パシャン。
不意に海から何かが、顔を出してこちらを見ていた。
背中に寒気が走って、恐怖に足が震える。
ヒィッと情けない声を出しそうになって、ぐっと息を飲み込む。全身が沸騰したように、バクバクと脈打ってる。
逃げなきゃと立ち上がり掛けたところで、ソレと目が合う。パッと目を逸らして、立ち上がってから、もう一度振り返った。
女の子……じゃなかったか?
ぱちんっと視線があったかと思えば、その子は逃げるように潜ろうとする。
「待って待って、邪魔してごめん。すぐ帰るから」
声をかければ、ぴたりと止まる。二人の間には、沈黙だけが続いた。
帰ると言った手前、すぐに立ち去った方が良いのはわかってる。なのに、女の子から目が離せない。様子を窺っていた女の子は、水面から顔を出してこちらに近づいてくる。
「いいよ、別に、見られちゃったならしょうがないから」
女の子は、海藻のようにツヤツヤと濡れた髪の毛を、手でぎゅうっと絞るように水を切る。そして、腕に巻いていた髪ゴムで、ポニーテールにした。
「上がっておいでよ」
気づけば、そんなら誘いをしていた。女の子は、うーんっと一瞬躊躇った表情をしてから、ゆっくりと近づいてくる。少しずつ、少しずつ、近づいてくるたびに、ヒレが見えた。
ヒレ……?
パシャっと雫を跳ね上げるのは、確かに、サカナのヒレのようなもの。キラキラと星を反射して、輝いて見える。
「えっ? え?」
近づくたびに、変な悲鳴をあげそうになった。まさか、こんな夜中に、え? 頭が真っ白になって、ただ、え、とだけ呟く。
女の子は俺の様子を気にしていないようで、防波堤の階段を飛び跳ねるように上がってくる。ぺたん、ぺたんと叩きつけるような独特な音と共に。
「あー、サイダー!」
俺の手元のサイダーを見つけて、指さして、またぺたんぺたんと、鳴らしながら近づいてくる。足は、ない。正確に言えば、足があるはずの場所は、ヒレになってる。人魚が存在する……
高校生にもなってアホなことを言ってると、他の人には受け取られるだろう。でも、どこからどう見ても、彼女は人魚の形をしていた。
「こっちの人ってほんと、パインサイダー好きだよねぇ」
ふざけたように笑って彼女は、俺の隣に座る。防波堤の先に、ヒレを投げ出したまま。至近距離で見れば、それが魚のものとは違い人工物なことがわかる。
彼女は、じろじろと見ていた俺の手から、パインサイダーを奪い取ってごくごくと飲み始めた。
「ぷっはぁ! やっぱ泳いでると喉乾くのよね」
「人魚の格好して、なにやってんの?」
「格好してじゃなくて、人魚」
「いやいや、嘘だろ」
即座に否定すれば、ヒレをビタンビタンと防波堤に打ち付ける。あまりにも自然すぎる姿に、信じてしまいそうだった。でも、スパンコールも、きらきらと反射する小さい石も明らかに人工物だ。
魚のことなら、普通の人より詳しいことを自負している。目標があって決めたわけではないけど、これでも水産学校の生徒だ。それに、父は漁師だから、小さい頃から魚には触れてきた。
何万匹という魚を見てきた俺が、人工物と、見間違えるわけがない。
「あー信じてないな?」
「信じるも信じないも、そもそも、こんな時間に人魚が泳いでいてたまるか!」
「じゃあ、昼に泳げって? 捕まえられちゃうじゃん」
いやん、と言いながら、肩を抱きしめる。薄暗くてもわかった。確実に、俺をバカにした表情をしてる。
だから、女は嫌いなんだ。自分勝手で、相手を見下して、バカにする。
ツンっと顔を背けて、この場から逃げようと立ち上がる。関わった俺がバカだった。
「ごめんごめん、怒んないで! サイダーも勝手に飲んでごめんなさい、行かないで!」
