圭一郎が探偵の濱家に追加調査を依頼してから三日後、秘書の山内を通じて調査の報告をしたいと言ってきた。
随分と早いなと圭一郎は思った。まさかもう調査費を飲んで使ってしまったのではないかと不安になったが、とりあえず圭一郎は再びあのオンボロビルに来ていた。
「本当に調査が終わったのか?」
湊家の情報網を使っても碌に得られなかった茨村組の情報を、あんなちゃらんぽらんな男が一週間も経たずに調べられるとは到底思えなかった。圭一郎の不安を当然感じ取っている山内も、微妙な顔をしていた。
「だと思いますけど……」
山内も首を捻りながら探偵社の部屋のドアを開ける。
「おーい、ハマちゃん、社長をお連れしたぞ」
山内は先に部屋の中に書類をかき分けながら入った。以前来た時よりも紙の束が増えているような気がした。
「ああ、どうも。ご苦労さんです」
「うわ! ビックリした!」
どうやら濱家は床で寝ていたようだった。それを踏みそうになって山内は大声をあげる。
「すいませんね、徹夜で報告をまとめていたもんですから」
「そうか。それはご苦労だった」
圭一郎が声をかけると、濱家は目尻に隈を作った顔で頼りなく笑う。
「どうも、社長さん。相変わらずの男前ですな。まあ、どうぞ」
それで圭一郎は前回同様、汚いソファに腰掛ける。濱家はどこかの食堂からかっぱらってきたような腰かけに座った。山内は圭一郎の後ろで控えるように立っていた。濱家の咳払いで、調査報告会が始まる。
「ええと、まずですね……茨村桃さんが茨村雪之助組長の所でお育ちになったのは確かです」
「……随分歯切れの悪い言い方だな?」
圭一郎が聞くと、濱家は少し自信がなさそうに答えた。
「ええ、事実としてはそうなんですが、養子縁組して正式に親族になっているかの確認は取れませんでした」
「なるほど。そこまで気にしてくれていたのか」
「まあ、それは当然です。組の方に聞いたんですがね、桃さんはお孫さん同様の扱いを受けておいでですが、そこに戸籍上の手続きがあったかは誰も知りませんでした」
「そうか……」
「ええ。もっと幹部級の方なら知ってるかもしれませんが、あれくらいの大極道になると幹部に会うのも難しくて。まさか役所に行って調べる訳にもいかんですし」
濱家は頭を掻きながらそう弁解した。それで圭一郎は別方向から尋ねてみる。
「では、桃の母親が、その……茨村組長の情婦になったと言うのは、どうだったんだ?」
「あ、それは間違いないです。組のモンなら誰でも知ってる話だそうですよ。口外禁止事項だそうですが」
「そ、そうなのか……」
あっさり答えられて、圭一郎は少なからず衝撃を受けた。まさか誇り高い華族の婦人がそこまでするとは、相当の苦労があったのだろう。
「濱家! もうちょっと気を使って言えないのか、社長がショックを受けておられるだろう!」
「ええ? ああ、すいませえん」
濱家は悪びれずに首だけすくめた。そしてさらに軽口で続ける。
「ですからね、桃さんは愛人の連れ子であって実の娘ではないでしょ? 娘にしても若すぎるから孫ってことにして引き取ったんじゃないですかね。そんな事情があったらまともに養子縁組は出来ないでしょうなあ」
「ハマちゃあああん!」
山内が真っ赤になって叫ぶが、圭一郎にはそれを気にする余裕はなかった。
もっと早くに探し出していたら、桃の母親はそんな惨めな思いをすることはなかったと悔やむ。
「まあしかし、桃さんの地位は孫そのものですよ。組のモンも『お嬢』って呼んで敬ってました」
「お嬢、か。それで、桃が四代目なんて名乗れるものなのか?」
圭一郎がそう聞くと、濱家は呆れたような顔で一息吐いて答えた。
「まさか。養子縁組もしていない、しかも女の孫が組を継げるワケがない。だいたい血族だから継げるほど極道の世界は甘くないですよ」
「そうなのか?」
「大抵は傘下の有力な組長を次に据えます。茨村組ほど巨大組織になれば尚更でしょうよ、もう時代が違う」
「そういうものか……」
圭一郎がここまで聞いた情報を噛み砕いていると、濱家はただし、と区切って付け加える。
「桃さんが、組の中で見込みのある若頭かなんかと結婚すれば話は別です」
「ええ!?」
突然の話題に、圭一郎はまるで冷水をかけられたような気持ちだった。瞬時に例の名前が脳裏に浮かぶ。
「ご依頼のアスマっていう人物なんですが、貫井遊馬って人のことでしょうな」
「そ、それは、誰なんだ?」
圭一郎の頭から、桃の母親のことなどは一気に吹っ飛んだ。濱家は汚い手帳をめくりながら報告する。
「茨村組の若頭で、33歳の美丈夫です。かなり若いですが実力はすでに幹部をごぼう抜き。組長やお嬢さんの信頼も厚い。彼がお嬢さんと結婚して組を継ぐんじゃないか、なんて噂が出ているそうです」
「……」
「社長! しっかり!」
山内は血相を変えて圭一郎を揺さぶった。だが、圭一郎はまるでミイラのような顔で虚空を見つめている。
「そうするとですね、貫井遊馬が四代目になりますから、桃さんはその妻なんで、まあそういう意味で四代目を名乗ったっちゅーことじゃないですかね?」
「一旦黙れえええ!」
山内の怒号すらも圭一郎には届かない。
圭一郎は、目の前が真っ暗だった。目は開いているのに、何も見えない。こんなことがあるんだなあと、現実逃避した頭で考えた。
「大丈夫だ、桃」
祖父と慕う人の声が聞こえる。
「きっと、全てうまくいく」
そうだね。お爺ちゃまを信じてる。
「だから安心して行きなさい」
大丈夫よ、あたしはやれる。お爺ちゃまのことだってあたしが守る。
大丈夫。大丈夫だから……
何か落ち着かなくて、圭一郎は目覚めた。
朝の光が窓から差していた。ゆっくり起き上がる。とても眩しい。
眩しいけど可愛い。
──可愛い?
