授業の終わりを告げるチャイムが廊下側から鳴っているのが聞こえた。図書室内にはスピーカーは備え付けられていない。
外の風の音や木の葉が擦れる音の方が、耳には届きやすかった。
そんな中、また始まりを告げるチャイムがかすかに聞こえると、あたしは目の前の西澤くんのことを真っ直ぐに見つめた。
そして、今まで誰にも打ち明けたことのなかった父と母のことを、胸の奥から湧き上がらせる。
繋いだ手をそっと離して、小さく深呼吸をした。
「うちの両親は、あたしが三歳の時に離婚したの」
西澤くんには、おばあちゃんと二人暮らしをしているってことは話していた。もっと、ちゃんとどうしてあたしには両親がいないのかを、どんどん、聞いてほしくなる。
「いつも喧嘩が絶えなかったって記憶がある。父なんて、顔は覚えていないけど、大きな声で怒鳴っている姿だけは覚えている。いつも母と言い合いになって、母も負けじと言い合って。間に入ろうとするおばあちゃんのことまで突き放すような言葉や態度をとっていたのを見てきたの……」
怖かった。
ずっと思い出すことをしてこなかった。心の奥底にしまいこんで、開けないように、触れないように、圧をかけるみたいに小さく小さく押し込んでいた。
いつか、消えてなくなれば良いのにと、ずっと思いながら。だけど、消えてなんてなくならない。
ふとした瞬間にたまに湧き上がってくることが、とても怖かった。
冷たい風のせいにしたいけれど、きっとこれは、蓋を開けてしまった心の奥から湧き上がる気持ちの気泡が身震いを起こしている。
そっと、自分を抱きしめるようにして両腕をさすった。
「そんな二人が、あたしの三歳の誕生日に突然、いなくなった」
涙は、溜め込みすぎると簡単には出てこないものなのかもしれない。
悲しみは湧き上がってきていても、涙はいっこうに瞳に溜まらない。
「捨てられたんだ、あたし」
悲しいを通り越すと、なんでだろう?
楽しくなんてないのに、口角が勝手に上がってしまう。苦しいくらいに胸が押しつぶされて、息ができなくなるくらいにひどく痛いのに、どうしてだろう?
あたしはなんで、笑っているんだろう……
「母に、あたしは捨てられたの……要らなかったんだ……あたしのことなんて。ずっと、怖かった。だけど、あたしは……母にそばにいて、欲しかった……」
震えていく声。先ほどよりも、指先に血が通わなくなるみたいに、腕をさする手もひんやりとしてくる。
『泣いたってしょうがないでしょ!』
父と喧嘩をした母は、泣き喚いて縋り付くあたしにいつもそう怒鳴った。
怖かった。
泣くのをやめたかった。
だけど、どうしたって泣くこと以外になにも出来なかった。
母からは離れたくなかった。どんなに大きな声をあげられても、見上げてみれば、歯を食いしばって耐え凌ぐみたいに母が震えているから、なんだかその姿が今にも消えて無くなってしまいそうに見えて、もっと、怖かった。
あたしが、母のそばにいてあげたかった。だから、泣いたってなんだって、必死にしがみついていた。
それなのに──
母はあたしを置いて、いなくなった。
限界だった。必死で堪えていた涙はもうすぐそこまで湧き上がっていた。
笑っていた口角を、ぎゅっと結んで一文字に力を込めた。
「泣いて良いんだってば」
ため息をするように、だけど、優しくて柔らかい言葉があたしを包み込む。西澤くんは立ち上がると、あたしの横まで移動して立ち止まった。
「いいんだよ、泣いたって」
震えていた指先が、自然とゆっくり暖かさを取り戻していく気がする。
「たくさんたくさん、泣いていいんだよ。思う存分泣いたら、また、前を向けばいい。泣くのは、悪いことなんかじゃない」
あたしの横にしゃがみこんで、「ね」と顔を覗き込んでくる西澤くんの笑顔が、一瞬だけ見えた。かと思ったら、目の前が波打ち始めて、視界がぐちゃぐちゃに混ざり込んでいく。一瞬にしてもう、何も見えなくなった。
体が熱くなっていく。心の底の悲しみが、何度も何度も、押し寄せてくる。
耐えきれなくなって、あたしは声をあげて泣いていた。
もう、なにも我慢したくない。
押し込んでいた悲しみは、いつか消えるだろうなんて、そんなことがあるわけなかった。
全部、我慢しないで吐き出せていたら、こんなに辛くて苦しい思いなんて、しなくて良かったんだ。だけど、それがどうしてもできなかった。
拭っても拭っても溢れ出てくる涙に、頬と目尻が痛くなった。
西澤くんが隣の椅子を引いて座ると、あたしが泣き止むまで、ずっとそばにいてくれた。
誰かにそばにいてほしい。
あたしは、いつだって願っている。
だけど、人は離れて行ってしまうものだ。それが怖くて、なるべく深く関わらないようにしてきた。
離れてしまった時の悲しさが、どんなに悲しいか、あたしは知っているから。
「あはは、目、真っ赤」
ようやく落ち着いて、ポケットティッシュを取り出したあたしが鼻をかんでいると、隣でけらけらと西澤くんが笑った。
何も言わずにあたしは不服に頬を膨らませる。
「思い切り泣けたね」
微笑む西澤くんに、あたしは重たくなった瞼を懸命に開きながら小さく笑った。
「……うん、スッキリした」
なんだか、胸の中が空っぽになったみたいにスカスカだ。空気が、体の中を通り抜けていくみたいに清々しい気分。
初めての感覚に、なんだか不思議に思いながらも嬉しくなった。
「ねぇ、杉崎さん。俺の母さんに会ってみない?」
「……え」
突然、西澤くんが聞いてくるから、せっかくスッキリした気持ちにまた少しモヤがかかる。
「母さん……と、言うか、うちの家族に会ってみない?」
「……家族?」
「うん、俺の父さんと母さんと、大海と大地、そして花。みんなと、会ってみてよ。きっと、今たくさん泣けた杉崎さんなら、俺の家族のこと、受け入れてもらえる気がする」
西澤くんの提案に頷けずにいると、西澤くんも困ったように首筋を掻く。
「まぁ、家族と会って、とか、ちょっとアレか。なんか、両親に会わせるってなると俺も緊張しちゃうけど、友達ってことで遊びに来てみてよ。花もまた会いたいって言ってたし」
照れて、耳が赤くなる西澤くんに、あたしは小さく頷いた。
だって、花ちゃんにはまた会いたいと思っていたから。
あたしが頷くのを確認した西澤くんは、一気に表情が綻んでいく。嬉しそうににやけているから、なんだかあたしも照れてしまって、そっと視線を逸らして窓へと向けた。
一瞬だけ、蝉の鳴く聲が聞こえた気がして、幻のように消えていく。窓からの陽射しも、じりじりと焼くように眩しく入り込んでいたかと思えば、夏の光が少しずつ弱まって、柔らかい温かさを感じる、晩夏光。
初めて授業をさぼったあたしと西澤くんは、そのまま「かき氷を食べに行こう」と、学校を抜け出した。二人で別々の味を買って、分け合う。
西澤くんはきっと、こう言うことには慣れていない。もちろん、あたしだって慣れてるはずもないから、この前のまりんちゃんと隆大くんみたいなじゃれあいなんて出来ないけれど、なんだかすごく、楽しい。
「このカップで目元冷やしたらいいんじゃない?」
「え!」
かき氷のカップを目元に持ち上げて、西澤くんがニヤリと笑う。
あたしはすっかり泣き腫らしてしまった目のことを忘れてしまっていて、慌ててスマホで自分の目元を確認した。
