――時を同じくして、右の"猫の通り道"ルートを必死に逃げていたリリアでしたが……

 塀の上に登ったのはいいものの、猫たちにあっさりと追い付かれ、前方からも後方からも、さらには塀の下にも取り囲まれてしまいました。
 
「まぁ……"()()通り道"なんだから、当たり前だよね」
 
 引きつった笑みを浮かべながら、リリアは麻袋をぎゅっと抱えます。
 すると、白と黒のまだら模様をした一際大きな猫が、先頭に立ってリリアににじり寄り、
 
「さぁ……ボスを返すニャ」
 
 そう威圧するので、リリアはごくりと喉を鳴らします。
 どうやら猫たちは、この麻袋にポックルが入っていると思い込んでいるようです。

 塀の高さは約三メートル。切り抜けるには、飛び降りるしかありません。
 登るだけなら良かったのですが、飛び降りるとなると……とても勇気と覚悟のいる高さでした。

 リリアは袋を両手で抱いたまま、ギリギリまで猫たちを引きつけます。
 
「言うことが聞けニャいのニャら……」
 
 あと五歩ほどで捕まってしまう――そんな距離まで詰め寄られた時、

「――力尽くだニャ!!」
 
 白黒の猫の一声で、猫たちが一斉に飛び掛かって来ました。
 瞬間、リリアはクロルに言われた通り――麻袋を塀の向こうへ放り投げ、自分は反対方向へ飛び降りました。
 
「ニャッ……!?」
 
 猫たちの驚愕の声を背に受け、自分の身長よりも遥かに高い場所から飛んだリリアは、咄嗟に白い羽を広げます。
 
 すると羽は、風の抵抗を受けながら、彼女の身体を少しだけ持ち上げ――
 そのまま、衝撃を受けることなく、静かに地面へ降り立ちました。
 
「わ、私……飛べた……?」
 
 自分の両手を見つめ、驚いたようにリリアが呟きます。
 猫たちも、暫し呆然と眺めていました。

 ……が、ハッと思い出したように、
 
「あっ、ボス!」
「あっちだニャ! 無事か?!」
 
 などと慌ただしく塀の向こう側――リリアが投げた麻袋の方へ駆け出すので……
 リリアもハッとして、クレイダーに通ずる大通りの方へ走り出します。もう出発まで、あまり時間がないはずでした。


 一方、ポックルの入っていない麻袋の元へと駆け寄った猫たちは、ピクリとも動かないその袋を見つめ、意を決したように中身を改めます。
 すると、そこには……
 
「…………やられたニャ」
 
 オレンジ色の毛玉が、袋の中いっぱいに詰められていました。
 それは、先ほどポックルの部屋を掃除した時に集めたものです。
 ポックルの"におい"がたっぷり染み込んだ、彼の抜け毛……まんまと騙されていたのだと、猫たちは気付きました。
 
「ニンゲンどもめ……おれたちに追われることが最初から分かっていて、これを用意していたのか……?」
「とにかくボスを追おう。目的地は、あの列車だニャ!」
 
 そう言い合って、再び全員で駆け出しました。



 * * * *



「あっ、来たニャ!!」

 クレイダー九十九号の前で、一足先に到着していたクロルとポックルが、こちらへ駆けてくるリリアを見つけました。

 発車時刻まで残り五分。
 腕時計を気にしていたクロルも、リリアの姿を見て安堵しました。

「あいつらは追って来ていニャいようだニャ」
「リリアがうまいこと囮の袋を使ってくれたんだね」
「それにしても、お前……おれがニンゲンだけでニャく猫たちに追われる可能性も考えていたのか?」

 近付いてくるリリアに手を振りながら、クロルはその問いに答えます。

「少しだけね。ボス猫がいなくなった後、この街の調和がどう保たれるのかを心配するのは猫たちの方だろうから……君が街を出ると知ったら、止めに来るだろうと思ったんだよ」

 などと話し、そろそろこちらの声が届くかという距離にまでリリアが近付いて来た――その時。

「……ニャッ?! あれは……!」

 リリアの後方――クレイダーの駅から真っ直ぐに伸びる大通りの向こうから三人の人間が走ってくるのを見つけ、ポックルは声を上げました。
 それはポックルのよく知る顔触れ……アンナさん、エリカさん、デイジーさんでした。

