その午後、圭一郎は一人で待ち合わせの喫茶店の前に立った。振り返って向かいの床屋を覗いてみると、執事用スーツをビシッと着た大柄の男──富澤が悠々と髭を剃られながら親指を立てていた。
その姿に軽く頷いて見せた後、ついに圭一郎は喫茶店のドアを開ける。ドアベルの小気味良い音が店内に響いた。
店員に待ち合わせだと伝えると、奥の席に案内してくれた。
ヤクザが喫茶店の店員にそんな事を伝えていたことに、圭一郎はまず驚いた。
そして席に向かった圭一郎はもう一度驚くことになる。
「……!」
座っていた男は圭一郎の姿を確認すると、ゆっくりと立ち上がって一礼した。
写真で見た男、貫井遊馬に間違いなかった。
三揃いのスーツを上品に着こなす姿は写真で見た印象とはまるで違う。今日はサングラスもしていなかった。明るめの茶色い髪には目を引いたが、ビジネスマンらしく七三に分けて固めているのでそこまで気にならない。
「お待ちしておりました、湊社長」
伏せていた顔を上げれば、涼やかな目元が顕わになり、整った鼻筋と眉毛も清潔感があってどこかの俳優のような風情であった。
「は、初めまして……」
圭一郎は目の前の美丈夫に目を奪われて棒立ちになってしまった。貫井はそれに微笑んで着席を促す。
ここまでの二人の行動は側から見ればビジネスマン同士のやり取りそのものであった。名刺交換がないだけで。
圭一郎は座って貫井と向かい合って、これはやばいと思った。男前過ぎる。実は圭一郎も自分の容姿には少し自信があったのだが、あちらが格上だと思った。年が上なこともそうだし、上品な仕草の裏に隠れる危険な香り。圭一郎には一生かかっても出せないだろう。
「ブレンドでよろしいでしょうか?」
「あっ、はい」
圭一郎がそぞろに返答すると、貫井は片手を挙げて実にスマートに注文してみせた。喫茶店にもそんなに入らない圭一郎からすれば、貫井の仕草は何もかもが洗練されて見えた。
すぐに運ばれたコーヒーに、貫井は満足そうに笑ってから切り出した。
「御足労いただきありがとうございます。社長様を呼び出すなどという御無礼、どうかお許しください」
「あっ、はい……いや、気にしないでください。私も伺いたいことがありますから」
気圧されて返事してしまってから、圭一郎は取り繕って落ち着いて見せた。すでに遅くはあったが、貫井は特にそれを笑ったりもせずに真面目な表情で続けた。
「そうですか。恐らく私からお話することでそちらの疑問もいくつか解消できると思います。よろしいですか?」
「──伺いましょう」
圭一郎が今度は最初から落ち着いて頷くと、貫井もニコリと笑って話し出した。
「まず……そうですね、そちらの誤解を解いておかなければ」
「誤解?」
「お嬢……いえ、桃様のお母上のことです」
最初からセンシティブな切り出しに、圭一郎は思わず緊張で顔を強張らせる。
貫井はそんな圭一郎の様子を見て、殊更真面目な顔で言った。
「桃様のお母上は組長の愛人などではありません。正真正銘、実の娘なのです」
「えっ!?」
圭一郎は人目も憚らずに大きな声を出してしまった。慌てて咳払いで誤魔化す。
「ン、ンン……何ですって?」
「組長は若い頃、桃様のお祖母様にあたる方と恋に落ちました。ですが、任侠道を行く者と華族のお姫様とではあまりに住む世界が違う。組長は勿論身を引きました。ですがすでにお腹には御子が宿っていたのです」
「それが桃の母親だと言うのですか?」
「そうです。その後すぐに六条家は婿を取りましたが、出生のタイミングを調べたところ、間違いありません」
「なんと……」
圭一郎は二の句が告げなかった。桃の母親の汚名は誤解であったが、そこに隠されていた真実もまた罪深い。
「組長は桃様のお祖母様を捨てた後ろめたさと、愛情の深さから独身を貫いています。それは遠い昔の思い出になるはずだった。なのに……」
「偶然、桃の父親がそちらで借金をしたと言う事ですか?」
圭一郎の問いに黙って頷いた後、貫井は更に続けた。
「桃様のお父上が金を借りたのは私どもの末端の会社でした。トップの組長がそれを知った時にはもう遅く、六条家は湊からも見捨てられて一家離散してしまっていた」
「……」
