その時、ちょうどお手伝いさんが「昼食はいかがいたしますか?」と部屋をノックしてきたので、話はそこで途切れました。
クロルとリリアも昼食をいただくことにし、再び部屋に二人と一匹だけになった時。
「――で。確認だけど、誰にも内緒で列車に乗る、っていうことでいいんだよね?」
運ばれてきた料理を食べる手を止め、クロルが尋ねます。
それに、白身魚のムニエルをがつがつと食べていたポックルも顔を上げて答えます。
「うみゃ。"猫の街"のボス猫がいニャくニャることニャんか、誰も許しちゃくれニャいだろう。特に、ニンゲンどもがニャ」
そのままグッ、と自身の首に付けられた赤い革の首輪に前足を掛け、
「この首輪がある限り、おれたちの居場所はニンゲン共に筒抜けニャ。このプレートの部分に発信機が付いていて、現在地を常に把握されている。無理に外そうとすると、ビリビリっとするニャ」
「ひぇ……」
電撃を想像したのか、リリアが怯えたような声を上げます。ポックルが続けます。
「……ニンゲン共はおれたちに尽くしているように見えるが、実際は違う。やつらは、猫を完全に管理をしたいだけ……自分たちの可愛がりたいものが、その手を離れニャいようにしているだけニャんだ。ニャに一つ、おれたちのためニャんかじゃニャい。おれたち猫は、自分の力で生きる自由を奪われたんだ」
ポックルは首輪を握る前足に、さらに力を込めます。
その姿を見たクロルは、落ち着いた声でこう尋ねます。
「つまり、クレイダーに乗ろうとしていることがバレたら、連れ戻されたり、閉じ込められたりする可能性がある、ってことだね」
「ああ」
「失敗したらさらに監視が厳しくなって、この先一生、この街から出る機会を失うかもしれないけれど……それでもいいの?」
「ハッ、愚問だニャ」
ポックルは、迷いなく答えます。
「この街に、おまえらみたいニャ猫好きじゃニャいニンゲンが来ること自体めずらしいんだ。このチャンスを逃せば、どっちにしろおれは一生このまま……だったら、リスクを冒してでも、おれはこの可能性に賭けるニャ」
縦長の瞳孔を持つその瞳には、強い決意が宿っていました。
クロルは、それをじっと見つめ……静かに頷きました。
「わかった。じゃあ……どうやって列車に乗り込むか、しっかり作戦を練ろう」
クロルは目の前のお皿を退かし、つなぎのポケットからメモ用紙とペンを取り出します。
「まず、位置を確認すると……ここがこの屋敷だとして、目の前にある大通りをほぼ直線的に進むと、クレイダーに乗れる」
クロルは確認しながら、紙に略地図を描いていきます。
「クレイダーの発車時刻は明日の午後五時。街の人たちに計画がバレないよう、時間ギリギリまでは普通に過ごす方がいいよね。それで、僕たちを見送るっていう名目で列車に近付いて、五時になった瞬間に飛び乗るっていうのはどう? そうすれば捕まらないはずだよ」
「私の時と同じだね」
リリアが相槌を打ち、クロルが頷きます。
「あとは……この計画が途中でバレた時のための逃走ルートを確認しておきたい。追っ手が来ても撒けるような、複雑な道がいいんだけど……ポックル、何か案はあるかな?」
クロルの質問に、ポックルは人間のように前足を組んで「うみゃ……」と考え込みます。
そして、やはり人間のような振る舞いで前足をポンと叩き、
「"猫の通り道"を使うのはどうかニャ? この街には猫が通るための塀や抜け穴がたくさんあるんだが、ニンゲンの大人が通れる幅ではニャい。だが、お前らみたいニャ子どもであれば、狭い塀の上や抜け穴を通ることができるはずニャ」
「それはいいね。もし大人に追われたら、そこでやり過ごして五時を待とう」
クロルは具体的な移動ルートをポックルから聞き出し、略地図に書き加えていきます。
それを、リリアは驚いたように見つめ、
「なんかクロル……こういうのに慣れているの? すごくテキパキしてる」
そう指摘するので、クロルは「ああ」と照れたように笑い、
「実は僕、いろんな街の地図を見て、あれこれ考えるのが好きなんだ。クレイダーは発車時刻厳守だから、時間までにあそこに行って、この店にも寄って……って、あらかじめ地図でルートを考えておくことが多くて。ここが工事中だったらこっち、人で混んでいたらこっち……なんて、必要のないルートまで考えちゃうんだけどね」
そう言われて、リリアは思い出します。
"麗しの街"でセントラルの出張所に行った時も、その後カフェで昼食を摂った時も、クレイダーに帰る時も、クロルは迷うことなく案内してくれました。
クレイダーの運転手が皆、全ての街の地図を把握しているわけではありません。地図を見るのが好きなクロルだからこそ、できたことだったのです。
"猫の通り道"の確認を終えると、クロルはタイムスケジュールの確認を始めます。
「この屋敷からクレイダーまで、最短ルートで歩いて十分。余裕を持って十五分と考えて、明日の午後四時四十五分にここを出発しよう」
「そんなにギリギリで大丈夫かな?」
「あまり早くに外へ出ると、人や猫が集まってきて動き辛くなるはずだよ。よそ者の僕たちや、ボス猫であるポックルは、みんなの注目を集めやすいからね。最低限の時間で行動したほうがいいだろう」
クロルの返答に、質問を投げかけたリリアは納得します。続けてポックルが、
「じゃあお前ら、今日はこのままここへ泊まっていくといい」
「えっ、いいの?」
「明日また落ち合って移動するよりは、一緒にここを出たほうが自然だろ。それに……協力してくれるお礼だニャ。部屋は余っているんだし、一晩だけでもゆっくりしていけ」
ぶっきら棒に言うポックルでしたが、照れ隠しなのかそっぽを向きます。
リリアはにんまりと笑って、ポックルの顎をゴロゴロとさすりながら、
「ありがとうポックル。いい子いい子」
「ニャ、馴れ馴れしくするニャ!」
「あはは。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「うむ、そうしろ。子どもなんだから、遠慮するニャ」
そう言って胸を張るポックルの姿は、頼もしいというよりは、やはり可愛らしく見えて。
クロルは笑いながら、「ありがとう」と言いました。
――昼食の後、ポックルが日課である街の見回りに出かけると言うので、クロルとリリアもそれについて行きました。
あらためて見る"猫の街"は、確かに猫が好んで通りそうな隙間や抜け穴や足場が多く、至る所に猫の姿があります。
明日に備えて"猫の通り道"の下見をし、ポックルを慕って声をかけてくる猫たちと話をしている内に、あっという間に日が暮れ……
再びポックルの屋敷に戻ったクロルとリリアは晩ご飯をご馳走になり、久しぶりにお風呂のお湯に浸かって、それぞれ割り当てられた客室の大きなベッドへ横になりました。
リリアは疲れが出たのか、ベッドに潜り込むなりすぐに眠ってしまいました。
しかし、その隣の部屋にいるクロルは……少し考え事をしていました。
窓の外に浮かぶ、半分に欠けた月。
クロルはベッドに腰掛け、それを見上げます。
リリアもポックルも、自分の意志で、生まれ育った街を離れる決意をしました。
「……それって、すごいことだよなぁ」
呟いてから、座っているベッドのシーツに手を触れます。
クレイダーの運転手になって、もうすぐ二年。
その間、列車のベッド以外で眠ることなどありませんでした。
硬くて狭くて、薄っぺらい自分の寝床。
それに比べて、この客室のベッドは、ふかふかであったかくて、三回寝返りしても落ちないくらいに広くて……
それでも、初めて眠るこのベッドは、なんだかしっくりきません。
どうしてだろうとしばらく考え……クロルは、初めて気が付きました。
毎晩横になるあの列車のベッドが、世界で一番落ち着いて眠れる場所になっていることに。
それはきっと、ポックルも同じです。
リリアもそうだったはずです。
世界中のみんなが、一番落ち着く"自分の寝床"を持っているのです。
それを捨ててまで、違う世界に飛び込んでいきたいという彼らの勇気と決意は……
「……本当に、すごいよ」
リリアもポックルも、純粋で、強くて、真っ直ぐで……そして――
とても、愚かだ。
「……何処へ行ったって、結局同じなのに」
クロルは、月を見上げながら悲しげに微笑んで――
ベッドに潜り込み、無理矢理瞼を閉じました。
――明くる日の朝。
窓の外には、雲一つない青空が広がっていました。
クロルは、普段よりも遅い時間に起きました。
身支度を整え、部屋を出ると、隣の部屋のドアが同時に開きました。出てきたのは、「ふぁあ」と大きなあくびをするリリアです。クロルは思わず笑みをこぼしながら、「おはよう」と言いました。
そのままポックルの部屋へ向かうと、彼は既に朝食を終え、毛繕いをしているところでした。
お手伝いさんの一人がクロルとリリアに向けて、