「あと少しニャのに……勘付かれたのか?」

 さらに、向かって左側の細い路地から数十匹の猫たち――リリアを追っていた集団も現れ、こちらに向かってくるのが見えます。

 クロルは、「リリア、早く!」と叫びます。
 呑気に手を振りながら駆けていたリリアでしたが、言われて振り返ると、猫に加え人間の追っ手まで増えていることに気付き、「あわわわ!」と猛ダッシュを始めました。

 リリアはクロルたちの元へ辿り着き、荒い息をしながら「どうなってんの?!」と訴えます。
 そうしている間に追っ手も各々到着し……列車の前に立つ二人と一匹は、三人の人間と数十匹の猫たちに囲まれてしまいました。

「アンナさんたち……どうしてここに?」

 クロルが平静を装って、まずは人間の追っ手に尋ねます。
 するとアンナさんは、首から提げた懐中時計のようなものを手に持ちながら、

「申し訳ございません。あなた方を見送るはずのポックル様が急におかしな方向へ走り出し、そのまま路地裏をめちゃくちゃに移動したので、道中みなさんに何かあったのかと心配になりまして……余計なお世話と知りながら、駅まで来てしまいました。けど……この猫たちは一体、どうなさったのですか?」

 と、心配そうな表情を浮かべ、答えました。
 どうやらあの懐中時計のようなものが、首輪の発信機からポックルの位置を特定する機械のようです。

 アンナさんのその発言にいち早く反応したのは、リリアを追い掛けていた猫の内の、あの一際大きな白黒の一匹でした。

「こいつら、ボスを誘拐するつもりニャ! このまま列車に乗せて、他所の街へ連れ去るつもりニャんだ!」

 三姉妹は口に手を当て、驚愕します。
 リリアがあわあわと手を振り、クロルが何か言おうと口を開いた――その時。

「――違う。これは、おれの意志ニャ」

 ポックルが、力強い声で言いました。
 それにクロルが後ろから、

「ポックル、僕らが悪者になるのは構わないよ。むしろその方が……」
「うるさい。いいから黙っていろ」

 そうキッパリ言い切ると……ポックルは、三姉妹の方へと足を踏み出します。

「……おれは今日、この街を出ていく。ボスも辞める。もう二度と、ここへは戻らない」
「……どういうことですか?」

 ポックルの真剣な表情に、アンナさんが戸惑いながら尋ねます。

「おれはニンゲンどもの所有物ではニャく、ただの"一匹の猫"として生きていきたいんだ。自分で獲物を狩り、自分の力で縄張(ニャわば)りを手に入れる、そんニャ猫らしい生き方がしたい……生まれ持った環境に胡座をかき続けることは、もうやめにしたいんだニャ」

 それに、街の猫たちは「そんニャはずニャい!」「そいつらに唆されたんだニャ!」と、信じられない様子で声を上げます。
 しかしポックルが、

「――黙れ」

 鋭い視線で一言、そう言っただけで、猫たちは黙り込んでしまいました。

「……何度(ニャんど)も言わせるニャ。これはおれが、おれの意志でやっていること。街を出たいから力を貸せと、おれからこいつらに頼んだんだ」
「……何が、いけなかったのですか?」

 そう、振り絞るようにアンナさんが言います。

「街を出たいと思ってしまうくらい、屋敷での暮らしが、辛かったのでしょうか……?」
「……ああ、そうだ」

 切なげな表情を浮かべる彼女に、ポックルは淡々と返します。

「おれたち猫を、お前らニンゲンの価値観で縛り付けやがって……おれとお前らは違うんだ。大きニャ屋敷に住むのも、豪華ニャ飯を食うのも、おれが求めているものではニャい。お前らが、お前らの感覚で、自己満足で与えているだけ。終いには、こんニャ恐ろしい首枷までつけて……」
「それは……この街の猫が、他所へ無理矢理連れ去られることを防ぐためのもので……」
「それも全部、お前らの都合だろう? まったくニンゲンは、"群れ"を形成するのに必死だニャ。こういうのを"本能"って呼ぶらしい。ニンゲンがニンゲンの"本能"を持つように、おれも猫の"本能"を持っている。ただ、それだけのことニャんだよ」

 ポックルの言葉に、三姉妹は俯きます。
 それを見たリリアは、


「――ねぇ。あなたたちは、本当にポックルのことが好きなんだよね?」


 そう尋ねました。
 三姉妹は顔を上げると、すぐに頷いて、

「はい、もちろんです。ポックル様のことは、領主である前に一人の"家族"として、大切に想っています」

 アンナさんが代表して、そう答えました。
 リリアは「なら」と再び口を開き、

「ならもっと、お互いに話をすればよかったのに。何が嫌で、何が嬉しいのか……人間同士だって同じ。みんな考えていることが違うんだから、言葉で確かめ合わなきゃわからないよ。猫と人間ならなおさら。心は目には見えないから……だから、"言葉"があるんじゃないの?」
「……リリア、それは――」

