君と頑張る今日晴れる

 花火が終わってから、また悠の自転車のうしろに乗せてもらってふたりで堤防沿いをのんびり帰った。


 周りには街灯ひとつなく、遠くに屋台の光がぼんやりと見える。


 ふと夜空を眺めると名古屋の街中では、街の光に遮られて見ることができない綺麗な天の川が見えた。


 さっきは花火を見ていて気づかなかったが、夜空には月や無数の星が煌めいている。


 月明かりだけで悠の顔がはっきりと見えるくらい明るい。


 一面に広がる田んぼの稲が風でさらさらと揺れる。


 耳を澄ますと、川の水が流れる音、風で稲の葉が擦れる音、鈴虫やカエルの声しか聞こえない。


 ここは静寂で美しいべつ世界で、わたしと悠しかいないのではないかとさえ感じる。


 今このときがずっとつづいてほしい。


 わたしはそう思った。


 悠がわたしに見せたいものがあると、湧き水でできた泉に連れていってくれた。


 そこは桜井の泉という名前で、地元の人しか知らない小さな泉だった。


 水面には月が映り波紋でゆらゆら揺れている。


 泉のとなりには青々とした葉を豊富につけた、立派な桜の木が一本だけ生えていた。


 「静かでいいとこだろ、子どもの頃はここでよく遊んだんだ。近くには牛小屋もあって、じいちゃんによく連れてきてもらったよ」


 そう言って悠が、靴を脱ぎズボンを捲り上げて泉に足を入れた。


 わたしも彼に倣って浴衣下駄を脱ぎ、浴衣の裾を捲って泉に足を入れる。


 「冷たっ、こんなに冷たいの?」


 思った以上に水が冷たくて、わたしは思わず声が出た。


 「ははは、冷たいだろ。夏でもぬるくならないってすごいよな。地下水だから一年間温度は同じなんだって、じいちゃんが言ってた」


 泉の中をよく見るとぽこぽこと砂利が動き、こんこん水が湧き出ていることがわかる。


 名古屋の街中で育ったわたしには、すべてが珍しくて新鮮に思えた。


 わたしが手で水面を揺らしていると、悠が「春になると泉の上に桜の花が咲いて、すっげえ綺麗なんだよ。来年の春はここで花見しようぜ」と言った。


 「うん」と、どっちつかずの小さい返事を返したあと、すぐにしまったと思って笑顔を作る。


 悠に変に心配をしてほしくなかったのだ。


 「あー、今から春が楽しみだなぁ」と、悠が桜の木を眺める。


 悠といるとわたしの決心が揺らいでしまう。


 でも、もしもがあるのなら。


 「もしも、もしもだよ。わたしたちが年老いるまで一緒にいれたら、こんな素敵なところで暮らしたいな」


 「なんだよ、一緒にいられたらって。一緒にいるに決まってるじゃん。俺たちこの先もずっと一緒だよ」


 「そんなのわかんないでしょ。わたしがだらしない悠に愛想尽きるかもよ」


 色々込み上げてきたので、それを悟られないようにわたしはそっぽを向く。


 「ごめん、だらしないのは直すね」と、悠が苦笑いした。


 「こんな静かな田舎町で、自然に囲まれて家とか建てて庭には畑があって犬を飼ってさ。ふたりの老夫婦がそこでカフェを開くの。素敵じゃない?」


 わたしの頭の中に幸せな未来の想像が駆け巡る。


 「いいねー、その夢乗った!きっとあっという間だぜ。だって晴といると楽しくて毎日がすぐに過ぎるんだ」


 悠が煌めく星のように微笑む。


 「ちゃんとお金貯めなきゃね。でも悠は計画性ないからなー」


 「よーし、そうと決まったら頑張ってお金稼ぐぞー!家計簿は晴にお願いするよ」


 「たしかに。悠にお金の管理は任せれないわ。無駄遣いされそうだもん」


 「もー、晴はめちゃくちゃ言うなぁ。俺はそんなやつじゃないってー」


 ふたりでたくさん笑った。


 そう、これは『もしも』だ。


 もしも、こんな未来があるのなら、わたしは幸せでたまらない。
 悠の実家に着くと、家族の誰かが帰ってきているらしく、玄関の電気がついていた。


 玄関のドアを開けて中に入る。悠は久しぶりの実家だというのに無愛想な顔をしている。


 「あら悠、おかえり。晴ちゃんもいらっしゃい」


 物音でわたしたちが来たことに気づいた、仁美さんが玄関まで来て迎え入れてくれた。


 悠のお母さんである仁美さんは背は低いが、顔が悠とそっくりで親子なのだとすぐわかる。


 「仁美さん、お久しぶりです」と、わたしは挨拶をした。


 「せっかく帰ってきたんだからお母さんにちゃんと挨拶しなよ」


 わたしにそう言われてから、むすっとした顔のまま悠が「ただいま」とぼそっと呟く。そして、すぐに仏壇に向かってすたすた歩いて行ってしまった。


 以前、悠の実家に来たときも彼はこのような素っ気ない態度だった。いつもの悠からは想像ができない。


 悠は自分の両親となにかわだかまりを抱えてしまっている。


