それから私は優雨を徹底的に避け始めた。
アルバイトのシフトは彼と同じ日のものだけ理絵ちゃんと三週間分交代してもらった。
彼からメッセージが着ても、既読になったまま放置すると逆にややこしいので適当に返す。
何にも知らない彼からのメッセージはいちいち癪に障った。
その気持ちを何とか抑えて、無の境地に入りながら返信を打ち込んだ。
『今日はテストだったよー』
『そうなんですね』
『バイト休んだ?
何かあった?
また風邪ひいたかな?』
『大丈夫です。
風邪はひいてないです』
『今からちょっとだけでもいいから電話できる?』
このメッセージには時間をずらして就寝前に返信した。
『すみません、難しいです。
おやすみなさい』
『今度いつ会えそうかな?』
『実力テストの出来が悪くて、親に勉強しろと言われているので、しばらく会うのは難しいです』
『いつまで?』
『少なくとも、今度のテストが終わるまでは』
『じゃあ俺が勉強教えるよ』
『ひとりで勉強するのが好きなので大丈夫です』
『俺、何かしたかな?
なんで避けられてるの?』
『避けてないです。
望月さんは何もしてません』
逆ギレされるならされてもよかった。
返事を返さなくて済むから。
私はもう、彼に何を言われても何も感じない。
『なんで望月さんって呼ぶの?
なんで敬語なの?』
ただ、さすがにこのメッセージには苛立ちを抑えられなかった。
自分だって、私のこと「かよこ」って呼ばねえじゃねえか。
他の女のことは名前で呼ぶくせに、と、思わず返信しそうになる。
かと言って適当な返事を返せなかったため、結果的に既読で放置した。
その日以降、彼からのメッセージはぴたりと来なくなり、連絡は途絶えた。
最近私は、ショパンの別れの曲と革命、そしてベートーヴェンの月光第三楽章の三曲を毎日必ず弾いていた。
近所の人から見ると情緒不安定なのかと思われても仕方がない。
実際にそうだった。
泣きながらこの三曲を弾くのが日課になっている。
親がいないひとりのときに、ピアノの音色で泣き声を隠しながら。
大学に行った次の日、泣きすぎて顔全体がむくみ、コンタクトが入らなかったので眼鏡で登校した。
学校を休む選択肢もあったけど、親に心配をかけたくなくて、どうにかして学校に辿り着く。
これは子どもとしての意地だった。
彼がいない子どもの世界。
皮肉なことに、私にとって高校は一番安心できる場所になっていた。
滅多にしてこない眼鏡姿を葉山君に見られる。
「どうしたの?」
「まあ、ちょっと色々あって」
「何かあったら話聞くから、いつでも連絡してよ」
社交辞令でも心配の声をかけられたことは嬉しかった。
その夜、思い出したくなくても大学で目撃した場面がフラッシュバックして蘇り、再び辛さを追体験してしまった。
涙が止まらず、ああ、やはり自分はこの世界にひとりなのだと感じ、どこまでも気持ちが沈んでいく。
誰かにすがりたい。
誰でもいい。
私をひとりにしないでほしい。
そんなとき、一筋の光が差すように思い出したのが昼間の葉山君の言葉だった。
午前零時を過ぎていた。
社交辞令かもしれない。
それでもこの闇の時間にたったひとりで取り残されていることが苦しくて、藁をもすがる思いで彼に電話を掛けた。
コール音が三回鳴ったとき、もう寝ているだろうなと思い、五回目のコール音が鳴ったら電話を切ることにした。
コール音の五回目が鳴り終わり、スマホの画面にある赤いボタンを押そうとしたその瞬間、電話が繋がった。
「……もしもし」
けだるそうな声で彼が電話に出た。
「ごめん。
もう寝てたよね?