「なんとか探し出してお母上と桃様を保護したのはいいが、お母上はすでに重い病で助かる見込みはなかった」
「ああ……」
圭一郎は突きつけられた事実に打ちのめされた。その時の六条母子の事を思うと、湊は何故何も出来なかったのかと後悔が押し寄せる。
「お気持ちはお察しします」
肩を落とした圭一郎に、貫井は静かに言った。だが、それは圭一郎の気持ちを逆撫でる。
お察しします、だと? 何をどう察するというんだ。桃の小さな手を離してしまった俺の気持ちなど、ヤクザ風情にわかるはずがない。
「ですから、桃様……お嬢は間違いなく組長の孫なのです」
「それで?」
貫井が、桃の事を再び「お嬢」と呼び戻したのを圭一郎は見逃さなかった。
刺すように視線を向けると、貫井はそれを意にも介さずに真っ直ぐに圭一郎を見据えて言った。
「お嬢を、組に返してください」
茨村組の若頭、貫井遊馬の言った言葉は圭一郎には理解ができなかった。
「返せ……とは?」
まるでこちら側が桃を誘拐しているような言い草だ。いや、現在は結果として軟禁しているかもしれないけれど、そもそも桃をメイドとして湊に潜入させたのは茨村組の方だ。純粋な少女の心に憎しみを植え付けて。
「実は、組長は病を患っていまして。医者の見立てでは長くないそうなんです」
「は……?」
「だから組長には最期の時間を最愛の孫娘と一緒に過ごして欲しいんです」
遊馬の言葉は人情の面から言えば確かにその通りだった。だが、それを飲み込むには説明が足りなすぎる。圭一郎は一瞬熱くなった頭を冷やし、努めて冷静に目の前の男に言った。
「その前に、私からの質問に答えていただきたい」
「どうぞ」
「茨村組長がご病気なのはわかりました。それなら何故今、桃をうちに寄越したんです?あの子が本当に産業スパイをやれるなんて思ってないでしょう?本当の理由は何ですか?」
圭一郎がそう詰め寄ると、遊馬は苦悶の表情を浮かべてコーヒーを飲んでから答えた。
「……ごもっともな事です。実は、今回お嬢をそちらに差し向けたのは他ならぬ組長の指示でした」
「でしょうね。ですから私は組長の真意が知りたいんです」
遊馬が回りくどい、奥歯にものが挟まったような物言いをするので圭一郎は苛立った。すると遊馬は観念したように息を吐く。
「組長は自分がお嬢と血の繋がった祖父であることは明かしていません。元華族であるお嬢の経歴に傷がつく。だから細心の注意を払ってこれまでお嬢を養育してきました」
「まあ……確かに私がこの十三年、一向に探せなかっただけはあるんでしょうね」
「恐れ入ります。しかし、お嬢ももうすぐ二十歳になる。子どもであれば隠しておくのは容易いけれど、これからはそうもいかない。ならばと、組長はお嬢を元の婚約者たる湊家にお返ししようと考えたのです」
「成程。随分と回りくどいことをされましたね」
桃を産業スパイに仕立ててメイドとして送り込むだなんて。最初からそう言ってくれれば両手をあげて桃を迎えたのに、と圭一郎はまだ腑に落ちていなかった。
「言いにくいのですが、事はそう簡単にいきません。何しろお嬢は湊家に良い感情は持っていないので、懐いた組長の側から離すのには一芝居打つ必要があった」
えぇ……湊が嫌いなことは嫌いだったんだ……
圭一郎は少し目眩がした。桃があんなに激しく拒んで見せたのは、組からの洗脳もあるのではと希望的観測をしていたからだ。
「まあ、少々やり過ぎてしまったのは申し訳ない。お嬢があそこまで湊家を憎んでノリノリになるとは……」
良かった! やっぱりそうだったんだ。
桃の憎悪は増幅されていた。だが、根本がなければそもそもああならない。結局圭一郎は複雑な気持ちになる。
「お嬢は純粋ですからね、人を疑うことを知らない。そこが愛らしい所であって美徳ではあるのですが……」
「えっ?」
急に表情を緩めてそう言う遊馬の態度に、圭一郎は思わずギョッとしてしまった。
「あ、んん……失礼。そう言う経緯でお嬢はそちらに潜入という形でお返ししたつもりでした」
急に咳払いなどして取り繕う遊馬の姿が圭一郎の目には不穏に映っている。いや、不穏なのは圭一郎の心だ。
まさか、この男……
俺より年上だったはずだ。なのに俺を上回るロリコンなのか?
