男の子を拾ったら懐かれちゃいました

 ホールの一番後ろの壁に寄り一人ポツンと立っていた。ホール内は暗く、ステージだけが眩いライトが当たり光り輝いている。
 その中央に立つバンドメンバーたちは、楽しそうに自分たちの音楽を奏でている。若いっていいなーと、他人事みたいにぼんやりホール内の喧噪を味わっていた。

 やがて、バンドの演奏が終わり司会進行役の案内は次の歌い手紹介へと移る。私は、喉の渇きを覚え鞄からペットボトルを出して口をつけた。

「ラストを飾るのは、経営学部三年、政本幸知です」

 司会の紹介と共に、ギターを下げた幸知がステージに現れる。幸知がステージに現れると同時に、女の子たちから声援がとんだ。

「キャー幸知、かっこいい!!」
「幸知ー。こっち向いてー!」
「幸知ー!」

 よく見ると女の子たちは、お手製の幸知の顔写真が貼ってある団扇を掲げている。私は、びっくりして飲んでいたペットボトルを落としそうになる。え? 噓でしょ? 幸知のファンが多い……。
 一番最初に会った時、聞いたのはファンがたくさんいるなんて言ってなかったはず……。これ、私来る必要あった?

 思っていた状況と違い、私は困惑を隠せない。ステージ上の幸知は、いつもの真面目な印象とは違い、屈託ない無邪気な笑顔を観客たちに振りまいている。
 眩しさもいつもの倍くらい割り増しされ、人の変わりように驚きを隠せない。ステージ上の幸知ってこんななんだ……。

 ステージ上に置かれた背が高くて座面が丸いカウンターチェアーに、幸知はかっこよく腰掛ける。足が長いので、座った姿がとても絵になる。
 ジーパンに白の長袖シャツと言ったシンプルな装い。それが、幸知の格好良さを引き立てる。どっから見ても格好いい。

 そんな幸知が、ギターに手をかけてポロンと一度弦を奏でる。一瞬、観客席の方に目を配ったと思ったら私と目がった。そして、フワッと嬉しそうに笑顔を零した。
 さっきの作ったような無邪気な笑顔から一転、幸知が素で零した笑みだった。

 そんな幸知の笑顔を、見逃すはずもないファンたちからざわめきが起こる。

「何今の笑顔。めっちゃ可愛い」
「やだー、絶対今私見たよー」
「尊すぎるんだけど。最高かよ」

 私は、ファンたちの声を遠くで聞いていた。幸知が、私を見て零した笑顔が頭から離れない。何で、私を見てあんな笑顔を……。
 自分の胸がドクンドクンと音を鳴らし煩い。私と言う人間から火が噴いたように、体全身が熱い。顔なんて、きっと真っ赤になっている。私の視線は、幸知から離すことができなくなった。

 幸知は、視線をギターに向け最初の音を奏でる。一音はやがていくつもの音が重なって、曲の前奏となる。そして、幸知が歌い始めた。

 出会う一秒前まで
 違う場所
 違う時間
 違う人たちに囲まれて生きていた

 僕を見つけた君は
 何の見返りも求めずに
 傘をさしてくれて、優しい言葉をくれた

 怒りとか、情けなさとか、呆れとか、
 全部とっぱらってくれた君

 幸せは知るものだと言った
 ご飯が美味しいだけで幸せ
 それが幸せになるのが上手な君の口癖

 その笑顔を見た日が
 大好きを知った今日だった

 幸せは知るものだと言った
 そんなこと考えたこともなかった
 考えた途端に真っ暗な道に光が指した

 大好きを知った今日だった


 その声音は力く、ホールの一番後ろの私にまでしっかり届く。しっとりと歌うバラードに、みな静かに聞きほれている。
 歌のことなんてよくわからないけれど、聞いていて心地いいそんな声だった。

 オリジナル曲を歌い切ったホールに、大きな歓声と拍手が上がる。私も、自分の手が痛くなるくらい拍手を送っていた。
 なんだ、悩んでるのがおかしいくらい格好いい……。私とは、住む世界が違っているみたいに透明で大きな壁を感じた。

 そして二曲目。今度は、さっき演奏していたバンドメンバーがもう一度ステージに戻って来た。バンドと幸知のコラボで、有名バンドの大ヒット曲。明るくポップなその曲は、最後に盛り上がるのにはもってこいの選曲。

 二曲目の幸知は、ギターを脇に置き今度はマイクスタンドの前に立つ。ドラムが拍をとり、演奏が始まる。
 幸知は、両手を上げて手拍子を始めそれに合わせて、会場の観客たちも同じように手拍子を打つ。会場が段々と一体化し、熱気は最高潮に達していた。

 幸知は、さっきとは違う明るくアップテンポの曲で観客たちを乗せて歌い上げる。観客は、彼の歌声に答えるように手を挙げてリズムをとる。
 団扇を持っている子は、それを上下に振って自分を見てとばかりに存在をアピールしている。
 舞台上でパフォーマンスをする彼らと、その演奏で盛り上がる観客たち。それ全部が、私の目には作品みたいに感じた。

 最後は、幸知が高く右手を挙げて伴奏を引き延ばすと大きくジャンプして曲を締めた。観客の一人が「アンコール」と叫ぶ。
 その声を皮切りに、ホールの中はアンコールの嵐が吹き荒れた。

 私は、観客の歓声に吹き荒れるホールに圧倒され立ち尽くす。

 一度、ステージからはけた幸知とバンドメンバーが戻ってくると、観客の「アンコール」が鳴りやまぬ中、幸知がマイクを持った。

「みんな、ありがとう。じゃあ、これが本当に最後」

 そう言って、バンドメンバーと目配せをすると一拍置いて演奏が始まる。そして、幸知の最後の歌が始まった。

 私は、ホールの壁際に立って幸知をずっと見ていた。会って話をしていた時とは違う顔の幸知は、大学生らしい若さ溢れるパフォーマンスを披露している。
 ホールに詰めかけて、盛り上がっている女の子たちは目をきらきらさせて幸知に魅せられている。

 盛り上がって、幸知が輝くほどにここは自分の居場所ではないと感じてしまう。幸知を見ていて素敵だと思うし、格好いいと思う、でも自分の中の熱を帯びた彼への気持ちが遠ざかっていく。
 これが私の中の、十歳という年の差を超えられない現実。せめて、自分が二十代だったのならば彼の好意を純粋に喜んだかもしれない。

 アンコールが終わりを迎えようとしている。ホールは、ステージと観客が一体となり一つの空間ができあがっていた。私は、静かに出口へと向かって歩く。
 光り輝いているのは、ステージだけでホールの後ろは暗闇に包まれている。入って来た時と同じように、両開きの扉を今度は強く押した。そして、外の光が漏れ出てしまうので自分の体が外に出るギリギリですぐに扉を閉める。

「眩しい」

 外に出た私は、眼前に広がる夕陽に目を細める。いつのまにか、青かった空はオレンジ色に染まっていた。

 私は、一段一段ゆっくりと階段を降りる。幸知のライブの余韻が、体中に残っていてまだこの興奮を感じていたかった。
 きっと傍から見たら、足取りもおぼつかない危なっかしい女に見えたのかもしれない。

「あれ、お姉さん、大丈夫です?」

 受付を済ませたテントの横をフラフラと歩いていたら、さっきチケットを切ってくれた男の子が声を掛けてくれた、

「あ、うん。ちょっと、熱気が凄くてあてられちゃったかな……」

 私は、ぼんやりとそう答える。頭の中は、自分を見て笑った幸知の顔や、汗を振りまいて歌う幸知の顔、アイドルのような無邪気な幸知の顔、いろいろな顔が回っていた。

「幸知を見に来たんすか? あいつ、格好いいっすよねー」

 男の子は、現実に戻れないでいる私を見て笑っている。幸知の友達なのかなと少し、思考がしっかりしてくる。

「幸知君のお友達? たくさんファンの女の子がいるからびっくりしちゃった」

 私は、こんな話は誰にもできないからポロっと本音が零れてしまう。

「そうっす。俺、幸知とタメなんすよ。今日は、受付頼まれちゃって。あいつ、去年初めてライブしたくせにその日からファンクラブとかできちゃって。羨ましいっすよねー。お姉さんも幸知のファンなんすか?」

