匂いの立ち込める、自然さながらの森でした。

 キリクが言ったように、この街は他と比べて人口が少ないため未開拓の土地が多いのだと、クロルは思います。
 人々が暮らす居住地域はクレイダーの駅の周りに集中し、他は手付かずの森が広がっているようでした。

 森の中を十分ほど進むと、大きな樫の木が現れました。その下に、木の板や石を積み上げて作った小屋のような物が見えます。

「ほら、あれが僕らの秘密基地だよ!」

 リリアとクロルが近付いて見てみると、小屋の中は子ども三人がやっと入れるくらいのスペースになっていて、バットやボールなどの遊び道具が置いてありました。上部には木の枝と葉っぱを組み合わせた屋根まで付いています。

「今日はまだ誰も来ていないみたい。好きに見てくれていいよ」

 キリクに言われ、リリアとクロルは初めて見る『秘密基地』を興味深そうに眺めました。ポックルはと言えば、所在無げに辺りのにおいをふんふん嗅ぎ回っています。
 すると、

「……あれ? あれぇ?」

 秘密基地の中をガサゴソと漁る音と共に、キリクの困った声が聞こえました。

「ない……僕の漫画がない! 昨日確かにここに置いておいたのに!」
「ええー!」

 キリクの叫びに、リリアが落胆混じりの声を上げます。
 クロルも基地の中を見回しますが、本のようなものは一つも見当たりませんでした。

「他の友だちが持っているとか?」
「勝手に持っていくなんてこと、しないと思うけど……」

 三人が基地の周りを探し、歩いていると、

「――あ。あれって……」

 クロルは、秘密基地の裏側……森をさらに奥へと進んだところに、一人の人影を見つけました。その姿には、見覚えがありました。
 キリクもそれに気付き、目を細めてそちらをじっと見つめます。

「……ん? ウドルフじゃないか。あんなところで何してんだろ」

 それは先ほどまで同じ教室で授業を受けていた、あの勝気そうな少年でした。切り株に腰掛け、手に持った何かを眺めているようです。
 一行がそちらへ近付いていくと、

「あーっ! それー!!」

 突然、キリクがウドルフを指差し、声を張り上げました。
 それに、ウドルフもようやくこちらに気が付いたようで、驚いてキリクの方を見ます。

 キリクはウドルフに駆け寄り、彼が手にしている物……一冊の本を指差したまま、

「それ、僕の漫画!!」

 そう叫びました。
 するとウドルフは、鬱陶しそうな表情で言い返します。

「ああ? なんだよ、いきなり」
「秘密基地の中から盗んだんだな?! 僕のなんだから返してよ!」
「盗んでなんかいない、これは拾ったんだ。変な小屋があったから覗いてみたら、たまたまこれが落ちてたんだよ」
「落ちてた?! 違うよ、大事に隠しておいたんだ!」
「ギャーギャーうるせぇな。だいたい、お前のモンだって証拠でもあんのかよ?」
「しょ、証拠……」

 体格の良いウドルフが立ち上がり、ずいっと顔を近付けてきたので、キリクはすっかり弱腰になってしまいました。
 その様子を、リリアは冷や冷やと見つめています。

 しばらく睨み合った後……ウドルフはばっと離れ、

「フン。返せって言うんなら、力ずくで取り返してみな!」

 そう言って、本を持ったまま森の奥へと駆け出しました。

「あっ、待て!」

 キリクも慌ててそれを追いかけます。リリアとクロルと、いちおうポックルもそれについていきます。

「もうっ、なにアイツ!」

 走りながら、リリアが頬を膨らませて憤ります。
 しかし、キリクは弱々しい声音で、

「ウドルフはクラスで一番……ううん、学校で一番運動神経がいいんだ。かけっこじゃ勝てたことなんてないよ」

 そうこぼしました。
 確かに、木の根でボコボコしている森の中を、ウドルフは意に介さずひょいひょいと進んで行きます。キリクたちは時々転びそうになりながらやっとの思いで走っていたので、どんどん差を広げられてしまいました。

 やがて、少し先に、樹木の生えていない拓けた場所があるのが見えてきました。まるでスポットライトに当てられているかのように、そこだけ日の光が明るく差し込んでいます。
 その明るく拓けた場所に、ウドルフが仁王立ちになって待ち構えていました。よく見ると、彼の立つすぐ横の地面には大きな穴が空いています。

「僕の漫画を返せ!」

 追い付くなり、キリクが息を荒らげて言いました。
 しかし、ウドルフは軽く鼻を鳴らし、

「だぁから、これは落し物なんだって。落し物は落し物らしく……」

 ニタッ、と意地悪な笑みを浮かべ……

「……こうして、ここに落とすことにする」

 漫画本を掲げると、すぐ横に空いた穴の中へ、落としてしまいました。

「ああっ、僕の漫画が!!」

 キリクが地面に手をつき、淵から穴を覗き込みます。
 しかし、どれほど深いのか、穴の中はただただ真っ暗で、底などまったく見えませんでした。
 ウドルフは「ギャーッハッハ!」と笑って、