その疑念を直ぐにぶつける勇気は圭一郎にはなくて、結局、それでも解消しない疑問というか苦情を代わりにぶつけるしかなかった。
「いやしかし、その事を私に伝えてくれなくては意味がありません。こちらは桃がしょっちゅう迂闊な行動をするのでどうしたものかと戸惑ってばかりなんですよ?」
圭一郎がそう言うと、遊馬は素直に頭を下げて謝った。
「それは大変申し訳ない。こちらの落ち度です。お嬢をそちらに送り込んだ後、組内でゴタゴタがありまして。組長は病床ですから、私があちこちに走り回っていて、ご説明するのが今日になってしまったという訳です」
「……そちらの事情は私には関係がありません。桃を素直に返すつもりが本当にあるなら何を置いても先に説明するべきだったのでは?」
──しまった、口が滑った。
遊馬も俺と同じ穴の狢かもしれないと思ったがために、挑発するような事を言ってしまった。
だが、訂正しようとしてもどうやって?
圭一郎が二の句を考えあぐねていると、遊馬はそれまで礼儀正しい紳士の様だった雰囲気をやめて、ニヒルに笑う。
「成程。さすがにお見通しのようだ、これも似た者同士という事ですかね?」
「あんた、やっぱり……」
遊馬は、今日一番の男ぶりを見せた。少し危険な香りを孕んで不敵に笑う男前がそこにいた。
「私は、お嬢を愛している。組長が動けないことを良い事に、あえて貴方に連絡はしませんでした。何故なら、私はお嬢をそちらに渡す気など最初からないのだから」
「──」
目の前のハンサムは、今、確かに圭一郎に宣戦布告をした。
温室育ちで、桃の事しか考えてこなかった圭一郎には、恋愛のいざこざなど経験がない。
だから、何を今言うべきなのかわからなかった。
それでも心にあるのは、たったひとつ。
「桃は、渡さない」
圭一郎が遊馬を睨んでそう言うと、遊馬もニヤリと冷たく笑って返す。
「結構。私が今日言いたかったことは全て言いました。貴方と私はこれで対等だ」
「対等? ふざけるなよ、ヤクザ風情が桃を幸せにできると思っているのか?」
「お嬢の幸せはお嬢が決める。お嬢はすでに組の人間ですよ、組長だって綺麗事を除けばお嬢が組に残ることを望んでいる」
その言葉に、今朝桃が舎弟達に向けていた慈愛の瞳を思い出した。圭一郎は急いでその思考を取り払う。
「桃は、絶対に屋敷から出さない」
冗談じゃない。
桃が見つからなかったあの時にはもう戻れない。
圭一郎は知ってしまった。桃の今の姿を。笑う顔も怒る顔も、柔らかな感触も。
もう二度と、桃が目の前からいなくなることは耐えられない。
「残念ながら、貴方の意思は関係ない。決めるのはお嬢です」
「桃は俺のものだ」
そんな子どもじみた独占欲が、この大人の男に通じるはずはなかった。
それでも圭一郎にはそれしかない。
遊馬はまたフッと冷たく笑って言い放った。
「いいえ。私がお嬢と結婚して茨村組を継ぎます。それを聞いたら組長も喜んでくれるでしょう、そして──」
勿体ぶった言い方で、遊馬は最後通告を突きつける。
「組長の喜びは、お嬢の幸せだ」
「!」
短くそう言った後、貫井遊馬はレシートを手に席から立った。
残された圭一郎は、「桃の幸せ」という物をずっと考えていた。
遊馬が去った後も、圭一郎は席を立つことが出来なかった。
コーヒーが冷えていくのを眺めながら、圭一郎は桃の幸せというものを考えている。
そういえば夢に見るほど祖父のことを案じていた。
迂闊な子だから周りに乗せられてこの屋敷に乗り込んできただけなのかもしれない。
祖父の容体が悪い事で、「組のためだから」なんて言われて来たのかもしれない。
桃にとって、俺の側にいることは本意ではないのか?
だとすれば、遊馬が「帰って来い」と言えば即、屋敷を出てしまうのだろうか?
最初に父を亡くし、次は母。そして祖父まで亡くすことになったら。
一人ぼっちになった桃は誰の側にいることが幸せなんだろうか。
育ててもらった茨村組の中なのか。
俺では、その代わりにはなれないのか?
