君と頑張る今日晴れる



 楽しいことも、いやなことも、全部がわたしの人生なんだ。


 でも、こんなにもつらい思いをするのなら、目なんてもう覚めなくていい。


 そんなことを考えていたら、眠りが浅いまま朝方になった。


 まったく眠れた気がしない。それに、とても悪い夢を見た気がする。


 ふいに乾いた咳が出て、布団の上に転がっているペットボトルの水を一口飲む。


 咳がおさまってから、しばらく、ぼーっとしていたら意識がはっきりしてきて思い出した。


 わたしは悠に別れを告げる夢を見たのだ。


 夢の中の彼が、悲痛な表情で泣いて悲しんでいるのを思い出し胸が苦しくなる。


 気分を変えるため、わたしはベッドに寝転がってスマホを開く。


 すると、悠からのメッセージが届いていた。


 【明日は例の日だよね。俺も一緒についてくー】


 自分で言うのもあれだけど、悠はわたしのことが好きすぎる。


 彼は毎日飽きもせず、わたしと会うことができるかの確認をしてくる。


 わたしも会えると嬉しいので、なるべく会うようにしている。


 毎朝起きるとこうやって、彼から連絡が来ていることをわたしは密かに楽しみにしているが、この気持ちを本人に伝えると喜んで面倒くさいので絶対に言わない。


 わたしは【いいよ。一緒に行こうね】と、返信してから起き上がった。


 壁に掛かったカレンダーは、ついこの間までは四月だったのにもう六月になっている。


 時間というのは、あっという間に過ぎていく。


 わたしには時間がない。


 部屋の窓を開けると、朝方のひんやりした風が部屋に流れ込む。


 マンションの七階なので、今日も空がよく見える。


 憂鬱な気分を紛らわすために空を眺めていると、太陽が東の空から徐々に薄暗い街を照らす。


 さっきまで薄紫色だった世界は一変し、うろこ雲は桃色に染まり、その上には藍白の空が広がる。


 しばらくすると、太陽が白く優しい輝きを放ちながら、晴れ晴れと空高く昇った。


 「綺麗…」と思わず口からこぼれた。


 さっきまで、悪夢でざわついていた心が徐々に落ち着いていく。


 落ち込んだときに決まって空を見るのが、わたしは子どもの頃から癖になってしまっている。


 「長くても冬までだな」


 一言呟き、朝焼けを見つめてわたしはそう決意した。


 わたしには、やらなければならないことがある。


 でも、それはすぐに実現できない。


 だから、せめてこの一日一日をせいいっぱい生きるのだ。


 リビングに行くと、お母さんが「金白駅のパン屋さんで、あんたが言ってた世界一うまいあんバター買っといたわよ」と、朝食にわたしの好物のあんバターを珈琲と一緒に出してくれた。


