目が覚めると、白っぽい無機質な天井が目に入った。
理絵ちゃんの顔が私をのぞき込んでいる。
「先生、目が覚めたみたいです」
彼女が先生を呼ぶ。
カーテンを開けて入ってきたのは保健室の先生だった。
先生から「熱を計ってみてくれるかな?」と体温計を渡され、のろのろと脇に挟むと、三十九度という数字でピピピと電子音が鳴った。
「ご家族の方とか迎えに来てもらえそう?」
「いえ、それはちょっと……」
苦い顔をする。
フルタイムで働いている両親に迎えに来てもらうことは不可能だった。
私を迎えに来るため、母を早退させることで彼女の仕事を邪魔したくなかったし、毎日帰りが遅い父にはもっと期待できない。
「そうか。
じゃあ解熱剤飲んで、少し熱が下がったらタクシーで帰るしかないね」
先生が最善の選択肢をはじき出した。
まずい。
今日はアルバイトのシフトが入っていた。
しかし、熱が出ている以上、出勤できない。
「私、今日バイトだったのに。
店長に早く連絡しなきゃ」
うわ言のようにそう繰り返して焦っていると、名案を思いついた理絵ちゃんから別の帰宅方法を提案される。
「そうだ。
望月さんに車で迎えに来てもらうってできないかな。
バイトの方は私と山本さんで何とかしておくから」
「どうだろう。
聞いてみないと分からないけど、迷惑かけたくないよ」
わざわざ高校まで、しかも車で来てもらうなんて、できれば頼みたくなかった。
「男女問わず、人って頼りにされるのが好きなのよ。
いいじゃない。
前に香世ちゃんだって望月さんの看病したんだから」
彼女がそう言って自分のスマホでちゃちゃっと優雨に電話をかけ(彼女も彼の連絡先は知っている)、結局車で迎えに来てくれることになったのだった。
彼を待つ間、先生は忙しなく保健室を出て行ってしまい、仕切られたカーテンの中で寝ている私と椅子に座っている理絵ちゃんだけが取り残された。
「あのさ、理絵ちゃん」
「なあに」
「山本さんって、どのくらいの頻度で『好き』って言ってくれるもんなの?」
高熱で朦朧としているせいか、さっきまで彼女にどうしても聞けなかったことを簡単に口にしていた。
「どうして?」
「望月さんは、なかなか言ってくれないんだ」
彼女にそう打ち明けながら、途中から涙声になっていた。
堪えていた気持ちが喉の奥やら目尻から噴き出し、私の横顔を伝って白いシーツに染みを作っていく。
「そう。
香世ちゃんは、いっぱい『好き』って望月さんに言ってほしいんだね」
彼女は優しく頭を撫でてくれた。
頭を撫でるたびに、彼女から石鹸の香りがこぼれてくる。
「私はね、頻繁に言われると鬱陶しいから言われない方がいいの。
ここぞというときだけでいいかな」
そうなのか。
人それぞれ好みが違うことを知る。
みんな、好きな人にはたくさん「好き」と言ってほしいものだと思い込んでいた。
「言葉でいちいち確認しないと、望月さんがどう思っているか分からないの?」
きっと返ってくる言葉を分かってて質問されている。
熱で重たくなっている頭を少しだけ横に振った。
「付き合うって、自分が他人をどれだけ信じ続けられるかのテストだと思ってる、私は」
「うん」
「確認し続けたら、それは多分、束縛に繋がっていくと思うの」
「うん」
相槌を打ちながらも、はらはらと涙がこぼれて、真っ白なシーツにそれがじわりと染み込んでいく。
理絵ちゃんは私の涙をそっと指で拭ってくれ、にっこり微笑んでこう言ってくれた。
「香世ちゃんは大丈夫だよ」
優雨の車が学校に到着したらしい。
何とか起き上がり、ふらふらしながらも下校の準備をする。
いつの間にか先生が保健室に帰ってきていた。
バタバタバタと廊下を走ってくる音が近づいてくる。
「雨宮さん!」
保健室のドアを勢い良く開けて、派手に優雨が登場した。
「ええと、あなたは雨宮さんの……?」
先生が戸惑う中、理絵ちゃんが
「彼は、私と雨宮さんの近所の幼馴染のお兄さんなんです」
という絶妙なフォローをさりげなく入れてくれる。
「先生、こんにちは。
二人がいつもお世話になっております」
彼がここぞとばかりに女性キラースマイルを炸裂させ、先生からはそれ以上のことを聞かれずに済んだ。
その後、優雨は私をおぶって車まで連れて行ってくれた。
彼の匂い、体温を背中から感じる。
彼の着ているTシャツが汗で湿っていて、急いで来てくれたことが手に取るように分かった。
ああ、私、分かる。
彼の気持ちを聞かなくても。
彼の背中で揺れながら、再び眠りに落ちていった。
次に目が覚めると自分の部屋のベッドで寝ていて、横には優雨の不安そうな顔が見えていた。
「気分はどう?
