あれは、まだ春が来る前だった。
少し雪が降って庭にある五分咲きの梅の木に積もり、とても美しかったのを覚えている。
その日はよく晴れた日だった。
梅の木に積もっていた雪が解け始め、水滴で飾られた花が陽光を反射してキラキラと光っていた。
梅の次は桃も咲くだろう。
そうすれば庭には春が訪れ賑やかになる。
そんな時、その少女は表れた。
まだ年端もいかない彼女は、僕の前で緊張していた。
それでも僕を見上げているその表情には気高さがあった。
これが、貴族と言うものなのだと初めて思い知った。
「兄さま!」
何度か遊びに来るうちには僕らはすっかり打ち解けていた。
彼女は僕の周りを片時も離れない。そうするように躾けられているのだろう。
──僕らは、大人になったら結婚するのだから
白昼夢を見た気がする。
最近仕事が混んでいて寝不足なのだろう。
だが、悪くない夢だった。彼女に会えたのだから。
忘れたくても忘れられない、幼い頃の恋心。まだ胸の奥に沈んだままだ。
「旦那様! だだだ、旦那様!」
「どうした富澤」
執事長の富澤が突然執務室のドアを盛大に開けて血相を変えてやってきた。
「何をしている。お前がそんな醜態をさらしたら周りに示しがつかないだろう」
「も、もも、申し訳ありません! ですが、大変なのでございます!」
富澤はハンカチで汗を拭いながら狼狽えていた。
品行方正なこの老執事がここまで取り乱すのを、圭一郎は二十八年生きてきて初めて見た。
「落ち着け。そしてちゃんと説明しろ」
自分がつい先ほどまで居眠りをしていたことは棚に上げて、圭一郎は富澤を叱る。
そうしてやっと我に返ったらしい富澤は一礼をした後説明を始めた。
「は。先日部屋係の三島が退職したため、メイドを一人補充するお許しをいただきました」
「うん。そういう話だったな」
いくら仕事に忙殺される日々ではあっても、三日前に聞いた事くらいは圭一郎でも覚えている。
執務室付きのメイドの三島はベテランだったが、娘の結婚を機に海外へ渡ることになったので暇を出したのだ。
その三島の代わりのメイドを求人してもよいかと富澤に確認され、許可を出した。
「その、募集をした所、さっそく一人面接にやって来まして」
「そうか。それは良かった。側で雑用をしてくれる人がいないのは結構不便だった」
「それが……十九の少女でして」
富澤が困ったような顔で言うので、圭一郎も少し不安になった。
「ええ? 学生に毛が生えたような娘で大丈夫か、三島の代わりが勤まるのか?」
「問題はそこではございません!」
富澤はまた興奮し出して叫ぶ。その剣幕に圭一郎も驚いた。
「では何が問題だと言うんだ?」
富澤は、今ではもう呼ばなくなった敬称で圭一郎を呼ぶくらいに取り乱していた。
「坊っちゃま、桃様です!」
「──は?」
「面接に来た少女が六条桃様の名前を名乗っておいでなのです!」
「──」
その名を聞いて圭一郎の頭も真っ白になった。
十二年前、突然姿を消した圭一郎の婚約者。
六条桃、とはそういう名前だった。
六条桃。
旧華族の令嬢で、圭一郎が初めて会った時彼女はわずか六歳だった。
戦後の華族制度の廃止により華族はその地位を剥奪され、六条家はそれまでの特権を失って困窮していた。
一方、湊家は戦後の闇市から織物販売で成功し、大企業へと成長していた。だが、一代で財を成したため振興成金と揶揄されることもあり、そうした世間の声を黙らせるべく家名を欲していた。
金が必要だった六条家、箔が必要だった湊家の利害が一致し、当家の令嬢と縁談が上がった時、圭一郎は十五歳だった。
六条家の令嬢が幼すぎたため結納なども行えず、婚約の口約束だけが交わされたが、湊家は六条家に莫大な援助を与えて優位な立場にあった。
そのような状況を圭一郎の方は理解していたが、当時六歳の桃は無邪気に圭一郎を「兄さま」と呼び懐いていた。
だが、多感な時期だった圭一郎はそうした桃の態度を可哀想な子どもとして見ていた。きっと何も知らされずに「お兄様としてお慕いしなさい」などと両親に言われていたのだろうから。