 世界一うまいあんバターというのは、あくまでわたしの感想である。


 「お母さん、ありがとう」


 あんバターを一口食べると、フランスパンの生地に挟まれた、厚切りのバターにあんと少量のきな粉の絶妙なハーモニーが口の中に広がる。


 「やっぱ、このあんバターが世界一うまいっ」


 「あんたが喜んでくれると買ってきた甲斐があるわ」


 そう言ってからお母さんは、お父さんが食べ終わった皿洗いを始めた。


 お父さんは、これから出勤するらしく姿見の前でスーツに着替えている。


 わたしを、いつまでも子ども扱いして心配性なところがあるお父さん。


 厳格な一面があるけれど、お母さんには絶対に頭が上がらない。


 そして、わたしが大好きな音楽と出会えたきっかけをくれたのも、お父さんの趣味のピアノのおかげだ。


 お父さんは「行ってきます」と、玄関ドアを開けた。


 わたしとお母さんは「行ってらっしゃい」と、ほぼ同時に言った。


 朝食を終えてから、顔を洗い、化粧をして、ベージュのワンピースに着替えたあと、わたしは一年記念日に悠とお揃いで買ったペアリングを左手の薬指につける。


 仕事着やエプロンを鞄に入れて、使い古したミニアコースティックギターの入ったギターケースを肩に掛け、玄関でスニーカーを履いた。


 そのとき玄関の棚に置いてある、花瓶の花が昨日と変わっていることに気がついた。


 淡い白色の小さい花が何個も咲き誇っている。


 「あっ、かすみ草だ」


 わたしが喜ぶと、「ふふふ、すぐ気づいたわね。かすみ草は、あんたがいちばん好きな花でしょ」とお母さんが微笑んだ。


 「そう。ありがとう。朝から癒されたー」そう言ってから、わたしは「行ってきます」と玄関のドアを開ける。


 「気をつけてね。行ってらっしゃい」と、お母さんが優しく手を振った。


 わたしは幸せだ。


 わたしには大好きで大切な恋人や家族がいる。


 好物な食べ物。好きな花だってたくさんある。


 空を眺めるのも好きだし、音楽なんて、ずっとやってられるくらい大好きな趣味だ。


 保育士という自分の仕事にも『あたたかい心で誰かの力になる』という、やり甲斐を感じている。


 しかし、どれだけ幸せだったとしても、人はいつ何があるかわからないということをわたしはよく知っている。


 この今の幸せも、いつか終わりを迎える儚いもの。


 そう思うと、とてつもない寂しさに襲われる。


 いいや、暗いことばかり考えるのはやめよう。


 ふと空を見上げると、澄んだ青空がどこまでも広がっている。


 「今日も良いことありますように」


 わたしは決意を胸に、今日も一歩を踏み出す。


 家から歩いて最寄りの桜舞駅に着くと、「はーーーーーるっ。おはよう!」と底抜けに明るい声で挨拶が飛んできた。


 どうやら悠が改札の前で待っていてくれたようだ。

 
 「悠の勤務って今日は遅番じゃなかった?」


 「うん。そうなんだけど晴と一緒がいいから早く来ちゃった」と、言ってからすぐわたしに抱きつこうとする悠。


 「もー!あっついっ!朝からベタベタしないでよ。それにここは駅だからっ!恥ずかしいからやめて!」


 わたしは悠の顔に手をあてて、ぐっと力を入れて体ごと彼を離した。


 「俺は早く晴に会いたくて会いたくてたまらなかったのにー!ははは」と、それでも悠は満面の笑みをしている。


 「毎日、保育園で会ってるでしょ」


 わたしは呆れた顔をして、わざと迷惑そうに言った。


 「昨日会っても、もう俺の中の晴パワーがもう枯渇してるんだ」


 そう悠が嘆いたとき、ふいに寝起きと同じような乾いた咳が出て、わたしは口を手で押さえた。


 悠はすぐにわたしの背中を優しくさする。


 しばらくして咳がおさまってから、悠が「晴、大丈夫?風邪?」と心配そうな顔をして覗き込む。そして、わたしのおでこに手をあてた。


 「うーん。熱はなさそうだな」


 「べつに大丈夫だって」


 そう答えると、悠は「そっか」と言って少し怪訝な顔をしたが、すぐにっこりとわたしにいつもの笑顔を向けた。


 「最近、晴がよく咳してる気がして心配でさ」


 「ちょっと咳したからって、わたしが弱ってるふうに見えた?悠に心配されるなんてまっぴらごめんなんだけど」


 わざと意地悪に言ってみる。


 「んだよ。晴、元気じゃん。安心した」


 「悠がわたしの心配するなんて百年早いんだから」


 そう。わたしは悠に、こんなわたしなんかの心配をしてほしくないのだ。


 悠は今年で二十歳の新社会人で、年齢はわたしの二個下。


 わたしのほうが年上だからという理由で、いつも彼の世話を焼いてしまうわけではなく、きっとこれは世話焼きなわたしの性格のせいだ。


 悠が普段から能天気でほっとけないのも、年下彼氏だからではなく、そういう彼の性格なのだ。


 保育園に着くと、ふたりで玄関のドアから入って職員室に向かう。


 こでまり保育園。築三十年の鉄骨三階建てで小さい園庭がある。


 名古屋市内でも都心部に建てられた、この保育園がわたしたちの職場だ。


 保育園というのはとても活気があるところで、いつも誰かの声が聞こえてくる。


 子どもたちが楽しんでいる声、ケンカをしてる声、泣いている声、仲直りしてるときの声。


 それを見守って手助けする保育士の声。


 子どもたちに振りまわされる保育士の声。


 保護者からの不安の声、感謝の声。


 全部がわたしの大好きな声で、これがいつも聞こえてくるのが保育園の日常だ。


 「おはよう。猫本さん、犬塚君」


 わたしたちが職員室で保育準備をしていると、優しい落ち着いた声の中年女性が話しかけてきた。


 園長先生だ。


 「あ、おはよーございますっ」


 ぱっと顔を上げて、悠が挨拶をする。


 そのとなりで、わたしも姿勢を正し頭を下げて「おはようございます」と挨拶をした。


 「もー、犬塚君!エプロンしなさいって、いつも言ってるでしょ!保育士は見た目も大事なの。それに犬塚君はエプロンしなきゃ保育士に見えないのよ」


 「すいません。でも、この前新しく買ったエプロンも子どもたちとじゃれ合ってたら、買ったその日に破れたんですよー」


 「あのエプロンもう破れたの?まぁ、ならしょうがないわね。エプロンが破れるくらい思いっきり子どもたちと遊んでる証拠だものね」


 そう言って園長先生が微笑んだ。しょうがないで済んでしまうのだから、うちの園長先生は優しいなぁと思う。


 他の保育園ではこうもいかないだろう。


 しかし、そんな優しい園長先生に甘えて保育士としての身だしなみを怠ってはいけない。


 それでは悠のためにならないので、わたしは「今度、悠のエプロン縫っときます」と言った。


 「うふふ。猫本さんはきっと良いお嫁さんになるわ」


 園長先生のその言葉にわたしはどきっとした。


 「でしょー。やっぱり園長先生もそう思う?」と言って、悠がにやにやと嬉しそうにしている。


 「わたしは悠のお嫁さんになるって、一回も言ってないけどね」


 「俺は絶対、晴と結婚するもん」


 「考えとく」


 「するもーん」


 「子どもみたいなふうに言わないで」


 「えー、だって俺。晴と結婚を前提に付き合ってるもん」


 「そういう恥ずかしいこと人前でペラペラ言わないでよ」


 わたしと悠のやりとりを見かねて、園長先生が「あなたたち。仲良しもいいけれど職場ではケンカもいちゃいちゃもだめよ」と言ってわたしたちを制した。


 「すいません」と悠は能天気に笑っているが、わたしは心の中で自分を叱咤する。


 そのあと園長先生は、悠に頼み事があったらしくその話を始めた。


 ちょっと離れていて内容はよく聞こえないけど、きっと人の良い悠のことだから深く考えもせず、いつもの調子で安請け合いをするのだろう。


 もう話が終わったらしく悠と園長先生は、昨日見たテレビ番組の雑談をしている。


 悠は人懐っこくて明るい性格で、誰からも可愛がられるところがある。


 しかし…、うーん。とわたしは頭を抱えた。


 悠が相手だとわたしはどうしても、すぐ気が緩んだ会話をしてしまう。


 だから人によってはそれが、いちゃいちゃしてるように見えてしまうこともあるだろう。


 それに、さっきのやりとりに関しては注意されても仕方がない。


 わたしと悠が付き合っていることは、保育園のみんなが知っていて、なんとなく公認のふたりになっている。


 みんながあたたかく見守ってくれているので、本当にありがたい。


 なぜみんなが、わたしたちが付き合ってることを知っているかと言うと、悠が就職面接で「あなたには人生の目標はありますか?」という、園長先生の質問に「僕の人生の目標は晴を幸せにすることです」と答えたのが伝説になっていて、今では保育園のみんなの笑い話だ。


 それでよく面接が通ったものだ。


 最初の頃、わたしは恥ずかしいのでふたりの関係について黙っていたけれど、悠は誰に聞かれてもあっけらかんと正直にカミングアウトしてしまうので、わたしも、もうどうでも良くなってきている。


 それでも不快に思う人がいるかもしれない。


 これからは気をつけようと、わたしは気持ちを引き締める。


 すると、悠が担当する五歳児クラスの保護者である真希さんが子どもの歩夢君を連れて、職員室のドアを開けて入ってきた。


 歩夢君がわたしたちを見るなり、「わー。晴先生と悠先生今日もラブラブー!けっこんしろー!」と指をさして揶揄ってきた。


 真希さんがすぐに「ちょっと歩夢っ!すみません」と、歩夢君の背中を摘んで苦笑する。


 「こらこら、大人を揶揄うもんじゃないっ!すぐ結婚するに決まってるだろう。なんなら悠先生は今すぐ結婚したい」


 そう言って、右手でグーサインを作った悠がどや顔をする。


 それを見て、わたし以外のその場にいる全員が大笑いをした。


 わたしが気をつけようと思っているのに、なんてわたしの周りの人たちは呑気なのだろう。


 頬が熱くなってきたので、それをみんなに悟られないように、保育準備をやっている振りをして反対を向いた。


 でも、わたしたちが付き合っていることを悪く思われているよりいいか。


 これも、わたしたちの日頃の信頼があってだし。


 残された時間を大切に、そして誠実に付き合わなければと、ひとり心の中で誓った。


 真希さんは園長先生に用があったらしく、その話を始める。


 「金白駅の交差点あるじゃないですか。最近、危険運転してるバイクがいるんです。あの交差点は信号が変わるの早いし心配で」


 「わかりました。あの交差点は子どものお散歩ルートで使ってますから教えていただきありがたいです。保育士たちになるべく迂回するよう伝えます」と、園長先生が答えた。


 わたしは自分の勤務時間が終わってから、まだ保育をしている悠を待つついでに職員室のパソコンデスクで保育週案を書く。


 わたしが受け持つのは、悠とはべつの五歳児クラス。


 クラスの男の子たちが「ザリガニ釣りがやりたい」、女の子たちは「クローバーの髪飾りを作りたい」と言っていたので、名古屋市内では珍しく自然が多くあって、ザリガニ釣りができる池のある下茶池公園に行く計画を立てた。そして、子どもたちの様子や課題を保育週案に書き込む。


 となりの保育室から、元気な女の子の声が聞こえてくる。


 「悠先生おままごとやろー」


 「いいよ、悠先生はなに役をやればいいかな?」


 「わたしがママ。ゆきちゃんは赤ちゃん。悠先生はパパね」


 わたしが聞き耳を立てていると、さっそく、おままごとが始まった。


 「おーい、パパが仕事から帰ったよー。めいちゃんママ、ご飯ある?ゆきちゃん赤ちゃんは良い子にお留守番できたかなー?」


 悠が低音に声を変えて中年パパを演じる。


 「パパ、今日のご飯はカレーよ」


 「ありがとう、めいちゃんママ。ぱくっ。う、う、う、ぐぐぐぐぎゃあああ。ばたっ」


 「たいへんっ!パパがカレー食べたら倒れちゃった!」


 「ううう、ゾンビになっちゃったぞー!みんな食べちゃうぞー」


 「わー、悠先生がゾンビなった!」


 「みんな逃げろー!」


 「ううう、捕まえた子はこちょこちょしちゃうぞー」


 捕まっためいちゃんの大きな笑い声が聞こえる。


 「あははははは、悠先生やめてー、あはははは」


 「ううう、めいちゃんの次は誰を捕まえようかなぁ〜」


 クラス内でおままごとをやっていなかった、他の子どもたちも巻き込んだ遊びに発展していき、子どもたちの賑やかな笑い声が園内に響き渡る。


 なんでおままごとをやっていたのに、急にゾンビの追いかけっこになるのだろう。悠の保育は発想が子どものように奇想天外でいつもこんな感じだ。


 彼の頭の中を確認できるなら、どんなことを考えているのか見てみたい。


 そんな子どもとの遊びは得意な悠だが、保育士としてできなくてはならないのに、どうしても苦手なことがある。


 それは保育計画や制作など事務作業と言われるもの全部だ。特にパソコンを使うことが苦手で作業時間がひといちばい掛かる。


 なので普段から、わたしはさっと自分の仕事を片付けると彼の手伝いをすることが多い。


 でも今日はわたしの予定があるので、悠の勤務時間が終わってから、ふたりですぐに保育園を出た。


 「あー、今日も晴は可愛いなぁ、仕事あがりに晴の顔が見れるなんて幸せ」


 となりで歩いている悠が、わたしを急に褒め出す。これはいつものことだ。


 「わたしの顔なんてべつに普通だし。そんな可愛くもないでしょ」と、小っ恥ずかしいので適当に返す。


 「えー、俺は晴が世界でいちばん可愛いと思う。顔はもちろん、今日のベージュのワンピースとかボブヘアーも好きだし。あ、前髪切ったでしょ。でも俺は晴の外見だけじゃなくて性格もだいすき」


 相変わらず、悠は恥ずかしげもなく、こういうことをさらっと言ってしまう。


 いつものことなのだけど、それでもこっちは照れてしまう。


 「恋人フィルターがかかってるだけでしょ」


 そう言って金白駅前の交差点で信号を待つ間、照れ隠しのためにわたしはスマホを見る。


 恋人フィルターがかかっているのは、正直わたしのほうだ。


 付き合って一年半経つというのに、悠の顔がかっこよく見えてしょうがない。


 たまに寝癖がついてるけど黒髪の無造作ヘア、オーバーサイズの白Tシャツ、黒のスキニーもわたし好みなのだ。


 それにこの人あたりの良い優しい性格。わたしはどんどん彼に惹かれていってしまっている。これは、まさに沼だ。


 けど、このことは本人に直接言わない。絶対に調子に乗って喜ぶからだ。


 それに、なんか悔しいし。


 そんなわたしの気持ちも知らずに、となりで悠は能天気に笑っている。


 「あー、今日も晴の弾き語りを早く聴きたい」


 「ありがとう、そう言ってくれて、でも毎回聴きに来なくってもいいからね」


 「なんでそういうこと言うんだよ。俺が聴きたくて来てるの。晴の歌声ってさ、優しくて心が落ち着くし、なんか聴いてて俺も頑張ろうって思えるんだよ。まあ、晴の事情を知ってるから余計に感情が入っちゃうんだけど」


