ひとりになった勝川(かつかわ)さんの奥さまは、カウンタ席に移動した。龍平(りゅうへい)くんがソファ席を手早く片付ける。食器は空になったら適宜下げていたので、後は僅かだ。天狗舞山廃(てんぐまいやまはい)の熱燗も飲み干されていた。

 世都(せと)は新しいおしぼりを奥さまに用意する。

「ありがとうございます。次何飲もかな〜。神亀(しんかめ)興味あるなぁ〜。天狗舞も美味しかったけど」

「熱燗好きな方には、神亀おすすめですよ。飲んでみはります?」

「そうしてみます。初めてのお酒楽しみです。あと、なんか摘むもんあった方がええですよね。ええと……」

 奥さまはおしながきに手を伸ばした。

「チーズは食べたもんなぁ」

「それやったら、日替わりのお惣菜からはどうですか? ボードに貼ってあるんですよ」

 世都が手で示すと、奥さまはそちらに視線をやって、「あらっ」と目を丸くした。

 今日のお惣菜は、白菜のコールスロー、(かぶ)の塩昆布漬け、難波(なんば)ねぎのごま炒め、蓮根のマスタード炒め、もやしの海苔(のり)和えである。

「あ、難波ねぎがある! 難波ねぎください」

「はい。お待ちくださいね」

 世都は新たに出した蓋付きちろりに神亀を入れてお湯に沈めたら、小鉢に難波ねぎのごま炒めを盛り付ける。

 難波ねぎはなにわ伝統野菜のひとつである。かつて原産国である中国などから大阪にねぎが入って来て栽培が始まり、その地が難波だったことで難波ねぎの名が付けられた。京都府の九条(くじょう)ねぎや埼玉県の千住(せんじゅ)ねぎは難波ねぎの種子が伝わったものとされ、難波ねぎは日本のねぎのルーツとも言えるのだ。

 当初は難波で作られていたわけだが、収穫や加工の難しさ、扱いやすい一般的な青ねぎが広く流通した背景から一時期その姿を消したのだが、松原(まつばら)市の生産者さんが難波ねぎの味を伝えようと立ち上がったのだ。なので現在は松原市で育てられている。

 太くて肉厚でとろみが強く、火を通せばぐっと甘みを増す。収穫時期は11月から4月中旬ごろで、最も甘くなるのは3月と言われている。そんな難波ねぎは北摂(ほくせつ)地域では貴重品だ。商店街のいつもの八百屋(やおや)さんで見付けた世都は即座に飛び付いた。

 ごま炒めはざく切りにした難波ねぎをごま油で炒め、しんなりしたところで味付けは日本酒とみりんとお醤油。白すりごまをたっぷりと混ぜ込み、仕上げにごま油を落とした。

 難波ねぎのとろりとした甘さと白ごまの香ばしさが程よく調和して、味わい深い一品になるのだ。

 神亀が程よく温まり、ちろりを引き上げて水滴を拭う。ぐい飲みを添え、まずは提供する。続けてごま炒めも出した。

「お待たせしました」

「ありがとうございます。難波ねぎ嬉しい〜」

 奥さまはこちらまで嬉しくなる様な笑顔で、ごま炒めを口に運び、満足そうに頬を和ませた。神亀もぐい飲みに注いでこくりと口に含み、「ん!」と目を見開いた。

「美味しい! 神亀、美味しいですねぇ! ふっくらしてて、お米の味って言うんでしょうか、甘くて」

「冷やの状態の神亀、少し飲んでみます? 比べてみたらおもしろいですよ」

 世都はガラス製のおちょこに、常温の神亀をそろりと注いで奥さまに出した。

「ありがとうございます」

 奥さまはさっそくおちょこに手を伸ばす。口を付けて「ん」と目を丸くした。

「甘みがあんま感じられんっちゅうか、酸味が強め? へぇ、これがお燗にしたら、こんなに風味が上がるんや。おもしろいですねぇ」

「でしょう?」

 奥さまは楽しそうに「ふふ」と微笑む。

「ごま炒めもめっちゃ美味しいし。私、出身が松原なんですよ。やので、時季になったらスーパーにも難波ねぎが並ぶんです。普通のねぎより食べ応えがあって好きやったんですけど、結婚して岡町(おかまち)に来たら売ってへんで残念で」

「そうですね。うちは仕入れを八百屋さんでさしてもろてるんですけど、見付けたときは奇跡やと思いましたよ。即買いでしたねぇ」

「あ、もしかして、商店街の入り口のとこですか?」

「そうです。あっこ、珍しいお野菜とかもあって、ほんまに楽しいお店なんですよねぇ」

 岡町商店街の入り口、向かって右側の八百屋さんで世都はいつも仕入れをしているのだが、こちらは大阪出身在住の現役芸人さんが経営しているのだ。本人も店頭に立つことがある。そのためか、時折テレビカメラが来ていたりする。

 一般的なお野菜や果物はもちろん、今回購入した難波ねぎの様な、一般のスーパーでは珍しいものがあったりする。まるで宝探しの気分になれるのだ。

「どうしてもスーパーが便利やから、そこで買い物全部済ませてしまうんですけど、たまには覗いてみるんもええかも知れませんね。散歩がてらででも」

「ええですねぇ。ココナちゃんと一緒やったら、きっと楽しいんちゃいます? 果物もあるから喜ばはるかも」

「ココナと」

 すると、それまで(ほが)らかだった奥さまの目が、ゆらりと不安げに揺れた。