元婚約者がメイドになって戻ってきたが俺にどうしろと言うんだ

 六条(ろくじょう)(もも)
 かつての婚約者であり、由緒正しき華族の流れをくむ令嬢。
 だが、再び圭一郎(けいいちろう)の前にメイドとして現れた彼女の名は。
 茨村(しむら)(もも)
 関東一円を取り仕切るヤク……任侠一家の長、茨村(しむら)雪之助(ゆきのすけ)の孫娘であると言う。

 なんだ、それは!
 変わらないのは可愛いことだけか!

 圭一郎の胸中は地団駄踏み鳴らすような状態だったが、桃の手前それは出来なかった。
 大人の男として、落ち着いて包容力のある所を見せねばならない。

「ぷふふ! 驚いて言葉も出ないんでしょ! ざまあないよね!」

 桃は圭一郎がその衝撃から表情をグルグル変えるのが面白いらしく、キャッキャとはしゃいでいた。
 なんだ、無表情で取りすましていたから心配していたが、年齢相応の娘らしい行動をするじゃないか。
 圭一郎は心底安心していた。言葉がちょっと悪い気もするが、まあ可愛いから仕方ない。

 だが、お遊びはここまでだ。

 圭一郎は顔を切り替えてわざと厳しい声音で言った。

「……で? お前の目的はなんだ?」

 すると桃はそんな圭一郎の雰囲気を鋭敏に感じとり、再度怒りを滲ませて答えた。

「湊に復讐するためよ! 何でもいいから企業の秘密を握って組に流せば、後はうちの衆がやってくれる」

「ほう……」

 ザルだな。なんてお粗末な計画だ。いや、計画とすら呼べない。
 だが圭一郎はそれを桃には言わなかった。
 桃のその計画が頓挫してしまえば、また目の前からいなくなる。それは絶対に阻止しなくてはならない。

「うちにはね、不動産とか建築とか、あとえーっと、なんか色々できるヤツらがいんのよ。あたしが資料を持ち帰ったら湊グループは終わりなんだから!」

「桃」

「なに?」

「それを俺に言ってはだめなのでは?」

「あ」

 桃は突然顔を真っ赤にして慌てた。

「ウソウソウソ、今のなし! 何でもないから!」

 圭一郎は開いた口が塞がらなかった。
 おかしいな、こんなにあほな子だっただろうか。やはりヤクザに育てられたのがいけなかったのだろう。

 今、圭一郎の頭の中にあるのはふたつ。 
 桃を湊に差し向けた茨村組の意図。
 なぜ間者ではなく直接桃を送りこんだのか。

 それらを探るためには桃は絶対にここから出すわけにはいかない。
 尤もこんな事態でなくても、圭一郎はすでに桃を手離すことなど考えられない。
 たとえ何と言われても、こんなおてんばな鳥は籠の中に入れておく。でなければ不安で気が狂いそうだ。

「……わかった」

 そうして圭一郎は深い溜め息ととも桃を見据えた。

「今日のことは不問にする」

「いいの!?」

「そしてお前は明日からもメイドとしてここで働きなさい」

「ええ!?」

 桃は怪訝な顔をしていた。目的を知られたから追い出されるとでも思ったのだろう。

 そんなことするものか。絶対に逃がさない。
 圭一郎は昂る様々な感情を隠すために冷ややかな態度で言い放った。

「俺の部屋係もそのままだ。むしろ他の仕事はしなくていい。この部屋をずっと掃除していなさい」

「……軟禁するってこと?」

 ヤクザに育てられただけあって、桃は正しく圭一郎の真意を理解していた。
 だが、圭一郎は少し笑って首を振る。

「まさか、そんな」

「いいの? あたしがこの部屋にいたら、あんたが留守の間に色々調べるよ?」

「できるものならやってみるがいい」

 圭一郎がそう突き放すと桃は少し疑心を持ったようだが、強がって言った。

「や、やってやるんだから!」

「だが私が戻った時に、何か異変があったら……」

「あったら?」

 圭一郎は主君然として厳かに答えた。

「体罰を与える」

「た、体罰!?」

 小娘には少しお灸をすえておこうと、圭一郎はわざとニヤリと笑って言った。

「痛いものではない。先日のような……少し気持ちのよい罰を与えてやろう」

 ここまで言えばあの日の出来事がフラッシュバックする。桃は途端に真っ赤になって騒いだ。

「へ、変態! ロリコン!」

「お前が大人しくしていればいいだけだ」

 だが、桃は更に強がって実に浅はかな事を口走る。

「あんたが気づかないように上手くやればいいんでしょ!」

 桃、それは一番の悪手だ。

 圭一郎は込み上げる笑いを堪えながら、もう一度冷たい視線を投げた。

「それは、楽しみだ」







 翌日、圭一郎(けいいちろう)は会社のデスクで項垂れていた。

「はあ……」

 大袈裟に溜息を吐いたのには理由がある。
 今日一日、通常の仕事を横に置いて茨村(しむら)組のことを調べたのに、ほとんどわからなかったからだ。

「末端の組が多すぎる……」

 さすがに関東一円を取り仕切る巨大裏組織だけあって、湊家系列の子会社との小競り合いや、取引先会社とのトラブルなどはそこそこ出てくるものの、どれも総長の茨村(しむら)雪之助(ゆきのすけ)に届くことはなかった。

 調べがつくトラブルもけちな小金しか動かない、圭一郎にしてみれば日常のやり取りの範疇だ。
 父と違って潔癖な圭一郎は政界から少し距離を置いている。その事が今回に限っては禍いしてもいる。政治家方面から茨村組を辿ることができなくて圭一郎はお手上げ状態だった。