 そう言ったあと「それに晴の可愛さに気づいた他の男が言い寄ってきたらいやだし」と、彼が小声で呟いたのをわたしはしっかり聞き逃さなかった。


 交差点の信号が青に変わる。


 悠が「荷物多いけど俺が持とうか?」と言って、わたしに気遣ってくれたが「べつに大丈夫。これもダイエットだよ」と、荷物を持たせるのも申し訳ないと思って断った。


 月に一回、わたしは桜舞駅を出てすぐの桜舞公園でギターの弾き語りを趣味でやっている。


 最初はただの練習のつもりだったけど、いつの間にか聴いていってくれる人がぽつぽつと増えた。


 「本当に晴の歌ってさ、初めて聴いたとき、優しくてささやくような透き通った声がすっと心に入ってきて、俺は思わず天使だって思ったもん」


 「もう悠っ!恥ずかしいからやめて」


 わたしは彼の熱弁スイッチがさらに入ってしまう前に話を止める。


 褒めてくれるのは嬉しいけれど照れくさいのだ。


 それに止めないと悠はいつまでも語りつづける。


 わたしは運動や裁縫などはできないし、絵を描かせたら、園児が描いたラクガキとまちがわれるほど絵心がない。

 
 他に特技なんてものはなかったけれど、音楽だけは大好きで没頭した。


 わたしは幼い頃からお父さんの影響でピアノをやっている。中学からはギターと作詞作曲を始めて、シンガーソングライターの真似事をした。


 歌はどちらかと言ったら得意で、カラオケに行けば友達が褒めてくれた。


 なので音楽は多少できるのだと思う。


 真っ赤に燃えるような夕日が西の空にほぼ沈みかかり、空の上側は薄紫色、下側にはオレンジ色の水平線が見える。


 駅から公園へと繋がる横幅の広い道には、桜の木が並び、その下のベンチが弾き語りをするわたしの定位置。


 いつものベンチに着くと、ギターケースから何年も使っているミニアコースティックギターを取り出す。


 通りすぎる人たちに一礼してから、わたしはベンチに腰を下ろした。


 ギターを太ももの上に置き、左手でギターのネックを握り右手はピックを持つ。


 一呼吸、深く吸ってはく。


 声出しやリハーサルはいらない。


 保育園でもギターを弾いて子どもたちと歌っているので、指も声も充分にあたたまっている。


 右手のピックで、ゆっくり弦を優しくなぞるようにCコードを鳴らす。


 あたたみのあるアコースティックギターの音が響く。


 悠は少し離れたところから、わたしを見ている。


 歩いて通りすぎる人たちが、たまに視線を向けるのがわかる。


 よし、始めよう。


 バラードを二曲カバーしたあと、少し休憩をしてからオリジナル曲を弾き語りした。


 ふと時計を見ると、二十分経っていた。


 わたしには、この二十分がちょうどいい。それ以上は長く歌えない事情がある。


 立ち上がって聴いてくれた人たちに深く一礼し、わたしは「本日は、ありがとうございました」と感謝を伝えた。


 「最高ー!めっちゃ良かったー!」


 悠がそう言って拍手をすると、立ち止まって聴いてくれた人たちもあたたかく拍手をくれた。


 こんなふうに大好きな音楽をやれて嬉しい。これもいつまでやれることやら、そんなことを考えながらギターを、ギターケースに片付けていると、悠が「今日も良かったよ、お疲れ様」と自販機で買った水を持ってきてくれた。