「我々も今から朝食を摂りますので、お二人もご一緒にいかがですか?」
と声をかけてくれたので、二人は一階の食堂へと移動しました。
「――なんだかすみません。昨日からご馳走になってばかりで」
いただきますをしてから、向かいに座る三人の女性――ポックルのお手伝いさんたちに、あらためてクロルが言います。
お手伝いさんは皆、黒のワンピースに白いエプロン、頭にはフリルのついたキャップ、という同じ格好をしています。長い黒髪と褐色の肌、エメラルドグリーンの瞳を持つ、よく似た三人でした。
その内の一人、懐中時計のようなものを首から下げた女性が、にこりと笑って答えます。
「とんでもありません。あなた方は、ポックル様の大事なお客様ですから。それに、あの方がお客様をお泊めするなど滅多にないことなので、我々も嬉しく思っているのです。ポックル様と仲良くしてくださり、ありがとうございます。本人に代わってお礼を申し上げます」
そう言って、丁寧に頭を下げました。
その言葉に「いえいえ」と手を振ってから、クロルはずっと気になっていたことを聞いてみました。
「あの……不躾な質問なのですが、あなた方とポックル……さんは、どんな関係なのですか?」
その問いに、三人のお手伝いさんは嫌な顔をするどころか微笑んで答えます。
「我々は、かつてこの街を治めていたステュアート家の末裔です。代々、領主猫であるポックル様の家系に仕えさせていただいております。私が長女のアンナ、こちらが次女のエリカ、その隣が三女のデイジーです」
紹介を受けながら、エリカさん、デイジーさんがそれぞれ会釈をします。「姉妹だったんだ」と驚くリリアに対し、クロルはやっぱり、と思いました。アンナさんが続けます。
「母は数年前に他界し、父はセントラル勤めでなかなか帰らないので、私たち三人でポックル様のお世話をしております。他の街の人からすればおかしな風習かもしれませんが、猫にお仕えすることは私たちにとって当たり前のこと。ポックル様がお生まれになったのは二年前ですが、その前はポックル様の亡くなったお父様にお仕えしておりました」
「なるほど。では本当に、猫であるポックルさんがこの街を取り仕切っているのですね?」
クロルの質問に三姉妹は顔を見合わせて、くすりと笑います。
「確かにポックル様は、街の猫たちから絶大な信頼を集めるボス猫です。公的にもこの街の領主なので、行政についてもご意見を伺うのですが……」
「あのお方、政にはまったくご興味がなくて。先代とは大違い」
「結局、我々三人が街の管理をしているのが実状ですね」
デイジーさん、エリカさん、アンナさんが順番にそう答えました。さらにアンナさんが、
「街を取り仕切ることができなくても良いのです。ポックル様は、いてくださるだけで充分。この"猫の街"の象徴のような存在なのですから」
と、柔らかな笑顔で言いました。
リリアが「象徴……」と呟く横で、クロルは「お話いただきありがとうございます」と微笑み返しました。
* * * *
「――どう思った?」
朝食を終え、クロルに割り当てられた客室に入るなり、リリアがそう切り出しました。
「さっきのアンナさんたちの話?」
ベッドに腰掛けながら、クロルが返します。
「そう。なんか、想像していたのと違くて……」
上手く言葉が見つからない様子のリリアですが、彼女が言わんとしていることはクロルにもわかっていました。
「うん。ポックルとの感覚に差があるみたいだね。確かに、始まりは猫への過剰な干渉から始まった風習かもしれない。けど、ここで生まれ育った人たちにとっては、猫のお世話はごく当たり前のことで、自由を奪っているつもりなんてないんだ」
「そうなの。だからポックル、本当にこのまま黙って街を出てしまっていいのかなって。話せば分かり合えるんじゃないかなって思って……」
「僕もそう思いたい。けど……例えばリリアが同じように、他所から来た人に『話せばわかるはず』と言われて、君のいた街を出て行くのを考え直したりしたと思う?」
クロルに言われ、リリアは「うーん……」と天井を見つめ考えます。そして、
「思わない」
「あはは、だよね」
「でも、ポックルの場合は家に閉じ込められているわけではないし、この街にいてもある程度自由に生きられるんじゃないかな……」
「……じゃあ、聞くだけ聞いてみる?」
そう言われ、リリアは力強く「うん!」と頷きました。
「――断る」
開口一番、ポックルはそう切り捨てました。
リリアが「えぇー」と不満げな声を上げ、クロルは「やっぱり」、と目を伏せます。
「何を今更。昨日教えただろう? ニンゲンどもは甲斐甲斐しく世話するフリをして、おれたち猫を支配したいだけニャんだ。この首輪が何よりの証拠。『この街を出る』ニャんて打ち明けようものなら、どんニャ仕打ちを受けるかわかったモンじゃニャい」
ポックルはそっぽを向いてそう言います。
それでもリリアは諦めきれない様子で、
「で、でも、アンナさんたちも意地悪でやっているわけじゃないし、本気で話し合えば……」
「本気? 精神論で解決できるニャらとっくにそうしている。向こうにとっちゃ所詮、愛玩動物の戯言。有無を言わさず閉じ込められるのがオチニャ」
「でも……」
その後も、リリアとポックルの話は平行線のままなので、見兼ねたクロルが口を開きます。
「ねぇ、ポックル」
「ニャんだ」
「……この街を出たら、もう出来立ての美味しいごはんは食べられない。お気に入りのおもちゃで遊べない。君の匂いが染み付いた、世界で一番安心できるベッドで眠れない。それはもう、いいんだよね」
「……当たり前だニャ」
「他の街には、君みたいに言葉を話せる猫はいない。だからみんな、君のことを奇異の目で見るだろう。心無い言葉に傷付けられるかもしれないし、悪意のある人間に利用されるかもしれない。それでも、この街を……みんなが君を慕ってくれているこの街を、出て行くんだね?」
クロルの質問に、ポックルは……
「――お前は、何か勘違いをしていニャいか?」
これまでにないくらい低い声音で、淡々と答えました。
「おれはお前らと会話できるが、ニンゲンではニャい。猫だ。お前らとはそもそもの価値観や感覚が違う。群れに受け入れてもらいたい、順応したい……それはニンゲンの感覚だろう? 猫はそうじゃニャい。自分で住処を決め、自分で縄張りを手に入れる。群れがニャくても自分を見失わニャい。それが猫だ。他の街で誰かと馴れ合うつもりニャんて、毛頭ニャいニャ」
その言葉を、クロルはしっかりと受け止め、静かに頷きます。
「……うん。君の言う通りだよ。僕が間違っていた。ごめんね」
「いや、気にするニャ。おれ達がニンゲンの言葉を話せてしまうばっかりに、同族のようニャ感覚にニャってしまうんだろう。わかってくれればそれでいいニャ」
ポックルもさっぱりとした口調で、そう返します。
そのしっぽをじっと見つめながら、リリアは今のポックルの言葉を、頭の中で何度も繰り返していました。
「じゃあ、予定通りに行動するよ。と言っても、出発時間までまだ五時間以上ある。それまでに……」
クロルは腕時計を見てから、リリアとポックルに向かって、
「一つ、やっておきたいことがあるんだ。念には念を入れて、ね」
クロルが深刻な顔でそう言うので、リリアはどんな準備をするのかと、少しドキドキしたのですが……
クロルが始めたのは、この広いポックルの部屋の掃除でした。
散らかっているおもちゃを片付け、ベッドのシワを伸ばし、カーペットに付いているオレンジ色の毛をしっかり掃きます。
「一体、何のために……」
ポックルがぶつぶつ文句を言いますが、クロルに「いいからいいから」と促されます。
「あ、そうだ。ただ掃除していてもつまらないし、みんなでおしゃべりしない?」
「おしゃべり?」
「そう。例えば……リリア、"映画の街"でのこと、ポックルに教えてあげてよ」
「えっ、私?」
「うん。特に、驚いたことや楽しかった話がいいかな。で、ポックルは部屋の外に聞こえるように、できるだけ大きな声で笑って。僕たちが意気投合しちゃって、そのままポックルが駅まで見送りに行くことにした、っていう印象をアンナさんたちに与えたいんだ」
「なるほど。さっすがクロル、いい作戦だね!」
「フン。楽しくもニャいのに笑えるか」
「僕も大声で笑うのは苦手だけど……一緒にやってみるからさ。ね?」
そうして、二人と一匹はいろいろな話をしました。
"映画の街"で出会ったテリー監督の話。
二人が巻き込まれた演出の話。
しっかり役をこなす黒猫がいた話。
二人が観た映画の話。
最初は無理矢理笑っていたのが、次第に本当に面白く感じてきて……みんな、ちょっとしたことでも笑うようになってしまいました。
ポックルもリリアも、そしてクロルも、誰かとこんな風に大声で笑い合うのが初めてで、そのこと自体が面白くなってしまったのです。