「あー……だめだこりゃ」

 圭一郎ががっくりとデスクに突っ伏していると、ノックの後、秘書の山内(やまうち)が入ってきた。

「社長。……失礼しました。お休みだったので?」

 おずおずとデスクに近づいてくる山内に、圭一郎は突っ伏したまま答える。

「まあな。疲れた……」

 この秘書とは大学時代からの付き合いだ。一学年下で当時から圭一郎を慕ってくれており、身元も実力も充分だったので卒業と同時に圭一郎が直々に入社させた。秘書に上げたのはつい最近だが、気心しれた仲なので圭一郎は快適に仕事が出来ている。

「あれ? 社長! 今日の決裁、全然終わってないじゃないですか! これの処理をおやりになったからお疲れなのではないんですか?」

「うん……ごめん」

「いやいやいや、ごめんで済んだら世話ないでしょうが! これとこれと、あとこれ! せめてこれだけでもお願いしますよ!」

「わかった……」

 ほぼ友人のような態度の秘書に甘えた声で答えてから、圭一郎はのろのろと起き上がって書類を読み始めた。
 その明らかにやる気のない様を見て山内は控えめに尋ねる。

「そんなになるまで今日は何をしてらしたんです? 緊急の案件ですか?」

 秘書が知らない案件など本来はあってはならない。山内は手帳をめくって首を傾げていた。

「うん、ちょっと茨村組のことを調べていてな……」

「ええ!? ど、どど、どうかしたんですか? そそ、そんな大物と直々にトラブルでも……?」

 途端に山内は青くなって狼狽える。

「いや、会社とは関係ないんだ」

 圭一郎が短く答えると、山内はほっと胸を撫で下ろした。

「なあんだ、良かった。──てことは今日一日、仕事そっちのけでプライベートで悩んでたってことですか!?」

 器用に一人ツッコミで山内は圭一郎にずいと詰め寄った。青くなっていた顔が今度は赤くなっている。忙しいやつだ。

「て言うか、良くなくなくないでしょ!? プライベートでも我が社の社長がヤクザとトラブル抱えるなんてっ!」

「いや、その……茨村組と直接トラブルがあった訳ではなくて。孫娘がね……?」

「まごぉ? むすめぇ!?」

「とりあえず、落ち着こうか山内君……」

 秘書の剣幕に、圭一郎はついに洗いざらい説明するはめになった。こういう時、ほぼ友人だと言うことは心強いことだった。多分。



「ははあ……なるほど。例の婚約者が現れてたんですかぁ……」

「うん、そう。ごめんね? 言わないで」

 山内には(もも)の話は学生時代からしている。その度に幼女趣味と揶揄われてもいた。

「それでここ最近は仕事も早いし、帰りも早い。帰る時なんかスキップ踏んでましたもんね、解せました」

「す、スキップなんか踏んでないよ!」

「ああ、お気づきになっていない? それはだいぶやばいですよ」

「ええー……」

 圭一郎は半信半疑だったが、山内にだけ感じ取られていた可能性に賭けた。会社中に気取られていたら恥ずかしくて社長室から出られない。

「なるほど。お話はわかりました。私に提案があります」

「うん?」

 そうして山内はまるで悪巧みでもするように、小声で圭一郎に話しかけた。

「私の知り合いにヤクザくずれの探偵がおります。痛風持ちの憎めないヤツで、そっちにも多少顔がききます。調べさせましょう」

「ほ、本当か! ……でも、なんでそんな知り合いが?」

「社長が潔癖なのは存じ上げております。ですから不肖、このわたくしめが代わりに汚れる覚悟なのでございます」

 山内は恭しく礼をしてイタズラ小僧のように笑った。

「そうか、悪いな。ではよろしく頼む」

「御意!」

 山内が元気よく返事をした瞬間、終業のベルが鳴った。

「じゃあ、そういうことで今日は帰る!」

「えっ!? 社長! 決裁は!」

 圭一郎はそそくさと書類を鞄に詰めて急いで社長室を出た。

「出てますよ、スキップ!」

 遠くなるその声は、圭一郎には聞こえなかった。







 夕方、自宅の屋敷に着く。
 車のドアを開けてくれた運転手の早川(はやかわ)はにこにこ笑っていた。

「お疲れ様でございました、旦那様」

「うん、ありがとう」

「今日は何か大きな商談がまとまったので?」

「いや。何故そう思う?」

 圭一郎が小首を傾げて聞くと、早川は笑顔のままで答えた。

「いつにも増してスキップの足の高さが高かったので」

「!」

 嘘だろ、早川にも見抜かれてるじゃん!
 圭一郎はとにかく恥ずかしくなったが、その感情を押し殺す。友人の山内(やまうち)ならまだしも、使用人には威厳を出さなければならない。

「そうか。あれだ、最近足周りの健康法を教わってな。なにせデスクワークばかりだから」

「ああ。左様でございましたか」

 どうやら誤魔化されてくれたようだ。

「……まあ、そういうことにしておきましょ」

 ──誤魔化されてくれてなかった。

「うむ。ではご苦労!」

 墓穴を掘る前に圭一郎は足早に早川の元を去った。
 そしてそのまま屋敷に入り、迎えてくれた執事長の富澤(とみざわ)への挨拶もそこそこに、自室へと真っ直ぐに向かった。


 

「ただいま」

 部屋に入って数歩の後に、(もも)が圭一郎に向かい合ってお辞儀をしていた。

「お帰りなさいませ、旦那様」

 お辞儀の後に顔を上げたその顔は、明らかに不機嫌で睨みをきかせている。
 どうやらあの冷たいポーカーフェイスはやめたようだ。
 いいぞ、その方が生きている感じがする。