 「ありがとう」とお礼をして、わたしは受け取ったペットボトルの蓋を開けて水を一口飲む。


 すると、ひんやり冷たくてカラカラだった喉が一気に潤った。


 「どう?喉は大丈夫?」と、悠がわたしを気遣う。


 「うん。今日はけっこう調子良いみたい」


 「そっか。それなら良かった」


 やけに安心した表情をして悠がにこっと微笑んだ。


 そして「今日も神社寄ってこうぜ」と、いつもの笑顔でわたしを誘った。


 桜舞公園から少し歩くと神社がある。弾き語りのあと、わたしたちはいつも神社でおしゃべりをしてから帰るのだ。


 「うん」


 わたしは返事をしてから、ギターと鞄を持って立ち上がる。


 すると同時に悠の手が伸びてきて、わたしの鞄を持っていった。


 「俺が持つわ」


 「わたしなんかに気を遣わなくっていいって」


 鞄を奪い返そうとすると、悠はひょいっと鞄を反対方向の腕に持ち替えて、わたしから遠ざける。


 うーっと、わたしが睨むと、悠が「じゃあ、ギターのほうを俺が持とうか?」とにししっと微笑む。


 「ギターはいやっ!自分で持つもん」


 「知ってる知ってる」


 悠がわたしのことをわかったふうに、にやにやしているので「だって悠に持たすと壊しそうだし」と言って、わたしはお返しにベーっと舌を出す。


 「うっわ。ひどー」と言って悠もベーっと舌を出してから、神社のほうに歩き出した。わたしはその彼のとなりを歩く。


 「だって、悠っていろいろと雑じゃん」


 本当はそんなことない。悠はわたしの物なら、自分の物以上に大切に扱ってくれることを知っている。


 彼が最初からギターを持たなかったのも、ギターはわたしが自分で持ちたいということを知っていて、わたしの気持ちを尊重してくれているのだ。


 こうやっていろいろ考えていると、ありがとう、と面と向かって伝えるのがなんかちょっと恥ずかしいときがある。


 素直な悠のように、わたしもいつでも自分の気持ちをすっと伝えられたらいいのに。


 自分のこういう素直になれないところが、本当はあまり好きではない。


 わたしと悠の家は、桜舞公園から徒歩五分ほどのS区内。


 わたしは実家暮らしだが、悠の実家はとなりの県のK市だ。


 彼は高校を卒業して保育士専門学校に入学したタイミングで、名古屋市のS区にあるアパートでひとり暮らしを始めた。


 なので、わたしたちの家は歩いて行けるほど近く、一緒に帰るときはいつも悠がわたしを家まで送ってくれる。


 神社に着くと、入り口の石段にふたりで座った。


 「あー、晴。空、見て。今日も月が綺麗だね」


 悠がとなりで夜空を見上げて言った。


 夏目漱石は、I Love youの和訳を「愛している」ではなく、「月が綺麗ですね」とロマンチックに訳したという有名な話がある。


 もちろん悠がそんなことを知っているわけがない。そもそも、月が出るまで彼がわたしのとなりで愛をささやくことを我慢できるわけないか。


 そう思うとロマンチックのかけらもなくて、でも、それが悠らしくてふふっと笑いが洩れる。


 わたしも夜空を見上げると、雲間から笑っているかのような三日月と、きらきらと輝く星が見えた。


 ふと夜空から目を落としたとき、月明かりに照らされた淡い青紫色の紫陽花が、石段の周りに何個も咲いていることにわたしは気がつく。


 神社の雰囲気も相まって、とても幻想的だ。


 「昔じいちゃんが、わしが死んだら星になって悠を空から見とるからなって言ってたの思い出した」


 悠が夜空を見つめて静かな声で、思い出を引き出しから取り出すようにそう呟いた。


 「空から絶対見てるよ」と、わたしは彼の肩に自分の頭をぽんと置いて呟く。


 「そういうもんかねー」


 「だって、悠ってほっとけないじゃん。能天気だし、すぐ忘れるし、遅刻するし、やること遅いし」


 「あー、そういうこと!?だから見てるんだ」


 悠がそう言って苦笑を浮かべた。


 「そうだよ。きっとおじいちゃんもあの三日月みたいに笑ってるよ」


 わたしのその言葉に、悠は半笑いしてこう言った。


 「ていうか、死んだら魂は空に行くの?なんで?って思う。そんなわけないだろ」


 なんだか、その言葉にむっとしてしまい「わたしは悠のおじいちゃんと一緒でそう思ってるの。いいじゃん。なんか見守られてるみたいで」と返した。


 「なんだそりゃ。じゃあさ、晴は天国とか地獄とかもあるって思ってるの?」


 悠は少し呆れた顔をしている。


 「あったらいいなって思ってる。だってそのほうがお別れしてしまった人たちと、それで終わりじゃないって寂しくない気がするんだもん」


 わたしは真剣に話しているのに、悠は「ふーん」と興味なさそうに相槌を打つ。


 次に「そういえば話変わるけど、ちょっと小腹すかね?」と、悠が話を変えた。


 「うん、そうだね」


 わたしがそう答えると、悠が自分の鞄から保冷バッグを取り出す。
 

 ずいぶん、らしくないものを持ってるなと見ていたら、中からもっと彼に似合わないものが出てきた。


 それは『オーガニック人参ジュース』と書かれたパックのジュースだ。


 「はい。晴のぶんもあるからあげる」


 わたしは悠から人参ジュースを受け取ると、「ありがとう。でも、どうしたの?急に健康志向に目覚めたの?」と不思議に思って訊いた。


 「まあね。ひとり暮らしだし」


 「ふーん、だったらジュースじゃなくて、ちゃんと野菜食べたほうがいいよ。悠はすぐ料理をサボろうとするんだから」


 もらった人参ジュースを飲むと、甘い人参の味が口の中に広がる。


 「これ美味しい」


 「だろー。また買っとくから飲もうぜ」


 悠は嬉しそうに微笑んだ。


 人参ジュースを飲んだあと、ふたりでお参りするために石段を登った。


 悠がさっさと賽銭箱の方に行ってしまうので、「神社に入ったら手水舎でちゃんと手を清めるの。鳥居はお辞儀して。神様の通る道だから端っこ歩くの」と、わたしはまじめに参拝作法をやらない彼を注意する。


 「はいはい。わかったわかった」と、悠は口ばっかり。


 これも、いつものやりとりだ。


 ふたりで賽銭箱に十円玉を入れて手を合わせる。


 (神様、いつも石段を使わせてくれてありがとうございます。悠やわたしの大切な人たちみんなが健康でずっと幸せでいられますように)


 わたしが願い事を終えて顔を上げると、悠はもう願い事を済ませていた。というより彼は元々神様をまったく信じていない。


 そういうところは、つまらないやつだと思うのだけど、それには彼なりの理由がある。


 でも、そんな神様を信じてない、悠が唯一、いつも決まってお願いすることがある。


 「今日も晴の健康と幸せだけお願いしといた。俺、他に願いなんてなにもないし。帰ろっか」


 そう言って手を差し出してくれたので、わたしはその手を握った。


 とても、あたたかい手。


 悠は手が大きいほうじゃないけれど、わたしは手が小さいのでちょうど包まれているような感じで、繋いでいるとなんだか安心する。


 わたしも悠の幸せを祈りつづけている。もちろん本人には言わないけど。


 「げ、雨降ってきたね」と、悠が手のひらを広げて空を見上げた。


 「あ、本当だ」


 ぽつぽつと冷たい雨が降ってきたことに、わたしは彼に言われてから気がついた。


 「とりあえず、そこの木の下に避難しようぜ」


 「うん」


 わたしたちは神社の木の下で雨宿りすることにした。


 「もうすぐ、うめあめだもんなー」


 あまりにもさらっとそう言った悠に、わたしは一瞬ぽかんとしたが、それが冗談ではなくまちがえているのだと気がつく。


 「それを言うなら梅雨ね。つ、ゆ!梅に雨と漢字で書いて梅雨と読むんだよ」


 「えー、まじっ?つゆって言葉は聞いたことあったわ」


 「ちょっと信じられないんだけど。もう大人なんだから気をつけてよね。恥ずかしいなぁ」


 「ごめんごめん」と言ったものの、悠は気してなさそうに笑っている、わたしはそんな彼に呆れてしまう。


 勉強ができるほうではなかったと本人から聞いていたけど、梅雨の読み方を知らなかったのはびっくりだ。


 いや、これは一般常識か。


 こういうところも悠らしいと言えば悠らしい。


 でも、いつか彼自身が困ってしまうので、わたしは、なんとかしなくてはと密かに思っている。


 さっきまで輝いていた三日月や星は、すっかり雨雲で隠れてしまった。


 雨が弱まるかと期待をして、数分待っていたけれど、どうやら強くなるばかりだ。


 大きい雨粒が振り込むので、この木の下もそろそろいられなくなってきた。


 そのとき、わたしは日傘用の折り畳み傘が鞄に入っていることを思い出した。


 「悠、わたし折り畳み傘持ってた」


 「お、ラッキー。じゃあ歩いて晴んちすぐだし。もう行こうぜ」


 わたしが相合傘をしようとすると、悠が「小さい傘だから、ふたりで入ると晴や大切なギターが濡れちゃうだろ。晴が使ってよ。俺、濡れるの気になんねーし」と言った。


 「どうせギターは濡れるよ。でもケースに入ってるから大丈夫」


 「じゃあ、晴が濡れるからいいや」


 こういうとき、悠は自分の意見を曲げない頑固なところがある。


 わたしの心配をしてくれているのだろうけど、わたしだって悠が心配だ。いい加減その気持ちにも気づいてほしい。


 「じゃあ、ここで解散しよ。悠なら走れば五分もかからずに自分ちに着くでしょ」


 「えー、送ってくよ。俺、濡れるの気になんないって言ってるじゃん」


 「悠のわからず屋っ。じゃあ、わたしも傘ささない。濡れて帰るから」


 そう言って、わたしがむっとした顔をすると、悠が慌てて「わかったわかった。ごめん。ふたりで相合傘して帰ろう」と折れて言った。


 「晴はそんなに俺と相合傘して帰りたかったのかー。そんなに俺のことが好きなんだねー」


 となりで、悠がにやにやして言ってくるので、「はいはい。そうそう」とあしらう。


 小さい折り畳み傘なので、わたしたちは体を寄せ合わせ、それでも肩は半分以上濡れながら帰った。
 こでまり保育園への通勤は、最寄りの桜舞駅から電車で二駅先の金白駅で降りて、そこから歩いて徒歩五分。