 男の子は、興味津々で聞いてくる。

「ファンか……。そうだねー私の推しなの」

 男の子の人懐っこさが面白くて、私はちょっと調子に乗って話してしまう。きっともう会うことはないだろうし、ちょっとくらいいいよね。

「へー、あいつってターゲットゾーン広いんすねー。まじあいつ、なんなの?」

 男の子は、面白くないのか言葉の端々にとげとげしさを感じる。

「ふふふ。ねー、なんなんだろ?」

 私が笑いながらそう返事をすると、ホールの方からひと際大きい喝采が聞こえた。

「あっ、終わったみたいっすね」

 男の子が、ホールの方を振り返ってそう言ったので私も同じようにホールを見た。きっと、今日のライブは大成功だ。
 気持ちよさそうに歌っていた幸知の顔が頭に浮かび、私は帰ろうと正面に向き直る。

「じゃあ、私は帰るね。幸知くんにお疲様って伝えてね」
「えっ? 帰っちゃうんすか? 少し待っててもらえたら、きっと幸知に会えますよ?」
「うん。いいの。ありがとう。じゃーね」

 私は、男の子に手を振ってその場を立ち去る。来て良かったって心の底から思う。これは強がりなんかじゃなくて、本当に感じたこと。
 幸知が、暮らしている世界での彼を見ることができて良かった。いつも彼に会っていたのは、私側の世界だったからもしかしたらと淡い期待を抱いてしまうところだった。

 私はゆっくりと、大学の門へと歩いて行った。
 夕陽に染まる空の下、大学のキャンパスをゆっくりと歩く。きっと私は、もう大学に来ることはないだろうという思いを抱えていた。
 だからだろうか、意識したわけではないけれど最後を噛み締めるみたいにゆっくりと門へと歩く。この場所は、私には眩しすぎたみたいだ。

 前方を見ると、大学の出口である大きな門が見える。行に潜ったアーチには、「来校ありがとうございました」と大きな文字で飾ってあった。
 きっと今、カメラを持っていたら青春の1ページのような光景を撮れたかもしれない。夕陽が照らすその景色は、私の人生では既にもう通り過ぎたものだった。

 私は、目を逸らすことなく門へと向かう。何となく、あの門を潜ったらおしまいな気がした。

「何だが、大袈裟だな。ちょっとだけ、ノスタルジーに浸っちゃった」

 しんみりしてしまった気持ちを、独り言として外に吐き出す。色々考え過ぎて耐えきれなかった。
 別に何も解決する訳ではないけれど、口に出してしまうと息苦しさから少しだけど解放された。

「――――さ……き……さん……」

 名前を呼ばれた気がしたけれど、空耳だと思い足を止めることなく門に真っすぐに進む。

「咲さん!!」

 今度は、間違いなく聞こえ私は振り向く。すると、はぁーはぁーと息を切らせた幸知が膝に手を付いて立っていた。

「――もう……こんなに……走ったの……久しぶり……」

 幸知は、私が振り返ったのを確認すると苦しそうにそう言った。

「えっ? 何かごめん」

 まさか幸知が、私を追って走って来るなんて思わなかったのでびっくりする。汗だくになっている彼に走り寄って「大丈夫?」とハンカチを手渡した。

「何で、会わずに帰っちゃうんですか……」

 幸知は、膝に手を当てたまま上目遣いに私を見て言う。その表情が、切なげでとても悲しそうだった。私は、何も言えずに押し黙ってしまう。
 そんな顔で言われたら、会わずに帰りたかったなんて言える訳がない。

「何でって……い、忙しいかと思って?」

 私は、咄嗟に無難な言い訳をした。

「俺、一番に咲さんに感想聞きたかったです」

 幸知は、ようやっと呼吸が整ったのか今度は真っすぐに立って右手を腰に当てている。真っすぐに立たれると、今度は私が幸知を見上げる番だった。
 私は、幸知の真っすぐな言葉に何も言えずに佇んでいた。すると、一歩幸知が私に近づき、私の腕を取った。

「咲さん? 聞いてます?」

 幸知は、私の顔を覗き込む。突然の近さに、私はまたしても慌てふためく。

「き、聞いてるから! か、感想でしょ? なんて言おうって考えてただけだよ」

 私は、幸知に握られている腕を払えない。

「で、どうでした?」

 幸知は、今度はワクワクした顔で聞いてくる。さっきステージで輝いていた人と同一人物なんだと思ったら、急に緊張してしまう。

「えっと……、凄く……」
「凄く?」
「か、かっこ良かった……」

 私は、小さな声でぼそぼそっと呟く。本来だったら、幸知の目を見て堂々と「格好良かったよ」って言えばいいのに変に意識してしまった。

「本当ですか? めっちゃ嬉しい」

 幸知は、私の腕を離さずにきらきらの笑顔で喜んでいる。私は、どうすればいいのか頭を抱える。こんなシチュエーションは人生でも初めてなのだ。
 自分に正直になれるとしたら、胸がときめかないはずがない。私は、俯けていた顔を上げて幸知の目をしっかり見た。

「あのね……」

 ――――私の言葉を阻むように、幸知の後ろから大きな声が聞こえた。

「ゆ、き、とー。ゆきとー」

 幸知の後ろから、彼の名前を呼びながらこっちに手をぶんぶん振っている女の子が見える。幸知も気が付いたみたいで、後ろを振り返った。

「すみれ……」

 幸知が、女の子の名前をポツリと呟く。女の子は、どんどん近づいてくる。そして私はすぐに気が付いた。その子が、ビラを配っていたアイドルみたいに可愛い女の子だったことに……。

 その子は、私たちの前までくると息を弾ませている。さっきの幸知ほどではないので、普段から運動をしてそうだった。

「もう、幸知。突然、走って外に行っちゃうんだもん。心配するじゃんよー」

 女の子は、幸知のシャツを握ってツンツンと可愛く引っ張っている。

「裕也にすぐに戻るって行って来たけど?」

 幸知は素っ気なく答える。そして、握っていた手を離したかと思ったら今度は手を繋いで私の隣に立ちなおした。
 私は、えっ? っと幸知の顔を伺ってしまうし、女の子は繋いだ手を見て怪訝な顔を私に向けた。

「えっと……その方は? 幸知のお姉さん?」

 女の子の視線が、段々険しいものになっていくのを感じる。私は、怖すぎて彼女の顔を見られなかった。

「咲さん。俺の大切な人。今、取り込んでるから菫は先に戻っといて」
「だってすぐに打ち上げなんだよ。一緒に戻ろうよ。私待ってるから」

 幸知が菫と呼んだ女の子は、引く気がないみたいだ。

「私はもう帰るから、打ち上げに行って。主役なんだからいないと駄目だよ」

 私は、ゆっくりと幸知の手から自分のそれを抜いた。抜いた瞬間、ちょっとだけ胸に痛みが走ったけれど問題ない。

「ほら、お姉さんもそう言ってるよ」

 菫は、幸知の腕を取って戻ろうとする。

「ちょっとやめてくれる。今、咲さんと話してるんだよ!」

 幸知は、さっきとは違って強めに菫に応対している。私は、それを見てこれは良くないと判断した。

「幸知くん、私この後用事があってもう行かないと駄目なの。感想は、今度ゆっくり話すね。ちゃんと連絡するから。じゃーね」

 私は、そう言って門へと走った。後ろから「咲さん!」と呼ぶ声がしたけれど、聞こえないふりをしてもう振り返ったりしなかった。

 駅に行くために私はバス停に並んでいる。残念ながらバスは、行ったばっかりで15分待たなくちゃいけなかった。「あーあ」と私は溜息をつく。
 完全にマウントを取られた。菫ちゃんとやらは、間違いなく幸知狙い。これを知った私は、溜息しか出ない……。一人でいいから、やけ酒を飲みたい気分。

 一人、ふて腐りながらバスを待っていたけれど段々と私の後ろに人の列ができ始める。腕時計を確認すると、あと五分くらいだった。私は、大学の門がある方に背を向けて立っていた。