「うわ、やばい。酷すぎる……」
思った以上に赤くなって腫れぼったくなっている瞼にまたしても泣きそうだ。
「大丈夫だって、かわいいから」
「え?」
「かわいいから大丈夫……!」
パクリと掬った氷を口に運んで、西澤くんは目を見開いてあたしに振り返った。
「あ! いや、えっと……」
一気にいちご味のかき氷みたいに真っ赤になっていく顔に、あたしはスマホをポケットにしまって、小さく「ありがと」と伝えると、ストローで溶けかけのかき氷を吸い込んだ。底に沈んでいたシロップの濃い味が冷たさと一緒に体に染み渡る。
西澤くんは素直だ。そんなところが、あたしは好きかもしれない。
「かき氷の次は、花火だよね」
ふと、そんなことを思って口にしてしまった。
「花火したいよね。俺の密かな夏の目標だもん」
「え?」
「杉崎さんと花火大会……は、叶わなかったけど、花火はまだ出来るよね。よし、食べたら花火買いに行こう!」
「え!?」
急いでかき込むから、西澤くんは「うっ!」と言ってから、こめかみにグッと手のひらを当てて俯いた。
どうやら、冷たさが頭に直にきたらしい。
分かっててやってんのかなぁ、西澤くんって、ほんと……
唖然と見つめていたあたしに気が付いて、西澤くんが目を細めた。
「絶対俺のことバカにしたでしょ? 今」
「し、してないしてない……」
慌てながら首を振るあたしに、ジト目をやめないから、苦笑いするしかない。
「いや、しました……」
観念して、ごめんと謝ると西澤くんが吹き出して笑うから、あたしまでおかしくなった。やっぱり、西澤くんになら素直になれる気がする。
あの日、忘れていた夏休みの日々が、なんだか懐かしく感じて、愛おしい。
食べ終わったカップをゴミ箱に捨てて、西澤くんが歩き出す方向に着いていく。
「今日は花の迎えは母さんが行くから、花火買って、なんか食べない? お腹空いたんだけど」
確かに。朝からサボってお昼も食べずに図書室で過ごしていたから、何も食べていなかった。しかも、たくさん泣いてしまってお腹は空いている。かき氷がこんなに美味しく感じられたのは、きっと空腹も相まってな気もする。西澤くんとコンビニに入っておにぎりとサンドイッチを買って食べた。
図書室から抜け出してきたから、靴も上靴だし、鞄も教室だ。一度取りに戻らなくちゃいけない。
「学校、戻る?」
「そうだな、なんか、怖いけど」
サボっていることは当然バレているだろうし、きっと担任と鉢合わせたら怒られる気がする。だけど、なんでだろう。西澤くんと一緒なら、あたしは怖くないと思っている。
「怖いの?」
「……いや、絶対俺が連れ出したんだろって言われそう。あ、いや、別にそれでも良いんだけどね、実際そうだし」
言いながらため息をついて、足取りも心なしか遅くなっていく西澤くんに、あたしは笑った。
「怒られる時は一緒にだよ」
軽く背中に手を置いて叩くと、落ちていた肩がシャキンっと上がった。眉が下がる笑顔で、「よろしく」と言われて、あたしは頷いた。
さっきまで本当にあたしは泣いていたんだろうかと思うほどに、気持ちが軽くて、今なら何にでも耐えられる気がした。
授業はとっくに全部終わっていて、校庭では部活動に励む生徒が見えた。
昇降口から中に入る前に、掃除用のロッカーから雑巾を取り出して上靴の裏を拭いた。
天気が良かったから、そこまで汚れることはなかったけれど、一応土足したことには変わりないから。学校内に足を踏み入れて、教室を目指そうとした瞬間、馴染みの声が聞こえてきた。
「涼風ー!?」
あたしを呼ぶのは、いつも元気な葉ちゃんだ。声のする方に視線を向けると、バスケットボールを胸の前に持って手を振る葉ちゃんの姿が体育館通路の少し手前に見えた。
「今日どうしたの? 大丈夫?」
心配そうに駆け寄ってきてくれた葉ちゃん。実はスマホに何件かメッセージを送ってくれていたのに気が付いていたけれど、開いて見ていなかった。
「……目、腫れてる?」
するどい葉ちゃんには、やっぱりすぐに気が付かれてしまう。あたしが気を張っていた葉ちゃんとの友情も、もしかしたらここまでかもしれない。本当のあたしを知ったら、きっと葉ちゃんに嫌われる。
「ちょっと、色々あってな」
「あれ? 西澤くん!?」
何も言えなくなってしまっていたあたしの後ろから、西澤くんが葉ちゃんに声をかけてくれた。
目を見開いて驚いた顔をする葉ちゃんに、あたしはさらにどうしようかと不安になる。
「二人とも、いなかったよね? 今日」
「うん」
「もしかして、二人でどっか行ってサボってた?」
「……うん」
担任に怒られた方が、よっぽどマシだと思った。
頷く西澤くんに、もうそれ以上一緒にいたことを葉ちゃんにはバラさないでほしいと願う。
西澤くんのことが好きな葉ちゃんに、二人でいたなんて知られたら、本当にもう、葉ちゃんとの友情なんて終わりだ。
ドクドクと苦しくなる胸に、あたしは息をするのも忘れて黙りこむ。
「西澤くんが、涼風のこと、泣かせたの?」
言葉の一つ一つが、重たく感じる。
ゆっくりと、確かめるように聞いてくる葉ちゃんに、西澤くんは困ったような顔をした後で、「……うん」と頷いた。
それは、違う。西澤くんがあたしを泣かせたわけじゃない。あたしの悲しみを解放させるために、泣いていいって、言ってくれたんだ。
だから、西澤くんが悪いわけじゃない。
全部、ずっと溜め込んで蓋をして、吐き出すことができなかったあたしが悪いんだ。
だから、西澤くんを責めたりしないでほしい。
葉ちゃんに、どうやってこの気持ちを伝えれば良いのか、一生懸命に頭の中でぐるぐると巡りながら考えるけれど、一向に答えが見つからない。
何を言っても、あたしの言葉は言い訳だし、偽りになる。
グッと、言葉の出てこない口元を結ぶと、目の前にいた葉ちゃんが急に笑い出した。
「やっぱり西澤くんってすごい!! さすがだわ。あたし、西澤くんにずっと頼りたかったの」
「…………え?」
ボールを持ってる手に力を込めて、葉ちゃんが前のめりになって西澤くんに詰め寄った。
その圧に負けてしまいそうになりながら、西澤くんは後ろに引いた足をまた元に戻した。
「あたし、涼風の友達だけど、涼風ってすごく考え方が大人で頑張り屋で、辛いこととかあってもすぐに蓋をしちゃうんだ。だから、あたしの方が勝手に辛くなったりしてた。古賀くんのこともなんだけどさ。だから、西澤くんが涼風のことで泣いてくれてるの見た時、この人本物だ! ってずっと思ってたの。西澤くんって、涼風のことすごくよく分かってくれてる気がしてた!」
あたしと西澤くんを交互に見ながら、葉ちゃんがニコニコと笑顔をくれる。
なんだか、胸の中の痛みが和らいでいく。
だけど──
「……葉ちゃん、西澤くんのこと……」
好きなんだよね?
「あたし、涼風も西澤くんも、人としてすごく好き。なんか、すごく真っ直ぐで、応援したくなっちゃうの」
「……真っ直ぐ……」
「うん。涼風は人を傷つけないようにっていつも周りを気遣ってくれるし、その代わり自分が傷つくのは見てみないふりするでしょ? あたし気が付いていたけど、なかなか助けにはなれなかった。でもね、西澤くんが涼風と接するようになってから、なんとなく、涼風が変わったような気はしてたの」
葉ちゃんには、全部ばれていたの?