 睨まれているのに喜びを感じているなんて、圭一郎は自分の感情が空恐ろしくなった。

「部屋の掃除は完璧か?」

 カバンをソファに置いて(桃は受け取ってくれなかった)、上着を脱ぎながら圭一郎が聞くと、桃は更に不機嫌な顔で言う。

「……先日磨き上げたばかりですから、特に何もしていません」

「なるほど。サボりか?」

「結果的には」

 悪びれる風もなく答える桃の態度が圭一郎は面白くて仕方ない。やはり、自分は桃が帰ってきた嬉しさでどうかしている。

「それで、今日は何をしていたんだ?」

「日中はここから出られないので、富澤さんに聞いたらこれを仰せつかりました」

 すると桃はソファの影から大量の布と針箱を引き摺り出して見せた。

「旦那様のベッドカバーをこの端切れで作るようにと。手縫いで!」

 最後の「手縫いで」の部分に、桃は憎しみを込めて顔を歪めながら言った。それも圭一郎からすれば小悪魔の微笑みだ。

「そうか。それはいい。さぞ時間がかかるだろう」

 富澤、グッジョブだ。圭一郎は込み上げる笑いを堪えきれない。

「くそ、調子に乗って全部喋らなきゃ良かった……」

 桃、今更気づいても遅いぞ。全く迂闊で可愛い。

 桃がぶつぶつ言う文句も、圭一郎には極上のBGMだ。圭一郎は鼻歌まじりにデスクを確認した。

「うん?」

 すぐに、その違和感を発見した。

「桃」

「な、何でございましょう。旦那様」

「会議資料、見たな?」

 圭一郎は別に責めるつもりで言った訳ではない。むしろ面白がって聞いたのだが、桃はわかりやすく動揺していた。

「ま、まっさかぁ! わたくしごときメイドが主人の重要書類を覗き見るなどある訳ございません!?」

「前科のあるお前に言われてもなあ……」

「だからあ! 見てないってば!」

 あれか? 一度捨てたポーカーフェイスはもう戻らないのか?
 白状しているにも等しい反応に、圭一郎の方も少し困惑した。

「デスクに置いた、この会議資料の入った封筒の上に髪の毛を一本置いておいたのだが、それが無くなっているが?」

「なっ……! そ、それは、あれです。デスクの上を拭いた時に落ちたんでございましょ!?」

「お前は今日掃除をサボったと言わなかったか?」

「うっ!!」

 惜しかったな、桃。圭一郎は勝利を確信して笑みが止まらない。
 そんな圭一郎に、桃は捨て台詞のような負け惜しみを浴びせた。

「ひ、卑怯だ! やり方が陰険だ!」

「産業スパイに言われたくないなあ」

 圭一郎はにこやかに笑いながら桃に近づいた。

「約束は覚えているな?」

「え?」

 桃の片腕をとって、圭一郎は笑顔のまま甘い声で囁いた。

「お仕置きの時間だ」







「え……じょ、冗談でしょ……?」

 (もも)は少し青ざめて後ずさるも、すでに片腕を圭一郎(けいいちろう)に捕らわれているので抵抗は無駄だった。
 圭一郎は捕らえた右腕をぐいと引き寄せて、桃の腰を抱え込む。

「!」

「……悪戯好きの小鳥にはお仕置きがいるだろう?」

「ふぁっ……!」

 耳元で甘く囁いてから、耳たぶを軽く喰む。
 桃は途端に体を強張らせて高い声で鳴いた。

「力を抜け。俺に身を委ねろ」

「だ、誰が……! 冗談じゃないっ!」

 桃の虚勢はあまり意味を為さない。すでに圭一郎にその身を捕らわれてしまっているからだ。

「まったく……こんな野暮ったく結ぶなんて」

 言いながら圭一郎は桃の三つ編みの片方を解いた。艶やかな黒髪がパサリと頬にかかる。

「や……」

 桃は羞恥で身を捩りながら目を逸らす。だが、圭一郎はもちろんそれを許さない。

「俺を見ろ、桃」

「あ……」

 額を押し付けてその瞳を捕える。その頬を手で包めばしっとりと熱を帯び始めているのがわかった。

「うぅ……」

 恥ずかしさから桃が目を閉じてしまった。それは完全に圭一郎を煽る行為に他ならない。

 頬、耳の後ろ、次いで頸を撫で回す圭一郎の指先は、ついに下唇に到達していた。

「あっ……」

 何よりも柔らかいそれは、桃から甘い吐息を吐き出す。その香りに圭一郎は酔いしれていった。

「さて、どうしてやろうか……?」

 親指で桃の下唇を弄ぶ圭一郎は、だんだんとそれが紅く染まっていく様に興奮を覚える。
 何もかも忘れて、この唇を貪ったらどうなるのだろう。そんな衝動に駆られるけれども、目の前の小鳥は酷く震えており、圭一郎はここまでだと思った。