「……」
「も、桃!?」
起き抜けにメイド姿の桃を見た圭一郎は、心臓が飛び出すほどに驚いた。
桃は何も言わずに圭一郎を少し睨んでいる。
「な、なな……どど……」
何だ、とか。どうした、とか。そんな簡単な言葉も出ないほど圭一郎は動揺していた。
「……おはようございます」
少し不貞腐れた顔で桃が言う。
「お、おはよう」
圭一郎はやっとそれだけ言えた。
桃が不機嫌に見える。俺は何かしたか?と圭一郎は自問自答した。
だが特に思い至らない。というか、昨日の記憶はあまりない。
探偵から桃の母親がやはり茨村雪之助組長の愛人だったと聞いたことは少なからずショックだった。
しかし、それよりも弩級の衝撃が圭一郎を襲っていたのだ。
桃に、将来を約束した相手がいるかもしれない。
格好つけて「妻になるか」とか言ってる場合じゃなかった。
「昨日は、何か大変なことがあったんですか」
「え?」
桃にそんなことを聞かれて圭一郎は呆然と聞き返す。
「ずうっと上の空で、あたしと目も合わせてくれない。生返事ばっかりでご飯も食べずに寝てしまったし」
「……」
え。どっち?
圭一郎の脳は混乱を極めた。
使用人として主人の健康を心配しているのか。
それとも、構ってもらえなくて拗ねているのか?
「べ、別に、使用人ごときが考えることじゃありませんけど! 失礼しました!」
圭一郎が呆けている隙に、桃は自己完結して寝室を出ていった。
「お、おお……」
あまりの可愛さに、圭一郎は悶絶しながらベッドに倒れこむ。
これって喜んでいいやつ?
とりあえず圭一郎の元気は復活した。
桃の目の前で着替えるのがアレなので、圭一郎は最近寝室にスーツ一式を置くようにした。
寝室で着替えた後、圭一郎が続く執務室の扉を開ける。桃はいつも通り朝食をテーブルに並べていた。
「……旦那様が寝坊されるのでいつもお部屋にお持ちしますけど、たまには食堂にいらしてくださいと富澤さんがおっしゃってました」
桃は手を動かしながら言う。それが新妻のお小言のようで果てしなく可愛かった。
「うん、わかってはいるんだが……」
圭一郎は朝食が並べられた所のソファに腰かけて、桃を見つめて言う。
「朝は桃以外視界に入れたくなくて」
「ば、ばっかじゃないの!?」
照れもせずに言ってのけた圭一郎に、桃は真っ赤になって乱暴にコーヒーを置いた。
そのせいで自分の手にコーヒーが飛び散ってしまう。
「あつ……ッ」
「大丈夫か?」
圭一郎は思わず桃の手を取った。柔らかくて小さい綺麗な手だった。
「急いで冷やしてきなさい」
「だ、大丈夫よ、これくらい」
顔を赤らめながら桃が言うので、圭一郎はじっとその顔を見据えた。
「桃」
「……! わ、わかりましたっ!」
桃はさっと手を引っ込めて、不貞腐れながら洗面台に向かった。水を流す音が聞こえたので圭一郎はほっとしてコーヒーに口をつける。
「申し訳ありませんでした」
「火傷はしていないか?」
「はい……」
ブスったれて返事する様もとても可愛い。やはり朝はこれがないと始まらない。もう圭一郎はそういうおかしい体になってしまっていた。
「ところで桃よ」
朝食を食べ終えた圭一郎は桃にあることを頼もうとしていた。
「なんでしょう?」
「すまないが、昼間のうちにおつかいを頼まれてくれないか」
「部屋から出てもいいんですか!?」
途端に桃は弾んだ声を出した。その様子に圭一郎は複雑な不安を覚える。
だが、我慢しろ。これは必要なことなんだ、と自分に言い聞かせた。
「大叔父に果物を送りたいので、デパートへ行って欲しいんだ。その時、この手紙を添えてくれ」
圭一郎は代金と封をしない手紙を桃に渡した。
「はあ……果物と言いますと?」
「うん。大叔父は果物なら何でも好きだから、旬のものを適当に見繕ってくれ。住所はここだ」
ところで忘れがちだが、桃は産業スパイを名乗っている。まともなスパイなら、こんな無防備な依頼は罠だと勘繰るのが普通だ。
だが、この娘は素直過ぎるというか、少し抜けているので……
「わかりました! おまかせください!」
案の定、とてもいい笑顔で圭一郎の頼みに頷いた。
「よろしく頼む」
本当にアホな子だ、この子は。圭一郎は笑顔の裏で桃の将来を心配する。
こんなに何でも信じてしまう子は、やはり俺が全力で守らないといけない。
「じゃあ、行ってくる」
圭一郎はカバンを持って部屋から出ようと歩き出す。
「行ってらっしゃいませ!」
桃は明るく、意気揚々と見送った。その姿に、ちょっと心が痛い。
圭一郎の思惑通りにいけば、今日の夕方には重大なことがわかる。
それが、今から恐ろしい。
圭一郎は、きっと今日も仕事が手につかないだろうなあと、今から会社に行くのが嫌になった。
夕暮れ前、圭一郎は一人である喫茶店へ向かっていた。まだ終業時間前なのに仕事をさぼって歩いているので、心なしか人目が気になる。尤も誰もそんなことは思っていないのだが、後ろめたいことがある人間は殊更そう思うものである。
店の前で、圭一郎はそっとドアを開けた。ドアベルが鳴る音を極力抑えるためである。そんな事をする客は逆に目立つのだが、今の圭一郎は思考がいっぱいいっぱいでそこまで思い至れない。
不思議な顔をして近づいてくる店員を軽やかに制して、圭一郎は指定された席まで迷わず進んだ。そこにはすでによれよれの背広姿の男が座っていた。
「社長、お疲れさんです」
肩を竦めて前傾姿勢で座るその男は、圭一郎が雇った探偵の濱家だ。圭一郎は彼の前に座って小声で確認する。
「どうだった?」
「バッチリですよ」
言いながら濱家は近くの写真館の封筒をガサガサと音を立てて探る。そして二枚の写真を広げて見せた。
「茨村桃さんは、デパートに向かう途中である男と接触しました、それがこの人です」
示された写真を圭一郎は穴が開くほどに凝視する。そこには路地裏で佇む一人の男が写っていた。白いスーツに黒のシャツ、黒いサングラスで茶色い髪の毛を七三に分けている。
「貫井遊馬です」
その濱家の言葉が、圭一郎の胸に重たく沈んだ。そして次の瞬間を切り取ったような二枚目の写真を見て絶句する。