「涼風って全然悲しい顔を見せないの。泣くなんてもってのほかだよ。それなのに、こんなに目が腫れちゃうくらいに大泣きさせれるって、西澤くん、やっぱりすごいよ!」
バスケットボールを足元に挟んで、葉ちゃんはあたしのほっぺを両手で挟み込んだ。
唇が突き出るくらいに挟まれて、慌てるけど、離してくれないから、そのままじっとするしかない。
「良かったね、涼風、ちゃんと泣けて」
きっと、今のあたしの顔は不細工だ。目の前の晴れやかに笑う葉ちゃんの笑顔と言葉に、またしても湧き上がってくる涙を懸命に堪えた。
「かわいいなぁ、涼風は。あたしの前でだって、泣いて良いんだよ。あたしのこの広い胸で受け止めるからっ」
頬の手を離すと、今度はぎゅうっと、葉ちゃんの胸に包まれる。葉ちゃんはいつだって、あたしのことを大事にしてくれる。この手が、離れるなんて心配、要らないのかなって、すごく安心する。
不安なんて、吹き飛んでいく。
「あー! 何やってんの!? そこっ」
後ろから、今度は甲高い声が聞こえてきた。
もうすっかり聞き馴染みのあるその声は、振り向かなくてもあたしには誰かわかった。
「……まりん」
ボソリと葉ちゃんがあたしの耳元で呟くから、答え合わせをしなくても正解だ。
「大空くんもいるー! リュウちゃんがなんか心配してたよー?」
「あ、まじで? ちゃんと話してこないとな」
「で? どうだったの? 二人きりのデートは?」
スキップするみたいに駆け寄ってきたまりんちゃんの前に、葉ちゃんが立ちはだかる。
「……まりん、今日こそは部活来な!」
「え!? なんで? 行かないってば。あたし二人の話聞きたいーっ」
「あんたさ、空気とか読まないの?」
「…………空気?」
空中を見上げたまりんちゃんの目線が、うろうろと彷徨う。
「空気なんて読むもんじゃないでしょーっ! なんも書いてないもーんっ!」
けらけらと笑い出すまりんちゃんに、葉ちゃんが怒ったように「もうっ!」と言って、腕を取る。
「いいから行くよ!」
「やだよー、行かないよー、あたしなんてもう居場所ないもん」
ぐずりながらも葉ちゃんの力に抗えないのか、まりんちゃんが少しずつ体育館に引き摺られていく。
「あるから! ずっとあたし待ってるんだよ! まりんとバスケやりたくてあたしはバスケ部入ったのに、こんな中途半端で逃げ出すとか絶対許さないから! 居場所がないとかなにバカなこと言ってんの!? みんなずっと待ってるんだよ? 早く戻ってきて盛大に謝んなさい!」
「……え」
「みんなまりんがいないとチームが締まらないの! 自分の立場がどんなに大事な存在だったかちゃんと確かめなさい! それでも嫌なら辞めればいい。そこまでは引き留めたりしないから」
一度立ち止まって、葉ちゃんがまりんちゃんと向き合っている。くるくると巻かれたツインテールが俯くまりんちゃんの顔を隠した。ぺたりと座り込んでしまったと思ったら、突然顔を上げた。
「…………うぇっ……うわーんっ! 葉ちゃーん! みんなー! ごめんなさーい! あたし、あたし……もうみんなからは見放されてるってずっと思ってて……別にいいもーんって開き直ってて、めちゃくちゃ最低だぁー!」
「マジ最低なんだからね! ちゃんと試合に貢献して償いな!」
「うわーんっ!!」
大泣きをし始めるのも構わずに、葉ちゃんにズルズルと引き摺られていくまりんちゃんの姿を最後まで見届けると、体育館の扉がパタリと閉まった。
なんだか、泣き喚くまりんちゃんの姿に、先ほどまでの自分もああだったのかと思うと、急激に恥ずかしくなってきた。
「ね、泣くのは大事」
クスクスと、西澤くんはまりんちゃんの姿に唖然としながらも、おかしそうに笑っている。
「そうだね」
我慢していたって、たまには吐き出さないと。
「蝉ってさ、七日間しか生きられないんだよ?」
「……え?」
「知ってた?」
「……知ってる……けど?」
なんだか、このやりとりはした覚えがある。
だけど、聞いたのはあたしの方だ。
「七日間のうちに、感情全部吐き出すんだよ。鳴いて鳴いて、鳴き喚いて。そして、生涯を終える。黙り込んだまま土に潜って、何にも吐き出さずに我慢ばかりしていたら、人生勿体なさすぎる」
蝉は、鳴くのが当たり前だと思っていた。
だけど、蝉にしてみたら、人生が、生まれてから死ぬまでの一生がかかっている。
だったら、鳴いて鳴いて、泣き喚いて尽きるのが、本望なんだろう。
「やっぱり、俺の母さんと会って話をしてほしい。二人とも、今ならきっと、うまく泣ける気がするんだ」
カバンを取りに教室に向かって、先生に見つからないように急いで学校を後にした。
西澤くんがスマホで話をする横顔を眺めながら、隣を歩いていた。時折はははっと笑う笑顔は優しくて、柔らかい。
通話の相手は、西澤くんのお母さんで、そしてきっと、あたしの母だ。
「夕飯? うーん、なんでもいいよ。え? あ、ごめん。でも、なんでもいい。母さんの料理みんな美味しいから。はは、うん、あ、花に花火やるからって伝えてて。うん、うん、じゃあよろしくね」
通話を終えて、西澤くんがこちらを向く。
「夕飯用意して待っててくれるって。友達連れてくの初めてだけど、母さんなんか嬉しそうにしてくれた」
「え!? 初めて?」
「え? うん、初めて」
「隆大くんとか、サッカー部の人とかは?」
慣れたように誘われたから、きっと友達が来ることは当たり前にあるんだと思った。
「ないよ。どっちかっていうと俺がみんなの家に行くことが多かったかな。うち、小さい子いるしあんまり騒ぐと母さんにも迷惑かけるかなって……やっぱ俺も今まで、何気に気を遣ってたのかも」
腕を組んで考えるポーズをしてから、こちらに笑いかける西澤くんに、胸がきゅんと弾んだ。押し込んでいた苦しさから解放された心の中は、さっきから弾けるように心地いい感覚を与えてくれる。
「初めて家に連れてく友達が杉崎さんで良かったよ。なんか、嬉しい。あ、でも今更緊張してきた」
胸に手を当てて苦しそうにする西澤くんに、あたしまで緊張が伝染する。
ドキドキが高まっていく胸に、西澤くんと目が合うと一緒に笑い合った。
心が軽いのに、満たされていく。
まるで、無色透明なラムネサイダーみたいだ。
透き通る中に気泡が弾けて、心地いい。
これって、あたしの知っている幸せに、近い感覚だ。
嬉しい。もっと、西澤くんを知りたい。そばにいたい。あたしの心の中が、西澤くんでいっぱいになる。
忘れていた夏の日。あの日西澤くんに見つけて欲しくて願った想いが、今、満たされたような気がする。
隣を歩く西澤くんの手が、触れそうなくらいに近い。そっと、あたしから近づけてみる。
コツンっと当たった指先に、離れようとした瞬間、しっかりと繋がれたことに驚いて、あたしは西澤くんの顔を見上げた。
「……繋いでも、いい? ってか、もう、繋いじゃったけど」
照れて、こちらを見てくれない西澤くんの頬が赤い。傾き始めた夕陽が赤さを増していくから、あたしもそんな夕陽のせいにして手を握り返す。
「うん、いいよ。あたしも繋ぎたかったから」
大きな手に包まれると安心する。
さっき葉ちゃんに包まれた優しさとも似ているけれど、それとはまた別に、ドキドキする。
苦しいのに、それがとても、心地良い。
いつまでも、この気持ちが続いてほしいと、願ってしまう。
おばあちゃんに、夕飯をごちそうになってくることを話してくるからと、一度あたしは帰ることにした。西澤くんと家に曲がる手前の角で手を振って別れると、緊張してしまう体にすぅっと息を吸い込んでから、足を進めた。
玄関を開けて「ただいま」といつも通りに家の中に入っていく。リビングからはテレビの音が聞こえていて、そっと中を覗くと、おばあちゃんが座って寛ぎながら、テレビに向かって笑っていた。
「おばあちゃん、ただいま」
「あら、涼風ちゃん、おかえりなさい」
すぐにこちらを向いて、にっこりと笑ってくれる。かと思えば、おばあちゃんはまたテレビに向き直るから、あたしはカバンを足元におろして、ソファに座った。
いつもなら帰ってきて部屋へ直行するあたしが、制服のまま座り込むから、おばあちゃんも何かを察してくれたみたいで、見ていたテレビの音量を低くしてからこちらを見た。
「……なにか、あったのかい?」
心配そうに聞かれて、あたしは俯いていた顔を上げて、一呼吸置いてから話し始めた。
「おばあちゃん。おばあちゃんは、あたしのこと、捨てたりしないよね?」
こんな聞き方をしたら、良くないってわかってる。だけど、こう聞くしか分からなかったから。
あたしは、両親には捨てられたんだと思っている。たとえ本当の母だとしても、あたしを捨てたんだし、そんな人の所へはあたしは行きたくない。ずっと一緒にいてくれると思っていたのに。おばあちゃんは、違ったのかな。おばあちゃんのことは大好きだけど、捨てられるようなあたしが、悪いんだよね。
「何、言ってるの……」
「前にね、ここであたしのお母さんと話してたよね? あたしを、引き取って欲しいって」
おばあちゃんの顔が、一瞬だけこわばるのがわかった。
「ごめんね。あたし、おばあちゃんが優しいからいつもたよっちゃって。わがまま言って、事故に遭ったりして心配かけて。もう、あたしのことなんて要らないよね」
「何言ってるの!?」
今度は、戸惑いながらも強い口調でおばあちゃんがテーブルに乗り出して言うから、驚いた。
「なにを……そんなこと……」
首を左右にゆっくり振りながら、おばあちゃんは悲しそうに眉を顰めた。
「隠れてお母さんと話していたことは、ごめんね。だけど、涼風ちゃんのことを捨てるだなんて、そんなものみたいな言い方、しないでほしい。涼風ちゃんはたった一人の大事な大事な私の孫なのよ。頼ってもらえるのが嬉しいの。わがままだって、かわいいものなのよ。そんな悲しいこと、言わないで……」
眉を下げて、おばあちゃんの目元が潤んでいく。おばあちゃんはいつも父と母の喧嘩を泣きながら止めていた。
おばあちゃんは泣き虫なんだ。だから、あたしはおばあちゃんのことを悲しませることはしたくなかった。
「おばあちゃんはね、涼風ちゃんと出来ることならずっと一緒にいたいよ。だけどね、やっぱり限界はあるのよ。それに、涼風ちゃんのお母さんは、涼風ちゃんのことを捨てたわけじゃない。それだけは、分かって……」
分かんない。
じゃあ、どうしてあたしを置いて今は別の家庭を持って幸せにしているの?