 でも今のわたしには、そのわだかまりをどうすることもできない。


 なんとか間に合うといいのだけれど。


 そのうち悠とこのわだかまりについて改めて話そう。


 悠にとって余計なお世話だとしても、わたしは彼のためになんでもすると決めている。


 それでケンカになってわたしが傷ついてしまってもいい。


 悠のためなら、わたしはなんだってやる。いつかわたしのことで立ち直れなくなってしまったとき、彼の味方がひとりでも多いほうがいいのだから。


 「ただいま。じいちゃん、ばあちゃん、帰ってきたよ」


 悠は仏壇の前で線香をあげて手を合わせた。


 わたしも悠に倣ってとなりに座り、持ってきた香典のお菓子を置いてから手を合わせた。


 仏壇には、太陽のように力強く咲いた向日葵が飾られている。


 「今日はお祭りだったわね、花火は見れた?」


 仁美さんがお盆で持ってきた湯呑みのお茶を、わたしたちの前に置いて言った。


 「はい。とても綺麗な花火でした」と、相変わらず一言も喋らない悠の代わりにわたしが答える。


 「じいちゃんと、ばあちゃんも花火が好きやったからねぇ」


 そう言って仁美さんが仏壇を見つめる。


 「そうなんだ」


 悠が一言呟きしばらく沈黙がつづいた。


 沈黙に耐えきれず、なにか話さないと息が詰まりそうで、わたしは咄嗟に口を開く。


 「そういえば、仏壇の向日葵とても立派で綺麗ですね」


 「うふふ、そうでしょう。これ今日の朝の採れたてなのよ」


 「採れたてってことは、うちで向日葵を育ててるんですか?」


 「そうよ。毎年、夏になると畑の一角を向日葵畑にするの」


 悠の肩がぴくっと動く。


 「まだ向日葵育ててたんだ。畑は危ないからやめなよ」と、悠が険しい表情で呟いた。


 「うーん、でもね。向日葵はばあちゃんがいちばん好きだった花なのよ。それを毎年じいちゃんが大切に育ててたのよね」


 「でも、そのじいちゃんは畑で熱中症になって死んじゃったんだよ」


 「あんたは、そう言うけどね。わたしはじいちゃんが畑で亡くなったのは、すごくじいちゃんらしい最後だったと思うわ」


 「なんでだよ」


 悠が刺すように仁美さんを睨む。


 ふたりが口論を始めてしまうのではないかと冷や冷やしたが、家族でもないわたしが口を挟める内容じゃない。今は黙っていよう。


 それに、ちゃんとお互いが気持ちを伝え合うことが大事なのだ。


 「じいちゃんね。あの日もばあちゃんが好きな向日葵を摘みに行ったのよ。夏になると太陽をたくさん浴びた向日葵をばあちゃんに見せたいって。いつも仏壇の花瓶の向日葵が枯れたら、すぐ新しい向日葵にじいちゃんが取り替えていたわ」


 「そうなんだ。そのことは初めて聞いたよ」


 そう言った悠の声色はさっきより落ち着いている。


 「あの畑と向日葵にはじいちゃんとばあちゃんの思い出が詰まってるの。だから母さんと父さんが動けるうちは守っていこうって決めたの」


 なんで今更…。わたしはとなりの悠が小さな声でそう呟いたのがわかった。


 過去に畑で起きた出来事は、悠にとっておじいちゃんとの突然の悲しいお別れになってしまった。


 だけど、それはおじいちゃんとおばあちゃんの、愛の形の結果だったのかもしれない。


 「仁美さん」


 「なあに?晴ちゃん」


 「帰るとき、わたしも畑で向日葵をもらってもいいですか?」


 「大歓迎よ。きっとじいちゃんとばあちゃんも喜ぶと思うわ。今日はもう遅いけど泊まっていくの?」


 「はい、そのつもりです」


 悠が答えるわけがないので、わたしが答える。


 「なら明日の朝に摘みに行くといいわ。じゃあ、悠の部屋に晴ちゃんの布団も用意しとくわね」


 「ありがとうございます」


 わたしは仁美さんに頭を下げた。


 悠がトイレで席を外したときに、仁美さんが「晴ちゃんって本当に礼儀正しくてしっかり者で美人だし、悠には勿体無いくらい自慢の彼女だわ」とこそっとわたしに言って微笑んだ。


 「わたしたち家族の事情で気を遣わせてしまってごめんなさい」


 頭を下げて謝る仁美さんに、わたしはふるふると首を振った。


 むしろ普段は、わたしが悠や周りの人たちに気を遣わせてしまっている。


 悠の素直な性格、仁美さんの人柄の良さを考えると、このふたりはなにかすれちがってしまっているのだとわたしは確信した。


 きっとわかり合えるはず、この家族のわだかまりをなんとかしたい。わたしはそう心の中で密かに誓った。


 そのあと、お風呂を借りてから、悠の部屋でいざ寝ようとしたとき。


 わたしは悠のベッドなのだから、悠にベッドを使ってほしかったのに「客人をましてや大切な彼女を床で寝せるわけにはいかない」と言い張ってわたしにベッドを貸して、彼は床の布団で横になった。