二人と一匹の笑い声が響く間に、時計の針は進み――
時刻は、午後四時半。
まもなく、屋敷を出発する時間です。
「――最後に確認するよ。ポックル、君は僕らを見送るという名目で、一緒に屋敷を出る。そのまま大通りを真っ直ぐに進んで、クレイダーに向かう。ゆっくりと、焦らずにね。午後五時を告げる鐘が鳴ったら客室のドアを閉めるから、君は閉まり切る直前で飛び乗るんだ」
「わかったニャ」
ポックルが頷きます。
続けて、クロルはリリアに視線を向けます。
「リリアも、準備は大丈夫かな。例の物は用意できた?」
「うん。いちおう袋に入れたけど……こんなもの、何に使うの?」
そう言ってリリアは、少し膨らんだ麻袋を手に持ちます。クロルはそれを「ありがとう」と受け取りながら、
「念のためだよ。使わずに済めばそれでいい。無事に列車に戻れたら話すよ」
そう言います。
リリアにはよくわかりませんでしたが、クロルを信じることにしました。
「よし。最後にもう一度だけ、逃走用の別ルートの確認をして、出発しよう」
そう言って、クロルは昨日書いた手描きの地図を広げました。
* * * *
――屋敷の庭を抜けた、大きな門扉の前で。
「本当にお世話になりました」
見送りに出て来たステュアート三姉妹に、クロルとリリアは頭を下げます。
それに、長女のアンナさんも深々と頭を下げ、
「こちらこそ、ありがとうございました。ポックル様も大変楽しんでおられたようですし、私たちも久しぶりに旅の方とお話ができて嬉しかったです」
と、穏やかな笑顔を浮かべました。
続けて、エリカさんとデイジーさんも言います。
「住みやすい、素敵な街が見つかることをお祈りしています」
「道中お気を付けて。猫に会いたくなったら、またいらしてくださいね」
それにリリアは「はい!」と元気よく答えました。
「……じゃ、見送ってくるニャ」
ポックルは短く言うと、スタスタと歩き出しました。
クロルとリリアも最後に頭を下げ、慌てて後を追います。
「ちょっとちょっと、あまりにもあっさりしすぎじゃない?」
「普段通りにしニャいでどうする。むしろ自然ニャ演技を褒めてもらいたいくらいだ」
歩きながら、リリアとポックルがこそこそと言い合います。
リリアがちらっと屋敷の方を振り返ると、三姉妹はまだこちらを見ており、視線に気付いてにこやかに手を振ってきました。それに、リリアも手をひらひらさせ、
「……大丈夫そうだね」
「うん」
と、クロルと目配せしました。
クレイダーの駅まで続く大通りを、早すぎず遅すぎない、自然なペースで歩くことが出来ています。
(このまま、予定通り列車に乗れれば……)
……と、リリアが考えていた――その時。
「あっ、ボスと昨日のニンゲンたち!」
「もう帰るのかー」
「この街は楽しかったかニャ?」
そんな声が聞こえたかと思うと、昨日と同様に数十匹の猫たちが近寄ってきました。
「おう、お前ら」
ポックルは親しげにその猫たちに近寄ります。そして、人間にはわからない言語――猫の言葉で会話を始めました。
クロルは腕時計の時間を気にしつつ、彼らがニャンニャン言い合っているのを眺めます。
――しばらくして。
何かを必死に訴えるポックルと、それに反発するように毛を逆立て威嚇する猫たち……そんな、穏やかではない雰囲気になってきました。
「ちょっと、どうしたの?」
リリアが慌ててポックルに尋ねます。
すると、彼は後退りながら、
「街を出ることを伝えたら、『嘘だ!』『こいつらに何か吹き込まれたんだろ』って怒り始めたニャ……」
「えぇー!?」
どうやら猫たちは、クロルとリリアに怒りを向けているようです。今にも飛びかからん勢いで「フーッ」と唸り、こちらを睨みつけています。
それを見たクロルは、迷いなくポックルを抱き上げ、
「リリア……真っ直ぐに走るよ」
そう言うと、取り囲む猫たちを飛び越え走り出しました。
リリアは驚きつつも、半歩遅れてついていきます。
猫たちは「ボスが誘拐されたニャ!」「あいつらを追え!」と口々に言いながら、一斉に追いかけて来ました。
クロルはそれを横目で確認し、隠していた麻袋を取り出して、
「リリア。僕は左の"猫の道"ルートからクレイダーに向かう。君は……これを持って右のルートから向かって」
「で、でも……」
「本当に危なくなったら、この袋を遠くに投げてから逃げて。いいね?」
戸惑うリリアに向けて、クロルは麻袋を放り投げます。
そして、
「走って!」
声と同時に、二人は大通りから外れ、左右の細い路地に向かってそれぞれ駆け出しました。追ってきた猫たちは、
「二手に分かれたぞ!」
「ボスは右ニャ! あの娘がキャッチしたニャ!!」
と、全員迷いなくリリアの方を追ってきます。
「え? え?! ちょ、なんでぇえ?!」
てっきり半数ずつ追って来ると思っていたリリアは、予想外の追っ手の数に弱気な声を上げます。
しかし、これでクロルとポックルには追っ手がいなくなりました。
「……無事に乗れるといいな」
リリアは呟きます。
が、後ろから「待てー!」「八つ裂きにしてやるニャ!」などと殺気立った声が聞こえるので……
「わ、私も無事に乗れるといいなぁーっ!?」
麻袋を抱き抱えながら、全速力で走りました。
一方、左のルートを進むクロルとポックルは、民家と民家の隙間をすり抜けたり、壁の上を登るなどして"猫の通り道"を進み……
追っ手がいないことを確認してから、廃墟らしき民家の庭で一旦足を止めました。
「……もう列車に着いたのか?」
クロルのお腹に、背後からはちょうど見えないよう大の字で張り付いていたポックルが、そのままの体勢で言います。
クロルは、その格好に少し笑いながら、
「まだだよ。あと少しだけどね」
「はぁー……それにしても、まさかあいつらに追われるとは思わニャかった……」
脇を抱えられ地面にそっと降ろされながら、ポックルが言います。
「この街のボスである君が、自分の意志で街を出たがるなんて……みんな夢にも思わなかったんだろうね」
「ボスニャんて形だけだニャ。代わってほしいニャらいくらでも代わってやるっつーの」
そう言って、大きなため息をつきました。
しかし、悠長におしゃべりしている時間はありません。
「さぁ、出発までもう十分もない。さすがに君もしがみついたままじゃ辛いだろうから――ちょっと狭いけど、こっちに入って」
クロルは、ポックルの目の前に背を向けてしゃがみます。
その背には、いつも背負っている大きなリュックがあります。
その留め金を、彼は……ゆっくりと開けました。
ポックルが入り込もうとリュックの中を覗き込みますが――そのまま、上げた前足をぴたりと止めました。
リュックの中身を見て、躊躇したのです。
そこにあったのは…………
「お、お前……これ…………」
言葉に詰まりながら、ポックルはクロルを見上げます。
クロルはゆっくりと振り向きながら、
「……あはは。ごめんね、驚かせて」
そう、困ったように笑い、言いました。
――しかし。
「このことは…………リリアには内緒だよ?」
振り返ったその目は……
少しも、笑ってはいませんでした。
――時を同じくして、右の"猫の通り道"ルートを必死に逃げていたリリアでしたが……
塀の上に登ったのはいいものの、猫たちにあっさりと追い付かれ、前方からも後方からも、さらには塀の下にも取り囲まれてしまいました。
「まぁ……"猫の通り道"なんだから、当たり前だよね」
引きつった笑みを浮かべながら、リリアは麻袋をぎゅっと抱えます。
すると、白と黒のまだら模様をした一際大きな猫が、先頭に立ってリリアににじり寄り、
「さぁ……ボスを返すニャ」
そう威圧するので、リリアはごくりと喉を鳴らします。
どうやら猫たちは、この麻袋にポックルが入っていると思い込んでいるようです。
塀の高さは約三メートル。切り抜けるには、飛び降りるしかありません。
登るだけなら良かったのですが、飛び降りるとなると……とても勇気と覚悟のいる高さでした。
リリアは袋を両手で抱いたまま、ギリギリまで猫たちを引きつけます。
「言うことが聞けニャいのニャら……」
あと五歩ほどで捕まってしまう――そんな距離まで詰め寄られた時、
「――力尽くだニャ!!」
白黒の猫の一声で、猫たちが一斉に飛び掛かって来ました。
瞬間、リリアはクロルに言われた通り――麻袋を塀の向こうへ放り投げ、自分は反対方向へ飛び降りました。
「ニャッ……!?」
猫たちの驚愕の声を背に受け、自分の身長よりも遥かに高い場所から飛んだリリアは、咄嗟に白い羽を広げます。
すると羽は、風の抵抗を受けながら、彼女の身体を少しだけ持ち上げ――
そのまま、衝撃を受けることなく、静かに地面へ降り立ちました。
「わ、私……飛べた……?」
自分の両手を見つめ、驚いたようにリリアが呟きます。