あたしの存在なんてなかったみたいに。
「これから、お母さんに会ってくる」
「……え?」
「あたしのクラスメイトのお母さんが、あたしのお母さんなの」
「……そう、なのかい?」
知らなかったらしい。あたしの言葉に、おばあちゃんは目を見開いて驚いている。
「ちゃんと、話してくる……」
あたしのことを捨てたわけじゃないのなら、どうしてあたしを置いていなくなったのか、あたしのことが要らなかったからって理由しか思いつかないから、本当の母の気持ちを、怖いけれど、ちゃんと聞いてみたい。
西澤くんのおかげで、気持ちがだいぶ前向きになれている。さっき繋いだ手から伝わった体温が、一人じゃないって、思わせてくれた。だから、きっと大丈夫。
「そうかい……うん。行っておいで。涼風ちゃんのお母さんは素敵な人だよ。ろくでもないのは、父親の方だ」
深いため息を吐き出すおばあちゃんの隣に、あたしはソファーから立ち上がって座った。そして、落ち込む背中にそっと手を当てた。
だいぶ丸くなった背骨、あたしよりずっと大きくて優しくてたくましかったおばあちゃんが、今はこんなに小さく見える。いつも笑顔を絶やさないおばあちゃんが、泣いている。
おばあちゃんには、幸せでいてほしい。
ため息なんて吐き出さないで、笑っていて欲しい。
あたしは、おばあちゃんをギュッと抱きしめた。
「おばあちゃん、大好き」
あたし、ちゃんと聞いてくる。怖くて蓋をしていた過去は、もう全部思い出したし、吐き出せた。聞いてくれて、受け止めてくれた西澤くんがいたから。
だから、きっと今日だって大丈夫。
あたしは、ちゃんと話をすることが出来るはず。
父と母のことを知りたい。
全部を受け止めて、前に進みたい……
「もう、いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだろうねぇ。ずっとちっちゃいままなら良いなってばぁちゃんはいつも思っていたよ。だけどね、そんなことは無理なんだよね。涼風ちゃんは毎日毎日一生懸命生きてるから。だから、こうやっていつの間にか、優しくて我慢強い子になったんだね」
トントンと、ゆっくり優しく背中を摩ってくれる。
小さかった頃を思い出す。おばあちゃんはいつもあたしが泣きそうになると、こうして大きな胸で抱きしめてトントンと背中をさすってくれた。
とても安心した。今だって、安心感は変わらない。だけど、今は大きかった胸の中からはみ出てしまっている。今度はあたしが、おばあちゃんを守ってあげたい。
「いつまでもかわいい涼風ちゃんでいて良いんだからね」
「うん、ありがとう。着替えたら行ってくるね」
「うん、行っておいで。私は適当に食べるから、ゆっくりしておいで」
笑顔で手を振り、おばあちゃんはテレビの音量を元に戻してまた見始めた。
部屋に戻って制服を脱ぐ。改まった格好はしなくても良いとは思うけれど、あまり普段着すぎてもよくない気がして、クローゼットの前で悩んだ。ふと、ハンガーにかかって一番端っこにある浴衣が目に留まった。
おばあちゃんが買ってくれた浴衣だ。
*
高校に入学して最初の夏、葉ちゃんが誘ってくれた夏祭りに来ていくはずだった浴衣は、あいにくの雨模様で急遽私服に変えた。それ以来、ここにかけっぱなしだった。
今年の夏も、古賀くんとこれを着て夏祭りに行けたらいいなぁ、なんて夢は見ていた。だけど、結局着れることはなかった。
また、来年かな。そう思っていたら、カバンの中でスマホが鳴った。
取り出して確認してみると、西澤くんから画像付きのメッセージが届いている。
すぐに見てみると、ピンク色の浴衣を着た花ちゃんが決めポーズをして写っている写真だった。
「……かわいい……!」
メインは花ちゃんだけど、後ろにお揃いの甚平を着た弟くんたちも映り込んでいる。
》花火するって言ったら、みんな浴衣着だしてさ、なんかすっかり夏祭りモードだよ。庭でバーベキューと焼きそばだって。フランクフルトも焼くって。もううちのお祭り会場整いつつあるからいつでも大丈夫だけど、迎えにいくから杉崎さんも準備できたら連絡ちょうだい。
夏は終わったはずなのに。時間が巻き戻っていくみたい。
西澤くんと出逢ってから、時間の感覚がおかしい。なんだか魔法にかかったみたいだ。なんだって叶えてくれる。
忘れていたことも、忘れたかったことも、全部、思い出しては受け止めていく。
《みんな浴衣かわいい。準備したら連絡するね!
返信をして、スマホをテーブルに置いた。
クローゼットの前に立って、一番端に手を伸ばす。紺地に白とピンクの牡丹が描かれた浴衣。それを手に取って部屋を出ると、リビングのおばあちゃんに見せた。
「おばあちゃん、これ着せて!」
驚いた顔をしたおばあちゃんは、すぐに笑顔になって腰を上げてくれた。
「ちょっとタオルとか準備するから向こうで肌着着ててちょうだい」
和室を指さされて、おばあちゃんは自分の部屋の方へと行った。言われた通りに和室で待っていると、戻ってきたおばあちゃんが手際よく浴衣を着せてくれる。
「ようやく着れたね」
「……うん」
「楽しんでおいでね」
「……お母さん、あたしが今日来ること、知らないんだよね……」
きっと、西澤くんは母にあたしのことはただの友達がくるとしか伝えていないと思う。
だって、こんなにスムーズにことが進むはずもない。あたしが夕飯を食べに行ったり、一緒に花火をするなんて、きっと嫌に決まってる。あたしだって分かったら、もしかしたら、押し帰されるかもしれない。
キュッと両脇に降りた手を握った。
俯くあたしの肩に、おばあちゃんは優しく触れてくれる。
「大丈夫だよ、いつだっておばあちゃんは涼風ちゃんの味方だからね」
おばあちゃんがいつも言ってくれていた言葉。安心する。
「それにね、涼風ちゃんのお母さんはきっと、涼風ちゃんが来てくれたら喜んでくれるよ。泣いちゃうかもしれないね」
「……お母さんは、泣いたりしないよ」
泣いちゃうのは、おばあちゃんだ。
目の前で目を潤ませて鼻を赤くしているおばあちゃんに、あたしは困ってしまう。
「涼風ちゃんのお母さんの涼花さんはね、誰よりも感情表現豊かな泣き虫なのよ。それをね、涼風ちゃんのお父さん……いや、私の息子が、あんなふうにしてしまったの。本当に、申し訳ないと思ってる」
「……あたし、お父さんのことは、あまりよく覚えてないの」
お母さんやおばあちゃんに大声をあげる父の姿がぼんやりと見えるだけで、鮮明な記憶はない。お祭りの時に瓶入りのラムネを差し出してくれた姿はよく覚えているけれど、その顔にすら、靄がかかっている。
「うん、そのまま忘れてやってくれた方がいい。とにかく、今日は楽しんでおいでね」
おばあちゃんは立ち上がると、キッチンに入って行った。
母と対面することが、怖いと思っていた。だけど、もしかしたらあたしは、ずっと母に会いたいと思っていたのかもしれない。
西澤くん宛てに「今から向かいます」とメッセージを送る。おばあちゃんがさっき用意してくれたんだろう。玄関には下駄がきちんと揃えてあって、鼻緒を指の間に押し込んだ。
慣れない感覚にふらつくけど、「行ってきます」とキッチンに聞こえるように声をかけて、あたしは家を出た。
外の風の音や木の葉が擦れる音の方が、耳には届きやすかった。
そんな中、また始まりを告げるチャイムがかすかに聞こえると、あたしは目の前の西澤くんのことを真っ直ぐに見つめた。
そして、今まで誰にも打ち明けたことのなかった父と母のことを、胸の奥から湧き上がらせる。
繋いだ手をそっと離して、小さく深呼吸をした。
「うちの両親は、あたしが三歳の時に離婚したの」
西澤くんには、おばあちゃんと二人暮らしをしているってことは話していた。もっと、ちゃんとどうしてあたしには両親がいないのかを、どんどん、聞いてほしくなる。
「いつも喧嘩が絶えなかったって記憶がある。父なんて、顔は覚えていないけど、大きな声で怒鳴っている姿だけは覚えている。いつも母と言い合いになって、母も負けじと言い合って。間に入ろうとするおばあちゃんのことまで突き放すような言葉や態度をとっていたのを見てきたの……」
怖かった。
ずっと思い出すことをしてこなかった。心の奥底にしまいこんで、開けないように、触れないように、圧をかけるみたいに小さく小さく押し込んでいた。
いつか、消えてなくなれば良いのにと、ずっと思いながら。だけど、消えてなんてなくならない。
ふとした瞬間にたまに湧き上がってくることが、とても怖かった。
冷たい風のせいにしたいけれど、きっとこれは、蓋を開けてしまった心の奥から湧き上がる気持ちの気泡が身震いを起こしている。
そっと、自分を抱きしめるようにして両腕をさすった。
「そんな二人が、あたしの三歳の誕生日に突然、いなくなった」
涙は、溜め込みすぎると簡単には出てこないものなのかもしれない。
悲しみは湧き上がってきていても、涙はいっこうに瞳に溜まらない。
「捨てられたんだ、あたし」
悲しいを通り越すと、なんでだろう?