 今日はたくさん動いたので体力のないわたしは、ベッドの寝心地の良さもあり布団に入った途端ぐっすり寝てしまった。


 となりで子どものようにすぐ寝てしまうわたしに、微笑む悠の気配を感じた。

 朝、起こす人がいないのでふたりとも寝過ぎてしまい、時計を見るともう十時だった。


 仁美さんは、日曜日でも仕事なのですでに家にはいない。


 家の裏側にある畑に向日葵を摘みに行くと、茄子、胡瓜、南瓜などの夏野菜の手入れをしている、悠のお父さんである正志さんがいた。


 「おぉ、悠、晴ちゃん。久しぶり、母さんから話は聞いてるよ。そこの小屋に園芸用の鋏があるから、それで好きな向日葵を摘むといい」


 正志さんが、畑仕事でこんがり焼けた肌に滴る汗をタオルでふきながら言った。


 「ありがとうございます」と言って、わたしは頭を下げる。


 悠は相変わらずなにも喋らない。


 「向日葵摘むよ、ついてきて、ぼーっとしてないで悠も良いの選んでよ」


 わたしはそう言って、昼行灯のような悠を引っ張って連れて行く。


 「あ、うん。ごめん晴」


 「謝んなくていいから、悠はどの向日葵がいい?」


  悠は並んだ向日葵を見て少し考え「うーん。これかな」と、太陽のほうをまっすぐ向いた向日葵をひとつ指差した。


 「じゃあ、わたしはこのとなりに咲いてるやつ」


 「そんな適当に決めていいの?いつもの晴だったらすごく悩みそうなのに」と、悠は首を傾げる。


 「適当じゃないよ、だってわたし、悠のとなりがいいもん」


 「ははは、ありがとう晴」


 わたしたちは何本かひまわりを摘んで、持ち帰るために切った茎のところに濡れティッシュと、その上にアルミホイルを巻いて袋に入れた。


 夏の青空には真っ白な大きな入道雲が浮かぶ。


 摘んだ向日葵を空に翳すと、青と白と黄色のコントラストがとても綺麗だった。


 この空も向日葵も笑っているみたい。


 わたしがそう呟くと、悠がとなりで優しく微笑んだ。


 「ねえ、悠。写真とろっか」


 「お、いいねえ」


 そして、わたしはスマホのインカメラで空と向日葵畑が入るようにして、悠と記念写真を撮った。


 そのあと正志さんに挨拶をして、わたしたちは畑をあとにした。


 時間を見るとすでに昼時で、K駅近くの『夏蜜柑』という定食屋でランチをすることにした。


 わたしは洋風ランチを頼み、悠は和風ランチを注文した。


 注文したランチが来てすぐ、悠が「晴、エビ好きだよね、あげる」とエビの天ぷらの、二本あるうちの一本をわたしの皿に乗せた。

 
 悠はいつもあたり前のように、わたしの好きなものをくれようとする。


 「ちょっと、わたしばっかりいいよ、だったら」と、わたしもステーキをナイフで半分に切り、悠が好きな大根おろしソースがたっぷり付いたほうを、彼の皿に乗せた。


 「えー、こんなもらったら悪いよ」


 「いいの、わたしがあげたいの」


 「じゃあ、俺ももっとあげるよ」


 「さすがにそんなに食べれないよ」とわたしが笑ったら、悠も「ごめんごめん」と微笑んだ。


 「悠のおじいちゃんとおばあちゃんも、こんなふうだったのかな」


 わたしは鞄の横に立てかけた向日葵を見つめて呟いた。


 「物心ついた頃に、もうばあちゃんはいなかったから直接見たことないけど仲良かったと思う」


 「何十年もおじいちゃんは、おばあちゃんを想いつづけて、毎年夏になると向日葵を育てて飾ってたんだよね」


 「そうだね」


 「その事実だけでおじいちゃんが、おばあちゃんをだいすきだったってわかるよ」


 そう。だいすきだからこそ離れ離れになってしまっても、ずっと想いつづけてしまうのだ。


 いつまでも、いつまでも。


 でも悠はまだ若い。


 おじいちゃん、おばあちゃんと同じではない。


 悠に寂しい思いはさせられない。でも今だけは一緒にいたいのだ。


 悠のとなりにいたい。


 どうしても、そう思ってしまうのだ。


 決意をしたはずなのに。


 「帰ったらお互いの部屋に向日葵飾ろうね」と店を出てからわたしが言うと、悠が「うん」と微笑んだ。
 K市からの帰りの電車に揺られて、わたしはいつの間にか寝てしまっていた。