 ――――タッタッタッタと誰かが走ってきているなと思っていた。バスがもうすぐだから、走って来ているんだろうな、でも後5分あるから大丈夫なのにと私は他人事のように考えていた。

 すると、ガッと肩を掴まれる。

 びっくりして、後ろを振り返ったら菫ちゃんが息を切らして立っていた。今度は、さっきと違って本当に苦しそうにはぁーはぁーと息を吐いていた。

「菫さん?」

 一体どうしたのかと、私は名前を呼んだ。

「……よ…かっ……た。まに……あっ……た…」
「どうしたの?」

 菫は、息を整えている。私は、彼女が落ち着くのを黙って待った。

「言いたいことがあって。 私、幸知のことが好きです。貴方が、幸知とどんな関係なのか知りませんけど、それだけ言っておきたくて。私の方が、幸知にはお似合いだと思います。それだけです」

 菫は、それだけ言うと私の返事も待たずに大学の方に走って行ってしまった。私は、何も言い返すこともできずにポカーンと佇む。そこに、バスがやってきて私の前で扉が開いた。

 私は、機械が決められた動作をするのと同じようにバスの扉が開いたから何も考えずにただ乗り込んだ。

 バスの座席に座って、小さな声で呟いた。

「そんなことわかってる……」
 ライブから一週間が経ってしまった。幸知には、連絡すると約束したのにまだ私は行動に移せずにいた。
 この一週間スマホを手に取って何度もメッセージを送ろうとしたが、どんな言葉を送ればいいのか考えあぐねていた。

 感想をメッセージにして送ればいいかと、長文を書いてみたり……。読み返して、今どきこんな長文をメッセージで送るか? と疑問に思い削除してしまう。
 会って感想を言うべきかとも思うが、菫さんの顔がちらついて会う勇気は出ない。そんなことを、この一週間ずっと繰り返してしまった。

 文化祭に行ったことで、このまま幸知と交流を続けて良いのか考えてしまった。そもそも、私と幸知は一体どんな関係なのだろうか……。
 言葉にしたら、知り合い以上友達未満といったところだろうか……。なんて微妙な関係なのだろう……。
 幸知は、私のことを「大切な人」だと言っていた。その意味を考えてみるが、答えを出したくない私がいる。

 こんな時に限って週末は予定がない。うじうじずっと考えていて、抜け出せないループにほとほと疲れてしまう。
 思い切って、七菜香や蘭に話を聞いてもらおうかと思ったが……。何となく、言われることがわかる気がして嫌だった。

 私がが欲しているのは、話を聞いてくれて「うんうん」って相槌を打ってくれるだけの人。だけど今現在、そんな友達は思いつかない。

 私は諦めて散歩に出ることにした。ここ最近、弘明寺の町探検をしていなかったので丁度いい。私は、さっそく出かける準備を始めた。

 準備が整い、家の鍵とスマホを鞄に入れ玄関を出ようとしたらスマホの着信が鳴った。見ると、スマホの画面に「鈴木さん」と出ている。鈴木さんからなんて珍しいとすぐに電話を取った。

「もしもし、藤堂? 休みの日に申し訳ない。今大丈夫?」
「はい。大丈夫ですよ。鈴木さんが電話してくるなんて珍しいですね」
「いや、本当に悪い。実はさ、月曜日から俺出張なんだけど、それに持っていかないといけない資料を忘れてて。その資料、もうできているかだけ教えてくれる?」

 鈴木さんから説明があった資料は、確かに作成を頼まれていたものだった。だけど、特に締切日を設けていなかったので急ぎの資料だと思わず、まだ中途半端に終わらせたままだった。

「ごめんなさい、急ぎだと思ってなくてまだできてないです……」
「いや、俺もすっかり忘れてて藤堂のせいじゃないから気にしないで。じゃあ、休みの日に悪かったな。また来週」
「待って下さい。鈴木さん、今会社にいるんですか? 私、今から行きますよ。その資料、表とか添付するもの間違えてて来週やり直せばいいやって中途半端なままなんです」
「でも、流石にそれは悪いよ」
「いえ、丁度暇していたところなんで! 夜おごってくれたらそれでOKです」

 普段の私なら、休みの日に会社なんて絶対に面倒くさいと思っていただろうけれど……。予定ができたことに嬉しくて、前のめりで鈴木さんに提案した。

「おいおい。何かテンションおかしくないか? そんな、高いものとか無理だぞ?」

 鈴木さんが、何か警戒している。

「そんなのわかってますよー。困った時はお互い様です! では、今から行きますので三十分くらいです。では」

 私は、鈴木さんの返事を待たずに通話終了ボタンを押した。休日に会社に行くのに、予定ができてとても嬉しい。
 ふふふふふふ。鈴木さんならきっと話を聞いてくれるはず。私は、さっきとは打って変わって心弾ませて駅へと向かった。

 ***********

 会社に着くと、休日なので表の出入り口は閉まっているため裏口へと向かう。休みの日でも、警備員は常駐しているようで社員証を出して中に入れてもらった。
 休業日だと、エレベーターも止まっているようで階段を使って自分のオフィスへと進む。社内の明かりも、必要最低限のみしか点いていないのでちょっと薄暗い。目的の階に着くと、明かりが点いている扉が目に付きドアを開けた。

「鈴木さーん、お待たせしました」

 私は、パソコンに向かっている鈴木さんを認めると声をかけた。

「藤堂、お疲れー。本当に悪い」

 鈴木さんが、私の方を向いて手を合わせて謝ってくる。

「いえ、丁度散歩でも行こうと家を出るところだったのでグッドタイミングでしたよ」
「なんだー、休みに散歩とは……。寂しいやつだな」
「鈴木さん? わざわざ休みの日に出てきてくれた部下に失礼では?」
「冗談だよ、冗談。本当に助かった。ありがとう」

 鈴木さんは、まずいと思ったのか真顔で言い直してくれた。ま、本当のことだから気にしてないけれど。

「では、さっそくやってしまいましょう」

 私は、自分のディスクに腰を降ろしパソコンの電源を入れた。パソコンが立ち上がってくるまで暫く待つ。鈴木さんは、邪魔したら悪いと思ったのか立ち上がった。

「コーヒーでも淹れてくるわ」
「ありがとうございます」

 私はお礼を言いパソコンに向き合い、急いで資料に手を付けた。広いオフィスの中は、私のキータッチの音だけが響く。
 余計なことは何も考えずに、頭の中は打ち込まなければいけない資料の内容で埋め尽くされている。頭は休日モードから、完全に仕事モードへと切り替わっていた。

「ふー。こんなもんかな」

 大体の枠組みが完成して集中力を一端切る。あとは、見直しをしておかしい部分がないか確かめるだけだ。

「いやー藤堂の集中力って凄いよな。俺が帰って来たの全く気付いてなかっただろ?」

 隣から鈴木さんの声がかかった。私は、横を見て鈴木さんが戻って来ていたことに今初めて気づく。

「えー、言って下さいよー。全然気づかなかったじゃないですか」
「いや、集中してたから声かけるの悪いなって思って。ちょっと冷めたけど、コーヒー飲んで」

 鈴木さんは、持って来てくれたコーヒーを私のディスクに置いてくれた。

「すみません。頂きます。そしたら、これ一度確認してもらっていいですか?」

 私は、鈴木さんに今完成した資料を送る。自分でも確認はするけれど、先に鈴木さんに見てもらった方がいい。

「了解。んじゃ、ちょっと休んでて」

 今度は、鈴木さんがパソコンに向かって真剣なまなざしになった。
 鈴木さんが資料を確認すると、いくつかの指摘があった。私も、自分が作った資料を改めて確認すると気になる箇所を見つけた。鈴木さんから指摘された部分と一緒に修正する。
 一度、紙に印刷してみて再度確認してもらった。

「うん。大丈夫そうだ。助かった、ありがとう」

 鈴木さんが、私を見て笑顔で言う。

「お役に立てて良かった。じゃあ、約束通りいいですか?」
「いいけどさ。何が食べたいのよ? フランス料理フルコースとかはちょっと……」
「そんな小洒落たところなんて言いませんよ。安い居酒屋でいいので、飲みに連れて行って下さい」