起こしちゃったかな」
「どうしたの?」
眠たそうな掠れた声で優しくそう聞かれて胸が熱くなる。
「あのね、私……」
話し始めたところで涙しか出てこなくなり、電話の向こう側で慌てる葉山君の気配が伝わってきた。
「雨宮さん、落ち着いて。
ひとつずつ話そ?」
「うん」
私は優雨と付き合っているところから話した。
葉山君は驚きもせず相槌を打ちながら丁寧に話を聞いてくれた。
「そっか、大変だったね。
しんどかったね」
私の気持ちを彼が受け止めてくれたとき、たまらず号泣してしまった。
その日以来、葉山君とメッセージや電話を頻繁にするようになった。
『葉山君の趣味ってギターなんだ。意外』
『雨宮さんもピアノなんだね。
僕たち音楽仲間だね』
彼と話していると気が紛れる。
それだけの理由だった。
葉山君にまったく気持ちはない。
本当に失礼な話だけど、それでも彼に頼っている自分がいるのは間違いなかった。
優雨の存在から逃げ続けている。
今、優雨は何を考えているんだろう。
怒っているよね。
私のこと嫌いになったかな。
いや、もうそんなのどうでもいい、どうにでもなれ、と思う反面、今でも優雨に何かを期待してしまっている自分がいる。
好きなのは誰かと聞かれれば、もちろんそれは優雨に決まっている。
迷いなく即答できる。
ただ、私が欲しいものを、私を満たしてくれるものを、今与えてくれるのは紛れもなく葉山君だった。
最低でも一日に一回は「好きだよ」と言ってくれる。
でも私はその気持ちに応えられない。
そう言おうとすると
「いいんだ。雨宮さんの気持ちは知ってる。
だから僕に何かしなきゃとか思わないで。
僕の気持ちを聞いてくれるだけでいいから」
とまで言わせてしまっている。
私は卑怯だ。
それでも、ありがたく彼に甘えることしかできない。
誰かに好意を向けられたい。
誰かに限りなく優しくされたい。
誰かに特別な存在として扱われたい。
誰かに思いっきり甘やかされたい。
そんな私を見抜いているかのように、葉山君からは蜂蜜のように甘やかされ、とろりとした優しい何かで包まれている。
レモン風味の無糖の炭酸水を飲んでいることを指摘され、ダイエットのためだと言ったら
「痩せたらだめだよ。
ふわふわの雨宮さんが好きなんだから」
そう笑ってたしなめられた。
そういえばダイエットは優雨のためにしていたんだった。
もう無意味な行為だった。
私のどんな努力も届かないぐらい遠い存在になった彼のことを、これ以上自分から思い出す行為をしたくなかった。
その日からダイエットを綺麗さっぱりやめた。
私の部屋には、途切れることなく買いだめしていた炭酸水がほぼ一ダース丸ごと、布をかけられてひっそりとしまわれている。
「かよちゃんはさ」
ある日の葉山君との電話で、ごく自然に名前を呼ばれた。
事前の承諾はなかったが、彼の人柄を知っているせいか嫌な感じはしなかった。
むしろ、あ、名前ってすごいと思った。
葉山君との距離がぎゅんっと縮まった錯覚を覚える。
どんな風に人から呼ばれるかで、その人との距離感がこんなにも変わるものなのか。
たくさん呼ばれるとその分だけ近づいていく。
それでも優雨に呼ばれていたらどんなに嬉しかっただろう。
「みーくん、お風呂!」
葉山君の背後で家族が彼を呼ぶ声が聞こえた。
「ごめん。今日はこの辺で。じゃあね」
急に電話が切れる。
「みーくん」
自分の部屋で口に出して言ってみた。
可愛い呼び名。
次の日、学校で「みーくん」と呼んでみる。
「かよちゃん、昨日の電話の声、聞いたでしょ」
「聞いた聞いた。
いいじゃん、可愛くて」
ニヤニヤして私は言う。
照れているみーくんがまた可愛かった。
『香世ちゃん、ごめんね。
今日は先に帰る』
理絵ちゃんからのメッセージを見たのは、彼女の教室に行って、先に帰ったことを知った後だった。
「みーくん」
「どうしたの?