 気がつくと、どうやらわたしは悠の肩を借りていたようだ。


 「ごめん、重かった?」


 「ぜんぜん気にならなかったよ」


 「ありがとう」


 「むしろ晴の良い香りがして、こっちがありがとうだよ」


 「そういう気持ち悪いこと女子に言わないの」


 わたしがそう言って肘打ちすると、悠が「うっ」と声を出す。


 「晴ぅ、電車の中なんだからいきなり攻撃するなよ」


 「悠が気持ち悪いこと言うからでしょ」と、わたしたちは小声で言い合った。


 「俺はこういうことは晴にしか言わないって」


 「ぜんぜん、そんなの嬉しくないっ」


 すると、なにかに気づいた悠の目がはっと大きく開く。


 「それより晴、あれ見て」


 悠の目線の先を見ると、青年がギターケースを立てて座席に座っている。


 そのギターケースのロゴはYギターのデザインだった。


 「あ、わたしと同じギターだ」


 「俺さー、ギター持ってる人を見かけると、晴と同じギターじゃないかなって確認しちゃうんだよね」


 「わかるよ。わたしも同じの使ってる人がいたら仲間だ、って嬉しくなる」


 最初はわたしの持っているYギターしか知らなかった悠。


 今では、わたしの影響でギブソン、マーチン、テイラー、ヤマハ、フェンダーなど色々なギターメーカーを知っている。


 そういえば最初に悠が、わたしに声をかけてくれたのもギターがきっかけだったな。

 二年前の春。


 晴れた空に桜の花びらが舞い上がり、頬をなぞるように心地良い春風が通り過ぎる。


 桜で有名な桜舞公園の花見シーズンも終わりに近づき、わたしが座っているベンチの近くの八重桜だけが満開に咲いていた。


 わたしは当時、お気に入りだった白いワンピースを着て弾き語りの練習をしているとき。


 「こんにちは、猫本さん」と声をかけられた。


 声の主は白のロンTに黒のワイドパンツとスニーカー、片手にはスケボーを持った青年。


 最近アルバイトに来ている専門学生の犬塚悠君だった。


 彼は保育園で子どもたちが満足するまでたくさん遊びに付き合い、困っている子がいたら話を丁寧に聞き、真摯的で職員たちからも評判がいい。


 明里も「新しく入ったアルバイトの犬塚君って顔も性格もきっと晴好みだよ」と、冗談めかしく言っていた。


 わたしはそもそも病気のことがあって、とても恋愛をするような気分じゃなかった。


 そうじゃなくても年下は恋愛対象外。オーバーサイズのワイドパンツも子どもっぽくてわたし好みじゃない。


 とりあえず「こんにちは、犬塚君。公園で会うなんて奇遇だね」と無難に言葉を返す。


 「あっ、そのギターってYギターですよね?」と、彼がわたしのギターを見ると無邪気な顔をして言った。


 「うん、ギター詳しいんだね。もしかして犬塚君もギター弾くの?」


 「弾くわけじゃないんですけど、Yギターの工場が実家の近くにあるんですよ。だから、たまたま知ってただけです」


 「へぇ、そうなんだ。わたしいつかYギターの工場見学行きたいと思ってるんだー」


 「そのときは、いつかご一緒できたらいいなぁ」


 そう言って微笑んだ彼は、子どもっぽく、すっとわたしの心の中に入ってきた。


 「そういえば、猫本さんの歌とギター最高でした。勝手に聴いてごめんなさい。でも優しい声にギターが合っていて、どこか切なくて感動しました」と、改まって彼が言った。


 「ありがとう。でも、わたしが公園で弾いててびっくりしたでしょ」


 「い、いえ。以前と服の感じが変わっていたけど猫本さんって声ですぐわかりました。そのワンピースも似合っていて。か、可愛いです」


 わたしは彼の以前という言葉に対して疑問に思ったが、すぐ頭から消えた。可愛いと言われて単純に嬉しかったし恥ずかしかったのだ。


 「そんなに褒めないでよ、照れちゃうじゃん」


 「ほ、本当なんです。このあと予定とかありますか?」
 

 「とくにないけど」


 「時間はとらせません。ちょっとだけいいですか」


 彼はわたしのとなりに腰を下ろす。


 そして深呼吸をしてから「猫本さん、好きです。俺と付き合ってください」と、わたしを見てはっきりと言った。


 わたしは心底驚き、一瞬ときが止まったかのような感覚に陥る。


 たしかに聞きまちがえではない。


 そもそも急にあらわれて、彼はなにを言っているのだろう。


 わたしは彼に揶揄われているのだろうか。


 わたしが知っている男女の告白というのは、気になっている者同士が連絡やデートを繰り返して、その先にあるものだ。


 それをすべてすっ飛ばし、急にわたしに告白をする。


 それって街で気になった女性に、あわよくばと声をかけるナンパとなにがちがうのだろうか。


 普段から人を見る目がある明里だが、今回は大外れだと思った。


 犬塚君はわたし好みじゃない。


 誰からも好印象な彼だったのに、すぐ好きな人を取っ替え引っ替えするような軽い人なのだろうか。


 そう思うと腹が立ってきた。


 そういえば、さっきもわたしのワンピース可愛いとか言ってたな、歌とギターも褒めてくれた。


 急に相手を褒める。機嫌をとる。ナンパの常套手段じゃないか。


 疑いの目を向けるわたしに、彼が「猫本さんが子どもたちみんなに優しくて、泣いてる子がいたら話を聞いてあげて、一緒に解決方法を真剣に探すところを見ていました。誰かを否定するようなことを言わないし。みんなに優しい猫本さんを好きになってしまいました。あ、性格だけじゃなくて顔もめっちゃ可愛いと思っています」と真剣な表情で言った。


