「旦那様、失礼いたします」
数分して圭一郎の執務室の扉がノックされた。富澤である。
「ああ、入れ」
デスクに座りながら圭一郎は短く返事をする。今、声は震えていなかったか。そればかりが気になった。
「メイド志望の者をお連れしました」
そうしてまず富澤が部屋に入り、その後ろに小さな人影が見えた。
「旦那様の前まで進みなさい」
「はい」
富澤に促された小さな影がゆっくりとこちらに近づいて来る。
「──」
その姿を見た圭一郎は言葉を失った。
兄さま、と呼ぶあの姿が重なっていく。
大きくて黒い瞳も、豊かな黒髪を緩く編んでいる様も、真珠のように白い肌も、十二年前の愛らしい姿がそのまま成長したようで。
桃だ、と思った。
「六条桃と申します。旦那様直々にお目にかかる光栄に預かり恐縮です」
発する声も、あの桃だという事実をより確かにしていた。
「……ッ!」
「旦那様!」
椅子に座っていたのに体勢を崩した圭一郎に慌てて富澤が駆け寄った。動揺が激しく、眩暈がしていた。
「あの、大丈夫ですか?」
目の前の少女は表情を崩さずに言った。感情の見えない声音であった。
「旦那様は大変激務でいらっしゃる。少し寝不足なだけです」
「そうですか」
富澤の説明を受けても抑揚なく返事をした少女の態度だけが、在りし日の桃とはかけ離れていた。
だが、目の前に立っているその姿は間違いなく六条桃であり、圭一郎がこの十二年間懸命に探し続けた人物に相違ない。
「……すまない、ここのところ仕事がたてこんでいてな」
「いえ」
圭一郎はなんとか姿勢を正して、この屋敷の主人らしく振る舞った。それに対する少女の反応も薄かった。
これはどういうことだ?
圭一郎は目の前の少女の態度が理解できなかった。
この少女が六条桃であるならば、なぜこんなに無反応なのだろうか。
以前のような好意を向けてくれるとは思っていない。
湊家を憎んでいるのなら、その怒りをぶつけてくるか、眉を顰めるなりの嫌悪感が出るはずだ。
だが、この少女は圭一郎を目の前にしても、まるで初対面の相手に接するかのようなゼロの状態だった。
「失礼なことを聞くが、君はあの六条家のお身内か?」
回りくどいことこの上ない質問をしてみた。それほどに少女の感情が圭一郎には読めなかった。
「はい。実家は旧華族でした」
意外なほどすんなりと少女は答えた。
「御家族は?」
「父と母がおりましたが、どちらも亡くしました」
それは圭一郎が知っている六条家の顛末と合致する。
「旦那様、履歴書でございます」
富澤が静かに書類を差し出した。簡単な経歴が書いてあったが、学歴を見て圭一郎は驚いた。
「中学と高校は清玲女学院……」
「はい」
そこは良家の令嬢が集う名門校だった。かつての六条家なら可能だが、一家離散してしまった後通うことはあり得ないことだった。
一体桃の身に何が起きていたのか、圭一郎は知りたくてたまらなかった。
「──小学校は?」
当時桃の通っていた小学校はやはり名門の学校だった。その名が出れば記憶と照合できると圭一郎は期待した。
だが、少女は少し怪訝な顔をして答えた。
「就職に小学校の学歴は必要ないと思ったので割愛しました」
「そ、そうか……」
無理に聞いて逃げられてもいけない、圭一郎は詰問したい気持ちを堪えた。
何故桃は自分について言及しないのか、だがこの場で率直に聞くことも憚られた。
こんな動揺した気持ちのままで桃に自分のことを尋ねて、もしもなじられたら正気ではいられなくなる。
「いかがいたしますか、旦那様?」
富澤は実にいいタイミングでパスを投げてくれる。そのおかげで圭一郎は紙一重で威厳を保っていられた。
「わかった。採用しよう」
絶対に逃してはならない。それだけは確かだった。
「ありがとうございます。精一杯努めます」
それにしても桃のこの態度はなんだ。澄まして一礼し、自分のことなど眼中にないような顔をしている。
少し状況に慣れた圭一郎は意地悪をしてやりたくなった。
「君には私の執務室係をしてもらう。ついては住み込みの部屋を与える」
「──いえ、私は通いを希望しております」
急に桃は顔を上げて困惑した表情を見せた。ようやく見せた感情に、圭一郎は少しの高揚を覚える。
「この部屋付きの侍女は住み込みが基本だ。嫌なら帰りなさい」
そんな基本はないし、帰られたら困る。だが、圭一郎は賭けた。桃にはこの屋敷に入る目的がある。それが何かはまだわからないが、主人たる者が下手に出ては今後の主導権がとれない。
過去はどうあれ、今は主人と使用人になるのだから。ここでの桃の身柄は圭一郎のものだ。
「……わかりました。よろしくお願い致します」
桃は少しだけ考えた後、また無表情に戻って恭しく一礼した。
「うん。よろしく頼む」
もう、決して逃がさない。
「では下がりなさい。後は富澤に任せる」
「承知致しました」
そうして富澤は桃を連れて退出していった。
一気に緊張感が解けた。圭一郎は椅子の背に体重を預けて息を吐いた。
桃は何故圭一郎を知らない振りをするのか。
湊家に来た目的は何か。
それはこれからゆっくり聞き出せばいい。桃はこれからずっと手元にいる。
圭一郎は歓びで手が震えていた。
