(もも)茨村(しむら)雪之助(ゆきのすけ)が危篤であることをどうやって説明するか。
 圭一郎(けいいちろう)は教えることを前提に悩んでいた。
 だが、そもそも教えない、と言う選択肢もあることを、目の前の富澤(とみざわ)が提示した。

「桃には、教えない……?」

 頭の片隅にもなかった圭一郎はただ驚いて聞き返すのが精一杯だった。
 だが、執事長はいつもの落ち着き払った顔で言ってのける。

「はい。桃様にお伝えせずにこのままここにいていただけば、桃様は確実に坊っちゃまのものになります」

「そんな卑怯なこと……」

 茨村雪之助は桃の恩人であり、実の祖父でもある。その祖父の死に目に会わせないなど、圭一郎には人の所業には思えなかった。

「確かに仰る通りです。坊っちゃまにはさぞ心苦しいことでしょう。ですが、桃様をこの屋敷から出して、もう一度お戻りになるとお思いですか?」

「う……」

 瞬時に脳裏に貫井(ぬくい)遊馬(あすま)の顔が浮かんだ。
 臆面もなく桃を愛しているといったあの男。桃を返せと言ってきたあの男。

 圭一郎が仏心を出して桃を一旦帰せば、あの男はきっと桃を手放さないだろう。

 仮に、教えずに桃の心を掴めたとして。それがバレた時はどうなる?
 消えたはずの桃の俺に対する憎しみは倍、いやもっと、十倍にも百倍にもなってしまうだろう。
 そんなことになったら、確実に死ぬ。比喩ではなくて本当に、憔悴して死んでしまう。
 それを恐れながら、桃を側に置いて生きるのか?

「坊っちゃま、こんな大嘘をつきながら桃様と生きることに戸惑いがおありですね?」

 全部わかってるじゃないか!
 その上でなんでそんな提案するんだ?

 圭一郎はそう富澤に訴えたかったが、言葉が出なかった。
 桃を今失うか、幸せを味わってから失うか。どちらにしろ詰んでいる状況に圭一郎は押し潰されそうだった。

「しっかりなさい!」

 突然富澤から怒号が飛んできた。圭一郎は面食らってその顔を見る。

「坊っちゃまがその様に優柔不断だから桃様は今宙ぶらりんなのですよ! ぬるい軟禁なんかして、今のままで桃様のお心を掴めるとお思いか!? 軟禁するくらいなら大きく騙くらかしてとっととモノにしなさい!」

 言われた圭一郎は今までの自分の所業を思い出した。
 感情のないような桃に苛立って首元を触った。
 迂闊な子だって分かっているのに、わざと罠にはめて耳を噛んだ。
 軟禁じみたことをし続けて、押し倒した後キッスを二回して抱き枕にした。

 何ということだ。そんな痴漢みたいなことを繰り返していたなんて。
 視界が真っ暗になった圭一郎に、富澤がトドメを刺す。

「未来を恐れるな! 小鳥は永遠にご自身の鳥籠におさめるのです!」

「うるさいっ!!」

 富澤の叱責はひどく圭一郎の心を揺さぶった。まるで悪魔の囁きだ。
 だが悪魔の声には耳を貸さない。罪に(まみ)れるなら、自分で決める。

「……申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」

「少し考えたい。一人にしてくれ」

「かしこまりました」

 富澤は急に恭しい態度に戻って一礼した後、静かに部屋を出ていった。



 

 音のしなくなった部屋で圭一郎は一人考える。
 部屋を見渡せば、そこかしこに桃の面影を見つけることができた。

 朝食を並べるテーブル。
 スーツを整えてかけるスタンド。
 裁縫を懸命にしていたソファ。

 この部屋は桃の息づかいが残りすぎている。
 圭一郎の生活はすっかり桃中心になってしまっていた。
 それは、とても幸せだった。

 圭一郎の幸せは、桃の中にこそ、ある。
 けれど桃はそれで幸せなのか。
 桃の幸せは何処にあるんだろう?

「……そんなの、桃に聞かなければわからないじゃないか」

 自嘲するように独りごちた時、部屋をノックする音が聞こえた。
 また富澤だろうか。今は誰にも会いたくない。

「兄さま、入ります」

 部屋に入ってきたのは、唯一の例外。

「桃……」

 圭一郎はその姿を、何かスローモーションの映画でも見ているような感覚で眺める。
 桃はやがてデスクの前に立ち、少し居心地悪そうにしながら言った。

「何があったんですか。富澤さんが随分と怒っていらしたようですが」

 照れながら棒読みで言う言葉使いが可愛らしかった。
 しかし圭一郎は素直に萌え萌えする気分にはなれずに、薄く笑う。

「聞いていたのか」

「スパイなので当然聞き耳はたてます」

「──ははっ、そうか」

 自白するスパイなど、桃くらいのものだろう。
 可愛らしくて可笑しくて、圭一郎は少し心の靄が晴れた気がした。

 やはり、桃に嘘だけはつけない。

「なあ、桃」

「はい」


 
 ちゃんと教えてやらなければ。
 でもその前に。

「お前は、今、幸せか?」

「……は?」


 
 確かめたいことがある。

「俺の側にいて……お前は嬉しいか?」

「兄さま……」


 
 ああ、きっと、俺はひどい顔をしている。
 泣きそうだ。
 涙が出そうなほど、桃が愛しい。