楽しそうに、父はふふっと口元を緩めた。息子のそんな話が、とも思ったけど、そもそもこんな時間、今までなかったから。じっと父さんを見つめれば、コーヒーをごくんっと飲み干すところだった。
「なんだ?」
「もし、もしだよ」
「おう」
「いつも連絡してた子が、隠してたことを知って、連絡できなくなったらどうする?」
自分のことを隠して話してるというのに、心がむず痒い。マリンからの連絡がないだけで、焦るくらい俺は、マリンとの時間を楽しんでいた。むしろ、この夏休み中、マリンのことしか考えていなかったかも。
「そうだなぁ……その隠してたことにもよるんじゃないか?」
誤魔化して答えるのには、限界だ。父さんなら、打ち明けてもいい。笑われないだろうし。湊音のことを知ってて、黙って見ててくれたくらいだし。
ぎゅうっと握りしめた手のひらが、白く染まるのを見つめる。顔をバッと上げれば、優しい目が俺を見つめていた。
「俺さ、湊音の炎上で消した、だろ」
「そうだな」
「で、ある女の子と出会って。その子は、誰かに私は元気だよって伝えることで、元気になってほしいって言ってたんだ」
そこまで、言葉にして、ふと勘違いしそうになった。俺だった……?
まさか、そんな、だって、俺にはマリンの記憶がない。でも、由良海岸の写真の話も、落ち込んでいた時期も合致する。
まさか、まさか。何度も否定して、期待が胸の奥から迫り上がってくる。マリンは俺を元気づけたくて、ここまで来た?
一人でぼうっと考えていれば、父さんは続きを促した。
「その人に会いに、鶴岡に来たらしいんだ。で、その子の提案で、一緒に動画を撮ってたんだ、その夏休み中」
「だから、楽しそうだったのか」
父さんが見てもわかるくらい、俺は浮かれていたらしい。それもそうか。マリンに会うのが、楽しくて仕方なかった。湊音をやめて、この世の全てがつまらなく感じていた中で、唯一の希望だったから。
「そう、楽しかったんだ。それが、俺が湊音だって伝えたら、連絡が取れなくなった」
マリンからの連絡がなくなるだけで、こんなに不安な気持ちになる。いつしか、マリンと会って話すのが、それくらい楽しみでしょうがなくなっていたんだ。
「お前が湊音だったのが、ショックだったのか?」
「かもしれない。そして、その後に自分のことを知らないか? って聞かれた」
そこまでわかってるのに、答えが出ない。マリンという名前は、俺の記憶にないから。俺が弄んだと言われてるうちの一人だったんだろうか。
いや、マリンはそんな勘違いを起こして、ストーカー紛いのことをするような……俺はマリンのことを知らない。好きだから、勝手なフィルターで見てる可能性もある。
息をぐっと飲み込めば、視界がぼやけた。
「関わってたんじゃないのか、その湊音の時に」
「記憶にないんだよ。女の子とやりとりした記憶もないし……」
炎上する前から徹底していたのは、女の子とのやりとりをあまりしないことだった。最初の頃は、リプライにお礼を送ったりもしたけど。ネットストーカーの子からのDMが、増えるからやめた。
それに、コメントをくれる人。
リプライをくれる人。
何回も送ってくれる人は、ほとんど覚えている。
コメントをくれていなかったりしたら、わからないけど。
マリンの口ぶり的に、そんなわけはないだろう。
「詳しい人いないのか、そのお前の視聴者に」
一人だけ、ぼんやりと浮かぶ。でも、頼れる相手ではない。力なく首を横に振れば、父さんはすうっと息を吸い込んで言いづらそうに小声を出した。
「その炎上や、湊音の発言で傷ついた可能性もあるんだよな?」
俺は、絶対に誰かを特別扱いしたことはない。それでも、あぁいう炎上が起きた以上、真実かどうかは、他の人にはわからないだろう。マリンも、自分が湊音の特別だと思っていて、覚えていてくれないということに幻滅したのか。
……可能性はゼロではない。
「まずは、その炎上を解決するのも必要かもな」
マリンとのカップルチャンネルが、プチ炎上した時を思い出す。俺は悪いことをしたとは、思っていない。それでも、気づいていないだけで、傷つけてきた人がいるのかもしれない。
「そうだね」
父さんの言葉に頷けば、父さんはぐっと手を伸ばして俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「いつだって、父さんは味方だ。たとえ、また炎上しても、父さんだけは絶対味方だからな」