 私は、遠慮なく自分の希望を言う。この一週間、と言うか多分もうずっと誰かに話を聞いて欲しくて溜らなった。鈴木さんくらいの距離間の人がいい。
 だって私は、アドバイスが欲しい訳でも背中を押して欲しい訳でもない。ただ、話を聞いて欲しいだけ。
 鈴木さんって、長い付き合いだけれど余計なことは言わないし、しつこくしてくることもないから同僚として好き。今まで、恋愛の話なんてしたことないけれど逆にどんな反応をするのか興味があった。

「え? 安い居酒屋ー? 何よ? 面倒な話は嫌だよ?」

 鈴木さんが、何やら身構える。

「ただちょっと、愚痴を聞いて欲しいんです。困った時はお互い様って言ったじゃないですか」

 私は、わざとらしい笑顔を鈴木さんに向けた。

「いや、それ……藤堂が一方的に言っただけなんじゃ……」
「もう、鈴木さん。連れてってくれるんですか? くれないんですか?」
「わかったよ。連れて行くって。じゃー、いつも行っているやっすいところでいいんだな?」
「はい! 望むところです!」

 私は、何だか楽しくなってしまう。まだ酔ってないはずなんだけど、もんもんとした気持ちを話せる人を見つけたからか嬉しくなっていた。

 *******

 鈴木さんが連れて来てくれたお店は、住宅街にひっそりとある赤ちょうちんが灯る居酒屋だった。

「へー、こっちの方は初めて来ました」
「昔ながらの居酒屋で、安くて美味しいんだよ。同期のやつらとよく来るんだ」

 そう言って鈴木さんは暖簾を潜って、引き戸を開けた。

「こんばんわー」
「おっ、鈴木さんじゃん。土曜日に来るなんて珍しい」
「ちょっと、仕事でミスっちゃって」
「そっかそっか。席、空いてっから好きなところに座って」

 鈴木さんは、店主のおやじさんらしき人としゃべっている。私は、鈴木さんの後からお店に入った。

「なんだ、鈴木さん一人じゃないのか! 女の子なんて初めてじゃないか」

 おやじさんは、私を見て勘違いしたのか鈴木さんを茶化している。

「いや、残念ながら会社の部下だから。今日、助けてもらったからこれからたかられるんです……」
「あっはっはっはっは。なんだ嬢ちゃん、こんなやっすい店じゃなくてもいいだろうに。沢山食べて、飲んできな」

 おやじさんが、鈴木さんの言葉に豪快に笑っている。

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、たくさん飲んで食べちゃいますね」

 私は、にっこり笑って返事をした。そして、鈴木さんは店内を見渡すとカウンター席の一番端っこを指し示す。

「あそこでいい?」
「はい。注文しやすいし、いいと思います」
「好きなだけ頼んでいいよ。もう……」

 鈴木さんは、諦めたようにつぶやいた。

 席につくと、すぐにお通しとビールが運ばれて来た。普段、ビールなんてあまり飲まないのだけれどお店の雰囲気に合わせるならビールだなとちょっと調子に乗ってみた。

「では、乾杯」
「お疲れ様でした、乾杯」

 私と鈴木さんは、グラスをカチンと合わせて乾杯する。グイっと一杯ビールを口に含む。冷たくて苦みのある飲み物は、スーッと喉を通り抜けていく。

「美味しい。ビールが美味しいって、私大人になっちゃったな」

 ビールのグラスを見て、私はそう零す。

「何だよ、今更だろ?」
「私、今までビールってあまり飲まなかったんですよね。久しぶりに飲んだら何か美味しいです」
「はあー? んな、俺に合わせなくていいっつーの。好きな物飲めよ」
「今日は、何となく飲んで見たかったんです。お店の雰囲気に負けたのかな」

 私は、もう一度ビールをコクリと飲む。やっぱり美味しい。そして、割りばしを割くとお通しに手を付けた。

「何これ? 美味しい」

 お通しなので期待なんてしていなかったのだけど、思いのほか美味しかった。今日出されたお通しは、オクラのおろし和え。茹でたオクラに、大根おろしと鰹節がまぶしてあって醬油ベースのたれがかかっている。

「だろー。この店、本当に何食べても美味しいから」

 鈴木さんが、自分が作った訳でもないのに自慢してくる。

「じゃー、さっそく頼みましょう」

 私は、目に付いたメニューを頼んだ。流石に食べきれないと困るので、三品に留めておく。まだまだ食べるつもりだけど、とりあえずの三品だ。

「で、何だよ? 愚痴って」

 鈴木さんが、お通しのオクラをつつきながら訊ねてくる。

「前に、私が男の子と一緒にいたところを鈴木さんに見られたの覚えてます?」
「あー、何か拾ったとか言ってたやつ?」
「そうです。それそれ」
「でもさ、元気がなかったのはその子と関係なかったんじゃないの?」
「鈴木さん、結構覚えてますね……」

 鈴木さんが、私にあった出来事を覚えていてびっくりする。

「いや、そう言うけど。藤堂って結構、わかりやすいよ?」
「えっ? そうなんですか? 鈴木さん怖い」
「いや、何でそうなるんだよ……。まあいいや、で、その子がどうしたんだよ」
「それがですね、彼二十歳らしいんですけど……」
「二十歳? マジで言ってんの?」

 鈴木さんが飲んでいたビールを、ちょっとふいてしまいハンカチで拭っている。

「やっぱりびっくりしますよね? で、ですね。なぜか、懐かれたみたいなんですよ私」
「ほーん」
「突然キスされたり、大学の文化祭に呼ばれたり、大切な人だって紹介されたり」
「なるほど」
「挙句の果てには、その子が好きだって言うアイドルみたいに可愛い女の子に釣り合ってないって言われました」
「そうなんだ」

 鈴木さんの返答が適当過ぎて、ちょっとイラっとしてしまう。

「鈴木さん、ちゃんと聞いてます?」
「聞いてるよ。聞いてる。藤堂は、俺の意見が聞きたいの?」
「・・・・・・・・・」

 鈴木さんのもっともな発言に、何も言えない。きっと私は、全部わかっている。

「すみません。私、鈴木さんに八つ当たりですね……」
「いいよ。今日は、そういう会なんだろ?」

 鈴木さんが、そう言って笑う。

「はぁー。何でなんでしょー。私って、こんなのばっかり」
「藤堂は、その二十歳君が好きなの?」

 私は、鈴木さんの問いに無言になる。鈴木さんが、私の言葉を待ってくれる。だから、私は間をこれでもかと置いた後呟いた。

「たぶん……」
「なるほど。格好良かったもんな。年下でイケメンに懐かれちゃったらなー、仕方ない」
「そう思います?」
「逆を考えてみた。間違いなく俺は、ワンチャンあると思うな」

 鈴木さんの回答を、ちょっと想像してしまった。確かに、営業成績常に上位の鈴木さんだ。チャンスは逃さないだろうと思う。

「てかさ、そもそも付き合ってないんだよね?」
「付き合ってません……。好きって言われてないし」
「じゃー、何にそんなに悩んでんの?」
「だって、こんなの初めてなんですもん。格好いい男の子に懐かれるって、私だって悪い気はしないですよ! でもさー、でも……」
「藤堂は真面目だな。そんなに真面目なのに、恋愛は下手だな」

 私は、鈴木さんのその言葉に驚愕する。きっと凄い顔をしていたんだと思う。

「おまえ、何つー顔してんの?」
「だって、鈴木さんが見てきたみたいに言うんですもん」
「いやー俺、伊達に八年も藤堂の隣の席じゃねーよ? それにわかりやすいってさっき言ったばっかじゃん」
「だって、今までそんなこと言ったことないじゃないですか」
「まあ、プライベートなことまでなー会社で突っ込むのもな。こう言う機会、そうなかったしな」

 確かに、鈴木さんの会社での距離感は絶妙だった。たまに、揶揄われることはあったけれど不快になる手前ですぐに手を引く。
 だから、ずっと隣の席にいても嫌なことは全くなかった。

「そもそもさ、俺みたいに格好いい男が隣で担当なのに意識したこと全くないよな?」
「はい? それ自分で言います?」
「いや、俺初めてよ。こんなに近くで接してて意識されなかったの」
「そ、そうなんですか? だって仕事ですし……。鈴木さんって常に彼女がいる印象ですし……。私が彼女になるっていう想像ができないっていうか……。それに意識なんてしたら、仕事やりづらいですし……」
「いや、もう……本当に変に真面目だな。俺、横で見てていつも面白いなーって思ってたよ」

