ペタンペタンと、上履きの踵を引きずる気の抜けた足音が遠ざかっていく。
恐らくは、稲次浩太が男子トイレを確認しに行った音だろう。
なら次はこちらへ来る。
どこに隠れればいいんだろう。
個室……はダメ。
扉を閉めれば居ると教えているようなものだし、かといって開け放っていれば意味はない。
掃除用具入れは閉っているが、建付けが悪くて開ければギィギィと音がする。
私にできることは、扉の陰に隠れて中に入ってこないよう祈るだけだった。
「居ねえな。そっちは?」
「問題ないよ」
夜見坂くんにとっては問題なくても私にとっては大ありだ。
さっき、夜見坂くんは稲次浩太に見られないように私をトイレに突き飛ばしてくれた。
これは私を隠そうとしてくれたのか――。
いや、私があの場に居れば、稲次浩太は殺人を認めなかっただろう。
夜見坂くんのことだから、稲次浩太に罪を認めさせ、それを私に聞かせたかっただけかもしれない。
もしかしたらこのまま私の存在がバレて、殺されるのを望んでいるのかもしれなかった。
「見てねえじゃねえか」
私の祈りも虚しく、ペタンペタンと音を立てながら稲次浩太が近づいて来る。
お願いします、気付かないで。
お願いだからっ。
必死に祈りながら気配を殺す。
呼吸をできる限り遅くして、タイルの壁に体を押し付けた。
「さて」
背中にわずかな揺れが伝わって来る。
きっと、稲次浩太が壁に手を置いたのだ。
おそるおそる視線をズラす、彼の指先がドアと壁の隙間から顔を覗かせている。
その距離、わずか十数センチ。
吐息すら届いてしまうかもしれないほどの至近距離に、稲次浩太が、宮苗瑠璃を手にかけた殺人犯が――居た。
「んあ~?」
彼の一挙手一投足に、体が震えそうになる。
全身に力を入れて身震いひとつ起こらないように固くなり、歯を食いしばって悲鳴をかみ殺す。
両手で口を覆い、鼻をつまんで息すらも止める。
今、なにか音を立てて気づかれでもしたら、一巻の終わりなのだから。
――苦しい。
どれだけの時間こうしていればいいのだろうか。
分からない。
今、何分経ったのだろうか。
どうして何もしないのだろう。
そんな疑問が頭の中で渦を巻く。
時計代わりの鼓動の回数を、もう数えていられなくなった時、稲次浩太が「ああ」と頷いた。
「そっかそっか、小便用がないから違和感あったんだな」
「……君はトイレよりも使う人に興味があるタイプじゃないの?」
「便器に興奮する奴は……居ねえとまでは言わねえけど少数だろ。俺は興奮してねえよ」
ちょっと気になっただけだ、と言い捨てると私の視界から稲次浩太の指先が消えてなくなる。
どうやら入り口から中を確認するだけで十分だと考えたらしい。
……よかった、助かった。
ほっと胸を撫でおろし、そっと口から手を放す。
息を吐き出す前に大きく口を開いて、ゆっくり、静かに呼吸を始める。
新鮮な空気が喉を通っていくとき、わずかに震えが起きてしまったが、鼓膜に届くほどの音が出ることはなかった。
「んで、なんだって?」
稲次浩太は緊張感のない物音を立てながら離れていく。
極度の緊張から解放され、思わず目じりに涙が浮かんでしまった。
「君にして欲しいことだよ」
「それは分かってんよ。面白いものが見れそうだし、いくらでもやってやる」
稲次浩太がキシシッと意地の悪い笑い声を漏らす。
だがそれは、私にとって災厄の始まりを告げる鐘の音だった。
「……はやく。行くよ」
話し終わった夜見坂くんが、首だけをトイレの入り口から伸ばして囁きかけてくる。
稲次浩太は用を足していて見えないはずだ。
逃げるには今しかないのだが、夜見坂くんに呼ばれたことで不安になる。
もっとも、拒絶するなんてあり得ないのだけれど。
私は足音を忍ばせ、出来る限り早くトイレを出る。
1年2組の全員が静かに自習をしている教室の前を横切ると、夜見坂くんは何故か、その隣にある空き教室――普段は3年生が使っている――の前で立ち止まった。
「不思議だと思わなかった?」
「な、なにが?」
「おしっこ」
「え?」
夜見坂くんの言っていることは、私には理解できない。
また騙されてしまうかもしれないから、理解しない方がいいのかもしれないのだが。
「宮苗瑠璃が失禁してたことだよ。不思議じゃない?」
絞首刑になったら、筋肉が緩んで失禁するとかいう話は本で読んだことがある。
首を絞められて殺されたとしたら、別に不思議じゃないだろう。
そのことを夜見坂くんに告げると、彼は分かってないなぁとばかりに首を左右に振った。
「それはドラマなんかの俗説だよ。まあ、若い男性が絞首刑にされた時に射精しちゃうらしいけど、宮苗瑠璃は女の子だからね」
「だ、だったらなんで……」
「死んで筋肉が緩むまでは正解。そこから尿が漏れるには、腹部の圧迫が必要なんだよ。つまり……」
宮苗瑠璃は、殺された後に腹部を圧迫された。
……なんで?
