家から歩いて最寄りの桜舞駅に着くと、「はーーーーーるっ。おはよう!」と底抜けに明るい声で挨拶が飛んできた。


 どうやら悠が改札の前で待っていてくれたようだ。

 
 「悠の勤務って今日は遅番じゃなかった?」


 「うん。そうなんだけど晴と一緒がいいから早く来ちゃった」と、言ってからすぐわたしに抱きつこうとする悠。


 「もー!あっついっ!朝からベタベタしないでよ。それにここは駅だからっ!恥ずかしいからやめて!」


 わたしは悠の顔に手をあてて、ぐっと力を入れて体ごと彼を離した。


 「俺は早く晴に会いたくて会いたくてたまらなかったのにー!ははは」と、それでも悠は満面の笑みをしている。


 「毎日、保育園で会ってるでしょ」


 わたしは呆れた顔をして、わざと迷惑そうに言った。


 「昨日会っても、もう俺の中の晴パワーがもう枯渇してるんだ」


 そう悠が嘆いたとき、ふいに寝起きと同じような乾いた咳が出て、わたしは口を手で押さえた。


 悠はすぐにわたしの背中を優しくさする。


 しばらくして咳がおさまってから、悠が「晴、大丈夫?風邪?」と心配そうな顔をして覗き込む。そして、わたしのおでこに手をあてた。


 「うーん。熱はなさそうだな」


 「べつに大丈夫だって」


 そう答えると、悠は「そっか」と言って少し怪訝な顔をしたが、すぐにっこりとわたしにいつもの笑顔を向けた。


 「最近、晴がよく咳してる気がして心配でさ」


 「ちょっと咳したからって、わたしが弱ってるふうに見えた?悠に心配されるなんてまっぴらごめんなんだけど」


 わざと意地悪に言ってみる。


 「んだよ。晴、元気じゃん。安心した」


 「悠がわたしの心配するなんて百年早いんだから」


 そう。わたしは悠に、こんなわたしなんかの心配をしてほしくないのだ。


 悠は今年で二十歳の新社会人で、年齢はわたしの二個下。


 わたしのほうが年上だからという理由で、いつも彼の世話を焼いてしまうわけではなく、きっとこれは世話焼きなわたしの性格のせいだ。


 悠が普段から能天気でほっとけないのも、年下彼氏だからではなく、そういう彼の性格なのだ。


 保育園に着くと、ふたりで玄関のドアから入って職員室に向かう。


 こでまり保育園。築三十年の鉄骨三階建てで小さい園庭がある。


 名古屋市内でも都心部に建てられた、この保育園がわたしたちの職場だ。


 保育園というのはとても活気があるところで、いつも誰かの声が聞こえてくる。


 子どもたちが楽しんでいる声、ケンカをしてる声、泣いている声、仲直りしてるときの声。


 それを見守って手助けする保育士の声。


 子どもたちに振りまわされる保育士の声。


 保護者からの不安の声、感謝の声。


 全部がわたしの大好きな声で、これがいつも聞こえてくるのが保育園の日常だ。


 「おはよう。猫本さん、犬塚君」


 わたしたちが職員室で保育準備をしていると、優しい落ち着いた声の中年女性が話しかけてきた。


 園長先生だ。


 「あ、おはよーございますっ」


 ぱっと顔を上げて、悠が挨拶をする。


 そのとなりで、わたしも姿勢を正し頭を下げて「おはようございます」と挨拶をした。


 「もー、犬塚君!エプロンしなさいって、いつも言ってるでしょ!保育士は見た目も大事なの。それに犬塚君はエプロンしなきゃ保育士に見えないのよ」


 「すいません。でも、この前新しく買ったエプロンも子どもたちとじゃれ合ってたら、買ったその日に破れたんですよー」


 「あのエプロンもう破れたの?まぁ、ならしょうがないわね。エプロンが破れるくらい思いっきり子どもたちと遊んでる証拠だものね」


 そう言って園長先生が微笑んだ。しょうがないで済んでしまうのだから、うちの園長先生は優しいなぁと思う。


 他の保育園ではこうもいかないだろう。


 しかし、そんな優しい園長先生に甘えて保育士としての身だしなみを怠ってはいけない。


 それでは悠のためにならないので、わたしは「今度、悠のエプロン縫っときます」と言った。