 ……そこで。
 それまでのやり取りを静観していたクロルが、

「――たぶん、逆なんだよ。言葉が通じているのだから、わかり合えているはずだと……同じ気持ちでいるに違いないと、勘違いをしてしまうんだ。それが僕ら、人間なんだよ」

 言い聞かせるように、そう言いました。

 その言葉に、アンナさんはハッとした表情を浮かべます。
 そして、ゆっくりと歩き出し……目線を合わせるようにポックルの前にしゃがみ込みました。

「……確かに、その通りです。ポックル様のお気持ちは、私たちと一緒であると、そう信じて疑いませんでした。種族が違うにも関わらず、言葉が通じているから……価値観まで同じであると、思い込んでいたのです」

 彼女は、涙を堪えるように一度言葉を止めてから、

「……お話は、よく分かりました。本当に……行くのですね?」
「ああ。迷いはニャい」

 ポックルとアンナさんは静かに見つめ合いました。そして、アンナさんは手を伸ばし……
 カチッ、と小さな音と共に、赤い首輪の留め金を外しました。


「……猫の貴方には、わかってもらえないかもしれませんが……人は群れを、家族を愛する生き物です。家族の幸せを、何よりも願う生き物なのです。だから……貴方の幸せがこの街の外にあるのなら、どうぞ行ってください。離れていても、貴方が忘れても、私たちはずっと想っています。貴方は主である前に、私たちのかけがえのない家族なのです。いくらお願いされたって、忘れることなどできません。それだけは……どうかお許しください」


 彼女の頬を一筋の涙が溢れると同時に……午後五時を告げる鐘が鳴り始めました。

「……ポックル、そろそろ時間が」

 クロルが、遠慮がちに言います。

 するとポックルは……何も言わずにクレイダーの客室に乗り込みました。
 そして、ドアの縁に座ると一言だけ、こう鳴いたのです。


「――ニャアアォゥ」


 それは、何と言っているかわからない、ただの猫の鳴き声でした。
 しかしアンナさんたちには……彼が何と言ったのか、わかるような気がしました。

 クロルとリリアも続けて乗り込み、

「きっと彼を相応しい街まで届けます! この列車で!」
「みんな、元気でね!」

 そう告げました。



 ――ぷしゅーっ、と音を立て、客室のドアが閉まります。
 定刻通り、列車は走り出しました。

 客室のベッドに飛び乗り、ポックルは自分の生まれ育った街を窓から眺めます。
 アンナさんたちも猫たちも、こちらを見ています。
 しかしその姿は……あっという間に見えなくなりました。

 そんなポックルの背中を、リリアは何も言わずに見つめます。

「……ポックル。これでよかった?」

 列車を自動運転に切り替えたクロルが、客室へ戻ってきて言いました。
 ポックルは窓の外を見つめたまま、

「……ニンゲンの言葉は、『さようニャら』も『ごめんニャさい』も『ありがとう』も、長ったらしくて嫌いだニャ」

 そう、吐き捨てるように呟きました。
 


 ――ポックルの乗った列車が完全に見えなくなった頃。
 デイジーさんとエリカさんが、ぽつりと言いました。

「……行ってしまいましたね」
「……これからどうしましょう、お姉様」

 その問いかけに、アンナさんは赤い首輪に目を落とし、

「……私たちは、彼らを都合よく人間扱いしたり、猫扱いしたりして、傲慢に振り回していたのですね。彼らの意志も確認しないままに……」

 彼女たちの周りでは猫たちが「この街はどうニャってしまうんだ?」「誰がボスにニャるんだ?」「どうやって決めるニャ?」などと、不安の声を上げています。

「……人間も猫も、せっかく言葉が通じるのだから……もっと対等に、お互いがどう生きるべきかについて、語り合う必要があるかもしれません。まずは、手始めに――」

 アンナさんは線路に立ち、首から提げていた懐中時計のような機械を手に取り……

「この街のみんなの、首輪を取ることから始めましょう」

 それを、線路の向こうに広がる湖のほうへ投げてから、言いました。

 銀色のそれは、太陽を浴びてオレンジ色に光り……
 弧を描いて、湖へと落ちていきました。