 わたしも、わたしで単純なのだがここまで言われて、なんだか彼が真剣に好意を寄せているふうに思えてくる。


 すると、今度は怒りが緊張に変わってしまい、また恥ずかしくなってきた。


 あー、明里ごめん。やっぱりこのまっすぐな性格も、真剣な表情もわたし好みかもしれない。


 実は最近とてもショックなことがあって、毎日、気分が沈んでいたので、このような気持ちにさせてくれた彼にありがたく思う。


 とりあえず、彼の気持ちだけ受け取っておこう。それだけでも、わたしは嬉しい。


 きっと、これを伝えたら。彼はわたしを彼女にしたいと思わないだろう。重いと引かれるだろうか。


 哀れむだろうか。それでも構わない。どうせ付き合えるわけがないのだ。


 嘘をついても仕方がない。真実を伝えよう。


 「あのね、犬塚君。わたし職場のみんなにまだ言えてなくて、秘密にしたいわけじゃないんだけど。ちょっと難しい事情があって、今からそれを言うね」


 わたしはなるべく冷静な口調で切り出す。


 彼は少し驚いた表情をして構えたが、真剣にわたしを見つめている。


 「わたし、もうすぐ死ぬかもしれない。だから犬塚君とは付き合えない、ごめん」


 自分では考えたくもないことだが、その言葉は思っていたよりもすっと出てきた。


 わたしは医者から、そのことを聞いてから毎晩涙が止まらない。


 今は体に自覚症状はないが、心が不安に押しつぶされそうになる。


 しかし、今は平然を装う。


 沈黙がつづいた。数秒、いや、きっと数分経ってから、わたしは口を開いた。


 「突然こんな話してしまってごめん。驚くよね。でも、ちゃんと伝えなきゃって思ったの。信じてくれる?」


 「信じますよ。猫本さんは俺を振るためにそんな嘘をつく人じゃない」


 唖然とした表情をして、そう言った彼の目と声には光がなかった。


 「そういうことだから、ごめんね」


 わたしは一年前、心臓の裏に腫瘍が見つかったこと。


 場所が悪くて手術では取れないこと。


 今後、大きくなっていくようなら命が危ないこと。


 そして最近、検査で腫瘍が少し大きくなったと判明したこと。


 縦隔腫瘍。つまり胸にできた癌。


 わたしの病気のすべてを彼に説明した。


 説明し終わって彼を見ると、彼の目からは大粒の涙があふれていた。


 「猫本さんは自分がつらくて、悲しくてこわい思いをたくさんしてる。それなのにみんなに優しく接していたんですね、毎日、顔にも出さずに」


 彼は嗚咽混じりに呟く。


 「そう思ってくれてありがとう」


 「さっき職場のみんなにはまだ言ってないって言ってたけど、家族や友人には相談してないんですか?」


 「さすがに家族には言ったよ。でも友達は泣いちゃうから言ってない。いつか言わなきゃいけないのにね」


 「好きな人や恋人はいないんですか?」


 「いないなぁ」


 そんな人がいたら心が救われるのだろうか。


 それとも余計につらくなってしまうのだろうか。


 そんなことを考えながら桜に目をやると、彼が「お願いがあります。ひとりで抱え込んでしまっている猫本さんを、僕にも支えさせてもらえませんか?」と、涙をふいてから優しくてまっすぐな眼差しをこっちに向けて言った。


 「振られたのにごめんなさい。俺もっと猫本さんを好きになってしまいました。でも、その変な意味じゃなくて。とにかく彼氏じゃなくてもいいから支えたいんです。俺になにができるかわからないけど、どんなときだって側にいることならできます。悲しいときだって誰かがひとりでも側にいてくれたらちがいますよね。俺を猫本さんのその誰かのひとりにしてください。お願いします」


 決して、わたしは恋愛体質ではない。


 けれど彼の優しくてまっすぐで力強い言葉に、わたしの鼓動が高鳴る。


 振ってやろうと真実を伝えたのに。


 彼は、わたしから離れるのではなく側で支えたいと言ってきた。


 冷たいわたしに差し込む、あたたかい陽だまりのような存在に思えた。


 「あ、あのさ、明日ってあいてる?前から行ってみたかったカフェがあるんだけど、良かったら一緒に行く?」


 気づいたら、わたしのほうから彼を誘っていた。


 その日から、わたしたちは一緒に過ごすことが増えた。


 週末になるとふたりで遊園地、水族館、映画館、買い物、カフェなどに行くようになった。


 彼はいつもわたしの行きたいという場所を優先してくれて、いやな顔ひとつせず快くついてきてくれる。


 わたしは彼に心を開き、つらいことでもなんでも彼に話すことが増えた。


 ときにわたしがあたってしまい雰囲気を悪くしたこともある。


 それでも彼はどこにも行ってしまうことなく、わたしの側で思いやりを持って接しつづけてくれた。


 そして、その年の秋。わたしたちは恋人として付き合うことになった。
 K市では、久しぶりに充実した休日を過ごすことができた。


 もらった向日葵は、わたしと悠のお互いの部屋で花瓶に入れて飾ってある。


 金白駅を降りてから保育園までの道で、青く澄んだ空に大きな入道雲が見えた。


 わたしは幼い頃から空を見るのが好きで、いつまでも眺めていられる。


 お母さんに「いつまで空見てるの、ちゃんと前を見て歩かないと危ないよ」と、幼い頃よく注意されたっけ。


 わたしが空のなにを見ているかというと表情だ。


 見る場所、季節、天候、時間帯など、わたしの気分によっても毎回見え方がちがう。


 空はいろんな表情をわたしに見せてくれる。


 そんな空を見ていると、心が自然と落ち着くのだ。


 夏の青空に浮かぶ真っ白な入道雲を、じっと見ていると風に流されて形が変わっていく。


 その変化はゆっくりに見えるが、上空ではきっとものすごいスピードのはず。まるで、わたしたちの時間の流れのようだ。


 気づかないままあっという間に過ぎていってしまう。そう、わたしには時間がない。


 そんなことを考えていたら、また気持ちが沈んできた。


 しかし、職員室に入った瞬間、この沈んだ気持ちを一気に掻き消すような元気な声が飛んでくる。


 「はーるっ、おはよう!」


 見ると悠が机に書類を広げて作業をしていた。


 今日は珍しく一緒に出勤しようという連絡がないと思ったら、先に来て事務仕事をやっていたのか。


 「悠って今日は十時からの勤務だったよね。いつから来たの?」


 「八時くらい。ちょっとやらなきゃならないことが立て込んでてね。でも、大丈夫だから心配しないで」と言い、そわそわしながら苦笑いを浮かべる悠。


 わたしは彼の表情を見て、なにかまずいことになっているとすぐに気づいた。


 まるで食べたくないものが出てきて、バレないように机の下に捨てて食べたよ、と言っている子どもと同じ顔をしているのだ。


 「そういえば、今月ってやることだらけだよね。誕生日会に、保育参観に、悠は研究会の資料提出もあったよね。ちゃんとやってる?大丈夫なの?」


 わたしの質問に対して、悠は「うっ」と言葉を詰まらせて真っ青な顔をしている。


 彼が黙っているので、わたしはもう一度確認した。


 「ねえ、大丈夫なの?ちゃんと答えて」


 そう言ってわたしは、悠をじっと睨みつける。


 「誕生日会はこの前、晴とペープサート準備したじゃん、そっから進んでない」と、悠が謝罪会見のように話し出す。


 「はい、次、保育参観は?」


 わたしは淡々と彼に訊いていく。


 「壁面に飾る虹の絵は子どもたちと描いた」


 悠の声がさっきよりも小さい。


 「はい、次、研究会の資料は?」


 「思いついたことはメモしてあるけど、結局進んでない。晴が教えてくれたパソコンも使い方忘れちゃった、ごめん」と、なんとか聞き取れるような小さい声で答え、悠はわたしの顔色をちらりと伺った。