 私は、鈴木さんの突然の告白に目を剥く。

「えぇぇぇぇぇぇー。面白いって何がですか?」
「たまに、付き合ってる彼氏の話とかするといっつも変な男ばっかりだし。ダメンズほいほいってこういう子なんだなって」
「わ、私がいけないんですか?」

 私は、自分に自信がなくなってくる。

「なんだろーね。多分さ、藤堂って器が広いのよ。寄りかかりやすいって言うか。だから変な男が寄ってくるんだろうね。で、その二十歳君にも寄りかかられてるの?」
「・・・・・・・・・」

 二度目の沈黙。鈴木さんの言葉が痛い。

「でも、どうせどうにもなりませんもん。十歳も下の子、好きでも付き合えない。それは決まってるから」
「なるほどねー。それが一番の本音か」
「だって、仕方ないじゃないですか。今が一番大切な時なのに、こんなおばさんに関わってる場合じゃない。隣にアイドル見たいに可愛い子までいるのに……」
「なんだよ、十歳も下の子にマウント取られて泣いてんの?」
「鈴木さんだって、気になってる子が年上だったとして同じ年のめっちゃ可愛い子に言い寄られたらそっち行きますよね?」
「まーな」
「鈴木さん、即答! 酷い」
「だって、アイドル級なんだろ?」

 私は、鈴木さんをじろりと睨む。

「その二十歳君は、わからないだろ。本人に聞いてみなよ」
「いいんです。どうにもならないから!」
「全く、頑固だねー。真面目もここまで行くと短所だな」
「はぁーでも。ちょっとすっきりです。やっぱり、鈴木さんに話して良かった」

 私がそう言ったら、鈴木さんはちょっと呆れた顔でビールを飲んでいた。
 幸知に連絡できないまま日にちだけがどんどん過ぎていた。流石に、これではまずいと今日こそはとスマホを手に取る。

 いつものように、メッセージアプリを開きコメントを書こうとする。だけど書けない……。ずるずる来ている理由も、自分の中ではっきりしているから尚更たちが悪い……。

「幸知君……怒ってるだろうな……」

 自分の部屋に悲しい独り言が落ちる。

 ――――リンリンリンリンとスマホの着信が鳴った。

 ディスプレイに出ている名前は「政本幸知」、ついに来てしまったとスマホを手に電話に出る。

「もしもし」
「咲さん、今平気ですか?」
「うん」

 久しぶりに聞く幸知の声だった。何だか緊張しているようなそんな声。

「あの……。連絡くれるって言ってましたよね……」

 幸知の悲しそうな声が、スマホを通して聞こえる。幸知の顔が頭に浮かぶ。

「うん。ごめんね……」
「咲さん、この前言いかけてたことありましたよね? ちゃんと顔見て聞きたいです」         

 幸知の切実な気持ちが伝わってくる。私は、ひたすら申し訳ないと心が痛い。こんなことなら、長文でいいからさっさと感想を送ってしまえば良かったと今更後悔が滲む。

「そうだよね。幸知君の予定に合わせるよ。いつ会えるかな?」
「本当に会ってくれるんですか? 嘘じゃないですよね?」
「本当だよ。嘘言ってどうするの。私だって、ちゃんと感想伝えたいって思ってたよ」
「良かった……。もう会ってくれないと思った……」

 幸知が、心底安心したのか声が幾分か明るくなった。

「応援するって言ったんだから、約束は守るよ」
「そう言ってくれて嬉しいです。あの……」
「ん? どうした?」
「もしかして菫にあの後、会いました? あいつ、ホールに俺を引っ張っていったと思ったら用事を忘れてたとか言って、全速力で走って行っちゃって……」

 幸知の声は、さぐりさぐりと言った様子だった。

「んー正直に言うと、会った……」

 迷ったけれど正直に言うことにした。こういうの告げ口になるのだろうか? でも、私だって面白くなかったのだ。

「やっぱり……。何か嫌なこと言われました?」
「・・・・・・。それは、本人に聞いて欲しいかな……」

 物凄い意地悪かもしれないと思いながら、私はそう幸知に告げる。真っ黒でどす黒い私が外に出てしまった。

「ごめん。大したことじゃないから気にしないで。ちょっと挨拶されただけ」
「そうですか……。何かすみません」
「幸知君が謝ることじゃないよ。大丈夫。それより、いつ会えそうかな?」

 私は、嫌な空気を払拭したくて話題を戻す。

「そしたら来週の土曜日とはどうですか?」
「うん。大丈夫だよ」
「一日、空いてますか?」
「一日?」
「はい。せっかくならデートしたいです」

 私は、デートと言う単語に動揺してしまう。

「デ、デート?」
「駄目ですか?」
「いや、駄目っていうか……。幸知くん忙しくないの? 就活とか本格的に始まってるでしょ?」
「それは大丈夫です。歌も就活もちゃんとやってます」
「そう? じゃーまー、いいけど……」
「そしたら、時間と場所決めたらメッセージ送りますね。今日は、遅くに電話してすみませんでした」
「んーん。こちらこそ、連絡するって言ってしなくてごめんね」
「いえ、ではおやすみなさい」
「おやすみ」

 プツッと電話が切れる。

 私は、スマホをベッドにホイ投げる。そして、自分もバタンとベッドに突っ伏した。幸知の声が聞けて嬉しかった。いつもこちらを伺うように控えめに話す声。
 大丈夫だと察すると、明るく嬉しそうに話す。そんな風に、私と電話で話す幸知が愛おしい。

「悔しいなー。どうして拾っちゃったんだろ……。私の夢はまだまだ遠い」

 自分の部屋の天井を見て、空しい独り言を呟く。

「来週の土曜日か……。何着て行こう……」

 複雑な気持ちを抱えながらも、幸知に会えるのは嬉しい。それは、素直に喜びたいって思いながら目を閉じた。

 ********

 そして迎えた土曜日、朝から無駄に早く目が覚めてしまう。今週は、仕事が忙しい期間に入り、毎日遅くまで残業でゆっくり今日のことを考える暇がなかった。
 それが私には丁度良くて、いつもよりも張り切って仕事に打ち込んでいた。

 そしたら案の定、鈴木さんに気づかれてしまう。鈴木さんに、私はわかりやすいと言われてから、多分こういうところなんだろうなって自分でも思って仕事をしていた。
 鈴木さんに指摘されたけど、わざと大げさな笑顔を送ったら苦笑いしてそっとしておいてくれた。

 流石、鈴木さんわかってらっしゃる……。

 そんな感じの一週間だったおかげで、うじうじ悩むことなくあっという間に土曜日が来た。週の中頃に幸知から連絡が来て、十一時半に横浜駅に集合することになった。
 お昼を一緒に食べて、その後はプラネタリウムを見に行くらしい。プラネタリウムなんて、子供の頃に行ったきりだ。
 そんなお洒落な場所に行こうなんて誘ってくれた人今まで居なかった気がする。

 行く前にどんなところなのか、検索して確認しようと思っていたのに……。本当に今週は仕事が忙しくてそんな暇が残念ながらなく、今日を迎えてしまう。
 無駄に早く起きてしまったので、先に準備をしてしまおうと私は動き出した。

 簡単に朝食を済ませると、溜まっていた洗濯物を片づけて掃除機をかける。一週間ずっと、閉めっぱなしだった窓も全部開けて部屋の空気も入れ変えた。
 それだけで、何か気分もスッキリした気になる。

 そして、洋服を着替えてメイクを施す。デートに行くために身だしなみを整えるのは、本当に久しぶりだ。
 それだけで、ドキドキしてきてしまうのだから私はきっと単純なのだ。

 だからなのか、着て行く洋服選びに物凄く時間がかかってしまった。迷いに迷った末、紺色のロングのワンピースを選ぶ。寒いとまずいので大判のストールを持って行く。
 靴は、ショートブーツを履いてコーディネートは完成。髪型は、ハーフアップのお団子にしてちょびっと若く見えないだろうか? と鏡の中の自分に問いかける。

