その午後、圭一郎(けいいちろう)は一人で待ち合わせの喫茶店の前に立った。振り返って向かいの床屋を覗いてみると、執事用スーツをビシッと着た大柄の男──富澤が悠々と髭を剃られながら親指を立てていた。
 その姿に軽く頷いて見せた後、ついに圭一郎は喫茶店のドアを開ける。ドアベルの小気味良い音が店内に響いた。

 店員に待ち合わせだと伝えると、奥の席に案内してくれた。
 ヤクザが喫茶店の店員にそんな事を伝えていたことに、圭一郎はまず驚いた。

 そして席に向かった圭一郎はもう一度驚くことになる。

「……!」

 座っていた男は圭一郎の姿を確認すると、ゆっくりと立ち上がって一礼した。
 写真で見た男、貫井(ぬくい)遊馬(あすま)に間違いなかった。

 三揃いのスーツを上品に着こなす姿は写真で見た印象とはまるで違う。今日はサングラスもしていなかった。明るめの茶色い髪には目を引いたが、ビジネスマンらしく七三に分けて固めているのでそこまで気にならない。

「お待ちしておりました、(みなと)社長」

 伏せていた顔を上げれば、涼やかな目元が顕わになり、整った鼻筋と眉毛も清潔感があってどこかの俳優のような風情であった。

「は、初めまして……」

 圭一郎は目の前の美丈夫に目を奪われて棒立ちになってしまった。貫井はそれに微笑んで着席を促す。
 ここまでの二人の行動は(はた)から見ればビジネスマン同士のやり取りそのものであった。名刺交換がないだけで。

 圭一郎は座って貫井と向かい合って、これはやばいと思った。男前過ぎる。実は圭一郎も自分の容姿には少し自信があったのだが、あちらが格上だと思った。年が上なこともそうだし、上品な仕草の裏に隠れる危険な香り。圭一郎には一生かかっても出せないだろう。

「ブレンドでよろしいでしょうか?」

「あっ、はい」

 圭一郎がそぞろに返答すると、貫井は片手を挙げて実にスマートに注文してみせた。喫茶店にもそんなに入らない圭一郎からすれば、貫井の仕草は何もかもが洗練されて見えた。

 すぐに運ばれたコーヒーに、貫井は満足そうに笑ってから切り出した。

「御足労いただきありがとうございます。社長様を呼び出すなどという御無礼、どうかお許しください」

「あっ、はい……いや、気にしないでください。私も伺いたいことがありますから」

 気圧されて返事してしまってから、圭一郎は取り繕って落ち着いて見せた。すでに遅くはあったが、貫井は特にそれを笑ったりもせずに真面目な表情で続けた。

「そうですか。恐らく私からお話することでそちらの疑問もいくつか解消できると思います。よろしいですか?」

「──伺いましょう」

 圭一郎が今度は最初から落ち着いて頷くと、貫井もニコリと笑って話し出した。

「まず……そうですね、そちらの誤解を解いておかなければ」

「誤解?」

「お嬢……いえ、(もも)様のお母上のことです」

 最初からセンシティブな切り出しに、圭一郎は思わず緊張で顔を強張らせる。
 貫井はそんな圭一郎の様子を見て、殊更真面目な顔で言った。

「桃様のお母上は組長(オヤジ)の愛人などではありません。正真正銘、実の娘なのです」

「えっ!?」

 圭一郎は人目も憚らずに大きな声を出してしまった。慌てて咳払いで誤魔化す。

「ン、ンン……何ですって?」

組長(オヤジ)は若い頃、桃様のお祖母様にあたる方と恋に落ちました。ですが、任侠道を行く者と華族のお姫様とではあまりに住む世界が違う。組長(オヤジ)は勿論身を引きました。ですがすでにお腹には御子が宿っていたのです」

「それが桃の母親だと言うのですか?」

「そうです。その後すぐに六条家は婿を取りましたが、出生のタイミングを調べたところ、間違いありません」

「なんと……」

 圭一郎は二の句が告げなかった。桃の母親の汚名は誤解であったが、そこに隠されていた真実もまた罪深い。

組長(オヤジ)は桃様のお祖母様を捨てた後ろめたさと、愛情の深さから独身を貫いています。それは遠い昔の思い出になるはずだった。なのに……」

「偶然、桃の父親がそちらで借金をしたと言う事ですか?」

 圭一郎の問いに黙って頷いた後、貫井は更に続けた。

「桃様のお父上が金を借りたのは私どもの末端の会社でした。トップの組長(オヤジ)がそれを知った時にはもう遅く、六条家は湊からも見捨てられて一家離散してしまっていた」

「……」

「なんとか探し出してお母上と桃様を保護したのはいいが、お母上はすでに重い病で助かる見込みはなかった」

「ああ……」

 圭一郎は突きつけられた事実に打ちのめされた。その時の六条母子の事を思うと、湊は何故何も出来なかったのかと後悔が押し寄せる。

「お気持ちはお察しします」

 肩を落とした圭一郎に、貫井は静かに言った。だが、それは圭一郎の気持ちを逆撫でる。
 お察しします、だと? 何をどう察するというんだ。桃の小さな手を離してしまった俺の気持ちなど、ヤクザ風情にわかるはずがない。

「ですから、桃様……お嬢は間違いなく組長(オヤジ)の孫なのです」

「それで?」

 貫井が、桃の事を再び「お嬢」と呼び戻したのを圭一郎は見逃さなかった。
 刺すように視線を向けると、貫井はそれを意にも介さずに真っ直ぐに圭一郎を見据えて言った。

「お嬢を、組に返してください」