 「わかった。誕生日会はペープサートの劇の練習だけだね。ところで保育参観で歌うピアノは大丈夫なの?にじを弾くんでしょ」


 「う…、大丈夫じゃない」


 「子どものためににじの曲を頑張って弾くんじゃなかったの?わたし口だけの男はきらいだからね」と、わたしはきっぱり言った。


 すると「あれ、晴にその話したっけ?」と、ぽかんとした顔をする悠。


 しまった。これは以前、わたしが悠と理依奈ちゃんの会話を盗み聞きしてしまったときの情報だった。


 思わぬ墓穴を掘ってしまい「前に言ってなかった?悠が忘れてるだけじゃないの」と、わたしは苦し紛れに誤魔化す。


 「あー、そうかも。俺、忘れっぽいからなぁ」と相変わらず、悠は言った言わないの細かいことは気にもしていないので、わたしは胸をほっと撫で下ろした。


 ごめんね悠、と心の中で謝る。そのあと、また質問をつづけた。


 「ところで、いちばん大変そうな研究会の資料はどうするの?」


 「うーん、なんとかなるっしょ!って思ってる」


 「そんな適当じゃなんともならないっ」


 わたしが眉間にしわを寄せると、悠がしゅんと肩を落とした。


 やらなければならないことが、こんなにも重なってしまっているのに、どうして悠はこうも楽観的なのだろうか。


 怒りを通り越して呆れてきた。


 まあ、こんな状況だとしてもなんとかなるって楽観的に考えれるのは、悠の長所だとは思う。


 なぜなら、わたしが彼の立場だったら今頃パニックになっている。


 保育士といえば、世間では子どもと遊んだりお世話をする仕事、という認識があると思う。


 しかし、実際は子どもたちが帰ったあとの事務作業もかなり多い。


 悠は持ち前の明るい素直な性格で、元気に体を動かす遊びが得意だ。


 しかし、その他の事務作業がからっきしでできなさすぎる。


 なんとか悠には自分で、自分のことくらいできるようになってもらいたい。


 そうなるように彼を導くのがわたしの役目だ。


 悠のためならなんだってすると決めている。


 でも、手伝いすぎて甘やかしてしまうのは考えもの。それでは彼の力にならない。


 しかし、今回はわたしが全面的に手伝わないと厳しそうだ。


 「悠、今夜は保育園に残っていける?」


 「ごめん、今日はスケボーやりたいんだよね、だから朝早く来てやってたんだ」と、悠が申し訳なさそうに言った。


 そういえば最近、SNSに悠が自分のスケボー動画を投稿したらプロスケーターの人の目に留まった。


 そこから、悠はその人と連絡を取り合う仲になって、九月に名古屋の近くで大会を開催するから出てみないかと誘われているのだ。


 だから悠は近頃スケボーに熱を入れている。


 わたしとしては、悠が大好きなスケボーを応援してあげたい気持ちはある。


 けれど仕事がまともにできていないなら話はべつだ。


 たしか今日は、わたしと悠は勤務が六時に終わる。


 悠には可哀想だけど、仕事が終わったところを捕まえよう。


 わたしがどうしてもと言ったら、悠はいくらスケボーが好きでも、わたしを優先してくれることを知っている。頭の中でそう企んだ。

 しかし、わたしの勤務時間の終わりが近づいたとき、思わぬトラブルが起きた。


 保育室内の時計を見ると、もうすぐ五時半。


 いつもだったら四時にママがお迎えに来るはずの、めいちゃんのお迎えがまだ来ていない。


 最近、時計の見方を覚えためいちゃんが「ママがいつも来る時間過ぎてる、ママのおむかえ来るよね」と、不安で今にも泣き出しそうな顔をしてわたしに問いかける。


 友達のゆきちゃんも帰ってしまったし、心細くなるのも無理はない。


 「ママ絶対来るよ。大丈夫だよ」と言って、わたしはめいちゃんを安心させるために励ます。


 ちょうど六時になったとき、保育室内の電話が鳴った。


 「もしもし、五歳児クラス。猫本です」と、わたしは受話器を取る。


 「めいちゃんのママから電話があって、お迎えの時間が七時に変更。仕事でトラブルがあったみたいなの」と、園長先生からの内線だった。


 「わかりました」と返事をしてから受話器を置いて保育室内を見回すと、めいちゃんは机の上でぽつんとひとりでパズルをやっていた。


 「めいちゃん、ママから電話があってお仕事の都合でお迎えが七時になるんだって」


 わたしは、めいちゃんにわかりやすいように、時計の七の数字を指さして伝えた。


 すると、パズルをやっているめいちゃんの目から涙がぽろぽろとこぼれる。


 「おむかえ遅いのいや。ママ、わたしのこときらいなっちゃったのかな」


 「そんなことないよ、いつもだいすきだと思う」と、わたしはめいちゃんを抱きしめて背中をさする。


 「嘘だよ。今日きらいって怒ったもん」


 そういえば、めいちゃんの連絡ノートに『最近、仕事に余裕がなくてわたしがイライラしてしまい、めいにすぐ怒ってしまいます。朝は急いでいるのに、めいが朝食をなかなか食べ終わらないし、保育園に行く準備もしないのでケンカになってしまいました』と、めいちゃんのママの字で書いてあった。