最初は自分も含めて桃との境遇は哀れだと圭一郎は思っていた。初めて会った時はわざと冷たくもした。
だが、会う度に桃は全身で圭一郎に会えた喜びを伝えてくる。屈託なく笑い、片時も側を離れず、別れる時は涙を見せた。
両親に言われて慕っているのだとしても、桃が見せる笑顔に偽りはないと会う度に思えて、いつしか圭一郎もこの子は自分が生涯をかけて守っていくのだと思うようになった。
そんなおままごとのような時間が一年も過ぎた頃、突然桃は姿を消した。
「……」
「坊っちゃま? 聞いていますか?」
放心しかけた意識をなんとか繋ぎ止めて、圭一郎は執事の富澤を見やる。そして今一度確認をした。
「今、桃、と言ったか?」
「左様でございます」
「六条の?」
「はい」
圭一郎はまるで信じられなかった。六条桃が姿を消してから十二年。父はとりあってくれなかったので圭一郎はこの富澤を使って独自にずっと探し続けている。父から事業を継いだ後は更に資金を増やして探していた。それなのに今までなんの手がかりも得られなかった。
何故、今、こんな形で?
そもそもあの桃が、自ら名乗り出て湊に来るなどあり得ない。桃は湊家を憎んでいるはずだ。
「その娘、何者だ?」
圭一郎が怪しんだのは当然で、富澤も静かに頷いた。
「桃様を騙る者が現れたとお思いですな?」
「当たり前だ。桃であるはずがない」
「私もそうだは思います。ですが……」
言葉を濁す富澤に、圭一郎は焦れながら続きを促した。
「なんだ、はっきり言え」
「面影が、あるのです」
富澤の言葉に、圭一郎は大きく動揺した。当時から側付きとして自分と桃の世話をしてくれた富澤が言うのである。
万に一つもないことだが、富澤の目を信用するならば確かめておかなければならない。
「わかった」
圭一郎は目を閉じて心を決める。
「私が直々に会う」
すると富澤も静かに頷いた。
「それがよろしゅうございましょう」
「ではその娘をこの部屋へ」
「かしこまりました」
富澤が退出した後、圭一郎は己の手が汗ばんでいることに気づいた。
桃の名を名乗る少女。
本人ではあり得ない。
だが、もし──
まだ自分にそんな夢を見るような感覚があったことに驚かされる。
ふと、窓の外を見た。
庭の梅はとうに終わり、桃の花が綻び始めている。
春が近い。
「旦那様、失礼いたします」
数分して圭一郎の執務室の扉がノックされた。富澤である。
「ああ、入れ」
デスクに座りながら圭一郎は短く返事をする。今、声は震えていなかったか。そればかりが気になった。
「メイド志望の者をお連れしました」
そうしてまず富澤が部屋に入り、その後ろに小さな人影が見えた。
「旦那様の前まで進みなさい」
「はい」
富澤に促された小さな影がゆっくりとこちらに近づいて来る。
「──」
その姿を見た圭一郎は言葉を失った。
兄さま、と呼ぶあの姿が重なっていく。
大きくて黒い瞳も、豊かな黒髪を緩く編んでいる様も、真珠のように白い肌も、十二年前の愛らしい姿がそのまま成長したようで。
桃だ、と思った。
「六条桃と申します。旦那様直々にお目にかかる光栄に預かり恐縮です」
発する声も、あの桃だという事実をより確かにしていた。
「……ッ!」
「旦那様!」
椅子に座っていたのに体勢を崩した圭一郎に慌てて富澤が駆け寄った。動揺が激しく、眩暈がしていた。
「あの、大丈夫ですか?」
目の前の少女は表情を崩さずに言った。感情の見えない声音であった。
「旦那様は大変激務でいらっしゃる。少し寝不足なだけです」
「そうですか」
富澤の説明を受けても抑揚なく返事をした少女の態度だけが、在りし日の桃とはかけ離れていた。
だが、目の前に立っているその姿は間違いなく六条桃であり、圭一郎がこの十二年間懸命に探し続けた人物に相違ない。
「……すまない、ここのところ仕事がたてこんでいてな」
「いえ」
圭一郎はなんとか姿勢を正して、この屋敷の主人らしく振る舞った。それに対する少女の反応も薄かった。
これはどういうことだ?