あ、松本さん、先に帰っちゃったね。
僕と帰る?」
「うん、それを言おうと思ってた」
私は笑って言った。
あの日以降、何とか笑えるようになったのはみーくんのおかげだった。
「僕、今日は下校の放送当番だから、それが終わってからでもいい?」
「いいよ、待ってる」
「そうだ。
放送室に来る?
入ったことないでしょ」
「いいの?
私、部外者だけど」
「僕が部長だから大丈夫」
「それ、職権濫用って言うんじゃない?」
私たちはそんな会話をしつつ、笑いながら放送室に向かう。
今日は午後から雨が降っていて、下校のこの時間はますます雨足が強くなっていた。
ざあざあという音が人の少なくなった薄暗い校舎内によく響いている。
みーくんが放送を開始してから少し経ったころだった。
空に閃光が走り、間髪入れずドーンという音がして、放送室の電気がフッと消え、放送が途絶えた。
部屋が薄暗くなる。
「停電だ」と彼が言い、「そうみたい」と私も応える。
さらに連続して外が青白く光り、そのたびに打楽器を耳元で鳴らされているような音がする。
薄暗い放送室で私は縮こまりうずくまった。
「かよちゃん、大丈夫?」
みーくんが私に近づいたとき、再び白く外が光り、今までで一番大きな音で雷が落ちた。
思わず耳を塞ぐ。
みーくんが私に覆いかぶさって音から遠ざけようとしてくれる。
しばらくその体勢のまま、二人とも固まる。
その後も何度か近くで雷鳴が轟くのを聞いたが、時間が経ってようやく辺りが静けさを取り戻したのが分かると、みーくんが私から身体を起こそうとした。
「ありがとう」
みーくんにそう声を掛けて顔を上げると、彼がなぜか私の目を見つめていて、私も彼から目を逸らせなかった。
どうしたのと言おうとして、彼の顔が伏し目がちになって私の顔に近づいてきたのが分かり、あ、キスされる、と思った私は反射的に目を閉じた。
ピロピロリン。
ピロピロリン。
私たち二人のスマホがブーブーうるさく振動しながら、大音量で警告音を鳴り響かせた。
スマホが発する異様な状況に、我に返って目を開ける。
彼も素早く私から顔を離した。
「何だろう、この音……」
スマホの画面を確認する。
内容は、土砂災害の警報や注意報がF市で発令されたというアラームだった。
しかし、私たちの高校や住んでいる地域には直接関係なさそうだ。
「びっくりした」と私が言い、「そうだね」と彼も自分のスマホを見た。
「下校放送をどうするか、ちょっと顧問の先生に聞いてくるね」
そう言って彼は放送室を出て行き、ひとり薄暗い部屋に残される。
私、何をしようとしていた?
驚いたのは、警告音じゃなくて、自分が目を閉じたことだった。
静かだった雨音が再び強くなってきて、黙って私を責め続けている。
どしゃぶりの雨の中、何とか家に帰り、みーくんが教えてくれた動画サイトで彼の動画を探す。
彼がギターの演奏動画をついにアップしたので見てほしいと言われていた。
アカウント名が「みーくん」になっていて笑みがこぼれてしまう。
動画を再生すると、顔出しはしておらず首から下の映像になっていた。
みーくんの細くて長い指がエレキギターを自由自在に操る。
正直演奏には期待していなかったが上手だった。
それよりも、彼の指が滑らかにギターの上で動く様子に釘付けになる。
何度も何度も繰り返し動画を再生しては、細長い指が忙しなくギターの上で動くのを凝視する。
この指に、触られたい。
ふっと頭の中に浮かんだ自分の欲望に、すぐさま大きくバツ印をつける。
それはダメだ。
思っちゃいけない。
超えちゃいけない一線だ。
二度と戻れなくなる。
私はそっと動画サイトを閉じた。
みーくんに愛していると言えるのか?
私の中にみーくんへの恋愛感情は存在しているのか?