 「うふふ。猫本さんはきっと良いお嫁さんになるわ」


 園長先生のその言葉にわたしはどきっとした。


 「でしょー。やっぱり園長先生もそう思う?」と言って、悠がにやにやと嬉しそうにしている。


 「わたしは悠のお嫁さんになるって、一回も言ってないけどね」


 「俺は絶対、晴と結婚するもん」


 「考えとく」


 「するもーん」


 「子どもみたいなふうに言わないで」


 「えー、だって俺。晴と結婚を前提に付き合ってるもん」


 「そういう恥ずかしいこと人前でペラペラ言わないでよ」


 わたしと悠のやりとりを見かねて、園長先生が「あなたたち。仲良しもいいけれど職場ではケンカもいちゃいちゃもだめよ」と言ってわたしたちを制した。


 「すいません」と悠は能天気に笑っているが、わたしは心の中で自分を叱咤する。


 そのあと園長先生は、悠に頼み事があったらしくその話を始めた。


 ちょっと離れていて内容はよく聞こえないけど、きっと人の良い悠のことだから深く考えもせず、いつもの調子で安請け合いをするのだろう。


 もう話が終わったらしく悠と園長先生は、昨日見たテレビ番組の雑談をしている。


 悠は人懐っこくて明るい性格で、誰からも可愛がられるところがある。


 しかし…、うーん。とわたしは頭を抱えた。


 悠が相手だとわたしはどうしても、すぐ気が緩んだ会話をしてしまう。


 だから人によってはそれが、いちゃいちゃしてるように見えてしまうこともあるだろう。


 それに、さっきのやりとりに関しては注意されても仕方がない。


 わたしと悠が付き合っていることは、保育園のみんなが知っていて、なんとなく公認のふたりになっている。


 みんながあたたかく見守ってくれているので、本当にありがたい。


 なぜみんなが、わたしたちが付き合ってることを知っているかと言うと、悠が就職面接で「あなたには人生の目標はありますか?」という、園長先生の質問に「僕の人生の目標は晴を幸せにすることです」と答えたのが伝説になっていて、今では保育園のみんなの笑い話だ。


 それでよく面接が通ったものだ。


 最初の頃、わたしは恥ずかしいのでふたりの関係について黙っていたけれど、悠は誰に聞かれてもあっけらかんと正直にカミングアウトしてしまうので、わたしも、もうどうでも良くなってきている。


 それでも不快に思う人がいるかもしれない。


 これからは気をつけようと、わたしは気持ちを引き締める。


 すると、悠が担当する五歳児クラスの保護者である真希さんが子どもの歩夢君を連れて、職員室のドアを開けて入ってきた。


 歩夢君がわたしたちを見るなり、「わー。晴先生と悠先生今日もラブラブー!けっこんしろー!」と指をさして揶揄ってきた。


 真希さんがすぐに「ちょっと歩夢っ!すみません」と、歩夢君の背中を摘んで苦笑する。


 「こらこら、大人を揶揄うもんじゃないっ!すぐ結婚するに決まってるだろう。なんなら悠先生は今すぐ結婚したい」


 そう言って、右手でグーサインを作った悠がどや顔をする。


 それを見て、わたし以外のその場にいる全員が大笑いをした。


 わたしが気をつけようと思っているのに、なんてわたしの周りの人たちは呑気なのだろう。


 頬が熱くなってきたので、それをみんなに悟られないように、保育準備をやっている振りをして反対を向いた。


 でも、わたしたちが付き合っていることを悪く思われているよりいいか。


 これも、わたしたちの日頃の信頼があってだし。


 残された時間を大切に、そして誠実に付き合わなければと、ひとり心の中で誓った。


 真希さんは園長先生に用があったらしく、その話を始める。


 「金白駅の交差点あるじゃないですか。最近、危険運転してるバイクがいるんです。あの交差点は信号が変わるの早いし心配で」


 「わかりました。あの交差点は子どものお散歩ルートで使ってますから教えていただきありがたいです。保育士たちになるべく迂回するよう伝えます」と、園長先生が答えた。