「坊っちゃま」
取り止めのない思考を繰り返す圭一郎に、大きな影が重なった。富澤だった。
「帰りましょう」
少し哀しげな優しい目で富澤は言う。その執事長の慈愛に、圭一郎はいつも救われてきた。
「うん……」
店を出ると、陽の光は少しオレンジ色になっていた。目の前にはいつもの車と、運転手の早川がやはり哀しく笑っていた。
茨村組。若頭の執務室。
どっと疲れた遊馬は、デスクの椅子にどかりと座って煙草に火をつける。
大きく吸って一息吐いたところで、直通の電話が鳴った。
「はい。ああ、どうも」
電話の主はこの件の共犯者だった。
「……ええ、まあ。大方打ち合わせ通りにお話させていただきましたが」
電話の向こうの声は少し沈んでいた。そして嫌味もチクリと刺す。
「そうですか? 真に迫りすぎていましたかね、私、俳優でもいけますかね? ──ハハッ、冗談ですよ」
遊馬の笑い声に向こうは笑い返すはずもなく、ただ心配しているようだった。
「前も言いましたが、ちょっと過保護が過ぎませんか? 彼はもう二十八でしょう? 社長業も立派にこなしてるそうじゃないですか」
遊馬は今日会った姿を思い出す。黙っていれば立派な人物だ。だが喋り始めると途端に世間知らずが露呈するところが惜しい。
「……ええ、はい。まあ、ちょっとオリジナリティを入れ過ぎたかも。なんだか面白くなってしまって」
自分の言葉に一喜一憂する彼は、今思い出しても笑える。微笑ましくて。
「もちろん、俺にその気はありませんよ。揺さぶってやったからいいクスリになったんじゃないですか?」
そう。その気はない。絶対に。
「ええ。彼がどう出るのか実に興味があります。何か急転したら是非教えてください」
遊馬がそれで電話を切ろうとした時、舎弟の山本が乱暴にドアを開けた。
「若頭ぁ!」
「どうした?」
慌てて電話口を手で押さえて聞けば、山本は真っ青な顔で言った。
「い、今病院から電話があって……ッ! 組長が急変したそうです!」
「──何?」
電話口の向こう、慌ててガチャンと切る音が微かに聞こえた。
「はー……」
屋敷に帰ってきた圭一郎は自室に戻り、デスクで溜息を大袈裟についている。
「何? これ見よがしに溜息なんか吐いて。あたしにどうしろっての?」
桃はまだ何も知らない。
圭一郎がいつもより早く帰ってきたのが嬉しいのか(どうかは希望的観測だが)、ソファで裁縫をする手つきがリズミカルだった。
「いや、ごめん。何でもない……」
……訳はないが、桃に何をどう話すべきなのかが圭一郎にはまだ分からなかった。
「ぼぼぼ、坊っちゃまァアア!!」
そんな圭一郎のアンニュイな気持ちをぶち破って、富澤がノックもせずに部屋に入ってきた。
「どうした、富澤?」
「──あ。し、失礼しました」
富澤はソファに座る桃の姿を確認してから、落ち着き払って一礼した。
「六条くん、少し席を外したまえ」
「え?でも……」
「コック長が新しい料理を教えてくれるそうだよ」
完全に口からデマカセだ、と圭一郎は瞬時に悟った。だが桃は嬉しそうに顔をパッと輝かせる。
「本当?」
おおい! 待てい! 可愛いぞお!
そんな笑顔を引き出すなんて長田の野郎!!
……と言う叫びを圭一郎は心の中に押し込める。
桃はいそいそと部屋を出ていった。
「それで? どうした?」
「あああ、坊っちゃま! 落ち着いてください!」
「落ち着くのはお前だろう。どうしたんだ?」
「し、茨村組長が危篤だそうです!」
「ええ?」
大変だ! ……でもちょっと待て。富澤の言うように圭一郎は落ち着いて言った。
「なぜお前がそれを知っているんだ?」
「えっ!?」
圭一郎の問いに、富澤は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を泳がせてから辿々しく答える。
「えーっと、そう、アレです。坊っちゃまが雇ったあの探偵です!」
「濱家か?」
「そうそう、その濱家が先ほど突然お屋敷に来ましてね。そう坊っちゃまに事付けて欲しいと!」
濱家は茨村組長が病気だという情報を掴んでいたのか? いつ?
俺が報告を受けた日よりも後だろうか?
だが、急転直下の出来事にそんな事を考えている暇はなかった。
時間がない。この事をどう桃に伝える?