「僕は終わった後に見ただけだからね。推測混じりになるけど、だいたい当たってると思うよ」
あ、今度こそ本当だから、なんて付け加えてから夜見坂くんは事件のことを語り始める。
宮苗瑠璃は、夜見坂くんから湯川大陽の浮気について話を聞かされた。
それで腹を立てた宮苗瑠璃が湯川大陽と中水美衣奈を電話で呼び出したのだが、ふたりは何時まで経っても姿を現さない。
イラついていた宮苗瑠璃が、ちょうど教室にやって来た稲次浩太へ罵声を浴びせると、稲次浩太は持ち前の短気を発揮する。
宮苗瑠璃に迫り、襟首を掴んで無理やり黙らせようとしたのだ。
しかし宮苗瑠璃は虫の居所が悪く、人間の急所である首の近くを掴まれているというのに暴れてしまう。
その結果、ふたりはバランスを崩して転倒。
宮苗瑠璃は、後頭部を強く机に打ち付けてしまった。
「机に頭が当たっているのに、首から下には稲次浩太の全体重がかかってしまったんだよ。そうなるとどうなるか」
夜見坂くんは自分の首に手を当てて、コキッなんて擬音を口にする。
「首の骨が折れたんだよ。脊髄損傷ってやつだね」
首の骨が折れたとしても、即死はしなかったかもしれない。
でも、脳という司令塔から筋肉への命令は一気に切断されてしまう。
ちょうど、コードを引っこ抜いた機械のような感じだ。
その状態で稲次浩太がのしかかったとしたらどうなるか。
腹部が圧迫され、中身が押し出されてしまうだろう。
吉川線――抵抗の際にできるひっかき傷が無かったのもそれで納得がいく。
「あとは絞殺だとチアノーゼが起きて唇が紫色になるとかあるんだけどねー。僕たちは知らないことが多すぎるんだよ」
全ては偶然から始まった。
たまたま稲次浩太が宮苗瑠璃を殺害してしまったのを、夜見坂くんが言葉巧みに関係のないことを意味ありげに語ってみせ、全てをぐちゃぐちゃにひっかき回したのだ。
その結果、湯川大陽という新たな犠牲者が生まれた。
これからも犠牲者は増えるだろう。
私に向かって殺意を向けた中水美衣奈が居る。
湯川大陽を殺した上良栄治が居る。
宮苗瑠璃を殺しても悪びれない稲次浩太が居る。
きっと、まだまだ死ぬ。
この学校という閉じた世界が壊れるまで。
「あー、いけないんだー」
夜見坂くんがあからさまな棒読み口調で私を非難する。
でも言葉の内容と違い、その口元はほころんでいた。
「そんな顔しちゃいけないんだよー」
「え?」
言われて私は自分の口元へと手を伸ばした。
そして、気付く。
口の端が少しだけ持ち上がっていることに。
「人の不幸を笑うなんて、君も人でなしの仲間入りだね」
私も夜見坂くんと同じように、嗤っていた
恐らくは、稲次浩太が男子トイレを確認しに行った音だろう。
なら次はこちらへ来る。
どこに隠れればいいんだろう。
個室……はダメ。
扉を閉めれば居ると教えているようなものだし、かといって開け放っていれば意味はない。
掃除用具入れは閉っているが、建付けが悪くて開ければギィギィと音がする。
私にできることは、扉の陰に隠れて中に入ってこないよう祈るだけだった。
「居ねえな。そっちは?」
「問題ないよ」
夜見坂くんにとっては問題なくても私にとっては大ありだ。
さっき、夜見坂くんは稲次浩太に見られないように私をトイレに突き飛ばしてくれた。
これは私を隠そうとしてくれたのか――。
いや、私があの場に居れば、稲次浩太は殺人を認めなかっただろう。
夜見坂くんのことだから、稲次浩太に罪を認めさせ、それを私に聞かせたかっただけかもしれない。
もしかしたらこのまま私の存在がバレて、殺されるのを望んでいるのかもしれなかった。
「見てねえじゃねえか」
私の祈りも虚しく、ペタンペタンと音を立てながら稲次浩太が近づいて来る。