猫たちも、暫し呆然と眺めていました。
……が、ハッと思い出したように、
「あっ、ボス!」
「あっちだニャ! 無事か?!」
などと慌ただしく塀の向こう側――リリアが投げた麻袋の方へ駆け出すので……
リリアもハッとして、クレイダーに通ずる大通りの方へ走り出します。もう出発まで、あまり時間がないはずでした。
一方、ポックルの入っていない麻袋の元へと駆け寄った猫たちは、ピクリとも動かないその袋を見つめ、意を決したように中身を改めます。
すると、そこには……
「…………やられたニャ」
オレンジ色の毛玉が、袋の中いっぱいに詰められていました。
それは、先ほどポックルの部屋を掃除した時に集めたものです。
ポックルの"におい"がたっぷり染み込んだ、彼の抜け毛……まんまと騙されていたのだと、猫たちは気付きました。
「ニンゲンどもめ……おれたちに追われることが最初から分かっていて、これを用意していたのか……?」
「とにかくボスを追おう。目的地は、あの列車だニャ!」
そう言い合って、再び全員で駆け出しました。
* * * *
「あっ、来たニャ!!」
クレイダー九十九号の前で、一足先に到着していたクロルとポックルが、こちらへ駆けてくるリリアを見つけました。
発車時刻まで残り五分。
腕時計を気にしていたクロルも、リリアの姿を見て安堵しました。
「あいつらは追って来ていニャいようだニャ」
「リリアがうまいこと囮の袋を使ってくれたんだね」
「それにしても、お前……おれがニンゲンだけでニャく猫たちに追われる可能性も考えていたのか?」
近付いてくるリリアに手を振りながら、クロルはその問いに答えます。
「少しだけね。ボス猫がいなくなった後、この街の調和がどう保たれるのかを心配するのは猫たちの方だろうから……君が街を出ると知ったら、止めに来るだろうと思ったんだよ」
などと話し、そろそろこちらの声が届くかという距離にまでリリアが近付いて来た――その時。
「……ニャッ?! あれは……!」
リリアの後方――クレイダーの駅から真っ直ぐに伸びる大通りの向こうから三人の人間が走ってくるのを見つけ、ポックルは声を上げました。
それはポックルのよく知る顔触れ……アンナさん、エリカさん、デイジーさんでした。
「あと少しニャのに……勘付かれたのか?」
さらに、向かって左側の細い路地から数十匹の猫たち――リリアを追っていた集団も現れ、こちらに向かってくるのが見えます。
クロルは、「リリア、早く!」と叫びます。
呑気に手を振りながら駆けていたリリアでしたが、言われて振り返ると、猫に加え人間の追っ手まで増えていることに気付き、「あわわわ!」と猛ダッシュを始めました。
リリアはクロルたちの元へ辿り着き、荒い息をしながら「どうなってんの?!」と訴えます。
そうしている間に追っ手も各々到着し……列車の前に立つ二人と一匹は、三人の人間と数十匹の猫たちに囲まれてしまいました。
「アンナさんたち……どうしてここに?」
クロルが平静を装って、まずは人間の追っ手に尋ねます。
するとアンナさんは、首から提げた懐中時計のようなものを手に持ちながら、
「申し訳ございません。あなた方を見送るはずのポックル様が急におかしな方向へ走り出し、そのまま路地裏をめちゃくちゃに移動したので、道中みなさんに何かあったのかと心配になりまして……余計なお世話と知りながら、駅まで来てしまいました。けど……この猫たちは一体、どうなさったのですか?」
と、心配そうな表情を浮かべ、答えました。
どうやらあの懐中時計のようなものが、首輪の発信機からポックルの位置を特定する機械のようです。
アンナさんのその発言にいち早く反応したのは、リリアを追い掛けていた猫の内の、あの一際大きな白黒の一匹でした。
「こいつら、ボスを誘拐するつもりニャ! このまま列車に乗せて、他所の街へ連れ去るつもりニャんだ!」
三姉妹は口に手を当て、驚愕します。
リリアがあわあわと手を振り、クロルが何か言おうと口を開いた――その時。
「――違う。これは、おれの意志ニャ」
ポックルが、力強い声で言いました。
それにクロルが後ろから、
「ポックル、僕らが悪者になるのは構わないよ。むしろその方が……」
「うるさい。いいから黙っていろ」
そうキッパリ言い切ると……ポックルは、三姉妹の方へと足を踏み出します。
「……おれは今日、この街を出ていく。ボスも辞める。もう二度と、ここへは戻らない」
「……どういうことですか?」
ポックルの真剣な表情に、アンナさんが戸惑いながら尋ねます。
「おれはニンゲンどもの所有物ではニャく、ただの"一匹の猫"として生きていきたいんだ。自分で獲物を狩り、自分の力で縄張りを手に入れる、そんニャ猫らしい生き方がしたい……生まれ持った環境に胡座をかき続けることは、もうやめにしたいんだニャ」
それに、街の猫たちは「そんニャはずニャい!」「そいつらに唆されたんだニャ!」と、信じられない様子で声を上げます。
しかしポックルが、
「――黙れ」
鋭い視線で一言、そう言っただけで、猫たちは黙り込んでしまいました。
「……何度も言わせるニャ。これはおれが、おれの意志でやっていること。街を出たいから力を貸せと、おれからこいつらに頼んだんだ」
「……何が、いけなかったのですか?」
そう、振り絞るようにアンナさんが言います。
「街を出たいと思ってしまうくらい、屋敷での暮らしが、辛かったのでしょうか……?」
「……ああ、そうだ」
切なげな表情を浮かべる彼女に、ポックルは淡々と返します。
「おれたち猫を、お前らニンゲンの価値観で縛り付けやがって……おれとお前らは違うんだ。大きニャ屋敷に住むのも、豪華ニャ飯を食うのも、おれが求めているものではニャい。お前らが、お前らの感覚で、自己満足で与えているだけ。終いには、こんニャ恐ろしい首枷までつけて……」
「それは……この街の猫が、他所へ無理矢理連れ去られることを防ぐためのもので……」
「それも全部、お前らの都合だろう? まったくニンゲンは、"群れ"を形成するのに必死だニャ。こういうのを"本能"って呼ぶらしい。ニンゲンがニンゲンの"本能"を持つように、おれも猫の"本能"を持っている。ただ、それだけのことニャんだよ」
ポックルの言葉に、三姉妹は俯きます。
それを見たリリアは、
「――ねぇ。あなたたちは、本当にポックルのことが好きなんだよね?」
そう尋ねました。
三姉妹は顔を上げると、すぐに頷いて、
「はい、もちろんです。ポックル様のことは、領主である前に一人の"家族"として、大切に想っています」
アンナさんが代表して、そう答えました。
リリアは「なら」と再び口を開き、
「ならもっと、お互いに話をすればよかったのに。何が嫌で、何が嬉しいのか……人間同士だって同じ。みんな考えていることが違うんだから、言葉で確かめ合わなきゃわからないよ。猫と人間ならなおさら。心は目には見えないから……だから、"言葉"があるんじゃないの?」
「……リリア、それは――」
……そこで。
それまでのやり取りを静観していたクロルが、
「――たぶん、逆なんだよ。言葉が通じているのだから、わかり合えているはずだと……同じ気持ちでいるに違いないと、勘違いをしてしまうんだ。それが僕ら、人間なんだよ」
言い聞かせるように、そう言いました。
その言葉に、アンナさんはハッとした表情を浮かべます。
そして、ゆっくりと歩き出し……目線を合わせるようにポックルの前にしゃがみ込みました。
「……確かに、その通りです。ポックル様のお気持ちは、私たちと一緒であると、そう信じて疑いませんでした。種族が違うにも関わらず、言葉が通じているから……価値観まで同じであると、思い込んでいたのです」
彼女は、涙を堪えるように一度言葉を止めてから、
「……お話は、よく分かりました。本当に……行くのですね?」
「ああ。迷いはニャい」
ポックルとアンナさんは静かに見つめ合いました。そして、アンナさんは手を伸ばし……
カチッ、と小さな音と共に、赤い首輪の留め金を外しました。
「……猫の貴方には、わかってもらえないかもしれませんが……人は群れを、家族を愛する生き物です。家族の幸せを、何よりも願う生き物なのです。だから……貴方の幸せがこの街の外にあるのなら、どうぞ行ってください。離れていても、貴方が忘れても、私たちはずっと想っています。貴方は主である前に、私たちのかけがえのない家族なのです。いくらお願いされたって、忘れることなどできません。それだけは……どうかお許しください」
彼女の頬を一筋の涙が溢れると同時に……午後五時を告げる鐘が鳴り始めました。
「……ポックル、そろそろ時間が」
クロルが、遠慮がちに言います。
するとポックルは……何も言わずにクレイダーの客室に乗り込みました。
そして、ドアの縁に座ると一言だけ、こう鳴いたのです。