松本さんが色々買い込みに行ってくれたよ。
俺は様子見係」
彼に私の部屋を見られた恥ずかしさが込み上げたが、非常事態なので諦めた。
「前に優雨のところに行ったときと逆の立場になってるね」
力なく笑った。
もう、寒いのか熱いのか分からなかった。
彼は私のおでこに手を当て、次に頬に手を当て、最後に首筋に手を当てて、「まだ熱が高いね」と言った。
冷たく感じる手のひらが気持ちよかった。
ぞくり。
前触れもなく、熱さから寒気に切り替わる。
寒さのあまり身体がガタガタと震え出す。
「寒い……」
かろうじて動いた口で伝える。
「冷房切ろうか?」
リモコンに手を伸ばそうとした彼の手を握って止めた。
「いい」
「そう?」
「その代わり、優雨が布団の中に入って温めて」
頭に浮かんだことをそのまま、歯をガチガチ言わせながら口にした。
どうかしている。
彼が息を呑んだ。
きっと熱のせいだ。
彼が風邪をひいたときもそうだったから。
「早く。寒いから」
彼を敢えて急かした。
私はもっと優雨の体温を感じたいだけ。
彼の手を強く握りしめる。
「……分かった。じゃあ入るよ」
彼が覚悟を決めたような声色でそう言い、ふわりと私の掛け布団を上げ、熱がこもっている空間の中に自分の身体を滑り込ませた。
いつも感じる彼の形容できないほどにいい香りと、すこし男の人の匂いがした。
私の身体を包み込むように彼が抱きしめてくれる。
彼の洋服は冷房のせいでひんやりしていたけれど、その中心にある肉体は驚くほど熱かった。
「どう、あったかい?」
「うん」
その背中にしがみつく。
熱すぎるくらいだった。
私の頭の辺りに彼の胸があり、彼の心臓がどくどくと音を立てているのが聞こえた。
「風邪はさ、うつしちゃうと治るってよく言うでしょ?
だから俺にうつしたらいいよ」
彼は私の顎を手で持ち上げ、唇を私の唇に重ねた。
軽く長いキスをする。
唇を離した後もそのままぴったり寄り添っていると、彼の何か固いものが私の柔らかい腹に当たっていた。
これは。
「何か、当たってる」
私はつぶやいた。
身体がだるいせいで思考回路が鈍くなっており、うまく言葉をオブラートに包めない。
「ごめん。
でも、彼女と抱き合ってキスして、こうならない男なんていないよ」
優雨がそう言ってちょっとばつが悪そうな顔をしているのが、視界に入っていなくても伝わってきた。
「だから布団の中に入るのは躊躇したんだけどな」
「ごめんなさい」
口先ではそう謝ったけれど、口角が上がってしまうのを必死で抑えた。
もし、私が今、発熱していなくて体調が良かったら、この先私たちはどうなっていたのだろう。
でも現実は残念なことに、私の身体は熱いし寒いしだるくて関節が痛いだけだった。
(聞くなら、今だ)と、私の中で誰かが叫んだ。
「ねぇ、私の名前、どうして呼んでくれないの?」
ついに優雨にたずねる。
彼が身体を固くして黙り、沈黙が二人を包む。
「ごめん。
慣れないから、呼びづらくて」
パン!