 通勤時間はだいたい四十分くらいだ。


 家から自転車で行けなくもない距離なのだけど、雨が降ると厄介だし、悠と待ち合わせして通勤するとたくさん話すことができるので、わたしは電車通勤をしている。


 今日も通勤中、電車でとなりに座ってふたりで話をしている。


 「悠、今週は週安書いた?それにもうすぐ誕生日会だったよね。出し物どうする?」


 「げっ、週安なんも書いてない。誕生日会…、どうしよっか」


 わたしに痛いところを突かれて困った顔をする悠。


 「あ、今日の晴のシュシュ超可愛い」と、すぐに話題を変えてきたので、彼が現実逃避をしようとしていることをわたしはすぐに見抜く。


 逃がすわけがない。


 「ただ忘れてただけでしょ」と、わたしがちくりと刺すように言うと、悠が「ごめんよぉ」と素直に謝る。


 「悠ってさ。なんでも手書きじゃん。そろそろパソコンで資料作るやり方を覚えたほうがいいよ。きっと作業も今より早くなるし」


 「えー。俺は人間味がある手書きが好きなんだよ」


 そう言った悠だが、なにか思い出した様子で「あ、でも。そうだった。ごめん、晴ぅ。悪いんだけどやっぱりパソコン教えて」と頼んできた。


 パソコンが大の苦手な悠が、自分から教えてほしいだなんて珍しい。


 「わかった。今度、悠んちにノートパソコン持ってくからそれで教えるね」


 「ありがとー。めっちゃ嬉しい、映画でも借りとくよ。この前、晴が好きそうな恋愛映画をレンタルビデオ屋で見つけたんだ」


 わたしが家に行くと言った途端、うきうき気分で浮かれる悠に、わたしは「目的はパソコンの資料作りだからね」と釘を刺す。


 すると「うー、でも晴がうちに来てくれるの嬉しいもーん」と、悠は口を尖らした。


 「ついでに、ご飯も作ってあげようかな」


 「やったー!晴の手料理が食べられるー」


 はぁ、また浮かれ出した。


 悠はひとり暮らしして、二年以上経つというのに料理が苦手で覚えようとしない。普段もよくカップ麺で食事を済ませている。


 わたしはそんな彼の食生活が心配で、ご飯を作りに行ったり、うちの残ったおかずをタッパーに詰めてよく差し入れするのだ。


 最近は忙しくて行けてないから、どうせ部屋が散らかっているはず、まずは片付けからだな。


 そう考えていると、電車が止まってドアから乗車する人たちが入ってきた。


 すると悠の目がぱっと開く。


 「あ、俺ちょっと席譲るわ」と言って、悠が急に立ち上がる。


 「お母さんお母さん。この席使ってください」


 さっき乗車した赤ちゃんを抱っこ紐い入れている母親に、悠はすぐに声をかけた。


 母親は「あ、すぐ降りるから大丈夫ですよ」と言ったが、電車が動き出して足がフラフラしているし、ちょっと危なっかしい気がした。


 「でも、僕は次の駅で降りるんで使ってください。電車揺れるから危ないし、赤ちゃん抱っこしてると重くて腰も痛くなりますよね」


 「それなら、お言葉に甘えて」


 母親はそう言って、悠が座っていた席にゆっくり腰を下ろす。


 「これから、この子の検診で病院に行くんだけど、実は腰痛で困っていたの。本当にありがとう」


 「いえいえ、どういたしまして。困ったときはお互い様ですよ」と言って、悠はにっこり笑う。


 悠は困ってる人を見つけると、すぐに声をかけるような人だ。


 一緒に電車に乗ってるときも、妊婦さん、子連れ、老人を見かけるとすぐに席を譲る。


 悠は不器用で要領の悪いところもあるけれど、人にあたたかい優しさを素直に向けられる。わたしは彼のそんなところを尊敬している。


 そういえば以前、悠がまだ専門学校の実習生として来ていた頃に、おじいさんの道案内をして、大遅刻してしまったことがあった。


 その日は保育園の芋掘り遠足だったので、当然遅刻なんて許されない。


 あのときの悠の焦った顔、面白かったなぁ。あれは実に悠らしい出来事だった。


 「もしかして彼女さん?」


 となりの席でわたしと悠が話しているのを見た母親が訊ねてきた。


 「一応そうです」


 少し照れながら、わたしは答えた。


 吊り革に捕まっている悠がにやにやしている。


 わたしが彼女です、と自己紹介したのが嬉しいのだろう、単純なやつだ。


 「こんな気遣いできる彼は逃がさないようにしなきゃね」


 母親がそう言って微笑む。


 「えー、でも変に頑固だし、遅刻するし、この前なんて忘れ物ばっかの彼にうんざりしてケンカしてしまったんですよ」


 母親は「ふふふ、男なんてそんなものよ。でもね。大事なのは、あなたを誠実に愛して大切にしてくれる人かどうかなのよ。彼はそれができる人だと思うの」と、わたしの耳元で小声で言った。