 最後に少しだけ、お前が欲しい。

「んっ……!」

 圭一郎の唇が、桃の口端を僅かに、掠るようになぞった。
 桃はそれだけで体から力をなくして、その場に崩れて膝をつく。

 圭一郎はその腰をゆっくりと支えたまま共に膝を折った。
 そのまま軽く抱き締める。
 だが、少し調子に乗りすぎたようだ。

「離せえ!!」

 桃は渾身の力で圭一郎を突き飛ばした。

「おっ──」

 それで圭一郎は桃から少し離れざるを得なくなる。

「はー、はー……」

 桃は顔を真っ赤に染めて肩で息をしていた。

「どうだった? 初めてのオシオキは」

 圭一郎が揶揄うように聞くと、桃はキッと顔を上げて半べそで叫ぶ。

「変態! ロリコン! ばかばかばかぁ!」

 可愛い三連発をかます桃に、圭一郎は内心悶えながら顔では余裕の笑みを浮かべて言った。

「おいたをしたのは桃だからな。主人として、当然の躾だ」

「しつ……っ!」

 ちょっと言葉が強すぎたかな、と圭一郎は反省した。
 案の定、桃は勢いよく立ち上がって、部屋の隅からモップを持ち出して圭一郎の前で構える。

「がるるる! あたしにこれ以上近づいたらこれで殴るかんな!」

 がるる、ってお前マジで言ってんの?
 ああ、なんだか本当に愛おしい。
 天然に本性を曝け出してくれるのも嬉しくて仕方ない。

「わかったわかった。今日はこれで勘弁してやる。二度とするなよ」

 最初で最後のお仕置きかもしれない、と圭一郎はやり過ぎた自分を責めた。
 桃だってこんな目にあったらさすがに大人しくなるだろう、と思った。
 
 だが。

「次は絶対うまくやるからな!」

 マジか、この子は。
 もっと自分を大事にしろ。

 圭一郎は呆れて口が塞がらなかった。
 桃はこちらをずっと睨んでいる。

「そうか」

 圭一郎は肩で大きく息を吐いてから、わざとニヤリと笑ってみせた。

「楽しみにしている」

 捕らわれていくのは、果たしてどちらなのか──







「あー……」

 今日も圭一郎(けいいちろう)は社長室のデスクでうだうだしていた。

「うー……」

 全然仕事に身が入らない。
 何故なら。
 昨日、この腕に抱いた桃の感触が忘れられないからだ。

 細い腰に、温かい頬。絹糸のような髪とふわふわ柔らかな唇。
 そして、とろけるように甘い吐息……

「おー……」

 健康を持て余す二十八歳には、身を滅ぼす毒にも等しい。
 圭一郎は出社してから、誰の目にも見えないのを良いことに朝から悶えまくっている。

 コンコン

 ノックの音がしてすぐにドアが開く。確かめもせずに入ってくる者など一人しかいない。

「社長、午後からの会議の資料で──」

「へええ……」

「おおい、圭の字ィ!!」

 クラゲのようになっている圭一郎に、秘書の山内(やまうち)から特大の雷が落ちた。



「……まったく、しっかりしてくださいよ。色惚けてる場合じゃないでしょ!?」

「申し訳ない……」

 圭一郎は背筋を正して社長椅子に座り直して謝った。精神的には正座をしている。

「十九の小娘の色香に迷ってどうするんです! これだからロリコンは!」

「だって、可愛いんだもーん」

「……わかりました。不肖、山内、解雇を承知で殴ります。これはただひたすらに忠臣の意であり、私はこの命をもって諫言申し上げるのです!!」

「わかった! ふざけ過ぎました、ごめんなさい! もうしません!」

 圭一郎は慌てて両手を合わせて謝った。それで山内も振り上げた拳を下ろす。

「とまあ、コントはこのくらいにしてですね。社長、業務が終わりましたらお時間をいただけますか?」

「……構わないけど、何だ?」

「『帰りが遅くなるのやだなあ』みたいな顔してもダメですよ」

 白い目で見る山内の言葉に、圭一郎はギクリとした。俺の秘書は鋭すぎやしないか。

「む……。わかった。それで何の用事が?」

 圭一郎は表情を取り繕って、今更無駄な抵抗なのだが、一応社長の威厳を出そうとした。

「は。昨日少しお話した例の探偵、早速お目にかかりたいと申しております」

「そうか、わかった」

「ありがとうございます。それで本来なら向こうから出向くのが礼儀ではありますが、職種が職種なものですから……」

「まあ、確かにそうだ。私の方から訪ねよう」

 ヤクザ崩れの探偵を会社に入れる訳にはいかないし、屋敷に招くことも桃がいるのでできない。圭一郎は威厳たっぷりに頷いた。

「有り難きに存じます。では、終業時刻になりましたらお迎えにあがります。早川(はやかわ)さんには私から伝えておきます」

「わかった。よろしく頼む」

 そうして山内は分厚い会議資料を目の前に積み上げた後、静かに退出していく。

「あ、その資料、読まずに昼食なんかとったら社長のロリコン癖を言いふらしますからね」

 部下にあるまじき脅し文句を残して、山内は社長室を出た。
 圭一郎は大きな溜息を吐いた後、ようやく仕事に取りかかった。今日の昼食は喫茶店からサンドイッチの出前を頼むしかない。



 夕方、圭一郎は山内とともに繁華街へと赴いた。途中で早川の車を降りて裏路地を歩く。
 ジメジメした通りは独特の匂いが充満していて、圭一郎は少し気分が悪くなった。

「ああ、ここです」

 数歩前を歩いていた山内が雑居ビルの前で止まる。そこはバーやスナックが店舗として入っているようだが、嘘のように人気がなかった。

「足元、お気をつけください」

 外階段を登る山内に圭一郎もついていった。ゴミなどがそこかしこに転がっている。圭一郎にはほぼ縁のない光景だった。
 三階の踊り場からビルの中に入る。入ってすぐの部屋のドアを山内が叩いた。半分腐っていそうな木製のドアは鈍い音を立てた。

「ああ、どうも。ようこそいらっしゃいました」

 すぐにドアを開けて背の高い男が顔を出す。彼は山内を見て少し笑った。

「今日は社長をお連れした。早く中に入れなさい」

「ああ、はいはい。そうですね、どうぞどうぞ」

 山内は声を落として圭一郎を部屋へと促す。急いでその背を中へ押し込めて、自分も足早に入りドアを閉めた。

「……」

 中へ入って圭一郎は唖然としてしまった。
 この部屋の住人は掃除というものを知らないのだろうか?
 本やら書類やらが床に散乱している。辛うじて見えているのは机だろうか、それも紙の束で全容がわからない。
 古くてボロボロのソファには、同じようにボロボロの夏掛けがかかっている。きっとここで寝ているのだろう。