「――ニャアアォゥ」
それは、何と言っているかわからない、ただの猫の鳴き声でした。
しかしアンナさんたちには……彼が何と言ったのか、わかるような気がしました。
クロルとリリアも続けて乗り込み、
「きっと彼を相応しい街まで届けます! この列車で!」
「みんな、元気でね!」
そう告げました。
――ぷしゅーっ、と音を立て、客室のドアが閉まります。
定刻通り、列車は走り出しました。
客室のベッドに飛び乗り、ポックルは自分の生まれ育った街を窓から眺めます。
アンナさんたちも猫たちも、こちらを見ています。
しかしその姿は……あっという間に見えなくなりました。
そんなポックルの背中を、リリアは何も言わずに見つめます。
「……ポックル。これでよかった?」
列車を自動運転に切り替えたクロルが、客室へ戻ってきて言いました。
ポックルは窓の外を見つめたまま、
「……ニンゲンの言葉は、『さようニャら』も『ごめんニャさい』も『ありがとう』も、長ったらしくて嫌いだニャ」
そう、吐き捨てるように呟きました。
――ポックルの乗った列車が完全に見えなくなった頃。
デイジーさんとエリカさんが、ぽつりと言いました。
「……行ってしまいましたね」
「……これからどうしましょう、お姉様」
その問いかけに、アンナさんは赤い首輪に目を落とし、
「……私たちは、彼らを都合よく人間扱いしたり、猫扱いしたりして、傲慢に振り回していたのですね。彼らの意志も確認しないままに……」
彼女たちの周りでは猫たちが「この街はどうニャってしまうんだ?」「誰がボスにニャるんだ?」「どうやって決めるニャ?」などと、不安の声を上げています。
「……人間も猫も、せっかく言葉が通じるのだから……もっと対等に、お互いがどう生きるべきかについて、語り合う必要があるかもしれません。まずは、手始めに――」
アンナさんは線路に立ち、首から提げていた懐中時計のような機械を手に取り……
「この街のみんなの、首輪を取ることから始めましょう」
それを、線路の向こうに広がる湖のほうへ投げてから、言いました。
銀色のそれは、太陽を浴びてオレンジ色に光り……
弧を描いて、湖へと落ちていきました。
「――私、ずっと気になっていたんだけど……」
"猫の街"を出発した、その晩。
一両目の、いつものテーブルで。
ポックルの「魚が食べたい」というリクエストに「そんな高級品、そうそう買えるわけないでしょ」とクロルが返しつつ作ったチーズリゾットを食べながら、リリアがそう切り出します。
「え? 何が?」
それに、熱々のリゾットをふーふーしながら、クロルが聞き返します。
「クロルってさ、ずーっとそのリュック背負ってるじゃない? ご飯を作っている時も、食べている時も。でも、そこから何かを取り出したり、何かを入れたりはしていないよね? 鞄として使っていない、と言うか……最初はそういうものなのかな、と思っていたけど、他の人たちを見ているとずーっと背負ってるだけの人っていないみたいだから、不思議に思って。ねぇ、中身は何なの?」
その問いに、中身を知っているポックルはドキッしてから、そっとクロルの方を見ます。
『このことは…………リリアには内緒だよ?』
あの時のクロルの、氷のように冷たい瞳を思い出し、ポックルは身震いしますが……
当のクロルは全く動揺せず、さっぱりとした表情でこう答えました。
「ああ、これね。実は、クレイダーの運転手がずっと背負っていないといけないものなんだ。中には非常時にだけ使う物が入っているから、普段は使わないんだよ」
淀みなく発せられたその言葉が嘘であることを、ポックルは知っています。
クレイダーの運転手は、セントラルの紋章が入ったキャスケット帽と緑色のつなぎが目印。指定の非常用リュックなど、存在しないのです。
それに……リュックの中に入っているものは…………
「ひじょうじ? って何?」
真実を知る由もなく、リリアが続けて問いかけます。
クロルは「うーん」と考える素振りをしてから、
「列車が故障して止まるとか、大きな自然災害が起こるとか、そういう緊急事態のことだよ。運転手と乗客がこの列車の中で二、三日過ごすことになってもいいように、水や非常食、タオルやランタンが入っているんだ」
そうつらつらと話す彼を見て、ポックルは思いました。クロルはいつかこう聞かれることを想定し、嘘の答えを用意していたのだ、と。
「ふーん、そうなんだ。普段は使わないものを背負っていないといけないなんて、大変だね」
「もう慣れっこだけどね。逆に無いと落ち着かないくらい」
クロルが穏やかに笑って、それでこの話はおしまいになりました。リリアも疑問に感じることなく、納得したようです。
「ところで――ポックル」
突然クロルに話かけられたポックルは、ビクッと体を震わせます。
「ニャニャニャ、ニャんだ……?」
「明日着く街のことなんだけど……もしかしたら君が気に入るかも、と思っているんだ。一緒に降りてみない?」
微笑むクロルの目を、ポックルはじーっと見つめます。
そこには深い意図や悪意はなく、単に提案しているだけだということが、なんとなくわかりました。
「……わかった。物は試しニャ。降りてみるとしよう」
「わーい! 新しい街、楽しみだねー!」
リリアが無邪気に喜びます。
ポックルは街を出て早々、こんなに気を揉むとは思っていなかったので、
「うみゃ……は、早く降りたいニャ……」
と、こっそりと呟きました。
「――それじゃあ、おやすみ」
クロルが客室の明かりを消し、一両目の自室へと戻って行きます。
「うん、おやすみー」
リリアはそれを見送ってから、いつもの右側下段のベッドに入りました。
ポックルは反対の左側、上段のベッドに陣取っています。
「明日着く街、楽しみだね。クロルは『着いてからのお楽しみ』って言ってたけど……ポックルが気に入りそうな街って、一体どんな街だろう?」
ワクワクした声音で、リリアが言います。
ポックルはベッドの中央に丸くなりながら、
「さぁニャ。ニンゲンがいるニャらどの街も似たり寄ったりだと思うが」
「えー、そうかなぁ? 今まで見てきた街は、それぞれ全然違ったけど……"猫嫌いの街"なんかもあるかもよ?」
「ハハ、それは願ったり叶ったりだニャ」
ポックルが乾いた笑い声を上げ、リリアが「冗談だよー」と続けます。
「クレイダーに乗ってまだ一週間だけど……それぞれの街が、そこに住む人たちの"好きなものや考え方を共有したい"って気持ちで出来ていることがわかってきたんだ。だからみんな、生き生きしてて楽しそうだった。もちろん中には、ポックルみたいに悩んでいる人もいるんだろうけど……」
「おれの場合は、自分であの街を選んだわけではニャかったからニャ。たまたまあそこで、ボスとして生まれただけニャ」
「うん、私もそうだった。たまたま生まれた街があそこだっただけ。だから今度は、自分が納得できる場所を、自分で選べるといいよね」
「お前は……リリアは、どんニャ街に住みたいんだ?」
「んー……そうだなぁ」
聞かれてリリアは、真上にある二段目のベッドの裏側を見つめながら考えます。
「……私ね、最初はこの羽を取って、普通の人間として生活したい、って思っていたの。でも最近は……このままでもいいのかな、って気持ちになってきた。どの街の人もこの羽を珍しがるけど、みんな私と対等に接してくれた。私が思っているよりも世界にはいろんな人がいて、羽が生えていることも、そんなに珍しくないのかもしれなくて……」
お喋りできる猫までいる世界だしね。
と、心の中で付け加えながら。
「だから今は、どんな街に住みたいか……って考えると、みんなみたいに"好きなことや共感できる考え方"で街を探したいって思い始めている。けど、自分の好きなものが何かもわかっていないから……そこから探さないといけないのかなぁ」
そう言って、彼女は自分の"好きなもの"について考えます。
元いた街ではよく本を読んでいましたが……それは他に情報を収集できる手段がなかったからで、読書が好きかと言われると違う気がします。
クロルと観た映画は面白かったのですが、何しろその一本しか観ていないので、好きかどうか判断し兼ねます。
あと、好きなことで思いつくのは……食べることと、寝ること? でもそれは、単なる生活の一部だし……
「――ねぇ、ポックルはさ」
何が好きなの?
そう聞こうと思い、向かいのベッドの上段を見上げます。
するとポックルは、既に寝息を立て、夢の世界へと旅立っていました。
「……もう、自分から聞いたくせに」
リリアは、小さく笑ってから、
「――おやすみ、ポックル」
おやすみが言える相手が増えたことに少しくすぐったさを覚えながら、静かに目を閉じました。
* * * *
……そんな穏やかな夜のことが、嘘だったかのように。
――ダダダダダダダダッ!!