楽しくなんてないのに、口角が勝手に上がってしまう。苦しいくらいに胸が押しつぶされて、息ができなくなるくらいにひどく痛いのに、どうしてだろう?
あたしはなんで、笑っているんだろう……
「母に、あたしは捨てられたの……要らなかったんだ……あたしのことなんて。ずっと、怖かった。だけど、あたしは……母にそばにいて、欲しかった……」
震えていく声。先ほどよりも、指先に血が通わなくなるみたいに、腕をさする手もひんやりとしてくる。
『泣いたってしょうがないでしょ!』
父と喧嘩をした母は、泣き喚いて縋り付くあたしにいつもそう怒鳴った。
怖かった。
泣くのをやめたかった。
だけど、どうしたって泣くこと以外になにも出来なかった。
母からは離れたくなかった。どんなに大きな声をあげられても、見上げてみれば、歯を食いしばって耐え凌ぐみたいに母が震えているから、なんだかその姿が今にも消えて無くなってしまいそうに見えて、もっと、怖かった。
あたしが、母のそばにいてあげたかった。だから、泣いたってなんだって、必死にしがみついていた。
それなのに──
母はあたしを置いて、いなくなった。
限界だった。必死で堪えていた涙はもうすぐそこまで湧き上がっていた。
笑っていた口角を、ぎゅっと結んで一文字に力を込めた。
「泣いて良いんだってば」
ため息をするように、だけど、優しくて柔らかい言葉があたしを包み込む。西澤くんは立ち上がると、あたしの横まで移動して立ち止まった。
「いいんだよ、泣いたって」
震えていた指先が、自然とゆっくり暖かさを取り戻していく気がする。
「たくさんたくさん、泣いていいんだよ。思う存分泣いたら、また、前を向けばいい。泣くのは、悪いことなんかじゃない」
あたしの横にしゃがみこんで、「ね」と顔を覗き込んでくる西澤くんの笑顔が、一瞬だけ見えた。かと思ったら、目の前が波打ち始めて、視界がぐちゃぐちゃに混ざり込んでいく。一瞬にしてもう、何も見えなくなった。
体が熱くなっていく。心の底の悲しみが、何度も何度も、押し寄せてくる。
耐えきれなくなって、あたしは声をあげて泣いていた。
もう、なにも我慢したくない。
押し込んでいた悲しみは、いつか消えるだろうなんて、そんなことがあるわけなかった。
全部、我慢しないで吐き出せていたら、こんなに辛くて苦しい思いなんて、しなくて良かったんだ。だけど、それがどうしてもできなかった。
拭っても拭っても溢れ出てくる涙に、頬と目尻が痛くなった。
西澤くんが隣の椅子を引いて座ると、あたしが泣き止むまで、ずっとそばにいてくれた。
誰かにそばにいてほしい。
あたしは、いつだって願っている。
だけど、人は離れて行ってしまうものだ。それが怖くて、なるべく深く関わらないようにしてきた。
離れてしまった時の悲しさが、どんなに悲しいか、あたしは知っているから。
「あはは、目、真っ赤」
ようやく落ち着いて、ポケットティッシュを取り出したあたしが鼻をかんでいると、隣でけらけらと西澤くんが笑った。
何も言わずにあたしは不服に頬を膨らませる。
「思い切り泣けたね」
微笑む西澤くんに、あたしは重たくなった瞼を懸命に開きながら小さく笑った。
「……うん、スッキリした」
なんだか、胸の中が空っぽになったみたいにスカスカだ。空気が、体の中を通り抜けていくみたいに清々しい気分。
初めての感覚に、なんだか不思議に思いながらも嬉しくなった。
「ねぇ、杉崎さん。俺の母さんに会ってみない?」
「……え」
突然、西澤くんが聞いてくるから、せっかくスッキリした気持ちにまた少しモヤがかかる。
「母さん……と、言うか、うちの家族に会ってみない?」
「……家族?」
「うん、俺の父さんと母さんと、大海と大地、そして花。みんなと、会ってみてよ。きっと、今たくさん泣けた杉崎さんなら、俺の家族のこと、受け入れてもらえる気がする」
西澤くんの提案に頷けずにいると、西澤くんも困ったように首筋を掻く。
「まぁ、家族と会って、とか、ちょっとアレか。なんか、両親に会わせるってなると俺も緊張しちゃうけど、友達ってことで遊びに来てみてよ。花もまた会いたいって言ってたし」
照れて、耳が赤くなる西澤くんに、あたしは小さく頷いた。
だって、花ちゃんにはまた会いたいと思っていたから。
あたしが頷くのを確認した西澤くんは、一気に表情が綻んでいく。嬉しそうににやけているから、なんだかあたしも照れてしまって、そっと視線を逸らして窓へと向けた。
一瞬だけ、蝉の鳴く聲が聞こえた気がして、幻のように消えていく。窓からの陽射しも、じりじりと焼くように眩しく入り込んでいたかと思えば、夏の光が少しずつ弱まって、柔らかい温かさを感じる、晩夏光。
初めて授業をさぼったあたしと西澤くんは、そのまま「かき氷を食べに行こう」と、学校を抜け出した。二人で別々の味を買って、分け合う。
西澤くんはきっと、こう言うことには慣れていない。もちろん、あたしだって慣れてるはずもないから、この前のまりんちゃんと隆大くんみたいなじゃれあいなんて出来ないけれど、なんだかすごく、楽しい。
「このカップで目元冷やしたらいいんじゃない?」
「え!」
かき氷のカップを目元に持ち上げて、西澤くんがニヤリと笑う。
あたしはすっかり泣き腫らしてしまった目のことを忘れてしまっていて、慌ててスマホで自分の目元を確認した。
「うわ、やばい。酷すぎる……」
思った以上に赤くなって腫れぼったくなっている瞼にまたしても泣きそうだ。
「大丈夫だって、かわいいから」
「え?」
「かわいいから大丈夫……!」
パクリと掬った氷を口に運んで、西澤くんは目を見開いてあたしに振り返った。
「あ! いや、えっと……」
一気にいちご味のかき氷みたいに真っ赤になっていく顔に、あたしはスマホをポケットにしまって、小さく「ありがと」と伝えると、ストローで溶けかけのかき氷を吸い込んだ。底に沈んでいたシロップの濃い味が冷たさと一緒に体に染み渡る。
西澤くんは素直だ。そんなところが、あたしは好きかもしれない。
「かき氷の次は、花火だよね」
ふと、そんなことを思って口にしてしまった。
「花火したいよね。俺の密かな夏の目標だもん」
「え?」
「杉崎さんと花火大会……は、叶わなかったけど、花火はまだ出来るよね。よし、食べたら花火買いに行こう!」
「え!?」