「……旦那様、正念場ですぞ」
「え?」
富澤は途端に深刻な目つきになって圭一郎に言った。
「桃様にこの事を伝えるかどうか、旦那様がお決めなさい」
「……え?」
圭一郎は言われて初めて、桃に伝えないという選択肢に気づいた。
桃に茨村雪之助が危篤であることをどうやって説明するか。
圭一郎は教えることを前提に悩んでいた。
だが、そもそも教えない、と言う選択肢もあることを、目の前の富澤が提示した。
「桃には、教えない……?」
頭の片隅にもなかった圭一郎はただ驚いて聞き返すのが精一杯だった。
だが、執事長はいつもの落ち着き払った顔で言ってのける。
「はい。桃様にお伝えせずにこのままここにいていただけば、桃様は確実に坊っちゃまのものになります」
「そんな卑怯なこと……」
茨村雪之助は桃の恩人であり、実の祖父でもある。その祖父の死に目に会わせないなど、圭一郎には人の所業には思えなかった。
「確かに仰る通りです。坊っちゃまにはさぞ心苦しいことでしょう。ですが、桃様をこの屋敷から出して、もう一度お戻りになるとお思いですか?」
「う……」
瞬時に脳裏に貫井遊馬の顔が浮かんだ。
臆面もなく桃を愛しているといったあの男。桃を返せと言ってきたあの男。
圭一郎が仏心を出して桃を一旦帰せば、あの男はきっと桃を手放さないだろう。
仮に、教えずに桃の心を掴めたとして。それがバレた時はどうなる?
消えたはずの桃の俺に対する憎しみは倍、いやもっと、十倍にも百倍にもなってしまうだろう。
そんなことになったら、確実に死ぬ。比喩ではなくて本当に、憔悴して死んでしまう。
それを恐れながら、桃を側に置いて生きるのか?
「坊っちゃま、こんな大嘘をつきながら桃様と生きることに戸惑いがおありですね?」
全部わかってるじゃないか!
その上でなんでそんな提案するんだ?
圭一郎はそう富澤に訴えたかったが、言葉が出なかった。
桃を今失うか、幸せを味わってから失うか。どちらにしろ詰んでいる状況に圭一郎は押し潰されそうだった。
「しっかりなさい!」
突然富澤から怒号が飛んできた。圭一郎は面食らってその顔を見る。
「坊っちゃまがその様に優柔不断だから桃様は今宙ぶらりんなのですよ! ぬるい軟禁なんかして、今のままで桃様のお心を掴めるとお思いか!? 軟禁するくらいなら大きく騙くらかしてとっととモノにしなさい!」
言われた圭一郎は今までの自分の所業を思い出した。
感情のないような桃に苛立って首元を触った。
迂闊な子だって分かっているのに、わざと罠にはめて耳を噛んだ。
軟禁じみたことをし続けて、押し倒した後キッスを二回して抱き枕にした。
何ということだ。そんな痴漢みたいなことを繰り返していたなんて。
視界が真っ暗になった圭一郎に、富澤がトドメを刺す。
「未来を恐れるな! 小鳥は永遠にご自身の鳥籠におさめるのです!」
「うるさいっ!!」
富澤の叱責はひどく圭一郎の心を揺さぶった。まるで悪魔の囁きだ。
だが悪魔の声には耳を貸さない。罪に塗れるなら、自分で決める。
「……申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」
「少し考えたい。一人にしてくれ」
「かしこまりました」
富澤は急に恭しい態度に戻って一礼した後、静かに部屋を出ていった。
音のしなくなった部屋で圭一郎は一人考える。
部屋を見渡せば、そこかしこに桃の面影を見つけることができた。
朝食を並べるテーブル。
スーツを整えてかけるスタンド。
裁縫を懸命にしていたソファ。
この部屋は桃の息づかいが残りすぎている。
圭一郎の生活はすっかり桃中心になってしまっていた。
それは、とても幸せだった。
圭一郎の幸せは、桃の中にこそ、ある。
けれど桃はそれで幸せなのか。
桃の幸せは何処にあるんだろう?