桃が、手を振って彼に近づく後ろ姿だった。
「……」
またもや圭一郎の顔はミイラの様になっていた。それで濱家は不安になる。
「ええっと……まだ見ます?」
その問いに、圭一郎は突然瞳をギラリと光らせて頷いた。
「当たり前だ。出しなさい」
「では……」
濱家は恐る恐るもう一枚写真を出した。
路地裏の男がサングラスを取って、桃に笑いかけている。とてつもなく、男前だった。
「ねえ? ビックリするくらいハンサムでしょ? 社長さんもかなりですけど、貫井遊馬もタイマンはれまっせ」
「も……」
「も?」
「も、桃の様子は……?」
写真の桃は常に後ろ姿で、その表情が窺い知れない。圭一郎は濱家が見たことを信じるしかない状況にある。
「さすがに会話までは聞こえませんでしたけど、楽しそうでしたよ。久しぶりに彼氏に会ったみたいなはしゃぎ方で」
「……」
圭一郎はまたミイラになった。
「もう、見ない方が……」
濱家が戸惑うが、圭一郎は更に瞳をギラギラと輝かせて言った。
「いいや。全部、出しなさい」
その剣幕に、濱家は震える手で写真数枚の束を取り出す。圭一郎はそれを引ったくって一気に見た。
連続して撮られた写真で、貫井遊馬が何かに気づき、桃の手を引いて路地裏に連れ込んだ所が写っていた。
「こ、これは……?」
圭一郎は写真を持つ手をワナワナと震えさせながら濱家に確認する。濱家は悪びれずに舌を出して答えた。
「いやあ、尾行に気づかれちゃって。さすがに大極道の若頭は違いますなあ、鋭いもんですわ」
濱家の言動は、秘書の山内に入れ知恵されたものであった。だが、圭一郎に寵愛されている山内ならいざ知らず、まだ関係の薄い濱家がやっても効果がないどころか、逆に圭一郎の神経を逆撫でた。
「……何が可笑しい」
氷のようなドス低い声が圭一郎の喉から漏れた。濱家はうっかりチビりそうになった。
「この後、二人はどうした……?」
濱家を睨みながら問う圭一郎の顔は、閻魔様も腰を抜かすほどの恐ろしいものだった。
「いやいや、なんにもあらしませんよ! ボクもすぐに隠れ直したんですけどね、数分と経たないうちに桃さんだけ出てきてデパートに行かはりましたわ!」
「ほう……?」
「ああ……でも、ちょっと髪の毛が乱れてたよう……な?」
プッチーン
突然、店内が停電になった。
「ヒイィ!!」
まさかこの社長は人智を超えるのか、と濱家は思わず悲鳴を上げる。
暗くなった店内で、圭一郎だけが真っ赤に光っているように見えた。
しかし、すぐに店の電気が点いた。店員が数人慌ただしく動いている。
明るくなったところで圭一郎を見れば、またミイラのように放心していた。
「……」
「しゃ、社長さん……大丈夫ですか?」
おずおずと声をかけると、圭一郎はにわかに瞳を白黒させた後、真顔で濱家を見た。
「ああ。とにかく、よくやってくれた。ありがとう」
おお……痩せ我慢している、と濱家は思った。虚勢でも張っていなくては人の形を保てないのだろう。
「これは少ないが取っておいてくれ」
「あ、ありがとうございます」
圭一郎が懐から出した封筒を、濱家は中身も確認せずに受け取って立ち上がった。早く帰りたかった。
「また何かあったら連絡する」
まだあるのかよ、と濱家は内心こりごりだった。山内はよくこんな奇天烈お坊っちゃまについていられるなと尊敬すら覚える。
だが、金払いがいい。そこがとても魅力的だった。
「い、いつでもどうぞ……」
濱家はようやくそれだけ言って、脱兎の如く喫茶店を後にした。
探偵と別れた圭一郎は、会社に戻る気になれずそのまま帰路についた。一応その旨を秘書に電話したら、怒らずにいたわって運転手をよこしてくれた。
圭一郎の落ち込みようは電話からでも伝わったのだろう、秘書がなんと言ったかは知らないが運転手の早川はえびす顔を殊更えびすにして迎えにきてくれた。
「旦那様、自信を持って強く生きるんですよ」
涙ぐみながらそんなことを言われて、一体何を吹き込まれたのか気になったけれども、圭一郎は余計なお喋りはしたくなかった。車内は終始無言のままで屋敷に到着した。
「坊っちゃま、食堂にお越しください」
玄関に入るなり、執事の富澤がその大きな顔をずいと近づけて迫った。もの凄い迫力だった。
「いや……悪いけど食欲が……」
「食堂にお越しください!」
「その前に着替えを……」
「いいえ、お食事が先です!」
いつにない強引さに、拒否する気力もない圭一郎は言われるままに食堂に向かった。
まだ夕食には早い時間だったけれど、食卓がすっかり整えられていた。
圭一郎が座ると給仕の松尾が水を一杯グラスに注ぐ。冷たくてハーブの香りがほのかに漂い、圭一郎は少しリラックスした。
コック長の長田がメインの皿を運ぶ。圭一郎の目の前にはハンバーグと、白米をよそった腕が並べられた。
「うん?」
圭一郎は少しの違和感に首を捻る。ハンバーグは圭一郎の好物だ、長田の作ったものなら尚更。何度も食べたので彼の作るハンバーグがどんなものかは知り尽くしている。
だが、今、目の前にあるハンバーグは何かが違った。ソースなどは同じように見えるが、形が少しいびつで端が少し焦げている。
なんだろう。指摘してもいいのだろうか。
それとも長田は熱でもあるのか。
圭一郎が戸惑っていると、富澤が耳打ちする。
それを聞いて圭一郎は椅子から落ちそうなくらい驚いた。
「桃が作ったァ!?」
「左様でございます」
富澤は澄ましているが、圭一郎は途端に挙動不審になって周りを見回した。
すると厨房の奥、桃がこっそり顔半分だけ出してこちらを窺っているのが見えた。
「……!」
圭一郎の視線を感じて、サッと身を隠した様のなんと可愛いことよ。
桃ぉ……
もしもこの部屋に富澤もコック長や給仕もいなかったら、圭一郎はどうなっていたかわからない。
「さ、坊っちゃま。冷めないうちにお召し上がりください」
「あ、ああ……そうだな!」
圭一郎は箸でハンバーグを切って口に運んだ。
うん、肉が固い。おいしい!
もう一口、食べた。
うん、玉ねぎがシャキシャキする。おいしい!