圭一郎は目の前の少女の態度が理解できなかった。
この少女が六条桃であるならば、なぜこんなに無反応なのだろうか。
以前のような好意を向けてくれるとは思っていない。
湊家を憎んでいるのなら、その怒りをぶつけてくるか、眉を顰めるなりの嫌悪感が出るはずだ。
だが、この少女は圭一郎を目の前にしても、まるで初対面の相手に接するかのようなゼロの状態だった。
「失礼なことを聞くが、君はあの六条家のお身内か?」
回りくどいことこの上ない質問をしてみた。それほどに少女の感情が圭一郎には読めなかった。
「はい。実家は旧華族でした」
意外なほどすんなりと少女は答えた。
「御家族は?」
「父と母がおりましたが、どちらも亡くしました」
それは圭一郎が知っている六条家の顛末と合致する。
「旦那様、履歴書でございます」
富澤が静かに書類を差し出した。簡単な経歴が書いてあったが、学歴を見て圭一郎は驚いた。
「中学と高校は清玲女学院……」
「はい」
そこは良家の令嬢が集う名門校だった。かつての六条家なら可能だが、一家離散してしまった後通うことはあり得ないことだった。
一体桃の身に何が起きていたのか、圭一郎は知りたくてたまらなかった。
「──小学校は?」
当時桃の通っていた小学校はやはり名門の学校だった。その名が出れば記憶と照合できると圭一郎は期待した。
だが、少女は少し怪訝な顔をして答えた。
「就職に小学校の学歴は必要ないと思ったので割愛しました」
「そ、そうか……」
無理に聞いて逃げられてもいけない、圭一郎は詰問したい気持ちを堪えた。
何故桃は自分について言及しないのか、だがこの場で率直に聞くことも憚られた。
こんな動揺した気持ちのままで桃に自分のことを尋ねて、もしもなじられたら正気ではいられなくなる。
「いかがいたしますか、旦那様?」
富澤は実にいいタイミングでパスを投げてくれる。そのおかげで圭一郎は紙一重で威厳を保っていられた。
「わかった。採用しよう」
絶対に逃してはならない。それだけは確かだった。
「ありがとうございます。精一杯努めます」
それにしても桃のこの態度はなんだ。澄まして一礼し、自分のことなど眼中にないような顔をしている。
少し状況に慣れた圭一郎は意地悪をしてやりたくなった。
「君には私の執務室係をしてもらう。ついては住み込みの部屋を与える」
「──いえ、私は通いを希望しております」
急に桃は顔を上げて困惑した表情を見せた。ようやく見せた感情に、圭一郎は少しの高揚を覚える。
「この部屋付きの侍女は住み込みが基本だ。嫌なら帰りなさい」
そんな基本はないし、帰られたら困る。だが、圭一郎は賭けた。桃にはこの屋敷に入る目的がある。それが何かはまだわからないが、主人たる者が下手に出ては今後の主導権がとれない。
過去はどうあれ、今は主人と使用人になるのだから。ここでの桃の身柄は圭一郎のものだ。
「……わかりました。よろしくお願い致します」
桃は少しだけ考えた後、また無表情に戻って恭しく一礼した。
「うん。よろしく頼む」
もう、決して逃がさない。
「では下がりなさい。後は富澤に任せる」
「承知致しました」
そうして富澤は桃を連れて退出していった。
一気に緊張感が解けた。圭一郎は椅子の背に体重を預けて息を吐いた。
桃は何故圭一郎を知らない振りをするのか。
湊家に来た目的は何か。
それはこれからゆっくり聞き出せばいい。桃はこれからずっと手元にいる。
圭一郎は歓びで手が震えていた。
瞼の奥で光を感じる。それはもう慣れた感覚だった。
また、仕事をしながら寝てしまった。圭一郎は覚醒しない頭の中でもそれを知覚していた。
朝の光が眩しいことなど気にならない。もう少し微睡んでいたい。体がまだ動かない。
圭一郎は再び暗闇の中へ落ちていこうとしていた。
「……ま」
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
「……さま」
兄さま、と呼ぶのは桃か?