翌日。
リリアの頭上では、サブマシンガンがけたたましく唸っていました。
「チッ、一旦引いたな。このまま詰めるぞ。リリアちゃんは俺と来い!」
言いながら、迷彩柄の服に身を包んだ筋肉質の男性が、同じく迷彩柄の服と帽子を身につけたリリアを小脇に抱えます。
その横で、やはり迷彩服を着込んだクロルが、
「僕とポックルは回り込んで、裏取りを狙います」
そう言い残し、ポックルと共に腰を低くしたまま走って行ってしまいました。
リリアを抱えた男性は「ああ、頼んだ」と返すと、
「よーし、リリアちゃん! 流れ弾に当たらないように気を付けるんだぞ!!」
楽しそうに笑いながら走り出すのですが、それにリリアは目に涙を溜めて、
「な……なんでこんなことにぃぃぃ!?」
弱々しい声を上げながら、この街に来た経緯を振り返りました――
――その街に着いたのは、朝の八時頃でした。
これまで訪れたどの街とも違う、コンクリート製の四角い建物が建ち並ぶ、無機質な雰囲気の街でした。
駅を降りたリリアとポックルは目いっぱい首を反らし、そびえ立つ高い建物を見上げます。
「すっごい大きいね……これ、家なの?」
「たぶん仕事場なんじゃないかな。居住区はもう少し奥にあるみたいだから」
リリアの問いに、クロルがガイドブックを開きながらそう答えます。物珍しそうに辺りを見回すリリアに対し、ポックルは目を細めながら、
「これのどこが『おれの気に入る街』ニャんだ? スズメの一匹もいニャいじゃニャいか」
と、不満そうに言います。
ちょうどその時、駅の前にある二階建ての建物から、一人の男性が出てきました。
黒い短髪にバンダナ、重厚感のあるブーツ。長身の身体は分厚い筋肉で覆われています。
そして、その肩に……黒く光る銃器を背負っていました。
彼は建物のドアの鍵を閉めると、こちらに気付いた様子で近付いてきます。
「やぁ、お客さん! 有翼人がこの街へ来るなんて珍しいなぁ。ようこそ。見学かい?」
物々しい出で立ちとは対照的に、親しげな雰囲気で声をかけてくれました。
その笑顔に、リリアは少しほっとして、
「こんにちは。クレイダーに乗ってきました。ここはどんな街なの?」
すると男性は、「よくぞ聞いてくれた」と言わんばかりにニカッと笑い、言いました。
「ここは――"サバイバーの街"だよ」
男性はこれから街の重要施設に行くと言うので、一緒に連れて行ってもらうことにしました。
歩きながら男性は、この街の決まりについて話します。
この街では、月・火・木・金曜日は仕事をしたり学校に行ったりと、普通の生活を送ります。
しかし、水・土・日曜日はお店も会社も学校も全てお休み。
代わりに、街の四分の一程の面積を占めるゲームエリアで、サバイバルトーナメントをおこなうのだそうです。
男性の言うトーナメントのルールは、次のようなものでした。
・参加資格は十一歳以上であるということのみ。基本的には個人で戦う。
・開催時間は朝九時から夕方五時まで(十二時から十三時のお昼休憩を除く)。
・フィールドは三種類あり、曜日ごとに決められたエリアでバトルをする。
・勝敗はポイント制で決める。毎月初めに参加者一人ひとりに百ポイントが付与される。他の参加者を倒すと、相手の保有ポイントの五割を奪うことができる(小数点以下切り捨て)。
・武器は銃かナイフ(但し本物ではなく、弾はプラスチック製でナイフもゴム製)。撃たれたり切られたりして一度でも命中の判定が出ると、その日のゲームからは退場。保有ポイントが十以下になると、その月のトーナメントに参加できなくなる。
・その月の最終保有ポイントが最も高かった者が優勝。賞金などは特になし。但し、年内に三回以上優勝をすると、トーナメントに任意の新ルールを一つ追加できる。
「――つまり、よりポイントの高い強い相手を倒せば高得点が狙える、ということですね」
男性の説明を聞き、クロルが言います。
「お、察しがいいな少年! そうなんだよ。だから月末になるにつれ、高得点の猛者ばかりが残っていくんだ」
今日は第四水曜日。まさに猛者たちが集う月末のゲームがおこなわれる日です。
男性も今から参加するとのことで、一街の南側に位置するゲームエリアに向かっていました。
「申し遅れたな。俺はイサカ。いちおう先月のMVP選手だ」
「僕はクロルです。こっちはリリアと猫のポックル……って、イサカさんMVPなんですか?」
クロルは驚いて聞き返しますが、リリアはMVPの意味がわからず、首を傾げます。
クロルがすかさず「優勝者ってこと」と説明すると、途端にリリアも「すごーっ!」と目を輝かせました。
「ハッハッハ! まぁ、先月勝てたのはマグレだ。この街には"絶対王者"がいてな。そいつは今年既に二回優勝していて、新ルール追加の特権にリーチをかけている。今月は今の所、アイツに点数で負けているんだが……今日のバトルで一発キメられたらなぁ」
と、イサカさんが腕を組んで唸ります。
それにクロルが、珍しく興味有り気な様子で、
「その人、そんなに強いんですか? イサカさんが背負っているのはマシンガンだけど、その人はどんな武器を使ってくるんですか? 戦略は?」
と、矢継ぎ早に質問します。
彼が何かに強い興味を示す姿を初めて見たので、リリアは少し驚きました。
イサカさんはまた「ハッハ!」と笑って、
「アイツが好んで使うのは、スナイパーライフルだ。音もなく背後を取られて、いつの間にか撃たれている。空に目がついてるんじゃねぇかってくらい、敵がどこにいるか把握しているんだ。そして、一発心中の腕前……百メートル離れた距離からも確実に仕留めてくる。奴の射程に入ったが最後、気が付いたらやられているってワケだ」
「なるほど……ということは、その人は高台に陣取ることが多いのですか?」
「それがそうとも限らないんだ。アイツはモッサモサのギリースーツに身を包んで、草むらに身を潜めてじっと獲物を待つこともある。つまり、環境に合わせて身を潜めながら狙ってくるんだ。曜日によってフィールドが変わるから、山林エリアの時はより注意だな。ちなみに今日は廃村エリア。擬態はあまりできない場所だし、勝負するとしたら今日なんだ」
リリアには何が何だかさっぱりでしたが、クロルは納得したように頷いています。
そしてふと、リリアは思ったのです。
「クロル……ひょっとして、参加したいの?」
リリアの問いかけに、クロルは「へっ?」と素っ頓狂な声を上げ、
「いや、別にそういうわけじゃ……第一、住民以外は参加できないだろうし……」
と、慌てて否定しますが、それをイサカさんは笑い飛ばし、
「参加できるぞ。お試し初心者モードでな」
「お試し初心者モード?」
クロルとリリアが声を揃えて首を傾げます。
と、ちょうどその時、一行は目的地に到着しました。
街の四分の一の面積を占めるゲームエリアの入り口です。
その広大な土地全体が、白い建物ですっぽりと覆われていました。天井部分はドーム状になっているのか、少しふくらんでいるように見えます。しかしあまりにも巨大で、壁も屋根もその端が見えない程でした。
入り口にはこれまた巨大な門があり、今は左右に開かれています。その中に受付と思われるカウンターが建っていて、『ビル街エリアはこちら↑』などの案内板が掲げられていました。
一行は門をくぐり、建物の中へと入ります。
すると、
「……え……?」
クロルとリリア、そしてずっと黙ってついて来ていたポックルまでもが驚愕し、声を上げました。
何故なら……
「建物の中に……」
「……空が、ある」
「……ニャ」
外から見た時は、確かにドーム状の、白い屋根のある建物に見えました。しかしその内部には、気持ちの良い青空が広がっていたのです。白い雲が少しずつ形を変え、流れてゆくのさえ見て取れます。
「ど、どうなっているの……?」
「驚いたか? これが我が街の技術の集大成、ゲームエリア"シャングリラ"だ!」
イサカさんが両手を広げ、高らかに言います。
「空のように見えるが、あれはパネルに映し出された映像だ。実際の天候に左右されず、且つ屋外の開放的な雰囲気でゲームを楽しむことを追求した結果、こうなった。曇りにすることも、時間を変えて夜空にすることもできるぞ」
リリアが目を輝かせ「す、すごい……」と唸ります。イサカさんが自慢気に続けます。
「ちなみに、このゲームエリアにはセンサーが張り巡らされていて、ヒットを感知し自動でポイントの増減をカウントしてくれる。住民である俺たちには皆マイクロチップが埋め込まれていて、そこにゲーム内容が記憶されていくんだ」
「なるほど。すごいシステムですね」
すんなり理解するクロルに対し、リリアはパンク気味の頭をぐわんぐわん揺らしました。
「では、マイクロチップがない僕らはどうやって、その……お試し初心者モードで遊べるんですか?」
「ああ、それだが」
と、イサカさんは受付カウンターへと向かいます。カウンターにはスタッフの女性が一人いました。その女性がイサカさんを見るなり、親しげな様子で声をかけてきます。
「あ、イサカさん! 今月もあと少しですが、頑張ってくださいね!」
「おーマリちゃん、ありがとう。俺のエントリー手続き、よろしくね。あと、この子たち他所の街から見学に来たんだけど、『お試し初心者』で登録してあげて」
「あら、お客さんなんて久しぶりだわ。こんにちは。みんな、楽しんでいってね」