どこを食べても幸せの味だ。圭一郎は涙を堪えながらあっという間に食べ終える。
「もうないのか?」
するとコック長は困ったような顔で答えた。
「あ、もう材料がございませんので……」
なるほど。数十個作ったうちの、これが奇跡の一個と言うわけだ。
「残念だ。とても美味しかった。いくらでも食べられそうだったのに」
「何よりでございます」
長田は一礼した後皿を下げていった。圭一郎はその背中が向かう先に注目する。
桃はまだ厨房にいるのかな?懸命に首を伸ばして見たけれど、その姿は確認出来なかった。
「坊っちゃま、お部屋にお戻りください」
富澤がゆったりした声で言う。それで圭一郎には全ての察しがついた。
桃は部屋で待っていると言うことだろう。
「わかった。ご馳走様」
そうして圭一郎はスキップ踏んで自室へと戻る。途中の廊下で遭遇した使用人達の奇異な視線をものともせずに。
「もーもぉ!」
圭一郎が喜び勇んでドアを開けると、桃は少し澄ました顔で一礼した。
「お、お帰りなさいませ」
あぶねえ。喜びのあまり距離感がおかしくなる所だった。
圭一郎は急遽ブレーキを踏んで、形だけでも落ち着いて見せた。
「う、うん、ただいま……」
ハンバーグの件はどう伝えたらいいのだろう。圭一郎は躊躇ってしまった。
桃も「私が作ったんです」とか言わないし。さりげなく言った方がいいのだろうか。
「お、お食事は……されたんですか」
見てたくせに! 白々しいな、この子は!
そうか、照れくさいのか。ならさりげなく言う作戦だな、と圭一郎は桃のその一言で全てを悟る。
「うん。食堂で食べてきた。今日は大好物のハンバーグだったんだが残念なことにお代わりできなくてな」
「あ、あう……」
桃は視線をキョロキョロさせていた。なんて可愛い反応。お前がさりげなさを望んだんだぞ。
「是非また食べたいものだ。あんな美味しいハンバーグは初めて食べた」
「そ、それは……ようございました」
桃はこちらに顔を見せずに背広を整えていた。だが耳が真っ赤になっているのが圭一郎にはよく分かった。
今日は最高の日だ。
いや待て。最高の日になるかはこれから次第だ。
「桃」
圭一郎は意を決して桃の背中に語りかけた。
「今日のお使いは、つつがなく済んだか?」
今日の午後、探偵から報告を受けた出来事について、圭一郎は帰宅する前は確認する勇気がなかった。
だが、桃が作ったハンバーグを食べたことにより、奇跡的に圭一郎は気分が高揚していた。もう、この勢いのままに確認するしかない。
「桃、頼んでいたお使いはきちんとやってくれたのか?」
桃がギクリと肩を震わせて無言のまま固まってしまったので、圭一郎はもう一度尋ねた。そうしてようやく貼りついた笑顔の桃が振り返る。
「も、もも、もちろんです。ちゃんとお送りしておきました。あ、領収書です」
桃はエプロンのポケットからデパートの名前の入った領収書を差し出した。少し手が震えている。
「……」
「な、何か?」
「いや。ご苦労だった、ありがとう」
圭一郎はにっこり笑って領収書を受け取る。桃は明らかにほっとした顔をしていた。
「手紙はきちんと同封してくれたか?」
「ええ、もちろんです」
「時候の挨拶はあれで良かったかな?」
「少し早かったのでは? 『入梅の候』だなんて、まだ梅雨入りしていませんよ……あ」
迂闊だ。迂闊過ぎる。どうしてこんなに簡単に引っ掛かるんだ。
失言した桃よりも、圭一郎の方がガックリきてしまった。
「手紙、読んだな?」
圭一郎が軽く睨むふりをすると、桃は開き直って答えた。
「だ、だって封がしてなかったじゃん! あれじゃあ読まれても文句は言えないよ!」
「まあ、それは確かにそうだ」
「このあたしにあんな状態の手紙を渡すなんて読んでくれって言ってるようなもの……って、まさか!?」
ここで桃はようやくハッとして、大きな瞳を更に大きくして圭一郎に言った。
「あ、あれは、あたしをはめる罠……だったの?」
「よく気づいたな、えらいえらい」
「バ、ババ、バカにすんなよ!?」
そうして桃は動揺したままペラペラと白状してしまう。
「道理で手紙に内容がないと思った! 『おじ様お元気ですか、僕は元気です。それではさようなら』なんてナメてんじゃないわよ!」
「よく覚えたな、えらいぞ」
「うるさい! なんの目的があってあんなことを!?」
ようやく本題だ。圭一郎は眼光を鋭くして言った。
「そうやってお前を外に出せば、誰かと接触すると思ってな」
「うっ!」
桃は一歩後ずさったが、圭一郎も同時に踏み込んで桃の右腕を掴んだ。
「お前が会っていた男は誰だ?」
「み、見てたの……!?」
桃は心底驚いた表情をしていた。圭一郎はその様に考えを巡らせる。
茨村雪之助よ、何故こんなぽんこつ娘を送り込んだ。本当に意味がわからない。
やはり、目的は産業スパイではないはずだ。ならば、桃をここに送り込むことこそが奴の目的なのか。
一体、何のために?