お願いします、気付かないで。
お願いだからっ。
必死に祈りながら気配を殺す。
呼吸をできる限り遅くして、タイルの壁に体を押し付けた。
「さて」
背中にわずかな揺れが伝わって来る。
きっと、稲次浩太が壁に手を置いたのだ。
おそるおそる視線をズラす、彼の指先がドアと壁の隙間から顔を覗かせている。
その距離、わずか十数センチ。
吐息すら届いてしまうかもしれないほどの至近距離に、稲次浩太が、宮苗瑠璃を手にかけた殺人犯が――居た。
「んあ~?」
彼の一挙手一投足に、体が震えそうになる。
全身に力を入れて身震いひとつ起こらないように固くなり、歯を食いしばって悲鳴をかみ殺す。
両手で口を覆い、鼻をつまんで息すらも止める。
今、なにか音を立てて気づかれでもしたら、一巻の終わりなのだから。
――苦しい。
どれだけの時間こうしていればいいのだろうか。
分からない。
今、何分経ったのだろうか。
どうして何もしないのだろう。
そんな疑問が頭の中で渦を巻く。
時計代わりの鼓動の回数を、もう数えていられなくなった時、稲次浩太が「ああ」と頷いた。
「そっかそっか、小便用がないから違和感あったんだな」
「……君はトイレよりも使う人に興味があるタイプじゃないの?」
「便器に興奮する奴は……居ねえとまでは言わねえけど少数だろ。俺は興奮してねえよ」
ちょっと気になっただけだ、と言い捨てると私の視界から稲次浩太の指先が消えてなくなる。
どうやら入り口から中を確認するだけで十分だと考えたらしい。
……よかった、助かった。
ほっと胸を撫でおろし、そっと口から手を放す。
息を吐き出す前に大きく口を開いて、ゆっくり、静かに呼吸を始める。
新鮮な空気が喉を通っていくとき、わずかに震えが起きてしまったが、鼓膜に届くほどの音が出ることはなかった。
「んで、なんだって?」
稲次浩太は緊張感のない物音を立てながら離れていく。
極度の緊張から解放され、思わず目じりに涙が浮かんでしまった。
「君にして欲しいことだよ」
「それは分かってんよ。面白いものが見れそうだし、いくらでもやってやる」
稲次浩太がキシシッと意地の悪い笑い声を漏らす。
だがそれは、私にとって災厄の始まりを告げる鐘の音だった。
「……はやく。行くよ」
話し終わった夜見坂くんが、首だけをトイレの入り口から伸ばして囁きかけてくる。
稲次浩太は用を足していて見えないはずだ。
逃げるには今しかないのだが、夜見坂くんに呼ばれたことで不安になる。
もっとも、拒絶するなんてあり得ないのだけれど。
私は足音を忍ばせ、出来る限り早くトイレを出る。
1年2組の全員が静かに自習をしている教室の前を横切ると、夜見坂くんは何故か、その隣にある空き教室――普段は3年生が使っている――の前で立ち止まった。
「不思議だと思わなかった?」
「な、なにが?」
「おしっこ」
「え?」
夜見坂くんの言っていることは、私には理解できない。
また騙されてしまうかもしれないから、理解しない方がいいのかもしれないのだが。
「宮苗瑠璃が失禁してたことだよ。不思議じゃない?」
絞首刑になったら、筋肉が緩んで失禁するとかいう話は本で読んだことがある。
首を絞められて殺されたとしたら、別に不思議じゃないだろう。
そのことを夜見坂くんに告げると、彼は分かってないなぁとばかりに首を左右に振った。
「それはドラマなんかの俗説だよ。まあ、若い男性が絞首刑にされた時に射精しちゃうらしいけど、宮苗瑠璃は女の子だからね」
「だ、だったらなんで……」
「死んで筋肉が緩むまでは正解。そこから尿が漏れるには、腹部の圧迫が必要なんだよ。つまり……」
宮苗瑠璃は、殺された後に腹部を圧迫された。
……なんで?