俺の足をぎゅっと掴んで、人魚は顔を上げる。必死に謝る仕草は、そういうアピールかと思ったが、本当に困ったように眉毛をハの字にしていた。ぴたりと、止まって横にしゃがみ込む。
「なに?」
「タオルとか、小さいのでも良い! 持ってない?」
「はい?」
俺の前で両手を「あったら貸して! お願い!」と、擦り合わせている。人魚設定は、もうどうでも良いらしい。
「水着でそのまま来ちゃったから、帰るに帰れなくて」
人魚の言葉に、ポカンとすれば、恥ずかしそうに「えへへ」と頭をかいた。
「えへへ、じゃなくて、はい?」
「だから、さすがに濡れたまま帰るのは嫌で……」
真剣に困った顔をするから、ぷっと笑い出す。久しぶりに、声を出して笑った気がする。お腹を抱えて笑えば、拗ねたように人魚は目を逸らす。
リュックを開けて、大きめのタオルを取り出して渡せば、嬉しそうに頬を緩ませた。タオルで体を拭きながら、人魚は俺を見上げる。
「ありがとう! 助かる。今度会った時、お礼するよ」
「お礼はいいよ、名前は?」
「マリン!」
「マリンね、覚えた」
夏だというのに、少し肌寒い風が体に吹き付ける。マリンの格好を見れば、いくらタオルで拭いても、夜風に晒されたら冷えてしまうだろう。リュックから予備のウィンドブレーカーを取り出して、ポンっと投げる。
「わっ」
驚きながらもうまくキャッチして、広げて確認し始めた。ヒレをモゾモゾさせながら、こちらに顔を向けた。
「これは」
「さすがにその格好だと寒いだろ、使って」
「やさしー! あ、名前、私は聞いてない! なんていうの?」
「ソウ」
「ソウくんね、覚えた! 発音的には、見たのSawと一緒だね」
独特な例えに、愛想笑いをする。マリンは気にせず、俺にニシシと笑い返した。そして、ウィンドブレーカーを着込む。
「あったかぁーい!」
嬉しそうな声をあげて、すりすりと頬擦りしてる。ウィンドブレーカーを着た人魚というチグハグに、ふっと笑い声が出た。
「下は大丈夫なわけ?」
ヒレを指して聞けば、ビタンビタンと防波堤にまた打ちつけ始める。
「大丈夫って何が?」
「いや、帰るのに」
「これで帰るよ?」
人魚設定はまだ継続してたらしい。問いただすのも変だから「あっそ」と小さく、答えた。置いて帰ろうと、振り返って水族館の方を向く。マリンは俺の動向を気にもせずに、話を続けた。
「人魚、初めて見たの?」
しょうがなく振り返れば、防波堤の上で、ごろんっと横になってるウィンドブレーカーを着た人魚。脳みそキャパオーバーな情報量に、はぁっとため息を吐き出す。
――変な女の子。
「生まれてこの方、見たことないな」
「やったぁ、じゃあソウの初めての人魚は私だ!」
「大体、みんな見たことねーよ」
ついツッコめば、マリンはポニーテールにした髪の毛を揺らして、ドヤ顔をする。
「可愛いでしょ、人魚」
そして、浜辺に打ち上げられたトドのように、バタバタとヒレを動かした。トドと言ったら、烈火の如く怒ることは簡単に想像できる。だから、こくこくと黙って頷く。
「思ってないな!」
「まぁ、普通の女の子だなって感じ」
こんな薄暗い中では顔はほとんどわからないし、かろうじて分かる範囲は、ヒレがついてることくらいだ。マリンは、「もう」っとわざとらしく口にして、腰に手を当てる。
「もっと、優しくしてよ!」
「ウィンドブレーカーも貸したし、タオルもあげた。サイダーもあげたけど?」
「たしかにー! 優しくしてもらってた!」
今気づいたと言わんばかりの、声色だ。本当に不思議な女の子。
立ってるのも疲れてきたから、マリンと少しだけ距離を開けて座り込む。まだまだ、話は続きそうだった。