「答えろ、あの男はお前の何なんだ?」
考えても出ない答えに苛立った圭一郎は桃に厳しい顔で迫った。
「い、言うもんか!」
だが桃も怯まずに言った。さすがにヤクザに囲まれて暮らせば、圭一郎の睨んだ顔などはぬるいに違いない。
「言わないのなら何をされるか、わかっているな?」
「あ、あたしに何かしたら大叔父様とやらがどうなるかわかんないよ! 住所だって組に伝えてあるんだから!」
「ああ、あの住所は私の腹心の部下のマンションだ。大叔父様があんな所に住んでいる訳ないだろう、サラリーマン向きの集合住宅だぞ」
おそらく明日には、山内に山盛りのフルーツが届く。
「ひ、卑怯!」
桃は懸命に腕を振り解こうとしていたが、それを許す圭一郎ではない。
「全く、身内を人質にとろうとするなんてお前はどんな教育を受けたんだ」
「やだあ! 離してよ!」
不意に、桃の姿の後ろに男の影がちらついた。写真の男、遊馬という男の顔が。
「きゃあっ!」
圭一郎は力任せに桃の腕を引いた。寝室の扉を開ける。
「ああっ!」
それから無慈悲に桃をベッドに沈めて、その上にのしかかる。
「……」
「ちょ、ちょっと待って……ウソでしょ?」
桃の瞳は狼狽に揺れていた。圭一郎は構わず桃の頬に触れた。
「やあ……っ!」
渡さない。
羞恥に紅く染まる柔らかな頬。熱を帯びていく桜色の唇。
「桃……」
圭一郎は自らの襟とネクタイを緩めた。桃はそれを見てますます顔を赤らめて身を捩る。
「桃……」
「あ……うぅ」
両手で顔を包めば、桃の瞳には圭一郎しか映らない。
そうだ、俺だけを見ろ。他の男には渡さない。
圭一郎はここでやっとその決意を強固にし、その唇をとらえた。
「んん……! う……っ」
初めて触れた唇は、とても柔らかくて甘い。吸いつくように、圭一郎の唇とぴったり合った。
「にい……さま」
「そうだよ、桃……」
その瞳が揺れる。懐かしいあの日の姿を探すように。
俺はここだと教えるように、圭一郎はもう一度口付けた。
「お前は……俺のものだ」
もうずっと前から。
君は僕のものなんだ。
圭一郎は語るように桃を抱きしめた。
今は、これ以上は求めないけれど。
今夜だけは俺の腕の中にいて欲しい。
桃を抱いたまま、艶やかな髪に顔を埋める。
暖かい陽射しのような香りの中に、圭一郎はその意識を沈めた。
「……さま」
誰かが俺を呼んでいる。
「……さま!」
桃、か?
「旦那様、……坊っちゃま!」
圭一郎が目を覚ますと、すぐ目の前に執事長の富澤の大きな顔があった。
「──わあぁッ!」
驚きで圭一郎が飛び起きると、富澤の顔とぶつかった。頑丈な額の持ち主である富澤は微動だにせず、圭一郎を睨んでいる。
「イタタ……なんだ?」
まだ寝ぼけている圭一郎に、富澤は顔を更にずいと近づけて低い声で言った。
「坊っちゃま、昨夜何をしたかお分かりですか?」
「え?」
圭一郎は今頭を打ったせいで覚束ない記憶を、呼び起こす。
昨夜は、桃が作った美味なるハンバーグを食べた後、昼間に逢引していた男を問いただして……
「も、桃は? 桃はどうした?」
昨夜抱き締めた姿は何処にもなかった。
慌てる圭一郎の姿に、富澤は深く溜め息を吐きながら言った。
「桃様は先に起こして自室に帰しました。今頃は身支度を整えている頃でしょう。それよりも……」
またジロッと睨む富澤に、圭一郎は慌てて弁解した。
「な、何もしてないぞ!? ちょっと抱き締めたままうたた寝してしまって……」
キスはしたけれど、それ以上の破廉恥行為はしていない。
だが、キスはしたので何もしていないとは言えない。
富澤の剣幕に、圭一郎は少しだけ嘘をついてしまった。
「坊っちゃま、そこにお座りなさい」
「はい……」
圭一郎はベッドの上で正座した。富澤は顔をしかめたままゴホンと咳払いしてから言う。
「いいですか? あの方は六条桃様とは言え、今はただの使用人です」
「はい……」
「坊っちゃま、いえ、旦那様は、昨夜! 抵抗できない使用人の若い娘を! 部屋に連れ込んだんですよっ!?」
何というあけすけな表現! 圭一郎は真っ赤になって反論した。
「いや、だからね、もちろん不可抗力な訳で! 疲れが溜まって、俺は気絶するように寝てしまったから何も──」
「旦那様にそんな度胸がないことは存じ上げておりますッ!!」
富澤も負けじと顔を真っ赤にして怒鳴る。その内容は圭一郎にとっては軽い侮辱だった。もちろん富澤にそんな意図はないが、なんだかガックリくる。
「しかしですね、側から見たらそう取られかねない……いいえ、きっとそう取られるような振る舞いを旦那様は為さったのです!」
「ご、ごめんなさい……」
富澤の正論にぐうの音も出ない圭一郎は素直に謝った。
「今度あんな事為さったら、この富澤が毎晩伽に参りますぞ!」
なんて地獄絵図! 圭一郎は想像する前から失神しそうになった。
「もうしません……」
「よろしい!」
しおしおと謝る圭一郎に、富澤は満足したようにその一言で終わりにした。
それと同時に、部屋をノックする音がして誰かが入ってくる。
「旦那様の朝食をお持ちしました」
メイドの制服をきっちり着直し、髪の毛も整えた桃がワゴンを手に入ってきたのだった。
「桃っ!」
圭一郎は寝室から飛び出してその姿を確認する。
「……」
桃は圭一郎をものすごく可愛く、じゃなくてものすごい形相で睨んでいた。
「えー、あー……」
その雰囲気に飲まれてしまった圭一郎は何を言ったものかと固まってしまった。
そこへ富澤がしれっと冷静な声で言う。
「ご苦労様。支度を続けなさい」
「はい」
桃は圭一郎からあからさまに視線をプイと逸らして、テーブルに朝食を並べ始めた。
怒ってるかな。
怒ってるんだろうな。
怒っててもなんて可愛いんだ。
「旦那様!」
「はいぃ!」
気を抜くと桃の可愛さに腑抜けてしまう圭一郎を、富澤は強めに呼んで諌めた。
「ではわたくしは所用がありますので失礼します」
「あ、ああ、ご苦労だった……」
富澤はツカツカと靴を鳴らしながら部屋を出て行った。
残されたのは気まずい二人だけ。
「どうぞ」
一通り朝食を並べ終えた桃が促すので、圭一郎はとりあえずソファに腰掛ける。
「えーっと……」
圭一郎が所在なげにしていると、桃はコーヒーをカップに注いで出した。
「桃。昨夜は、その、ごめ……」
「謝罪は受けません」
言いかけた圭一郎の言葉を遮って、桃はピシャリと言い放った。それで圭一郎はガックリと肩を落とす。
滅茶苦茶怒ってる!
そりゃそうだ、キスしちゃったもん! 二回!