「社長、すみません。まさかここまで汚い事務所だとは思いませんで……」

 山内は少し焦っていた。探偵はそれを聞いて慌ててソファの周りだけでも片付けようとする。

「すいませんね、最近仕事がなくってちょっと……」

 探偵はボロボロの夏掛けを取り払って、ソファをポンポンと叩く。するとホコリがわっと舞った。

「ちょっと! ゲホゲホ! 何やってんの、あんた!?」

「すいません、せめて座ってもらおうと思ってぇ」

「社長がそんな汚いところに座るわけないでしょ! いいから──」

「ああ、大丈夫だ」

 喚く山内を制して、圭一郎は躊躇いもなくそのソファに腰掛けた。

「お……」

 探偵は意外そうな目で圭一郎を見ている。その目を見据えて圭一郎は切り出した。

「早速ですまないが、仕事の話をしよう」

「……わかりました」

 探偵は向かい合った木の椅子に腰掛けて、くたくたの背広の内ポケットから少し黄ばんだ名刺を差し出した。

「濱家、といいます。よろしく」

 にっこり笑った顔は、山内同様に信頼がおけそうな雰囲気だった。







 探偵の濱家(はまいえ)は、ヨレヨレにくたびれた革の手帳を取り出してから切り出した。

「ええ……それで、茨村(しむら)組については社長さんはどれくらいご存知で?」

 そう聞かれた圭一郎(けいいちろう)は、少し天井を見てから首を振った。

「特段には何も。ただ裏社会の大物ヤクザとしか」

「なるほどなるほど、まあ真っ当に暮らしている方はそうでしょうなあ」

「おい、失礼だぞ。社長だって茨村組のことは一通りお調べになった。その上でここに来ているんだ」

 圭一郎にだいぶ馴れ馴れしく接する濱家の口調に、秘書の山内(やまうち)が眉を顰めながら口を挟む。
 圭一郎はそんな彼を横目で制しながら言った。

「ああ、いい。探偵と言うからには相手の懐に入る術なんだろう。気軽な方が話が早い」

「はあ。社長がおっしゃるなら……」

 山内が不満な顔のままで引き下がると、濱家はもう少し調子づいて身を乗り出しながら聞いた。

「では、湊グループが調べてもわからない……つまり茨村(しむら)雪之助(ゆきのすけ)のプライベートな情報をお知りになりたいと?」

「そうだが……事前に山内から聞いていないのか?」

「伺ってますよ。単なる確認です。万が一ヤマちゃんと社長の間に認識の違いがあったら困りますからね」

「ヤマちゃん!?」

 濱家が山内をそんな風に呼んでいることに圭一郎は面食らった。驚いて横に立つ山内を見ると人差し指を口元に立てて濱家を睨んでいる。

「ヤマちゃんにはよく酒を奢ってもらうんです」

「ハマちゃん、その辺で!」

「ハマちゃん!?」

 圭一郎は二人の会話になおも驚く。山内とこの探偵はかなり懇意の仲らしい。以前「社長のために泥をかぶります」とかなんとか言っていたが、それを本当に実践しているのか、単にウマが合っているのか。

「いやあ、しかし社長さんは恐ろしく男前ですなあ。ヤマちゃんからロリコンおぼっちゃまって聞いてたんで、どんなキモい社長かと思ってたんですがね」

 濱家がペラペラと調子良く話すのを聞きながら圭一郎は真顔で山内に言う。

「……山内くん」

「なんでございましょう。我が敬愛する圭一郎先輩」

「次に彼と飲む時は、私も誘いたまえ」

「ぎ、御意……」

 山内は少し震えていたけれど、濱家は嬉しそうに笑った。

「マジっすか!? 社長さんが来るならめっちゃ高級な所で飲めるんちゃいます!?」

 関西訛りが出たところを見ると、彼の人懐っこさは筋金入りだろう。山内は声を厳しくして濱家を急かす。

「そんな事より! 茨村組長の孫娘について君が知っていることを言いたまえ!」

「あーはいはい。そうですね、確か茨村(しむら)(もも)さんと言いましたか?」

「ああ。今はそう名乗っているようだ」

 圭一郎は念の為、まだ六条(ろくじょう)の名は出さなかった。目の前の探偵にどこまで話していいか、見極めている最中だったからだ。

「……率直に申し上げますとね、茨村組長に孫娘がいたなんて初耳ですわ」

「ええ!?」

 先に驚いたのは山内の方だった。一方圭一郎はやはり、と思った。十二年調べても見つからなかったのだ、茨村組の方でも桃の存在はひた隠しにしてきたに違いない。

「では、君が知る茨村組長の個人情報を教えてくれるか?」

「いいんですか? 高いですよ」

「構わない」

 圭一郎がそう頷くと、濱家は上機嫌で喋り始める。山内は神妙な顔をしながら頭の中で算盤を弾いた。

「茨村雪之助と言えば第二次関東戦争をたった一人で収めた極道です。その後平定された一円を取り仕切って、茨村組は巨大な組織に膨れ上がっている。今じゃあ総長なんて崇められてますわ」

「……うん、それは知っている。聞きたいのは、茨村雪之助の血縁についてだ」

「ああ、そうでしたねえ。茨村組長個人については、彼はずっと独身です。表向きは」

「と、言うと?」

 圭一郎が聞くと、濱家はさらに饒舌になって話す。

「そりゃあ、関東イチの極道がですよ? 女っけが一切ないんじゃあ困ります。愛人とか隠し子とかそういう噂がいくつもありますね。ですが、どこかに囲ったとか、子どもを引き取ったとかそういう事実が全然出てこない。不思議な極道なんですよ」

「ふむ……」

 この男も大した情報は知らないのかも知れない、と圭一郎がソファに座り直した時、濱家はニヤリ笑って言った。

「ですがね? 十二、三年前ですかねえ、茨村雪之助がある高貴な家柄の未亡人にイレあげてるってな噂がありましてね」

「何!?」

 思わず圭一郎は身を乗り出した。時系列から言っても、桃の母親だと思えたからだ。

「なんだかねえ、その女は病弱だけどドえらい美人でねえ、旦那に逃げられて小さい娘抱えて路頭に迷ってたんですわ。そこを組長が目をつけてモノにしたっちゅー話ですわ」

「……」

 圭一郎は開いた口が塞がらなかった。確かに桃の父親は莫大な借金があった。それを茨村組から借りていたから、湊は六条から手を引いたと圭一郎は考えている。そしてその妻子の末路と言えばお決まりのコースだ、借金元の愛人になるしかない。
 