急いでかき込むから、西澤くんは「うっ!」と言ってから、こめかみにグッと手のひらを当てて俯いた。
どうやら、冷たさが頭に直にきたらしい。
分かっててやってんのかなぁ、西澤くんって、ほんと……
唖然と見つめていたあたしに気が付いて、西澤くんが目を細めた。
「絶対俺のことバカにしたでしょ? 今」
「し、してないしてない……」
慌てながら首を振るあたしに、ジト目をやめないから、苦笑いするしかない。
「いや、しました……」
観念して、ごめんと謝ると西澤くんが吹き出して笑うから、あたしまでおかしくなった。やっぱり、西澤くんになら素直になれる気がする。
あの日、忘れていた夏休みの日々が、なんだか懐かしく感じて、愛おしい。
食べ終わったカップをゴミ箱に捨てて、西澤くんが歩き出す方向に着いていく。
「今日は花の迎えは母さんが行くから、花火買って、なんか食べない? お腹空いたんだけど」
確かに。朝からサボってお昼も食べずに図書室で過ごしていたから、何も食べていなかった。しかも、たくさん泣いてしまってお腹は空いている。かき氷がこんなに美味しく感じられたのは、きっと空腹も相まってな気もする。西澤くんとコンビニに入っておにぎりとサンドイッチを買って食べた。
図書室から抜け出してきたから、靴も上靴だし、鞄も教室だ。一度取りに戻らなくちゃいけない。
「学校、戻る?」
「そうだな、なんか、怖いけど」
サボっていることは当然バレているだろうし、きっと担任と鉢合わせたら怒られる気がする。だけど、なんでだろう。西澤くんと一緒なら、あたしは怖くないと思っている。
「怖いの?」
「……いや、絶対俺が連れ出したんだろって言われそう。あ、いや、別にそれでも良いんだけどね、実際そうだし」
言いながらため息をついて、足取りも心なしか遅くなっていく西澤くんに、あたしは笑った。
「怒られる時は一緒にだよ」
軽く背中に手を置いて叩くと、落ちていた肩がシャキンっと上がった。眉が下がる笑顔で、「よろしく」と言われて、あたしは頷いた。
さっきまで本当にあたしは泣いていたんだろうかと思うほどに、気持ちが軽くて、今なら何にでも耐えられる気がした。
授業はとっくに全部終わっていて、校庭では部活動に励む生徒が見えた。
昇降口から中に入る前に、掃除用のロッカーから雑巾を取り出して上靴の裏を拭いた。
天気が良かったから、そこまで汚れることはなかったけれど、一応土足したことには変わりないから。学校内に足を踏み入れて、教室を目指そうとした瞬間、馴染みの声が聞こえてきた。
「涼風ー!?」
あたしを呼ぶのは、いつも元気な葉ちゃんだ。声のする方に視線を向けると、バスケットボールを胸の前に持って手を振る葉ちゃんの姿が体育館通路の少し手前に見えた。
「今日どうしたの? 大丈夫?」
心配そうに駆け寄ってきてくれた葉ちゃん。実はスマホに何件かメッセージを送ってくれていたのに気が付いていたけれど、開いて見ていなかった。
「……目、腫れてる?」
するどい葉ちゃんには、やっぱりすぐに気が付かれてしまう。あたしが気を張っていた葉ちゃんとの友情も、もしかしたらここまでかもしれない。本当のあたしを知ったら、きっと葉ちゃんに嫌われる。
「ちょっと、色々あってな」
「あれ? 西澤くん!?」
何も言えなくなってしまっていたあたしの後ろから、西澤くんが葉ちゃんに声をかけてくれた。
目を見開いて驚いた顔をする葉ちゃんに、あたしはさらにどうしようかと不安になる。
「二人とも、いなかったよね? 今日」
「うん」
「もしかして、二人でどっか行ってサボってた?」
「……うん」
担任に怒られた方が、よっぽどマシだと思った。
頷く西澤くんに、もうそれ以上一緒にいたことを葉ちゃんにはバラさないでほしいと願う。
西澤くんのことが好きな葉ちゃんに、二人でいたなんて知られたら、本当にもう、葉ちゃんとの友情なんて終わりだ。
ドクドクと苦しくなる胸に、あたしは息をするのも忘れて黙りこむ。
「西澤くんが、涼風のこと、泣かせたの?」
言葉の一つ一つが、重たく感じる。
ゆっくりと、確かめるように聞いてくる葉ちゃんに、西澤くんは困ったような顔をした後で、「……うん」と頷いた。
それは、違う。西澤くんがあたしを泣かせたわけじゃない。あたしの悲しみを解放させるために、泣いていいって、言ってくれたんだ。
だから、西澤くんが悪いわけじゃない。
全部、ずっと溜め込んで蓋をして、吐き出すことができなかったあたしが悪いんだ。
だから、西澤くんを責めたりしないでほしい。
葉ちゃんに、どうやってこの気持ちを伝えれば良いのか、一生懸命に頭の中でぐるぐると巡りながら考えるけれど、一向に答えが見つからない。
何を言っても、あたしの言葉は言い訳だし、偽りになる。
グッと、言葉の出てこない口元を結ぶと、目の前にいた葉ちゃんが急に笑い出した。
「やっぱり西澤くんってすごい!! さすがだわ。あたし、西澤くんにずっと頼りたかったの」
「…………え?」
ボールを持ってる手に力を込めて、葉ちゃんが前のめりになって西澤くんに詰め寄った。
その圧に負けてしまいそうになりながら、西澤くんは後ろに引いた足をまた元に戻した。
「あたし、涼風の友達だけど、涼風ってすごく考え方が大人で頑張り屋で、辛いこととかあってもすぐに蓋をしちゃうんだ。だから、あたしの方が勝手に辛くなったりしてた。古賀くんのこともなんだけどさ。だから、西澤くんが涼風のことで泣いてくれてるの見た時、この人本物だ! ってずっと思ってたの。西澤くんって、涼風のことすごくよく分かってくれてる気がしてた!」
あたしと西澤くんを交互に見ながら、葉ちゃんがニコニコと笑顔をくれる。
なんだか、胸の中の痛みが和らいでいく。
だけど──
「……葉ちゃん、西澤くんのこと……」
好きなんだよね?
「あたし、涼風も西澤くんも、人としてすごく好き。なんか、すごく真っ直ぐで、応援したくなっちゃうの」
「……真っ直ぐ……」
「うん。涼風は人を傷つけないようにっていつも周りを気遣ってくれるし、その代わり自分が傷つくのは見てみないふりするでしょ? あたし気が付いていたけど、なかなか助けにはなれなかった。でもね、西澤くんが涼風と接するようになってから、なんとなく、涼風が変わったような気はしてたの」
葉ちゃんには、全部ばれていたの?