「本当に自分のモンなら、穴に入って取ってこいよ!」

 挑発するように言い残し、元来た方へと笑いながら去って行ってしまいました。

「あいつ、ほんとにむかつく!」

 リリアは去りゆくその背中を睨みながら歯を軋ませます。クロルは、項垂れたままのキリクに「大丈夫?」と声をかけますが、

「僕の漫画……お小遣い貯めて、楽しみに買ったやつだったのに……っ」

 キリクは、地面についた手をぎゅっと握ると、ポロポロと泣き出しました。
 クロルもリリアも、何と声をかけるべきかわからず、キリクの震える羽と真っ暗な穴を交互に見つめていました。
 ……すると、

「まったく(ニャさ)けニャい。おれが入って、取って来てやるよ」

 ポックルがため息混じりにそう言いました。
 キリクは顔を上げ、そちらに振り向き、

「えっ、できるの?!」
「造作もニャいことニャ。猫サマは高いところからの着地がトクイだからニャ」
「すっげー! 猫サマー!!」

 キリクは涙も吹き飛ぶ勢いで目を輝かせます。リリアも「おぉーっ!」と手を叩くので、ポックルは得意げに二本足で立ち、胸を張りました。

「そこで待っているがいい。すぐに戻るニャ」

 と、格好良く穴に飛び込もうとするので、

「待って、ポックル。入るのはいいけど……」

 クロルが手を伸ばし、それを止めようとしますが……時既に遅し。
 ポックルはぴょんとジャンプをして、穴の中に姿を消してしまいました。

 リリアとキリクが「よかったね!」「うん!」などとにこにこ笑っていますが……クロルは心配そうに、穴の中を覗き込みました。

 


 ――五分ほど経ったでしょうか。
にこにこ笑顔だったリリアとキリクの表情は、だんだんと曇ってゆき……

「……ポックル、遅くない?」

 痺れを切らしたリリアが、沈黙を破って言いました。
 それに、クロルはため息をつき、こう答えます。

「たぶん思ったよりも深くて、戻れなくなっているんだよ」
「えぇぇええ?!」

 リリアとキリクは絶叫し、「どうしよどうしよ」と狼狽えます。

「キリク、秘密基地にロープがあったよね。あれを借りてもいいかな? 僕が降りて、ポックルを引き上げるよ」

 クロルの落ち着いた声に、キリクは「うん!」と頷き、秘密基地からすぐに一本のロープを取ってきました。
 そのロープを、クロルは近くの樹の幹にしっかりと括り付け、余った部分を穴の中へと垂らします。

「いちおう、ロープが外れないか見ていて」

 クロルは二人にそう告げると、ロープを掴みながら穴の壁面に足をかけ、ゆっくりと降下していきました。
 その様子を、キリクが不安げな表情で見送ります。

「大丈夫かな……」
「大丈夫。クロルはすごいんだから!」

 その横で、リリアが自慢げにそう言いました。

 一方、穴の中を降りてゆくクロルは、空気の流れや音の反響から、この穴が想像以上に深いことを感じていました。
 日の光は次第に届かなくなり、視界は真っ暗です。もしかすると、三階建ての建物くらいの深さがあるかもしれません。

「ポックル……無事に着地していればいいけど」

 と、クロルが呟いた、その時。

「その声は……クロルか?! ニャァアッ、助かったニャ!!」

 下の方から、そんな声がこだましました。その必死な声色に苦笑しながらクロルが慎重に降りてゆくと、程なくして穴の底へと降り立ちました。
 瞬間、もふもふしたものが勢いよくクロルの顔面に貼り付きます。

「ウニャァァアアン! 怖かった! 怖かったニャァアァアッ!!」
「はいはい、わかったから。一度離れてね」

 クロルは泣き噦るポックルの身体を顔から引き剝がします。そして、常に背負ったままだったリュックを背中から下ろすと、手探りで中から何かを取り出しました。
 地面に降ろされたポックルが不思議そうに首を傾げていると……突然、目の前に眩い光がぱっと現れました。

「電池式のランタンだよ。早速、役に立ってよかった」

 それを片手にぶら下げながら、笑みを浮かべるクロルを見上げ、

「……お前、こニャいだのウソをホントにしたな?」
「まぁね。ああ言っちゃったからには、ちゃんと入れておかなきゃと思って。非常グッズ」
「……つくづく、(ニャに)を考えているかわからニャいヤツだ」

 目を細めて言うポックルに返事をしないまま、クロルはリュックを背負い直すと、ランタンを掲げて穴の底を見回します。

 直径三メートル程の、それほど広くない空間でした。土と石とが入り混じった地面は黒く湿っています。
 クロルが壁面に沿ってぐるりと回ると、一冊の本が落ちていました。キリクの漫画本です。

「あった。それじゃあ……」

 戻ろうか。そう言いかけて、クロルは言葉を止めます。
 漫画本を拾い、顔を上げたその正面……壁面の一部分に、人ひとりが通れるような横穴が空いているのを見つけたのです。