「僕は終わった後に見ただけだからね。推測混じりになるけど、だいたい当たってると思うよ」
あ、今度こそ本当だから、なんて付け加えてから夜見坂くんは事件のことを語り始める。
宮苗瑠璃は、夜見坂くんから湯川大陽の浮気について話を聞かされた。
それで腹を立てた宮苗瑠璃が湯川大陽と中水美衣奈を電話で呼び出したのだが、ふたりは何時まで経っても姿を現さない。
イラついていた宮苗瑠璃が、ちょうど教室にやって来た稲次浩太へ罵声を浴びせると、稲次浩太は持ち前の短気を発揮する。
宮苗瑠璃に迫り、襟首を掴んで無理やり黙らせようとしたのだ。
しかし宮苗瑠璃は虫の居所が悪く、人間の急所である首の近くを掴まれているというのに暴れてしまう。
その結果、ふたりはバランスを崩して転倒。
宮苗瑠璃は、後頭部を強く机に打ち付けてしまった。
「机に頭が当たっているのに、首から下には稲次浩太の全体重がかかってしまったんだよ。そうなるとどうなるか」
夜見坂くんは自分の首に手を当てて、コキッなんて擬音を口にする。
「首の骨が折れたんだよ。脊髄損傷ってやつだね」
首の骨が折れたとしても、即死はしなかったかもしれない。
でも、脳という司令塔から筋肉への命令は一気に切断されてしまう。
ちょうど、コードを引っこ抜いた機械のような感じだ。
その状態で稲次浩太がのしかかったとしたらどうなるか。
腹部が圧迫され、中身が押し出されてしまうだろう。
吉川線――抵抗の際にできるひっかき傷が無かったのもそれで納得がいく。
「あとは絞殺だとチアノーゼが起きて唇が紫色になるとかあるんだけどねー。僕たちは知らないことが多すぎるんだよ」
全ては偶然から始まった。
たまたま稲次浩太が宮苗瑠璃を殺害してしまったのを、夜見坂くんが言葉巧みに関係のないことを意味ありげに語ってみせ、全てをぐちゃぐちゃにひっかき回したのだ。
その結果、湯川大陽という新たな犠牲者が生まれた。
これからも犠牲者は増えるだろう。
私に向かって殺意を向けた中水美衣奈が居る。
湯川大陽を殺した上良栄治が居る。
宮苗瑠璃を殺しても悪びれない稲次浩太が居る。
きっと、まだまだ死ぬ。
この学校という閉じた世界が壊れるまで。
「あー、いけないんだー」
夜見坂くんがあからさまな棒読み口調で私を非難する。
でも言葉の内容と違い、その口元はほころんでいた。
「そんな顔しちゃいけないんだよー」
「え?」
言われて私は自分の口元へと手を伸ばした。
そして、気付く。
口の端が少しだけ持ち上がっていることに。
「人の不幸を笑うなんて、君も人でなしの仲間入りだね」
私も夜見坂くんと同じように、嗤っていた