 「貴重なアドバイスありがとうございます」と、わたしも小声で応える。


 「なにこそこそ話してんだよー」と悠が覗き込んできたので、わたしは「女同士の話ー」と彼をあしらった。


 金白駅に着いたので、わたしたちは母親に「お気をつけて」と会釈して電車を降りる。


 見ると窓から手を振ってくれていて、わたしたちも手を振って返す。


 ふいに悠を逃げられなくしてしまってるのはわたしで、本当は、悠はわたしなんかと付き合っていないほうが幸せなんじゃないだろうか。


 そんな考えが頭をよぎってしまい、わたしはずきずき痛む胸に手をあててうつむいた。


 「どうした晴?なんか顔色悪くない?」


 そんなわたしにすぐ気づいて、悠が心配そうな顔をして覗き込んでくる。


 普段は能天気で鈍感なくせに、悠はこういうときにはすぐ気づく。


 「大丈夫、ちょっと疲れてるだけ。わたしなんかの心配しなくていいよ」


 とりあえず、そう言って適当に誤魔化した。




 駅を出ると、太陽が力強く照っていて真夏のように暑い。


 ここから保育園までは徒歩五分ほどなので、それほど苦にならない距離だ。


 それなのに悠は…。


 「晴ぅ、コンビニでお茶でも買ってこうよ」


 「いいって、大丈夫」


 「ちょっと休んでこうよ」


 「しつこいっ!そういうの疲れる。あんま同じこと言わせるときらいになっちゃうよ」


 わたしが眉間にしわを寄せて睨むと、悠は心配そうな顔をしている。


 さっきのわたしの様子から、彼なりになにかを察して気にしているのだろう。


 悠はわたしに対して心配性になりすぎるときがあって、それに対しイライラしてしまうことがある。


 「ごめん、晴」


 しょぼんと悠がそう言って肩を落とす。


 そんな悠を見て、彼なりにわたしを心配しているわけで、それもわたし自身の『ある事情』が関係していて仕方がないことなのだと、心が痛んで反省した。


 そして、こんな些細なことで、悠に対して怒ってしまう自分がきらいだ。


 それでも本音をさらけ出すようなことはできず、わたしは「本当に大丈夫なの。悠の気持ちは嬉しいんだけど…。あまり気を遣われてもさ、悪いじゃん」とだけ伝えた。


 本当は気を遣われると、みんなと自分が同じでないことをさらに自覚してしまうからいやだ。


 周りのみんなにも厄介に思われないか不安で仕方がない。


 私は、そんな心の奥底にあるものを彼氏にすら打ち明けれずにいる。


 「うん、俺もしつこかったよな、ごめん」


 悠はわたしのいろんなことを知っていて考えた上で、いつも優しく言葉を選んで声をかけてくれる。


 その言葉のひとつひとつから、本当に大切に想ってくれていると充分伝わってくる。


 それなのに、彼の気持ちを無碍にしてしまう自分が許せない。


 なにより、わたしのことで悲しむ悠を見たくない。


 いろいろ考えていると気持ちが抑えきれなくなって、「わたしもごめんね。だいすきだよ、悠」と彼の頬に自分からキスをしてしまった。


 すると、悠の表情がぱっと晴天の空のような明るい笑顔になる。


 「俺も晴のことだいすき。今日も頑張れるよ、ありがとう」


 そのとき、背後から急に「お前ら朝から仲良すぎるだろー」と声をかけられた。


 振り返ると短髪で悠より背が高く、オーバーサイズの服を着た青年が立っている。


 同僚で、悠の親友の八満昭彦君だ。


 彼も言われなければ保育士に見えない見た目をしている。


 でも、このような外見とは裏腹に温厚で優しい性格の持ち主なのだ。


 わたしは心の中で叱咤した。


 昨日保育園で、悠と必要以上にみんなから仲良く見られるのは気をつけよう。


 そう心に誓ったばかりなのに、よりにもよって八満君に見られた。


 「しかし、まじかよ。猫本さんからなんて。普段の保育園でのキャラとちがって彼氏の前ではそういう感じなんだ」


 八満君がそう言ってにやにやと笑う。


 「おー昭彦じゃん!おはよう、俺たち今日もめっちゃ仲良しだろ。さっきケンカしたけどすぐ仲直りしたんだぜ」


 相変わらず、悠は呑気にしている。


 悠はさっきのことを八満君に見られても恥ずかしくないのだろう。でも、わたしはちがう。


 「ちょっと、悠。そういうことは言わなくていいのっ」


 わたしは悠の腹に肘打ちをした。


 ちがうの!と大声で叫びたい。弁解をしたい。けど何を言って良いかもわからない。恥ずかしくて穴があったら入りたい気分だ。


 仕方がないので、とりあえず、わたしは八満君をきっと睨んで黙り込むことにした。


 そんなわたしに気がついて、八満君が「ごめんごめん。猫本さん、冗談だよ」と苦笑いして取り繕う。


 八満君は、悠と地元が一緒で高校時代からの友人であり、趣味のスケボー仲間だ。


 今ではこんなにも底抜けに明るい悠だが、過去につらい時期があって、そのとき側で悠を支えてくれたのは八満君だ。


 高校時代から、共に過ごしてきたこのふたりの絆は強い。


 わたしが新人保育士として、こでまり保育園に就職したばかりのとき、保育士専門学校から実習兼アルバイトとして、このふたりがやって来たのが最初の出会いだった。


 わたしはこのふたりがつるむと、ひとつだけ許せないことがある。


 それは「昭彦とスケボーやるから」と言って夜な夜な公園に出かけたり、休日までスケボーして遊びまわって。


 そのくせ、ふたりとも仕事のやることを忘れてしまったりと、まさに悪友なのだ。


 なんだかんだ要領が良い八満君は、あとからでもなんとでもなるのだけど悠はべつだ。


 お世辞でも要領が良くない。


 「悠、今日の夜ってあいてる?桜舞公園でスケボーしようぜ」


 さっそく八満君からお誘いだ。


 スケボーすることについて言い過ぎると、束縛する彼女と思われてしまいそうであまり言わないようにしている。


 わたしは束縛彼女だと思われたくない。


 でも、ほっとくとこのふたりは度が過ぎる。


 それになんだか八満君とスケボーに、悠を取られてしまってる気分になってきて、今日は我慢ができなかった。


 「悠っ、今日はパソコンの使い方教えるから、スケボー行かないで」


 わたしがそう言うと、悠が「え、今度って言ってたじゃん」と驚いた表情をした。


 「悠はやることが遅いんだから早めにやっとくの。あと誕生日会の準備も今日やろうね」


 「うげー、ちょっとやること多くねー」としょぼくれたが、すぐに悠は「でも晴と一緒にいられるからいっか」と無邪気に笑う。


 「あらら、猫本さんには敵わないな。本当に悠には猫本さんがいて良かった」と言って、八満君が悠の頭をくしゃくしゃして屈託のない笑顔をした。


 「だろー」と、悠も人懐っこく微笑む。


 「だって悠は猫本さんがいないと、保育週案やパソコンで資料も作れないじゃん」と、八満君がからからと笑う。


 「あーっ。昭彦までそんなこと言うのかよ」と、口を尖らせる悠。


 「でも、わたしがいないとやれないじゃだめだよ。そんな人任せな人とは、この先のことは考えられないなー」


 わざと意地悪を言って、わたしは保育園に向かって歩き出した。


 「えー、待ってー。俺頑張るから捨てないでよ晴ー」と、悠が情けない声を出して追いかけてくる。


 そのあとを八満君が笑いながらついてくる。


 いろいろあるけれど、とても幸せなこれがわたしの日常。


 悠はわたしを心から好いて必要としてくれている。そのことがとても嬉しい。


 いつも好きと言葉にしてくれるのは悠だけど。


 きっと依存しているのはわたしのほう。


 早くしなきゃいけないのに。


 覚悟を決めて決断したのに。


 こんなわたしなんかを好きでいてくれる悠に申し訳ない。


 わたしの心は締めつけられたように、また苦しくなった。
 こでまり保育園は、生後二ヶ月から小学校就学前までの子どもたちが通う保育園だ。


 正規の保育士が十五名、午前中は主婦、夕方からは専門学生などのアルバイトの職員が二十名ほど、開園から閉園までの時間をローテーションで働いている。


 休憩中。職員室のテーブルで、わたしは昨日の夜ご飯の詰め合わせ弁当を食べていた。


 保育士たちは忙しく、広いとは言えない職員室は途中作業の制作や資料が散らかりっぱなしになっている。


 それでも、わたしはこの保育園らしい生活感がきらいじゃない。


 午後二時、そろそろわたしの休憩が終わる頃。


 悠が休憩の交代で、職員室に入ってきた。


 「悠、ちょっと」と、わたしは彼を呼び止める。


 「ん?どうした、晴」


 職員室内に、わたしと悠の他にもうひとりの職員しかいないことを確認してから、わたしは「ロッカーに、いつもみたいにお弁当入れといたからね」と声をかけた。


 「今日も作ってきてくれたの?嬉しい!ありがとう!」と、悠が心から嬉しそうな顔をしたあと「でも、いつも俺のぶんまで大変じゃない?」と、わたしの顔を心配そうに覗き込んだ。


 「いいよ、どうせ昨日の余りものだから用意するのも大変じゃないし。それに悠はわたしがお弁当持ってこないとコンビニで済ませるだけでしょ」


 「へへへ、用意するのめんどくさくってさ」


 「もー、毎日それじゃ体に良くないでしょ。なんのために人参ジュース飲んでるの!今度、料理も教えるから覚えてよね」


 「えー、俺、料理苦手なのにー」


 「苦手だからやらないじゃだめ!悠もそろそろ自分で料理くらいできるようになって、他にも…」と、わたしがあれこれ言い出して止まらなくなってきたのを、うしろで座って見ていた最首明里がくすくすと笑い出す。


 明里はわたしと同期で同い年の保育士。いつも柔らかい物腰で人あたりが良い、ふわふわした性格の子だ。


 わたしは困ったことがあると明里によく相談をする。仕事仲間であり気が許せる親友なのだ。


 「なんか晴と犬塚君見てると、長年の夫婦みたいに見えるよ〜」


 明里がテーブルに肘をついて、いつものように柔らかい口調で言った。


 「えー、まだ付き合って一年半なんだけど」


 わたしがそう言うと、明里は「それだけふたりの相性が良いんじゃない〜」とにこにこしている。


 「でしょ、明里さんもそう思うでしょ。俺たちってやっぱり相性バッチリなんだよなー」


 「うんうん、羨ましいくらいだよ〜」


 「調子に乗らないの、悠。もー、明里も変なこと言わないでよ」


 「でも、いつもわたしには犬塚君には晴が必要で、晴には犬塚君が必要に見えるなぁ〜。なんて言うのかな、ふたりでひとつってやつ?とってもお似合いのふたりだよ〜」


 明里はいつも人をよく見ている。わたしの気持ちは言わなくても、きっと彼女には筒抜けのはず。


 人にいや味なことは言わず、わたしなんかよりおっとりしていて可愛い。本当に人が出来た友人だと思う。


 でも明里の言葉が、今わたしの心にはちょっとだけちくりと刺さる。


 「明里さん、本当に良いこと言うなぁ」


 悠は相変わらず恥ずかしげもなく感心している。


 「もう休憩終わりだから保育室に戻るね」


 そう言ってわたしは、心情が悟られないよう職員室から逃げるように出た。


 ふたりでひとつか。それってどっちかが欠けたら、もうだめじゃん。


 そう思った途端、また胸が苦しくなってきた。


 そして、あふれ出そうになる涙を必死に堪える。あぁ最近、自分のお情緒がおかしい。


 はっきりそう自覚できる。でも抑えられるはず、わたしは大丈夫と胸に手をあてた。


 悠とは、もう離れられないくらい近くて、お互いにかけがいのない存在になってしまっている。


 そのことが嬉しくもあり、同時に後悔もした。


 職員室から、明里と話す悠の裏表のない自然体で明るい声が聞こえてくる。


 二年前、出会った頃の悠からはとても想像ができない。


 あの頃の悠、つまり彼がこでまり保育園にアルバイトに来たばかりのとき。


 たしかに悠は、今と変わらない元気な笑顔で爽やかな青年だった。しかし、変に勘の良いわたしは、彼の笑顔がどこがぎこちない気がして職員室で声をかけた。


 「犬塚君、いつも無理して笑ってるでしょ。作った笑顔ってずっとはつづかないし、わかるんだよ。もし、わたしで良かったら困ったことがあるなら話を聞こうか?」


 すると、悠は苦笑いをしながらこう言った。


 「さすが猫本さんだなぁ。身の上話で、ちょっと暗い話だけど、猫本さんに聞いてもらえたら心がらくになるのかも」


 悠は自身の引きずってしまっている、つらい過去をわたしに打ち明けた。


 これはそのとき悠から聞いた、彼の子どもの頃の話だ。


 悠の実家、岐阜県K市は名古屋よりずっと田舎町。


 そのK市でおじいちゃんが、我が子のように悠を育ててくれたそうだ。


 おじいちゃんは、いつも幼い悠を散歩に連れて行ってくれた。


 鶏小屋や牛小屋を見たあと、田んぼ道と川の堤防を歩き、最後に決まって神社に寄るのがいつもの散歩コース。


 ある日、その神社でいつものように手を合わせるおじいちゃんに悠は質問をした。


 「じいちゃんって、手を合わせてお願いばっかしてるよね。神社でも家でもさ」


 「はっはっはっ、家でお願いはしとらんよ」


 「いつも仏壇の前でしてるじゃん」


 「うーん、あれは報告かな」


 「報告?誰に?なんの?」


 「ばあちゃんにみんなのこと報告しとるんや」


 「ふーん、じゃあ今はなんの報告してんの?」


 「神社は報告じゃなくて神様にお願いしとるんや」


 「神様にお願い?何を?」


 「悠がいつまでも健康で幸せであれますようにってお願いしとるんだよ」


 おじいちゃんは、そう言いながら悠の頭を優しく撫でた。


 悠はそのとき、ほとんどの子どもが誰しも一度は考えたことがある質問をおじいちゃんにした。


 「じいちゃん、神様って本当にいるの?」


 「いるよ」


 「でも俺見たことないよ」


 「きっと目で見えるものじゃないんだよ、でも神様はみんなをよく見とる、だから悪いことすれば罰があたる、良いことすれば自分に良いことが返ってくる、やで悠も良い子にしとれよ」