「……そんなの、桃に聞かなければわからないじゃないか」
自嘲するように独りごちた時、部屋をノックする音が聞こえた。
また富澤だろうか。今は誰にも会いたくない。
「兄さま、入ります」
部屋に入ってきたのは、唯一の例外。
「桃……」
圭一郎はその姿を、何かスローモーションの映画でも見ているような感覚で眺める。
桃はやがてデスクの前に立ち、少し居心地悪そうにしながら言った。
「何があったんですか。富澤さんが随分と怒っていらしたようですが」
照れながら棒読みで言う言葉使いが可愛らしかった。
しかし圭一郎は素直に萌え萌えする気分にはなれずに、薄く笑う。
「聞いていたのか」
「スパイなので当然聞き耳はたてます」
「──ははっ、そうか」
自白するスパイなど、桃くらいのものだろう。
可愛らしくて可笑しくて、圭一郎は少し心の靄が晴れた気がした。
やはり、桃に嘘だけはつけない。
「なあ、桃」
「はい」
ちゃんと教えてやらなければ。
でもその前に。
「お前は、今、幸せか?」
「……は?」
確かめたいことがある。
「俺の側にいて……お前は嬉しいか?」
「兄さま……」
ああ、きっと、俺はひどい顔をしている。
泣きそうだ。
涙が出そうなほど、桃が愛しい。
何故か桃が「兄さま」と俺を呼ぶので、ようやく本当の勇気が出たのかもしれない。
「嬉しいか、ですか……」
目の前の可愛い生き物は、小首を傾げて少し考えた後答えた。
「まあ……はい……」
──うん?
今、肯定した?
予想だにしていなかった答えに、圭一郎はガクッとバランスを崩した。もう少しで椅子から転がり落ちそうだった。
「え?」
「……え?」
お互い意外そうな顔のまま見つめ合ってしまった。
「本当に……?」
「まあ、はい」
ウッソだあ。
圭一郎は我が耳を疑った。でも空耳ならせめて力強い肯定が欲しいのに。
「湊のことを恨んでいたのでは?」
「それは確かにそうです」
ええ……
桃ちゃん、兄さまは混乱してきました。
「最初は、富澤さんからお話をもらった時は、秘密を握って倒産させてやるって思ってました」
おいおい暴露し始めたぞ。ナイス迂闊。
圭一郎は少し前からその黒幕とも言える人物の見当はついていた。
「富澤はお前に何て言って、屋敷に案内したんだ?」
「ええっと、坊っちゃまはあたしを忘れずにずっと探してるんですって。ロリコンで気持ち悪いでしょう?ちょっと懲らしめてみませんか、って」
……
成程。富澤の有給をゼロ精算しようかな。
「そうか。それでお前はどう思ったんだ?」
圭一郎は努めて冷静になって聞いた。
桃は少し頬を赤らめて答える。
「正直ちょっと引きました。でもなんか悔しくて。兄さまの中ではまだあたしは六歳のままなんだって。だったらそのロリコン幻想ぶっ壊してやるって思って」
評価の上げ下げがすごい! そんなに揺さぶられたら吐く!
「そ、それで……?」
「最初に兄さまに会った時ビックリしたんです。全然変わってなくて。そしたらあたしまで六歳に戻ってしまったような気がして……我慢しようと思ってお爺ちゃまの持ってる能面を思い出しながら仕事しました」
ああ……
あれ、能面イメージだったんだ……
最初の出会いの意味が紐解かれていく。圭一郎は少し不思議な気分だった。
それにしても、桃はどうして素直に教えてくれるのだろう。
圭一郎はおずおずと、細い糸で手繰り寄せるような気持ちで聞いてみた。
「桃、どうしてそんな風に教えてくれるんだ?」
「え? ああ……何でだろ。なんだか兄さまが泣いてるみたいだった、から……?」
「!」
ああ。どうしてこの子はこんなにも尊いのだろう。
桃はちゃんと俺を見てくれていた。
こんな、どうしようもない、俺を。
「ところで、桃。急に、兄さまと呼んでくれるのは……?」
もっと。もっと欲しい。
そうして俺に勇気をくれ。
「えっ、イヤですか!?」
「嫌なもんか! もっと呼んでくれ!」
即座に首を振った圭一郎の剣幕に桃は少したじろいだが、また頬を薄紅色にして答えた。
「あの……ハンバーグを、食べてくれたから……」
「え?」
「あれ、美味しくなかったでしょ? 黒焦げなのにタマネギが生のままで……」
「はて。とても美味だったが……?」
圭一郎は本気で首を傾げている。
「あたし、お料理がほんとにヘタで。組でも皆に振る舞ったんだけど、その日のうちに逃げた組員が沢山いて……」