 だが、誉れ高い六条の婦人が、ヤクザに身を落とすなどそんな事をするだろうか。それならいっそ娘もろとも死を選ぶ方がしっくりくる。

「おおい! 濱家! 桃様のお母上を愚弄する気か! 桃様は社長の婚約者であらせられるぞっ!」

 圭一郎の代わりに、山内が顔を真っ赤にして怒った。だが、濱家はケロッとしている。

「ええ? そんなこと言われても、男と女の話ですからねえ、うっへっへ」

「ハマちゃあああんっ!!」

 山内が沸騰したヤカンのように湯気を出しながら怒るのを他所に、圭一郎はその噂話に実感が持てないでいた。







 「ふう……」

 屋敷の前で圭一郎(けいいちろう)は深呼吸をした。
 なんとなく気疲れてしまった。慣れない街を歩き、あまり接しない職種の人間と話したせいだろう。

 まだ調査前の段階なので、探偵の濱家(はまいえ)から聞ける事には限りがあった。圭一郎は正式に依頼し、濱家には茨村(しむら)雪之助(ゆきのすけ)組長と桃の母親の詳しい事情を探らせることにした。
 加えて、桃が口走った「四代目総長になる」と言うのはどこまで信憑性があるのかも口添えた。

 更に、桃のような小娘を産業スパイに仕立てて送り込んだ真意。一体茨村組に何が起きているのか。
 
 そのような壮大な事情の調査まで依頼された濱家は自信がなさそうな顔をしていた。自分は浮気や探し人ばかりやっているから、と。それでも目の前に大金をちらつかせたら背筋を伸ばして頷いた。その態度には些か不安もあるが、山内の紹介を信用することにした。

 さて、どうなるか……
 薮の中から何が出てくるのか、圭一郎はそれを思うとやはり溜息が出る。

「お帰りなさいませ、旦那様」

 玄関に入ると執事長の富澤(とみざわ)が迎えてくれた。

「ああ、遅くなってすまない」

「すぐにお食事になさいますか?」

 気疲れであまり腹も空いていないが、いつもより遅くなってしまったし、圭一郎が食べないと帰れない使用人もいるので渋々頷いた。

「うん、着替えたら食堂に行く」

「かしこまりました」

 富澤に支度を任せて圭一郎は急ぎ足で自室は向かう。
 こういう気分が滅入っている時は桃を見て解消するしかない。すでに圭一郎が動けるだけの桃成分は枯渇している。




「ただいま」

 圭一郎が部屋のドアを開けると、そこには誰も立っていなかった。
 嘘だろ、なんで桃がいないんだ。まさか逃げたのか。

 圭一郎は少し青ざめて急いで奥に入る。

「も……」

 すると、ソファの上で縫い物を握り締めながら、桃が寝ているのを発見した。
 小さく寝息を立てて、すっかり熟睡しているようだった。横になりながら縫い物をしてそのまま寝てしまったんだろう。

「……!」

 圭一郎はあまりに無防備な光景に悶えた。
 可愛すぎる。そして迂闊すぎる。

 この子は自分が産業スパイをやっている自覚があるのか?
 こんな可愛いのを俺の所に送り込んで茨村組は何がしたいんだ?

「ふう……ぅん」

 桃が少し身じろいだので圭一郎は慌てて自分の口元を押さえた。
 まだ起こしてたまるか、この可愛いのを網膜に焼きつけなくては。

 圭一郎は静かに対面するソファに腰掛けて桃の寝顔をじっくり見つめた。
 なんかもう、全てがどうでも良くなる感覚だった。

 ああ、可愛い
 ああ、可愛い
 ああ、可愛い

 圭一郎の脳内回路がおかしくなり始めた時、桃が寝言を言った。

「お、じい……ちゃま」

 祖父と慕う茨村組長の夢を見ているのか。いじらしい。
 そんな姿を圭一郎が眺めていると、続く寝言で冷水を浴びせられる。

「大丈夫……よ、あすまさんも、いるから……」

 アスマって誰。
 言葉の前後から組の誰かか? すると男か!?

 山内(やまうち)ィイ!!
 心の中でそう叫んだ圭一郎は、すぐさまデスクの電話を使おうとした。

 しかい、思い直してピタッと止まる。桃を起こしてはならない。
 圭一郎はもう一度そっと桃の様子を伺った。

「……」

 可愛らしい寝顔のまま、桃はまだ眠っている。
 圭一郎は音を立てずに歩き、自室を出る。廊下に行くまでの数歩がこんなに遠いとは思わなかった。

「!!」

 ドアを静かに閉めた後、圭一郎は駆け足で屋敷を出ようと試みた。

「ああ、旦那様、食事の支度が……」

 途中で富澤にすれ違ったが、走るのをやめられない圭一郎はそのまま手短に言う。

「すまん! 急用だ! 少し待っていてくれ!」

「はあ……」

 キョトンと首を傾げる富澤を置いて圭一郎は屋敷を出た。確かすぐそこに電話ボックスがあるはずだ。

「おおおっ!」

 言葉にならない嫉妬の叫びとともに、圭一郎は電話ボックスに滑り込む。
 すぐさま山内に電話をかけた。濱家に調査の追加を依頼するためだ。

 だが。

「出ねえっ!」

 何度かけても山内は電話に出なかった。

「クソが!」

 圭一郎は電話の受話器を乱暴に置いて、もらった汚い名刺を取り出した。
 こうなれば直接濱家に頼むしかない。圭一郎は電話のダイヤルが戻るのをもどかしく思いながら、やっとのことで電話をかける。