眼鏡をかけた茶髪の受付嬢……マリさんが、こちらにウィンクします。
「それじゃあ二人とも、パスを貸してもらえるかしら」
マリさんにそう言われ、クロルとリリアは一度、互いの顔を見合わせます。それに、マリさんは「ふふっ」と笑い、
「大丈夫、お金を取るわけじゃないわ。二人の情報をこのシャングリラのシステムに登録するのよ。そうしないと、ポイントの表示ができないからね…………はい、終わったわ」
と、マリさんはコンピューターの画面に二人のパスをかざして手早く操作すると、すぐに返してくれました。それから続けて、赤いゴム製の腕輪を二つ差し出します。
「二人とも腕に付けておいてね。百ポイント分付与したから、これで参加ができるわよ」
それがどういう仕組みなのかいまいちわかりませんでしたが、成り行きで自分まで参加することになったことに気付き、リリアは受け取ってから「はっ!」と声を上げました。
クロルが腕輪をはめながら、ポックルの方へと振り返ります。
「ポックルはどうする? 参加、してみる?」
聞かれたポックルは、だるそうに言いました。
「ごっこ遊びに興味はニャいが……他にやることもニャいし、付き合ってやってもいいニャ」
すると、それを見たイサカさんが身体を仰け反らせて驚きます。
「おぉっ! この猫、喋れるのか! 噂には聞いていたが……本当にいるんだなー、喋れる猫」
しかしポックルは返答もせず、やはりめんどくさそうにツンとそっぽを向きました。
「ハッハッハ! マリちゃん、猫はルール上参加できるのか?」
「うーん、パスがないから登録はできないけど……ポイントなしでよければ混ざってもいいんじゃない? 面白そうだし」
と、あっさりとポックルの参加も決まりました。
イサカさんはあらためて二人と一匹の正面に立ち、腰に手を当て、
「あと一時間ほどで今日のゲームが始まるぞ。その前に、君たちの服と武器を決めなくちゃな。ここまで来たら最後まで面倒見てやるから安心してくれ。さぁ、こっちだ」
そう言うと、二人と一匹を受付カウンターのさらに奥へと案内しました。
――その後。
準備スペースにてそれぞれの武器を見繕ってもらい、迷彩服に着替え(リリアは羽の、クロルはリュックの上から羽織る形で着ることにしました)、試し打ち場でそれぞれの銃の使い方を教わり、いよいよ開始時間になりました。
三人と一匹はゲームエリアへと入ります。ほかの参加者も続々と集まってきていました。月初めには三百人ほどが参加するそうですが、だんだん脱落して、月末の今日は三十人ほどしか残っていないそうです。
「さぁ、サバイバーのみなさん! 今月のゲームも残すところあと三回! 高得点の猛者ばかりが残る白熱した展開になってきたよー! まだまだ逆転の可能性はあるから諦めないでね! 視聴者のみんなも、盛り上がっていこー!」
天井の青空の一部が四角い画面に切り替わり、先ほど受付をしてくれたマリさんのご機嫌なアナウンスが映し出されます。
「しちょうしゃ?」
「ゲームの様子をライブ映像で配信しているんだ。参加しない住民はみんな視ている」
と、リリアの呟きにイサカさんが答えます。
「スタート位置の確保はオーケー? あと十秒で始めるよー!」
マリさんを映していた画面の映像が切り替わり、カウントダウンが始まります。
「スリー、ツー、ワン……スタート! グッドラック、サバイバー!」
サバイバルトーナメントの幕が開けました。
――そういうわけで。
ゲーム開始から五時間後の、午後二時。
クロル・リリア・ポックルは、イサカさんと共にゲームエリア内を進み、ライバルである"絶対王者"を探していました。
どうやら"絶対王者"は、エリアの最奥部から中央部のどこかに陣取っているようなのです。
イサカさんは正面から進み、クロルとポックルが端から回り込んで、挟み撃ちにする作戦で動いていました。
クロルたちと別れたイサカさんはリリアを抱えたまましばらく走ると、敵を見つけたのか、無造作に設置されたドラム缶の後ろに身を隠します。
「リリアちゃんは敵と接近戦になったらそのショットガンを使え。基本的にはそうなる前に俺が仕留める。俺の背後を確認していてくれ」
イサカさんはドラム缶の陰からバッとサブマシンガンを構え、数発撃ってまた隠れる、ということを繰り返しています。
リリアは終始おろおろした様子で、とりあえず彼の後ろから敵が襲って来ないか見張っていました。すると……
――キンッ!
ドラム缶に何かが当たりました。それがリリアの頬ギリギリを掠めたので、彼女は驚きのあまり声もなく、地面にへたり込みました。
それに気付いたイサカさんがリリアの肩を支え、
「大丈夫か? クソッ、考えることは同じか……!」
リリアの正面……四十メートルほど先でしょうか、ボロボロになった木製の小屋の方へと目を向けます。と、今撃ってきたと思われる人影が小屋の陰に隠れるのが見えました。
イサカさんは姿勢を低くし、音を立てずそちらに近付き……
ほんの一瞬、小屋の窓から出した敵の頭を、サブマシンガンで撃ちました。
撃たれた相手は両手を挙げ、その頭上には赤く光るバツ印とマイナス一六〇という数字が点滅しました。
「よし、これでオーケーだな」
イサカさんは頷き、再び正面の敵を処理しようと振り返った――その時。
今しがた一人倒したボロ小屋よりもリリアに近い、地面に突き刺さった分厚い鉄板の陰からもう一人が飛び出してきました。
それにイサカさんが反応するよりも早く、
「ひゃあっ」
パン! と、リリアが咄嗟にショットガンの引き金を引きました。
それが運良く命中したのか、相手の頭上にバツ印とマイナス二五〇という数字が浮かびました。
「あ……当たった……」
「やるじゃねぇか、リリアちゃん! もう一人いたとはな……だが、さすがにもういないようだ。これで二人仕留めたか。今日はイケるかもしれねぇ!」
そう言ってイサカさん正面にいた敵を撃破すると、リリアをひょいっと小脇に抱え、
「このまま一気に本命を叩くぞ、リリアちゃん! 気合い入れていけ!」
再び走り出しました。
その振動でがくがく揺れながらリリアは、「いっそ今のでやられていたら戦線離脱できたのに……」と、倒してしまったことを少しだけ後悔しました。
――リリアがイサカさんに抱えられエリアの中央部へと移動している時、クロルとポックルは最西端を回り込むように進んでいました。
午前中のゲームを経て、クロルとポックルは既に二人の選手を仕留めていました。"廃村"というだけあって、エリア内には壊れかけの建物やドラム缶、積まれたタイヤ、地面に突き刺さった鉄板などが至る所にあり、身を隠せるようになっています。
ポックルが少し前を行く形で、物陰に隠れつつ進んでいると、
「……待て。いる」
そう囁いて、足を止めました。それに合わせてクロルも動きを止め、崩れた壁の陰に屈みます。
ポックルの視線の先を見ると、進行方向の左手……五十メートル程先にある半壊した建物の中に、一人の人影が見えました。ちらりと見えた武器はライフルではなく拳銃のようなので、お目当の"絶対王者"ではなさそうですが、
「……あの人がいると奥へ進めない。倒そう」
「また囮作戦か? ズルっちぃニャ」
「とか言いつつ、ポックルもけっこう楽しんでいるでしょ?」
図星なのか、ポックルは目線を逸らしました。
クロルは小さく笑い、銃を構えます。
「ズルでもいいよ。僕らは初心者なんだから、使える戦略は全部使って勝ち残らなきゃ」
「……お前、何考えてるかよくわからんヤツだが、意外と負けず嫌いニャんだニャ」
「えっ、そう? んー……そうなのかな」
「まぁ、いいんじゃニャいか? 悪くニャいと思うぞ、そういうの」
珍しくポックルが肯定してくれたので、クロルは少し驚きながら、思わず笑みを浮かべました。
すると、照れ臭くなったのか、ポックルは慌てたように二本足で立ち、
「お、おれも狩りをするからには成功させたいしニャ! トラは単独で行動するものだが、ライオンは群れで狩りをするらしいから、今日はライオンにニャってやってやるニャ!」
と、前足を腰に当てて言いました。
(……群れで狩りをするのは、主にライオンのメスだけどね)
という言葉を、クロルは口に出さず胸にそっとしまっておきました。
「それじゃあライオンさん。向こうのドラム缶の裏に回り込んで、あの人を引きつけてくれる? 出てきたところを、僕が狙う」
「任せろ」
ポックルは頷き、三十メートルほど奥にあるドラム缶へと向かいます。
警戒しながら周囲を見回しているターゲットの視線の合間を縫って、その裏に回り込み……
――カンカンカン!
爪を立ててドラム缶に猫パンチをしました。
すると、その音に気付いたターゲットが不審そうに建物から顔を出し、銃を構えながらゆっくりとドラム缶に近付いてきました。
クロルはアサルトライフルを構え、片目でスコープを覗き、照準を合わせます。
五十メートル程距離の離れた相手。向こうはこちらに気付いていません。当て損なってこちらに気付かれ、接近戦にでもなったら、初心者のクロルに勝ち目はないでしょう。
……失敗はできない。この一撃に賭けるしかない。
その緊張感を、クロルはトリガーを握る手に込めます。
高鳴る鼓動を、どこか心地よく感じている自分がいる――
そんなことを頭の片隅で考えながら、ターゲットがポックルのいるドラム缶の裏に回り込もうとこちら側に背を向けた――その瞬間。
パン! パン!
