何故か(もも)が「兄さま」と俺を呼ぶので、ようやく本当の勇気が出たのかもしれない。

「嬉しいか、ですか……」

 目の前の可愛い生き物は、小首を傾げて少し考えた後答えた。

「まあ……はい……」

 ──うん?
 今、肯定した?

 予想だにしていなかった答えに、圭一郎(けいいちろう)はガクッとバランスを崩した。もう少しで椅子から転がり落ちそうだった。

「え?」

「……え?」

 お互い意外そうな顔のまま見つめ合ってしまった。

「本当に……?」

「まあ、はい」

 ウッソだあ。
 圭一郎は我が耳を疑った。でも空耳ならせめて力強い肯定が欲しいのに。

「湊のことを恨んでいたのでは?」

「それは確かにそうです」

 ええ……
 桃ちゃん、兄さまは混乱してきました。

「最初は、富澤(とみざわ)さんからお話をもらった時は、秘密を握って倒産させてやるって思ってました」

 おいおい暴露し始めたぞ。ナイス迂闊。
 圭一郎は少し前からその黒幕とも言える人物の見当はついていた。

「富澤はお前に何て言って、屋敷に案内したんだ?」

「ええっと、坊っちゃまはあたしを忘れずにずっと探してるんですって。ロリコンで気持ち悪いでしょう?ちょっと懲らしめてみませんか、って」

 ……
 成程。富澤の有給をゼロ精算しようかな。

「そうか。それでお前はどう思ったんだ?」

 圭一郎は努めて冷静になって聞いた。
 桃は少し頬を赤らめて答える。

「正直ちょっと引きました。でもなんか悔しくて。兄さまの中ではまだあたしは六歳のままなんだって。だったらそのロリコン幻想ぶっ壊してやるって思って」

 評価の上げ下げがすごい! そんなに揺さぶられたら吐く!

「そ、それで……?」

「最初に兄さまに会った時ビックリしたんです。全然変わってなくて。そしたらあたしまで六歳に戻ってしまったような気がして……我慢しようと思ってお爺ちゃまの持ってる能面を思い出しながら仕事しました」

 ああ……
 あれ、能面イメージだったんだ……

 最初の出会いの意味が紐解かれていく。圭一郎は少し不思議な気分だった。
 それにしても、桃はどうして素直に教えてくれるのだろう。
 圭一郎はおずおずと、細い糸で手繰り寄せるような気持ちで聞いてみた。

「桃、どうしてそんな風に教えてくれるんだ?」

「え? ああ……何でだろ。なんだか兄さまが泣いてるみたいだった、から……?」

「!」

 ああ。どうしてこの子はこんなにも尊いのだろう。
 桃はちゃんと俺を見てくれていた。
 こんな、どうしようもない、俺を。

「ところで、桃。急に、兄さまと呼んでくれるのは……?」

 もっと。もっと欲しい。
 そうして俺に勇気をくれ。

「えっ、イヤですか!?」

「嫌なもんか! もっと呼んでくれ!」

 即座に首を振った圭一郎の剣幕に桃は少したじろいだが、また頬を薄紅色にして答えた。

「あの……ハンバーグを、食べてくれたから……」

「え?」

「あれ、美味しくなかったでしょ? 黒焦げなのにタマネギが生のままで……」

「はて。とても美味だったが……?」

 圭一郎は本気で首を傾げている。

「あたし、お料理がほんとにヘタで。組でも皆に振る舞ったんだけど、その日のうちに逃げた組員が沢山いて……」

「何だと? そいつらは舌がおかしいのでは?」

 圭一郎は本気で首を傾げている。

「ふふ」

 すると桃がふわりと笑った。それは、ここに来てから初めて見せる顔だった。

「おかしいのは兄さまの方です。でもそれでようやくわかったの。兄さまはあたしを全部受け入れてくれる、って」

「桃……」

「だから、兄さまの側にいられて、あたしは幸せよ」

 

 鳥籠を開ける。
 それでも小鳥はその指にとまっていた。


 
「桃……」

 圭一郎は小鳥を抱きしめた。
 小鳥は甘えるように、その羽根を寄せる。



「あ……」

 圭一郎は桃の唇に触れた。
 込めた愛しさを、桃は嬉しそうに受け入れる。



 もう、窓を開けても怖くない。



「桃、一度組に帰りなさい」

「え?」



 お前の帰る「家」はここにある。
 その自信がついた。



「富澤、聞いているんだろう?」

 圭一郎が呼べば、執事長は少し罰が悪そうに部屋に入ってきた。

「ご立派です、坊っちゃま……」

 その言葉を圭一郎は笑って否定した。

「まさか。お前達オトナに随分お膳立てされてしまったようだ」

「恐れ入ります……」

 富澤は深々と礼をする。
 それを見て、腕の中の桃は不思議そうに圭一郎を見上げていた。

「桃。お前の大切なお祖父様に、顔を見せておいで」

「……いいの?」

「もちろん」

 圭一郎がにっこり笑うと、桃は更に笑顔で応えた。




 そうして、桃は富澤に連れられて茨村(しむら)組へと向かう車に乗り込んだ。
 圭一郎は、窓からそれを見送る。


 
 小鳥よ、願わくばもう一度。
 その羽根を降ろしに来てほしい。