 「うん、わかった」


 悠の両親は仕事が忙しくほとんど家にいなかったが、大好きなおじいちゃんがいてくれたから寂しくなかった。


 悠はおじいちゃんからたくさん愛情をもらって育ち、小中学校も元気に登校し、地元の高校に進学した。


 しかし高校二年生の夏に、悠の幸せがある出来事でバラバラに壊れてしまう。


 暑い真夏日。おじいちゃんが畑で倒れているのが見つかったのだ。


 見つけた近所の人が呼んだ救急隊員に、その場で死亡が確認された。原因は熱中症だった。


 悠の両親はお通夜と葬式の日は、さすがに仕事を休んだが、次の日からは相変わらず働き詰めで家には帰ってこなかった。


 おじいちゃんがいなくなってから、誰もいない家でひとりぼっちで夕食を食べるたびに、悠は今までの幸せな生活はおじいちゃんがいてこそだったのだと思い知らされた。


 高校からの帰り道。どうせ誰もいない家に帰っても寂しいだけなので悠はよく道草をした。


 決まって行くのは、おじいちゃんとの思い出の散歩コース。


 スケボーともこの頃に出会い、悠はひとりきりの長い時間をひたすら堤防でスケボーするようになった。親友の八満君とも、この頃にスケボーを通じて仲良くなったらしい。


 スケボーしたあとの帰り道。神社の前を通るたび、悠は納得できないやりきれなさでいっぱいだった。


 おじいちゃんは言っていた。


 神様はよく見てる。悪いことをすれば罰があたり、良いことをすれば良いことが返ってくる。


 おじいちゃんは両親に変わって自分を育ててくれた。


 だから、老後をゆっくりなんてできなかったはず。


 ばあちゃんが早くに亡くなって寂しい思いをしたけれど、めげずに頑張って生きてきた。


 そんな善人なおじいちゃんが突然死んでしまって、ニュースで見た犯罪者はのうのうと生きている。


 神様がいるとしたら一体なにを見ているのだろうか。それに大人になればなるほど見えてくる。人間はぜんぜん平等ではない。


 悠は高校でクラスメイトと自分の家庭環境を比べて惨めな思いをした。


 そして悠は、過去からの抱え込んでいた話をしたあと、わたしにこう言った。


 「保育園って人の家族の幸せなところをどうしても見ちゃうじゃないですか。それを見るとぎゅっと胸が苦しくなることがあるんです。こんなんじゃ保育士やってけないって笑顔で頑張ってみたんですけど、猫本さんには簡単にバレちゃいましたね。俺って保育士向いてないかも、ははは」


 悠は苦笑いをしたあとも言葉をづづける。


 「いつもじゃないけど、たまに幸せってなにかわからなくなるような感覚に陥るんです、そのとき、もしかしたら俺って心が空っぽなのかもとか思って勝手にへこむんですよ。変ですよね、ははは」


 また苦笑いをする悠。彼のつらい過去を聞いたとき、わたしはなにも言葉が出てこなかった。話をただ聞くことしかできなかった。


 家族に支えられ恵まれた環境で育ったわたしには、想像もつかない苦しみを彼は抱えていたのだ。


 でも悠は、わたしたちが付き合って一年記念日デートをしたあの日。


 秋晴れの空の下。わたしにこう言ってくれたのだ。


 「幸せってなにかわからなくなってたとき、俺は晴を見て自分の生き方が変わったんだよ。俺は、今、幸せってなにかわかるよ。俺の幸せは晴と一緒にいることなんだよ」


 あのときの屈託がない、秋晴れで雲ひとつない青空のような悠の笑顔を、わたしは忘れることはない。


 だから。


 わたしはなにがあっても頑張ろうと決意したのだ。
 わたしと悠はお互いの勤務が終わったあと、誕生日会の準備を進めるため職員室に残った。


 パソコンは帰ってからでも教えることができるけど、誕生日会の準備は保育園でやったほうが道具や材料が揃っているからだ。


 誕生日会というのは、月末に、その月が誕生日の子どもたちをお祝いするイベントで、その担当になった保育士は、子どもたちの前でマジック、劇、ペープサートなどの出し物をやることになっている。


 来月は、わたしと悠がその担当なのだ。


 今回は、悠の提案で『ノンタンブランコのせて』という絵本のペープサートをやることになった。


 今はそのペープサートの制作をしている。


 「こらー!悠っ!雑に画用紙切らないの」


 「えー、ちゃんと切ってるつもりなんだけどなぁ」


 相変わらず、悠は不器用で画用紙を丸く切れない。切った箇所がギザギザになってしまっている。丸の形も、どこか歪な形をしている。


 「ちゃんと綺麗に丸く切るところは鉛筆で描いて下書きするの。丸が上手に描けなかったら、トイレットペーパーの芯とか使って綺麗に描く!そういうの、めんどくさがらないの!わかった?」


 わたしが切った画用紙を丁寧にのりで貼りながらそう言うと、悠は「はいはい。わかったよー」と返事をしてにこにこしながら作業をづづける。


 わたしの前では素直にしているけれど、ちょっと目を離すと悠はすぐに手を抜くところがある。


 本当は口うるさくは言いたくない。けれど、わたしは彼のそういうところがすぐ目に入ってしまう、だから仕方がない。


 いつまでこんなふうに悠の世話を焼くことができるのだろうか。


 「わたしが側にいなくても、ちゃんとやってくんだよ」


 わたしは小さく呟いたあと、また胸がぎゅっと傷んで心がざわざわした。


 「ん?なんか言った?」と、悠がぽかんとした顔をする。


 「サボらず、ちゃんとやってほしいって言ったの。知ってるんだよ。わたしが見てないところで、悠はすぐサボろうとしてるのっ」


 心のざわめきを吹き飛ばすために、わたしはあえて大きな声で言った。


 すると、悠が「くくく」と笑いだす。


 「ん、何がおかしいの?」と、わたしは彼に訊ねる。


 「いやぁ、だってさぁ。晴はなんでも俺のことお見通しだなって。ちゃんと俺を見ててくれるのが嬉しくってさ。晴ってやっぱ俺のことだいすきなんだよなー」


 「あのねー、怒ってんのわたしはっ」


 「でも嬉しいなって」


 「怒られてるのに喜ぶなんて、まったく、こいつは…」と呆れつつ、わたしは彼の楽観的なこの性格を見習いたい。


 「あははは。怒られて嬉しいのは晴にだけだよー」


 わたしのざわざわした気持ちをよそに、悠は心地の良いそよ風のように笑う。


 いつもこの笑顔を見ていると、ざわついた心がすっと落ち着いていく。ぽかぽかと心が平穏になっていくのだ。


 やっとペープサートの制作が完成して帰ろうとしたとき、職員室のドアが開いた。


 そして、すぐに園長先生の声が飛んでくる。


 「ちょっと犬塚君、帰りに園長室寄ってねー」


 すると、悠が「あーっ!しまった、忘れてた」と慌て出す。


 「なに?またなにか忘れたの?」と、わたしはいやな予感がして訊ねる。


 「この前イベントで使ったテントが園庭に出しっぱなしでさ。それを園長先生と片付けようって約束してたんだよ、とっくに約束の時間過ぎちゃってる」


 「もうー、なにやってんのよ」


 わたしは呆れて額に手をあてた。


 「わたしも手伝う」


 「いいよ、晴は休んでて、テント重いし」


 「なら、尚更一緒にやったほうがいいじゃん。悠と園長先生だけでやるつもりなんでしょ。危ないよ」


 立ち上がるわたしを心配そうに悠がじっと見つめる。


 「そんな見つめられたら恥ずかしいんですけど」


 そのまま悠が、わたしの目をじーっと見つめて少し沈黙がつづいた。


 「ふぅ、しょうがない。晴にも手伝ってもらおうかな」


 悠はわたしの身体を心配したけれど、言い出したら聞かないわたしの性格を考慮したのだろう。


 わたしは、わたしの抱えている事情でみんなのお荷物になりたくない。


 ふたりで園長室に向かった。


 「犬塚くーん。どれだけ待ったと思ってるのよ」と言って、呆れ顔の園長先生。


 「すみません。すっかり約束忘れちゃってました」と、悠が素直に謝る。


 「そうだろうと思ったわ。でも職員室に呼びに行ったら、あなたたちが仲良く制作してるじゃないの。最初、声かけるの遠慮しちゃったわ」


 わたしが「ごめんなさい」が謝ると、園長先生が「なんで猫本さんが謝るのよ。いいのよ。これから犬塚君に頑張ってもらうから」そう言ってにこっと微笑んだ。


 「わたしも手伝います」


 「力仕事はいいのよ、猫本さん。無理しないで」と、少し困った顔をする園長先生。


 「無理じゃありません、わたしなんかの心配しないでくださいよ。テント片付けるくらい大丈夫ですって」


 わたしは笑ってそう言うと、悠と園長先生が呆れた顔をして目を合わせた。


 わたしには、ある事情があって保育園の職員たちはみんなそのことを知っている。


 だがら、ふたりともわたしに気を遣ってくれているのだろう。


 園長先生もわたしの性格をよく知っている。わたしはとにかく気を遣われるのがいやなのだ。


 気を遣われたら、遣われたぶんだけ、なんだが自分が普通じゃない気がする。


 結局、園長先生も折れて、わたしもテントの片付けを手伝うことになった。


 


 「よし!やっと終わったー」


 テントを片付け終えたあと、悠のやりきったという声を聞きながらわたしは安堵した。


 わかっていたけど、けっこう疲れた。意識がぼーっとして体がフラフラする。


 すると気を抜いた瞬間、わたしはよろけてしまい転びそうになった。


 咄嗟に、悠が体ごと受け止めてわたしを支える。


 「あー、やっぱり無理してる。晴、大丈夫か?」


 そう言って悠が、わたしを硝子玉のような綺麗な瞳で覗き込む。


 「ごめん。ちょっと、ふらついただけだから」


 わたしは咄嗟に照れ隠しで、そう言って苦笑いをした。


 「晴っていつも頑張りすぎちゃうところがあるから気をつけたほうがいいと思う」


 「う、うん。ありがと」


 悠はいつもわたしに優しい言葉をかけてくれる。その言葉が嬉しくて今度はちがう理由で頭がぼーっとしてしまう。


 「そういえば、犬塚君」


 園長先生の声が急に降ってきて、わたしははっと我に返ると、さっと悠の側から離れた。


 しまった。こんなところを見られたら、またいちゃいちゃしてると思われてしまう。


 「保育研究会の実践発表なんだけど、とりあえず来月には叩き台の資料ちょうだいね」と、園長先生が唐突に言った。


 え、保育研究会の実践発表?来月中に叩き台の資料?