こくんっと、大きく頷く。一人で立ち向かうのは、怖い。だから、たとえネットに疎い父さんでも、味方だと言ってくれるのは、心強い。
ズボンのポケットでスマホが、通知を鳴らす。マリンからの返信か、と思って慌てて、取り出した。焦りすぎたせいで、スマホがするする滑ったけど。
画面に目を映せば、ミツルの文字だった。ミツル……
マリンにも会ってるし、カップルチャンネルも知ってる。
メッセージには『更新ないけど、どうした?』と、書かれていた。返事を打ち込もうとした瞬間、もう一通届く。
『マリンちゃん、駅で見かけたけど帰るの?』
『いますぐ、引き止めてくれ!』
それだけ、送ってスマホをポケットに押し込む。父さんの顔を見つめて、両手を大袈裟に合わせた。
「駅まで送って」
「急だな」
「その子が駅にいるらしくて、今行かないともう会えない気がするんだ!」
父さんは、力強く立ち上がって、車の鍵を取り出した。そして、俺の方を一度見てから、目を細める。
「急ぐぞ」
「ありがと」
店を出れば、潮風が背中を押す。急いで父さんの車に乗り込んで、シートベルトを閉めた。父さんはすぐに、車を発進させる。
ミツルからの返信を、スマホを握りしめて待つ。待てども待てども、返事は来ないが。風で揺れる木々の間を通り抜けて、波が岩にぶつかる海に願いを掛ける。
人魚姫みたいな結末は、ごめんだ。泡になって消えたまま、もう二度と会えないだなんて。海に溶けていく太陽を眺めながら、マリンの笑った顔ばかり頭に浮かんだ。
駅に着くまで、やけに長く掛かった気がする。三十分も掛かっていないはずなのに、永遠のように長く感じられた。
「父さん、ありがとう!」
「待ってるか?」
「大丈夫、バスで帰る!」
父さんに手を振って、走り出す。駅の中にいるかどうかも、わからないのに。駅構内は、観光客がまばらに歩いている。広くないはずなのに、見渡してもミツルもマリンも見当たらない。
スマホでミツルに電話を掛ければ、すぐに出た。
「ごめん、見失った」
はぁはぁっと息切れしてるミツルの声に、今の今まで探してくれていたことを察する。もしくは、追いかけていたか。
「どこらへんにいた?」
「電車は乗ってないと思う。駅の構内で見つけたんだけど、外に出て行ったから」
「とりあえず、俺も駅着いたから、合流しないか?」
提案すれば、ミツルはいつもの会館の近くにいるらしい。撮影に使用していた会館。中で、一人で撮影してる……?
少しでも可能性があるなら、諦めたくなかった。すぐに駆け出して、会館の前に向かう。やけに強い風に、髪の毛を乱されながら進んだ。
ミツルの姿を見つけて、駆け寄れば、ミツルは膝に手を当てて息を整えていた。
「ごめん、見かけた時に声掛けてれば」
「いや、ミツルは何も知らないのに、追いかけてくれて助かったよ」
事情説明もそこそこに、会館に入る。冷房の効いた室内は、ひんやりとしていて心地よい。
「和室、和室借りてる人いないですか!」
ミツルは、説明も聞かず、ただ俺の後を着いてきてくれた。職員さんは俺の言葉に困ったように眉を、潜める。
「借りたいんですか……?」
ずっとマリンに借りるのはお願いしていた。だから、手続きも何もわからない。こくこくと頷けば「空いてますけど、本当に借りられるんですか?」と問い返される。
ミツルの背中を押して、小声で話しかける。
「ちょっと探してくる」
「はぁ? 探してくるって、覗くのかよ」
「それしかないだろ!」
「それは、通報されるぞ、ソウ」
わかってる。わかってるけど、マリンを探すにはもうそれしかない。ここの会館に居るかどうかも、賭けでしかないけど。
ふと、職員に声を掛けられていた覗き込む変質者を思い出した。だから、一瞬警戒されたのかもしれない。
「とりあえず行ってくる」
部屋を出て、人が入ってる会議室を確認する。近いところでは、三部屋。
迷ってる小芝居をしながら、目だけをキョロキョロと動かす。どこの部屋も出てくる気配は、ない。
一部屋、ガチャっと空いた音がして、振り返れば、スーツ姿の二人組が俺を見ていた。バッチリと合ってしまった目を逸らせば、ヒソヒソ声が聞こえる。完全に、俺が変質者だと思われているだろ、これ。
逃げるように受付に戻る。