 このような親子の衝突は珍しくない。


 親だって人間だからイライラするし、子どもだってさっさとは動けないし甘えたいのだ。それにまだ小さい子がいる家庭は朝が忙しいに決まっている。


 ママも、めいちゃんも、精神的に不安定になってしまっている。


 保育士として今ここでふたりを支えなければ。


 わたしがやれること。それは保育士としてめいちゃんの心の安心を守ること。ママの子育てを助けて支えることだ。


 「今日はママが来るまで、ずっと晴先生が一緒にいてあげる。大丈夫だよ」


 わたしはそう言ってとびきりの笑顔でめいちゃんに微笑んだ。


 泣きすぎて目が赤くなっためいちゃんが、腕で涙をふいてから「やったー!嬉しい」と今度は無邪気に笑う。


 そして「今日は晴先生と長く遊べるからラッキーな日だ」と、弾けるような笑顔をした。


 いやなことがあったら泣き、嬉しいことがあったら喜ぶ。


 めいちゃんの子どもらしさに、わたしもふふふと笑って言った。


 「そうそう、今日はラッキーな日だよ、めいちゃんなにしたい?」


 「うーんとね、晴先生とこの箱に入ってるパズル全部やる」と、めいちゃんがパズルの箱を指差す。


 「いいよ」


 わたしが微笑むとめいちゃんも嬉しそうに笑った。


 箱の中のパズルを全部やって、閉園時間の七時が過ぎてから保育室のドアが開き、めいちゃんのママがお迎えに来た。


 「あ、ママー」と、めいちゃんがママに駆け寄る。


 「めい、遅くなってごめんね」と、めいちゃんを大事そうに抱きしめるママ。


 「聞いてママ、今日はラッキーな日だったの。晴先生と長く遊べてこのパズル全部やったんだよー」と、嬉しそうにママに話すめいちゃん。


 そんなふたりを見てわたしの心はほっこりした。


 「晴先生、今日はお迎えが遅くなってしまいごめんなさい。いつも、めいをありがとうございます」と言って、ママが深く頭を下げた。


 「いいえ、お帰りなさい。ママもお仕事お疲れ様です」


 そう言って微笑んで、わたしはふたりが帰って行くのを見送る。


 がらんと誰もいなくなった保育室はとても静かだ。


 保育士という仕事は社会的に見れば給料は低いし、時間外労働も多い。


 それなのに、子どもたちの命と心を守るという重大な責任がある。


 保育士は割に合わない仕事という世の中の声をよく聞く。もちろん保育士が健康で元気に働きつづけるために処遇改善はされていくべきだと思う。


 でも、さっきのめいちゃんの笑顔や、ママが明日から元気に子育てに向かえることが、わたしにとっては大変だとしても充分保育士にやり甲斐を感じる対価なのだ。


 こんなわたしなんかでも誰かの役に立てるのが嬉しい。


 あ…、わたしなんか、そう考えるとまた悠にぶつぶつ言われるからやめとこう。


 帰る前に職員室を覗いたが、もちろん悠はいない。


 朝に言っていた通り、近所のスケートパークに行ったのだろう。


 わたしは帰り支度をして保育園を出た。


 ふと空を見ると、西の空に沈む夕日が優しくオレンジ色に輝いている。


 その綺麗な夕日を見ていたら、悠のことで焦る気持ちもあるが、なんとかなるように思えてくる。


 とりあえず悠のスケボーでも見に行くか。
 こでまり保育園から徒歩十分。


 WKスケートパーク。通称WKパークが見えてきた。


 高架下の一角に作られたこのパークは、広いとは言えないがいつもスケーターたちで活気付いている。


 WKパークを囲む金網の外にいると、シャーっとウィール(スケボーのタイヤ)が転がる疾走感のある音がして、カンカンとスケボーが地面やセクションにあたる軽快な音が聞こえてきた。