「──旦那様」
執事の富澤ではない声に、圭一郎は飛び起きた。
「おはようございます、旦那様」
目の前に、十九歳の桃がいた。黒いメイド服に身を包み、黒髪を緩く二つに編んだ姿だった。
「……」
まだ、実感がわいてこない。成長した桃が、目の前にいる現実が信じられない。
視線を桃から離せない圭一郎に、桃は淡々とした調子でタオルを差し出した。
「お顔を、洗っていらっしゃいませ」
「あ、ああ……ありがとう」
圭一郎はそれだけ言ってタオルを受け取った後、洗面台に逃げ込んだ。
待て。今、俺は、一晩中仕事に明け暮れて、目の下に隈を作り髪の毛も乱れた姿を桃に晒したのか?
圭一郎は羞恥のままに蛇口を捻り、冷水を顔にかけた。
初日からなんてザマだ。昨日見せたはずの主人としての威厳が揺らいでしまう。
洗顔を終えた圭一郎はそっと桃の様子を伺った。
桃は配膳台に向かい、コーヒーを入れているようだ。
圭一郎が見せた痴態など意にも介していないようで、無表情のままカップにコーヒーを注いでいる。
桃の姿は、なんだか人形のようだ。体温が感じられない。
朝食の支度をしているようだが、粛々と仕事をこなしているだけのように見える。
そんな態度をされるのなら、笑われた方がまだマシかもしれない。
「どうぞ。コーヒーが入りました」
「わかった……」
デスクの手前のテーブルに湯気の立つコーヒーが注がれている。砂糖はない。温めたミルクが添えられている。いつも圭一郎が飲んでいるものだった。
ソファに腰掛け、圭一郎はまずブラックのまま飲んだ。乾いた喉が熱いコーヒーで潤されていく。
半分ほど飲んでからミルクをひと回し。まろやかになった口当たりとともに、頭が覚醒されていくのを感じた。
「朝食はいつもこちらでとられると伺ったので用意してきました。配膳してもよろしいですか?」
「うん、頼む」
昨日の今日では、世間話すらもまだできない。圭一郎は桃が手際良く配膳していくのを見守るだけで精一杯だった。
サラダにパン、スクランブルエッグとベーコン、ヨーグルトなどをテーブルに並べて桃は一礼して一歩下がった。
「いただきます」
そんな言葉は随分言っていない気がしていた。
前任の三島がいた頃はどうしていただろう。圭一郎はもう思い出せなかった。
一歩下がって立っている桃は一体どこを見ているのだろう。
食事するところをずっと見られるのだろうか、変わり映えのない朝食がこんなに喉を通らないのは初めてだ。
「ご馳走様」
半分ほど食べ終えたところで圭一郎はギブアップだった。桃との二人きりの空間に慣れる前に食事だなんてハイレベル過ぎる。
「もう、よろしいのですか」
桃が尋ねるが、形式的な言葉なのは明らかだった。
「ああ。すまない」
「承知致しました」
事務的な返事とともに食器を片付けていく桃を残して、圭一郎はクローゼットに逃げ込んだ。
一体何をしているんだ、俺は。
桃を逃がさないと決めたのに、自分で桃から逃げている。
とにかく気恥ずかしくて、圭一郎は居た堪れなかった。
三島がいた頃は何も構わず、そこら辺で着替えたりしていた。だが、今はそんなことはできなかった。
「何故、クローゼットの中でお着替えを?」
「……時間短縮だ」
ワイシャツとネクタイを替えて出た圭一郎を見て桃は不思議そうに首を傾げていた。
我ながらなんて苦しい言い訳だと思ったが、それ以上は頭が回らなかった。
「ネクタイが──」
言いながら桃が近寄ってくる。そして何の躊躇いもなく圭一郎の首周りに手をかけた。
「!」
吐息がかかりそうな程間近に桃を感じていた。
細くたおやかな指が圭一郎に触れる。鼻先を豊かな黒髪がくすぐっていく。背伸びをしている腰は細く、手を伸ばせば届きそうな距離だった。
「これでよろしいですか?」
緊張で固まっていた圭一郎は、桃が真っ直ぐに直したネクタイから手を離したことでようやく我に返った。
「あ、ありがとう」
すると続いて第二の試練が圭一郎を襲う。
「どうぞ」
桃は背広を広げていた。圭一郎が袖を通すのを待っている。
「──!」
圭一郎の心臓は跳ね上がるような音を立てていた。聞こえたりしないだろうかと不安になる。
ぎこちなく背広に袖を通した後、体が火照っていくのを感じた。
「運転手の早川さんがいつでもお出になられるように準備しています」
「わかった」
確か今日は朝一番で重役会議がある。この場から逃げることができるのはほっとするが、その間に桃がいなくなったらと、圭一郎は急に不安になった。