 我に返って、恥ずかしくてそっと鏡から視線を外した。準備がやっとでき上がった頃には、もう家を出ないといけない時間になっていた。
 早く起きたはずなのに、結局ギリギリになってしまい焦って家をでた。
 横浜駅に着いた私は、待ち合わせ場所へと急ぐ。洋服が決まらないばっかりにかなりギリギリになってしまった。
 幸知に指定された場所に着くとすでに彼は到着していた。彼に向かって一直線に歩いて行くと、私に気づいて手を振ってくれた。

「お待たせ。いつも待たせちゃってごめんね」

 私は、いつも待たせてしまうことに罪悪感を覚える。待つことには慣れているけれど、待っていてもらう経験が極端に乏しい。だからなぜか落ち着かない。

「いえ、俺がいつも早く来すぎるだけです。咲さんと会えるの嬉しいんで」

 そう言って幸知が微笑む。わかっているのかいないのか……。私はいちいちドキドキしてしまう。

「今日はお昼、何食べましょう? この前はパスタだったから別のがいいですよね?」
「何でもいいよ。夜も食べるんだよね? お昼は簡単な方がいいかな。マックとかでもいいよ」

 私は、ちょっと考えてからそう返事をした。

「咲さんもマックとか行くんですか? 何か、イメージないです」
「行くでしょ。何でよ? むしろ好きだよ。ポテトとか無性に食べたくなるよ」
「そうなんですか? じゃー、マックにします?」
「うん。いいよ」

 私が了承の返事をすると、幸知はもう当たり前のように私の手を握った。そしてそれは、当たり前のように恋人繋ぎになっている。
 幸知が、私の手を引いて歩き出したので、されるがまま歩き出す。何で手を繋ぐのか……。今更もう聞けないし、もしかしたら今の若い子は特に意味なんてないのかも知れない。
 いや、流石にそんな訳ないよね? 私の胸は、さっきからドキドキが煩い。

 平然としていられない私は、幸知はどうなのだろう? と顔を伺うも、いつも通りの表情で人の波を上手にぬって歩いていた。
 土曜日の横浜は、人がとても多いので本来なら歩きづらいはずなのに……。慣れているんだなと思ったら、ちょっとずつ自分も平常心が戻ってきた。

「咲さん」
「ん?」

 幸知が、繋いでいた手をぎゅっと強く握った気がする。それに歩みもゆっくりになった。

「この前は本当にごめんなさい。せっかく来てくれたのに……。菫のことは気にしないで下さい。ただのサークル仲間なんで」
「大学なんて久しぶりだったから楽しかったよ。自分の時のこと思い出して懐かしかったし。菫さん……とっても可愛いよね。最初に見た時アイドルかと思った」
「目立つからモテますけどね……」
「幸知くんは、可愛い子に興味ないの?」

 私は、思い切って聞いてみる。だって鈴木さんは、速攻アイドルだったから。

「可愛い子に興味ないことはないですけど……。別に菫は、そういう目でみたことないですね。咲さんの方が可愛いですし」

 幸知は、さらっととんでもないことを言う。私はびっくりして、思いっきり素が出てしまう。

「は? 何言ってんの? そんなお世辞いらないよ」
「何でですか? そうやって照れるのとかめちゃくちゃ可愛いですけど」

 冗談を言った幸知の顔を睨みつけたつもりだったのに、真顔でそんなこと言うからみるみるうちに顔が赤くなる。
 年下だろうが何だろうが、イケメンという生き物はそれだけで手慣れるものなのだろうか……。年上の頼れるお姉さんを演出していたはずなのに、すっかりただのチョロインだと見抜かれている気がする。

「揶揄わないで」

 私は、幸知から視線を逸らす。真正面から相手して勝てる気がしない。これが経験の差か……。

「揶揄ってないですけど。でも、とにかく菫が言ったことは気にしないで下さいね」

 幸知が、そこだけしっかりと強調する。だから私は、コクンと頷いた。その後は、二人でマックに行ってお昼を食べた。
 幸知は、私の大学生時代の話を聞きたがったので主にその話で終わってしまう。食べた後のトレイを片づけていて、そう言えばライブの感想言ってないと気づく。
 けれど、すぐにプラネタリウムに移動したので話すタイミングを失ってしまった。

 連れてこられたプラネタリウムは、話では聞いていたけれどとても目を引く建物だった。できたばかりの施設なのだが、外観は近未来を思わせる。
 銀色の球体がシンボルとなり、入り口となる大きな階段には足元を照らすライトが光り宇宙船にでも乗り込むようだった。
 中に入ると、高級感あふれる室内に目を見張る。自然の中で綺麗な星空を見るがコンセプトに作られただけあって、観葉植物があちこちに置かれ耳を澄ませると森の中にいるような音が聞こえる。
 小鳥のさえずりだったり、川が流れる音だったり、徹底した世界観作りに私はワクワクが隠せない。

「ねえ、幸知くん。私初めて来たんだけど凄いね。今週忙しくて、どんなところなのかチェックせずに来ちゃったんだけど……。かえってその方が良かったかも」

 私は、室内をきょろきょろ見回しながら笑顔が零れる。

「咲さんに喜んでもらえて良かった。俺も初めてで、凄く楽しみだったんです。咲さんと初めを共有できて嬉しいです。それに、びっくりするのはこれからですよ」

 幸知は、なにやら含んだ笑いを浮かべる。何かあるのかな? と思ったけれど、私はもう施設の雰囲気に心躍り、早くプラネタリウムを見てみたいと童心に帰ったようにワクワクが止まらなかった。

 チケットの販売ブースを見つけたので、私はそちらに向かおうとした。すると、幸知が腕を引いて止まらせた。

「チケット買わないの?」

 私は、疑問に思って彼の顔を伺う。

「実は、前もって予約しておいたんです。チケットはオンラインなので、スマホ見せればいいだけです」
「えっ? そうなの? 予約までさせちゃってごめんね。料金いくらだった? お金払うよ」
「俺が誘ったから、チケット代は気にしないで下さい」
「そんな訳にいかないよ。結構高いでしょ?」

 その後も払う払わないで押し問答したけれど、幸知に押し切られてしまった。社会人にもなってない子に奢られるのは、良心が痛む。
 でも、それを言ったら幸知も面白くないと思うから言えない。

(仕方ない。今度、何かで埋め合わせしよう……)

 私たちは、上映時間まで少し時間があったのでお土産屋さんを見ながら時間をつぶした。
 プラネタリウムの上演時間が近づき、私たちはホールの入り口へと向かった。開園を待つお客さんが、入り口前に列を作っていたのでその最後尾に私たちも並ぶ。
 しばらく待つと開園時間となり、ホールの入り口が開かれ順番にお客さんたちが中に入っていく。

 並んでいた列が消化され、私たちも順番に中に入る。中に入った瞬間、小さな声で「うわぁ」と感嘆の声を漏らす。
 思っていたよりも中は広く、映画館のように座席が並べられている。天井は、一面がスクリーンになっていてどんな映像が映し出されるのか期待が募る。
 ホールの最前列は、大きな空間ができていてそこには四つだけ丸い大きなソファーが置かれいた。大人二人がゴロンと横になれるくらい大きなものだった。

 幸知は、スマホの画面を見ながら座席番号を確認していた。私は、どこら辺の席なのかなーと黙って幸知に着いていく。
 すると、どんどん前の方へと進み幸知は丸い大きなソファーの前で止まった。

「咲さん、席ここです」

 幸知が指し示したのは、四つ置かれた丸いソファーの右から二番目だった。

「え? ここ? ってか、これ席なの?」

 私は、びっくりして目を見開く。席と幸知の顔を交互に見て、戸惑いを露わにする。

「横になって見る席なんです。予約必須のプレミアムシートです」

 そう言って、宇宙を模したような深い紺色に星が散りばめられているソファーに腰を下ろした。
 丸いソファーは、座り心地を最大限追及したようで、手触りの良さそうなクッションも置かれている。

「はい、咲さんもどうぞ」

 そう言って、幸知は自分の隣のスペースをポンポンと叩く。私は、中々動くことができない。だって、いくら大きいソファーと言っても、私が隣に座ったら幸知と半身を密着せざるを得ない。
 普通の座席だったらくっつく必要ないよね? これ、完全にカップルシートでしょうよ……。

「咲さん、嫌でした?」

 座ろうとしない私を見て、幸知は不安そうな顔で小さくそう呟く。

(いつも思うんだけど、幸知君ずるくないか? そういう顔したら許されると思ってるよね? 悔しいけど、許しちゃうんだけどさ!)