逆に褒めて欲しいんだけど。あれだけで止まった俺を。
などとは圭一郎は口が裂けても言えず、ただ黙ってコーヒーを飲んだ。いつもより熱くて苦かった。
重い沈黙が流れ続け、圭一郎が動かすフォークの音だけが響いている部屋に、突然大きな音がした。
誰かがすごい力でドアをノックしていたのだ。
「旦那様! 旦那様!!」
ドアの向こうで叫んでいるのは、使用人の松尾の声だった。
桃が向かおうとしたが、嫌な予感がした圭一郎はそれを制して自ら赴きドアを開けた
「どうした」
「旦那様、大変です!」
「何が?」
今朝より大変なことなど今の圭一郎にはない。のんびりと聞く圭一郎と、松尾の慌てふためる様は対極にあった。
「あの! 表門にヤクザ風の男が三人も来ていて! 今早川さんが応対してますけど、なんかもう殺されそうです!!」
「──ええ!?」
涙目の松尾に、圭一郎は思わず疑問符で答えてしまった。意味がわからなかった。
表門にヤクザ風の男が乗り込んできた。
運転手の早川が死にかけている。
そんな報告を聞いた圭一郎は半信半疑ながらも部屋を飛び出した。
桃を中途半端に残していくことに後ろ髪を引かれたが、先導する松尾がとにかく真っ青な顔をしているので仕方なくそれを振り切った。
「旦那様! あれあれ、あそこです!」
松尾が指差す先、門扉の通用口で、早川と男三人が言い合いをしていた。
「まあ、とにかく行ってみよう」
圭一郎が一歩踏み出すと、松尾はそこで止まってブンと頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
「……」
ああ、こいつは来る気がないのか。
圭一郎はちゃっかりした使用人を軽く睨んだものの、向こうで更に大声が聞こえたので一人で門扉まで歩いた。
「ですから、あなた方は何が言いたいんです……?」
「ああ!? オメエ、なめとんのか!?」
早川よりも頭ひとつほど小さい男が、態度だけは横柄に食ってかかっていた。柄シャツにぶかぶかのズボンを履き、見るからにチンピラだ。
「おう、津田ァ、ちゃんとやれや。ただ喚くだけじゃあ、その運転手はビクともせんぞ」
早川を締め上げようとしているが背が足りない津田と呼ばれた男のすぐ後ろで、坊主頭の男が立っている。やはり柄シャツで大きく開襟した胸元には金色の鎖ネックレスが揺れていた。朝から酒でも飲んでいるのか顔がむくんでいる。
「へい、アニキ! だから、社長を呼べって言ってるだろうがあ!」
「とんでもない! 旦那様はあなた方のような人とはお会いになりません!」
早川は焦って涙声でありながらも、毅然と立って三人を突っぱねていた。悲しいかな、二人のチンピラはどちらも小男で、早川の方が身長が高かった。それが早川に余裕を生ませ、強気を保っていられている。
圭一郎は少し歩みを緩めてその場を見守った。おそらくどこかで雇われたチンピラが会社にいちゃもんをつけにきたのだろう。早川が意外な頑張りを見せているので出て行かない方がいいかもしれないと思った。
「どけ、津田。おう、お前ええ度胸しとるのう!?」
「ヒイィ! 口がクサイ!」
坊主頭の方に詰め寄られた早川は即座に悶絶していた。やはり、出て行った方がいいかもしれない。
「早川、すまない。ご苦労だった」
「だ、旦那様!? 何故ここに! いけません!」
慌てる早川の前に出た圭一郎は、チンピラ二人を睨みながら落ち着いて言う。
「私が湊圭一郎だ。なんだ君達は」
とりあえず凄んでみるが上手くいくだろうか。圭一郎は言葉と裏腹にかなり緊張していた。
「アニキぃ! めっちゃ男前ですやん! どうします!?」
「狼狽えるなァ! こんなんウチの若頭に比べたらほんの坊やじゃあ!」
チンピラ二人が騒ぐ言葉を圭一郎は注意深く聞いていた。若頭、と口走ったがまさか……
「山本、津田。その辺にしておけ」
四人の会話に割って入ってくる一人の男。後方で控えていた三人目の男がゆっくりと近づいてきた。
もしや、この男が……
「兄さん」
チンピラ二人は急に大人しくなって、男に道をあけ下がった。やはりこの男が……
「──うん?」
圭一郎の眼前に現れたのは、想像していた人物ではなかった。写真とは似ても似つかぬ姿。金髪をモヒカン風に立てて眼鏡をかけているスーツ姿のその男は、小太りで貫禄のある見た目ではあるが意外と身長が低かった。年齢もだいぶ上に見える。
「どうも。お初にお目にかかります、茨村組の伊達と言います」
「あ、ああ……」
圭一郎は思わず面食らってしまった。生涯の恋敵に会えるのかと身構えていた所に、全く別の人物が現れたからだ。
「どうですか、うちのお嬢の働きぶりは?」
伊達と名乗った男は余裕の笑みを浮かべて世間話でもするように話しかける。開口一番に桃の話をするだなんてどういう了見なのかと圭一郎はその真意を疑った。
「お嬢、とは誰の事です?」
この場に早川がいる以上、迂闊に頷くことは出来なかった。それを聞いた伊達は笑いながらまた言う。
「おやおや、しらばっくれるおつもりで。そちらがハマと繋がってるのはバレてるんですよ?」
──濱家か!