「あーっと、君は今日はこの部屋から出ないように」
「は?」
桃は驚いていた。それで慌てて圭一郎は言い訳を探す。
「そ、そう! 掃除をしておいて欲しいんだ。隅から隅まできっちりと。一日かかって構わないから」
「承知致しました」
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
素直に従った桃を置いて圭一郎は本社へと出掛けた。
本当に桃はずっといるだろうかと、その日は会議の内容も商談の結果も頭に入らなかった。
日中は取引先などと会って会議や商談をするだけで終わる。書類仕事がまるまる残るが、それは本社ではせずに定時で帰る。社長がいつまでも残って仕事をしていては下の者が帰れないからだ。
だから圭一郎は目を通さなければならない書類や決裁は自宅に持ち帰るのが常だ。帰ってからが圭一郎の仕事が始まると言っても過言ではない。
今日も概ねそのような一日の運びだったが、桃のことが気がかりでつい早足になり、定時になるとともに車に乗り込んでいた。
屋敷に戻った圭一郎はまっすぐに執務室を目指す。だが、ドアの前で躊躇ってしまった。
桃はいるだろうか。もしまた何処かへ消えてしまったら……
今日メイドとして就任したばかりで流石にそれはあり得ない、と不安を打ち消して圭一郎はドアを開けた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
圭一郎が一歩踏み入れたほんの先で、桃は恭しく一礼していた。
ほっと胸を撫で下ろす。しかし随分タイミングがよい。
「ただいま。私が入ってくるのがわかったのか?」
「はい。旦那様の足音が聞こえましたので」
「そうか……」
そんなに音が派手にするほど急いで来たのだろうか。
肩で息をしていた自分にやっと気付いた圭一郎は、恥ずかしさを隠そうとして桃を通り過ぎて部屋の奥へと進んだ。
「お言い付け通り、執務室の清掃をいたしました」
「あ、ああ。ありがとう」
部屋をグルリと見回すと、三島が退職して以来放っておいた部屋が綺麗に整頓されていた。
置きっぱなしだった本やファイルも棚に仕舞われ、部屋の窓は全て光るほどに磨かれている。
しかし、圭一郎のデスクだけは朝出かけた時のままだった。
「?」
「仕事のお机は私などが見てはいけない資料もおありでしょうから、そのままにしておきました」
「そうか」
これが三島だったら有無を言わさずに片付けるものを、と圭一郎はなんだかおかしくなった。
「続きの間の寝室も清掃いたしました」
「──えっ!」
相変わらず感情の見えない声音の桃の報告に、圭一郎は焦った。
何か見られては困るものは置いてなかったかと、グルグル考える。
「ベッドメイクは大切な職務ですから致しましたが、不都合がおありでしょうか?」
「あ──、いや、ありがとう」
桃の言い分はもっともだし、最近ベッドを使った記憶もないので大丈夫だろうと圭一郎は思うことにした。
「何かお茶を差し上げますか?」
「そうだな。アールグレイを頼む」
「承知致しました」
その「承知致しました」って冷た過ぎないか?と圭一郎は昨日から思っていたが、そんなことは言えなかった。
桃がお茶の支度をしているうちに、圭一郎は背広を脱いでソファの背もたれにかけた。次いでデスクに腰掛ける。
「?」
朝のままに、デスクの上は書類が散乱していたが何か違和感があった。だが愛用の万年筆が左側に置いてあっただけだった。
右利きの圭一郎はめったに左に置いたりしないが、デスクで夜明かししたため転がったのだろうと特に気に留めなかった。
「どうぞ。お茶が入りました」
「ああ、ありがとう」
桃はデスクの脇に熱い紅茶を置くと、次いでソファにかけられた背広を取り、形を整えてハンガーに掛けてから埃を払い始めた。
「あ、すまない」
「いえ、仕事なので」
澄ました顔で作業を続ける桃の姿が冷たく感じられて、圭一郎はやはり恨まれているのかと思いたった。
しかしそうだとしても解せない。
何故恨みに思っている相手の元へやってきて世話をするような仕事についたのだろう。
「桃」
圭一郎は意を決してその名を呼んだ。
「──!」
こちらに向けている小さな背中が、ビクリと大きく震えたのを圭一郎は見逃さなかった。
背広にかけていたブラシの手が止まる。
小さな肩が──震えている?