 WKパークの中に入ると何人かのスケーターが会釈をしたので、わたしも会釈をして返す。


 たまに悠のスケボーについて来るので、みんなわたしの顔を知っているのだ。


 もちろん運動が苦手なわたしはスケボーに乗ったことなどない。


 スケボーというと世間では柄の悪いイメージもあるが、このパークにいるスケーターたちは話してみると礼儀正しいスポーツマンような人が多い。


 以前ここのスケーターたちが、パーク周辺のゴミ拾い清掃をしていたのを見たこともある。


 わたしは隅っこのベンチに腰を下ろす。


 悠を探すと、セクションから飛び上がった空中でデッキ(スケボーの板)を蹴って回転させようと何度も挑戦していた。


 転んでもすぐ立ち上がり、何事もなかったかのようにまた挑んでいく。


 悠がスケボーで空中に飛び上がる姿は、そこだけ重力がないのかと思うほど軽く、まるで自由に飛んでいるかのように見えた。


 夢中になっている悠に声をかけるのも悪いと思って、わたしはそのまま座って見ていることにした。


 すると悠がセクションから空中に高く飛び上がり、次の瞬間、見事にスケボーを空中で回転させ技を決めて着地する。


 「おぉっ!」と周りから歓声が上がる。


 周りのスケーターが持っているスケボーを縦にコンコンと地面にあてて音を出す。


 これが技を決めた人に対する、「ナイス」など称賛の意味らしい。


 わたしはスケボーを持っていないので拍手をした。


 すると悠と目が合い、あっ、と気づいた彼がスケボーに乗ってこっちに来た。


 「晴、来てたんだ、声かけてくれれば良かったのにー」


 わたしのとなりに座って、悠が持っていたペットボトルの水を飲みながら言った。


 「集中してたし、声かけるのも悪いと思ってね」


 「もう終わろうと思ってたとこ、一緒に帰ろう」と言ってから、悠が帰り支度を始める。


 WKパークを出るときにわたしたちが会釈をすると、気づいた数人のスケーターが会釈をして返した。


 わたしたちはWKパークをあとにした。

 WKパークから、家までは徒歩二十分ほどなので、わたしたちは歩いて帰ることにした。


 すっかり日が沈みビル街には明かりが灯る。


 歩道をふたりで歩いていると涼しい風が通り抜けた。


 夜空には丸い月が輝き、星が数個見える。


 さすがに街の明るさに遮られて、天の川までは見えないが夏の大三角はよく見えた。


 悠は今月中に誕生日会、保育参観、研究会の資料提出と、やらなければならないことが盛りだくさん。


 こんな調子で大丈夫かな。


 そんなことを考えながら夜空を見ていると、スケボーを片手に持ってとなりを歩く悠に「あー。また、空ばっか見てるー」と笑われた。


 「えーっと、ベラ、アルタイラ、ネデブ」


 夜空の星を指さして、悠が呪文のように喋り出す。


 「やめて!それを言うなら、ベガ、アルタイル、デネブね。悠のまちがい聞いてると頭が痛くなる」


 こんなことを言いつつも彼のこういった能天気なところに、物事をすぐ悪いほうに考えてしまうわたしはいつも助けられている。


 「なんで晴はそんなこと覚えてんだよ」


 「夏の大三角の名前くらい学校で習ったでしょ」


 「そんなこと、もう忘れたー」


 「忘れただけじゃなくて、ちゃんと授業も聞いてなかったんでしょ」


 「うー」と口を尖らせる悠が、面白くてわたしはぷっと吹き出す。


 しかし、彼のマイペースなこのスピードで、今月中にやらなければならないことが終わるのか不安だ。


 わたしのクラスも保育参観があるけれど、親子でクッキー作りの保育計画をすでに立ててある。


 なので自分の心配はいらない。


 悠をなんとかしなくては、せめてもう少し危機感だけでも持ってほしい。


 いつまでだって側にいて、わたしが助けれるわけじゃない。


 それに、わたしには時間がないのだ。しばらく歩きながら考えているうちに名案が浮かんだ。


 きっとこれなら悠はやる気になってくれるだろう。


 「ところでスケボーの大会っていつだっけ?」と、わたしは悠に訊ねる。


 「八月の終わりだけど」


 「どこでやるっけ?」


 「T市だよ。前に一回だけ一緒に行ったことある場所。近くに海があるKMパーク」


 「あー、わかった。結構遠くでやるんだね。どうやって行くの?」


 「朝から電車で行こうと思ってる」


 「そっか。じゃあ、わたしも応援しについてくよ」


 「え、本当っ?めっちゃ嬉しいんだけど。うおー!やる気スイッチ入ったー」


 悠は本当に単純だ。


 「ところで、スケボーの大会の他にも悠はやることあるよね?」


 わたしは声のトーンをわざと落として言った。


 「うん」と、ばつが悪そうに小さく返事をする悠。


 「わたし自分のやることくらい、ちゃんとできない人のスケボーの応援なんて行きたくないなぁ」


 「俺、ちゃんとやるよ」と言った、悠の目が自信なさそうに泳ぐ。


 一応、自分でも少しはやばいと思っているようだ。


 「今月中は毎日、悠の家に行ってわたしが手伝ってあげる。忘れちゃったパソコンの使い方もまた教えるね」


 「え、本当!?」と言って、悠の目が輝き出した。


 「もし、悠が全部頑張ってやることできたら打ち上げパーティーしようよ。わたしが悠の好きなビーフシチューを作ってあげる」


 「まじ!?毎日、晴が来るなんて夢みたい!晴の手料理のビーフシチューもめっちゃ楽しみ」


 「でも悠が頑張ってやらなかったら今の約束は全部なしね」


 「わかった!よっしゃあ!俺、全部ちゃんとやる!晴との約束は絶対守る」


 悠のやる気スイッチは本当に単純で助かる。


 「わたしも全力で手伝うから、スケボーも保育もどっちも頑張ろうね」


 「晴が女神に見えてきたよ。すきすきー」


 「はいはい、抱きつくな!でも明日から夜はスケボーやる日と、保育園のことをやる日を決めて計画的にやるからね」


 「わかった。晴が毎日来るなら部屋を掃除しなきゃ!なんか映画とか観る?」


 「映画は観ない!遊びに行くんじゃないからね」


 わたしは浮かれる悠に釘を刺した。


 ふと夜空を見ると、煌々と輝く月と夏の大三角。


 夜空の星の光は、遠い星から何万年も前に発せられた光が、わたしたちの目に見えている。


 光のスピードは一秒で地球を七周半もしてしまうのに、夜空の星は想像もつかないほど、途方もなく離れているという事実だ。


 悠と神社で話した、死んでしまったら魂は空に行くという話を思い出す。


 もし、わたしがいなくなったら、悠はこの夜空をどんな気持ちで眺めるのだろうか。


 悠は夜空の星の中にわたしを探すのだろうか。


 そんなことを、ふと思った。