大きな音で風船が割れ、あっという間にしぼむ。
風船のしぼんだ姿はあまりにも小さくてみすぼらしかった。
自分の下の名前をそんなに呼びづらいと思われていたことにショックを受ける。
申し訳なさそうに言われると余計に辛い。
「名字で呼ぶ方が呼びやすいですか?」
私はたずねる。
いつの間にか敬語に戻っていた。
「そっちの方が慣れているから」
苦しそうに答える。
「それなら、名字でいいから呼んでほしいです」
「うん、そうするね。ごめんね」
辛そうに謝られた。
謝られたいわけじゃない。
あなたに名前を呼ばれたいだけだった。
他の人に呼ばれても意味がない。
あなたのその声でもっと呼んでほしい。
あなたに私の存在をもっと認めてほしい。
彼の胸に顔を埋めて、泣いているのを悟られないようにゆっくり深く息を吸い込んだ。
サイドテーブルにある目覚まし時計の確実に時を刻んでいく音が、やけに大きく部屋の中で響いていた。
いつの間にか眠りについていて、起きたのは朝六時だった。
優雨は理絵ちゃんが買い出しから戻ってきた直後に帰っていったらしいことを、昨日送られてきていた彼女からのメッセージで知る。
彼からも昨日のうちにメッセージが着ていた。
『具合はどうかな?
こっちは明日から授業開始だよ。
うちの大学は夏休みが短くて困るね』
『ありがとう。
熱はだいぶ下がったよ。
授業頑張って』
短く返信し、リビングに行って母と話す。
身体は格段に軽くなっていたが、まだ微熱だったので学校は休むことにした。
部屋に戻ってもう一度布団にもぐり込む。
お昼ご飯を食べ、体調が良くなっていると感じた私は、少しくらいなら大丈夫だろうとピアノの前に座った。
平日の昼間に自宅にいることがイレギュラーすぎて、世間から取り残されたような気分になり、自分の中から何かを表現したかった。
どの曲を弾こうかと考えあぐねて、ベートーヴェンの悲愴の第一楽章から第三楽章までを一気に弾いた。
強弱のある曲で活を入れたいような、心のモヤモヤを吹き飛ばしたいような、さみしげな曲に浸りたいような、穏やかな曲で心を休めたいような、そんな風に感情がごちゃ混ぜになっていた私を、ベートーヴェンがひとつひとつ紐解いて整理していく。
すべてを夢中で弾き終えてハッとした。
身体が熱い。
熱を測ると案の定微熱ではなくなっていた。
冷却ジェルシートをおでこと首筋に貼って、そっと部屋に戻って大人しくベッドに横になる。
偉大な作曲家のおかげでスッキリした気分を保ったまま、ゆるやかに午後の微睡みの中に落ちていった。
理絵ちゃんの顔が私をのぞき込んでいる。
「先生、目が覚めたみたいです」
彼女が先生を呼ぶ。
カーテンを開けて入ってきたのは保健室の先生だった。
先生から「熱を計ってみてくれるかな?」と体温計を渡され、のろのろと脇に挟むと、三十九度という数字でピピピと電子音が鳴った。
「ご家族の方とか迎えに来てもらえそう?」
「いえ、それはちょっと……」
苦い顔をする。
フルタイムで働いている両親に迎えに来てもらうことは不可能だった。
私を迎えに来るため、母を早退させることで彼女の仕事を邪魔したくなかったし、毎日帰りが遅い父にはもっと期待できない。
「そうか。
じゃあ解熱剤飲んで、少し熱が下がったらタクシーで帰るしかないね」
先生が最善の選択肢をはじき出した。
まずい。
今日はアルバイトのシフトが入っていた。
しかし、熱が出ている以上、出勤できない。
「私、今日バイトだったのに。
店長に早く連絡しなきゃ」
うわ言のようにそう繰り返して焦っていると、名案を思いついた理絵ちゃんから別の帰宅方法を提案される。
「そうだ。
望月さんに車で迎えに来てもらうってできないかな。
バイトの方は私と山本さんで何とかしておくから」
「どうだろう。
聞いてみないと分からないけど、迷惑かけたくないよ」
わざわざ高校まで、しかも車で来てもらうなんて、できれば頼みたくなかった。
「男女問わず、人って頼りにされるのが好きなのよ。
いいじゃない。
前に香世ちゃんだって望月さんの看病したんだから」
彼女がそう言って自分のスマホでちゃちゃっと優雨に電話をかけ(彼女も彼の連絡先は知っている)、結局車で迎えに来てくれることになったのだった。
彼を待つ間、先生は忙しなく保健室を出て行ってしまい、仕切られたカーテンの中で寝ている私と椅子に座っている理絵ちゃんだけが取り残された。
「あのさ、理絵ちゃん」
「なあに」
