二年前の春。


 晴れた空に桜の花びらが舞い上がり、頬をなぞるように心地良い春風が通り過ぎる。


 桜で有名な桜舞公園の花見シーズンも終わりに近づき、わたしが座っているベンチの近くの八重桜だけが満開に咲いていた。


 わたしは当時、お気に入りだった白いワンピースを着て弾き語りの練習をしているとき。


 「こんにちは、猫本さん」と声をかけられた。


 声の主は白のロンTに黒のワイドパンツとスニーカー、片手にはスケボーを持った青年。


 最近アルバイトに来ている専門学生の犬塚悠君だった。


 彼は保育園で子どもたちが満足するまでたくさん遊びに付き合い、困っている子がいたら話を丁寧に聞き、真摯的で職員たちからも評判がいい。


 明里も「新しく入ったアルバイトの犬塚君って顔も性格もきっと晴好みだよ」と、冗談めかしく言っていた。


 わたしはそもそも病気のことがあって、とても恋愛をするような気分じゃなかった。


 そうじゃなくても年下は恋愛対象外。オーバーサイズのワイドパンツも子どもっぽくてわたし好みじゃない。


 とりあえず「こんにちは、犬塚君。公園で会うなんて奇遇だね」と無難に言葉を返す。


 「あっ、そのギターってYギターですよね?」と、彼がわたしのギターを見ると無邪気な顔をして言った。


 「うん、ギター詳しいんだね。もしかして犬塚君もギター弾くの?」


 「弾くわけじゃないんですけど、Yギターの工場が実家の近くにあるんですよ。だから、たまたま知ってただけです」


 「へぇ、そうなんだ。わたしいつかYギターの工場見学行きたいと思ってるんだー」


 「そのときは、いつかご一緒できたらいいなぁ」


 そう言って微笑んだ彼は、子どもっぽく、すっとわたしの心の中に入ってきた。


 「そういえば、猫本さんの歌とギター最高でした。勝手に聴いてごめんなさい。でも優しい声にギターが合っていて、どこか切なくて感動しました」と、改まって彼が言った。


 「ありがとう。でも、わたしが公園で弾いててびっくりしたでしょ」


 「い、いえ。以前と服の感じが変わっていたけど猫本さんって声ですぐわかりました。そのワンピースも似合っていて。か、可愛いです」


 わたしは彼の以前という言葉に対して疑問に思ったが、すぐ頭から消えた。可愛いと言われて単純に嬉しかったし恥ずかしかったのだ。


 「そんなに褒めないでよ、照れちゃうじゃん」


 「ほ、本当なんです。このあと予定とかありますか?」
 

 「とくにないけど」


 「時間はとらせません。ちょっとだけいいですか」


 彼はわたしのとなりに腰を下ろす。


 そして深呼吸をしてから「猫本さん、好きです。俺と付き合ってください」と、わたしを見てはっきりと言った。


 わたしは心底驚き、一瞬ときが止まったかのような感覚に陥る。


 たしかに聞きまちがえではない。


 そもそも急にあらわれて、彼はなにを言っているのだろう。


 わたしは彼に揶揄われているのだろうか。


 わたしが知っている男女の告白というのは、気になっている者同士が連絡やデートを繰り返して、その先にあるものだ。


 それをすべてすっ飛ばし、急にわたしに告白をする。


 それって街で気になった女性に、あわよくばと声をかけるナンパとなにがちがうのだろうか。


 普段から人を見る目がある明里だが、今回は大外れだと思った。


 犬塚君はわたし好みじゃない。


 誰からも好印象な彼だったのに、すぐ好きな人を取っ替え引っ替えするような軽い人なのだろうか。


 そう思うと腹が立ってきた。


 そういえば、さっきもわたしのワンピース可愛いとか言ってたな、歌とギターも褒めてくれた。


 急に相手を褒める。機嫌をとる。ナンパの常套手段じゃないか。


 疑いの目を向けるわたしに、彼が「猫本さんが子どもたちみんなに優しくて、泣いてる子がいたら話を聞いてあげて、一緒に解決方法を真剣に探すところを見ていました。誰かを否定するようなことを言わないし。みんなに優しい猫本さんを好きになってしまいました。あ、性格だけじゃなくて顔もめっちゃ可愛いと思っています」と真剣な表情で言った。