体内で検索をかけてみたものの、0件の検索結果が表示される。
やはりみーくんに対する友情以外の気持ちは自分の中にまったくない。
それなのに、みーくんを頼って人恋しさや寂しさを満たそうとする自分をどうしても受け入れられず、目を背けて拒絶した。
アルバイトのシフトは彼と同じ日のものだけ理絵ちゃんと三週間分交代してもらった。
彼からメッセージが着ても、既読になったまま放置すると逆にややこしいので適当に返す。
何にも知らない彼からのメッセージはいちいち癪に障った。
その気持ちを何とか抑えて、無の境地に入りながら返信を打ち込んだ。
『今日はテストだったよー』
『そうなんですね』
『バイト休んだ?
何かあった?
また風邪ひいたかな?』
『大丈夫です。
風邪はひいてないです』
『今からちょっとだけでもいいから電話できる?』
このメッセージには時間をずらして就寝前に返信した。
『すみません、難しいです。
おやすみなさい』
『今度いつ会えそうかな?』
『実力テストの出来が悪くて、親に勉強しろと言われているので、しばらく会うのは難しいです』
『いつまで?』
『少なくとも、今度のテストが終わるまでは』
『じゃあ俺が勉強教えるよ』
『ひとりで勉強するのが好きなので大丈夫です』
『俺、何かしたかな?
なんで避けられてるの?』
『避けてないです。
望月さんは何もしてません』
逆ギレされるならされてもよかった。
返事を返さなくて済むから。
私はもう、彼に何を言われても何も感じない。
『なんで望月さんって呼ぶの?
なんで敬語なの?』
ただ、さすがにこのメッセージには苛立ちを抑えられなかった。
自分だって、私のこと「かよこ」って呼ばねえじゃねえか。
他の女のことは名前で呼ぶくせに、と、思わず返信しそうになる。
かと言って適当な返事を返せなかったため、結果的に既読で放置した。
その日以降、彼からのメッセージはぴたりと来なくなり、連絡は途絶えた。
最近私は、ショパンの別れの曲と革命、そしてベートーヴェンの月光第三楽章の三曲を毎日必ず弾いていた。
近所の人から見ると情緒不安定なのかと思われても仕方がない。
実際にそうだった。
泣きながらこの三曲を弾くのが日課になっている。
親がいないひとりのときに、ピアノの音色で泣き声を隠しながら。
大学に行った次の日、泣きすぎて顔全体がむくみ、コンタクトが入らなかったので眼鏡で登校した。
学校を休む選択肢もあったけど、親に心配をかけたくなくて、どうにかして学校に辿り着く。
これは子どもとしての意地だった。
彼がいない子どもの世界。
皮肉なことに、私にとって高校は一番安心できる場所になっていた。
滅多にしてこない眼鏡姿を葉山君に見られる。
「どうしたの?」
「まあ、ちょっと色々あって」
「何かあったら話聞くから、いつでも連絡してよ」
社交辞令でも心配の声をかけられたことは嬉しかった。
その夜、思い出したくなくても大学で目撃した場面がフラッシュバックして蘇り、再び辛さを追体験してしまった。
涙が止まらず、ああ、やはり自分はこの世界にひとりなのだと感じ、どこまでも気持ちが沈んでいく。
誰かにすがりたい。
誰でもいい。
私をひとりにしないでほしい。
そんなとき、一筋の光が差すように思い出したのが昼間の葉山君の言葉だった。
午前零時を過ぎていた。
社交辞令かもしれない。
それでもこの闇の時間にたったひとりで取り残されていることが苦しくて、藁をもすがる思いで彼に電話を掛けた。
コール音が三回鳴ったとき、もう寝ているだろうなと思い、五回目のコール音が鳴ったら電話を切ることにした。
コール音の五回目が鳴り終わり、スマホの画面にある赤いボタンを押そうとしたその瞬間、電話が繋がった。
「……もしもし」
けだるそうな声で彼が電話に出た。
「ごめん。
もう寝てたよね?