圭一郎は即座に理解した。あの探偵が大胆に調べまくったから組の上層部が動いたんだ、と。
「まあ、あいつも食っていくのが大変でしょうから多少のことには目をつぶってやるんですがね。今回はちょっとよくなかったなあ」
ニヤと笑いながら歯を見せる様は、普通の人が相対したら竦み上がるだろう。だが圭一郎は足を踏み締めて睨み返した。
「だ、旦那様! 私、富澤さんを呼んできます!」
早川が慌てて言うが、圭一郎は首を振って答えた。
「いや。大丈夫だ。けれどお前はここを下がりなさい」
「かしこまりました!」
早川は躊躇せずに走った。圭一郎はああ言ったがおそらく富澤を呼んでくるのだろう。そうなると彼らと話せる時間は限られる。
「用件を伺おう」
圭一郎の短い言葉に、伊達はまたニヤと笑ってメモ書きを差し出した。
「若頭がお会いしたいと仰っています。時間と場所はここに」
「……貫井遊馬か?」
「やはり、ご存知じゃないですか」
「わかった。必ず行く」
ついに直接見えることになるのだと、圭一郎はにわかに緊張した。
「では。おい、帰るぞ」
伊達は満足そうに笑って踵を返す。
「伊達ぇ!」
そこに息石切ってやってきたメイド。桃であった。
「げ、やばい」
ギクリとした伊達とは対照的に、チンピラ二人は桃の姿を見ると嬉しそうに手を振った。
「お嬢だ!」
「おお、お嬢!!」
「津田と山本! お前達、何しに来たの!?」
桃は驚いていたが、少し嬉しそうな顔をみせる。それで本当に桃はヤクザの元にいたのだということを、圭一郎は実感せざるを得なくなった。
「やばい! お前達、とっとと帰るぞ!」
「ええー? せっかくお嬢に会えたのにぃ?」
「お嬢! 少し痩せたんじゃねえですかい?」
桃に群がろうとするチンピラ二人は、圭一郎が立ちはだかり、伊達にも殴られて止まった。
「バカヤロウ! 帰るんだよ!」
「待ってよ、伊達!」
桃が呼び止めても、伊達は子分達を連れてそそくさと去っていった。
「ああ……行っちゃった」
残念そうな桃を見つめながら、圭一郎はわからないように受け取ったメモ紙をそっとポケットにしまった。
ヤクザ者三人が去っていった影を残念そうに見送って、桃は圭一郎に向き直った。ジト目で睨むその顔も可愛くてオツなものであった。
「ねえ! なんで伊達達が来てたの!?」
「さあな……さっぱり要領を得ない内に行ってしまったよ」
その可愛さにニヤけないように細心の注意を払いながら、圭一郎はすっとぼけた。ポケットにしまった呼び出しのメモ書きは桃にはバレていないようだった。
「ウソ! あたしに用があっただろうに、追い返したんでしょ! 可哀想に」
まるで子猫でも慈しむかのような顔を桃はしている。あのおじさん三人を見てどうしてそんな態度が取れるのか、圭一郎には不思議だった。
「まあ、『お嬢は元気ですか』みたいなことは言っていたけど……」
しょげている姿がいじらしいので、圭一郎は当たり障りなく言った。桃はずいと近寄って問いただす。
「他には!? お爺ちゃまのことは!?」
おお、可愛い顔が自ら近づいてきた。圭一郎はまたニヤけそうになるのをぐっと堪えて冷静に答える。
「何も」
「そう……」
肩を落とした桃に圭一郎が手を伸ばしかけたところで、早川が富澤を連れて戻ってきた。
「だ、旦那さまぁー! ご無事ですかー!?」
タイムアップだ。圭一郎は早川に向けて平素な顔で言ってやった。
「問題ない。奴らは帰って行ったよ」
「ああ……さすが旦那様です!」
ほっと安心した早川と違って、富澤の方は息を切らせたまま慌てていた。
「だだ、旦那様! そのヤクザ共はなんと言っていましたか!?」
「え? えーっと、別に何も……?」
富澤の様子はいつになく焦っていた。圭一郎が危険に晒されたと思って狼狽えているのだろう。心配をかけたくはないし、桃の抱える事情を語るにはここは適していないと思った圭一郎はとりあえずしらばっくれた。
「そうですか。旦那様にお怪我がなくて何よりです」
「うん。おそらくどこかの会社がよこしたチンピラだろう。気にするな」
「……かしこまりました」
富澤はそう引き下がったものの、この場に桃がいることに少し不審の目を向けているようだった。
「うん? メイドの君がどうしているんだ?」
そこへ一番何も知らないであろう早川の間抜けな声が上がる。圭一郎はとっさに弁解じみた説明をした。
「ああ、彼女もな、松尾から報告された時にいたんだ。それで心配して駆けつけてくれたんだよな?」
「あ、はい」
桃は久しぶりに澄ました顔で抑揚なく圭一郎の言葉に頷いた。すると早川は少し顔を顰めて説教くさく桃に言う。
「ええ? 女の君が来たところで余計危険でしょうが。こういう時は君が富澤さんに報告すればもっと早く事態を収拾できたのに」
「はあ……」
「あんまりない事とはいえ、そういう機転をきかさなくちゃいけないよ」
「申し訳ありません、軽率でした」
桃が頭を下げたのを見て、早川は満足そうに頷いていた。「教育してやった」というご満悦の顔である。そういう空気に圭一郎はなんだか和んでしまった。
「ああ、いけない。出社の時間だな?」
圭一郎が腕時計を確認しながら言うと、早川も弾かれたように慌てた。
「大変だ! すぐにお車の準備をいたします!」
駆け出した早川の背中を見送ってから、圭一郎は桃に向き直る。
「桃。お前も部屋に戻りなさい」
「はあい……」
早川の目がなくなった途端にまたいつもの調子に戻った桃は、少し落ち込んだ様子で帰っていった。
おい、まだ富澤がいるだろう。本当に迂闊な子だ。
だが丁度いい。圭一郎はここで富澤に桃のあらましを説明しておこうと思った。
「富澤」
「はい」
「桃を日中俺の部屋に閉じ込めている理由なんだが……」
圭一郎はやっと富澤に説明できることに安堵を覚えていた。何しろ桃を部屋に置くことに今までろくな説明をしてこなかったからだ。
婚約者であったとは言え、きっと富澤は不埒な想像をぐっと堪えて従ってくれていたはずだ。昨夜の失態であんなに怒ったのも、今までの鬱憤が溜まっていたに違いない。
桃がヤクザの養女になっていること。産業スパイの真似事をしていることなどを圭一郎は富澤に簡潔に説明した。
「な、なな、なんですと!?」
すると富澤はもちろん大きく驚いた。当然だな、と圭一郎は思った。まるでフィクションのような出来事ばかりだからだ。
「桃様の身の上にそんなことがおありになったとは……!」
桃の母親が茨村雪之助の愛人になっていたことだけはどうしても言えなかった。もう故人になっているし、無闇に広めたくはない。そこだけは圭一郎が自分の胸にしまっておきたかった。
「しかし、何故茨村組は桃様になんの役にも立たないスパイなどさせるのでしょう?」
「うん。そこなんだが、今日わかるかもしれない」