「桃」
圭一郎はもう一度その名を呼んだ。
桃はまるで本当の人形になってしまったかのように動かなかった。
今だ、と思った。
動揺している今なら、ここにやって来たその真意を問える。
圭一郎は立ち上がって、桃のすぐ後ろまで移動した。
手を伸ばせば届く。だが、その手を伸ばすことはまだ躊躇われた。
「何故、今更ここに来た?」
「何のお話ですか?」
振り返らずに言った桃の言葉は、少し震えていた。
「俺のことを覚えているんだろう?」
「……」
「桃!」
圭一郎は堪らずに桃の肩を掴んで振り向かせた。
「──!」
ブラシが手から落ちる。
背広も床に落ちた。
「あ、申し訳ございません……」
圭一郎がその表情を伺う前に、桃は屈もうとした。
「そんなものはどうだっていい!」
圭一郎はその腕を掴んで止める。そうしてやっとその顔がこちらに向く。
「……ッ」
何かを葛藤しているような顔だった。
冷静であろうとしている、だが心は憎しみで支配されている──そんな表情だった。
ああ、やはり。
桃は自分を憎んでいると思った。
「お離しください」
桃は俯いて身を捩る。
だが、圭一郎は桃の顎を捕らえて引き寄せた。
十二年ぶりに間近で見る桃の顔は、とても美しかった。
屈辱を感じて頬を紅潮させ、瞳を潤ませる。──この上もなく美しかった。
「旦那様、お戯れが過ぎます」
はぐらかすつもりだ。
そう感じ取った圭一郎は急に自分の中が冷えていくのを感じた。
ならば、やってみるがいい。
「戯れ? それはこういう事か?」
圭一郎は桃の顎に添えていた手を頬に持っていき、指先で撫でる。
「──!」
桃は予想すらもしていなかったのだろう、圭一郎の指先の感触に驚いて身を捩った。
だが、右腕は圭一郎にしっかり掴まれているので抵抗は意味を為さなかった。
更に圭一郎は指先を耳へと這わせ、うなじへと回す。
「あっ……、おやめ、ください……」
羞恥でますます赤みを増す頬が、苦悶に揺れる小さな呻き声が、圭一郎を煽っていった。
「お前が、本当の事を言うならやめる」
その細い首をなぞりながら圭一郎が言うと、桃はその顔にますます憎しみをこめて言い放つ。
「お話することは、何もありません……っ!」
頑なな態度に、圭一郎の何かが切れた。
「では、どこまで耐えられる……?」
圭一郎は桃を引き寄せてその唇を指でなぞる。しっとりとした感覚に昂った。
「う……、あ……」
わなわなと震える桃の瞳には強い意志を感じさせる揺めきがある。
その奥にあるのは憎悪なのか──暴かなくてはならない。
「──」
圭一郎がその唇に問うてやろうとした瞬間、ドアをノックする音がした。
「!」
「旦那様、よろしいですか?」
執事長の富澤の声で我に返った圭一郎は桃の腕をとっさに突き放した。
すると桃は床に落ちた背広を拾って、部屋の入口まで駆けてゆく。
「おっと、どうした?」
「旦那様の背広を汚してしまったので、染み抜きをして参ります」
「そ、そうか……」
入ってくる富澤を押しのけて、桃は部屋を出ていった。
「どうかなさいましたか?」
富澤の姿を認めた圭一郎は、急に足の力が抜けた。
「ぼ、坊っちゃま!?」
「助かったよ……富澤」
今までで最高のタイミングだった。やはり富澤は有能だ。感謝する。
圭一郎は心の底からそう思った。
何という事を俺はしてしまったのか。
圭一郎は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