二発、クロルは撃ちました。
そのどちらも見事に命中し、ターゲットにしていたその人は手を上げ、頭上にバツ印とマイナス一七〇という数字が浮かび上がりました。
「三〇〇点台の人か……助かった」
イサカさん曰く、四週目のゲームともなると千点台の猛者たちがウヨウヨいるとのことで、そういう"上手い人"は不用意に不審な音などに近付いて来ないそうです。
つまり、高得点保持者になればなるほど、この囮作戦は通用しなくなるということ。
今しがた倒したターゲットが退場していくのを見送りながら、クロルは呟きます。
「やるからには"絶対王者"さんに挑戦したいけど……どうすれば勝てるかなぁ」
暫し虚空を見つめ考えますが、ドラム缶の裏から「ニャにしている、早く先に進むニャ!」という声が聞こえたので、クロルはひとまず先に進むことにしました。
一方、その頃。
リリアを小脇に抱えたまま、イサカさんはエリアのど真ん中のラインをどんどん進んでいました。
当然、いろんな選手から狙われるのですが、イサカさんはすんでのところで弾を躱し、物陰に隠れ、痺れを切らして頭を出した相手を撃つ……といったことを繰り返し、ことごとく返り討ちにしていました。
「よし、一旦ここで態勢を整えよう。今、何人倒した?」
「全部で六人……だと思う」
屋根もなく窓ガラスも全部割れている、そんな廃墟然とした小屋の中で、リリアは地面に降ろされながらそう返答します。
イサカさんの荒い走りと、それにより舞い上がる砂埃、銃弾の飛び交う恐怖の中を潜り抜け、リリアはすっかりボロボロな様子でした。
「ハッハッハ! これじゃ美人が台無しだな!」
「笑い事じゃなーい! もう、なんでこの街の人はこんな怖くて疲れることをしてるの?!」
リリアは涙目になって訴えます。
イサカさんは「ハッハ!」と笑ってから、
「確かに怖くて疲れる。が……"生きている"ってことを実感できるから、かな」
「生きている、ってこと……?」
聞き返すリリアに、イサカさんが頷きます。
「相手の弾を避ける時。相手に銃を向けた時。そして、相手を倒した時……心地よい緊張感と達成感が、一気に胸に押し寄せてくるんだ。それが、クセになるというか……」
そこまで言いかけた時、リリアが訝しげな顔をしたので、イサカさんは慌てて両手を振り、
「もちろん乱暴したいとか、人を傷付けたいってわけじゃないぞ? ただ、こうして擬似的に『命をかけたやりとり』をすることによって、自分の"生"も相手の"生"も、とても尊くて大切なものだってことが再確認できるんだ。この気持ちは、人と人とが真剣に向き合わないと味わえないんだろうな」
「人と、真剣に向き合う……あ、"人間ドラマ"ってやつだね!」
「そうそう。よくわかっているじゃねぇか、リリアちゃん!」
イサカさんは嬉しそうに笑います。
「ま、偉そうに言ったが、みんな単純にこのスリリングなゲームが好きなのさ。あとはなんと言っても、銃で『ダダダダーッ!』ってやるのはかっこいい! くぅーっ、まさにロマンだよなぁ」
「そっかぁ。やっぱり男の子はこういうのが好きなんだね。クロルとポックルもすごく楽しんでいるみたいだし」
「いやいや、男だけとは限らないぜ? なにせ――」
――と、その時。
パシュン!!
遠くの方で、そんな音がしました。
見れば、二人がいる小屋から五十メートルほど離れた場所で一人、狙撃され手を上げている人物がいました。
どこから撃たれたのか分からないらしく、キョロキョロ見回しながら退場していきす。
「今の発砲音からして、恐らく……"アイツ"だな」
「アイツ? って……例の一番強い人?」
リリアの問いに、イサカさんが頷きます。
「ああ。こっから二百メートル圏内にいるだろう。下手に進むとアイツの射程に入っちまう。さて、どうしたもんか……」
イサカさんが今しがた撃たれた人物を眺めながら思案していると……その時、
「――ん? あれは……」
イサカさんが小屋の外を指差します。
リリアがそちらを見ると、百メートルほど先の物陰から顔を出すクロルの姿がありました。その足元にはポックルのものらしきしっぽも見えています。
「クロル! すごい、無事だったんだ!」
「ああ。ってことは"アイツ"は、こっからあそこまでの間のどこかに潜んでいるってことだ。となると、あの建物の二階、もしくは――」
「――井戸の中だ」
イサカさんとリリアの姿を確認したクロルは、再び身を潜めながら呟きました。
先ほどの人が撃たれた瞬間をたまたま目撃した彼は、地面に埋れかかった古井戸の中にライフルの使い手――"絶対王者"と思しき人物が潜んでいるのを見たのです。
それは一瞬の出来事でした。建物と建物の間にターゲットが現れた瞬間、必要最低限の動作でライフルを構え、照準を合わせ、一撃で仕留める――
そして、またすぐに井戸の中へと身を潜める。
とても正確で、一切の無駄がない動きでした。
「それにしても……あんな井戸の中にいるのに、よく外の人に気付けるなぁ」
「よっぽど耳がいいか、空に目ん玉がついているか、だニャ」
ポックルと言葉を交わしつつ、クロルはどう攻めるか考えます。
相手を撃つには井戸から出てきてもらうか、こちらが井戸を覗き込むしかありません。
当然ながら、簡単には出て来てはくれないでしょう。
覗き込もうにも、相手は井戸の中で既に銃を構えているはずなので、こちらがトリガーを引くより早く撃ち抜かれる可能性があります。
そこで、クロルはあたらめて周囲を確認してみます。
今隠れている壁の向こう側――正面・五十メートル程先に古井戸。
十時の方向・百メートル先にイサカさんたちのいる小屋。
九時の方向に二つ並んだドラム缶。
その真向かい、三時の方向に二階建ての廃屋があります。
ポックルに協力してもらう、いつもの囮作戦は通用しないでしょう。挑発的な音に不用意に出てくるような相手ではない上に、こちらの位置を教えることになってしまいます。
ならば、"絶対王者"はどんな状況なら、あちらから顔を出してくれるでしょうか?
「…………よし」
クロルの脳裏に、一つの作戦が浮かびます。
それにはポックルと、イサカさんの協力が必要でした。
クロルは再び壁から顔を覗かせ、イサカさんに手を振ります。すると、イサカさんも手を振り返してくれます。
クロルはそのまま無言で井戸を指差し『"絶対王者"はそこにいる』と合図を送りました。意味が通じたのか、イサカさんが腕で丸を作って返してきます。
それを確認してから再び壁に隠れて、
「ポックル。僕は今からイサカさんに向かって何発か撃つ。おそらくイサカさんも撃ち返してくると思うから、あっちに走ってからこう叫んで」
と、ポックルの耳元で作戦を伝えます。
聞いたポックルは呆れたように目を細め、
「そんニャんで上手くいくのか?」
「大丈夫、だと思う。あ、なるべく『ニャ』って言わないようにね」
そう付け加えて、クロルはイサカさんの方へと銃を構えます。
ポックルは言われた通り、今いる位置から九時の方向……ドラム缶の方へと移動を開始しました。
いきなり銃を向けられ、驚くイサカさんの顔がスコープ越しに見えます。
が、クロルはお構い無しにトリガーを引きます。
パン! パン! パン!
三発、立て続けにイサカさんたちのいる小屋に向かって発砲します。もちろん当たらないように。
その後すぐ、三時の方向にある二階建ての廃屋へと走りました。イサカさんも作戦を知ってか知らずか、クロルが今までいた壁の辺りへと撃ち返してきます。
イサカさんの放つ銃声を左手に聞きながら、クロルは廃屋の二階へと一気に駆け上がります。
そして――
銃声の合間に、カンカンカン! というドラム缶を弾く音が聞こえ、
「やられた! 降参だ!」
というポックルの大声が響き渡ります。
すると、その瞬間――
――井戸の中から、ライフルを構えた"絶対王者"が、姿を現しました。
全身を迷彩服で覆い、フードを被っているためその顔までは確認できませんが……
彼、あるいは彼女は、実に正確に、まるで今までの銃撃を見ていたかのようにイサカさんのいる小屋へと銃口を向けました。
――狙い通りだ。
クロルはそう思いました。
"王者"が姿を現わす時。それは――
周囲の状況が把握でき、且つ確実に仕留めることのできる相手がいるとわかった時。
イサカさんの話と、先ほど実際に見た動きから、"王者"はとても慎重であることがわかりました。
むやみやたらと無駄撃ちのすることなど決してしない、確実に狙える状況が整うまではじっと身を潜める。そんな性格なのです。
では、確実に仕留められる相手とは一体、どのようなものでしょうか。
それは、警戒を解き、油断している相手。
そして、恐らく最もプレイヤーが油断する瞬間というのは……誰かを仕留めた直後。
そう考え、クロルは作ったのです。
誰かと誰かが撃ち合い、片方がやられ、片方が油断しているであろう、そんな状況を――
"絶対王者"の背後――剥き出しになった廃屋の二階から助走をつけたまま、クロルは勢いよく飛びます。
そして空中で銃を構え、落下しながら、"王者"の背中に照準を合わせました。
井戸の真上に、遮るものは何もありません。
――いける。
クロルがトリガーに指をかけ、力を込める……
……よりも、わずかに速く。
"絶対王者"は構えていたライフルを捨て、腰から抜いたリボルバーをクロルに向け――
バン!
振り向き様に、撃ちました。
それは見事なまでに、クロルのおでこのど真ん中に命中し……
「……ってぇぇえええ!」
悲痛な叫び声を上げながら額を押さえ、クロルは落下し、地面に体を打ち付けました。
――それと同時に。
ババババッ!
"王者"の後ろ――いつの間にか距離を詰めていたイサカさんが。
"王者"に向けて、銃弾を撃ち込みました。
頭を覆うフードの下から覗く相貌――燃えるように赤い瞳が、大きく見開かれ……
その頭上に、マイナス一五〇〇の表示が、明滅しました。