「と、おっしゃいますと?」
これを聞いたら富澤はひっくり返るだろうな。絶対止めるんだろうな。
そんな気持ちで圭一郎の口調は自然と重くなる。
「実は、茨村組の若頭に呼び出された。さっきのチンピラはそれを言いに来たんだ」
「でえええっ!? ぼ、坊っちゃま! まさかお行きになりませんよね!?」
「いや、行く」
「なりません!!」
ほら、やっぱり。
圭一郎はどうやって富澤を説得しようか悩んだが、時間もないので真っ向から言うことにした。
「俺の調べでは、その若頭はかなり切れる男らしい。組長からの信頼も厚いそうだ。そんな人物なら危険はないと思う」
「何をおっしゃってるんですか、ヤクザには変わりないでしょう!? 何をされるかわかりませんよ!」
まあね。そうなるよね。
富澤が「ついてくる」とか言い出す前に、圭一郎は渡されたメモ書きを見せながら言った。
「それでも桃のことなら、出向いて話し合いをしなければ。それに見てくれ、待ち合わせは昼間の二時、場所も中心街の喫茶店だ。あちらが歩み寄ってくれたのだからこちらも誠意を見せなければ」
圭一郎が口にした「誠意」とは、圭一郎一人で赴くという意味だ。富澤にはそれで充分伝わる。
「むむむ……」
富澤は苦悶の表情を浮かべながら何かを考えているようだった。
「わかりました。では、その喫茶店の向かいにある床屋に私はおりますので!」
「……わかった。よろしく頼む」
まあ、そこら辺が妥協点だろう。圭一郎は溜息を吐きながら頷いた。
「じゃあ、とりあえず会社に行ってくる」
「わかりました。二時に床屋でお待ちしております!」
「はいはい……」
いよいよあの男と会い見える。圭一郎は自分に喝を入れようと、拳を強く握り締めた。
その午後、圭一郎は一人で待ち合わせの喫茶店の前に立った。振り返って向かいの床屋を覗いてみると、執事用スーツをビシッと着た大柄の男──富澤が悠々と髭を剃られながら親指を立てていた。
その姿に軽く頷いて見せた後、ついに圭一郎は喫茶店のドアを開ける。ドアベルの小気味良い音が店内に響いた。
店員に待ち合わせだと伝えると、奥の席に案内してくれた。
ヤクザが喫茶店の店員にそんな事を伝えていたことに、圭一郎はまず驚いた。
そして席に向かった圭一郎はもう一度驚くことになる。
「……!」
座っていた男は圭一郎の姿を確認すると、ゆっくりと立ち上がって一礼した。
写真で見た男、貫井遊馬に間違いなかった。
三揃いのスーツを上品に着こなす姿は写真で見た印象とはまるで違う。今日はサングラスもしていなかった。明るめの茶色い髪には目を引いたが、ビジネスマンらしく七三に分けて固めているのでそこまで気にならない。
「お待ちしておりました、湊社長」
伏せていた顔を上げれば、涼やかな目元が顕わになり、整った鼻筋と眉毛も清潔感があってどこかの俳優のような風情であった。
「は、初めまして……」
圭一郎は目の前の美丈夫に目を奪われて棒立ちになってしまった。貫井はそれに微笑んで着席を促す。
ここまでの二人の行動は側から見ればビジネスマン同士のやり取りそのものであった。名刺交換がないだけで。
圭一郎は座って貫井と向かい合って、これはやばいと思った。男前過ぎる。実は圭一郎も自分の容姿には少し自信があったのだが、あちらが格上だと思った。年が上なこともそうだし、上品な仕草の裏に隠れる危険な香り。圭一郎には一生かかっても出せないだろう。
「ブレンドでよろしいでしょうか?」
「あっ、はい」
圭一郎がそぞろに返答すると、貫井は片手を挙げて実にスマートに注文してみせた。喫茶店にもそんなに入らない圭一郎からすれば、貫井の仕草は何もかもが洗練されて見えた。
すぐに運ばれたコーヒーに、貫井は満足そうに笑ってから切り出した。
「御足労いただきありがとうございます。社長様を呼び出すなどという御無礼、どうかお許しください」
「あっ、はい……いや、気にしないでください。私も伺いたいことがありますから」
気圧されて返事してしまってから、圭一郎は取り繕って落ち着いて見せた。すでに遅くはあったが、貫井は特にそれを笑ったりもせずに真面目な表情で続けた。
「そうですか。恐らく私からお話することでそちらの疑問もいくつか解消できると思います。よろしいですか?」
「──伺いましょう」
圭一郎が今度は最初から落ち着いて頷くと、貫井もニコリと笑って話し出した。
「まず……そうですね、そちらの誤解を解いておかなければ」
「誤解?」
「お嬢……いえ、桃様のお母上のことです」
最初からセンシティブな切り出しに、圭一郎は思わず緊張で顔を強張らせる。
貫井はそんな圭一郎の様子を見て、殊更真面目な顔で言った。
「桃様のお母上は組長の愛人などではありません。正真正銘、実の娘なのです」
「えっ!?」
圭一郎は人目も憚らずに大きな声を出してしまった。慌てて咳払いで誤魔化す。
「ン、ンン……何ですって?」
「組長は若い頃、桃様のお祖母様にあたる方と恋に落ちました。ですが、任侠道を行く者と華族のお姫様とではあまりに住む世界が違う。組長は勿論身を引きました。ですがすでにお腹には御子が宿っていたのです」
「それが桃の母親だと言うのですか?」
「そうです。その後すぐに六条家は婿を取りましたが、出生のタイミングを調べたところ、間違いありません」
「なんと……」
圭一郎は二の句が告げなかった。桃の母親の汚名は誤解であったが、そこに隠されていた真実もまた罪深い。
「組長は桃様のお祖母様を捨てた後ろめたさと、愛情の深さから独身を貫いています。それは遠い昔の思い出になるはずだった。なのに……」
「偶然、桃の父親がそちらで借金をしたと言う事ですか?」
圭一郎の問いに黙って頷いた後、貫井は更に続けた。
「桃様のお父上が金を借りたのは私どもの末端の会社でした。トップの組長がそれを知った時にはもう遅く、六条家は湊からも見捨てられて一家離散してしまっていた」
「……」
「なんとか探し出してお母上と桃様を保護したのはいいが、お母上はすでに重い病で助かる見込みはなかった」
「ああ……」
圭一郎は突きつけられた事実に打ちのめされた。その時の六条母子の事を思うと、湊は何故何も出来なかったのかと後悔が押し寄せる。
「お気持ちはお察しします」
肩を落とした圭一郎に、貫井は静かに言った。だが、それは圭一郎の気持ちを逆撫でる。
お察しします、だと? 何をどう察するというんだ。桃の小さな手を離してしまった俺の気持ちなど、ヤクザ風情にわかるはずがない。
「ですから、桃様……お嬢は間違いなく組長の孫なのです」
「それで?」
貫井が、桃の事を再び「お嬢」と呼び戻したのを圭一郎は見逃さなかった。
刺すように視線を向けると、貫井はそれを意にも介さずに真っ直ぐに圭一郎を見据えて言った。
「お嬢を、組に返してください」