 わたしも、わたしで単純なのだがここまで言われて、なんだか彼が真剣に好意を寄せているふうに思えてくる。


 すると、今度は怒りが緊張に変わってしまい、また恥ずかしくなってきた。


 あー、明里ごめん。やっぱりこのまっすぐな性格も、真剣な表情もわたし好みかもしれない。


 実は最近とてもショックなことがあって、毎日、気分が沈んでいたので、このような気持ちにさせてくれた彼にありがたく思う。


 とりあえず、彼の気持ちだけ受け取っておこう。それだけでも、わたしは嬉しい。


 きっと、これを伝えたら。彼はわたしを彼女にしたいと思わないだろう。重いと引かれるだろうか。


 哀れむだろうか。それでも構わない。どうせ付き合えるわけがないのだ。


 嘘をついても仕方がない。真実を伝えよう。


 「あのね、犬塚君。わたし職場のみんなにまだ言えてなくて、秘密にしたいわけじゃないんだけど。ちょっと難しい事情があって、今からそれを言うね」


 わたしはなるべく冷静な口調で切り出す。


 彼は少し驚いた表情をして構えたが、真剣にわたしを見つめている。


 「わたし、もうすぐ死ぬかもしれない。だから犬塚君とは付き合えない、ごめん」


 自分では考えたくもないことだが、その言葉は思っていたよりもすっと出てきた。


 わたしは医者から、そのことを聞いてから毎晩涙が止まらない。


 今は体に自覚症状はないが、心が不安に押しつぶされそうになる。


 しかし、今は平然を装う。


 沈黙がつづいた。数秒、いや、きっと数分経ってから、わたしは口を開いた。


 「突然こんな話してしまってごめん。驚くよね。でも、ちゃんと伝えなきゃって思ったの。信じてくれる?」


 「信じますよ。猫本さんは俺を振るためにそんな嘘をつく人じゃない」


 唖然とした表情をして、そう言った彼の目と声には光がなかった。


 「そういうことだから、ごめんね」


 わたしは一年前、心臓の裏に腫瘍が見つかったこと。


 場所が悪くて手術では取れないこと。


 今後、大きくなっていくようなら命が危ないこと。


 そして最近、検査で腫瘍が少し大きくなったと判明したこと。


 縦隔腫瘍。つまり胸にできた癌。


 わたしの病気のすべてを彼に説明した。


 説明し終わって彼を見ると、彼の目からは大粒の涙があふれていた。


 「猫本さんは自分がつらくて、悲しくてこわい思いをたくさんしてる。それなのにみんなに優しく接していたんですね、毎日、顔にも出さずに」


 彼は嗚咽混じりに呟く。


 「そう思ってくれてありがとう」


 「さっき職場のみんなにはまだ言ってないって言ってたけど、家族や友人には相談してないんですか?」


 「さすがに家族には言ったよ。でも友達は泣いちゃうから言ってない。いつか言わなきゃいけないのにね」


 「好きな人や恋人はいないんですか?」


 「いないなぁ」


 そんな人がいたら心が救われるのだろうか。


 それとも余計につらくなってしまうのだろうか。


 そんなことを考えながら桜に目をやると、彼が「お願いがあります。ひとりで抱え込んでしまっている猫本さんを、僕にも支えさせてもらえませんか?」と、涙をふいてから優しくてまっすぐな眼差しをこっちに向けて言った。


 「振られたのにごめんなさい。俺もっと猫本さんを好きになってしまいました。でも、その変な意味じゃなくて。とにかく彼氏じゃなくてもいいから支えたいんです。俺になにができるかわからないけど、どんなときだって側にいることならできます。悲しいときだって誰かがひとりでも側にいてくれたらちがいますよね。俺を猫本さんのその誰かのひとりにしてください。お願いします」


 決して、わたしは恋愛体質ではない。


 けれど彼の優しくてまっすぐで力強い言葉に、わたしの鼓動が高鳴る。


 振ってやろうと真実を伝えたのに。


 彼は、わたしから離れるのではなく側で支えたいと言ってきた。


 冷たいわたしに差し込む、あたたかい陽だまりのような存在に思えた。


 「あ、あのさ、明日ってあいてる?前から行ってみたかったカフェがあるんだけど、良かったら一緒に行く?」


 気づいたら、わたしのほうから彼を誘っていた。


 その日から、わたしたちは一緒に過ごすことが増えた。


 週末になるとふたりで遊園地、水族館、映画館、買い物、カフェなどに行くようになった。


 彼はいつもわたしの行きたいという場所を優先してくれて、いやな顔ひとつせず快くついてきてくれる。


 わたしは彼に心を開き、つらいことでもなんでも彼に話すことが増えた。


 ときにわたしがあたってしまい雰囲気を悪くしたこともある。


 それでも彼はどこにも行ってしまうことなく、わたしの側で思いやりを持って接しつづけてくれた。


 そして、その年の秋。わたしたちは恋人として付き合うことになった。