「い、嫌じゃんないよ。ちょっとびっくりして……」

 そう言って、私は緊張しながら幸知の隣に腰掛ける。どうしたって、半身が幸知にくっついてしまう。

「すっごい、座り心地良いですよ。暗くなったら、これ枕にして横になりましょう」

 幸知は、楽しそうにクッションをポフポフと叩く。触り心地を確かめているみたいだ。私は、下手に動くこともできずに頭上を見上げる。
 確かに、この座り心地最高なソファーに横になったら気持ちいいだろう。だけど、私の胸はさっきからバクバクと煩くそれどころではない。
 でも、この動揺を悟られたくなくてひたすら平常心と心の中で呟く。

 そんな気も知らない幸知は、私の膝の上に自分が着ていた上着を掛けてくれた。

「ありがとう」
「いえ、咲さん今日スカートだから。気になるかなって」

 ゆっくり、幸知の方に顔を向けると爽やかな笑顔がそこにはあった。こんなに近くで、私だけに向けられた笑顔。
 嬉しいけれど、ほんのちょっとだけ寂しい。この笑顔を、独り占めする訳にはいかないから……。

「咲さん、今日髪型が違うからかな? この前とまた違って可愛いです」

 幸知が、私の耳元でそう囁いた。私は、もう隠すことができないくらい赤面してしまう。耳に心地よくて、誘いこまれてしまうような声にクラクラする。
 私は自分の耳を抑えて声をあげた。

「幸知君、わざとやってるでしょ! いい加減怒るよ!」
「だって咲さん、俺の動作にいちいち意識してくれるから嬉しくて」

 そう言って、幸知はニコニコしている。完全に負けている。私はもう、自分に呆れる。幸知の言う通り、いちいち意識しているのは私だ。
 男性経験がない訳でもないのに、初心な反応をしている私が恥ずかしい。

 自分に呆れかえっていると、ホール内の照明が落とされて真っ暗闇になった。暗闇は、赤くなった自分の顔を隠せるから安心できる。
 幸知は、暗くなったと同時にソファーに横になった。そして、私を促すように自分の横をトントン叩く。
 私はもう、何もかも諦めて彼の言う通りに横になる。私の顔のすぐ横に、幸知の息遣いが聞こえる。私は、そんな至近距離で幸知の顔を見る勇気が持てず天井を真っ直ぐに見据えた。

 すると、映像が始まったのか天井のスクリーンは空へと姿を変えていた。まだ明るい空から真っ白な牡丹雪が降ってくる。
 神秘的な空間にいるかのような音楽が流れ、私は一瞬でプラネタリウムの映像に引き込まれる。さっきまで幸知の格好良さに狼狽していたはずが、どこかに吹き飛ぶ。

 舞い散る雪は、やがて森の中へと移り変わる。真っ白な雪原にもみの木が一本ポツンと立っていた。
 その木のてっぺんに大きな星のイルミネーションが輝いたかと思ったら、緑の葉や幹にポツポツと赤や黄色や青の光が灯る。やがてもみの木は、クリスマスツーへと姿を変えた。
 きっと、クリスマスが近いから今の時期に合わせた映像なのだ。目に映る映像はどんどん姿を変え、雪原がクリスマスのイルミネーションとなる。
 私は、流れるように変わる映像と音楽に釘付けになっていた。

 そして映像はついに、綺麗に輝くイルミネーションの上空に視点が変わる。いつの間にか夜空に変わっていたそこには、満点の星空が広がっている。
 キラキラと輝く星たちは、上空一面を覆っていた。この場所が、ホールだなんて忘れるくらい空と私は一体となっている。

「綺麗だね」

 私は、小さな声でそう呟く。幸知は「はい」と小さな声で返事をすると私の手を握って自分のお腹の上に置いた。
 私は驚いて、すぐ横にある幸知の顔を見てしまう。私が目にした幸知の顔は、今までで一番甘くとても嬉しそうに微笑んでいた。
 その微笑みが余りにも綺麗過ぎて、私に向けられているものだという自覚がなく唯々見惚れてしまう。

 そして私は、ゆっくりと視線を幸知から星空に戻した。幸知の見惚れるほどの笑顔を見られて私は幸せだ。もうこれで私は充分かもしれない……。
 プラネタリウムを見終わった後は、みなとみらいに移動して夕飯を食べることにした。私はさっき見た星空の余韻に浸り、きっと足取りがおぼつかなかったのだと思う。

「咲さん、なんかフラフラしてますよ」

 幸知は、心配げに私の手を取った。私の頭の中は、キラキラ輝く星たちが一杯で幸知に声を掛けられたのに反応が遅れてしまう。

「ごめん、ちょっとさっきの映像に心を持っていかれたっぽい」

 自分がおかしなことを言っている自覚はあるのだけど、気持ちが現実に戻ってこなかったのだから仕方ない。
 私は、かなり創作物に心を影響されやすい。映画やドラマ、小説や漫画など影響力の強い作品を見るとその世界観に引っ張られてしまい、どっぷりつかってしまうのだ。
 だから、怖い作品などは見られないという弱点が……。

「咲さんって、純粋なんですね」

 幸知が、私を見て優しく笑う。言われた私は、自分に問いかける。純粋……。そんなこと言われたのは初めてだ。
 大概、友達には単純だとか影響されすぎだとか馬鹿にされるから。

「そんな風に言われたの初めて。ただ、単純なだけだよ」

 私は、会話をすることで段々と現実に戻りつつあった。

「そんなことないですよ。感受性豊かって言うんですよ。全部が綺麗でしたもんねー。空間も、映像も、ストーリも、音楽も。星空の中にいるみたいでした」

「そうなの。凄く綺麗で、こんな世界があるんだって思ったら感動しちゃって。いつか、肉眼で光り輝く星空を見てみたいなー」

 声に出した言葉の続きは、胸に秘める。できれば幸知と見たい……。それを叶えるのは難しいから……。

 夕飯は、お肉が食べたいという幸知のリクエストからハンバーグ屋さんにした。一度、七菜香たちと行ったことがあるそのお店は、予約していなかったけれど運よく空いている席があり待たずに入れることになった。

 そのお店のハンバーグは、肉厚でナイフを入れると中から肉汁がジュワーと染み出てくる。一口口に入れると、お肉の甘味が口の中に広がって濃厚な旨味成分が舌を刺激する。
 お肉の味が口の中に残っている内に、ライスを頬張る。間違いなく美味しい。

「んー美味しーい。ハンバーグとライスの組み合わせって最高だよね。美味しくて本当に幸せ」

 私は、自分の頬に手を当ててハンバーグの美味しさにうっとりする。

「咲さんの、幸せ―ってやつ聞けて嬉しいです」

 幸知は、とても貴重なものをみたように嬉しそうな顔をしている。私は、しまったと口に手を当てるが遅すぎる。
 七菜香たちと食べている時のように完全に油断してしまった。ハンバーグの美味しさに勝てなかったのだ。

「今のは忘れて!」
「駄目ですよ。絶対に忘れないです」

 幸知は、はっきりと言い切る。そんなこと言わないで、さっさと忘れて欲しい。私は、恥ずかしさから話を変えた。

「そういえば、幸知君。肝心の文化祭の感想言ってなかったよ」

 幸知は、ハンバーグを食べる手を止めて私の顔を見た。

「そう言えばそうですね。なんか、話すことがたくさんあり過ぎて忘れてました」
「だよね。今日は、一日一緒にいるからかな、今まで話さなかったことたくさんしゃべった気がする」
「ですね。俺、凄く楽しいですもん。で、どうでしたか?」