 だが。

「あいつも出ない!?」

 濱家の事務所も何度かけても出なかった。だが、あの様子では別宅があるとも思えない。

「あいつら、飲み歩いてるなぁあ!!」

 圭一郎は電話ボックスの中で吼えた。幸い密閉空間なので外にはあまり漏れなかった。

「誰だぁ! アスマって男はぁあ!」

 桃の夢に登場できるほど親密なのか。圭一郎は嫉妬に狂って叫びまくった。




 圭一郎が去った部屋。
 桃はまだ眠っている。
 幸せだったあの頃の夢を見ていた。

「にいさま……」

 薄桃色の頬から、一筋の涙が零れた。







 (もも)が寝言で口走った「アスマ」という男の名前。文脈から茨村(しむら)組の誰かだということはわかった。だから早急に、できるなら今日中に、すぐにでも調べたかったのに、肝心の秘書も探偵も捕まらない。
 圭一郎(けいいちろう)は衝動のままに駆け込んだ電話ボックスを後にした。スーツのポケットには余った小銭が空しく揺れる。
 
 足取り重く屋敷に戻り、執事長の富澤(とみざわ)にはやっぱり食欲がないことを伝えた。当然心配されたが、圭一郎は富澤を軽くあしらって部屋へと繋がる廊下を歩く。
 どんな顔をして桃を見ればいい。まだ寝ていたらどうしよう。決定的な寝言を言っていたらどうしよう。

 そんな軟弱な考えに囚われながら圭一郎がトボトボと廊下を歩いていると、自室のドアが音もなく少し開いた。

「?」

 ドアを開けたのは桃だった。小さな顔だけ出して、まず奥を見る。それから首をクルと回して前を見たところで圭一郎と目が合った。

「!」

 すると桃は見るからに「まずい」という顔をしてから、すぐに引っ込んだ。ドアがパタンと閉まる。
 圭一郎はその仕草が終わらないうちに駆け出していた。

 すぐさまドアを開けると、桃はまだ入口付近に立っていた。

「桃!」

 圭一郎が呼ぶと、桃は動揺を隠すように懐かしのポーカーフェイスで姿勢を正して礼をした。

「お、お帰りなさいませ。旦那様」

「……ただいま」

 その顔をされるとどう接していいのかわからない。
 圭一郎が少し困っていると、桃は頭を上げずにスカートをぎゅっと握りしめて何かを堪えているようだった。

「桃?」

「き、今日は……随分と遅いお帰りだったんです、ね」

「……心配してくれたのか?」

 拗ねたような態度を見せる桃に、圭一郎は期待を込めて聞いた。
 すると桃はガバっと顔を上げて真っ赤になって反論する。

「はあ!? そんなこと言ってないし! ただの事実の確認だし!」

 すぐさま崩れるポーカーフェイスのなんと可愛らしいことよ。
 圭一郎は抱きしめたい衝動を抑えるのに全神経を集中させるほどだった。

「ごめんな、今度から遅くなる時はこの部屋に電話をかけよう」

「いりません! 私は使用人なので! ……奥様じゃあるまいし」

 即座に突っぱねた桃が、小声でボソッと言った言葉を圭一郎は逃さなかった。

「なら……妻になるか?」

「──!」

 桃は赤い頬をさらに朱色に染めた。

「なりませんっ!」

 くるりと背を向けて桃は裁縫道具の片付けを始めてしまった。
 だが、耳まで真っ赤になっている。もしかして脈ありなのかな、と圭一郎は少し浮かれた。

「気が変わったらいつでも言いなさい」

「変わりませんっ!」

 性急さは禁物だ。まだ何も解決していない。
 圭一郎はデスクまで行ってから呟いた。

「……まあ、待つのはもう慣れた。今更慌てなどしないよ」

「……」

 桃は聞こえないふりをしていたが、道具を片付ける指が少し震えていた。
 圭一郎はそれまで胸に渦巻いていた嫉妬の感情が薄れていくのを感じていた。

「桃、夕食はとったのか」

「いいえ。ここでずっと留守番していたので」

 棘のある答えが可愛かった。
 圭一郎はやっと空腹を感じ始めていた。

「俺もまだなんだ。支度をして持ってきてくれないか」

「……わかりました」

「二人分」

「え?」

 桃は怪訝な顔で圭一郎を見た。「そんなに食べるの?」と言うような顔だった。
 表情から言いたいことが丸わかりで、圭一郎は楽しくなってしまう。

「一緒に食べよう」

「できません、私は使用人なので」

 圭一郎にはそんな気はとうにないのに、使用人という壁は意外と厄介だ。
 だが、それも使いようである。

「では命令だ。俺と一緒に夕食を食べなさい」

「……かしこまりました」

 桃はジト目で圭一郎を睨んだ後、大股で歩いて部屋を出ていった。
 
 今の顔は初めて見たな。心の桃アルバムに焼き付けよう。寝顔とジト目をコレクションできた。
 圭一郎はそんなことを考えて一人で笑ってしまった。




 五分も経たないうちに、桃がワゴンと共に戻ってきた。

「お待たせしました」

「随分早かったな」

 圭一郎が驚いていると、桃はまたもジト目で見ながらボソリと答える。

「食堂に行ったら、富澤さんがすでにご用意済みで」

「へええ」

 さすが富澤。全てを見透かす男。

「……二人分」

「おお……」

 富澤、それは分かりすぎててちょっと怖い。

「では、いただくとしよう」

「はいはい……」

 桃は観念してテーブルに食事を並べ始めた。
 最初は桃の前で食べることに緊張していたのが嘘のようだ。
 今は向かい合って、会話はないけれど二人で食事ができている。

 その日の夕食は、ここ数年で会心の出来と思えるほどに美味だった。
 翌朝、その感動とともにコック長にボーナスを与えたいと富澤に言ったら、「コック長はいつも通りです。バカな真似はおやめください」と叱られた。







