さぁ、あと十分で次の街へ出発だ。
クレイダー九十九号車の運転手・クロルは、文字盤の大きな腕時計を見ながら、りんごの入った紙袋を抱え列車へと急ぎました。
一つの街に滞在できるのは、到着した翌日の午後五時まで。出発時刻は絶対厳守です。
「りんごなんて久しぶりだな。三つも買っちゃった。おまけにもう一つ、今日はお祭りだからってお店のおばさんが付けてくれた。こんなにたくさん、一人でどう食べよう」
クロルは十三歳の少年です。真っ黒な髪に紺碧の瞳。小柄な体に不釣り合いな程に大きな革製のリュックと、ポケットの付いた緑色のつなぎ。頭には運転手の印である白いキャスケット帽を被っています。
「この街の人たちは皆、とても親切だったなぁ。別れ際に必ず、『あなたにも幸運が訪れますように』と言ってくれた。うん、素晴らしい考え方だ」
出会った人々の顔を思い出しながら、クロルは列車まで戻って来ました。
クレイダーは二両編成です。
一両目が運転席と、運転手の住まい。二両目が客室。
その間の連結部分にはバスルームがあります。
客室には二段ベッドが左右に二つずつあるので、同時に四名までお客を乗せることができます。
「さて、今日もお客さんは無しかな」
客室のドアの縁に立ちながら、クロルは腕時計を見ます。
と、時計の針がちょうど残り一分を指した、その時。
――ゴーン……ゴーン……
午後五時を告げる鐘が鳴り出しました。
それとほぼ同時に、駅に面した通りの向こうから、「ドドドドド」という地鳴りのような音が聞こえてきました。
クロルが帽子の鍔を持ち上げながら音のする方を眺めると……大勢の人がこちらを目がけて走ってくるではありませんか。
「……ひょっとして……あれみんな、乗車希望者……?」
初めての出来事に顔をひきつらせるクロルですが、よく見ると群衆から少し離れた先頭を走る人物が一人、います。
その人物が、
「乗せてーー!!」
と、よく通る声で言ったものですから、クロルは時計とその人物を交互に見つめながら鼓動を速めます。
やがて群衆が近付き、どよめき声が何と言っているのかが聞こえてきました。
「天使さまぁ!」
「どこへ行かれるのですか!」
「私たちを見捨てないでぇ!」
百は優に超えていそうな人の群れが、口々にそんなことを言っています。只ならぬ雰囲気を感じ、クロルは少しだけ身体を強張らせました。
時計の秒針は、午後五時まで残り十秒を指し――
「どいて!」
群衆から逃げるように走って来た人物にそう言われ、クロルは咄嗟に客室の奥に引っ込みます。
五、四、三、二、一……
その瞬間、その人物は高く高く跳躍しました。
真っ白な羽根が一枚、ひらりと落ちます。
――ぷしゅーっ。
間一髪、その人物を客室に飲み込んでから、クロルは定刻通り扉を閉めました。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
飛び乗ってきたその人物が、荒い息を繰り返すのをぽかんと眺めてから、
「……はっ。発車させなきゃ」
クロルは我に返り、列車の先頭――運転席に走ります。
発車に必要なスイッチを全て上にあげます。
それからゆっくりと、運転レバーを手前に引く……その、一瞬。
先ほどの人物を追いかけてきた、窓の外の群衆に目を向けます。
すると彼らは、落ちてきた白い羽根を一枚掲げながら、
「天使さまは、天に帰られたのだ。これを我々に残して……」
「ああ……なんて神々しい羽根だ……」
「この羽根が新しい信仰の対象……我々に幸福をもたらす、絶対的な存在……」
群がりながら虚ろな表情で、そんなことを言っています。
その中には、先ほどりんごをおまけしてくれた親切なおばさんもいました。
クロルは、なんとも言えない気持ちを抱えたまま……
ゆっくりと運転レバーを引き、クレイダーを発車させました。
「――ふぅ……なんとか時間通りに出発できた」
列車を自動運転に切り替えたクロルは、大きく息を吐きました。動き出した列車は、たたんたたん、と規則的なリズムを刻んでいます。
それから、クロルは再びはっとして、
「そうだ、お客さんお客さん」
慌てて二両目の客室に戻ります。
そおっと客室のドアを開けると――先ほど飛び乗ってきた人物が、左側の下段のベッドに腰掛け、窓の外を静かに眺めていました。
金色に輝くふわふわとした巻き髪と、ビー玉みたいに澄んだ青色の眼を持つ、とても美しい少女です。
身に纏った白いワンピースには、少し土埃が付いていました。
クロルはその姿を暫し眺めてから、姿勢を正し、
「……ご乗車ありがとうございます。クレイダー九十九号車、運転手のクロルです」
控えめな声で言うと、それにやや被せるように、
「ごじょうしゃ? それ、どういう意味?」
少女がはっきりとした声で聞き返すので、クロルは驚き、肩を強張らせます。
「ご乗車、っていうのは……つまり、乗ってくれてありがとう、って意味だよ」
「ふーん。私が乗りたくて乗ったのに、変なの」
少女が足をぷらんぷらんさせながらそんな風に言うので、
「…………」
クロルは、思わず黙り込みました。
……しばらくして。
「……あの。君、名前は?」
ずっと沈黙しているわけにもいかず、クロルは再び口を開き、伺いました。
すると、乗客の少女はきょとんとした顔をします。
「名前? そんなものないわ。けど、みんなからは――」
ばさっ。
と、軽やかな音をさせて。
「――天使、って呼ばれていたよ」
その背中に、それはそれは美しい真っ白な羽を広げて見せたのでした。