「何だと? そいつらは舌がおかしいのでは?」
圭一郎は本気で首を傾げている。
「ふふ」
すると桃がふわりと笑った。それは、ここに来てから初めて見せる顔だった。
「おかしいのは兄さまの方です。でもそれでようやくわかったの。兄さまはあたしを全部受け入れてくれる、って」
「桃……」
「だから、兄さまの側にいられて、あたしは幸せよ」
鳥籠を開ける。
それでも小鳥はその指にとまっていた。
「桃……」
圭一郎は小鳥を抱きしめた。
小鳥は甘えるように、その羽根を寄せる。
「あ……」
圭一郎は桃の唇に触れた。
込めた愛しさを、桃は嬉しそうに受け入れる。
もう、窓を開けても怖くない。
「桃、一度組に帰りなさい」
「え?」
お前の帰る「家」はここにある。
その自信がついた。
「富澤、聞いているんだろう?」
圭一郎が呼べば、執事長は少し罰が悪そうに部屋に入ってきた。
「ご立派です、坊っちゃま……」
その言葉を圭一郎は笑って否定した。
「まさか。お前達オトナに随分お膳立てされてしまったようだ」
「恐れ入ります……」
富澤は深々と礼をする。
それを見て、腕の中の桃は不思議そうに圭一郎を見上げていた。
「桃。お前の大切なお祖父様に、顔を見せておいで」
「……いいの?」
「もちろん」
圭一郎がにっこり笑うと、桃は更に笑顔で応えた。
そうして、桃は富澤に連れられて茨村組へと向かう車に乗り込んだ。
圭一郎は、窓からそれを見送る。
小鳥よ、願わくばもう一度。
その羽根を降ろしに来てほしい。
桃が屋敷を去ってから一週間が経とうとしている。
あれから、何の連絡もない。
「……」
圭一郎は真っ昼間から、自室のデスクに突っ伏してうだうだしている。
ちなみにこの一週間、出社していない。そんな気力が湧いていないからだ。
「坊っちゃま、何かお食べになりませんと。そんなに憔悴されては皆が心配しております」
執事長の富澤が和洋中のおかずを取り揃えてワゴンを引いてきた。
ああ、前はこれは桃がやっていたっけ。
可愛かったなあ……
「坊っちゃま! せめて果物と牛乳だけでも!」
「ああ、うん……」
目の前に置かれるバナナとミルク。圭一郎は仕方なくバナナの皮を剥く。
しかしそれを一口食べる前に、けたたましい電話の音が鳴った。
「チッ、山内か……」
十分おきにかかってくる電話のなんと面倒くさいこと。渋々出ては秘書の怒号を聞かされる。あいつも十分おきに怒って大変だなあ、と圭一郎はどこか他人事だった。
「坊っちゃま、いい加減に会社に行ったらどうです?」
「ああ……そうなんだが、なんだか気力がわかないんだ。きっと俺は病気になってしまったのかも」
「病気なことは病気でしょう。桃様欠乏症ですな」
富澤はシラーとして圭一郎が剥き途中のバナナを引ったくり、果物ナイフで一口サイズにカットしてまた目の前に戻した。ご丁寧に楊枝がさされたバナナの切り身を圭一郎は弱々しげに口に運ぶ。
「ところで富澤、茨村組長はあれからどうなったんだ?その……亡くなったのか?」
桃を帰した最大の理由の人物について、圭一郎はずっと気になっているのになんの情報ももたらされずに一週間も経つ。そのストレスもあって、圭一郎は元気を出せなくなっていた。
「それが……私にもさっぱり。貫井様に毎日お電話を差し上げているのですが、一向にお出にならないのです」
「忙しいのだとすると、やはり葬式を出しているんだろうな。ああいう大きな組織の葬儀はかなり大変だろう」
「ですなあ……」
ところで富澤は貫井遊馬と共謀していたことをあっさり打ち明けた。
今回の件の真実は、概ね先日貫井が圭一郎に言った通りだった。
体を悪くした茨村組長が桃の将来を心配して、湊家に戻そうと考えたことに端を発する。そう決めた組長がまず連絡を取ったのが、執事長の富澤だったのだ。その後組からの連絡係として貫井を引き合わせた。二人は話し合いで桃をメイドとして屋敷に送ることにした。
一見素っ頓狂な案ではあるが、実は湊家が六条家を追い出したのは財界の有名な出来事であり、六条家令嬢がそのまま出戻れば当然好奇の目に晒される。加えて、桃は茨村組で育ったこともあり、当時の性格は一変、活発で迂闊な女の子になっていた。