「山本さんって、どのくらいの頻度で『好き』って言ってくれるもんなの?」
高熱で朦朧としているせいか、さっきまで彼女にどうしても聞けなかったことを簡単に口にしていた。
「どうして?」
「望月さんは、なかなか言ってくれないんだ」
彼女にそう打ち明けながら、途中から涙声になっていた。
堪えていた気持ちが喉の奥やら目尻から噴き出し、私の横顔を伝って白いシーツに染みを作っていく。
「そう。
香世ちゃんは、いっぱい『好き』って望月さんに言ってほしいんだね」
彼女は優しく頭を撫でてくれた。
頭を撫でるたびに、彼女から石鹸の香りがこぼれてくる。
「私はね、頻繁に言われると鬱陶しいから言われない方がいいの。
ここぞというときだけでいいかな」
そうなのか。
人それぞれ好みが違うことを知る。
みんな、好きな人にはたくさん「好き」と言ってほしいものだと思い込んでいた。
「言葉でいちいち確認しないと、望月さんがどう思っているか分からないの?」
きっと返ってくる言葉を分かってて質問されている。
熱で重たくなっている頭を少しだけ横に振った。
「付き合うって、自分が他人をどれだけ信じ続けられるかのテストだと思ってる、私は」
「うん」
「確認し続けたら、それは多分、束縛に繋がっていくと思うの」
「うん」
相槌を打ちながらも、はらはらと涙がこぼれて、真っ白なシーツにそれがじわりと染み込んでいく。
理絵ちゃんは私の涙をそっと指で拭ってくれ、にっこり微笑んでこう言ってくれた。
「香世ちゃんは大丈夫だよ」
優雨の車が学校に到着したらしい。
何とか起き上がり、ふらふらしながらも下校の準備をする。
いつの間にか先生が保健室に帰ってきていた。
バタバタバタと廊下を走ってくる音が近づいてくる。
「雨宮さん!」
保健室のドアを勢い良く開けて、派手に優雨が登場した。
「ええと、あなたは雨宮さんの……?」
先生が戸惑う中、理絵ちゃんが
「彼は、私と雨宮さんの近所の幼馴染のお兄さんなんです」
という絶妙なフォローをさりげなく入れてくれる。
「先生、こんにちは。
二人がいつもお世話になっております」
彼がここぞとばかりに女性キラースマイルを炸裂させ、先生からはそれ以上のことを聞かれずに済んだ。
その後、優雨は私をおぶって車まで連れて行ってくれた。
彼の匂い、体温を背中から感じる。
彼の着ているTシャツが汗で湿っていて、急いで来てくれたことが手に取るように分かった。
ああ、私、分かる。
彼の気持ちを聞かなくても。
彼の背中で揺れながら、再び眠りに落ちていった。
次に目が覚めると自分の部屋のベッドで寝ていて、横には優雨の不安そうな顔が見えていた。
「気分はどう?
松本さんが色々買い込みに行ってくれたよ。
俺は様子見係」
彼に私の部屋を見られた恥ずかしさが込み上げたが、非常事態なので諦めた。
「前に優雨のところに行ったときと逆の立場になってるね」
力なく笑った。
もう、寒いのか熱いのか分からなかった。
彼は私のおでこに手を当て、次に頬に手を当て、最後に首筋に手を当てて、「まだ熱が高いね」と言った。
冷たく感じる手のひらが気持ちよかった。
ぞくり。
前触れもなく、熱さから寒気に切り替わる。
寒さのあまり身体がガタガタと震え出す。
「寒い……」
かろうじて動いた口で伝える。
「冷房切ろうか?」
リモコンに手を伸ばそうとした彼の手を握って止めた。
「いい」
「そう?」
「その代わり、優雨が布団の中に入って温めて」
頭に浮かんだことをそのまま、歯をガチガチ言わせながら口にした。
どうかしている。
彼が息を呑んだ。
きっと熱のせいだ。
彼が風邪をひいたときもそうだったから。
「早く。寒いから」
彼を敢えて急かした。
私はもっと優雨の体温を感じたいだけ。
彼の手を強く握りしめる。
「……分かった。じゃあ入るよ」
彼が覚悟を決めたような声色でそう言い、ふわりと私の掛け布団を上げ、熱がこもっている空間の中に自分の身体を滑り込ませた。
いつも感じる彼の形容できないほどにいい香りと、すこし男の人の匂いがした。
私の身体を包み込むように彼が抱きしめてくれる。
彼の洋服は冷房のせいでひんやりしていたけれど、その中心にある肉体は驚くほど熱かった。
「どう、あったかい?」
「うん」
その背中にしがみつく。
熱すぎるくらいだった。
私の頭の辺りに彼の胸があり、彼の心臓がどくどくと音を立てているのが聞こえた。
「風邪はさ、うつしちゃうと治るってよく言うでしょ?