起こしちゃったかな」
「どうしたの?」
眠たそうな掠れた声で優しくそう聞かれて胸が熱くなる。
「あのね、私……」
話し始めたところで涙しか出てこなくなり、電話の向こう側で慌てる葉山君の気配が伝わってきた。
「雨宮さん、落ち着いて。
ひとつずつ話そ?」
「うん」
私は優雨と付き合っているところから話した。
葉山君は驚きもせず相槌を打ちながら丁寧に話を聞いてくれた。
「そっか、大変だったね。
しんどかったね」
私の気持ちを彼が受け止めてくれたとき、たまらず号泣してしまった。
その日以来、葉山君とメッセージや電話を頻繁にするようになった。
『葉山君の趣味ってギターなんだ。意外』
『雨宮さんもピアノなんだね。
僕たち音楽仲間だね』
彼と話していると気が紛れる。
それだけの理由だった。
葉山君にまったく気持ちはない。
本当に失礼な話だけど、それでも彼に頼っている自分がいるのは間違いなかった。
優雨の存在から逃げ続けている。
今、優雨は何を考えているんだろう。
怒っているよね。
私のこと嫌いになったかな。
いや、もうそんなのどうでもいい、どうにでもなれ、と思う反面、今でも優雨に何かを期待してしまっている自分がいる。
好きなのは誰かと聞かれれば、もちろんそれは優雨に決まっている。
迷いなく即答できる。
ただ、私が欲しいものを、私を満たしてくれるものを、今与えてくれるのは紛れもなく葉山君だった。
最低でも一日に一回は「好きだよ」と言ってくれる。
でも私はその気持ちに応えられない。
そう言おうとすると
「いいんだ。雨宮さんの気持ちは知ってる。
だから僕に何かしなきゃとか思わないで。
僕の気持ちを聞いてくれるだけでいいから」
とまで言わせてしまっている。
私は卑怯だ。
それでも、ありがたく彼に甘えることしかできない。
誰かに好意を向けられたい。
誰かに限りなく優しくされたい。
誰かに特別な存在として扱われたい。
誰かに思いっきり甘やかされたい。
そんな私を見抜いているかのように、葉山君からは蜂蜜のように甘やかされ、とろりとした優しい何かで包まれている。
レモン風味の無糖の炭酸水を飲んでいることを指摘され、ダイエットのためだと言ったら
「痩せたらだめだよ。
ふわふわの雨宮さんが好きなんだから」
そう笑ってたしなめられた。
そういえばダイエットは優雨のためにしていたんだった。
もう無意味な行為だった。
私のどんな努力も届かないぐらい遠い存在になった彼のことを、これ以上自分から思い出す行為をしたくなかった。
その日からダイエットを綺麗さっぱりやめた。
私の部屋には、途切れることなく買いだめしていた炭酸水がほぼ一ダース丸ごと、布をかけられてひっそりとしまわれている。
「かよちゃんはさ」
ある日の葉山君との電話で、ごく自然に名前を呼ばれた。
事前の承諾はなかったが、彼の人柄を知っているせいか嫌な感じはしなかった。
むしろ、あ、名前ってすごいと思った。
葉山君との距離がぎゅんっと縮まった錯覚を覚える。
どんな風に人から呼ばれるかで、その人との距離感がこんなにも変わるものなのか。
たくさん呼ばれるとその分だけ近づいていく。
それでも優雨に呼ばれていたらどんなに嬉しかっただろう。
「みーくん、お風呂!」
葉山君の背後で家族が彼を呼ぶ声が聞こえた。
「ごめん。今日はこの辺で。じゃあね」
急に電話が切れる。
「みーくん」
自分の部屋で口に出して言ってみた。
可愛い呼び名。
次の日、学校で「みーくん」と呼んでみる。
「かよちゃん、昨日の電話の声、聞いたでしょ」
「聞いた聞いた。
いいじゃん、可愛くて」
ニヤニヤして私は言う。
照れているみーくんがまた可愛かった。
『香世ちゃん、ごめんね。
今日は先に帰る』
理絵ちゃんからのメッセージを見たのは、彼女の教室に行って、先に帰ったことを知った後だった。
「みーくん」
「どうしたの?