「ん、どうしたニャ?」
「……これ」

 尋ねるポックルに、クロルはランタンを掲げ、横穴を示します。

「……どこに繋がっているんだろう」

 クロルが呟くと同時に、その横穴の向こうから、微かに風が吹いてきました。どこか別の出口へと繋がっているのかもしれません。
 しかしポックルは、首を横に振って、

「どうでもいいニャ。早く地表へ戻るニャ」

 真っ暗な穴の底にいたことがよっぽど怖かったのか、急かすように言いました。
 クロルは「わかったよ」と笑い、ポックルを抱きかかえ、ロープに手をかけようとして……

 ふと、そのロープが左右にゆらゆらと揺れていることに気が付きます。
 それは、風で揺れているというよりは、明らかに人によって揺らされているような動きで……

「……まさか」

 クロルが上を見遣ると、案の定、リリアとキリクがロープを伝って、穴の底を目指し降りてきているではありませんか。

「あっ、いたいた! おーいクロルー! ポックルー!!」

 こちらを見下ろしながら、リリアが明るい声で呼びかけます。その少し上の位置では、キリクが必死な表情でロープを掴んでいました。
 しかしクロルは、慌てて二人を見上げ、

「そのロープ、二人分の体重は支えられないかも! リリア! 受け止めるから飛び降りて!」

 と、大きな声でいいました。
 その言葉に示し合わせたかのように、ロープがギシッと嫌な音を立て……リリアとキリクの顔が一気に青ざめます。

「ど、どどど、どうしよう……! リリア、飛び降りるなんてできる……?」

 額から汗を垂らしながら、キリクが尋ねます。
 確かに、穴の底まではまだ五メートルはあります。飛び降りるには勇気のいる高さでした。
 しかし、リリアは微笑んで、

「平気! だって、羽があるもん!」

 そう、返しました。
 そして彼女は、

「クロル、受け止めて!」

 迷うことなく、ロープから手を離しました。

 左右に広げた羽に風を受け、リリアはゆっくりと下降していきます。
 キリクもポックルも、そしてクロルも、驚いたようにその姿を見つめました。

 ランタンの光に照らされた白い羽と金色の髪が、きらきらと輝いています。
 その、神々しさすら感じる美しい光景に……

 ――嗚呼、もしかしたら本当に、彼女は空から舞い降りた天使なのかもしれない、と……

 クロルは無意識の内に、そんなことを考えていました。

 静かに、壊れ物を扱うかのように優しく、クロルはリリアを抱きとめました。
 その温かなぬくもりに、頭がぼうっとしそうになります。
 が、リリアがすぐにパッと離れ、

「キリク! ロープが切れる前に急いで戻って!」

 そう叫んだので、クロルも再びそちらを見上げます。キリクは「う、うん!」と返事をすると、慌ててロープを登り始めました。

 ……しかし。
 キリクが掴んでいる手の、少し上の辺りで……

 ――ブツッ。

 ……と、ロープが切れました。

「……え。わ、うわぁぁああああっ!!」

 キリクは、千切れたそれを握りしめたまま、悲鳴と涙をこぼしながら、穴の底へ真っ逆さまに落下します。
 クロルとリリアが受け止めようと慌てますが、間に合わず……あえなくキリクは、冷たい地面にお尻を叩きつけました。

「いったぁい!」
「キリク! 大丈夫?」

 リリアたちはキリクに駆け寄り、心配そうに様子を伺います。どうやら彼も背中の羽で落下が緩やかになったらしく、大きな怪我には至りませんでした。

 しかし、ロープは穴の底からでは届かない位置で千切れてしまいました。これでは地表へ戻る術がありません。

「……二人とも、どうして降りてきちゃったの?」

 クロルが困ったように尋ねると、リリアとキリクは一度顔を見合わせ、

「ごめん。私は興味本位」
「僕は……僕の漫画だから、やっぱり僕が取りに行かなきゃと思って……ごめん……」

 けろっと言うリリアの横で申し訳なさそうに俯くキリクに、クロルは微笑みながら先ほど拾った漫画本を差し出します。キリクは顔を上げ、「ありがとう」と言いました。

「さて。これからどうやって地表へ戻るかだけど……さっき、あそこに横穴を見つけたんだ。空気の流れがあるから、どこかへ繋がっているかもしれない。行ってみよう」
「クロル……勝手に降りてきたこと、怒ってないの?」

 リリアが、伺うように問いかけます。
 それにクロルは、

「当たり前だよ。怒ったって仕方がないからね。それに、元はと言えばポックルが後先考えずに飛び込んだのが原因だし」
「ニャッ?! おれのせいだって言いたいのか?!」

 毛を逆立てるポックルに、クロルは「冗談だよ」と笑い、

「とにかく、ここにいたって何も変わらない。この穴の先へ進もう」

 ランタンを掲げながら、二人と一匹に向け、そう言いました。