だから俺にうつしたらいいよ」
彼は私の顎を手で持ち上げ、唇を私の唇に重ねた。
軽く長いキスをする。
唇を離した後もそのままぴったり寄り添っていると、彼の何か固いものが私の柔らかい腹に当たっていた。
これは。
「何か、当たってる」
私はつぶやいた。
身体がだるいせいで思考回路が鈍くなっており、うまく言葉をオブラートに包めない。
「ごめん。
でも、彼女と抱き合ってキスして、こうならない男なんていないよ」
優雨がそう言ってちょっとばつが悪そうな顔をしているのが、視界に入っていなくても伝わってきた。
「だから布団の中に入るのは躊躇したんだけどな」
「ごめんなさい」
口先ではそう謝ったけれど、口角が上がってしまうのを必死で抑えた。
もし、私が今、発熱していなくて体調が良かったら、この先私たちはどうなっていたのだろう。
でも現実は残念なことに、私の身体は熱いし寒いしだるくて関節が痛いだけだった。
(聞くなら、今だ)と、私の中で誰かが叫んだ。
「ねぇ、私の名前、どうして呼んでくれないの?」
ついに優雨にたずねる。
彼が身体を固くして黙り、沈黙が二人を包む。
「ごめん。
慣れないから、呼びづらくて」
パン!
大きな音で風船が割れ、あっという間にしぼむ。
風船のしぼんだ姿はあまりにも小さくてみすぼらしかった。
自分の下の名前をそんなに呼びづらいと思われていたことにショックを受ける。
申し訳なさそうに言われると余計に辛い。
「名字で呼ぶ方が呼びやすいですか?」
私はたずねる。
いつの間にか敬語に戻っていた。
「そっちの方が慣れているから」
苦しそうに答える。
「それなら、名字でいいから呼んでほしいです」
「うん、そうするね。ごめんね」
辛そうに謝られた。
謝られたいわけじゃない。
あなたに名前を呼ばれたいだけだった。
他の人に呼ばれても意味がない。
あなたのその声でもっと呼んでほしい。
あなたに私の存在をもっと認めてほしい。
彼の胸に顔を埋めて、泣いているのを悟られないようにゆっくり深く息を吸い込んだ。
サイドテーブルにある目覚まし時計の確実に時を刻んでいく音が、やけに大きく部屋の中で響いていた。
いつの間にか眠りについていて、起きたのは朝六時だった。
優雨は理絵ちゃんが買い出しから戻ってきた直後に帰っていったらしいことを、昨日送られてきていた彼女からのメッセージで知る。
彼からも昨日のうちにメッセージが着ていた。
『具合はどうかな?
こっちは明日から授業開始だよ。
うちの大学は夏休みが短くて困るね』
『ありがとう。
熱はだいぶ下がったよ。
授業頑張って』
短く返信し、リビングに行って母と話す。
身体は格段に軽くなっていたが、まだ微熱だったので学校は休むことにした。
部屋に戻ってもう一度布団にもぐり込む。
お昼ご飯を食べ、体調が良くなっていると感じた私は、少しくらいなら大丈夫だろうとピアノの前に座った。
平日の昼間に自宅にいることがイレギュラーすぎて、世間から取り残されたような気分になり、自分の中から何かを表現したかった。
どの曲を弾こうかと考えあぐねて、ベートーヴェンの悲愴の第一楽章から第三楽章までを一気に弾いた。
強弱のある曲で活を入れたいような、心のモヤモヤを吹き飛ばしたいような、さみしげな曲に浸りたいような、穏やかな曲で心を休めたいような、そんな風に感情がごちゃ混ぜになっていた私を、ベートーヴェンがひとつひとつ紐解いて整理していく。
すべてを夢中で弾き終えてハッとした。
身体が熱い。
熱を測ると案の定微熱ではなくなっていた。
冷却ジェルシートをおでこと首筋に貼って、そっと部屋に戻って大人しくベッドに横になる。
偉大な作曲家のおかげでスッキリした気分を保ったまま、ゆるやかに午後の微睡みの中に落ちていった。