自分の中にあんな感情があったなんて。
桃にそれを引き出されてしまうなんて。
落日の光が、圭一郎の震える手を暗く灯していた。
久しぶりにベッドで朝を迎えた。圭一郎の意識は、まだ朧げだった。
「──ッ」
胃が痛かった。それで昨夜の自分を思い出す。
桃に抱いた苛立ちと、それを紛らわすためにとった身勝手な行動。
桃が見せた頑なな態度から湧き上がった欲情を、圭一郎はあの後仕事にぶつけた。
夕食も取らずにデスクに向かい、一心不乱に書類を片付ける。
全てを終わらせた深夜、酷使した体を無理矢理眠りに沈めるべくブランデーを煽ってベッドへ倒れこんだ。
その結果が、この様である。
胃が痛い。喉が渇く。体が怠い。
圭一郎が昨日一連の自分を反省しながらベッドの中で悶絶していると、ドアがノックされた。
「旦那様、そろそろお起きにならないと、朝の会議に間に合いません」
桃の声だった。昨日の朝と同じ、抑揚のない事務的な声。
圭一郎はすぐさま飛び起きて、寝室のドアを開ける。
そこには俯きながら立つ桃の姿があった。
「おはようございます、旦那様」
俯いたまま深々を頭を下げる姿に違和感もなく、圭一郎は一瞬昨日のことは夢だったのかと錯覚する。
「おはよう……」
圭一郎の声で桃が顔を上げる。すると桃は少し遠慮がちに言った。
「お顔の色ががすぐれませんが……」
「あ、ああ……、少し胃が痛くて」
何故素直に答えてしまったんだ、と圭一郎は言ってから後悔した。
桃は小さく息を吐いて呆れたように言う。
「あんなにお酒を召し上がるからです」
「……」
ぐうの音も出なかった。
執務室に空けたブランデーの瓶を放っておいたことを圭一郎はやっと思い出す。
桃はもちろんそれを見たのだろう。いや、既に片付けたかもしれない。
「胃薬をお持ちします。先にお顔を洗っていてください」
「わかった……」
圭一郎にタオルを渡した後、桃は小走りで部屋から出ていった。
ひょいと執務室を見ると、荒れ放題だったソファの上やテーブルは何もなかったかのように片付いていた。
圭一郎は恥ずかしさでもう一度悶絶した。
だが長くそうもしていられない。桃が戻る前に顔を洗って、着替えておかなくては。
圭一郎は急いで洗面台へ向かい身支度を整え始めた。
「旦那様、お待たせしました」
桃が戻ると同時に新しいシャツに着替え終えた圭一郎は、胸を撫で下ろしながら威厳を保とうと短く答える。
「うん」
だが桃は少し眉を顰めて圭一郎を見ていた。──威厳などあったものではなかった、と心中で圭一郎は落ち込んだ。
「胃薬をお持ちしました。ですが昨夜から何も召し上がっていないのに飲んではいけません」
「そうか……だが食欲が、ないんだが」
少し桃は怒っているのかもしれない。圭一郎が恐る恐る答えると、また小さく息を吐いて桃は言う。
「コンソメスープをお持ちしました。これだけでも召し上がってください。お薬はその後に」
そうして桃はテーブルに温かく湯気がたつスープを置く。その隣に水と胃薬も置いた。
「わかった。ありがとう」
桃の気遣いが嬉しくて、圭一郎は思わず笑いかけた。昨日の事などはその時は頭から抜け落ちていた。
「いえ。仕事ですので」
やはり冷たい返事が返ってくる。
だが、さきほど眉を顰めたり、昨日の朝より冷たい感じがするのは桃の感情が表れている証かもしれない。
怒っていたとしても、人形よりは百倍いい。
「桃」
「はい」
ああ、返事をしてくれた。それだけで、圭一郎は心が満たされた。