 幸知は、目をキラキラさせて聞いてくる。

「すっごく格好良かった。当たり前だけど、歌上手だったし。何より、幸知君のファンがたくさんいてびっくりした。ファンクラブもあるって言ってたよ」
「え? 誰が言ったんですか? ファンクラブって言っても、大学のごく一部ですよ」
「んーと。受付にいた男の子。ちょっと話したの」
「裕也か……。なんか変なこと言ってませんでした?」
「えっ? 言ってなかったよ」
「ならいいんですけど……。あの、咲さん……。オリジナル曲の歌詞はどうでした……?」

 今まで普通に会話していた幸知が、なぜか聞くのをためらっているような感じだった。

「えっ? 歌詞? …………うんとね……。ごめん、一瞬だったから歌詞まで覚えてない……」

 私は、顔の前で手を合わせて謝る。恐る恐る幸知の顔を見ると、ちょっとふてくされたみたいだった。

「ですよね……。いいんです……気にしないで下さい」

 幸知は、突然落ち込んでしまったのか俯きがちにハンバーグを食べ始めた。

「えっ? ごめん。怒った? 私、歌はそこまで詳しくなくて、あまり聞く習慣がなくて……」

 私は、幸知が落ち込んでしまったことが申し訳なくて居たたまれない。

「違います。怒ってないですよ。大丈夫です」

 幸知は、顔を上げて笑ってくれた。怒ってないと言ってくれてちょっとホッとする。でも、たぶん望んだ答えを言ってあげられなかったのだろうと申し訳ない気持ちは残る。

「あのね、歌詞は残ってないけど。幸知君から目が離せなかったのは本当だよ。聞き終わった後も、幸知君の声がずっと耳に残ってる気がして、さっきみたいにちょっと放心しちゃったもん」

 私は、あの時感じた高揚をできるだけ言葉にした。上手く言い表せる言葉が見つからなくて、無難な言い方になってしまったけれど……。

「嬉しいです。咲さんの中に残れたなら、歌って良かった」

 幸知は、嬉しさを噛み締めているみたいだった。私の言葉を、そんなに喜んでくれると思ってなかったのでちょっと恥ずかしい。

「うん。こちらこそ、聞かせてくれて嬉しかった」

 私も、ちょっと恥ずかしかったけれど幸知の顔を見てそう言った。そしてちょっと間を置いてから思い切って口にする。

「あとね……。歌い始める時、私のこと見てくれた? 気のせいだったらごめん……」

 幸知を見ると、恥ずかしそうに眼を逸らす。

「気づいちゃいました? 本当に来てくれるか分からなかったから、咲さん見つけて嬉しくって」

 私は、間違いじゃなかったのだと嬉しさを噛み締める。二人で目を合わせると微笑み会った。幸知も珍しく、ちょっと頬を赤くして照れているみたいだ。

 店内は、満席で入り口に待っている人の列ができていた。だから私たちは、ハンバーグを食べ終わると長居することなくさっさと店を後にした。

 お店を出たところで、幸知がおずおずといったように訊ねてきた。

「咲さん」
「ん?」
「もうちょっとだけいいですか?」

 断られた悲しいと目が言っている。

「大丈夫だよ。夕飯食べるの早かったから、まだそんなに遅くないし」
「良かった。じゃあ、山下公園でも歩きませんか?」
「いいよ。夜の山下公園なんて、久しぶりだ」

 私は、最後に来たのはいつだろうと考えるが全然思い出せない。おそらく、昔付き合っていた人と来たはずだけれど……。そう思っていたら、幸知が手を差し出してきた。私は、自分の手を重ねる。

 いつの間にか、手を繋ぐことに違和感がなくなっていた――――。
 山下公園に行くためには、赤レンガ倉庫、大さん橋ふ頭を通る。この辺りは、横浜の中でも有数のデートスポットだ。
 大きなビルが立ち並ぶこともなく、夜は海の音と潮の匂いを感じる。目の前に見える赤いレンガ造りの建物は、ライトアップされ昔と今をミックスした横浜の代表的な風景。

 私も、その風景が好きな一人。二十代前半の若い頃は、友達とこの風景を見るだけにふらりと来たりした。
 幸知と手を繋いで、ゆっくりと山下公園に向かって歩く。特に会話はなく、お互いこの雰囲気を楽しんでいる。

 みなとみらい駅から、山下公園まではゆっくり歩いて三十分。海岸沿いに長細い形をした公園からは、みなとみらいの美しい夜景、港に停まっている船、横浜ベイブリッジなど、たくさんのロマンチックな夜景を楽しむことができる。
 眼前が一面海だというのも、一番のロマンチック要素。

「綺麗だね」

 私たちは、海と陸を隔てる柵の手すりの前に立ち目の前に広がる綺麗な夜景を眺めていた。

「咲さん」
「んー?」
「今日、凄く楽しかったです」
「私も楽しかったよ」

 私は、眼前に広がる海を見ていた。暗闇に聞こえる海の音、寄せては返す波。どこかに攫われてしまいそうなくらい怖いのだけど、見飽きることがない。

「咲さん」

 幸知の声が今までで一番緊張していた。ゆっくりと幸知の顔を垣間見る。目に映る彼は、とても真剣な表情だった。

「咲さん」

 私が返事できずにいるともう一度、呼ばれた。

「はい」

 私は、幸知に向き合う。

「彼女になってくれませんか?」

 私を乞う切実な声だった。私は驚き、一瞬で体中に熱が回る。胸はドキドキしていたし、彼の瞳の中にいるのが私なんだと思うと歓喜した。

 だけど私は、一呼吸置くと言葉を発した。

「ねえ、幸知君。それって恋なのかな? 年上のお姉さんが珍しくて、ただ居心地が良くて懐いてるだけなんじゃないの?」

 幸知の顔が一瞬で曇る。

「――――そんなこと!」
「最後まで聞いて!」

 私は、幸知の言葉を遮る。

「幸知君さ、これからでしょ。夢にも挑戦したくて、でも今まで積み重ねてきた経歴も捨てられなくて。両方手にしたいと思ってる。そんな時に、十も離れた年上の女と付き合ってる場合?」

 幸知は、辛そうに押し黙ってしまう。

「私さ、考え方が平凡なの。次に付き合う人と結婚したいと思ってるし、子供も欲しいなって思ってるの。それさ、幸知君受け止められる?」

 私は、凄く酷いことを言っている自覚があった。でも、これは私の本音だ。これを隠して今彼と付き合っても、きっとどこかで破綻する。私が彼の重荷になるのが目に見えている。
 絶対にそんな風になりたくなかった。これがわかっていたから、私は連絡がとれなかった。幸知が好きだから私じゃ駄目なのだ。
 好きな人の重荷になるなんて、そんなの寂しいし、辛いし、切ない。

 幸知は、私から視線を外さないけれど言葉が出ない。

「ごめんね……。でもね、これが十歳差のズレなの。幸知君が悪い訳じゃないんだよ。幸知君の気持ち、私凄く嬉しいよ。でもね、重荷になりたくないしきっと今じゃないの」

 私は、段々と胸にこみ上げてくるものがあった。目元が、じわじわと熱を感じる。だけど、私が泣くわけにはいかない。

「咲さん……。俺……」

 幸知は、何を言って良いのか判断がつかないようだった。情けない自分が許せないのか奥歯を噛み締めている。

「幸知君、きっと君なら大丈夫。後悔しないように全力でぶつかって社会に出ていける。どんな形であったとしても、私はずっと応援してるから。私の初めての推しだから」

 私は一歩、後ろに下がる。

「咲さん!」
「駄目だよ。ここでお別れだから。じゃーね」

 私は、そう言って幸知を振り切って走り出す。後ろから「咲さん!」と私を呼ぶ声が聞こえたけれど、もう振り向かずにそのまま走った。頬が濡れているのがわかっているから立ち止まれない。

 私が走り去るその先には、今の状況に似つかわしくないキラキラ輝く夜景が広がっていた。海の先にみえるのは、遊園地の観覧車。
 それだけ見ていれば幸せの象徴なのに……。今の私には、涙で滲んでぼやけているから見ることができない。
 今はただ、幸知との別れが寂しい。だけど、この真っ青な寂しいさが時間とともに薄れていくことを知ってる。だから私は大丈夫。

 でももう、ここには来られないかもしれないと思いながら歯を食いしばってひたすら走った。