 わたしの頭が追いついてないうちに、悠が「わかりました」と返事をした。


 園長先生が帰ってから、わたしは「ねぇ、悠。今の話ってなに?」と心配ですぐに訊ねる。


「あー、今年の保育研究会に俺のクラスの実践発表を出すんだよ」


 悠はあっけらかんと答えたが、わたしはそれを聞いてものすごく焦った。


 悠に保育のことから、料理など、必要なことを半年かけてしっかり教えていこうと思っていたのに、わたしの計画がいきなり音を立てて崩れたのだ。


 保育研究会とは、全国の保育士や大学の教授が集まって保育実践をもとに、より良い保育を討論し研究する会で、年に一回どこかの都道府県で開催される。


 そして、その実践発表の資料とは、当然パソコンで提出しなければならない。


 まず何を書くか考えなければならないのに、話が急すぎる。


 そういえばこの前、悠は職員室で何か園長先生に頼み事をされていた。


 これは安請け合いというレベルではない。


 だから悠は、電車の中でパソコン教えてと頼んできたのか。


 頭を抱えるわたしを見て、悠が「まぁ、なんとかなるっしょ」と他人事のように笑う。


 「悠のバカ!悠がやらなきゃならないことなんだよ!大変なんだよ!なんで早く言わなかったの?そうすれば、もっと早くから手伝えたのに」


 「晴の負担になりたくなかったんだよ。でも、どっちにしろパソコンは教えてもらわなきゃならないし、負担増やしてごめんね」


 素直に謝る彼を見たら怒る気にもなれない。


 「なんで研究会の話を受けたの?悠は新人だし、そんな無理しなくて良いと思うんだけど」


 わたしははあっとため息をついて理由を訊いた。


 すると、「早く晴みたいになりたいんだ。ちゃんと子どもたちの気持ちや発達がわかって、寄り添ってあげれる保育がしたいんだ。だから、この話が来たときに勉強になるからやってみたいと思ったんだよ」そう言って、悠がまっすぐな眼差しをわたしに向ける。


 安請け合いじゃなかったんだ。


 それに晴みたいにと言ってもらえて、単純に嬉しい。でも現実は甘くない。


 悠は資料の内容を日々の保育から考えなければならないし、なによりパソコンが使えない。


 「はぁ、わたしも手伝うから一緒に頑張ろうね」


 そう言って、わたしが諦めに近いため息をつくと、悠が「やっぱ晴は優しい。子どもにも、大人にも。そんな晴がだいすきで憧れなんだ」とにっこり笑った。


 「そういう恥ずかしいことをでかい声で言わないで。悠はわたしが手伝うことにちょっと依存しすぎ、いつまでも自立しないと、わたしどっか行っちゃうかもよー」


 恥ずかしさを紛らわすために、わたしはわざと意地悪を言った。


 「ははは、手厳しいなー」


 やることは盛りだくさん。でも、ふたりでならきっとなんとかなる。


 そう、ふたりでなら。


 でも、いつか悠はひとりでやれるようにならなければならない。


 そのときのために、今はわたしが彼を支えよう。


 そう思った。


 しかし、テントの片付けで予想以上にわたしは体力を使ってしまっていた。


 「大丈夫だから、悠んちにパソコン教えに行く」と言ったけれど、わたしの顔色が悪いことに気がついた悠が、「今度でいいからちゃんと休んで、晴は無理して頑張るところがあるからもうだめ」と言って聞かなかった。


 悔しいが時間があるとき、少しづつパソコンの使い方を教えていこう。


 まだ時間はある。


 今日は六月の第三月曜日。


 月に一度、わたしが大学病院で定期検査をする日だ。


 採血して、レントゲンとCTをして、主治医の先生と話をする。


 年に一回はPET検査という、さらに精密な検査も受けている。


 定期検査を終えて疲れきったわたしは、病院帰りの電車に揺られて座席で寝てしまった。


 そして気分が悪くなる、とてもいやな夢を見た。


 夜の暗くて薄気味悪い、どこかもわからない駅のホーム。


 そこで、わたしと悠が離れ離れになる夢だ。


 さっきまでとなりで手を繋いでいたはずなのに、いつの間にか悠がいない。


 わたしは、ぼーっとしていて気づくと電車に乗っていた。


 電車のドアが閉まり発車のベルが鳴る。


 窓から外を見ると、悠が必死になにかを叫んでいた。


 ひどく悲しい悲鳴をあげているような形相で、「晴、行くな。待ってくれ、俺も連れてってくれ」と電車の窓を叩いている。


 電車はそのまま出発して、わたしたちは離れ離れになってしまうという悲しい夢。


 わたしはもう何度も同じようなこういう夢を見ている。


 そのとき「晴っ。晴ーーーーーっ。はーーーーーーるってば」と、わたしを呼ぶ声が耳元から聞こえた。


 目を開けるととなりで座っている悠が、わたしと繋いでいる手をぎゅっと握ってトントンと上下に動かし、声をかけてくれている。


 「もうすぐ降りる駅だよ。起きて」


 「あ、ありがと。寝ちゃったんだ、わたし」


 寝起きのかすれ声が出た。


 「なんかうなされてたよ。悪い夢でも見たの?」


 悠が心配して、わたしの顔を覗き込む。


 「うん。とても悲しくて怖い夢を見たの」


 朦朧としながらも夢の内容を鮮明に思い出してしまい、そのせいで不安にかられたわたしの鼓動が強くなる。


 「大丈夫だよ。俺がどんなときでも側にいるから。いつでも一緒だよ、晴を必ず守るから」
 

 そう言って悠がわたしと繋いでいる手にぎゅっと力を入れる。


 彼の声、表情、香り、雰囲気、全部があたたかい。そのぬくもりに触れると悪夢でのせいで強く鳴っていた鼓動が、不思議なことにゆっくりと落ち着いていく。


 この前、悠はわたしに依存していて自立していないと言ったけれど、わたしのほうが彼に依存しているし自立もしていない。


 今年の春、わたしは病院に行きたくなくて診察をボイコットしたことが一度だけある。


 その日は「病院に行ってくる」と、家を出てから病院には向かわず暗くなるまで、桜舞公園のベンチに座って桜の木を眺めていた。


 連絡が取れず、家にもわたしがいないことを知った悠が、心配して公園まで探しに来てくれた。


 わたしは悠に声をかけられるなり、感情があふてしまい彼に抱きついて泣いた。とても怖かったのだ。


 これから、どうなってしまうかわからない。


 どんな痛いこと、苦しいこと、辛いこと、悲しいことが待っているのだろうか。それを考えるとどうしていいかわからない。真っ黒い恐怖がじわじわ足元から登ってきて足がすくむ。そんな感覚に襲われた。


 だから、すべてから逃げるように、悠と二年前にここで出会ったときのことを思い出しながら桜の木を眺めていたのだ。


 彼は泣きつくわたしになにも言わず、ただただ抱きしめてくれた。


 大丈夫?とか、なにがあった?とか、そういう言葉はなにも言わない。


 悠に抱きしめられると不思議なことに心がすっと落ち着いていく


 しばらくしてから顔を上げると、悠は目に涙を溜めて泣くのを我慢していることがわかった。


 わたしを抱きしめている彼の手が震えている。


 「晴は全部ひとりで抱えていたんだね。もう、ひとりぼっちにさせないからね。絶対いつでも一緒だからね」


 そう悠が言ってくれた。そして、わたしは心の中の不安の一部を打ち明ける。


 「病院ってさ、やっぱり怖いや。なんか、子どもみたいな理由でごめんね」


 彼は泣きながら話をうなずいて聞いてくれた。


 そんなことがあってから、わたしの大学病院の定期検査に、悠は必ずついて来てくれるようになった。


 となりに悠がいると勇気が湧いてきて、わたしは次の診察から病院に行くことができた。


 だから本当は自立できてないのはわたしだ。悠が側にいないと、ひとりで病院にも行けない。


 いつも全力でわたしを大切にして愛してくれる、悠のことが大好きで仕方がない。


 どうしようもないくらいに。