「今日も夕方には帰るから、この部屋で迎えてくれ」
「……」
桃は少し不可解そうに逡巡した後、いつもの決まり文句で答えた。
「承知致しました」
その文言に、そのうち感情を宿らせてやる。
圭一郎はこの日、そう目標を定めた。
本社での業務が終わり、圭一郎は早足で車に乗り込んだ。
「旦那様、最近はお早くお帰りになりますね」
運転手の早川が少し弾んだ声を出す。
「そうか?」
「ええ。いつもはすっかり暗くなってからでないとお出にならないのに」
言われて圭一郎は車窓から差し込む夕陽の光に気づく。
「良いことだと思いますよ。大旦那様から会社を引き継いでから働きづめでしたからね」
「うん、まあな……」
「これで大量にお仕事をお持ち帰りでなければもっといいんですけどねえ」
「それは大目に見てくれ、早川」
そういうのんびりとした会話を早川とするのも随分と久しぶりな気がする。
偏に桃のせいだとはさすがに言えない。突然現れたのだから突然消えてしまう気がして、圭一郎は今日も終業ベルとともに飛び出してきた。
「お帰りなさいませ」
部屋のドアを開けると桃がいつも通りの澄ました顔で事務的に頭を下げて圭一郎を迎えた。
「……」
そういうんじゃないんだけどなあ、と心の中で独りごちる。
だが、今日も消えずに桃がそこにいたことが圭一郎にとっては喜ばしい。
「ただいま、桃」
わざと語尾に名前をつけてみる。桃はどう出るだろう。
「上着をお預かりします」
「あ、ああ……うん」
だが圭一郎の期待は外れた。
やはり長期戦になるのか。急に事態を変えようとすると、昨日のような醜態晒すことになる。
圭一郎は焦る気持ちを押し殺して、背広を脱いで桃に渡した。
桃は畏まったまま背広を受け取ってブラシをかけていく。
その姿をしばし見つめた後、圭一郎はデスクに座った。
そう言えば大叔父からの手紙をそのままにしていた。
昨夜読んではいたのだが、冷静に返事ができる精神状態ではなかったので置いておいたのだ。
仕方ない、早めに返事を書いておこうと圭一郎は改めて封筒から書状を取り出す。
「ん?」
何かおかしいと思った。
大叔父はわりとずぼらな人で、何かをやりながら手紙を書く癖がある。
昨日の手紙にもその痕跡があった。おそらく食事をしながら書いたのではないだろうか。
醤油がついた指で書状を封筒に入れたために、上部に染みがついていた。それを見て苦笑したのを覚えている。
だが、今封筒を開けるとそれがない。
念のため書状全て取り出してみると、下部にその染みが確認できた。
圭一郎には上下逆にして封筒に収めた記憶はなかった。
この違和感が正しければ、誰かが手紙を読んだ可能性がある。
ふと、昨日も万年筆に違和感があったことを思い出した。
「……」
圭一郎はそこで騒がずに、この部屋に入ることの出来る人物を思い浮かべる。
桃が背広を整え終えて、ハンガーにかけるのを眺めながら。
次の日。圭一郎は朝早くに屋敷を出て行った。
桃は今日も執務室に残されている。
とりあえず一通りの掃除を済ませると、正午が近かった。圭一郎が一晩で書類を散らかしていくからだ。
桃は音を立てずに圭一郎のデスクに近づいた。そこに「取り扱い注意」と赤字で書かれた書類が置いてある。
桃は躊躇わずにそれを広げた。小型のカメラを取り出して最初の頁を撮影する。
早くしなければ、と夢中になっていたので人の気配に気付かなかった。
「何を、している……?」
「!」
桃の目の前に、本社にいるはずの圭一郎が暗い瞳で立っていた。