「涼風って全然悲しい顔を見せないの。泣くなんてもってのほかだよ。それなのに、こんなに目が腫れちゃうくらいに大泣きさせれるって、西澤くん、やっぱりすごいよ!」
バスケットボールを足元に挟んで、葉ちゃんはあたしのほっぺを両手で挟み込んだ。
唇が突き出るくらいに挟まれて、慌てるけど、離してくれないから、そのままじっとするしかない。
「良かったね、涼風、ちゃんと泣けて」
きっと、今のあたしの顔は不細工だ。目の前の晴れやかに笑う葉ちゃんの笑顔と言葉に、またしても湧き上がってくる涙を懸命に堪えた。
「かわいいなぁ、涼風は。あたしの前でだって、泣いて良いんだよ。あたしのこの広い胸で受け止めるからっ」
頬の手を離すと、今度はぎゅうっと、葉ちゃんの胸に包まれる。葉ちゃんはいつだって、あたしのことを大事にしてくれる。この手が、離れるなんて心配、要らないのかなって、すごく安心する。
不安なんて、吹き飛んでいく。
「あー! 何やってんの!? そこっ」
後ろから、今度は甲高い声が聞こえてきた。
もうすっかり聞き馴染みのあるその声は、振り向かなくてもあたしには誰かわかった。
「……まりん」
ボソリと葉ちゃんがあたしの耳元で呟くから、答え合わせをしなくても正解だ。
「大空くんもいるー! リュウちゃんがなんか心配してたよー?」
「あ、まじで? ちゃんと話してこないとな」
「で? どうだったの? 二人きりのデートは?」
スキップするみたいに駆け寄ってきたまりんちゃんの前に、葉ちゃんが立ちはだかる。
「……まりん、今日こそは部活来な!」
「え!? なんで? 行かないってば。あたし二人の話聞きたいーっ」
「あんたさ、空気とか読まないの?」
「…………空気?」
空中を見上げたまりんちゃんの目線が、うろうろと彷徨う。
「空気なんて読むもんじゃないでしょーっ! なんも書いてないもーんっ!」
けらけらと笑い出すまりんちゃんに、葉ちゃんが怒ったように「もうっ!」と言って、腕を取る。
「いいから行くよ!」
「やだよー、行かないよー、あたしなんてもう居場所ないもん」
ぐずりながらも葉ちゃんの力に抗えないのか、まりんちゃんが少しずつ体育館に引き摺られていく。
「あるから! ずっとあたし待ってるんだよ! まりんとバスケやりたくてあたしはバスケ部入ったのに、こんな中途半端で逃げ出すとか絶対許さないから! 居場所がないとかなにバカなこと言ってんの!? みんなずっと待ってるんだよ? 早く戻ってきて盛大に謝んなさい!」
「……え」
「みんなまりんがいないとチームが締まらないの! 自分の立場がどんなに大事な存在だったかちゃんと確かめなさい! それでも嫌なら辞めればいい。そこまでは引き留めたりしないから」
一度立ち止まって、葉ちゃんがまりんちゃんと向き合っている。くるくると巻かれたツインテールが俯くまりんちゃんの顔を隠した。ぺたりと座り込んでしまったと思ったら、突然顔を上げた。
「…………うぇっ……うわーんっ! 葉ちゃーん! みんなー! ごめんなさーい! あたし、あたし……もうみんなからは見放されてるってずっと思ってて……別にいいもーんって開き直ってて、めちゃくちゃ最低だぁー!」
「マジ最低なんだからね! ちゃんと試合に貢献して償いな!」
「うわーんっ!!」
大泣きをし始めるのも構わずに、葉ちゃんにズルズルと引き摺られていくまりんちゃんの姿を最後まで見届けると、体育館の扉がパタリと閉まった。
なんだか、泣き喚くまりんちゃんの姿に、先ほどまでの自分もああだったのかと思うと、急激に恥ずかしくなってきた。
「ね、泣くのは大事」
クスクスと、西澤くんはまりんちゃんの姿に唖然としながらも、おかしそうに笑っている。
「そうだね」
我慢していたって、たまには吐き出さないと。
「蝉ってさ、七日間しか生きられないんだよ?」
「……え?」
「知ってた?」
「……知ってる……けど?」
なんだか、このやりとりはした覚えがある。
だけど、聞いたのはあたしの方だ。
「七日間のうちに、感情全部吐き出すんだよ。鳴いて鳴いて、鳴き喚いて。そして、生涯を終える。黙り込んだまま土に潜って、何にも吐き出さずに我慢ばかりしていたら、人生勿体なさすぎる」
蝉は、鳴くのが当たり前だと思っていた。
だけど、蝉にしてみたら、人生が、生まれてから死ぬまでの一生がかかっている。
だったら、鳴いて鳴いて、泣き喚いて尽きるのが、本望なんだろう。
「やっぱり、俺の母さんと会って話をしてほしい。二人とも、今ならきっと、うまく泣ける気がするんだ」
カバンを取りに教室に向かって、先生に見つからないように急いで学校を後にした。
西澤くんがスマホで話をする横顔を眺めながら、隣を歩いていた。時折はははっと笑う笑顔は優しくて、柔らかい。
通話の相手は、西澤くんのお母さんで、そしてきっと、あたしの母だ。
「夕飯? うーん、なんでもいいよ。え? あ、ごめん。でも、なんでもいい。母さんの料理みんな美味しいから。はは、うん、あ、花に花火やるからって伝えてて。うん、うん、じゃあよろしくね」
通話を終えて、西澤くんがこちらを向く。
「夕飯用意して待っててくれるって。友達連れてくの初めてだけど、母さんなんか嬉しそうにしてくれた」
「え!? 初めて?」
「え? うん、初めて」
「隆大くんとか、サッカー部の人とかは?」
慣れたように誘われたから、きっと友達が来ることは当たり前にあるんだと思った。
「ないよ。どっちかっていうと俺がみんなの家に行くことが多かったかな。うち、小さい子いるしあんまり騒ぐと母さんにも迷惑かけるかなって……やっぱ俺も今まで、何気に気を遣ってたのかも」
腕を組んで考えるポーズをしてから、こちらに笑いかける西澤くんに、胸がきゅんと弾んだ。押し込んでいた苦しさから解放された心の中は、さっきから弾けるように心地いい感覚を与えてくれる。
「初めて家に連れてく友達が杉崎さんで良かったよ。なんか、嬉しい。あ、でも今更緊張してきた」
胸に手を当てて苦しそうにする西澤くんに、あたしまで緊張が伝染する。
ドキドキが高まっていく胸に、西澤くんと目が合うと一緒に笑い合った。
心が軽いのに、満たされていく。
まるで、無色透明なラムネサイダーみたいだ。
透き通る中に気泡が弾けて、心地いい。
これって、あたしの知っている幸せに、近い感覚だ。
嬉しい。もっと、西澤くんを知りたい。そばにいたい。あたしの心の中が、西澤くんでいっぱいになる。
忘れていた夏の日。あの日西澤くんに見つけて欲しくて願った想いが、今、満たされたような気がする。
隣を歩く西澤くんの手が、触れそうなくらいに近い。そっと、あたしから近づけてみる。
コツンっと当たった指先に、離れようとした瞬間、しっかりと繋がれたことに驚いて、あたしは西澤くんの顔を見上げた。
「……繋いでも、いい? ってか、もう、繋いじゃったけど」
照れて、こちらを見てくれない西澤くんの頬が赤い。傾き始めた夕陽が赤さを増していくから、あたしもそんな夕陽のせいにして手を握り返す。
「うん、いいよ。あたしも繋ぎたかったから」
大きな手に包まれると安心する。
さっき葉ちゃんに包まれた優しさとも似ているけれど、それとはまた別に、ドキドキする。
苦しいのに、それがとても、心地良い。
いつまでも、この気持ちが続いてほしいと、願ってしまう。
おばあちゃんに、夕飯をごちそうになってくることを話してくるからと、一度あたしは帰ることにした。西澤くんと家に曲がる手前の角で手を振って別れると、緊張してしまう体にすぅっと息を吸い込んでから、足を進めた。
玄関を開けて「ただいま」といつも通りに家の中に入っていく。リビングからはテレビの音が聞こえていて、そっと中を覗くと、おばあちゃんが座って寛ぎながら、テレビに向かって笑っていた。
「おばあちゃん、ただいま」
「あら、涼風ちゃん、おかえりなさい」
すぐにこちらを向いて、にっこりと笑ってくれる。かと思えば、おばあちゃんはまたテレビに向き直るから、あたしはカバンを足元におろして、ソファに座った。
いつもなら帰ってきて部屋へ直行するあたしが、制服のまま座り込むから、おばあちゃんも何かを察してくれたみたいで、見ていたテレビの音量を低くしてからこちらを見た。
「……なにか、あったのかい?」
心配そうに聞かれて、あたしは俯いていた顔を上げて、一呼吸置いてから話し始めた。
「おばあちゃん。おばあちゃんは、あたしのこと、捨てたりしないよね?」
こんな聞き方をしたら、良くないってわかってる。だけど、こう聞くしか分からなかったから。
あたしは、両親には捨てられたんだと思っている。たとえ本当の母だとしても、あたしを捨てたんだし、そんな人の所へはあたしは行きたくない。ずっと一緒にいてくれると思っていたのに。おばあちゃんは、違ったのかな。おばあちゃんのことは大好きだけど、捨てられるようなあたしが、悪いんだよね。
「何、言ってるの……」
「前にね、ここであたしのお母さんと話してたよね? あたしを、引き取って欲しいって」
おばあちゃんの顔が、一瞬だけこわばるのがわかった。
「ごめんね。あたし、おばあちゃんが優しいからいつもたよっちゃって。わがまま言って、事故に遭ったりして心配かけて。もう、あたしのことなんて要らないよね」
「何言ってるの!?」
今度は、戸惑いながらも強い口調でおばあちゃんがテーブルに乗り出して言うから、驚いた。
「なにを……そんなこと……」
首を左右にゆっくり振りながら、おばあちゃんは悲しそうに眉を顰めた。
「隠れてお母さんと話していたことは、ごめんね。だけど、涼風ちゃんのことを捨てるだなんて、そんなものみたいな言い方、しないでほしい。涼風ちゃんはたった一人の大事な大事な私の孫なのよ。頼ってもらえるのが嬉しいの。わがままだって、かわいいものなのよ。そんな悲しいこと、言わないで……」
眉を下げて、おばあちゃんの目元が潤んでいく。おばあちゃんはいつも父と母の喧嘩を泣きながら止めていた。
おばあちゃんは泣き虫なんだ。だから、あたしはおばあちゃんのことを悲しませることはしたくなかった。
「おばあちゃんはね、涼風ちゃんと出来ることならずっと一緒にいたいよ。だけどね、やっぱり限界はあるのよ。それに、涼風ちゃんのお母さんは、涼風ちゃんのことを捨てたわけじゃない。それだけは、分かって……」
分かんない。
じゃあ、どうしてあたしを置いて今は別の家庭を持って幸せにしているの?