数分して圭一郎の執務室の扉がノックされた。富澤である。
「ああ、入れ」
デスクに座りながら圭一郎は短く返事をする。今、声は震えていなかったか。そればかりが気になった。
「メイド志望の者をお連れしました」
そうしてまず富澤が部屋に入り、その後ろに小さな人影が見えた。
「旦那様の前まで進みなさい」
「はい」
富澤に促された小さな影がゆっくりとこちらに近づいて来る。
「──」
その姿を見た圭一郎は言葉を失った。
兄さま、と呼ぶあの姿が重なっていく。
大きくて黒い瞳も、豊かな黒髪を緩く編んでいる様も、真珠のように白い肌も、十二年前の愛らしい姿がそのまま成長したようで。
桃だ、と思った。
「六条桃と申します。旦那様直々にお目にかかる光栄に預かり恐縮です」
発する声も、あの桃だという事実をより確かにしていた。
「……ッ!」
「旦那様!」
椅子に座っていたのに体勢を崩した圭一郎に慌てて富澤が駆け寄った。動揺が激しく、眩暈がしていた。
「あの、大丈夫ですか?」
目の前の少女は表情を崩さずに言った。感情の見えない声音であった。
「旦那様は大変激務でいらっしゃる。少し寝不足なだけです」
「そうですか」
富澤の説明を受けても抑揚なく返事をした少女の態度だけが、在りし日の桃とはかけ離れていた。
だが、目の前に立っているその姿は間違いなく六条桃であり、圭一郎がこの十二年間懸命に探し続けた人物に相違ない。
「……すまない、ここのところ仕事がたてこんでいてな」
「いえ」
圭一郎はなんとか姿勢を正して、この屋敷の主人らしく振る舞った。それに対する少女の反応も薄かった。
これはどういうことだ?
圭一郎は目の前の少女の態度が理解できなかった。
この少女が六条桃であるならば、なぜこんなに無反応なのだろうか。
以前のような好意を向けてくれるとは思っていない。
湊家を憎んでいるのなら、その怒りをぶつけてくるか、眉を顰めるなりの嫌悪感が出るはずだ。
だが、この少女は圭一郎を目の前にしても、まるで初対面の相手に接するかのようなゼロの状態だった。
「失礼なことを聞くが、君はあの六条家のお身内か?」
回りくどいことこの上ない質問をしてみた。それほどに少女の感情が圭一郎には読めなかった。
「はい。実家は旧華族でした」
意外なほどすんなりと少女は答えた。
「御家族は?」
「父と母がおりましたが、どちらも亡くしました」
それは圭一郎が知っている六条家の顛末と合致する。
「旦那様、履歴書でございます」
富澤が静かに書類を差し出した。簡単な経歴が書いてあったが、学歴を見て圭一郎は驚いた。
「中学と高校は清玲女学院……」
「はい」
そこは良家の令嬢が集う名門校だった。かつての六条家なら可能だが、一家離散してしまった後通うことはあり得ないことだった。
一体桃の身に何が起きていたのか、圭一郎は知りたくてたまらなかった。
「──小学校は?」
当時桃の通っていた小学校はやはり名門の学校だった。その名が出れば記憶と照合できると圭一郎は期待した。
だが、少女は少し怪訝な顔をして答えた。
「就職に小学校の学歴は必要ないと思ったので割愛しました」
「そ、そうか……」
無理に聞いて逃げられてもいけない、圭一郎は詰問したい気持ちを堪えた。
何故桃は自分について言及しないのか、だがこの場で率直に聞くことも憚られた。
こんな動揺した気持ちのままで桃に自分のことを尋ねて、もしもなじられたら正気ではいられなくなる。
「いかがいたしますか、旦那様?」
富澤は実にいいタイミングでパスを投げてくれる。そのおかげで圭一郎は紙一重で威厳を保っていられた。
「わかった。採用しよう」
絶対に逃してはならない。それだけは確かだった。
「ありがとうございます。精一杯努めます」
それにしても桃のこの態度はなんだ。澄まして一礼し、自分のことなど眼中にないような顔をしている。
少し状況に慣れた圭一郎は意地悪をしてやりたくなった。
「君には私の執務室係をしてもらう。ついては住み込みの部屋を与える」
「──いえ、私は通いを希望しております」
急に桃は顔を上げて困惑した表情を見せた。ようやく見せた感情に、圭一郎は少しの高揚を覚える。
「この部屋付きの侍女は住み込みが基本だ。嫌なら帰りなさい」
そんな基本はないし、帰られたら困る。だが、圭一郎は賭けた。桃にはこの屋敷に入る目的がある。それが何かはまだわからないが、主人たる者が下手に出ては今後の主導権がとれない。
過去はどうあれ、今は主人と使用人になるのだから。ここでの桃の身柄は圭一郎のものだ。
「……わかりました。よろしくお願い致します」
桃は少しだけ考えた後、また無表情に戻って恭しく一礼した。
「うん。よろしく頼む」
もう、決して逃がさない。
「では下がりなさい。後は富澤に任せる」
「承知致しました」
そうして富澤は桃を連れて退出していった。
一気に緊張感が解けた。圭一郎は椅子の背に体重を預けて息を吐いた。
桃は何故圭一郎を知らない振りをするのか。
湊家に来た目的は何か。
それはこれからゆっくり聞き出せばいい。桃はこれからずっと手元にいる。
圭一郎は歓びで手が震えていた。