「ふんふふーん」

 秘書の山内(やまうち)は足取り軽く階段を昇った。誰よりも早く出社して、社長室を清掃するのが彼の日課である。
 昨夜は探偵の濱家(はまいえ)圭一郎(けいいちろう)からたっぷりもらった前金で、豪勢に飲み歩いた。
 いつもより高いお酒を沢山飲んだので、隣に座ってくれるお姉ちゃん達がチヤホヤしてくれた。それで山内はご機嫌なのだ。

「さあ、今日も頑張ってお坊っちゃまを操縦するぞぉ!」

 るんるん気分で社長室のドアを開けた山内は、目の前の光景に瞬時に青ざめた。

「遅かったね、山内くん」

「しゃ、社長!?」

 山内はその姿を見てひっくり返った。圭一郎は静かにデスクに座り、両肘を立てて顔の前で手を組んでいる。
 そのため口元が確認できず、圭一郎の鋭い眼光だけが際立っていた。

「き、きょ、今日はお早いんですね……?」

 山内は注意深く言葉を選んで言った。いつもは部下に気を遣って始業ギリギリの時間で出社する圭一郎が一時間以上前に来ているのだ。
 こんなことは山内が入社してから初めてだった。何かある、と思うのは当然のことだった。

「うん、早く山内くんに会いたくてね」

 にっこり笑いながら言う様は、相対するものには恐怖でしかない。しかし、山内は圭一郎に寵愛されている自信があるので愛想笑いを返した。

「そ、そうですかあ? ボクも社長にお会いできて嬉しいなあ、ナッハハハ……」

「──昨夜は、随分とお楽しみだったようだね?」

「ギクぅ!」

 わざわざ言葉に出して言ったのは、山内なりのユーモアだ。目が笑っていない圭一郎を前にしても、ここまでの胆力を見せつけるのは社内では彼だけだ。

「アホな探偵を言いくるめて、俺が払った前金でどんちゃん騒ぎとは……君もなかなかやるなあ」

「さ、さすが先輩、よくおわかりで……」

 最終奥義、後輩の揉み手を出しながら山内は愛想笑いを続けた。

「まあ、そのことは別にいい。君がピンハネしようが、あの探偵(アホ)が仕事さえきちんとやってくれればな」

「は、はは……それはもう」

「ところで、君に頼みがあるんだ」

「おまかせください、社長!!」

 山内は背筋を正して、帽子も被っていないのに敬礼をした。それに圭一郎は満足そうに笑う。

「あの探偵に追加調査の依頼を。アスマ、という男についてだ」

「アスマ……ですか? 誰です?」

「それがわからないから調べて欲しいんだが?」

 圭一郎が軽く睨むと山内は身を竦めて返事する。

「ごもっともでございます! ……して、そのアスマと言うのはどうやってお知りになったので?」

「うん、それが……(もも)が、寝言で……な?」

「寝言ぉ……!?」

 山内は途端に顔を赤らめて叫んだ。

「ね、ねね、寝たんですか、社長!? ままま、まだ調べも進んでないのに、我慢出来なかったんですか!?」

「違う! 違うぞ! そんなこと出来るワケないだろ!」

 山内の勘違いに圭一郎は慌てて狼狽え、もの凄い想像をして、山内より顔を赤くして否定した。

「居眠りをしてたんだ! 桃が! そうしたら寝言でアスマって口走ったんだよ!」

「ええ……?」

 山内は半信半疑の眼差しを向けた。

「信じて、お願い! 山内くん!」

 何故か立場がすっかり逆になってしまった。圭一郎は気を取り直して冷静に説明しようと試みる。

「と、とにかくだ。アスマという男を探って欲しい。早急にだ!」

「ちょ、ちょっと待ってください、社長。それ、ほんとに人名ですか? 『明日またね』とかじゃないんですか?」

 山内の切り返しは見事だった。彼の有能さを改めて確認できて圭一郎は満足だったが、しかし首を振って付け足す。

「いや、桃ははっきり言ったんだ。『大丈夫よ、お爺ちゃま。アスマさんもいるから』とな」

「なるほど……確かにそれなら人の名前なんでしょう」

「だろう?」

 圭一郎はほっとしたが、山内の目がギラリと光った。

「ですがそれだけでは男であるとは限らないのでは?」

「ええっ!? だって組長の夢を見てるんだぞ? 組には男ばかりのはずだろう?」

 圭一郎がそう言うと、山内は腕を組んでまるで探偵のような口ぶりで話す。

「……まあ、私も八割がた男性だとは思いますが。社長は既に嫉妬で思考が曇っておいでのようですからなあ」

「うっ!」

 山内の言う事は的を射ていた。しかし圭一郎は直感しているのだ。あの時、アスマと呼んだ桃の顔。あれは男に向ける顔だった。

「いいでしょう。ではアスマという『人物』を濱家に探らせます。それでよろしいですね?」

「あ、ああ。もちろん。よろしく頼む」

「かしこまりました」

 恭しく礼をしながらも、山内は右手をぴらぴらと差し出した。

「うん?」

「私も手ぶらでは頼み辛いですからぁ……」

「ああ、うん。それはもちろんだ」

 圭一郎は用意しておいた追加料金を入れた封筒を山内に渡した。

「ははー! おまかせください、早速行って参ります!」

「……もう飲むなよ?」

「あははー! 当たり前じゃないですか! 一、二枚抜いとこうとかする訳ないじゃないですか!」

 こういう要領のいい所が彼の有能さのひとつではある。圭一郎としてはそれでも別に構わなかった、と言うかそれを見越して多めには入れてある。

「何でもいい。俺は結果が出れば満足だ」

「さすが社長! 太っ腹、よっ、社長!」

 山内は殊更におどけて社長室を飛び出して行った。

「いつでも部下を呼び出せるベルとかないかなあ……」

 圭一郎のそんな呟きが、後に一大センセーションを巻き起こす道具の発明に繋がるのだが、それはここでは関係ない。