あたしの存在なんてなかったみたいに。
「これから、お母さんに会ってくる」
「……え?」
「あたしのクラスメイトのお母さんが、あたしのお母さんなの」
「……そう、なのかい?」
知らなかったらしい。あたしの言葉に、おばあちゃんは目を見開いて驚いている。
「ちゃんと、話してくる……」
あたしのことを捨てたわけじゃないのなら、どうしてあたしを置いていなくなったのか、あたしのことが要らなかったからって理由しか思いつかないから、本当の母の気持ちを、怖いけれど、ちゃんと聞いてみたい。
西澤くんのおかげで、気持ちがだいぶ前向きになれている。さっき繋いだ手から伝わった体温が、一人じゃないって、思わせてくれた。だから、きっと大丈夫。
「そうかい……うん。行っておいで。涼風ちゃんのお母さんは素敵な人だよ。ろくでもないのは、父親の方だ」
深いため息を吐き出すおばあちゃんの隣に、あたしはソファーから立ち上がって座った。そして、落ち込む背中にそっと手を当てた。
だいぶ丸くなった背骨、あたしよりずっと大きくて優しくてたくましかったおばあちゃんが、今はこんなに小さく見える。いつも笑顔を絶やさないおばあちゃんが、泣いている。
おばあちゃんには、幸せでいてほしい。
ため息なんて吐き出さないで、笑っていて欲しい。
あたしは、おばあちゃんをギュッと抱きしめた。
「おばあちゃん、大好き」
あたし、ちゃんと聞いてくる。怖くて蓋をしていた過去は、もう全部思い出したし、吐き出せた。聞いてくれて、受け止めてくれた西澤くんがいたから。
だから、きっと今日だって大丈夫。
あたしは、ちゃんと話をすることが出来るはず。
父と母のことを知りたい。
全部を受け止めて、前に進みたい……
「もう、いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだろうねぇ。ずっとちっちゃいままなら良いなってばぁちゃんはいつも思っていたよ。だけどね、そんなことは無理なんだよね。涼風ちゃんは毎日毎日一生懸命生きてるから。だから、こうやっていつの間にか、優しくて我慢強い子になったんだね」
トントンと、ゆっくり優しく背中を摩ってくれる。
小さかった頃を思い出す。おばあちゃんはいつもあたしが泣きそうになると、こうして大きな胸で抱きしめてトントンと背中をさすってくれた。
とても安心した。今だって、安心感は変わらない。だけど、今は大きかった胸の中からはみ出てしまっている。今度はあたしが、おばあちゃんを守ってあげたい。
「いつまでもかわいい涼風ちゃんでいて良いんだからね」
「うん、ありがとう。着替えたら行ってくるね」
「うん、行っておいで。私は適当に食べるから、ゆっくりしておいで」
笑顔で手を振り、おばあちゃんはテレビの音量を元に戻してまた見始めた。
部屋に戻って制服を脱ぐ。改まった格好はしなくても良いとは思うけれど、あまり普段着すぎてもよくない気がして、クローゼットの前で悩んだ。ふと、ハンガーにかかって一番端っこにある浴衣が目に留まった。
おばあちゃんが買ってくれた浴衣だ。
*
高校に入学して最初の夏、葉ちゃんが誘ってくれた夏祭りに来ていくはずだった浴衣は、あいにくの雨模様で急遽私服に変えた。それ以来、ここにかけっぱなしだった。
今年の夏も、古賀くんとこれを着て夏祭りに行けたらいいなぁ、なんて夢は見ていた。だけど、結局着れることはなかった。
また、来年かな。そう思っていたら、カバンの中でスマホが鳴った。
取り出して確認してみると、西澤くんから画像付きのメッセージが届いている。
すぐに見てみると、ピンク色の浴衣を着た花ちゃんが決めポーズをして写っている写真だった。
「……かわいい……!」
メインは花ちゃんだけど、後ろにお揃いの甚平を着た弟くんたちも映り込んでいる。
》花火するって言ったら、みんな浴衣着だしてさ、なんかすっかり夏祭りモードだよ。庭でバーベキューと焼きそばだって。フランクフルトも焼くって。もううちのお祭り会場整いつつあるからいつでも大丈夫だけど、迎えにいくから杉崎さんも準備できたら連絡ちょうだい。
夏は終わったはずなのに。時間が巻き戻っていくみたい。
西澤くんと出逢ってから、時間の感覚がおかしい。なんだか魔法にかかったみたいだ。なんだって叶えてくれる。
忘れていたことも、忘れたかったことも、全部、思い出しては受け止めていく。
《みんな浴衣かわいい。準備したら連絡するね!
返信をして、スマホをテーブルに置いた。
クローゼットの前に立って、一番端に手を伸ばす。紺地に白とピンクの牡丹が描かれた浴衣。それを手に取って部屋を出ると、リビングのおばあちゃんに見せた。
「おばあちゃん、これ着せて!」
驚いた顔をしたおばあちゃんは、すぐに笑顔になって腰を上げてくれた。
「ちょっとタオルとか準備するから向こうで肌着着ててちょうだい」
和室を指さされて、おばあちゃんは自分の部屋の方へと行った。言われた通りに和室で待っていると、戻ってきたおばあちゃんが手際よく浴衣を着せてくれる。
「ようやく着れたね」
「……うん」
「楽しんでおいでね」
「……お母さん、あたしが今日来ること、知らないんだよね……」
きっと、西澤くんは母にあたしのことはただの友達がくるとしか伝えていないと思う。
だって、こんなにスムーズにことが進むはずもない。あたしが夕飯を食べに行ったり、一緒に花火をするなんて、きっと嫌に決まってる。あたしだって分かったら、もしかしたら、押し帰されるかもしれない。
キュッと両脇に降りた手を握った。
俯くあたしの肩に、おばあちゃんは優しく触れてくれる。
「大丈夫だよ、いつだっておばあちゃんは涼風ちゃんの味方だからね」
おばあちゃんがいつも言ってくれていた言葉。安心する。
「それにね、涼風ちゃんのお母さんはきっと、涼風ちゃんが来てくれたら喜んでくれるよ。泣いちゃうかもしれないね」
「……お母さんは、泣いたりしないよ」
泣いちゃうのは、おばあちゃんだ。
目の前で目を潤ませて鼻を赤くしているおばあちゃんに、あたしは困ってしまう。
「涼風ちゃんのお母さんの涼花さんはね、誰よりも感情表現豊かな泣き虫なのよ。それをね、涼風ちゃんのお父さん……いや、私の息子が、あんなふうにしてしまったの。本当に、申し訳ないと思ってる」
「……あたし、お父さんのことは、あまりよく覚えてないの」
お母さんやおばあちゃんに大声をあげる父の姿がぼんやりと見えるだけで、鮮明な記憶はない。お祭りの時に瓶入りのラムネを差し出してくれた姿はよく覚えているけれど、その顔にすら、靄がかかっている。
「うん、そのまま忘れてやってくれた方がいい。とにかく、今日は楽しんでおいでね」
おばあちゃんは立ち上がると、キッチンに入って行った。
母と対面することが、怖いと思っていた。だけど、もしかしたらあたしは、ずっと母に会いたいと思っていたのかもしれない。
西澤くん宛てに「今から向かいます」とメッセージを送る。おばあちゃんがさっき用意してくれたんだろう。玄関には下駄がきちんと揃えてあって、鼻緒を指の間に押し込んだ。
慣れない感覚にふらつくけど、「行ってきます」とキッチンに聞こえるように声をかけて、あたしは家を出た。