あ、松本さん、先に帰っちゃったね。
僕と帰る?」
「うん、それを言おうと思ってた」
私は笑って言った。
あの日以降、何とか笑えるようになったのはみーくんのおかげだった。
「僕、今日は下校の放送当番だから、それが終わってからでもいい?」
「いいよ、待ってる」
「そうだ。
放送室に来る?
入ったことないでしょ」
「いいの?
私、部外者だけど」
「僕が部長だから大丈夫」
「それ、職権濫用って言うんじゃない?」
私たちはそんな会話をしつつ、笑いながら放送室に向かう。
今日は午後から雨が降っていて、下校のこの時間はますます雨足が強くなっていた。
ざあざあという音が人の少なくなった薄暗い校舎内によく響いている。
みーくんが放送を開始してから少し経ったころだった。
空に閃光が走り、間髪入れずドーンという音がして、放送室の電気がフッと消え、放送が途絶えた。
部屋が薄暗くなる。
「停電だ」と彼が言い、「そうみたい」と私も応える。
さらに連続して外が青白く光り、そのたびに打楽器を耳元で鳴らされているような音がする。
薄暗い放送室で私は縮こまりうずくまった。
「かよちゃん、大丈夫?」
みーくんが私に近づいたとき、再び白く外が光り、今までで一番大きな音で雷が落ちた。
思わず耳を塞ぐ。
みーくんが私に覆いかぶさって音から遠ざけようとしてくれる。
しばらくその体勢のまま、二人とも固まる。
その後も何度か近くで雷鳴が轟くのを聞いたが、時間が経ってようやく辺りが静けさを取り戻したのが分かると、みーくんが私から身体を起こそうとした。
「ありがとう」
みーくんにそう声を掛けて顔を上げると、彼がなぜか私の目を見つめていて、私も彼から目を逸らせなかった。
どうしたのと言おうとして、彼の顔が伏し目がちになって私の顔に近づいてきたのが分かり、あ、キスされる、と思った私は反射的に目を閉じた。
ピロピロリン。
ピロピロリン。
私たち二人のスマホがブーブーうるさく振動しながら、大音量で警告音を鳴り響かせた。
スマホが発する異様な状況に、我に返って目を開ける。
彼も素早く私から顔を離した。
「何だろう、この音……」
スマホの画面を確認する。
内容は、土砂災害の警報や注意報がF市で発令されたというアラームだった。
しかし、私たちの高校や住んでいる地域には直接関係なさそうだ。
「びっくりした」と私が言い、「そうだね」と彼も自分のスマホを見た。
「下校放送をどうするか、ちょっと顧問の先生に聞いてくるね」
そう言って彼は放送室を出て行き、ひとり薄暗い部屋に残される。
私、何をしようとしていた?
驚いたのは、警告音じゃなくて、自分が目を閉じたことだった。
静かだった雨音が再び強くなってきて、黙って私を責め続けている。
どしゃぶりの雨の中、何とか家に帰り、みーくんが教えてくれた動画サイトで彼の動画を探す。
彼がギターの演奏動画をついにアップしたので見てほしいと言われていた。
アカウント名が「みーくん」になっていて笑みがこぼれてしまう。
動画を再生すると、顔出しはしておらず首から下の映像になっていた。
みーくんの細くて長い指がエレキギターを自由自在に操る。
正直演奏には期待していなかったが上手だった。
それよりも、彼の指が滑らかにギターの上で動く様子に釘付けになる。
何度も何度も繰り返し動画を再生しては、細長い指が忙しなくギターの上で動くのを凝視する。
この指に、触られたい。
ふっと頭の中に浮かんだ自分の欲望に、すぐさま大きくバツ印をつける。
それはダメだ。
思っちゃいけない。
超えちゃいけない一線だ。
二度と戻れなくなる。
私はそっと動画サイトを閉じた。
みーくんに愛していると言えるのか?
私の中にみーくんへの恋愛感情は存在しているのか?
体内で検索をかけてみたものの、0件の検索結果が表示される。
やはりみーくんに対する友情以外の気持ちは自分の中にまったくない。
それなのに、みーくんを頼って人恋しさや寂しさを満たそうとする自分をどうしても受け入れられず、目を背けて拒絶した。