まずは目立ってしまわないように、「茨村桃」として、使用人として湊家に迎え入れる必要があった。そして二人が期待したのが圭一郎の動向である。
圭一郎は二人の思惑通り、成長した桃にゾッコンラブになった。そこまでは良かった。だが、桃が迂闊にも自分の素性を早めにバラし、圭一郎は圭一郎で頭に血が上って桃を部屋に軟禁する始末。
拗れてしまった事態に貫井遊馬が動く。圭一郎への恋敵宣言である。そこへ茨村組長危篤の知らせ。二人の計画はあっという間に空中分解してしまった。
「いやあ、二人ものお子様を操ってまとめようとするなど、私共の思い上がりでございました」
圭一郎に全てを自白した富澤は最後にそう結んだ。
二十八にもなって「お子様」扱いもどうかと思うが、圭一郎は反論できなかった。桃が来てからというもの、圭一郎は多分あの頃の──別れた当時の十五歳に戻ってしまっていたのだろう。桃にもそう言われたし。
「とにかく、坊っちゃまは明日こそ出社なさるべきです」
「ええ……ヤダなあ、怖いなあ」
休み続けた罪の意識で、更に行けなくなる。圭一郎は負のスパイラルに陥っていた。
「十分おきに恐怖の電話が鳴り続ける生活をお望みで?」
富澤がそう言い終わらないうちに、また電話が鳴った。圭一郎は受話器を取ってすぐに切る。電話の向こうで山内が真っ赤になって怒る姿が目に浮かんだ。
「わかった、今から出社する……」
「それがようございます。さすが坊っちゃまでございます」
それから更に一週間。
圭一郎は長期休暇のツケを払うように、ほぼ不眠不休で働くことになった。
「坊っちゃまぁ! 大変でございます!!」
圭一郎がボロ雑巾のようになって帰宅すると、富澤が血相を変えて部屋に入ってきた。
「富澤ァ……大声はやめてくれ。徹夜の体に響く」
「も、もも、申し訳ありません! ですが、大変なのでございます!」
圭一郎はくたくたの体をどうにか起こして聞いた。
「どうした?」
「も、もももも! いえ、新しいメイド志望の方が……!」
「すぐ通せ!」
春の既視感。
夏に起こったのなら、それは陽炎か?
圭一郎は逸る胸を押さえながら、部屋の扉が開かれるのを待った。
「湊家使用人、及び旦那様のお世話係志望の茨村桃です」
「も……」
大きくて黒い瞳、緩く編んだ豊かな黒髪、真珠のように白い肌。
そこにいたのは紛れもなく、圭一郎の愛しい桃だった。
「ただいま戻りました。兄さま」
その笑顔は、昔のまま。
「桃……」
圭一郎は駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたけれど、踏み止まった。
「桃、大変だっただろう……お祖父様とお別れはできたのか?」
「はい。元気でおやりと。いつでも里帰りしておいでって」
「……え?」
「え?」
またも二人で見合わせて首を傾げてしまった。
「茨村組長は……その……」
「お爺ちゃまならすっかり元気になりましたけど」
「えええっ!?」
驚いたのは圭一郎だけではなかった。横に立つ富澤も驚愕でのけ反っていた。
「富澤、どういう事だ!?」
「だって、組長の容体が急変したって!」
狼狽える二人に、桃はコロコロと笑って答えた。
「よくわかんないけど、お爺ちゃま、急に元気になったんですって! 悪い細胞もすっかり消えたって、お医者様が不思議がっていました!」
急変……急に変わること。
何もそれは悪い事を指すだけではない。
「そんなんアリかあ!」
圭一郎が叫ぶ声を、桃はにっこり聞き流してペコリとお辞儀する。
「そういう訳で、またメイドとしてお仕えしますのでよろしくお願いします!」
「桃ちゃん……? なんでまだメイドやるの?」
もう、そんな必要はないのに。
すぐにでも結納とかしたいのに!
そんな圭一郎の思惑を綺麗に無視して、桃は実にイイ顔で拳を握る。
「あたし、コック長に弟子入りしたんです! いつかとっても美味しいお料理を作って兄さまに差し上げるの!」
その花嫁修行は永遠に終わらないのでは……?
そんな事は口が裂けても言えない富澤であった。
「旦那様、いかがいたしますか?」
圭一郎はガックリ肩を落としたが、すぐに奮起して高らかに宣言する。
「採用に決まってるだろっ!!」
「よろしくお願いします!」
可愛い小鳥は自由に飛び回るようになった。
元婚約者がメイドをやめないんだけど俺はどうしたらいい!!
完